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今日はあの歌どんな歌だった、ということでどなたか知っていらっしゃる方がいたら教えてください。私はなんとなく覚えているけど、歌詞と歌手はきれいに忘れてしまいました。確か「もしも願いがかなうなら、吐息を白い薔薇に変えて」という歌詞だったと思うのですが、ここしかしっかりとは覚えていません。雰囲気は覚えているのですが。どなたか知ってる、と言う方がいたら教えてくださいいつの間にかずるずると長引いた大学生時代編今日こそ完結編を作ろう確か骨折したところまで書いた前回(と言ってもいつだったか?)骨折したのに自転車こいでたな。松葉杖を小脇に2本抱えてギブスした足でこいでいた。いや冬でよかった。これが夏だったらかゆくてしょうがなかった。結局年内でギブスを外すことができた。ほとんど痛くなかったけど足首に体重をかけると痛かった。結局合唱部の役職決めは次回に持ち込まれ、私は何をやったんだっけ?ステージの演出を考える係りと、演奏会の会計責任者をやった。冬休みは何やったんだろう?確か年明けに提出するレポートを作ったり休み明けにすぐある、後期テストに備えて勉強していた。休みが明けてすぐにテストがあるのは今までで初めてだったので、どの程度のペースを維持すればいいのかなかなか苦労した。結局それなりに勉強した。年が明けて1週間だけ最後の授業があってテストに突入。特に問題なく乗り切りました。良かった。問題だったドイツ語も何とかクリア。結局この年は単位は1つも落とさなかった。って当たり前か・・・後は長い冬休み。本当に長い長い冬休み。と言いたいのだけど、私が取った講義は最終日にまでテストがあったので、1月いっぱいは勉強に追われるのであった。冬休みは何したんだろう。どっかに旅行言ったような気もするし、行かなかったような気もするし。昔のことだから覚えてないや。きちんと覚えているのは合唱部の春合宿に行ったことぐらい。3月の頭ぐらいから合唱部の練習が始まって、中旬ぐらいから合宿に旅立ちました。いや、合唱部ていうと「すごいたくさん人がいる」所を想像してしまうでしょ。うちの部違ったんです。まず私が入った年13人か12人でしたから。その上春合宿となると、4年生が抜けるわけだから、9人。たったの9人ですよ皆さん。驚きでしょ。9人だからお互いのことは良く知っている。もちろんいい面も悪い面もね。そりゃ好き嫌いもありますよ。私もありましたよ。でも大学生にもなって、団体活動をしている部でそれを表面に出したら、お子様そのものでしょう。だから表面上は静かなのです。ここからは一部フィクションが混ざります。この年の合宿は最後に波乱が待ち受けていた。主役は私と、もう1人の1年生ソプラノだったHさん。もともと彼女は天然系というか天然突撃系(そんな分類あったっけ)周りの雰囲気がさっぱり読めない人。いや本当に読めない。26年の人生であそこまでの人はいなかったよ。千葉県の岩井で毎年合宿をやっていました。交通手段は電車。もう時効だから話してしまおう。ついでにその年は成功しなかったし。JRの北千住駅は東武線と接続している。まだ私が学生だった頃は、その接続口は人間の改札で、しかもほとんど駅員はいなかった。つまり東武線の定期を持っている人間ならやりたい放題だった。皆やっていましたよ。JRの岩井から乗り込む時は当然一番近い切符しか買いません。150円くらい。それでかなりお金が浮くのです。みんないそいそと券売機で安い切符を買います。彼女が一言炸裂させました。しかもあたり中に聞こえる声で「なんでその切符しか買わないの?それじゃ足りないよー」。当然駅員にも聞こえるわけで・・しかもその時一番近くにいた私に言うんです。もう逃げ出したかったよ。ていうか逃げたよ。その場から逃げました。しかし彼女はしつこく「なんで」コールを炸裂させております。電車の時間が来て乗ることになりました。先ほどの「なんで」コールに加え、一番安い切符で9人の集団が有人改札を通ります。そりゃ怪しむなと言う方が無理。この時一番割を食ったのが私。最後に改札を通った私は駅員に尋問されました「どこまで行くの?君たち何大学?」とりあえず行けるとこまで行きたいんです。その時精算しようと思って・・・なんてしどろもどろになりながら答えました。本当に悲惨でした。彼女は自分が何をしたかにまったく気づいておらず、平和そうに笑っていました。結局電車の中で車掌さんからきちんと買いました問題児の私よりも問題児だったHさん。彼女のお守り&説得係はいつの間にか私になっていて、先輩皆に白い眼で見られました。泣きたいのはこっちだよ。心の叫びが炸裂していました。以上春合宿の出来事コーナーでした。今日は病院に行ってきた。久しぶり3週間ぶり。昨日目眩がしたことと、昼間の猛烈な眠気について話す。また薬が変わったよ。私は良くなってるの?悪くなってるの?どっち???
2004年09月30日
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今日は朝からと言うか、すでに起きたのは昼だったから昼から調子が悪かった。起きたはいいけど、体に力がまったく入らない。襲ってくる眠気。もうだめだー、と思い引きずり込まれるようにベッドの中へ。そうしたら今度は寝れない。ねむいのにまったく寝付けない。気分は悪くなる一方。少しウトウトして3時ごろベッドから起き出した。起きてしばらくは固まっていた。体がうんともすんとも言わない。30分ぐらいして部屋に戻り、本を読み出す。本を読むのは大好き。本を読んでいる時は幸せ。5時からプールに行くことにして4時半過ぎまで読書タイム。なんとなくだるかったけど特にいつもと違うことはなかった。プールに行って40分ぐらい泳いでいた。いつもより疲れが出るのが早い。腕の筋肉もいつもより早く痛みが出てきた。なんか調子が悪いなと思ってペースを落とした。だんだん気分が悪くなってきた。これは本格的におかしいと思いプールから出て、ゴーグルを外して2,3歩歩いたところで、突然目の前が真っ白になって、立っていられなくなった。あわてて手すりにつかまるのが精一杯だった。あいにく今日は車で来ていた。とてもこんな状態では車に乗れる状況ではなかった。目の前の光景がゆがんで見えるのだから、運転などできるわけがない。ふらふら歩きながら横になるのが精一杯だった。横になって吐き気をこらえつつ30分ぐらいしたらようやく落ち着いた。あーあー今日は厄日だよ
2004年09月29日
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中断していた昔を振り返るシリーズ大学生編の続きどこまで書いたんだっけ?確か合宿のあたり。合宿の合唱漬の日々を終え、埼玉に帰った私であった。残る夏休みも半分は練習でうまっている。残りの半分は何したんだろう?特に何かした覚えはない。勉強したり遊んでいたりしたんでしょう。後期の授業が始まり、久々にさまざまな講義を受けたがどれも楽しかった。しかし1つだけ問題があった。第2外国語のドイツ語これだけはいけなかった。前期はなんとなくわかりテストを切り抜けた。後期になるともはや意味不明の異次元の世界。動詞は変化するわ、名詞は変化するわ、名詞には女性名詞、男性名詞、中性名詞なんてあるし、もう半分やけっぱちになっていた。それでも宿題だけは辞書とにらめっこしたり、部活のドイツ語学科の先輩の力を借りてやったけど、とても理解してやっていたとはいえない状況。後は英米文学のアメリカ文学の教授が詩が専門でさまざまなしが紹介されて面白かった。とても嫌だった音声学の授業は半期完結で、後期はなかった。良かった。部活は相変わらず1年生が1人だったが、同じクラスの女の子と話をしていたらいつの間にか勧誘していて部室に連れて行った。他の先輩と話していると気に入ったようでその子も合唱部に入った。これで晴れて1年生1人状況から脱出できた。今思えばこの子の加入は後々多いなる災いとなるのだが。それから男性も1人増えて気づけば1年生は3人になっていた。バンザーイ。しかし途中参加の二人は10月からだったのですべてのステージに乗ることはできず、半分のみと言うことだった。確かあの年は11月の後半が演奏会の日程だった。場所は川口リリアの小ホール。ここ音響いいですよ。それに1日借りてもそんなに高くないし。音楽関係の演奏会やるにはここオススメです。演奏会が近づいて来ると皆ピリピリしていたな。どこまでも呑気な私は普段と何も変わらなかったけど。周りの人がピリピリしているのを「おっかねー」と思って過ごしていた。演奏会の当日。さすがにのんびり屋の私でも緊張してきた。私は緊張してくるとトイレが非常に近くなる。あの時もステージごとの合間にトイレに走ったもんだ。初めての演奏会は一生懸命やるだけで精一杯だった。周りのことなんて気にする余裕なし。全部で4ステージやったがだいたい休憩も入れて1時間半ぐらい。練習してる時は長いと感じたけれど、実際本番の演奏はあっという間に終わった。感想は周りの人にいっぱい迷惑かけてゴメンナサイ。でもおかげで合唱部に入ってよかったと思えました。そうこれが感想。そう私は問題児でした。音をとっているはずなのに、いつの間にかテノールを歌ったり、ソプラノを歌ったり、アルトを歌ったりしていた。結局取れていないと言う話になるのだけど。体調はしょっちゅう崩すし、アンサンブル中に沈没したこともあった。今思えばよく周りの方が支えてくれました。ありがとうございます。こうして合唱部のメインイベント演奏会は幕を閉じた。やれやれ。残る合唱部のイベントは翌年の役職決めだけ。最後にやってしまいました、私。役職決めの当日、確かあれはあたりも薄暗くなったころ、部室棟の階段をテケテケおり外の空気を吸いに行った時。あれ外の空気を吸いに行ったんだっけ?ごみを捨てに行ったような気もしたぞ。とにかく外にいったんです。たった3段の階段があった。そこでこけました。正確に言うと階段を終わり着地した時。地面がへこんでいたんです。そこに見事に足が着地しバランスを崩してこけた。目の前はいつも行っていて相当仲が良くなっていた保健室。普通にひねったにしてはやけに痛いなーと思って足を引きずりながら保健室に行き「こけちゃいました、みてくださーい」といつもの明るい調子で呼びかけて見て貰いました。一言「折れてるよこれ、最低でもひびだね」ガーン。今から病院行った方がいいよ、と言う声。しかし役職決めがアー頭の中真っ白。とりあえず骨折ったこと報告に行かないと、と思ったが部室は3階とても行くことはできない。ちょっと行ってきてもらえますかと頼み、保健室のお姉さんに部室まで行ってもらった。そうしたら皆あわてる、「何折ったって」どこでやった?目の前の階段です。そうか上から落ちたのか?とうなずいていたが一言私が「いやそっちのじゃなくて、小さい方」と言ったらみんな信じられないと言う顔をしていた。そりゃそうでしょ。自分でも信じられなかったんだから。結局病院にいく途中まで歩き、途中からは先輩に担いでもらった。ありがとうございました。そしてわめく私と一緒に病院まで付いて来てくれた先輩ありがとうございます。結局全治1ヶ月だった。何故か3週間ぐらいで治ってしまったけど。今日はここまで
2004年09月28日
