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今日はこれから、友人たちとの忘年会を兼ねた飲み会。 今日から年明けまでは、ひたすら飲むつもり。来年には立派な粕漬けの出来上がり予定。 速報性が必要なブログじゃないので、年明けまでは更新はお休み。正月中も本は読むつもりだけれど。それではよいお年を。
2005年12月29日
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分かりやすく明確に「考え」を文章にのせること、そこに「批評」が加わることで、より分かりやすく明確な文章を得、また、それにより思考を次の段階に進めることが、モノを書くための理想であると学生時代に学んだ。 しかし、実際には理想は得難く、「なぜ?」を重ねた末の「カベ」あたりではどうしても表現が曖昧になり、抽象的な印象を与えてしまう。 それは、無知によるものであるし、論理不足によるものでもある。 結局、これを乗り越えるには、粘り強い思考によるしかない。無知に対して粘り強い思考をもってしてもその溝を埋められるものではないと思うかもしれないが、具体例に即して考えを掘り進めていけば、ある程度まではそれを乗り越えられる糸口を掴めるはずである。それでも乗り越えられないようなら「分からない」と態度表明することで、そこから新しい思考を紡ぎはじめればいい。 もちろん、豊富な知識は、繰り返し既成の思考の道筋を歩む労力を省くものであり(デキ合いの思考を疑うことも粘り強い思考には必要である。)、より深くより広く思考を扱うために有用である。 論文の構造として本書は、三段論法(「大前提、小前提、結論の3つの判断から成る推理の形式」『新明解国語辞典』)ならぬ、三要素、「問い」「検討」「答え=主張」を挙げている。技術論に陥らない実用性という意味では明快であり、思考の構造を簡素に表している。 技術面に関しても、本書の題名『「考える」ための小論文』が示している通り、大学受験のための小論文に重点を置いているので、後半にある例題・回答例を用いた所は実用性に富む。巻末の問題別に書かれた回答のためのヒントも、学生にとっては即効性があるだろうし、社会人にとってもトレーニング教本として用いることが可能である。 次に「考える」ための方法として、「喚起力」と「解明力」とを目標にすえる。 できるだけ根本から考え、「論理の強さ=考えの筋道そのものの強靭さ」を得ようとするならば、自然と「独自性」が生まれるとする。これには「こういうもの」という定義がなく、自ら手探りで獲得していかなければならない。 私にとって「解明力」とは初めに書いたような思考の粘り強さであり、「喚起力」とはなによりも分かりやすさである。 さらに、「一般的な問題を、いったん自分の体験に引き戻して」、そこから「本質」を取り出す「本質観取」というフッサールの「哲学の方法」を用いている。また、より広いアプローチとして、「問題状況」(具体的な事情)を設定してそこに「着地」させる方法をも合わせて用いることを勧めている。 以上のことを完全にこなすのは容易ではない。 結局、「読んで、考えて、書く」を繰り返して身に付けて行くしかないのだろう。
2005年12月28日
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つづき・・・ 多少古参の格闘技ファンならば、オクタゴンにおいて、市原海樹(大道塾)がホイス・グレーシーの片羽襟締めによって血ヘドにまみれた舌を吐き出して負けたのを見て愕然としたことを憶えているだろう。また、日本初上陸(最初で最後)のバリトゥードで、パトリック・スミスがキモの頭突きによって血の海に沈んだのも記憶に新しい。 これらは競技そのものが中止されたり、フィンガーグローブ着用、頭突きの禁止などのルールの変更によって、現在では「プライド」的なルールに収斂している。もちろん、今でもグローブ・ヒザなどによるカットは存在する。