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『サイコ』から『羊たちの沈黙』を経て『セブン』に至るにあたって、サイコサスペンスものが濫造された時期があった。これらのエピゴーネンに対する作品批評はおくとして、このスリラー群から残酷性のみを取り出してみる。すると、残酷性といっても多種多様であり、その度合いを比べるのも容易ではないことが分かる。 単純に直截的な表現のあるなしが残酷性の度合いを決めるのだろうか? しかし、暗喩、隠喩その他の手法を用いることで、隠された残酷性を作り出すことも可能だろう。さらに、一昔前に、童話がその残酷性だけを抜き出して不当に話題にされたことがあったが、その賛否には触れないにしろ、童話においては残酷性が物語の潤滑油として、躍動感を生み出しているのは確かである。また、ピーター・ジャクソン、いばら美喜といった人たちの作品を見てみると、「過剰すぎる残酷性」はコメディとして笑いを誘うということが分かる。『ピエロの誕生』によれば、18世紀のタンブル大通り(通称・犯罪通り。殺人事件などを題材にした大衆向けのメロドラマなどを上演していたために、この名がついた。)では、黒沢清の『降霊』の元となったような話(もちろん、元ネタは『雨の午後の降霊祭』です)、殺しても殺しても死なない農夫(だったかな?)とのスラップ・スティック・コメディなどが上演されていた。大衆娯楽における残酷性の享受に関しては、枚挙にいとまがないので、これ以上は触れない。 となれば、残酷性は何らかの要因で変化すると見たほうがいい。 では、その要因を思いつくままに挙げると、現実・虚構を含む時代背景、作品内の必然性(単なる興味本位も、自主規制も含む)、文化状況(昔、『世界残酷物語』なんてのがあったなぁ)というところだろうか。さらに、残酷性は、その行為に対してリアリティを抱いていない限り、残酷と感じることはない。これは、経験、すなわち人生の履歴により残酷と感じる基準が変化することを示している。 また、政治的事例としては、戦争、人道に対する罪、ジェノサイド、主権の制限、死刑論などの諸問題を挙げる事ができる。現実に直面する問題として解決への道程がありえるということは、社会的基準として残酷性の許容範囲を決定できるということである。 さて、この一連のスリラー群の流れの中に位置づけられるであろう『モンスター』は、上記の作品で言えば、レクター博士とクラリスの対話のみが面白かった『羊たちの沈黙』よりも、『セブン』に近い。次々に起こる暗示的な殺人事件や基本構成が「刑事もの」といった類似点がみられる。だが、「悪趣味(過剰すぎる残酷性)」はほとんど感じられない。これは単純な残酷性にもいえる。経験からスリラーという物語形式に対して受け入れ態勢が整っているために、残酷性が希薄化しているのだ。 これに対して、同じ著者による『20世紀少年』には残酷性を強く感じる。それは童話に見られる残酷性の如く、子供の純粋性が転化した結果の残酷性なのかもしれない。また、リアリティの問題も無視できない。現実社会(新興宗教団体や学校など)を素材に構成されていることもあるが、日常と陸続きの非日常性を描くことで、リアリティ(「~らしさ」といってもいい)をより強く感じる仕組みになっている。第3部に残酷性を感じないのはそのためかもしれない。 以上は当然、私のカンジである。果たして、あなたにとって残酷性とは何だろうか。また、どちら作品により残酷性を感じるだろうか。そして、それは何故だろうか。もし、残酷性を感じないとしたら、それは何故だろうか。また、どの程度なら感じることができるだろうか。
2005年11月30日