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調子は下降線をたどっている。朝起きれない症状が深刻化してきた。と言っても正確に言うと何度も起きているんだけど。朝早い時間から何度も目が覚める。と言っても頭も体も半分以上寝ている状態。その時はふと目が覚めて時間を確認してまだ早いからもう少し寝ようと、思って再び寝る。それが何度も続く。気がつくと10時ぐらいになっている。そこでそれでは起きようと思って体に力を入れるが入らない。頭の中がだんだん眠気に侵食されていき、気がつくとだるくなり、そのまま寝てしまう。こんな状態。ようやく起きたと思っても眠気が頭から離れない。体がボーっとしている。1時間ぐらいは何もすることができない。座ってテレビでもボーっと見ているのが精一杯。ようやく動き出したとしても眠気にまた襲われ、昼寝のお時間が始まる。寝てはいけない、寝てはいけないと思いつつも体は抵抗することができない。気づくとウトウト、ウトウト。私は1日何時間寝れば気が済むんだ?15時間ぐらいは寝てるぞ。こんなに寝てばかりいると脳みそ溶けちゃうよ。ついでに書けば偏頭痛が最近ひどくなってきたぞ。小学生以来のお付き合いだが最近は鳴りを潜めていたのに。頭がしびれるような感覚に襲われる。薬もあんまり効かないし。でも飲まないよりはましかな。今飲んでる薬は病院で貰っている薬でとても強い。空腹時に飲むとおなかが痛くなるほど。出口のない暗闇はないというけれど、暗中模索。ほんとにそんな表現がぴったりだよ。治す意思がないのか、治そうとする気力がないのか。そりゃ私だって早く治して社会に復帰したいさ。そうだよ。そんなことは当たり前だよ。当たり前なことが、当たり前にできない現状。もしかしたらずっとこのままなのか?それとも無理矢理社会復帰して体を強引に慣れさせればいいのか?無理だ。1度試したことがある。3ヶ月しかもたなかった。どうしたらいいの?初めて心の叫びを書いた。読み直すと自分が嫌になってくるね・・・
2004年09月27日
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平成の大合併とやらであっちこっちで市町村合併が行われている。私の住んでいる町でもご他聞にもれずその話が起きた。今日はその話。私が住んでいる町では7月の選挙の際市町村合併についての投票が行われた。周辺の市町による1市3町の合併が協議されていた。すでに首長レベルでは合併に向け話は進んでいたようだった。投票の結果我が町のみが合併反対が上回り、他では合併賛成が上回った。これを受け我が町の町長は、残念だがそのような結果が出た以上、我が町は合併協議会から離脱すると言うような主旨のコメントをした。別に投票の結果について、云々言う気はない。はっきり言って合併しようが、しまいが行政のサービスが改善されるとは思わないし、現実的だが税金が安くなるとも思えない。問題はその後。これは行政レベルではなく住民活動のレベルだが、色々な動きが出てきている。1つは投票の結果が出たにもかかわらず、相変わらず、1市3町の合併をしなくては町がやってゆけなくなると言う活動。そんなにやっていけなくなると言うなら、きちんとした調査結果也資料を提出すればよいではないか。もちろん希望的観測を入れてはならない。このまま合併せずに独自に進んでいけば財政が崩壊すると言う確固たる証拠があれば、議会に提出するなり、住民に説明会を開くなり、ポストに投函するなりいくらでも方法があるだろう。街宣車で馬鹿みたいに「合併・合併」と言うより何倍も効果があるだろう。もう1つは隣町との2町合併を進めようという動き。1市3町の合併がお流れになったとたん、どこからかこの動きが急速に出てきた。あまりに安易過ぎる。こっちが駄目だったから、あっちと合併。合併をすればいいという話でもないでしょう。先ほども書いたが、合併によるメリット、デメリットをきちんと見越した上での行動なのだろうか。、どこにも具体的な数字は出てこない。何かを実現するために、人々の賛意を得るためには、確固たる理論に裏づけされ、かつ信頼できるデーターに基づく情報を開示しなくてはならない。馬鹿みたいに実現の為に賛成してくださいと100回言っても誰の賛意も得ることはできない。どうも我が町の運動を見ている限り、ただ合併することだけを求め、中身のない行動をしているように見えてならない。かといって自分にそれを調べる気力があるかと言ったらないんだけど・・・今日も水泳に行ってきた。日曜の昼間。子供が多い。プールはもはやお遊技場だった。疲れたよ
2004年09月26日
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いまK1を見ながら書いている。曙とボンヤスキー戦について曙はK1には向いていないとしか思えない。なにせスタミナがなさ過ぎる。今日の試合でも見るべきところがあったのは最初の電車道だけ。それもあんまり効果があったようには思えないけど。後はチョコチョコとパンチだかなんだかわからないものを、単発で出すだけ。とてもK1ファイターとは思えない。あそこまで手数がないと見ていても面白くもなんともない。動きのない格闘技のない試合などいったい誰が楽しめるのだろう?曙は「相手が逃げ回っていて勝負にならない」と言っているが、とてもプロの格闘家の言葉とは思えない。例えばボクシングの世界で「アウトボクシング」スタイルの挑戦者に王者が負けた後「逃げていてパンチが当たらなかった」と言ったらいい笑いものになるだけだろう。それはテクニックがないというだけの話だろう。野球で「ストレート」を待っていると宣言している打者にストレートを投げるピッチャーはいないだろう。結局彼の言っていることは言い訳にしか過ぎないと思う。打ち合うことを望んでK1に参戦したと言うことを言っているが、それなら打ち合いに自分が持ち込めばいいだけの話である。打ち合いに持ち込みたいなら少なくとも相手を追いかけなくてはならない。しかしながら曙の試合を見ているとそういう動きは感じられない。相手が打つために近づいてきたところに、申し訳程度に1発手を出すだけ。当たれば自信がありますと言っていたが、あれではとても当たるとは思えない。曙がこれからもK1で戦っていく気なら少なくともスピードとそれを持続させるスタミナが必要不可欠だと思われる。それから今日は久しぶりにプールに行って来た。平日の昼間に行くとおばちゃんだらけ。土曜の夜なら少しは年齢層が下がるかな、と思っていたが、やっぱりおばさんだけだった。Yさんやっぱり若い女性はいないわ。別に女性を見るためにプールに行っているわけではなく、体を動かしたいから言っているだけだけど。
2004年09月25日
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人間年が1年につき1つ増えていくのは誰でも平等。誰ですか?私は2月29日生まれだから4年に一度しか年をとらないと言っている人は。確かに年が増えていくのは平等だけれど、そこには2種類あると思う。年をとっていく人・年を重ねていく人・・・今日はそんなことについて書いてみよう年をとっていくことについてから。ただ漫然と日々を過ごして何も得ることなく、ボーっと年を増やしていくこと、これが年をとっていくことでしょう。年を重ねていくこと。いつも何かに対して向き合い失敗しても成功してもそこから何らかの経験を得ること。円熟なんていう言葉があるけど、内容的にはそれと似たようなところかな。私はどうなんだろう。もちろん年を重ねていく人生を選びたい。誰だってそうでしょう。しかし現状を見るとどうも年をとっているだけのような気がする。毎日繰り返すだけの日々。前向きに生きようと言う気力の出ない自分。やりたいことの見つからない自分。自分を見ていると腹が立ってくるよ・・・また内容が愚痴っぽくなってきた。年を重ねることのできる自分を早く見つけよう。素敵に年を重ねられたらいいな・・・
2004年09月24日
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もしも願い事がひとつだけかなうなら・・・今日はそんなことを書いてみよう。最近昔を振り返るシリーズだったのでちょっと毛色を変えてみよう。もしも願いがひとつだけかなうなら、あなたは何を望みますか?適う願いの数を増やして欲しいと言うのは反則。あくまで適う願いはひとつだけ。私は何だろう?色々ある。大学生活のあのころに戻りたい、平穏な心の状態を手に入れたい、お金がいっぱい欲しい、素敵な恋人が欲しい、結局色々ありすぎてひとつには絞れないよ。無理矢理一言で言えば「幸せになりたいってこと」でも、以前日記でも書いたように幸せなんて人それぞれ。願いをかなえてくれるのが神様だったら神様も悩んでしまいますね。それとも神様って言うぐらいだから、その人にばっちりあった幸せを選んでくれるのかな???「あのたの幸せはこれでしょう」なんてね今の生活はそんなに悪くない。いや悪いことは悪いが傷病手当金を貰っているのでしばらく生活する分には困らないぐらいの収入はある。幸せですか不幸ですかと聞かれたら、どちらでもありません、と言う答えになるだろうな。だけど、この生活じゃいけないと思う。早く抜け出したいと思う。体がついてこない。何か急に愚痴っぽくなった。タイトルと内容が、かけはなれてきた。そういうわけで内容を元に戻そう願いは、叶えるためにある。そんな歌もあった。いや待てよ夢はかなえるものだったかな?どちらでもいいけど。内容は大して変わらないから。願いがひとつだけかなえられるなら、それは非現実的な願いの方がいいのかな。だって願いが叶える為にあるのなら、今自分が考える願いは、現実から考えて手が届く範囲にあるのだから。何が言いたいのか書いているうちに混乱してきたぞ・・・ある人にとってそれは魅力的な願いでも、ある人にとってはそれが叶うことは苦痛でしかないこともある。例えばね、政治家が国のトップである総理大臣になりたいと思う。政治家ならそれが叶えば万々歳。でも一般の人にしてみれば、それが叶うことは不幸せ。だって年がら年中批判はされるし、重い決断だってしょっちゅうしなければならない。とても私には無理だよ。神経が磨り減って1日たりとも勤まらないよ。結局願いなんて人それぞれ、その人の立場によって変わってくるし・・・結局万人にとって共通のたった一つのお願いはないんだろうね
2004年09月23日
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今日は昨日挫折した大学時代1年生編の続き合唱部の部室を恐る恐る訪ねた私は、練習を見たいのですがいいですか?と聞きその週の土曜日に行われた、練習を見に行った。そうしたらいつの間にか新歓コンパに出ることになっていて、いつの間にか入部することになっていた。はっきり言って歌には自信がありませんと、宣言することは忘れなかったが。こうして私はいつの間にか合唱部の一員となっていた。ちなみにパートはベース。男性の最も低いパートだった。学生の本分勉強の方は楽しかった。特にコミュニケーション学が先生が魅力的な授業をしていたので面白かった。さすがコミュニケーション学の先生だ、とうなずいていた。他にも色々授業はあったが「英語の音声学」は何をやっているんだかさっぱりわからなかった。毎週発音記号やら、イントネーションについて話していたが、半分も理解していなかった。試験もさっぱりわからなかったが単位は何故か取れてしまった。なんで???一年生の頃は一般教養と学部必修の科目をほとんどとっていた。一番いろいろな意味で印象に残っているのは「西洋史」だった。単位は選択すればほぼ間違いなく取れる科目だった。なぜならテスト前に出るポイントが発表されしかも教科書持ち込みOKである。論述式だったが、あらかじめポイントを押さえ、組み立てておけば後はそれを書くだけだった。そのため授業の登録者数はやたら多いがテスト前以外は教室はいつもがらがらだった。先生は発音が面白く、わが部の先輩の中には、1時間分をテープに丸ごととってきた猛者がいた。合唱部に1員になった私だが同じ学年の人間はいなかった。一人の1年生だった。回りはみんな先輩。気軽に話せる友達が欲しかった。そんなことを言っていても5月に行われたはじめての合宿の時には、すっかり打ち解けていたが。パート練習は毎日昼休みに行われた。その為クラスの人間とは、一緒にご飯を食べることが無く、クラスではほとんど友達がいなかった。昼休みの他には土曜と水曜の午後から毎週アンサンブルが行われた。といっても歌うのが精一杯で周りのことは何も見えていなかった。私はどうも音取りがうまくできない。パート練習の時には同じパート内で歌うことができる。また一人で歌う時はきちんと楽譜どおりに歌うことができた。しかし他のパートが入るとどうもいけない。私は音取りもしていないのに、テノールを歌っていたことがあった。ある意味すごい才能だが。音取りをしていないパートを歌ってしまう。こればっかりはいくら練習しても治すことができなかった。本当に嫌になって先輩に付き合ってもらって自主練習も何度もしたがこの癖はなかなか抜けなかった。5月には埼玉県の合唱祭がありそこでステージデビューを果たした。緊張して何を歌ったんだがさっぱり覚えていない。訳のわからないまま10分の時は流れた。前期のテストは音声学を除きそこそこの成績で、後期に向けてそれなりの感触を残した。大学のテストと言うのはその気になればいくらでもカンニングできるなと思った。もちろんカンニングはしなかったが。回りでは結構やっている人がいた。大学の夏休みは長い。だいたい2ヶ月ぐらいあった。半分ぐらいは合唱部の練習でつぶれてしまったが。朝9時から昼4時までが練習の時間だった。声を出すことがこんなに疲れるとは思わなかったし、ずっと立っているのも疲れた。この時まで何か勉強以外のことに打ち込むことがなかったので、大変だったけど充実した日々を送っていた。夏合宿は新潟の苗場で行った。確か4泊ぐらいしたような気がする。もうちょっと長かったかな?朝起きてから夜風呂に入るまで合唱漬けの日々だった。パート練習は男だけだったし、暑かったので、皆ズボンを脱いで下はパンツだけだった。若かったね、あの頃は。大学一年生編前半完・・・