このような「ルール」の改正は、メディアにのせるための自主規制(メディアからの「要請」もあっただろう)、選手の安全性の確保などによる。 この「改良」の流れが社会・時代ゆえに、より巷間に広く、より親密姓を持ってなされたのが、本書で論じられる「スポーツ」へ倫理性が取り入れられる過程だといえる。 「アニマルスポーツ」「ブラッディスポーツ」は何れも今日からすれば「残酷で血なまぐさい娯楽」であった。しかし、この「残酷性」には動物たちへの「尊敬の念」といった「魅力」が含まれていた。以前書いたように、「残酷性」は「倫理観」とともに社会・時代・文化により変化するのだ。ここでは、ピューリタン革命期の諸法令、及び、19世紀の動物虐待防止法との鋭い対立を見れば分かる。 18世紀後半のそれらの「スポーツ」に対する批判は主に3つ。1つは、上に述べたような残酷性への批判。2つ目は、いかさま、八百長、不正の蔓延への批判。最後に、秩序の擾乱(群衆の暴徒化)への批判である。この3つはそれぞれ強弱を変えつつ、宗教・産業・公共秩序などの各方面からなされたのである。現在、スポーツへの倫理的な批判は多岐にわたる。しかし、上記の問題が消え去ったわけではない。その時々に諸問題は鎌首をもたげるのである。 同様に、「スポーツ」をする限り「流血」も絶えない。しかし、現在の格闘技における「流血」は、「ブラディスポーツ」が「流血」という文化要素を不可避とする娯楽であったこととは決定的に一線を画する。ただし、かつての「スポーツ」の反復を思い起こす現在の状況を見ると、我々が「流血」に対してもつ視線が、「流血」に「高貴さと野蛮さ」、「命がけの闘い=荒々しさ」を認めていた時代の人々の視線と重なるようにみえる。 これは、スポーツの「スポーツ」への回帰とみるのか、閉塞感への反抗とみるのか、テレビという箱の中で「血の色」ですら浮き上がり「リアリティ」を失っているために享受しやすくなっているとみるのか、それとも、単なる「消費」に過ぎないのだろうか。 この問いは、「何故、格闘技が面白いのか?」に連なるものかもしれないので、ここでは触れない。
2005年12月27日
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スポーツといえば野球、サッカー、最近ではゴルフ、フィギアなどを思い浮かべる。 そのなかでも、サッカー、ラクビー、テニスなどは英国において原型を整えられ伝播したものであるため、一般的に英国は「近代スポーツ」の母国といわれている。よって、本書『近代スポーツの誕生』では、イギリスにおけるスポーツの変遷を辿っていくことになる。 まずは、「スポーツ」「競技スポーツ」「近代スポーツ」を漠然と認識するのではなく、歴史的相違点・共時的相違点からハッキリと区別して使用することから始めねばならない。 「スポーツ」の語源に遡ってみると、その意味するところは「(何物かを)運び去る」であり、やがて「何物かを」の部分にふあんや心配事といった「心の重荷」が付加されることで、「気散じ」(あまり使わない言葉だが、ストレス発散くらいに思えばいい)を意味するようになったという。「スポーツ」がその原初においては、「娯楽」や「遊び」をも包括する「こころ」に関する事象を示すものであり、時代の要請によって、18世紀にはジェントルマンの文化(『スーツの神話』でも触れられている)を反映し、19世紀に入ってから「近代化」とともに「競技スポーツ」の意味が加わったりと変化していくのである。「スポーツ」が現在の我々の共有する「スポーツ」の感覚とズレているという視点は、「近代スポーツ」の誕生を巡って、「アニマルスポーツ」「ブラッディスポーツ」「ギャンブルスポーツ」と見ていくうえで欠くべからざるものである。 「競技スポーツ」は近代社会において生み出されたものの、その系譜は儀式的な「競技」(日本では節会のときの射礼、競馬、相撲など、古代ギリシャでは古代オリンピック)にまで遡ることが可能である。また、近代社会において生み出されたスポーツが全て「競技」を指向するものだったとはいえない。つまり、「競技スポーツ」は「近代スポーツ」の一形態であるにすぎない。 