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少し喉の痛みが退いたので、酒に手を出していたら、更新を忘れるところだった。ホロ酔い加減で、行きます。 『モンスター』が面白かったので、『20世紀少年』を大人買い・・・、したかったが、お金もないので、友人から借りる。 評判どおり、面白い。ただ、引っ張りすぎの感もある。個人的には単行本派なので、最低20巻以内でまとめて欲しい。まぁ、3部構成という性質上仕方がないことか。 長編の中に短編をいくつか挟み込む手法があるが、浦沢直樹はこれが非常に巧みで、短編が単独でも読める番外編のようになっている。この傾向は『モンスター』よりも『20世紀少年』の方が顕著である。 一つには、副題にもあるとおり「本格科学冒険漫画」、すなわち大人のためのSF冒険マンガであるため、エンターテイメント性が強くなることが挙げられる。そうなれば、人物形成や物語の醸成などのためにも短編が挿入される割合は多くなるだろう。ただし、これを物語の豊潤とみるか、弛緩とみるかによって、評価が分かれるかもしれない。 また、新興宗教団体や終末観・未来観などの装飾物に彩られているにもかかわらず、その中心にあるものはある種の典型的な「物語」になっていることも一因である。この「物語」に関しては、手塚治虫の正の面のSFとの類似性を挙げられるかもしれない。それは本書が2部で終わらなかったことから推測できる。となれば、安心して乗っかれる「物語」は、大長編になる可能性を秘めていても何らおかしくない。 少々、理屈をこねすぎて文字だらけになってしまったが、結局のところ、面白い(人気のある)マンガは長く続くという不文律に従っているだけかもしれない。 明日に続く・・・
2005年11月28日
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本来は、読んだ本を・・・、と思ったが、体調が悪い。 今朝なんぞは、あまりの喉のイタさに起きたぐらいだ。流石に、病院にいこうかな。 さて、夜にテレビをつけると、某局にて、IQの番組がやっていた。軽い気持ちで見始めたが、気が付けばペン片手に奮闘。結果は、右・右脳らしい。なるほど~。言われてみれば、ここにも、論理性の欠片もない文章を書いている気がする。 早速、論理学を勉強せねば。 IQの方はそんなに面白味もなく、平均ちょい上ぐらい。相変わらず、記憶力が悪いのが気になる。熊楠ほどとは言わぬも、もう少し記憶力が欲しい。
2005年11月27日
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素晴らしきアジアで、思考までアジア化した人々を、軽妙な筆で描ききったガイドブックでは書けない傑作。クーロン黒沢の文章を読むのは初めてだが、兎に角、文章がウマイ。混沌たるアジアを描くのに、卑俗な彼の文章はピッタリくる。単語の選択もいいカンジ。最初から最後まで、笑いながら読み終えることができた。 超絶な思考で突き進むミスター西本、白人幻想を打ち砕く一軍選手たち、ロリータを探しながら次々とむしられていく青年など見所も満載。 「金は天下の回りもの」などという金言は通用せず、常にハイエナのごとく目を光らせながら、金の匂いを待ち受けている。そんな高度な資本主義原理?が徹底した場所でもそれぞれの方法で人々は生きていく。強者はむしりとられないように用心深く、弱者は一瞬のチャンスをも逃さないように注意深く。 笑いとともに込み上げる感動(!)、怪しい人々に対する冷徹な観察眼と素材を扱う手際は必見。ちょいと調べたらまだまだ著作があるようなので、これからも読んでいきますよ。 『怪しいアジアの怪しい人々』
2005年11月26日
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久々の休みだというのに、朝から頭と喉が痛い。血のタンまで出やがった。なんか悪い病気じゃないだろうな。なんだかんだ言いながら、また、間が空いている。 仕事に関するストレスで、他に何もする気が起きなかった。 ストレス解消といえば、レジャー等による発散が一般的なのだろうが、私の場合は内に溜め込むことでストレスそのものを消し去る方法をとる(忍耐)。この時の頭の中の動きをこういうところに書き留めればいいのだろうが、残念ながらそんな文才はありゃしない。論理、非論理、倫理、非倫理、常識、非常識、相反する要素がない交ぜになって妄想されている私的な領域の毒素を、うまいこと解毒しつつ提示するにはそれなりの技術も必要だろう。 さて、悶々としている間も、日々は過ぎていくもので、電気が止められたり、風邪を引いたりしたわけだが、まぁ、ここではどうでもいい話。 というわけで、この間に読んだ本でも紹介しつつ、今読んでいる本につなげる予定。 まずは、浦沢直樹の『モンスター』。世の流行からは大分遅れているが、これは致し方ないこと。古本の世界に浸かるとこんなものでしょう。これでも、学生時代は片っ端から雑誌を読んでいたんだけどねぇ・・・。 閑話休題。ミステリーには全く無知なので、そういうものとしてのデキ云々は知らない。だが、謎のための謎やシリアルキラーがチープではなく、最後まで一気に読むことができた。乱発乱造の感のあったシリアルキラー物の中でも、犯人の造形もさほどケレン味を帯びておらず、浦沢直樹だからだろうか残酷性も薄い。このあたりも物語に没頭できる理由だろうか。全18巻というのも程よい。