2004年09月22日
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大学生編は書くことがいっぱいありすぎるので、分割して書くことにしよう。今日は1年生編大学は高校からエスカレーターで草加にあるD大学に入った。学部は外国語学部英語学科。入学式のその日にテストがあった。リスニングテストによるクラス分けだった。ちなみに成績はあんまり良くなかった。そりゃそうだ高校3年生の時に撃沈していたのだから。大学生活は毎日家から電車で40分ぐらい通った。駅からは歩いて7分ぐらいだった。入学式の後テストが行われ3日ぐらいは色々なオリエンテーションがあった。真面目には聞いていた。3日の間色々な部活に勧誘されたが、あんまり入る気はなかった。どちらかと言うと避けて歩いていた。そんな中で何故か合唱部の勧誘にはふらふら着いていった。なんとなく疲れていて座りたかったからかな。あんまり強引に勧誘されなかったのも良かったかもしれない。そこで授業の時間割を同じ学部の人に手伝って作ってもらった。その時色々やってくれて、このまま逃げるのは嫌だと思った。ピアノはやっていたけど、音痴を自認する私は不安だったが、とにかく一度は練習を見てみようと思った。何か疲れたから明日に続く
2004年09月21日
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私は占いとか血液型判断と言うものは大嫌い。まず血液型による性格判断について。血液型による性格判断は色々な本が出ているし、たまにはテレビで放映されていたりする。そもそも血液型とは何なのか。血液の中に含まれる成分の違いただそれだけである。そんなもので何がわかるというのだろう?あれだけ露出があるのだろうから何らかの根拠はあるだろうし、実際分析の内容は当たっていると思う方もいるだろう。しかし人の性格なんて、一言で言い表せるものではないし、受け取り方を変えれば解釈のしかたなどいくらでもある。例えばなかなか決断できないことを、優柔不断ともいえるし、慎重な性格とも言える。中学の時理科の授業の中である実験をやった。血液型による特徴を並べて、それが自分にあっているかと言うことだった。8割ぐらいの生徒は自分にあっていると手を挙げた。しかしその項目は実は、本に載っていた4つの血液型の特徴を混ぜてばらばらにしたものだった。おかしいと思ったら同じことをやってみてください。絶対に違う血液型の特徴でも半分ぐらいは当てはまるはずです。なんだかんだ書いたが、別に血液型占いをインチキだから抹殺しようと言うわけではない。要はそのことを先入観として受け入れ、その人を判断することに危険があると言うことだ。以前ある企業が血液型も入社に関する判断材料にしていると言うニュースがあった。○型だからこの仕事があうやあわないという判断である。あるいは初対面の人に血液型を聞いてこういう性格なんだと分析し判断をする人もいる。これらは言ってみれば血液型による差別だろう。趣味の範囲で個人が楽しむのはかまわないが、それを人に押し付けて、こういう性格だと言うのはどうかと思われる。そのうち○型の人は○国に向いていない、「不安要素だ」等という事だって起こるかもしれない。もちろんそれは想像の飛躍だとは思われるだろうが、この状態の極軽度の判断を日々行っているかもしれないと言うことを不快に思う。ちなみに私は初対面の人に血液型を聞かれても適当にごまかして絶対に教えない。今度は占いについて。長い歴史を持っているのだからそれなりの根拠もあるだろうし、中には本当に力のある人もいるだろう。私はそんな人を見たことがないが。まず占いに本当に力があるのなら、あいまいなことではなく、きちんと言って欲しい。よくある話だが、日本で近いうちに地震が起きると言う。この予想は大抵当たる。なぜなら日本は地震国であっちこっちで地震はよく起きているからだ。地震話で言うのなら、最低限都道府県単位で場所は特定して欲しいし、日にちもせめて前後2日ぐらいで当てて欲しい。これだって甘い条件だと思う。本当に力があるのなら、出来事を特定できるはずだから。あるいはきちんと当たったかどうかの確立を実証していただきたい。地震が起きるかどうかを1回当てただけで占い師なら、地震科学者はみんなすばらしい占い師と言うことになる。たいてい当たらなかったことについてというか、あたらない占い家については興味をほとんどの人が持っていない。何かの加減で当たると急に興味を持ちメディアで注目されるようになる。プロを名乗るなら少なくとも自分の占いに対し5割程度の成功率は持っていてもらいたい。最近テレビでレギュラー番組を持っている占い師がいる。見たことはないがはっきり言うのが特徴らしい。はっきり言ってくれるのは結構だが、当たらなかったことに対して責任を持つのだろうか。これが例えば証券会社に勤める営業マンだったら見込み違いで何度も連続してお客様に損をさせたらそれなりの責任を取って部署転換になるだろう。だが私は占いの結果に対して責任をとる占い師と言うのは聞いたことがない。彼らは好き勝手なことを言うが外れたことに対しては、常套文句「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と逃げる。占いを信じるのは個人の勝手で別にそれをどうこう言うつもりはない。私は占い師がプロであると言う意識があるのなら、自分の占いの結果に責任を持って欲しいと言うことが、言いたいだけである。
2004年09月20日
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就職していろいろな人にあった。常にプリプリしている人も穏やかな人もいた。まー人間色々と言うことが身にしみて解った。今日はそんな中でも私が一番この人に出会えてよかった、という人について書こう。1年目はOJTとして3箇所を回った。一回目はレストラン。二回目は温泉担当。3回目はフロント業務及びレストランだった。3回目に出会った人だった。名前はKさん。年は私と同い年だった。でも彼女は高卒だったのでキャリアは長いが、実は教わっている私の方が給料が高かった。私は働いてしまえば高卒も大卒も関係ないと思っている。しかし給料の差は気になった。一度そのことを思い切って聞いたが気にしてもしょうがないない、といって笑っていた。彼女はどんな人だったんだろう?優しい人だった。いつもニコニコしていた。私は仕事に慣れるまで時間のかかる人間である。要領が悪いと言うこと。メモに書かないと忘れるし、書いても慣れるまでは2・3日はかかる人間だ。別に手を抜いているわけじゃない。一生懸命やっているがそうなってしまう。そんな私だったが、彼女は嫌な顔ひとつせずに教えてくれた。フロントでも接客の練習の相手になって欲しい、と言ったら時間を見つけて相手になってくれた。何か仕事で失敗して、落ち込んでいても、彼女と話していると気持ちが楽になった。こんなことを書くと彼女のことを好きだったの、と思われるかもしれないが、恋愛感情として好きと言う事はなかった。尊敬する先輩、一緒に仕事をする職場の同僚として大好きだった。こんなことを書いていいかは解らないが、サービス業の女性スタッフと言うのは自己主張が激しく、あまりやわらかい印象と言うのは、裏では見せない。普段ゲストと接して気を使うのが原因だと思うが、気の強い女性が多い。はっきり言って私は女性スタッフの中で怖い人も何人もいた。気の短い人、すぐに怒鳴る人色々いた。その中で彼女はそういうところが一切なかった。彼女には仕事のことだけでなく、他のことにも色々相談に乗ってもらった。一番印象に残っているのは当時好きだった人に告白した時のことだった。たまたま彼女が○さん来てるよと言ったので、思い切ってその時告白した。結局そのときも振られてしまったのだけれど、彼女の前で泣いたことを覚えている。あの時いてくれた本当に良かったよ。仕事だけでなく、プライベートのことにも相談に乗ってくれる人だった。OJTが終わって彼女とは職場が別になったが、別と言っても同じ建物内だったのでよくあった。近況をお互いはなしたり、あほな話もたくさんした。彼女は私よりも1年早くやめた。最後に2人でご飯を食べてカラオケに行ったことはよく覚えている。あの人にあえて本当に良かった。こんなこと書いてたら無性に会いたくなったよ。あうのは無理だけど、メールでも打ってみようかな。そういえば彼女がやめた3ヵ月後に一度会った。私は休職中で気分転換に黒部ダムを見に行った。そこで電話したら彼女の実家が近くだったので、会うことになった。温泉で待ち合わせして畳の上でだべって、ご飯食べに行った。良い思い出になりました。ありがとうKさん。またいつかお会いしたいです。
2004年09月19日
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今日と言うかもう昨日になってしまったが、更新できませんでしたー。何故なら出かけていて帰ってきたら19日になっていたから・・・だから今日は出かけたことについて書こう。今日は前にも書いた大学時代からの友達の(11月に結婚する予定)車に乗ってお出かけした。始めに葛西臨海公園に行って来た。私はマグロの泳ぐところ大好き人間。水槽の前にへばりついてボーっと見ていた。楽しかった。しかしあそこで泳いでいるマグロは運動不足で食べてもおいしくないだろうなー・・・友達の奥方の方はペンギン大好き人間。何と家にはペンギン辞典まである。ビックリ!。3人一緒になってペンギンの生態観察。なかなか興味深い。写真をパチリ。その後はまたドライブして映画を見に行った。バイオハザード2を見に行った。全体的な感想は50点ぐらい。だんだん人間離れしていくからどうも感情移入ができません。アクション性が強すぎて物語好きの私には少し不向きだったかも。それからジルがタバコをすうところは見たくなかった。その後は旦那の運転する車で1時間ぐらいかけてご飯を食べに行った。カニピラフいとうまし。店員のお兄さんがやたら気合が入りすぎておかしかった。あれでもう少し肩の力を抜けばいい店員になれると思うよ(もとレストラン勤務は語る)結局その後また新居にお邪魔してしまった。昔の写真なんかを見せてもらった。懐かしいのもあれば知らない写真もあって、よろし。結局終電を過ぎるまでいてしまったので、旦那に私の最寄り駅まで送ってもらった。ありがとう。また遅くまでいてしまった。ごめんなさい
