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深谷優子氏(東北大学)は、「認知心理学者 新しい学びを語る」の中で歴史学習における「資料を呈示する順番」について次のように述べている。 ・・・・・ 歴史を学ぶときには、資料の呈示される順番が学習者の理解に影響を及ぼすことがあります。たとえば、同じトピックスに関する複数の資料を読んだ場合、大半の生徒は、最初に読んだ資料に基づいて理解を確定し、その後は、その理解を微調整するだけであることが明らかにされています。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 本来、歴史学はひとつの資料からでは成立し得ません。すなわち、歴史学では複数の資料を読み、そのギャップについて思考することが重要なのです。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ そしてそのときには、前述した自分の言葉で言い換えるパラフレーズやメタディコースをつくり出す営みがたいせつになります。しかし、歴史学者のようなスキルを身につけていない学習者にとっては、資料だけを呈示されても、そこから叙述をつくり出すのはむずかしいでしょう。最初は自分の言葉で解釈していくことができず、混乱してしまうことがあるかもしれません。そのような場合には、他者がパラフレーズしたストーリーか、あるいは、あらかじめひとつのストーリーにまとめ上げた叙述を示すのがよいでしょう。ただし、その際には、どこがデータ(資料)でどこがメタディコースの部分なのか、一般的にどの程度のパラフレーズが許容されるのか学習者に明示しておくべきだと思います。 ・・・・・ 本校の理科でも、資料の提示の仕方にはこだわって取り組んできた。どんな資料がよいか考えるとともに、その提示する順番にも注意をはらう必要があるということであろう。
2005.06.28
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「科学的思考」と「歴史的思考」の違いとは何だろうか。この違いを明らかにすることで、「科学的思考」に対する理解を深めることができるであろう。深谷優子氏(東北大学)は、「認知心理学者 新しい学びを語る」の中で「科学的思考における多重空間モデル(Klahr,D.& Simon,H.A.)」を取り上げて次のように述べている。 ・・・・・ ここで、歴史学研究での多重空間としては、資料で構成される実証空間と資料の解釈や統合を行う仮説空間とを想定することができるでしょう。ただし、科学的思考の場合とは異なり、「もしこのような条件であったならば」という仮説は、歴史学の場合には成立しません。このため、実証空間で仮説に基づく新たな実験を行うこと、すなわち、ある解釈や判断を実験によって実証あるいは反証することはできません。また、「因果的あるいは説明可能な事象間の関係」という科学的思考での大前提も、歴史学の場合にはあてはまらない場合があります。実際、たんに同時に生起しただけで、因果あるいは相関すらない事象の関係も少なくないでしょう。それゆえ、歴史学研究での仮説空間とは実証空間により強く依存することになります。そして、この実証空間は既存の資料やモノで構成されています。つまり、理論や仮説の妥当性は、実証空間で根拠にされる資料自体の信頼性や妥当性(量・質・出典ほか)に依存しているのです。もちろん、同じ資料を用いても、仮説空間において視点を変えることで異なる結論・解釈・仮説・見解が生まれる可能性もあります。だからこそ確証的な方法で資料を読むことが重要になるといえるでしょう。 ・・・・・「確証的な方法」。このことがキーワードになりそうである。
2005.06.28
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これまで、理科以外の教科における「思考」について、あまり興味がなかったのだが、認知心理学に関する本を読んでいるとおもしろい。私自身、これまで全く関心のなかった分野である「歴史的思考」について、深谷優子氏(東北大学)は「認知心理学者 新しい学びを語る」の中で次のように述べている。 ・・・・・ このようにしてみると、歴史学者の歴史的思考を支えているのは、「さまざまな資料の内容と信憑性を吟味し、歴史的事象に関する解釈や仮説を構成していくための読解スキルと知識」であることがわかります。また、こうした歴史学者の思考過程は、多数の資料を自分の言葉で言い換え(パラフレーズ)、解釈をつくり上げる(メタディコースの構成)過程ととらえることもできるでしょう。 テキストに取り上げられているここの歴史事象は、反芻しながら自分の言葉でわかりやすく言い換えること、すなわちパラフレーズを断続的に行うことを通して、その内容の把握と定着が促されます。そして、これは同時に関連や規則性を抽出する作業でもあります。パラフレーズによって、自分なりの意味づけや解釈、つまり個々の歴史的事象観のメタ的なつながり(メタディコース)が構成されるのです。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ こうしたパラフレーズや、その結果として構成されるメタディコースによって、個別の歴史事象間のギャップが埋まり、歴史の全体像が見えてきます。それと同時に、切り落としてしまい見えなくなる部分も出てきてしまいます。ここで、何が切り落とされるのかに関しては、当然個人差が生じます。しかし、この、人による理解の違いこそ歴史学習のおもしろさがあるのだと思います。そこで違いに気づくことが、その人なりの理解はどういうもので、その背後にはどのような基準の枠組みがあるのかを考えるきっかけになることでしょう。そして、これが、自分の理解と他者の理解の比較を通して、歴史の理解をさらに深めることにつながるのではないでしょうか。 ・・・・・もちろん、科学的思考との違いも感じられるのだが、「パラフレーズとメタディコース」、そしてその「違いによって理解を深める」ことは理科にも参考になる。
2005.06.28
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子どもたちは、これまでの追究の中で、ふりこの1往復する時間が「おもりの重さ」や「ふれはば」ではなく「糸の長さ」に関係があることを明らかにすることができた。しかしながら、まだまだ納得した顔ではない。そこで、子どもたちに「これまで分かったことから、積み木ふりこのひみつを解明しよう」とよびかける。すると、ほとんどの子どもが「まだ分からない」という。どうしてかとたずねると、「『ふりこの長さ』についてまだ調べていない」と答えた。もちろん、おもりの重さを変えずに「おもりの長さ」を変える方法を考えなければならない。しかしながら、このことは「積み木ふりこ」では難しい。そんな中でも試行錯誤する子どもの姿が見られた。ふと、あるグループの話し合いをのぞいてみると、ある子どもが下のような以前ノートに書いた図を使って友だちに説明をしようとしていた。 積み木ふりこの「ひみつ」に、しっかりと立ち返っているということであろう。
2005.06.27
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ふりこの周期を調べるとき、条件を整えても、子どもたちの実験ではどうしても「誤差」が生じる。この「誤差」にこだわる子どもが多い。特に、単元の導入でもった自分の「予想」のあわせようとして「誤差」をみるのである。今回は、「おもりの重さ」を変えたときの0.03秒ほどの差から、「おもりの重さ」はふりこの1往復する時間に関係があると主張する子どもが多かった。グループでの話し合いに目を向けるとおもしろい。この主張に対して他の子どもが「糸の長さを変えたときの変化と比べると、ほとんど変わらない」というものの聞く耳を持たない。そんなとき、一人の子どもが「重くなると、どうなると思うのか」と質問する。すると、「重くなると、はやく動く」と答える。しかし結果を見てみると、1往復する時間は長くなっている。また、「もう一度やってみよう」という子どももあらわれる。そして、実際にもう一度やってみると0.03秒ほどの差が出るものの、今度は1往復する時間は短くなる。このようなやり取りの中で、子どもたちは0.03秒の差を「誤差」ととらえることができるようになった。
2005.06.27