「近代スポーツ」とは何なのか?というのが本書の大枠となるので、その定義をここではひとまず「近代という時代・社会・が求めた歴史的なスポーツ形態のひとつ」としておく。 「スポーツ」が「近代スポーツ」に変化していくなかで、ジェントルマンの理念と深く関わるアマチュアリズムの流入をみることができる。そもそも「アマチュア」とは、肉体労働をすることなく生活することができるジェントルマンその人を意味していて、それ故に、スポーツを労働としてではなく、趣味の一環として行うことができた。 以前、ここでも書いた『「健康」の日本史』においても、経済的社会的尺度で評価された「価値」ある活動を行う「労働」が、何も生産を伴わない無意味な「運動」に取って代わられる様を、養生術と健康法との比較のなかで指摘している。 また、ヴェブレン『有閑階級の理論』での有閑階級を「中流階級」として、「アマチュアリズム」との類似から、現代の健康観における「スポーツ」を、消費文化の一つとしてみることができるだろう。 つづく・・・
2005年12月26日
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予想に反して、今週末は雪が降らなかった。 木曜日に新婚家庭にお邪魔した際には、願いも空しく、大雪のため1時間も電車が遅れるというヒドイ目に遭ったのだから、よかったというべきかもしれない。 新婚のダンナ曰く、「仏教徒にクリスマスは関係ない」とのこと(結婚式では教会、今風にユルく言えば「チャペル」で指輪交換してなかったっけ)。 熱心な仏教徒ではないが、無駄にヒマであることだけはは確かだ。3年振りに『M-1グランプリ』を観ることとなった。 お笑いには疎く、「笑い」に関しても本格的な論考はベルクソンの『笑い』、坂口安吾のファルス論あたりで止まっている。これらの論考の弱点は分かっているものの、「笑い」は分析した時点で「笑い」としての機能を失い、「生の」感覚を失う。また、夏目漱石が文学論を論じた末に、「文学論を論じることは有閑的遊戯である」云々と述べたというのと同様の問題もある。 小難しい話はさておき、正統派漫才のブラックマヨネーズ、ズレの上にさらにズレを重ねる笑い飯、反復の末のオチにかける麒麟などなど、笑わせてもらったので、とりあえず満足だった。 今日も読書日記になってないような気が・・・。
2005年12月25日
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イヤー、よく降るネー。 先日ほどじゃないにしても、また結構積もりそうだ。栄もそこそこ積もり始めているから、名古屋市内でも10cm以上は積もりそうだ。 この調子なら、今年もホワイトクリスマスになるかな。まぁ、今年は全然関係ないけれど。 今日は新婚家庭に闖入(半分本当)。泊り込みで酒を飲みにいくつもり。電車が順調に走ってくれればいいのだが・・・。とりあえず、日曜日まではアルコール漬けの予定。 飲むぞ~!
2005年12月22日
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「健康のためなら死んでもいい」などという冗談が囁かれてから久しい。テレビでは「健康」至上主義をパロディ化した『たけしの本当は怖い家庭の医学』なんてのまで登場している。 とはいえ、「健康」至上主義をいくら嘲笑したところで、やはり「不健康」なのよりは「健康」であるのに越したことはないという気はする。ここのところの体調不良も相俟って、ここで一度「健康」について考えてみることにする。 まずは、「養生」から「健康」への変容を「健康」という語句の生成過程に沿ってみていくことになる。「健康」の最も早期の使用者として、緒方洪庵を挙げている。この場合、医学専門用語としての「健康」であることが重要であり、その時「健康」は生理学的条件がすべてうまく働いていることを指していて、一般的で主観的な「丈夫」「健やか」などの概念と区別される必要があった。 よって、この語句が一般に定着するには、福沢諭吉の時代まで待たねばならなかった。