2004年09月18日
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今日ヤフーのスポーツ欄を見ていたらハルウララが放牧に出されたことに関して、調教師、高知県競馬関係者、馬主の間で対立が起きていることが報じられていた。このことについて書いてみたい。馬主サイドがハルウララを放牧に出すことに関し調教師サイドが反対し、その挙句に馬主が一方的に放牧に出してしまったらしい。放牧について簡単に説明すると、疲れのたまった馬や、調子が上がらない馬を、広い牧場に休養に出し、リフレッシュさせる効果があると言われ、一般的に馬の管理としては良く使われる方法である。馬主サイドは引退時期の決まったハルウララを一度リフレッシュさせ、引退レースに備えると言う意図が合ったらしい。それに対し、調教師側と競馬関係者がハルウララをファンの多い馬だから、レースに使いたいと言って反発したらしい。ここにいくつかの疑問点が生じる。その疑問をいくつか挙げる前に競馬界の常識を知っていただきたい。そもそもハルウララは100連敗をして有名になった馬である。通常この成績を残した馬はどうなるか。普通ならとっくの昔に競走馬引退である。10連敗もした時点で引退となってもおかしくない。引退した馬はどうなるか。牝馬なら成績が残せなくても繁殖入りされる場合が多い。だが牡馬は表向き乗馬に転向とあるが、その実態は食用、つまり肉屋行きである。競走馬とは、本来良い成績を残すことによって賞金を得て、馬主や調教師などに還元されることを目的とされている。あるいは名声や、歴史に残すことなどもその副産物として生じる。しかしハルウララは競走馬の前提に反し負け続けることによって有名になり全国区の馬に、高知競馬に富をもたらした。そもそもここに矛盾が生じ、さまざまな疑問が生まれる元となった。地方競馬にはあまり詳しくないがJRAには次の内容の条文がある。「勝つ気のない馬を出走させてはならない」まずこの条文に触れる可能性がある。表向き調教師が出走に際し、勝つ気がないとは言わないだろう。だがその出走を見る限りその気があるとは思えない。ただファンを呼ぶための客寄せパンダとして使われているとしか思えない。馬優先主義と言う言葉がある。JRAの有名調教師が言った言葉である。馬の体調や出走するレースの適正を見極めた上でそのレースを使うと言う意味である。つまり勝てる条件を探し、無駄に使うことはしないと言うことである。ハルウララは高齢である。人間で言えば中年から老年の年である。その状態でこれ以上の上積みがあるとは思えない。少しでも競馬をかじった方なら誰でもわかることだろう。では何故使うのか、走ればマスコミやそれを見た人間が競馬場に来て高知競馬の売り上げ増につながるからである。高知競馬関係者や調教師はファンが多い馬だからなるべく多く走ってもらいたい、と言うことを言っている。そもそも競馬の意味を履き違えているとしか思えない。競馬は前述したことにより勝つことが何よりも求められる。確かにハルウララは賞金以外にも入場収入、グッズ関連収入など巨額の利益を上げている。この1頭のおかげで高知競馬の財政がかなり上向いたと言う事実がある。しかしそれが本来競走馬のあるべき姿から外れていることは事実である。ファンの多い馬だからできるだけ多く走ってもらいたいと言う競馬場関係者、疲れのたまっているようだから放牧に出して休ませようと言うオーナ。どちらが正しいのだろうか?馬が経済動物と言う観念に立てば競馬場関係者の方が正しいといえるだろう。疲れがたまっているようだから休養させて、引退レースに備える、これは馬優先主義の観点に立てば、正しい行動と言える。(今までのオーナ側の行動は経済動物の観念によると思うが)どちらが正しいとは言わないがハルウララが競馬の枠からはずれ別の次元で有名になってしまったことだけは事実である。以前私が住んでいた軽井沢では火山灰が多く降っているようだ。6時のニュースで見たがえらいことになっていた。6月まで温泉に勤務していたが、露天風呂はどうなっているのだろう。灰が水に溶けたらどうしようもないだろう???
2004年09月17日
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今日は高校生活について書いてみよう。越谷市にある私立D高校に入学した私である。高校に入学した時は母親がまだ入院していたので、なかなか明るい気分になれず、友達もできなかった。もともと他人と友達になるのがあんまりうまくないせいもあっただろう。5月ぐらいから仲の良い友人が2人できた。高校生の時はいろいろ印象に残ったことがあった。入学してすぐびびったことがあった。英語の授業の時、後に友達になるM君が(彼はとても頭が良かった)机から足を通路に放り出すように座っていたので先生が「M、なんで足出してるんだ」と聞いたら、彼は平然と「長いからです。」と答えた。何故かそれについては先生は何も言わなかった。この時クラスのみんなは、「Mさん」と呼ばなきゃいけないかもと思ったらしい。この時M君に注意した先生は英語のI先生だったが、とても面白い先生だった。先生はテストの時期になると毎回「ここテストに出るよ」と言ってポイントを教えてくれた。そして授業も講義形式で生徒が指名されることもなかったので、誰も予習などしていなかった。そして本当にそのポイントが出るのでテストはかなり平均点が高かった。もう一人世界史のT先生はかなりおかしかった。最初の授業の時「僕はギリシャの空気になりたい」と言っていた。みんな唖然としていた。ちなみにこの先生は2年と3年の時担任だった。テストと言えば友達になった2人のうちY君は一回目のテストで学年20番だった。ちなみに1学年380人ぐらいいた。私は120番ぐらいだった。次のテストから3人でテストの成績を争うようになった。ちなみに1番悪かった人が「バカ王」というありがたくない称号を得ることになっていた(でも本当はみんな常に50番以内だったのでバカではない)結局「バカ王」対決はY君と私の痛みわけで、もう一人のH君は結局一度もバカ王にならなかった。私は何故か高校1年の三学期のテスト前に開眼してしまった。なんとなくテストに出るポイントがわかるようになってしまった。授業をきちんと聞いていれば解るが・・・最後の試験ではクラスで2位、学年で6位だった。めでたくバカ王の地位からは抜け出した。高校2年になった時私はまたもやクラスで友達がいなくなった。学年で9クラスあったのだが、進級時のクラス替えにより、1年の時の男子生徒は一人も同じクラスにならなかった。とても寂しかったよ・・・その時私は何故か思った、このクラスで1年トップを取ってやると。でも5月には友達ができて6人ぐらいのグループを作っていた。このクラスはクラス中の仲が良くて、とても楽しいクラスだった。今になって思えばあのクラスになって本当に良かった。ちなみに当時のグループの一人のS君とは現在も連絡を取り合っている。グループの中のS君とは特に仲が良かった。2人でZガンダムの話をしたり、好きな人の話をしたり、勉強をしていた。当初の私の目標トップを取り続けるのライバルになったのはS君だった。でも別に敵視したり、邪魔したりと言うことは一切なかった。いつも2人は仲良しだった。けんかも1度もしなかった。結局目標どおり1年間でトップを取り続けることはできた。しかし最高順位は学年4位だった。そこから上の壁はどうしても破れなかった。ちなみに1年から3年まで学年トップを取り続けたI君とは後に大学で友達になった。高校2年生の最大の出来事は、初めて女性にきちんと「好き」と言う気持ちを伝えたこと。結果は振られてしまったけどね・・・彼女は学級委員をやっていた。と言っても2学期になるまでまったくその存在は頭の中になかった。2学期に席替えした時彼女の隣になったことから、急速に惹かれていった。なにより性格が良かった。中学ぐらいからほとんど女性と話していなかった私だが、それまでの分を取り返すほど彼女とおしゃべりをしていた。もちろん相手もたくさんのことを話した。数学の時間問題が出されるとさっさとその問題を解いて、ずっと彼女の横顔を見ていた。そして彼女が問題を解くとルンルンとした気分で答えあわせをしていた。今思えば「私が彼女を好き」ということはクラス中にばれていただろう。1時期理由があって彼女と話をすることができなかった。誤解と彼女を好きだった男の横槍だった。悲しい思いをしたけれど、それでも好きだった。ある時彼女が悩んでいるということに気がついた。何か様子がおかしいと思っていたのだけれど、共通の友達に相談してみるとやはり問題を抱えていて悩んでいるようだった。休み時間のたびに廊下のの窓から外を眺めてため息をついていた。何をしたらいいか解らなかった。何をすれば助けてあげられるのか解らなかった。しかも私は彼女とは依然話せる状況ではなかった。彼女が窓を見ている時に「どうしたの、何かあるなら聞くだけはできるよ」と言うのが精一杯だった。それに対して「ありがとう」と笑って微笑みを返してくれたのがうれしかった。それをきっかけに徐々にではあるが再び話せるようになった。12月のある日彼女に告白した。といっても手紙だったけどね。初めて書いたラブレターだった。失敗したけどね。返事のあった翌日朝彼女に会った。(ちなみにわたしとS君はいつも学校に来るのが早くて、常に教室1番のりだった)彼女は僕らの後すぐに来た。部屋には3人しかいなかった。S君には教室の電気をつけてもらうことにして彼女と少しお話した。2人は結局その後でもよくおしゃべりをしていた。2年生の文化祭ではオカマバーをやった。本当にやりたい放題である。学校全体がそういう雰囲気で、校則なんてものは「制服を着て来い」ぐらいだった。勉強しろとも特に言われない。そのせいかD高校は偏差値吸収高校という呼び名がついていた。入る時はそれなりなのに卒業する時は、バカになっているということである。オカマバーでは何故か最優秀オカマに選ばれた。ちっともうれしくないよ。高校2年生の時は英語のM先生が面白かった。非常に落ち着きがない先生で、毎回ドモッていた。英文の訳を先生が読むわけだが、「先生、もう一度お願いします」というと毎回訳が違っていた。そのことをある日思い切ってたずねると、「感じ方が大切だな」と言っていた。ある日予習を忘れた私がさされるはずのない日に指され、その場でしどろもどろしながら答えると「何言ってるか、良くわからないぞ」と言われた。クラス中の笑いものになってしまった。その授業のあと、グループのみんなで話したが、先生のいってることも良くわからない、と言う結論に達した。楽しい先生だったよ3年になると私の生活は一変した。私は精神的な問題から授業に出られなくなってしまった。別に発狂したとか、気が狂ったわけではない。少し事情があっただけ。もちろん見る間に成績は急降下した。それでも留年と推薦の条件だけはクリアするべく1学期はがんばった。私の高校は今では中学校から大学までエスカレーターだが当時は、高校から大学までエスカレーターだった。もちろんそれなりの成績をとることが条件だった。推薦に影響される成績は3年の1学期までそれまでは何とか成績を維持しなくてはならなかった。ほとんど授業に出ていなかったが、今までの貯金と友人に借りたノートで何とか乗り切った。2学期にはいってからはもう駄目だった。気持ちが切れた上に、授業にも出ていなかったのでもう限界だった。テストの平均点は15点ぐらいになった。先生にも色々言われたが、どうすることもできなかった。幸い1学期の間にためた成績で留年はないことだけは確定していたことが幸いした。この時はそれまで生きていた中で一番辛かった。結局大学の推薦試験を何とか乗り切り、無事に草加にあるD大学に進学することができた。そのうち大学生活についても書きます。いつになるかわからないけど・・・祝2000アクセス
2004年09月16日