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今、体育では水泳の平泳ぎに取り組んでいる。平泳ぎの指導のポイントとして「伸びる」ということがある。「伸びる」こにより、無理せずスムーズに泳ぐことができる。しかし、子どもたちは水を「かく」ことに気をとられ、十分に「伸びる」子とができない。そこで今回、「平泳ぎの達人」の泳ぎを子どもたちに見せることにした。「平泳ぎの達人」は、5月に私のクラスにきた教育実習生で、大学では水泳部に所属し、いくつかの記録を持っている。卒業後は、スポーツ科学系の大学院に進学する予定だそうだ。これまで「伸びる」ことの指導はしているものの、その「本物」の泳ぎを見たとき、子どもたちから「伸びてる、伸びてる」という声があがった。もちろん、子どもたちが目にしたのは「伸びる」ということだけではない。その力みのないスムーズな泳ぎ、水をかくという動作の中での息継ぎという「全体のイメージ」である。その後、子どもたちに泳がせてみる。すると、明らかに子どもたちの泳ぎに変化が見られる。そして、友だちの泳ぎをみた子どもたちの口からは「○○先生のようだったよ」などの言葉があふれる。5月の校内の研究会で佐伯胖氏が話をされた「『ああいう感じ』が大切」であり、「全体のイメージをもつ」ことで「世界に向かう気持ちのもち方」を変えるということを思い出す。授業後、「達人」から「競技としての水泳でも『見る』ことのウエイトが大きい」という話を聞いた。佐伯氏のいう「見ることも文化的実践」ということであろう。
2005.06.27
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本校の研究授業がスタートして1ヶ月がたとうとしている。その授業研究会の中で子ども同士の「かかわり合い」について、よく次の2点が話題になる。○これまでの話し合いと何が違うのか。○どのようなグループを編成すればよいか。佐藤学氏は、「グループ活動の注意点」として、日本教育新聞(6月6日号)のなかで次のように述べている。 ・・・・・ 協同的な学びが集団学習や班学習ともっとも違う点は、集団学習や班学習が集団もしくは班のまとまりを重視するのに対して、協同的な学びにおいて学びの主体はあくまでも個人であり、グループ活動の中で決して一体化を求めず、むしろグループ内の個々人の考えや意見の多様性を追求している。学びは同一性からは生まれてこない。学びが成立するのは差異においてである。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ たとえ協同的な学びにおいて同質の考えや意見しか出されなかった場合でも、個人の意見として発言すべきであり、小グループの中の考えや意見の多様性を尊重すべきである。 したがって、協同的な学びにおいて、リーダーは存在しない方が好ましい。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ また、困難を抱える子どもに配慮して、その世話役の子どもをグループに配置する教師も多いが、私は協同的な学びはランダムな編成がベストであると思う。グループごとに能力差が生まれないよう配慮して組織する教師も多いが、くじ引きなどによるランダムな編成で何ら問題はないと思う。 ・・・・・ 研究会のなかで「グループ編成」が話題なるのは、次の2つの問題点からであると考えられる。(1)協同的な学びをめざすための手だてとしての「グループ編成」のよさが分析されていない。(2)学習課題が、子どもの考えや意見の多様性を生むものになっていない。まだまだ私たちは、グループ活動に、多様性ではなく同一性を求めているのであろう。
2005.06.26
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5年生の算数では、平行四辺形のかき方を学習する。今回、その習熟をねらい「平行四辺形かき方ゲーム」を取り入れる。まず、ペアをつくりじゃんけんをし先攻と後攻を決める。じゃんけんに勝った子どもは、相手のノートに「てきとう」に下のような1つの角をつくる2つの直線をかく。 じゃんけんに負けた子どもは、これに2本の直線を付けたして平行四辺形を完成させるわけだが、ここでもう一度じゃんけんをする。勝てばコンパスを使って、負ければ三角定規を使って平行四辺形をかくことになる。平行線のかき方の習熟が不十分だったからであろう。多くの子どもが、コンパスを使ったかき方を望んでいた。1分間で完成すれば○、時間をオーバーしたり、ていねいにかけなかったりしたら×である。これを交代しながらくり返していく。単なる技能の習熟のためと思い取り組んだが、思いのほかおもしろい子ども同士のかかわり合いが生まれた。ある子どもが、相手のノートに下のように書いたのである。 かかれた相手は、「えー」と大きな声を出した。近くにいた子どもたちが集まり、そのノートをのぞき込む。ほとんどの子どもが、「ずるい」という。しかし、一人の子どもが、「同じ方法で、平行四辺形ができる」とつぶやく。じっさいにコンパスを使ってかいてみると、本当に平行四辺形が完成したのである。このやりとりを見た他の子どもたちは、次々と「ずるい」問題を出すことに夢中になっていった。ある子どもがかいた「ずるい」問題によって、まわりの子どもたちの平行四辺形に対する見方や考え方を高めることができた。
2005.06.25
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今回の理科の実践(積み木ふりこ)のなかで注目しているのは、子どもたちの「言葉」である。積み木ふりこの動きに対する疑問や予想を表す言葉、そして実験結果や積み木ふりこのしくみを説明する言葉。この「言葉」について、佐藤学氏は「言葉という絆」のなかで次のように述べている。 ・・・・・ 言葉との出会いを構成する教育は、言葉を「道具」や「技能」としてではなく「経験」と「絆」として再確認することを出発点としている。言葉は、関わりの中で生み出され、その関わりを表現している。その意味で言葉は「経験」であり「絆」である。このことを前提とするならば、言葉の教育は、「モノ」や「こと」や「人」に対する無関心という、現代に生きる私たちの根源的な病に立ち向かう教育といってもよいかもしれない。「モノ」に触れ「モノ」を名付ける言葉、「こと」を問い「こと」を定義する言葉、「人」と出会い「人」と交わる言葉、それらの具体的な言葉を一人ひとりの「経験」として体験し「絆」として体得する実践が求められるだろう。 ・・・・・「モノ」を名付ける言葉、「こと」を定義する言葉、「人」と交わる言葉。これらの言葉は、まさに理科の授業で多く表れる言葉である。しかし、反省すべきことは、これらの言葉を子どもたちの「経験」や「絆」としてとらえているかということである。佐藤氏は、「教育の一回性」を主張される。今、理科の授業のなかで中心になっている「1往復する時間」という言葉さえ、見直す必要があるということであろう。
2005.06.24
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5年生の国語の教科書に読書単元として「千年の釘にいどむ」(内藤誠吾著:教科書のための書き下ろし)が取り上げられている。本文の内容は、薬師寺再建のために「千年もつ釘づくり」に挑んだ鍛冶職人の白鷹幸伯氏のドキュメンタリーである。本文は、いくつかの「古代の釘の見事さ」を中心に説明文の形式で書かれていて、その「見事さ」の一つに「釘の形」が取り上げられている。古代の釘は不思議な形をしていて「ぬけにくい」というのだ。なぜぬけにくいのか。その釘の形について、本文では次のように書かれている。「先からだんだん太くなって、頭の近くになるとまた細くなっている。そして、真ん中から先にかけては、表面がでこぼこしている。」どんな形か、絵に描かせてみるとおもしろい。教科書の挿し絵(大きさは分かるものの、形の特徴はよく分からない)をみて写すものもいた。ていねいに書いているものの、「ぬけない」ための釘の形は分からない。「なぜ、ぬけないのか」とたずねると、「ヒノキの性質でピタッとくっつくから」と答える。そんな中、ある子どもが「ひっかかるように、ダルマみたいな形になっている」とつぶやいた。「ダルマみたいな」ということばに、子どもたちからはとまどいの声があがった。その子どもは「ダルマみたいな形をしてるからすき間ができる」と説明を付けたした。すると、他の子どもが手を挙げた。「表面がでこぼこしているのも、同じ理由だ」と発表した。少しずつ、クラスのなかから納得の声があがりはじめた。「ダルマみたいな形と表面のでこぼこがからすき間をつくる。」その後、このようにいくつかの考えを交流することで気づくことができた。「ぬけないための釘の形を、分かりやすくもう一度描いてごらん」と声をかけると、どの子どもも「ダルマ型」の釘の形を描いた。