ここで、福沢の「健康」観の変遷に注目してみると、「バランス」「調和」、または「気晴らし」という意味の「健康」から、運動により身体を鍛え社会の困難を克服することを意味するようになっていく。 さらに、この考え方は一歩進み、「強壮」という個人の意志如何にかかわらず強制的に「体力」を高めるという方向に向かっていく。つまり、「すべて」の国民の自発性に失望して、「体力」以上に「気力」(「意欲」や「やる気」を重視し、「気力」を持つ人種を「士族」としてその血統をよく保存し、一般国民を外部から強く鍛え上げる方向に推移していったのである。 もちろん、福沢の理想は個人が何の干渉も受けずに自ら一身独立して「健康」になることであった。また、運動の効果が生理学理論として、本人の意思の有無などの心理学的要因、身分や貧富などの経済的要因に左右されずに、優先して表れると考えていたようである。 「健康」という語句の変遷を手繰っていくと、主観的健康観、客観的健康観、そして健康観への政治性の介入という一連の流れをおさえることができる。本書『「健康」の日本史』では戦中までで記述を終えているため、現在我々の共有する健康観には触れられていない。 しかし、「近代化」に附随するかのような健康観の変遷の同一線上に現在の健康観があるとすれば、それなりに形作ることは可能かもしれない。以下思いつくままに書いてみる。 ・生理学理論に基づいた実践。 最も原初的な意味での作用・反作用。 外部からの干渉に対して「強く」なる。 ・養生術、健康法、どちらでもない「健康法」 「動き」以外の要素も重視される。 健康と運動の分離。 ・健康法へのメディアの介入。 ・「紅茶キノコ」などの「商品」の登場。 クスリではない。 現在の漢方かつての漢方と意味が違う。 ・「健康法」の個人への回帰。 自主性? こんなところか。まとめるのが面倒だな。寝よ。 付記:12/25 ・病気への気配りの過大 ・ダイエットとの関係 美と健康の相互関係
2005年12月21日
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つづき・・・ マンガの興隆は劇画、少女マンガといった分野の細分化を催し、現在その多様性は全体に目配せできないほどの極致に達していると言える。当然、それに伴い出版点数も増加する。 このような状況は、マンガの表現方法を含めた豊穣という意味では意義がある。反面、「読みたい」ものが読めないという状況を生む。永江朗が何度も自著その他で述べているように、これは出版業界全体の構造的な問題でもあるのだが・・・。 また、「読まれるべき」ものが読まれないという問題もある。 昨日のマンガは安価ということと矛盾するようだが、値段が高価だったり(例えば、『石ノ森章太郎萬画大全集』などは全12期・500冊で617400円(税込) 、しかも1期・42冊の51450円(税込)ずつの一括予約注文しかできない。かつての文学全集のような売れ方でもするというのだろうか?)、未収録であったり(シリーズ中の未収録エピソードということではなく、例えば、最近収録されたが石ノ森の『くだんの母』のように)、折角収録されても手に入りづらかったり(楳図かずおの完全復刻版「姿なき招待」「続姿なき招待」が欲しいんだけど、書店でまだ見てない。)する。 これは「大衆化」「進歩」「マニア化」といったタームから考えるべき問題である。だが、それぞれの中で相反する関係をもち、その上で相互間でも相反する関係をもつ、複雑な問題であるから、追々考えていくこととする。 細分化の果てのマニア誌、マンガ界の先鋭となる実験誌というものがある。 「マンガとは何か」を問う編集方針の反映をどう捉えるかは、上記の諸問題とも関係する。 それは、前衛的な実験が独りよがりの自意識過剰に陥る可能性があるといった話ではなく、マニア誌・実験誌(実験誌などは成功すればそれが水準となるのだから、「実現」するか否かだけが基準となるならば、黎明期における諸々の雑誌はほとんどが実験となる)の登場はマンガの発展の途上での必然なのだから、マンガ本来の持つ「大衆性」(大衆消費社会のなかで娯楽としての品物が販売ルートに乗って大衆に広く流通することなどが考えられるが、実は日本文化におけるマンガの受容という大問題を含んでいる。