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今日は疲れてだるいや。何にも書く気にならない。こういう日は何やっても駄目以上。明日はきっと高校生活編になるだろう・・・
2004年09月15日
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今日は中学校時代について書こう。結局私は町の公立中学に進学した。M中学校は当時野球が強いので有名だった。中学校では何をしたんだろう。運動会(体育祭ではなかった)では何故かラジオ体操にやたら力を入れていた。全校生徒の動きがそろわないと、あほみたいに何回でもやらされた。1時間ぐらいラジオ体操第2を延々毎日やらされていた。今思えばあれに何の意味があったんだろう。そんなに生徒に言うなら教師たちのきちっとそろったラジオ体操を見せて欲しいものだ・・・後は2・3年生の時はお決まりの組体操をやらされた。これもあほみたいにそろえることに命を懸けていた。本当に何の意味があるんだろうね???中学校1年生の時は何にもなかったような気がする。あんまり印象にないな。まー平凡に暮らしていたんでしょう。中学校2年の時は学級委員をやった。というかやらされたに近いものがある。一様民主的に投票が行われたが当選してしまった・・・この時は学年の体験合宿みたいなものの実行委員会をやった。あんまり真面目にやらなかった。手は抜かないけど分担された仕事をやるだけ。自分から積極的に何かをやろうと言う気にはならなかった。3年生の時は進路をめぐって3者面談が行われた事を覚えている。3年の時の担任との相性は最悪だった。何かホームルームで言うたびに「何言ってんのこの人」と思っていた。「一度担任の苦労を味わえ」というわけのわからん意図で高校に出す「内申書」を書かされた。まったくもって意味が解らなかった。「あなたはお金をもらって教師という仕事をやっているんでしょ。それを書くのが苦労ならやめれば」と思っていた。そしてそしてその宿題を忘れていたフリをして結局出さなかった。三者面談では何かほざいていたが、わが方の目的はただひとつ、担任が受験校を受けさせないという言質を取ることだけだった。うまいこと親と2人で誘導してその言葉は口に出させることに成功した。いよいよ受験シーズンを迎えたわけだが私は通っていた塾に歴史をひとつ作ってしまった。小学校から引き続き同じ塾に通っていた。春日部にある野球で有名なK高校を滑り止めで受けたのだが、落ちてしまった。その後に越谷にある本命の私立D高校を受けたが受かってしまった。当時塾の先生はK高校を落ちてD高校に受かるなんて初めてだといっていた。ちなみにK高校の偏差値は58ぐらいでD高校の偏差値は68ぐらいだった。何で受かったのだろう???特に問題はなく中学生活は過ぎていったが3年の3月にとんでもないどんでん返しが待っていた。母親が大腸ガンになった。幸い発見されたのが早くて手術は成功し、事なきを得た。4月の下旬ぐらいまで入院していた。
2004年09月14日
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今日は小学校時代について書こう。きっと明日は中学校生活について書くことだろう。小学校生活。懐かしいな。もう何年前だろう。20年ぐらい前の話だ、私が入学したのは。私の小学校は家から歩いて30分ぐらいのところにあった。子供の足で30分は今考えれば、結構な距離だよな。よくそれを6年間も続けたもんだ。選択の余地はなかったけれど。埼玉県のとある町にある私の小学校はひどく変わった形をしていた。普通の鉄筋の校舎ではなく、木をふんだんに使った校舎だった。普通の学校の3倍ぐらいお金がかかったらしい。ついでに言えば近くには動物園があった。変わった格好の私の小学校は、動物園に行く人が、よく動物園の1部だと思って校舎に入ってきた。ここまで書くと近くに住んでいる人はもう解るだろう。私の学校では算数に力を入れているらしかった。普通の授業ならその日のポイントを黒板に書いてそれを元に問題を解くという形だろう。私の学校ではいきなり問題の書いたプリントが配られ「さーやってみろ」という感じだった。そして授業の最後になってようやくその日のポイントを教えるという形だった。そういえばよく研究授業が行われていた。1月に1回は会ったんじゃないかな。それだけ近隣では評価されていたのだろうか?私の小学校では変わっていて給食が6年生になるまでなかった。ちなみにテストも私が6年生になるまで学校としてなかった。ついでに言えば夏休みの宿題も読書感想文ぐらいしかなかった。もうないないづくしだ。小学校の時は周りからは頭が良いと思われていたみたいだ。でも所詮小学生同士だから、ちょっと勉強すれば良い成績なんて取れてしまうけどね。私は小学校4年生までは公文と水泳とピアノ教室に通っていた。公文ではバリバリ飛ばしていて、小4にして中3ぐらい問題を解いていた。パズルみたいで楽しくてすいすい飛ばしていた。水泳はその時にはもう全種類の泳ぎができるようになっていた。体育の授業では水泳が楽しみだった。ピアノはだいたいブルグミュラーまで終わらせていた。今ではあんまり弾けないけど。なんかこうやって書くとすごいできる人間に見えてくる。けどそんなことはまったくないので・・・小学校の時は今と違ってかなり感情の起伏が激しかったらしい。クラスの子とちょっとしたことでけんかしたり、殴り合いもやった。といっても弱くて大抵負けたけど。それにできないことがあるとすぐに頭にくるところがあった。ゆっくりやれば解けるけど、頭にきているのでなかなか解けないことがたくさんあった。そんな私は4年生の途中から確か夏期講習から、隣の市にある○○ゼミナールに通い始めた。当然のことながら自分から行きたいなんて言い出したわけではなく、親が行けというから行っただけの話。けれどそこでの勉強は楽しかった。学校の授業より何倍も楽しかった。だから塾に行くのは楽しみだった。6年生の時突然受験クラスに入れられそうになった。塾での成績がそれなりに良かった私は、塾の側から中学受験を勧められた。どうしようかと悩んだが結局受験はしなかった。別に理由があるわけではないが、嫌だった。強いて言えば今以上に勉強しなくてはいけない、ということから逃げ出したかった。今思えばそれでよかったと思う。なぜなら当時の私は集中力の持続時間があまりにも短かったから。今でもあんまり長くないけど・・・結局塾のクラスは今まで通りに続けることにした。勉強することは相変わらず楽しかった。探究心が強いのだろうか?初めて誰かを好きになったのは小学校2年生の時だった。でも本当に女性として好きだったかは解らない。友達として好きだったのかもしれない???今ではもう解らないけど。同じクラスのYさんだった。何故か相手も私のことが好きで2人でよく一緒に学校から帰ったものだった。その子は結局3年生になる前に引っ越してしまった。どこに引っ越したかは知らない。小学校で一番思い出に残っていることは、なんだろう・・・昔のことだし、あんまり覚えていない。ま、いっか。そのうち思い出すでしょ。そういえば、渡辺美里のサマータイムブルースが好きで毎日寝る前に聞いていた。それがはじめて買ったCDだった。今日は姉の子供がまた家にやってきた。相変わらず私になつかなかった。今日は初めて物を渡されたけど、取り替えた後のよだれベトベトのよだれかけだった。
2004年09月13日
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今日は感動について書くことにします。最近はテレビのスポーツ中継や色々なドキュメンタリー番組で「感動します」「感動しました」と言う言葉が多く使われている気がする。私の子供の時と比べると明らかに多くなっている気がする。それに疑問を感じる。ドキュメンタリー番組を見ていると、美しい自然、あるいはその地での住民との出会い、別れなどに関していちいち感動しました、等と出演者がコメントをする。ひどいものになるとその番組の宣伝CMにおいて「感動間違いなし」と紹介されることすらある。これらを見ていると感動することを強要されている気にすらなる。感動とは自然にするものであって、感動、感動と言われ続けてするものではない。それに感動とはそんなにホイホイするものだろうか?感動とは心が感じて揺り動かされるものである。おかしいと思うのは私だけだろか?次にスポーツ中継について。アテネオリンピックが今夏行われた。体操の団体金メダルという久々の快挙があった。その時の実況は名実況として何度も放送されている。「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」「日本また日は昇る」すばらしい名実況だと思う。ここに感動と言う言葉が入るとどうなるか。。「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ。感動的です」となると突然陳腐な出来事に思えてしまうのは私だけだろうか。何故こんなにも「感動」と言う言葉が使われるのだろう。その一言を使うことで伝えたいことが簡単に伝えられると言うことがあるのではないだろうか?最も、簡単に伝えられると言うことは、そのまま伝えたいことが俗化されてしまうことを意味すると思うが。つまり伝えたいこと、その時起きた現実を視聴者に伝えることに関する能力の不足ではないか?便利な言葉が使われることは悪いことだとは言わない。しかしアナウンサーがプロであることを目指すならば、安易な言葉一つで片付けてしまうことを疑問に思う。アナウンサーとは言葉のプロである。プロであるならば事実を自分の言葉できちんとまとめる必要があるのではないか?今日の晩御飯スーパーで手巻き寿司を買ってきた。店員に確認して買ったのに、「わさび」が入っていた。わさびはいってますか?って聞いたのに。私はわさびが食べられない。アレルギーではなく味覚の問題で。そういうと子供っぽいと言われるが、どうしてわさびを食べられないと子供なの?人の好みなんてそれぞれでしょ?甘いものが食べられない人は何か言われる?それと同じこと。しかしもし私がわさびアレルギーを持っていて死んでいたらあの店どうするつもりだったんだろう。どうやって責任を取るのだろう?人の口の中に入るものを扱っているんだから、きちんと確認して欲しいよ・・・
2004年09月12日