2005.06.21
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「おもりの重さ」「糸の長さ」「ふれ幅」と、子どもたちはそれぞれの見通しをもとに一つ一つの要因について実験をはじめた。実験のしやすさもあったからか(もちろん、実験の方法を確認するときに例として取り上げたこともあるのだが)多くのペアが「糸の長さ」から調べる。10cm長さを変えると、0.2秒ほど差が出る。この結果をみて、すべての子どもが「1往復する時間は変わる」ということに気づくことができた。しかしながら、子どもたちの話題の中心になったのは「おもりの重さ」や「ふれ幅」について実験したときの結果である。結果には、「誤差」が生じる。特に「おもりの重さ」については「○○式」で調べているため、どうしても多少重心がぶれてしまう。 その誤差は、大きくても0.03秒。「おもりの重さ」の場合、数名の子どもにとって、それに対する意識が強いのであろう。「変わった、変わった」という声も聞かれた。今回の実験では、それぞれの実験結果をペアでまとめるところで時間が来てしまった。最後に、簡単に今回の実験で分かったことを発表して終わる。多くのペアから「糸の長さ」を変えたときの周期の変化と比べると、「おもりの重さ」「ふれ幅」を変えたときは「ほとんど変わらない」と発表された。もちろん、その発表に対して「納得できない」表情も見られる。いよいよ次時は、この「違い」を交流させていく。
2005.06.20
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「積み木ふりこ」の「1往復する時間」を変化させるものは何か、条件を制御しながら実験をはじめることになった。「条件を制御する」。ここで、また問題が生じる。「おもりの長さ」を変えずに「糸の長さ」を変えると、どうしても「ふりこ全体の長さ」も変わってしまうのだ。これは、「積み木ふりこ」ならではの問題である。逆に「糸の長さを」を変えずに「おもりの長さ」を変えようとしても、同じことが起こってしまう。子どもたちが、前時のように「○○式」と呼ばれるような案を考えようとするものの、どうしても解決することはできない。しかたなく、「糸の長さ」と「ふりこ全体の長さ」はいっしょに変わるものとして実験をスタートさせた。今回、子どもたちが強く意識した「糸の長さ」「ふりこ全体の長さ」「おもりの長さ」の3つの関係(3つが関連しているということ)は、これまでの「ふりこの動き」の学習では「無視」(取り扱わないという意味)されてきたことである。しぶしぶ実験がスタートしたものの、このことが、ふりこの「本質」に迫るための気づきであり、「積み木ふりこ」のひみつを解くカギになる。
2005.06.20
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いよいよ子どもたちは、ストップウォッチを手に持って実験をスタートさせた。「積み木ふりこ」の追究そのものに関係はないが、「1往復する時間」の測定のさせ方について「ほんの少し」授業の様子を書く。導入では「10往復する時間を3回測定し平均をだす」ことの必要性に気づかせなければならない。もちろん、前回の授業から「正確に測定しなければ」という気持ちは強いものの、ストップウォッチを使えばよいとしか考えていない。そこで、はやく時間を測定したいという子どもたち(もちろん、全員であるが)にストップウォッチを渡し、「1往復する時間」を測定させる。その時間が、1秒~2秒であり、同じ条件でも2回・3回と測定するたびに結果が異なる。子どもたちは「うまくいかないこと」に気づく。その後、「10往復する時間を3回測定し平均をだす」ことで、正確な結果が出せることを知らせた。子どもたちからは「あ~」と納得の声があがる。まだ、算数でも「平均」について学習をしていない子どもたちであるが、その必要性を感じたのであろう。子どもたちにとって「うまくいかないこと」「失敗すること」も大切である。
2005.06.20
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「模倣」とは何か。林望氏は「『芸術力』の磨きかた」のなかで、「模写」することについて次のように述べている。 ・・・・・ 絵の世界には歴史のなかで積み上げられてきたお手本というものがたくさんありますから、自分の好きな画家の画集でも買ってきて、それを模写してみるだけでも、ずいぶん表現力が向上するものです。 他人の描いた絵を写すというと、自分のオリジナルな表現行為ではないように思って、ちょっと抵抗を感じる人もいるでしょう。 でも、それは表現における技術の大切さというものを軽んじた発想であって、ろくにテクニックのない人が、「これが自分のやり方だ」なんていって、いきなり公園に出かけて写生なんかしても、人に見せられるような絵にはなりません。 たとえば鬱蒼とした木々と、空と、その下の池の様子を見たままに描こうとしてもね、池から描いていったら最後に辻褄が合わなくなって、画面の中に木が収まり切らなくなったりしてね、それはそれは目も当てられないような惨憺たる状況になるわけです。 そういうデッサン力は、先人の絵を真似することで意外と身につくものでして、上手く真似て描けるようになると、ものの見方そのものも変わったりするものなんです。 ・・・・・注目すべきは、「真似ることにより、ものの見方そのものも変わったりする」ということであろう。
2005.06.16
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「創造力」とは何か。「身体のダイアローグ」の中の佐藤学氏と三善晃氏(作曲家)の対談がおもしろい。 ・・・・・佐藤 表現者の教育という点からみると、現在の学校は、ぎすぎすした状況に子どもたちも教師たちも押し込めているといわざるをえないですな。 ・・・・・ (略) ・・・・・ しかし、学校においては、学習指導要領を中心とする制度の面でも、教師の抱いている常識の面でも、子ども一人ひとりが表現者として育つことを抑圧している問題があります。とくに、戦後の芸術教育では「自己表現」とか「情操教育」という「人間主義」が支配していて、「自己実現」としての「創造力」が追求されてきたわけです。しかし、芸術はそんな狭いいとなみでもなければ、観念的ないとなみでもないですよね。もっと、私たちが日々生きている生活と深いところでつながっているいとなみだと思うんです。 ・・・・・ (略) ・・・・・三善 創造力と表現との関係ですけれど、創造力があるからそこから表現が生まれるという図式で考えると、表現ということがひじょうに狭い固定された観念でくくられてしまう気がするんですよね。なにか創造物をつくった、そのもとに創造力という特殊な一つの能力があるという措定につながってしまって、「創造力→表現」という図式のなかにみんなが堅苦しく入りこんでしまう。子どもとつきあうときにも、「子どもたちの想像力を伸ばそう。そのためにはこういう表現に向かわせよう」と、そういう手立てだけが教育の方法論にたちまち移しかえられてしまうと思うんです。 ・・・・・ (略) ・・・・・佐藤 芸術とは具体的なものですよね。音楽でも美術でも、ことばにならない回路で世界に触れ、世界と自己をとり結び、存在をたしかめるいとなみだろうと思うんです。その回路はたしかに絆なんだけれども、脆いわけですよね。かたどっては崩れていく。まさに三善さんがおっしゃるように円環運動だと思うんです。虚無である自分と虚無化している現実とを、どうやって存在するものとしてつないでいくかという運動ですよね。学校のなかでいつもいつもそんな時間を生きることは不可能だし、多くは型の模倣とか練習に費やされるのだろうけれども、そういう世界と自己とのあいだの円環運動が立ちあがる瞬間は、場所とか関係を準備しておけば必ず起こるとぼくは思うんです。 ・・・・・ この対談のなかで、「学びとは模倣、真似ぶ」という谷川俊太郎氏のことばも紹介されている。芸術教育に対しても、わたしたちのもつ授業観を180°転換させなければならないということであろう。