一先ず、ここでは辞書的な意味としておく。)に鋭く対立するというもっと大きな視座に立ってみていく必要がある。 それはさておき、『ポップコーン』(アメコミへの憧憬から生まれ、アメコミの翻訳版と日本人マンガ家による描き下ろしを同時に掲載、そのため両開きという実験誌。それ以前にもアメコミを紹介する雑誌は存在した。例えば、『セブン8増刊』など。しかし、別冊などではなく刊行した意義は大きく、後々アメコミが市民権を獲得する契機となる。)や『まんがジャパンダ』(鶴田謙二の表紙と連載に幅広い執筆陣が魅力だったが、4号で終刊。『月刊 タッチ』を思い起こさせる。)なんかは読んでみたい。 また、『アクション増刊 コミック麒麟様』なんてのもいい。別冊なら同時刊行として継続する可能性が高いけれど、増刊となると単発ものであるから、書店から最も「消え」易い。 実際、増刊号を今買おうとするとなかなかに困難である。 こうやって様々な雑誌を見てみると、やっぱりマンガ雑誌の表紙はマンガがいいと思うようになってきた(私の蒐集している40年代半~50年代半の「実話系」エロ雑誌なんかは、完全に文字と女の人との組み合わせだけれど)。例えば、蔵書から一つ。 どうです。カッコイイでしょ。小さいから分かり難いかな。本書でも紹介されている『スピードコミック』などはグラビアとマンガの融合を目指すという実験をしているが、やっぱり軽い。 表紙だけを並べてみても、未だに楽しめるもののほうがいい。古雑誌を買う時のコツも、表紙から受けるフィーリングである。貸本に関しても同じことが言える。貸本の表紙は出版社ごとに特徴があって面白い。雑誌も表紙は顔なのだから、個性的であって欲しい。
2005年12月20日
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雪が深まるどころか、40年振りだかの記録的な大雪らしく、大変なことになってますな。1日あたりの降雪量としては名古屋市内では過去最高とのこと。昼間のうちに舗道の雪は大分溶けたものの、明日の朝は寒さが厳しいようで、ツルツル滑ることは確実なわけで、特に気をつけねばならないだろう。 ほんの少しの段差に注意を向けることは、実は重要なことのようで、『五感喪失』の中で山下柚実が述べていたように、失われゆく五感に揺さぶりをかけ目覚めさせる役割をなすのではないだろうか。五感の回復は、「リアリティ」の問題とも大きく関わることであるし、心霊写真のところでも触れた「ある種の手触り」とも関係するはずである。 閑話休題 マンガは単価が安い。発行部数と売り上げの規模を、出版産業全体のなかで比較してみると良く分かる。マンガの単価が安くなっていく経緯はマンガの歴史とも大きく関わっていて、『貸本屋のぼくはマンガに夢中だった』などで書かれているように、月刊誌、貸し本、そして週刊誌へという社会・経済とも相俟った流れを掴むためにも有効である。 なかでも、マンガ雑誌は「読み捨て」感覚が強く、現存数が少ない。メジャー誌ですらそうなのだからマイナー誌ともなると、本当に「消えて」しまっているマンガ雑誌もあるのではないか(行ったことはないが、国会図書館にならあるのかな?ジャンプを創刊号から個人で蒐集している猛者もいるけれど。)。 そんな中、「現代マンガの中で主要な部分を押さえ」てマンガ雑誌について語ったのが、本書『消えたマンガ雑誌』である。触れられているのは、少年・少女マンガ誌、ギャグまんが誌から青年誌、レディコミと広範囲に及ぶ。実際、知らない雑誌が多く、分野別にみると、興味の範囲外の分野は全く知らないものも多い。 さて、個人的な蒐集の一つに40年代の青年誌なので、当然気にかかるところだが、その辺りの情報量は少ない。実は、全体的にみても、「広く浅く」と言う編集方針のためか、紹介に主眼を置いているために、狭い分野を除くと少しばかり物足りなさを感じる。