蒼い風 現象への旅
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最初の報道があったときすでに胸が痛んだ。人間の尊厳は死であると認識しているが、死んだものよりも残されたものに消えぬ傷を残すのだ。2万余の命とその残された思いと傷が一枚の木片で少しでも癒えるのなら胸襟を開いて迎えてあげるべきだろう。京都法曹界のコメントは正式にだされていないが、このことは、ある意味、事件なのだ。誰がいい、悪いではない。伝統がある、なしでもない。私が痛みを感じる理由は一枚の写真からのメッセージがあるからだ。昭和20年に撮影された米国人カメラマンの一枚。12、3歳の少年が、背中に弟らしい子をおんぶして、立っている。河原らしいが周囲に大人らしい人影がふたつ。そのなかで少年は固い表情で立っている。じっとひとところを見つめて立っている。立っている。破れた半ズボンに素足で立っている。ただ、立っている。気をつけのまま、立っている。口元を一文字にして立っている。少年は何かを見ている。感情のない瞳で何かを見ている。そして、弟を背に抱いて、立っていた。写真の右手の奥の遠景がかげろうのようにゆらいでいること。おそらく手前に炎があったのだろうと読めた。長崎の原爆の母子の写真に比べたら稚拙な写真だったが、英語で書かれたキャプションの単語を拾い読んで愕然とした。少年は弟と一緒に母親の死骸を戸板に乗せて引きずって河原まで運んで来た。面倒くさがる大人たちに荼毘を頼むために。何度も頭を下げて。炎の中で少年は何を見たのだろうか。戸板の重みが残った腕で弟を抱きながら涙も声もなく、立っていた。見えない恐怖は人の思考をも狂わせる。京都は好きな街だ。戦火を免れた街だ。だからこそ今、この法要に意味があるのだ。どうか、一枚の木片の痛みを。残されたものは正しいという護符を。
Aug 12, 2011
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