2005.06.16
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本校の理科では、子どもの学びを「作品化」することをめざしている。しかし、この「作品化」は単なる「自己表現」ではなさそうである。佐藤学氏は、芸術教育における「自己表現」について「表現者として育つ」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 「自己表現」を中心目的とする傾向は、どの教室にも見られる現象といってよいだろう。子どもたちは、美術の授業において「自由な表現」を求められ、多数の絵画作品を製作しているが、それらを手編みのセーターのようには大切にしていない。ほとんどの作品は、無理に買わされた商品のように、家に持ち帰るとすぐ、苦々しい思い出とともにゴミ箱に捨てられてしまう。音楽の授業でも同様である。子どもたちは学校で多数の曲を「心をこめて」歌わされているが、その「心」を、学校の外まで持ち出すことは稀である。皮肉なことに、芸術教育における「自己表現」は、それを純化して目的的に追求すればするほど、ますますよそよそしさと虚しさを助長し、主体における経験の空洞化と作品における個性の喪失を促進するというパラドックスに直面している。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ もちろん、私は、懐古趣味から手作りの学びを礼賛しているのではない。「自己表現」を目的とする芸術教育が、空虚な「自己」と類型化された「表現」によって、その経験を空洞化し抽象化している現実を指摘しているものであり、芸術の学びをそこから脱出させる一つの方略として、具体的なモノと出会い、手跡の残る制作(shaping)の作業を復権する必要を痛感しているのである。モノと出会い手で制作する作業は、「自己実現」の呪縛から脱出して、表現と生活との緊張と連続を現出させる有効な方略の一つではないだろうか。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 芸術のいとなみにおける「表現」は、「内」から「外」へと向かう「表出としての表現(expression)」であるだけでなく、もう一面で、その「表出」を様式において統制し「外」から「内」へと回帰させる「表象=再現としての表現(representation)」である。ここで「表出」は「自己表現」のいとなみであるが、もう一方の「表象」は「現実の再現」のいとなみと言ってよいだろう。しかも、「表象=再現」としての「表現」は、「模倣(ミメシス)」としての「表現」でもあるのだが、この「模倣」は、一般に「創造」の対立項とみなされてきた。 しかし、「表象=再現」こそ、類型的表現を揺るがして個性を佇立させる可能性を秘めていることを認識しておく必要がある。 ・・・・・まだよく分からないが、私たちがめざす「作品化」は、「内」から「外」へ向かうためだけでなく、「外」から「内」へ回帰させるためのものとしてとらなおす必要があるであろう。
2005.06.16
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「積み木ふりこ」の追究に対し、より見通しをもち、具体的な実験の方法を考えるため、前回の授業での発見や考えを整理することにした。ここで問題になったのは、「誤差のとらえ方」と「積み木ふりこで条件制御すること」である。まず、「誤差のとらえ方」である。振り子の周期を同じにすることは難しい。条件をすべて同じにしても、2つのふりこを同時に動かすと、何度か振れているうちに少しずつズレがでてきてしまう。このズレを「周期の違い」と捉える子どもいれば、「誤差」として捉える子どももいる。実際、同じ実験をしても「周期が変わる」と主張する子どもも「周期は同じ」と主張する子どももいた。そこで、わずかな周期の差でも、何回も振れているうちにズレが出てくることを子どもたちと確認した。このことにより、「1往復する時間」を正確にストップウォッチで測定する必要性を感じさせることができた。また、「積み木ふりこで条件制御すること」の難しさである。「おもりの重さ」を大きくしようとして積み木をつなげると、「おもりの長さ」も「ふりこ全体の長さ」も変化してしまう。しかし、この問題点が明らかになったとき、ある子どもが「○○君のやり方でやればいい」とつぶやいた。「○○君のやり方」。このやり方は、前時の中で○○君から出された「テープを使って積み木を横に重ねてみたい」という意見である。前時では、おもしろそうとしか捉えていなかったのだろう。条件制御の問題点が明らかになることにより、このやり方の「よさ」に気づくことになった。今、子どもたちの間では、このやり方は「○○式」と呼ばれている。時間がかかったものの、子どもたちの考えを「つなぎ」、積み木ふりこに「もどす」ことにより、よりたしかな見通しをもたせるとともに、共同体として問題を共有することことにつながったと考える。
2005.06.13
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研究授業後の子どもたちの感想である。 ・・・・・○条件を1つだけ変えて、他のは同じにして調べてみたい。○糸の長さも関係しているのではないかと考えるようになってきた。○糸の長さが関係するか、どうかはやく調べてみたい。○重さが違って大きさの同じおもりでやってみたい。○インゲンマメのときと同じように条件をそろえてやってみたい。○もっと調べて、積み木ふりこと解剖していくのが楽しみ。 ・・・・「見通し」に関するもの○糸の長さが関係していそうだと分かって楽しくなってきた。○友達の意見を聞いて考えが変わったり、自分で実験して変わったりして楽しかった。○●●君の意見を聞いて、糸の長さに関係があるのかなと思った。○●●君と□□君が言っていたことをやって調べてみたい。 ・・・・「相互作用」に関するもの○やればやるほど分からなくなり、いじでも分かるようになりたい。○いっぱい疑問がでたので、はやく解決したい。○原口先生の授業は、分からない授業なので楽しい。○むずむずしている自分がいて、はやく知りたい。○いつも家でふりこ時計をみているのに、これまでは疑問に思わなかったけれど、やってみたらおもしろかった。○やればやれるほど分からなくなって熱中しました。もっともっと調べたくなりました。○謎が深まったり出てくるのがわくわくして楽しかった。 ・・・・「挑戦意欲」に関するもの ・・・・・「分からない」ことが明らかになる授業であったが、子どもの意欲の低下(減少)は見られなかった。相互作用が生まれたかどうかは検証する必要があるが、おおむね方向を示すことができたであろう。
2005.06.10
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今回、ふりこの動きの学習に「積み木ふりこ」を取り入れる。「積み木ふりこ」とは、下の図のようにおもりの重心の移動による周期の変化を利用した「科学おもちゃ」である。円柱形のおもり(100円ショップで購入した工作用木材を使用)を上下につなぐことにより、おもりの重心が移動する。すると、ふりこの長さが変わることにより、振り子の周期が変化する。 この「積み木ふりこ」を単元の導入から取り上げ、追究の対象とする。 まず、左側の図のようにして試す。すると、つなげばつなぐほど重心が下に移動し、周期は長くなる。子どもたちは、「おもりが重くなるとはやく動くのではないか」という疑問を残しながらも、その様子を観察して周期が長くなる要因を「おもりの重さ」「おもりの長さ」「ふれはば」「ふりこ全体の長さ」と予想していった。なかには、実験中に糸がズレたことから「糸の長さ」を挙げる子どもも。 そこで、右側の図のようにしたときのふりこの動きを提示する。すると、これまでとは、まったく反対の現象が起こる。子どもたちからは、「え~」という戸惑いの声があがった。 もう一度「積み木ふりこ」を使って試行錯誤することになった。子どもたちは、「やればやるほどわからない」という。 そんな中でも、子どもたちは自分なりの予想をする。多くのものが「ひとりよがり」の考えなのだが・・・。この予想を交流させる中で、根拠を問う場面もみられた。例えば、「糸の長さ」を要因だと主張する子どもに対して、糸の長さが同じでも(おもりの長さがちがうので)周期が同じにならないときがあると他の子どもが実際にやってみせる。 結局、どの要因が関係しているのか「分からない」ことが明らかになった。しかし、この交流の中で出された「おもりが1個と3個にしたときでも、同じ周期になる」という発見が、今後の追究の糸口となる。