それでも、研究の方向性を示した功績はあるのではないか。 他には、70年代ホラーブームを引き継ぐ形の80年代半ばのホラーマンガ専門誌の乱立期を俯瞰し、「ホラーのオシャレ化」を指摘する章は興味深く、貸し本、単行本の流れと比較してみると面白いかもしれない。 また、専門ジャンルマンガ(スポーツ4コマ誌、ペットマンガ誌、釣りマンガ誌など)のところでも少しだけ触れられているポスト麻雀マンガ誌としてのパチンコ誌までの流れを、娯楽の変容とともに見ていくのもいいかもしれない(この分野は単行本になることが少なく、書き下ろし単行本という形式で世に出ることもある。)。麻雀マンガはそのお手軽さからか珍作も多い。ここでは紹介されていないが、ギャンブル全般を扱った『ギャンブル王国』『ギャンブル劇画』なんて雑誌もある。未読であるが、業界紙のマンガなど一般流通には乗らないマンガを集めた『本屋にはないマンガ』もあるから、この分野の拡がりは期待できそうである。 つづく・・・
2005年12月19日
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市内も結構な雪です。 雪深い土地で育ったので、この程度の雪なら見慣れたもの。とはいえ、以前京都に住んでいたときもそうだったけれど、都市部の雪は田舎以上に大変だったりする。微妙に降るから氷になりやすく、舗道でスベってる人を見かけることもしばしば。今朝も、コーヒーを買いに表の自販機まで出て行くと、真後ろで学生らしき人が自転車で1Mほど横滑りしていた。 特にこうゆう時は、普段は気にかけないような段差に注意が必要だったりして、新しい発見があったりするけれど、電車やバスは遅れるし、自転車やバイクは使えないと、かなり不便だ。これも新しい発見と言えばそうなのだけれど・・・。 さて、昨日の今日なので、「心霊写真」「雪」をキーワードにする怪談でも。と思って、1時間ほどフラフラするも、ヒット件数の割りに全く発見できない。そもそも心霊写真を狂言回しにした怪談が見当たらない。幽霊のリアリティーを心霊写真が補完したことを考えると、さもありなんとも思う。だが、現在の心霊写真の状況を鑑みるに、薄らいだ心霊写真の「リアリティ」を怪談という「物語」が再補完することだって考えられる(前掲書の第7章における話に似ている)。「リアリティ」に関しては、昨日も言ったように考えなければならない問題。 まぁ、雪も深まるばかりなので、今日ところは以上。
2005年12月18日
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「信じる」か「信じない」かと言えば、「信じない」だろう。 本当は、「信じる」「信じない」の二項対立に縛られない「疑う」という姿勢(「と学会」はこの懐疑主義を掲げることで「トンデモ本」を客観的な視線から「発見」した)が望ましいのであろう。 「信じない」ことが事柄ごとに立場が揺らぐ可能性(「分からない」は「疑う」ことであり、「一応信じる」という立場が出てくる)があるのに対して、「疑う」ことは常に一貫した視点を事柄に注ぐことができる。ただし、「疑う」の先に「信じない」が存在することも確かである。K・ポパーもこの「言い切り」に言及していたと記憶する。 だが、これがなかなか難しい。「疑う」ためには「信じない(否定)」よりも、その事柄へのより深い知識と洞察が必要とされるからである。 さて、第3章、小泉晋一論文では、不思議現象が「どのように」あり得るのか、その意味するところは何なのかという視点から心理学的アプローチを試みる。そこで、心霊写真に対する認識のあり方を調査するために、アンケートを実施した結果からそれを探っていく。 この試みが統計学的に正しいのか否か(大学生を対象にしているこの場合、学歴と心霊現象の間に相関関係がないのかが不明)は分からない。また、残念なことに心理学の素養も持ち合わせていない。 よって、「心霊現象を信じることが人間の心理や行動に肯定的な影響を与える可能性がある」という結論が正しいかどうかは知らない。