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今日は雑誌や新聞に載っていたり、テレビでスポットCMされる商品について書こうと思います。特に健康食品といわれているものについて考えてみたい。例として、「○○茸」の宣伝などは最近良く目にかけます。大抵うたい文句には「医者もあきらめていたのに」「私はこれで癌が治った」や「持病が良くなった」などという風にかかれています。これで効力が本当にあって、実際に効きますよ、と言うことをアピールしているわけだが・・・大いに疑問がある。まず最初にその人間が実在するかである。そこまで疑うのと思われるかもしれないが、自分の健康に関するものを、安くはない値段で買うのである。商品説明を疑いもなく信じるほうがおかしいと思う。本当にいるか、いないかはわからない。なぜなら販売元に聞いたところで、「実在します」と言うに決まっているし、直接話を聞きたい、と頼んだところで「プライバシー云々」で会えるわけがないからだ。このままでは議論が進まないので、100歩譲って実在したとする。しかし疑問はまだ続く。仮にその人物が実在して、その人の病気が治っていたとする。しかしその人間は何人いるのだろうか?つまり何人がその商品を購入して、何人が直ったのだろうか?例えば100人直った人がいたとする。それを誇らしげに書いていたとする。あなたはきっと100人も直ったのか、きっとそれなら効果があるに違いないと思うだろう。しかし何人のうちの100人なんだろう。これが100人利用して100人直っていたなら信憑性は疑いないだろう。何しろ効果は100%発揮されているのだから。しかしどこにも何人が総計で利用したとは書いていない。仮に10000人が利用していたとするとその効果はたったの1パーセントに過ぎない。では何故効果のあった事例を%で示さないのだろうか?簡単である。不当表示になってしまうからだ。本当は1%しか直っていなかったとする。それを誇張して80%の人が直ったと表示したら不当表示になる。かといって事実の通り1%しか直っていなかったとしたら、誰がそんな商品を買うだろう。つまり抜け道を突いて、直った人数だけを実績として書いているのである。それでもなおその商品を信じている人がいたとする。ならば次のような疑問をあげたい?ならば何故それが医薬品として認可をとらないかである。そんなに商品に実績があるのなら、臨床試験を行い、データーをまとめ厚生省に申告すべきだろう。健康食品として売るよりも、医薬品として売る方が、信頼ははるかに高まるし、病気の治療薬としてさまざまな場面でもっと利用され売上高は伸びるだろう。薬として売ると、値段が高くなるのではないかと思われるだろう?逆である、厚生省にきちんと認められた薬なら、病院で使用されれば健康保険が適用となり負担率は3割程度になる。採用されたばかりでは開発料が薬の価格に上乗せされるかもしれないが、やがて値段は落ち着く。販売元には何も損はない。確かに直ることもあるかもしれない。だが直る人のほうがまれである。「直らなかった時に料金を返却する」あるいは「販売を中止し、再検討をする」等という措置をとっていると言うことは聞いたことがない。それらの商品の中には確かに科学では解明されていないが、効果が実際にあるものも存在するかもしれない。しかし「溺れる者はわらをもつかむ」と言う言葉が私にはどうしても引っかかる。
2004年09月11日
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今日は手抜き日記。書く材料が頭に浮かんでこないのと、出かけていたから。今日は友人の家にお邪魔した。11月に結婚する二人で、二人とも大学時代からの親友。旦那の方は仕事で会えなかったけど、奥さんと(でも待てよ二人はまだ結婚してないからこの表現はおかしいか???)会ってお話をしてきた。久々に会う友達はいいねー。曇っていた心が暖かくなったよ。遅くまでお邪魔してゴメンナサイ。お幸せにね。
2004年09月10日
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今日は昨日読んだ momomaicoさんの日記に触発され捕鯨問題を書くことにしよう。と言ってもちゃんと勉強したわけじゃないから、自信はないけど・・・参考文献 おいしんぼ(主人公は山岡というが私の苗字も山岡・・・)捕鯨については毎年何頭鯨を取っていいかと言うことを国際捕鯨委員会(だったような気がした)で会議を開き決められる。捕鯨国と非捕鯨国が参加しているこの会議では毎年のように議論が紛糾している。ここでは協会ができて以来、商業捕鯨はほとんど認めておらずごくわずかの量が調査捕鯨と称してとることを認められている。今まで捕鯨していた国は当然とることを要求する。一方反捕鯨国は何を根拠に捕鯨を認めようとしないのだろう。彼らの言い分は大体こんなところに落ち着く。「鯨の数が減っていてこのままでは絶滅してしまう」この説は果たして正しいのだろうか?正確な統計は見ていないが少なくとも捕鯨が禁止されている種類に限っては数は増えている。それにもかかわらず彼らは捕鯨禁止を主張する。彼らの背後にあるものはなんだろか?日本でもそうだがあることを主張するとそれに共感した人間が支持母体を作る。例えば建設業者と自民党道路族などはわかりやすい例だろう。道路族は本当に国家の利益になるかはかまわず、業界の為に工事を発注する。これと同じことが考えられるのではないか。反捕鯨国には捕鯨を禁止することを主張する熱狂的な市民グループが存在する。彼らの主張はただひとつ鯨を保護することである。つまり殺すなと言うことだ。そこには実際の数問題などは関係ない。では何故反捕鯨を主張するのだろうか?1、鯨好き鯨をただ単に好きだという意見。彼らは鯨は頭が良い。人間の次に頭が良い。だから殺してはならないと言う。2、鯨を取ることは残酷あんなに頭が良い鯨を取ることは野蛮で、残酷だと言う意見それぞれについて反論をする。まず鯨が頭がいいから殺してはならないと言う意見。それがどうしたと言いたい。頭がいいから殺してはいけなくて、頭が悪いから殺していいのだろうか。人間世界に置き換えてみよう。ナチスはゲルマン民族は優れている、そのほかの民族は劣っているから排除すべきだと言う論理をかざし、虐殺を行った。あるいは白人は黒人の肌の色だけで差別をし、奴隷として扱った。これと同じレベルの破綻した論理である。人種差別的な考えと似たものがあるだろう。残酷だから殺してはならない。この意見にも疑問符が付く。何故鯨を取ることだけが残酷なのだろうか。例えばアメリカでは多くの肉牛が飼育されているがそれを殺して食べることは残酷ではないのだろうか?この考えにあるものは文化の相違である。例えば明治時代西洋人が日本に来た時、彼らが家畜を殺し食べているのを見て、日本人たちは残酷だと感じたらしい。今のわれわれがこれを見たらどうだろうか?牛を食べることに何の抵抗感もない。では何故家畜を殺すことを残酷と思ったのか?それが今までの日本にはない文化だったからである。もっとわかりやすい例でいこう。例えばテレビのオーストラリア紹介番組で罰ゲームが用意されていたとする。罰ゲームは芋虫を食べること。芋虫はアボリジニ(オーストラリアの先住民)にとっては貴重な食料のひとつである。その罰ゲームにあったタレントはもちろん嫌がるし、テレビの前のあなたも野蛮だと思うだろう。これこそが異文化に対する忌避である。人間は異文化の生活に立ち会うと、自分の文化にないものに対しては大抵違和感を覚えるものである。もっとひどい場合は拒否反応さえも示す。反捕鯨の根底にあるものは何だろう?私は文化の相違だと考える。書いてきたとおりである。ならばどのようにしたら捕鯨を以前のように再開できるのだろうか?これは難しいと思える。なぜなら以前の様に日本人にとって鯨を食べることが身近ではなくなってしまったからだ。以前は給食にさえ鯨が出ていたらしい。この一年間で鯨を食べたことがある人があなたの周囲に何人いるだろう?おそらく探すのは至難の業だろう。このままでは鯨を食べることを望む人間は減っていく一方である。何しろ食べたことがないのだから。それはつまり捕鯨再開に対する要求が下火になっていくことを意味する。文化と言うものは、長い時代をかけて作られる物である。日本の伝統的な文化は、過去外来の文化の多くの影響を受けて育ってきた、この問題に関しては外来の文化の影響を受け消えていってしまうのだろうか・・・あんまりうまくかけなかった。もう少し勉強しないと駄目だ今日は2週間に1回の病院の日だった。なんだか前回行ったときと比べて症状がちっとも良くなってない。薬の量は増える一方だし。たまに薬は変わるけど、前に飲んだことありますか?って聞かれても覚えてないし・・・いっそのこと見切り発車でも社会復帰した方がいいのだろうか?でも駄目だったら健康保険もらえなくなるし。沈没状態から潜水艦状態になって浮上していく間にも適用される保険があればいいのに・・・甘えてるのかな???
2004年09月09日
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最近かたいことばかり書いてきたので、今日は毛色の違うことを書いてみよう.19世紀のイギリス人作家 William Makepeace Thackeray(ウィリアム・メークピース・サッカレー)は次のような言葉を残している。とても有名な言葉だ。ちなみに私はこの言葉を「少年ジャンプ」の「ジョジョの奇妙な冒険」で知った。そういえば昔大学でサッカレーに関する講義を聴いた。確か英米文学の歴史のイギリス部門だった。代表作は「虚栄の市」内容は・・・忘れた愛してその人を得ることは最上である愛してその人を失うことはその次に良い長い間原文を探していたがなかなか見つけられなかった。昨日やっと見つけました。英語の原文では以下のようになるTo love and win is the best thing.To love and lose,the next best今日はこの事について書いてみよう。どういう意味なんだろう?「愛してその人を得ることは最上である」と言う部分は、すぐになるほどとうなずける。問題は次の「その人を失うことはその次に良い」と言う部分である。この文言は色々と私を昔から悩ませてきた。長年悩んでいくつか解釈を得たのでいくつか書いてみよう。本当にその発言の真意を知ろうとしたら、その言葉の前後や時代背景、作家の生涯についても調べなくてはならないのだけれどね・・・1、その人を現実世界で失ったとする。すると自分の心の中ではその人は生き続ける。みもふたもない意見になりそうな気がしてきた・・・心の中で生き続けるその人はどうなるか?次第に美化されていく。言葉を変えれば自分の都合の良い人間へと変化し、思い出は美しいものになっていく。現実世界においては言葉を交わすことはできないが、美化されたその人は心の中で、自分が忘れるまで生き続ける。2、今まで一緒にいた愛しい人、その人を失う。その人との別れ。理由は色々あるだろう。けれど分かれたことによって新しい自分と向き合わねばならない。今までの自分とは違う自分、それを見つけることができる。新しい人生の出発を迎えることができる。ちょっと苦しい解釈こんな解釈をしてみた、という意見のある方は是非コメントを。いろんな解釈を聞いてみたいです。ついでだから原文についても解釈してみようTo love and win is the best thing.To love and lose,the next bestその人を得ることは「win」と表現されている。正確に言うと「win」をその人を得ると解釈しているのだけど。「get」じゃないんだ・・・そうか愛は手に入れるものではなくて、勝ち取るものなんだ。「win」に対して「lose」か。反対の言葉を使ったんだね。無くすことであり、負けるものなんだ。ちなみに言語学は手を抜いていたからいい加減な評論です。言葉を国境を越えて伝えることはとても難しいですね。今読み返してみたけど、原文の英語には目的語はどこにも入っていなぞ???そうするとどこから「その人」と言う言葉は来たの???やっぱり前後の文脈がないと判断できない・・・誰か教えてー
2004年09月08日