2005.06.09
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日置光久氏(文部科学省初等中等教育局教科調査官)は、「科学的な見方や考え方」について「理科好きにする小学校理科授業実践」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・「科学的な見方や考え方」とは、問題解決の能力や自然を愛する心情、自然の事象についての理解を総合的に整理したものということができる。その結果、単なる加法原理ではなく、1つの自然を見るフレームを構成することになる。「見方」というのは単に視覚に依存した感覚的方略ではなく、また「考え方」というのも単なる思考の方略ではない。自然というものを、「科学的な」手続きによって素朴経験的なものからより科学的に妥当なものにとらえなおしていくことにより構成されてくる1つのフレームということができよう。 ・・・・・また、「フレーム」について調べてみる。伊東裕司氏(慶應義塾大学)は「認知心理学を知る」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・○彼女は金髪の美人で、目は青く口は大きめである。この例文では”目”と”口”に言及しているが、特に断らなくても読み手にはこれらがさいころの目や袋の口ではなく、この女性の顔の一部である目と口であると理解する。これは、私たちが”人間の顔とはどのようなものか”に関する知識を持っていて、それを利用することによって可能になる。このような知識はスキーマ(schema;図式)、あるいはフレーム(frame;枠組み)と呼ばれ、多くの研究者によってその構造や性質が研究されている。スキーマ(スキーマとフレームは実質的にはほぼ同じものを指すと考えられる。以下スキーマという用語のみを用いる)は次のような性質を持つものと考えられる。まず、スキーマは対象についての一般的、抽象的な知識であり、個別的な知識ではない。 ・・・(略)・・・ また、スキーマは何らかの形で構造化され、ほかの知識と関係づけられている。私たちはこの構造を利用して必要なスキーマを参照することができるのである。 ・・・・・単なるメモである。(いよいよ研究授業である・・・・。)
2005.06.08
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明日の研究授業での理論提案のため、語句の整理をする。(大辞林国語辞典より) ・・・・・概念:(1)ある事物の概括的な意味内容。(2)〔哲〕〔英 concept; (ドイツ) Begriff〕事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現(名辞)の意味内容。(ア)形式論理学では、個々の事物の抽象によって把握される一般的性質を指し、内包(意味内容)と外延(事物の集合)から構成される。(イ)経験論・心理学では、経験されたさまざまな観念内容を抽象化して概括する表象。(ウ)合理論・観念論では、人間の経験から独立した概念(先天的概念・イデアなど)の存在を認め、これによって初めて個別的経験も成り立つとする。〔(2)の意で、明治初期に作られた語〕知識:(1)ある物事について知っていることがら。 (2)ある事について理解すること。認識すること。 (3)知恵と見識。(4)知っている人。知人。友人。 (5)〔哲〕〔英 knowledge; (ドイツ) Wissen〕認識によって得られた内容。厳密には、独断・空想などと区別される真なる認識によって得られた客観的に妥当な命題ないしは命題の体系をいう。あやふやな信念と区別され、一般に「正当化された真なる信念」として定義される。(6)(略)認識 (名)スル:(1)物事を見分け、本質を理解し、正しく判断すること。また、そうする心のはたらき。 (2)〔哲〕〔英 cognition; (ドイツ) Erkenntnis〕人間(主観)が事物(客観・対象)を認め、それとして知るはたらき。また、知りえた成果。感覚・知覚・直観・思考などの様式がある。知識。見方:(1)見る方法。 (2)見る立場。 (3)考え方。見解。 考え方:(1)思考の傾向。思想。 (2)考える方法。思考の順序。構成(名)スル:(1)いくつかの要素を組み立てて一つのまとまりあるものにすること。また、その組み立て。 (2)〔哲〕〔construction〕経験によらずに概念・形式・イメージなどを操作することで対象を組み立てること。 ・・・・・単なるメモである。
2005.06.08
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明日の研究授業では、「状況」や「文脈」の重要性を主張することになる。 ・・・・・文脈:文中での語句の意味の続きぐあい。文章の中で文と文との続きぐあい。比喩的に、道筋・背景などの意にも使う。(広辞苑より)文脈:(1)文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト。 「前後の―から意味を判断する」(2)一般に、すじみち・脈絡。また、ある事柄の背景や周辺の状況。(大辞林国語辞典より)状況:その場の、またはそのときのありさま。ある人を取りまく社会的・精神的・自然的なありかたのすべてをいう。様子。情勢。(広辞苑より)状況:時とともに変化する物事の、その時、その時のありさま、ようす。(大辞林国語辞典より) ・・・・・単なるメモである。
2005.06.08
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福田昌弘氏は、「総合的なコラム(http://www2.ocn.ne.jp/~fmoon/fukk.html)」の中で、「問題と課題」について、次のように述べている。 ・・・・・ まず、問題というのは学習のための問題から社会事象、自然事象、人格に至るまで、広い範囲に使われています。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 問題は山ほどありますが、問題が生成される土台には、人間が知識を理解するという営みがあります。知らなければ何も問題はないわけです。事象についての知識がなければ、問題とすることは何もありません。あるいは、一人だけなら理解する相手がいませんから、問題はおこりません。複数の人間が集まることによって、相手のことを知り、自分と比較する中で問題がでてきます。 問題に気づくかどうかは個々人の興味関心にもよります。知的好奇心が旺盛ならばより多くの問題に気づくと考えられます。そして、山ほどある問題が問題になるかどうかは、対象としてとらえる意識が形成されるかどうかにかかっています。一つのとらえ方として、問題は個人に付随するものではなく、事象に属しています。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 次に、問題を問題としてとらえたら、必ずその人の課題になるかというつながりです。課題は、自らが解決すべき事柄として自らに課すわけですから、事象ではなく個人に付随したものです。ここが問題と大きく違うことになります。ただ、組織的な課題というものもあります。学校の課題、職場の課題、会社経営の課題というように個人を特定しないような使われ方をする場合です。これらは人材が組織的に解決していこうとしますから、共通の目的を持った個々の課題と解釈することが可能でしょう。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 問題は対象を定めずにあらゆる場面で生じるものです。ところが、自分という主体がなければ課題は設定できません。それゆえに個が尊重されなければ成り立たないことになります。個性の尊重ではなく、個の尊重です。 ・・・・・研究授業に向けた、単なるメモである。(あせっているのがみえみえであるが・・・。)
2005.06.07
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「課題解決の技術」(野口吉昭編 HRインスティチュート著)には、「問題と課題」について、次のように述べてある。 ・・・・・ では、問題と課題はどこが違うのか。問題は現象であり、状況である。一方、課題は解決テーマであり、解決の意思の反映である。つまり、課題は、問題をくくった問題群の整理が行われて、「それらの原因を追求したものを解決するぞ!」という意思がともなったものである。 ・・・・・単なるメモである・・・・・。
