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蒼夕顔さんこんばんは。いつもコメントありがとうございます。返事を書いていたのですが、あえて日記で書かせていただきます。二ケ月ほど前に、父が白屋に里帰りしました。すでに集落も樹々も消失した斜面に巨大なコンクリートの養生壁が舞台のように張り出していて面影さえなかったそうです。槙の木が残っていたのかどうかは見てこなかったと。撮影するように頼んでいたのですが、天候と指定していた撮影場所が曖昧で記録が残りませんでした。自分が訪ねたときに、人々を含め、もっと残すべきでした。今になって、当時出会えたひとの背景の家々や存在が脳裏にうかんでモノクロームの写真になってます。著莪の群生。実物をこのとき初めて見たのですが、遠い記憶の中で自分はこの花を知っていた気がします。いつからなのかは定かではありませんが、とにかく、吉野は自分にとっては桜ではなくこの花なのです。蒼夕顔さんからいただいたタイトルの白い系譜を書き始めてもう一年も経ってしまいました。書きながら思ったのは空気の重さでした。最後の撮影ロケを軸に時代をフラッシュバックさせていくことで自分と向き合いました。記憶の断片から見た景色と沈むガードレールとがトリガーとなって人の暮らした証とそのときの空気を読み取ろうとしていました。義経伝説以前からこの山奥の集落に、なにもない、食料さえ自給困難な場所に、何故人が棲みついたのか、何故かくれ里なのか、そして吉野という結界に血を繋いだものとしてその存在を確かめたいと願って踏み入れた場所。父や叔父の里としてではなく、私の故郷として共にありたいと願ったのは、自分が何者なのかを知りたかったからだと思います。それはまぎれもなく終の棲家になるはずの場所でした。無くなると知らされる以前からそう思っていたふしがあります。山人海を乞うなのでしょうねきっと。最終章まであとちょっと。書き上げたら推敲して一本にまとめてみます。 草々
Jun 26, 2011
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美しいもののなかには哀しみがある朽ち落ちる花の今終わろうとするその唄声宿した命の糧になる無垢宿命の中の残照
Jun 24, 2011
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高さのある50年杉を抜けた雨が霧散して墜ちてくる。少し湿気を食ったカメラバッグを濡れないように肩にかけてまだ踏破していない山路地への迷い込みを決め込む。短い休息のおかげでわたしの感覚は森と同化した絵画のように皮膚に意識を送っていた。迷いはなかった。ディスタゴンを装着したボディーを胸に抱いた。宮の西側から見た裏内裏にはめぼしいものは無かったが、奥院との境にある槙の大木の張り出した根を越えて裏内裏に足を踏み入れる。ときおり雨脚が強さを増す。惹かれるようにするすると動いていたと思う。思うと書いたのは、この時のわたしは自分ではなかったらしいのだ。あの日わたしが見たのは、いや包まれたのは雨に濡れた著莪の群生だった。気がついたとき、わたしは確かに周囲を何万本かの著莪が埋めつくされていて、その空間に捕らえられたのだった。ヤッケのフードから雫が滴って火照った躯から立ち上る湯気とじゃれている。その向こうに静かに、ただ静かにその花はわたしを見つめていた。恐ろしく膨大な数の問いかけ。三脚から雨水が滴るのも忘れて立っていた。雨雫に撃たれた著莪の葉がおいでおいでしている。リズムよく手招きしている。手招きしている。それまで見たことの無い花なのに。この花はまぎれもなくわたしだ。もしかしたら群生の中でわたしは一本の杉であったのかもしれない。それからひと月もたたないうちに従兄弟から故郷が無くなったことを知らされた。随分前からの記憶の痛みは何処からきてどこへ行くのか。あとから山さんに聞いた話だと、そのときわたしは5分間ほど行方不明になっていたらしい。呼びかけてくれたらしいが、わたしには葉の琴音しか聴こえなかった。
Jun 21, 2011
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夜に濡れた紫陽花は灯を反射して背徳を誘っている細い緑道に黒い湿気と風が迷子の道標を隠すように覆い輪郭を闇に沈めた花びらは雫に吐息を吹きかけた今震えるわたしの唇に雨
Jun 17, 2011
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サラムーンは儚さが好きな言葉だと言ったそうだ。来日したときに何必館の梶川さんが直接訊いたということだ。ephemere 仏語でエフェメールだと。ずっと束の間という意味だと思っていたら儚さという意味もあるらしい。そういうことか。納得できるものがある。彼女の不可思議な写真表現を観て写真を始めたのかもしれない。職業にするずっと以前から観ていた気がするし、記憶が曖昧なので自信がないが。技術的にはよくデビットハミルトンと比較されるが、比較すること自体笑い話だ。漂うものと視線がまったく異なる。前にアベドンを書いたが、彼はアービングペンとよく比較される。比較するのが好きな国民性か。『花』をモチーフにしたらペンを支持するが。さてサラは圧倒的な受け手の視点をさらけだすように作品を作る。アンデルセンの童話を主題にしたシリーズはあの独特のフォーカスではないが、やはりその奥に創造や夢や儚さが見え隠れしているのだ。どう感じるのか。どう観るのか。受け手の「感受」のどこに触れるのか。絵画で言えば、佐伯祐三の濡れ方にはユトリロやブラマンクにない「やるせなさ」が漂うし、そう感じるように表現している。(個人見解)自分が表現したいものとは異なるが表現することを教えてくれたのは彼女かもしれない。
Jun 9, 2011
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アベドンが世を去ったとき、自分は何処にいたのだろう。報道からコマーシャルへ転身したのは彼の影響ではなく、単純に食えなかったからだが。その以前からこの偉大な写真家を憧れたことはあった。ヴォーグやハーパースに発表された斬新は今でも作品として成り立つ。その昔、ヴォーグが出るたびに「次はこれやろう」とパクリを決め込む知人カメラマンと真剣に楽しみながらファッションをCMしたのが懐かしい。ある日、アベドンが変わったというニュースが飛び込んで来た。彼の変容と写真原点との出会いだった。ポートレイトへの眼差し。緻密な画面から奥に増幅する赤裸。彼はサンアントニオへ何を撮りにいったのだろう。アラモのアメリカを再び世にイメージしようと試みたのだろうか。
Jun 7, 2011
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