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昨日途中で挫折したことを書いてみよう。今日は最後まで書けるかな?書けなくても途中で消すのはやめておこう。色々なことを書くけど一番言いたいことは最後にまとめとこう。なお本日の日記は読む方によっては不快に感じる方もいらっしゃいますので、お気をつけください。途中で読むのが嫌になった方は、最後だけ読んでください正義と悪なんて簡単に画一化されてしまうけど、いったい誰が決めるんだろう。正義(正しいこと)悪(悪いこと)こんな風に考えられる。マスコミは正義と悪のように分けて物事を報道する。確かにそうすれば解りやすいし、理解も早い。でもそんなに簡単に決め付けていいの?そんなに物事は単純なの?そんなことない。正義と悪なんて移ろい行くものだし、立場が変われば簡単に入れ替わる。そんなことを書いてみよう。いくつか例を挙げて書いてみよう。(誤解のないようにあらかじめ言っておくが、私は過去に起きてしまったことをいまさらどうこう判断してあれは間違えているだの、正しいなど評論するつもりはない。起きてしまったことは起きてしまったことでそれを未来にどうつなげるかが重要だと思う)なにから書こう。とりあえず頭に浮かんだ十字軍のことから書いてみよう。歴史の教科書に載っている十字軍のお話。一般的に日本の教科書では次のように教えられていると思う(私が習ったのはもうずいぶん前の話だけど・・・)中世においてヨーロッパキリスト教文化圏の国々が軍隊を率いて、異教徒(イスラム教)に占領されていた聖地エルサレムを奪回するために起こした行動。このように教えられるとどのような印象を受けるだろう。悪いのは聖地を占領していたイスラム教徒だ。聖地を取り戻すために自らの命を省みず戦った人はすばらしい。このような印象を受けるだろう。だが良く考えてみて欲しい。これはキリスト教徒側から見た解釈に過ぎないのではないだろうか。十字軍はエルサレムに到達するまでに、そこに住む住民や戦った軍人を殺している。確かに聖地を取り戻すと言う目的から見れば、それは正義の行動となるだろう。しかしイスラム教徒の側から見れば、次のような解釈もできる。平和に暮らしていた自分たちの所にある日突然軍隊が攻めてきて、殺された。それに抵抗するために戦った。そして結局はエルサレムを守りきった。イスラム教徒の側から見ればある日突然攻め込んできたキリスト教徒は悪の象徴そのものである。余談だが次の例を読んで欲しい。いかに宗教が自らを正義とし異教徒を敵視しているかわかるだろう。キリスト教に従事している西洋の騎士階級の持っている剣を見て欲しい。彼らも持つ剣は日本刀とは異なりつばが横に広がっている。そしてつばと刀身によって十字架が形成されている。これは自分たちは神と共に戦っている、と言う意識の表れである。「人を殺しておいて何が神だ、キリスト教では殺人は認められていないじゃないか。」このような指摘があるだろう。そうその通りである。彼らが殺したのは異教徒である。つまり彼らにとっては異教徒は人間ではないと言うことの現れである。次はどんな例を書こう?現代の例を書いてみよう。イスラエルを中心とする中東問題である。この問題について簡単に述べると(本当に簡単に)第二次世界大戦後現在のイスラエルの地に突如それまで住んでいた民族を省みずに国が建国された。その国をめぐって周囲の国は良い感情を持たず何度か戦争が行われた。できるだけ感情を抜きにして事実を簡略化して述べるとこういうことになる。(彼らが戦うのにはもっと複雑な理由があるのだけれどね。例えば水問題等)中東問題は複雑だけど何故これが発生したかについて簡単に。そもそもイギリスの2枚舌外交である。第二次世界大戦中この地域を植民地にしていたイギリスはユダヤ人を味方につけるためユダヤ教の聖地エルサレムに彼らの国を作ることを約束した。同時に彼らは周囲のイスラム教徒にも同じようなことを約束した。大戦後アメリカを中心とする西洋諸国はイスラエルを強権を持って樹立した。こんな風にまとめることができる。イスラエル側にすればもともと彼らの聖地であるエルサレムを西洋諸国の後ろ盾の元で樹立したと言う事実が広がるのみである。彼らにしてみれば周囲のイスラム教国が攻め込んでくることは、なんら理由のない行為となるだろう。言ってみれば理不尽にも自分たちの生存権を認めずに侵略してくる「悪」と戦っていることになる。つまり彼らの理論からすればイスラエルこそ正義の象徴である。一方周辺のアラブ諸国にしてみたらどうなるだろう。突然自分たちイスラム教の聖地のひとつであるエルサレムに異教徒が乗り込んできて勝手に国を作り上げた。そして自分たちは突然そこから追い出された。彼らにしてみれば理不尽な行為そのものである。それに対しそれを認めず取り返そうとする行為は、正当な行為そのものである。例えばあなたの家に強盗が入って、強盗が住み着いたとする。あなたはどうしますか?警察に頼むなど何らかの実力行使をしますよね。それと同じことをしたに過ぎません。つまりアラブ諸国から見ればイスラエルこそ「悪」以外の何者ではないと言う結論が生まれます。(繰り返し述べますが中東問題がこんなに簡単なものではないことは、卒論で中東問題を扱った私自身が一番良く知っているので、「これはちがう」なんて怒らないでください)この中東問題で言いたかったことは「正義」「悪」と言う要素はどちらにも成立すると言うこと。しかもその出来事の要因が両者ではなく第3者になるとますます複雑に絡み合うと言うこと。次はなんにしようかな?次は太平洋戦争について書きたいと思います。太平洋戦争について色々書きますが別に日本の行動が正しかったと主張するわけではありません。一般的に太平洋戦争の原因は以下のように考えられていると思います。当時中国や朝鮮半島を始めとするアジア各地に侵略する日本から各国を解放するために、アメリカを始めとする西洋諸国が立ち上がったと。つまりこの観点から見ると各地を侵略していた日本は「悪」でありそれを開放するために立ち上がった西洋諸国は「正義」であると。果たして問題はそう簡単なものだろうか?まずは当時の日本の状況から考えていきたい当時の日本は人口が飽和状態でそのままでは国が崩壊する危機にあった。その為日本は新たなる資源、土地を手に入れるために侵出を始めた。この行為を「悪」と位置づけ西洋諸国は自らの行動は「正義」と称し戦った。ここで疑問が出てくると思う。アメリカが戦争を決意したのは日本が真珠湾に奇襲をかけたからではないか?確かに奇襲はかけた。しかしこれとて、卑怯な奇襲と言い切れるのか。日本がアメリカに攻撃を仕掛ける事を決定的にした要因それは「ハルノート」。当時のアメリカ国務長官「ハル」によって日本に提示された日本への輸入禁止を解除するための、日本への行動要求書である。このノートがいかなる類の物であったか。それは極東軍事裁判におけるインド出身の判事がこう証言している。「こんなものを突きつけられたら永世中立国とて戦線を布告するだろう」それほど日本にとっては飲むことができない条件であった。当時日本はアメリカ政府と交渉するために大使館員に暗号で連絡を取っていた。どこまで譲歩して、どこが譲歩できないかである。しかしこの暗号はアメリカによってすでに解読されていて、筒抜けであった。その上でアメリカはこの条件を持ち出した。さらに空母による「ハワイ島への奇襲」これとてアメリカは情報を得ていて防ごうと思えば防ぐことはできた。では何故防がなかったのか?簡単である。第二次世界大戦への参加の口実作りである。当時アメリカはイギリスなどから大戦に参加することを要望されていた。(イギリスはドイツの侵略に対してすでに対応するのが難しくなっていた)しかし当時のアメリカ大統領は自国が戦争に参加しないと言うことを公約として掲げていた。その為日本が攻撃してきたことに対する対応手段として日本との戦争に踏み出した。日本とドイツは同盟関係である。その為結果的にイギリスの要望に応えることができた。いわば大義名分の為に日本を挑発していたのである。日本の侵略を西洋諸国は「悪」と決め付けていたが、彼らにそれをいう資格はあったのだろうか?歴史を振り返ってもらいたい。大航海時代西洋は何を行ったか?そう彼らは太平洋や大西洋の島々アフリカ諸国、インドそれらに植民地を築いていたのである。彼らはそこで虐殺を行い征服し、あまつさえ、奴隷として彼らを売り飛ばした。またアメリカの歴史を見てみよう。彼らの繁栄の歴史はネイティブアメリカンの虐殺の歴史そのものである。そう彼らは自分たちが非難した日本の行為を、はるか前から行いそれを継続していた。泥棒が家に侵入して、物色中に後からその家に来た泥棒を非難する。こんなおかしな話はないだろう。だが太平洋戦争はまさしく、日本の侵出を防ぐために行われたのである。極東軍事裁判を見てみよう。戦勝国である西洋諸国によって日本人被告は裁かれた。戦争を犯した罪、無抵抗な人民を殺した罪etc。だが考えて欲しい。日本に原子爆弾を落としたことは罪ではないのか。「悪」ではないのか?無抵抗な人民を虐殺したことが罪であるならば、突然原子爆弾を落とし何万人の非戦闘民を殺すことは罪ではないのか?太平洋戦争を通して言いたかったことは、正義と称して行う存在が、自分たちの行為を矛盾しているのにもかかわらず、正当化することがあると言うこと。決して日本がやったことは間違いではなかったと言いたいわけではない。今日何が言いたかったか?何が正義かとは結局勝者によって決められる。歴史は勝者によって作られる。それだけを伝えたいわけではない。そんなことは私がこんな長く書かなくても誰でもわかることだろう。本当に伝えたいこと。それは、情報を入手する際の、それを正しいと信じ受け入れることの危うさである。物事が画一的に報道される、どの新聞、テレビ、雑誌を見ても同じように報道される。すると人間はそれがすべてだと思い込む傾向が強くなる。そんな大げさでもなく、隔離された集団が一定の意図に基づき情報を与えられる。それは危険なことである。確かに何も考えず流されるままの情報を受け入れることは楽だ。その結果何が生まれるか?自分の頭で判断せずにすべてを正しいものと受け入れ行動する。その結果マインドコントロールが簡単に生まれる。今日私がこんな延々と書いて言いたかったことは自らの頭で考えることの重要性である。一生懸命書きすぎて疲れた・・・こんな風に物事を考える自分は本当に嫌いだよ・・・
2004年09月07日
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例えばテレビの動物番組を見るとする。ライオン(でも良いしヒョウでも良いしトラでもいい、要は肉食なら何でも良い)が群れからはぐれてしまった子供のガゼルを襲うとする。あなたはその時どう感じますか?かわいそう・やめて・逃げろ、そんな風に感じるだろう。間違えても「いいぞ、ライオンそこだ、食え」と言う風に感じる人はいないだろう。つまりこの場面では小さなガゼルを襲うライオンは「悪の象徴である」しかしよく考えて欲しい。ライオンが子供のガゼルを襲うと言う行為は本当に悪いことなのか?命は大切だ・小さい命を襲うなんて卑怯だ。そんな風に考える人もいるだろう。でも待ってください。ライオンは何故ガゼルを襲ったの?遊ぶため・暇つぶしのため?違うよ、生きていくため。生きていくためには何かを食べなければいけない。ライオンは効率よくその食事を得るために群れの中にいる大人よりも、はぐれた子供を襲っただけの話。こう考える私は残酷なのだろうか?私を残酷な人間だと思った方も多くいるでしょう。でも待ってください。あなたは今日の晩御飯何を食べましたか?あなたは肉を食べませんでしたか?あなたはその肉をどうやって手に入れたのですか?スーパーで買った。ではそのスーパーはどうやってその肉を用意したの?そう結局は何処かで殺した動物の肉・・・自らの手を汚して肉を狩ったライオンとスーパーで肉を買った私。どう違うのですか?同じこと。命を奪ったと言う事実に何も変わりはない。私は肉を食べない、だから命を奪っていない、菜食主義の方もいるだろう。でも待ってください。植物に命はないのですか?動物は命を奪われる時に声を上げる。でも植物は畑から切り出される時には声を上げることはない。悲鳴が聞こえないから命を奪ったと言うことにはならない?それではあまりに想像力がなさ過ぎる。庭にある植物を見てください。1年もたてばその植物は大きく成長する。生きている証拠です。命は平等だ・命を奪ってはならないそんなことをいう気は毛頭ない。(もちろん生きていくうえでのお話)人間は行きていく中で、何かを犠牲にしなければ生きていけない。命を奪うことが「罪」であり「悪」ならばそのことから逃れることはできない。仏教ではそのことを「業」という。「業」を背負って生きている、それは人間だけでなく、あらゆる生き物に共通するたった一つの出来事ではなかろうか?真面目なことを書いたら疲れた。本当は今日「悪」と「正義」について書こうとしたんだけど、途中でテーマが重くなりすぎた。どうも今日の精神状態では書くことに無理があったみたい。近いうちにまた書こう。書けるかな???アクセス1000件を越えました。ちなみにキリ番は「m-tamaさん」でした。今までのほとんどのキリ番は自爆状態だったので良かった。