2005.06.07
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いよいよあさってが研究授業である。追いつめられていることもあり、語句の整理のためにメモだけを残す。 ・・・・・問題:(1)問いかけて答えさせる題。解答を要する問い。(2)研究・論議して解決すべき事柄。(3)(略)(4)(略)問題意識:事態・事象についての問題の核心を見抜き、積極的に追求しようとする考え方。疑問:疑い問うこと。また、疑わしいこと。疑わしい事柄。課題:題、また問題を課すること。また、課せられた題、問題。 ・・・・・ques・tion ━━ n. 質問, 疑問; 【文法】疑問文; 尋問; 論点; 問題, 事柄 ((of)); 採決(の提議).prob・lem ━━ n. 問題; 難問; 疑問; 扱いにくい人. ━━ a. 問題の; 問題になる; 手に負えない. ・・・・・単なるメモである。
2005.06.07
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理科の授業で、子どもたちが「科学者が実践するのと同じように『科学する』」とは、どういうことであろうか。湯澤正通氏は、子どもが「科学する」ことについて「認知心理学から理科学習への提言」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 状況主義者としての教師は、理科の授業で、科学者が行うように「科学する」活動の場、学び合い、語り合う共同体を創造しようとする。それは、科学概念を世界の探究や生活向上の道具として利用する科学者の文化に参加することであり、そのような文化を教室内に作り出すことである。もちろん、科学者の取り組む活動と子どもの取り組む活動は異なっている。科学者は、科学者集団の集積された成果の上に成り立って、超伝導現象や遺伝子操作など未解決の課題に取り組む。それに対して、子どもは、集積された科学の成果を学び、科学者集団の活動にまさに参加しようとする。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 同様に、子どもの学習する科学概念は、科学者からみれば、基礎的なものにすぎなくても、世界の探究や生活向上の道具として利用されるとき、その学習の目的や意義が実感される。 ・・・・・注目すべきは、「科学者の文化」が「科学概念を世界の探究や生活向上の道具として利用すること」ということである。
2005.06.06
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佐伯胖氏は、「状況」に関して「『わかり方』の探究」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ イストナミの研究は、メタ認知研究の流れからみると次のようになる。すなわち、子どもが「状況」によっては、「これこれはおぼえるべきだ」、「おぼえておくにはこうしなければならない」、「忘れそうだ」、「こうすれば忘れないでいられる」などの、自らの記憶の状態をモニターし、意識的コントロールをしていることを示している。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ イストナミの研究が文化と思考の研究からみても興味深いのは、子どもが「買い物ごっこ」という文化的活動の文脈が与えられたときに、生き生きとした思考活動をはじめたという事実である。つまり、「文脈」が全くわからぬ実験やテストの状況では、本当の子どもの思考はわからない。適切な文化的な文脈の中であらわれる子どもの知力をその文脈とのかかわりでしらべなければならないのである。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 思考は、「具体から抽象へ」と発達するというが、人は本当に「抽象的に」思考できるのか。本当に「形式」に従って思考しているのか。文化的実践の文脈でこそ思考がはたらく、ということは、思考が状況の具体的な事物に結びついているのであり、それを一般化・抽象化・形式化して思考していると考えることはできないのではないだろうか。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ つまり、思考の「発達」は、「具体から抽象へ」いくのではなく、具体からより広い具体へと発達し、そのような具体的状況の中で有効さがすぐに検出できるかぎりでの「形式」が(具体性へのつながりをもったまま)獲得されていくのではないか、ということになる。 ・・・・・ 「『発展的な教材』のしくみを解明し説明する」という「状況」の中で、科学的な見方や考え方、つまり「形式(『発展的な教材』のしくみを説明することに有効な)」(本校理科では「きまり」とよんでいるが)を獲得していくことを、今回の研究授業では主張していくということにもなる。
2005.06.06
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子どもたちの学びを「作品化」するとは、どういうことだろうか。佐伯胖氏は、「学びへの誘い」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 第三には、子どもたちの追求はできるかぎり「作品化」するのである。それは自分の学びを「文化として遺す」のだが、それは後世に「伝達」するためではなく、後世の人にも現在の人にも、その価値と意義を吟味し、味わい、新しい意義と価値を再発見してもらうためである。それだけではない、「ここに、学んだわたしがいる」ということを、まさに人間としての存在証明(アイデンティティ)を、いわば歴史的に登録しておくためである。したがってその「作品」は、いかに成功したかの自慢話ではなく、「つまずいたこと」「悩んだこと」「わからなくなったこと」でもよいのである。文化にとって、「あやまち」の自覚すら、否、「あやまち」の自覚こそが、後世に残しておくべき重要な「遺産」なのだ。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 「作品」というのは、末方学級や静岡中学校の場合には、たまたま「作文」だとか「論文」というような、たしかにモノとして形に残るものであったのだが、実際には、明確にモノとして形になるものだけを意味しているわけではない。クラス全体が納得し、「よいこと」として認められた誰かの「理解」でも、広い意味で「作品」といっていいだろう。授業で「○○ちゃん式の考え方」など命名され、特定の子どもの「わかり方」がクラスの共有財産になる場合があるが、それも「作品」の一種である。あるいは、ある子どもが、その子らしいわかり方で「わかった!」と叫び、そのことが他の子どもにとって、すばらしいこととして受けとめられた、また、別の子どもの「わかった!」を触発するならば、この場合の「わかった!」はまさしく「作品」なのだ。いずれにせよ、学習者が「わかったもの」を共同体に提供し、登録し、それが共同体で「よいもの」(「あやまち」や「失敗」すら含む)として、みんなに、ありがたがられ、活用され、「引用」されるならば、それは「作品」である。そして、学習とは、一人ひとりがそうゆう「作品」を創り出すという実践なのだ。 ・・・・・これらから、次の2点が指摘できる。(1)「つまずき」や「失敗」なども含む「学び」そのものを「作品化」していかなければならないこと(2)「作品」は、共同体の中で「ありがたがられ」「活用され」「引用され」るものであるということただ単に、単元の終わりに「発表会」をするということではない。「作品化」も含めて教材の開発に取り組まなければならないということであろう。
2005.06.06