2005年11月25日
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相変わらず、時間がない。 来月も結婚式があるらしい。 というわけで、飲みすぎて完全に2日酔いだ。焼酎のロックを一気飲みし始めたあたりで理性が飛び始める。気が付いたら、噴水にダイブしていた。なんとか、デジカメは守ったものの(とはいえ、撮った写真のほとんどは消失。)、携帯は全く動かなくなってしまった。その後、ビールをたらふく飲んだ2次会が終わり、梅酒片手にカラオケ3次会に。 そんなこんなで、久しぶりに2日酔い。動くとツライので、実家でジッとする。以前、『平成よっぱらい研究所』をマネて朝っぱらから迎え酒としてビールを呷ったら、ゲロゲロしたという苦い過去があるので、動かぬことが最善策なのだ(参考までに『酒飲みの社会学』を挙げておく。大切なのは中庸だ?)。 なので、手の届く範囲にあった『AV列伝』の2巻を読む。1巻を読んだのは遥か昔。性関連の著作は定期的に手にしている。性の周辺に巣食う怪しい人々は、なんだかんだいっても面白い。本書の著者・井浦秀夫には同系列の仕事に、カンパニー松尾を主人公にした傑作『職業・AV監督』があるが、それに比べるとこちらは分量が少ない分、やはり喰い足りないカンジが残る。 だが、島袋浩、チョコボール向井などの男優にも光を当て、マンガの形式で発表した意義は大きい。井浦の乾いていながらも明るい描線のおかげで、性の湿っぽさや淫靡さが強調されずに、「職業」としてのAV物語をみることができる。女優だけではAVは成り立たないのだから。 さて、そんなことを思いながら読んでいると、気づいたら眠っていた。というわけで、起きた後の話は明日。と適当につなげる。
2005年11月10日
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多忙につき、随分と間が空いてしまった。 この間に読んだ本は、『あずみ』37巻と買ってきた古雑誌をぱらぱらと捲っただけ。もう少し、時間の使い方を考えないと。 さて、幼少時分、水木しげるの書く妖怪ものや、怪奇系児童書などの70年代ジャリ本の流れを継承する諸々のビジュアル本などに馴れ親しんだ身としては、『怪奇鳥獣図巻』をぼーっと眺めるのも、楽しかったりする。 『怪奇鳥獣図巻』はシナの明代あるいは清代の『山海経』再評価の流れを受けて、江戸時代の無名の絵師の手により、巷間の流行のなかで生まれたものらしい。この極彩色の絵巻物には76種の異容な鳥獣が登場する。その大部分が『山海経』からの引用(とはいえ、実際に『山海経』の文を読み、創造して書かれたものではなく、清朝時代に流布していた『山海経存』や『山海経広注』を下敷きに書かれたものらしいが。)であるが、一部来歴不明の鳥獣の姿も見えるという。 『怪奇鳥獣図巻』を巻末の『山海経存』全9巻の図と比べると、その出自ゆえか、娯楽性を強く感じる。単に彩色の有無によるものかもしれないが。 とまれ、9つの人間の顔を持つ蛇だとか体が鳥で頭が龍の神々だとかビジュアル的に楽しめるものだけでなく、時折、頭が鼠で背中の毛で空を飛ぶ「飛鼠」のようにムササビの仲間を思い起こさせる獣も描かれており、実在を匂わせるのも良い。 『山海経存』の図の方も、カエルの化け物のような「人魚」、虫のような姿をしたその名も「文文」、前後ともに頭の豚「併封」など見ていて飽きない。本文は『山海経存』に依らねばならないのが残念だ。 もちろん、龍系の大物も載っているので、ご安心を。
2005年11月04日
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