2004年09月06日
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今日はあんまり物を考える気力がないからどうでもいいことを書こう。倦怠感が体に充満していて何もする気が起きない。最近真面目なことを書いていた反動だろうか?昔「ニコラス・ケイジ」を「ニコラス刑事」と言う役者名だと思っていたことがあった。はずかしー・・・ほんとにどうでもいいことになった
2004年09月05日
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確か日本テレビで毎年夏に「愛は地球をすくう」と言う特番が放映されているはず。今日は「愛は地球を救う」と言うことについて書いてみたい。そもそも「愛」とはどのように定義されるべきものだろうか?広辞苑によると・・・と言いたいところだが手元にないので私なりの定義を決めてみたいと思う。「無意識・意識的を問わず、自分のことを省みずに誰かの為に無償で行動できる状態」と決めてみた。さて本題、愛は地球を救うことができるかである。おそらくテレビの中では毎年のように、ハンディキャップを負った対象に対し著名人が何らかの行動を起こし、勇気や希望を与える、あるいは天災や紛争で苦しむ子供たちに募金を寄付するなどの行動を行っている。確かにこれらの行為は対象を一時的か恒久的にかは問わないが、救っていることになっているだろう。だがこれらだけを取り上げて愛は地球を救っていると言えるだろうか?愛にはいろいろな種類がある。例えば恋人や夫婦間での愛・子供への愛・会社への愛・宗教への愛・自分の部族への愛etc本当にたくさんの種類の愛がある。愛のもたらす行動について述べていきたい。今日解決したらしい「ロシアの学校占拠」のニュースなどはわかりやすいだろう。犯人はロシアからの独立を求めるテロ集団らしいと言った報道がなされている。彼らの行動はなぜ起こったのだろうか?祖国への妄信的な愛だろう。ロシアからの独立をめぐり志を同じくする人間が集まりグループを結成する。そして彼らは結論を急ぐがあまり学校占拠という行動を起こす。幹部クラスの人間は自らの利権などを考えているかもしれない、しかし末端のいわゆる「兵隊」クラスの人間は利権のおこぼれには預かれないだろう。ならば何故彼らは行動を起こしたか?独立こそが民族にとって最上の道だと信じたからだろう。そこにあるのは紛れもなく民族への愛である。次にアメリカにおける9.11のテロ事件である。イスラム過激派によるテロ行為だということは、はっきりしている。彼らは何故あのような行動を起こしたのだろう。宗教への愛が大いに関係してくるだろう。アラブを中心に世界中に広がるイスラム教である。アメリカはこれまで世界中に自らの利益の為に「平和維持」「地域の安定」と言ったことを名目に介入を行っている。それに対し宗教、民族の危機を恐れた人間が何らかのグループを作っていることは簡単に想像できる。では何故その対抗手段の為に「自爆テロ」を敢行したのだろうか。宗教の教えがそこには潜んでいる。(誤解のないようにあらかじめ述べておくが、別に私はイスラム教に対して不快な感情は持っていない。イスラム教に限らず宗教に対しては、悪い感情も持っていなければ、良い感情も持っていない。それを信じることが心の支えになるのであればそれでいいと思う。)さて本題に戻る。イスラム教では宗教の教えに従い侵略者と戦うことは「ジハード」として尊い行為であると教えられている。また一部ではそれによる殉教者には次のことが約束されていると教えている。「天国に行けば100人のバージンと暮らすことができると」何故彼らはこれに盲目的に従い自爆テロを行うのだろうか?宗教を信じそれに対し愛を持っていなかったら自らの命を省みない行動を起こすことはできないだろう。(ここではイスラム教のことばかり書いたが、宗教とは基本的に異端者に対してはつらく当たるものである。例えばキリスト教では聖地奪還の為に十字軍が組織され多くの殺戮を行った。過去から続く例としてはユダヤ教徒とイスラム教の対立がある)民族対立の例もある。アフリカでは「ツチ族」と「フチ族」(だった様な気がする)がある国において虐殺を行った。この事件に対しては情報操作による意識の刷り込みが行われたと言う報道もあるが何故彼らはこのような行動を行ったのあろうか?いわゆる民族浄化である。何故行うのか。自分たちの民族が優れているのでそれ以外の民族は駆逐されるべきだと言う考え。(ヒットラーの行ったゲルマン民族による世界支配は代表的な例である)周りの民族が自分たちを迫害しようと考えている強迫観念による先制攻撃。いろいろな理由が考えられるがそこにあるのは自民族に対する愛である。一つ目の例では何の根拠もなくあるいはこじつけ的に、自分たちの民族性を持ち上げる、二つ目の例は自分たちの民族を守るためには何をやってもいいという考え。変質した愛がない限りそのような行動には出ないだろう。もっと身近な例を考えてみたいと思う。例えばある夫婦に子供がいたとする。子供が何らかの理由で殺害されたとする。両親はどう思うだろう。犯人に対する憎しみが生まれてくるだろう。何故憎いのか?子供を愛していたからである。愛着のない子供なら別に殺されてもなんとも思わないだろう。何かを愛し守りたいと思うから「他の何か」への攻撃につながる。考えすぎだろうか。決して「愛」と言う感情が不必要だと言う気はない。それを持つことによって救われることもあるし、誰かに愛されていると感じることは喜びにつながる。それは紛れもない事実だ。人は「愛」というすばらしい感情を手に入れると同時に他人への攻撃性を身に付けてしまったのではないか?こんなものの考え方をする自分が嫌いだ。
2004年09月04日
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人間は変わることができるのだろうか?今日はそんなことを書いてみたいと思う。今日は読まれた方は私と違う意見をもたれる方が多いだろうなと思う・・・そもそもどうやってある人の性格や性質は作られているのだろう。遺伝子レベルで先天的に影響を受けることもあるだろうけど、それは別として考えていきたい。普通は両親にどのように育てられたか、どのような友人に囲まれたか、どのような本や映像を見たかによって大抵は決まると思う。様々な物、一言で言えば「環境」によって作られていくと思う。さて、本題人間は変わることができるかである。私は残念ながら変わることはできないと思う。何故なら今まで影響を受けた環境と言う名の経験を、記憶喪失にでもならない限り、捨てることはできないから。でもね、「上書き」することはできると思う。新しい環境に囲まれることによって、人は何かを得ることができる。何かを得てそれによって新しい性質や性格を手に入れることができる。上書きは良い方向に働くとは限らない。私みたいに社会での経験からストレスを呼び「心の病」を得ることもあると思う。もちろんいい方向に働くことだってある。例えば会社で部下を指導する立場になって、リーダーシップが身に付く等。忘れてはいけないのは生きていてなんらかの影響を受ける限り、常に上書きされる可能性があると言うこと。ここまで読んで多くの方は思ったでしょう。「上書き」と「変わること」どう違うのということ。表面的には何も変わらないと思います。言葉の印象の問題なのかな?変わると言う言葉は今までの物を捨て新しいものになること。上書きは今までの物を残しつつ新しいものになること。そんな風に考えているのかな・・・日記を書き始めてからつくづく表現能力の不足を感じる。
2004年09月03日
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学生時代から、特に心の病を抱えた頃からだろうか、涙の意味を考えたことがある。あなたは涙をいつ流しますか?悲しい時・うれしかった時・目に何か入った時?3番目はどうでもいいとして、おそらく最初の二つが大半を占めると思う。泣こうとして泣くことができるのは演じることのプロ。たいていの人間は涙を流す時は感情のままに流す。あふれ出る感情は心の「容器」を越えた時人間の体外にあふれ出す。泣くこともそう・笑うこともそう・怒ることもそう・・・泣くことを我慢しなくてはいけない時もある。悔しくて涙を流したくない時もある。でも忘れないでください。あふれ出た感情を心に溜め込まないでください。その時出来ないなら後でもいい、きちんと心の容器を空にしてあげてください。行き場をなくした負の感情は、あなたの心に刃となって突き刺さるから・・・涙の意味って何だろう?涙は何で流すの?悲しい時あなたはどうして涙を流すのですか?「涙は心の清涼飲料水」そんな表現が浮かびました。あふれ出る負の感情を流してくれるから言いたいことがうまく言葉にできない・・・今日また不思議な夢を見た。バイクに乗っている夢だった。ちなみにバイクの免許は持っていない。高速道路でブレーキが間に合わなくて転倒するシーンが何回もあった。何を意味しているんだろう?浅間山が爆発したらしい。5月の末まで軽井沢に住んでいた。友人や知り合いが軽井沢や嬬恋にいる。心配だそういえば今日は姉の誕生日だった
2004年09月02日
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世界中にある幸せの量は決まっているのかな?誰かが何処かで幸せを手に入れたら、その影で何かを失う人がいる。確か寺山修二がそんな詩を書いていた。今日はそのことについてふと思い出したので書いてみよう。例えば恋愛を例にすれば解りやすいかもしれない。二人が結ばれる、と言う幸せの影には何かがある。その二人のうちどちらかに好意を寄せていた人は自分の気持ちに決別しなくてはいけない。悲しみを背負うことになるだろう。何処かで誰かが毎日結婚する。その影で毎日離婚する人がいる。新しい生命が毎日生まれる一方で、毎日誰かがこの世を去る。幸せの量は決まっているのかな?そんなことは考えたくない。だけど新聞やテレビでは毎日悲惨な事故、事件が報道される。もしかしたら神様がいてバランスをとっているの?今月は幸せの量が多すぎたから、来月不幸を多くして調整しよう。予算折衝みたいだ。そんな神様ならいらない。誰だって幸せになりたい。不幸になりたい人なんていない。誰かが幸せになりすぎて、誰かが不幸になりすぎる、神様がいるならそんなことはしないで欲しい。幸せになれるかどうかは個人の努力や、才能によるものが多いだろう。でも不幸になるのに理由なんてない。道を歩いていて車に突然はねられたら、家に泥棒が入ったら、後から理由なんていくらでもつく。でもその瞬間、不幸に遭遇するなんて誰が考えるだろう?幸せって何だろう。あなたは何だと思いますか?あなたは今幸せですか・・・幸せの価値なんて人それぞれ。素敵な恋人がいること?たくさんお金があること?社会的な地位があること?私の考える幸せは平凡だけど病気のない生活を送ることと、日々の暮らしが順調に送れること・・・今日から小学校や中学校、高校では新学期が始まるらしい。社会に出た私には夏休みはないけれど、夏休みはないけれど実質的には休業中。出口のない夏休み。子供だった頃夏休みはどう過ごしただろう?夏休みの最後になって宿題をあわててやったと言う記憶はない。小学校、中学校、高校ほとんど夏休みの宿題はなかった。毎日近所の友達と遊んでいた。そこにあるのは楽しい記憶。記憶の中で遊ぶことはできるけど、記憶は現実世界の現状を助けてはくれない。少しづつ進んでいけばいいや。昨日は起きたら13時だったけど今日は11時に起きることができた。これも進んだことになるのかな昨日から急にアクセスが増えた。3桁を記録した。なんで???自動巡回???
2004年09月01日
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