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本校の研究会で、これまでに何度か話題になった「文化的価値」について、あらためて考える。佐伯胖氏は、「『学び』を問いつづけて」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ そこで、私が第一に提言したいことは、「学力」を文化的実践(cultural practice)の中に位置づけることである。ここでいう文化的実践というのは、次の三つの活動を指すものとする(左の項のうちいずれか一部だけでもよいが、全部含むのがのぞましい)。(イ)文化的価値の再生産。よく習熟された技能と必要な技術を用いて、文化的価値を再生産していく活動。(ロ)文化的価値の創造と発見。文化の価値体系を変革して、常に新しい価値をつくり出したり、忘れられていた旧価値体系を新しい観点から位置づけ直して再発見したりする文化的活動。(ハ)文化的価値の理解と賞賛。善いものを「善い」と判断し、その価値を価値あるものとして受け入れること。また、そのような理解や賞賛の内容の豊かさや多様性をさらに理解し合い、賞賛し合うこと。このような相互理解・賞賛も(たとえ何ら新しい成果は生み出さなくとも)、それ自体が文化的活動であると考える。 文化というのは、(イ)(ロ)(ハ)が不断に行われ、つねに広がり深まっていく価値の共有活動であると考えよう。ここでいう「文化的価値」というのは、その文化の成員が「善いもの」とすることすべてを指すので、必然的にそれは多様なもの、多元的なものである。 このような文化的実践を遂行していくときに、自然に、人々は互いに何かを要求しあい、期待しあい、それぞれが互いにかかわっていくにちがいない。 ・・・・・つまり、「文化的価値」とは、その文化の成員が「善いもの」とすることすべてを指し、多様で多元的なものである。また、この「文化的価値」に気づくのではなく、「共有」することが重要であるということを指摘している。
2005.06.05
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共同で何かに取り組むことは、大人でも難しい。日常の会話でも、かみ合っていないことが多い。今村光章氏(岐阜教育大学助教授)は、「わたしはわたしータワシはタワシ症候群」として、このかみ合わない会話を「ディープ・コミュニケーション」の中で、次のように紹介している。 ・・・・・ピン子「わたしの彼な、昨日、この指輪、買ってくれてん。な。ええやろ。」ポン子「わたしの彼なんて、なーんも買ってくれへんねんで。もう。」パン子「かわいそう。わたしの彼はいつもおごってくれるし、この間、高いかばん買ってくれてんで。クルーザーも持っててなあー。すごいやろー。」ピン子「なあなあ、この指輪どう思う?ちょっと派手かなあ。」ポン子「わたしの彼なあ、けちなんやで。いつでも割り勘やで。おごってもらったことないねん。」パン子「なーんか、わたしの彼な、ええんやけどー。でも、変なところは時々けちなんやで。」 ・・・・・この会話は、本校の研究発表会の講演の中で、佐伯胖氏が紹介されたものである。今村氏は、「『共に在る』ために必要でスローでディープな時空が存在する。」とも述べる。たしかに、話がかみ合わない人と話すとき、その会話には「間」や「雰囲気」がない。やはり、「対話」には「時間」と「空間」という要素が大きく関係している。
2005.06.03
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理科の「理論」の主張の中心になるのは、「ある特定の状況の中で、科学的な見方や考え方を『道具』として獲得する(変容させる)こと」である。湯澤正通氏は、この「状況」と「道具」について「認知心理学から理科学習への提言」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 「学校知」の特徴は、「いつ」「どこで」「どのように」使われるのかがほとんどわからないことである。知識が、獲得され、使用される状況から切り離された形で存在可能な「知」と想定されている。これに対して、学校外の学びでは、ほとんどの場合に知識獲得の目的や利用可能な場面が、比較的はっきりしている。その理由は、その知識が必要な場面において学ばれるからである。 必要な場面で学ばれた知識は、何かを説明し、予測し、行動するための道具として機能する。ブラウンら(1992)は、「知識が状況に埋め込まれたものである」ことと、「知識は道具である」ということを主張している。日常的な利用可能な知識は、ハサミやノコギリのような「道具」と似ているのである。獲得する時点で、その知識を使う目的と使用する場面がはっきりしているので、使い方を誤ることも少ない。ましてや、その知識をいつ使用してよいかわからないということはまれである。 ・・・・・ハサミの例がわかりやすい。たしかに、我が子がハサミの使い方を獲得するとき、何かを切る、何かを作るという状況のなかで学ばれていった。新聞紙やチラシをどんどん切っていく。我が子の意識の中にハサミの使い方を練習しているという意識は全くない。チラシを切ることがおもしろいのである。注目すべきは、「知識は、その知識が必要な場面で学ばれる」ということである。
2005.06.03
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理科の学習において、共同体(集団)のよさとは何であろうか。湯澤正通氏は、「集団のなかでの子どもたちの成長」として「認知心理学から理科学習への提言」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 子どもたちは、クラスの仲間からの支援を受け、またクラスの仲間との対立を通して、認知的な面で成長する(Brown,aA.L & Palincsar,A.S.,1989)。第1に、ふだんのクラス全体の授業では目立たない子どもが小さなグループの中で活躍する機会を得ることがある。第2に、解決方法の提案、提案に対する批判、解説や要約、出来事の記録、対立の解消といった役割を集団の中に分散させ(1人で課題を進めるときは、すべての役割を1人で自分の頭の中で遂行しなければならない)、1人で考えることの認知的な負荷を減らすことができる。そして、他の子どもの遂行する役割を思考のモデルとして見習うことができる。第3に、課題に対して知恵を出し合い、活動の専門性を高める。第4に、対立や批判を通して、子どもたちは、自分の考えを明確にし、その根拠を意識し(根拠は何か、その根拠は信頼できるかなど)、考えをさらに発展させる。 ・・・・・子どもたちかかわり合いに対するイメージをもつことができる。また、「認知的な負担を減らすこと」は、かかわり合う価値に対する新しい視点である。
2005.06.03
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科学者の実践とは、どのようなものなのだろうか。湯澤正通氏は、「科学者集団の文化への参加」として「認知心理学から理科学習への提言」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・ 地域に開かれた理科学習は、知識を学ぶこと以上の意味を持っている。それは子どもたちの自己実現の活動である。 第1に、自分たちの学びやその中で創造した知識が単なる自己満足ではなく、文化的に価値のあるものであることに気づく。それによって、自分たちの学びに自信を深め、新たな学びの意欲へとつながっていく。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 第2に、自分の学びの文化的価値を認識することで、それを他の人々(地域の人々)に伝え、共有したいと願う。その場合、自分の発見した課題やその解決のなかで創り出した知識は、自分だけが理解できる表現のままにしておくわけにはいかない。それを他者が理解できるような知識へと表現し直さなければならない。そのような公共の知識を創造することこそ、科学者集団の活動の特性に他ならず、子どもは、学校の理科の授業をきっかけにして、科学者集団の文化に参加するようになる。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ しかし、小学校で出前授業を行ったとき、新たな課題に直面する。自分たちの説明に対して小学生はキョトンとしている。実験の原理(メカニズム)を理解できなかったようである。生徒たちは、自分たちの表現が不十分であることに反省し、よりわかりやすく、人々に共有されうる表現を求めて、再びチャレンジするのである。 ・・・・・ このことから、次の2つのことが指摘できる。(1)文化的実践とは、「公共の知識を創造すること」であること(2)作品とは、子どもたちが文化的価値を認識した「公共の知識」であること先週、佐伯胖氏が話された「自己実現とは、自己満足ではなく他に影響を与えること」という言葉を思い出す。
2005.06.02
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理科の学習を文化的実践にするためには、理科を学ぶことの文化的側面を考察する必要がある。村山功氏は、「学校で『科学する』」こととして「科学する文化」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・ 新しい言葉を獲得するとき、まず言語の型を習得し、次に意味を生み出すためにそれを適用するというようなことはいない。言語は特定の目的を達成するという状況下で、特定のやり方で学ばれるものである。このような彼女らが目指したのは、科学者が実践するのと同じように「科学する」ことであった。つまり、実際に共同探究(collaborative inquiry)を行うのである。こう考えた背景には、知識は、意味のある問題や課題や道具について、語り、活動し、相互作用することによって社会的に構成される、というヴィゴツキーの考え方がある。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ このような実践は、どのような科学観から産み出されたのであろうか。ローズベリーらは、科学を談話だと考えた。科学という談話は理論構築の物語であり、推測、根拠、観察、実験、説明を含んだ批判的で反復的なプロセスから育っていくものである。「科学を学ぶということは、特定の事実や手続きの獲得でもメンタル・モデルの洗練でもなく、それ独自の語り方、推論の仕方、行為の仕方を持ち、規範と信念と価値を持ち、制度を持ち、共有された神話すらもっている、科学という社会的・文化的に作り上げられた考え方、知り方を学ぶことである。」そして、センス・メーキング(意味づける)ことを重視している。科学を学ぶためには、科学的な共同体の特徴であるセンス・メーキングに文化化されることが必要である。そして、科学的なセンスメーキングを学ぶためには、生徒が学ぶ文脈(共同体)がこのようなセンス・メーキングを反映し、サポートしなければならない。さらに、科学的なやり方、推論の仕方、話し方、価値の置き方を学ぶだけでなく、自分自身のセンス・メーキングの目的に役立つものとして科学的な談話を利用する方法を発見しなければならないというものである。これは、大切な指摘ではないだろうか。 ・・・・・結局、よく分からない。「談話」「センス・メーキング」がキーワードとして残ったということであろう。ただ、理科の授業を「科学者が実践するのと同じように『科学する』こと」に変えていくことが大切である。
2005.06.02
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来週の研究授業では、理科の「理論」も出すことになる。この週末は、その「理論」を書くことに追われそうである。この「理論」を書くために、いくつかのことについて分析し、整理しなくてはならない。そこで、それらのことについて考察する。まず、「問題を共有する」ことである。今回の理論の2つ目の視点に関係し、共同体としての追究を促すとともに、一人一人に追究の見通しをもたせることにもつながる。村山功氏(静岡大学)は、「科学の問」として「科学する文化」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ コミットメントといっても、自分自身が抱えている問いは、そのままでは科学の対象にはならない。子どもたちに自由に疑問を出させたら、科学者からみておもしろい疑問から荒唐無稽なものまで飛び出して、収拾のつかない状況になるのと同じである。科学には科学の問というものがある。それを自分自身の問と無関係に追求していくのではない。必ず、自分自身の問を科学の問いの間の流れに重ねあわせていく必要がある。野家の言葉を引用すれば、「今一つ注意しておかねばならないのは、認識関心は読者個人の主観的問題意識と解されてはならないということである。読者はあくまでも一定の『解釈共同体』の一員としての資格で〔自然という〕テキストに向き合うのであり、それゆえ認識関心もまた、その解釈共同体のメンバーによる個々の解釈行為を方向づける一種の間主観的拘束性という意味で理解されねばならない」ということである。 かくして、学ぶという概念に共同体が入ってくる。クーンのパラダイム論では、パラダイムと科学者集団とは不即不離の関係にある。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ このようにして科学者集団のなかに属し、パラダイムを共有するということは、単に認識内容の共有というだけでなく、役割の獲得であるといった方が適切であろう。レイブとウェンガーはこれをアイデンティティという概念で記述している。いずれにしても、個々の科学的な探究は個人の行為ではなく、科学者集団を背景として行われている社会的な行為なのである。 ・・・・・佐藤学氏は「疑問(question)を問題(problem)に移すには、他者との疑問の交流が必要である」という。個々の問題(課題)意識と共同体としての追求との関係を明らかにする必要がある。
2005.06.02
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佐伯胖氏は、「理科は『理学』的ではなく、『工学』的に」と言われる。佐伯氏は、「工学」ということについて、「イメージ化による知識と学習」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 赤ん坊はガラガラの音や笛の音をたのしむ中で、自然に、「糸を引っぱること」の有効性に気付き、利用しているのである。これを「因果認識の発生」とみたピアジェは、赤ん坊を「物理学者」と考えすぎた。赤ん坊は実は、「工学者」だったのかもしれない。 「工学」という世界では、因果の説明よりも、有効さの説明が優先する。「こうやるとうまくいく」ことの認識が、「なぜそうなるのか」ということの認識よりも優先する。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 極端な言い方をすると、ネズミはネズミなりの「物理学」や「化学」、「生物学」をもっていているのである。新しい経験は、それらの「物理学」や「化学」や「生物学」に照らしてみて、解釈できそうな枠組みで解釈され、新しい「知識」として吸収されるのである。 ネズミは「吐き気」が生じたとき、たしかに、「なぜ吐き気が生じたか」を考え、自己の経験を想起し、あのとき、サッカリンの味のするものを食べたときのことを、アリアリと想像し、さらに、そのサッカリン味が、自分の体内に「吐き気」をもたらす原因であるとみなすのである。ここにおいて、「サッカリン味のエサは吐き気をもたらす」という有効性の知識は、因果的に生起しうるという、「実在的認識」の枠内に、みごとに位置づけられていると考えられよう。 いわば、「実在感」のフィルターを通した「有効性」の認識である。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ 「バカな」ネズミの方は、ものごとを「納得する」ことを知っている。これは本当に「ありそうなことだ」と言うことを知っていて、「そんなことはありえない」ことに対して、自分ではっきりと、拒否することができる。 わたしたちが知識に「合目的性」や「有効さ」を求めるのは、それ自体大変健康的なことであり、当然のことである。 しかし、大切なことは、「わたし」が、その「有効さ」を求めて、その上で一つの「ありそうな、タメになりそうな」関係を、納得して、身につけることである。自分で、その「知識」の有効さを必要とし、実感として確認し、自分で、必要に応じて利用し、自分の活動を広げることに関心がむいているかぎり・・・・・。 ・・・・・「『実在感』のフィルターを通した『有効性』の認識」。このことを咀嚼すること。「『ありそうな、タメになりそうな』関係を、納得して、身につける」子どもの姿を具体的にイメージすること。このことが、早急に取り組まなければならない課題である。
2005.06.01
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