ただ、昨日も述べたような近代観からすると受け入れやすいのではないか。それが如何なる意味を持つのかは分からないけれども。 第4章、奥山文幸論文では、日本の文学における心霊写真を見渡し、心霊写真が文学の領域ではその存在のリアリティーを次第に失っていき、探偵小説的なトリックのネタとして活用されていく様子を指摘する。ただし、心霊写真を題材にした文学には、このような「流れ」があるのではなく、間歇的に、時代に応じて新たに発生しているのである。 文学においてこれほど心霊写真が題材にされているとは、正直知らなかった。怪奇物を含めれば、小説という形でもう少しあるのではないかとも思うが、どうなのだろう。心霊写真を題材とした小説なんて、平井呈一の『真夜中の檻』(ホラー小説の論評も含めて、名文。文庫で安いのもいい。)ぐらいしか知らないしなぁ。なので、次章の古田司雄論文は、『リング』を巡る評論なのでパス。 続いての、第6章、今泉寿明論文は、心霊写真の簡易診断の不可能性を言い募るのみで、そもそもこの論文集に載せられている意味が分からない。だが、逆に言えば、このような臨床の場面においては、「心霊写真」も、論文集も無意味であると言えるのであるが・・・。 第7章、戸塚ひろみ論文では、民族学の立場から心霊写真が、「語られる写真/浮上する「怪異」」という連鎖の仕方をするのではないかと指摘する。さらに、心霊写真が口承文化の産物、すなわち心霊写真というイメージが「現物なき心霊写真」というフォークロアを生み出すのではないかと言う。 最終章、小池壮彦論文では、心霊写真の受容の移り変わりを、その他の「眉唾写真」(UMAやUFO)との対比の中で見せる。 相変わらず手堅い仕事で、安心して読むことができた。章の締めくくりにあたって言及しているリアリティーについては、第7章との関係でもそれなりの議論が必要なのだが、疲れたのでそのうち。
2005年12月17日
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「何だか分からないような何か」が映っている写真を『心霊写真』の中で小池壮彦は「ポストモダンの心霊写真」と命名した。心霊写真(日本においては心霊写真という用語が使われる以前は幽霊写真という用語が使われていた)黎明期においては直截的に「幽霊」が写っていたことに対する命名である。 本書に収められた各論考はその「何か」を巡ってなされている。 第1章、前川修論文では、像主の特定が不可能であり、非時間的・非空間的であり、不安を呼び起こしながらも凝視を要請するという心霊写真の特性が、統御しがたい写真の本質的な側面への再考を促す契機となるのではないかと指摘する。 心霊写真を語る際に、写真そのものに焦点を当てる論点が、それなりに蓄積されていたことを改めて知らされた。科学とオカルトを取り結ぶ視点を、「自ら」を写す際に生じる「不気味さ」におくのである。科学がその成立の初期において、オカルトを内包していた科学史学が指摘したことは周知のとおりである(このことに関する賛否は様々であろうが)。 長谷正人論文では、「親密な」写真として心霊写真を信じていた19世紀後半の人々が持っていた神秘的、呪術的な感受性とは異なる、「ポスト・モダン的な心霊写真ゲーム」を愉しむために醸成される「不気味さ」という気分に注目する。 心霊写真に「親密さ」を持っていた時代には、追悼の感情を「ストレート」に表現していたものが、ポスト・モダンの心霊写真においては「何だか分からないような何か」がその性質の故か「ノイズ」として現れているというのである。 このような断絶の原因に「ヴァナキュラー(日常生活に根差した)」な身体感覚の喪失を挙げている。 19世紀後半の消費社会化、イメージ社会化といった急激な近代化への変容のなかにあっても回収されなかった身体感覚と日常生活の論理、それがさらに高度に抽象化された近代都市社会とメディア・システムに覆われることで希薄になっている。それにより、心霊写真への「親密さ」を感じるよりも、「不気味さ」を楽しもうという雰囲気へと移行していったというわけだ。 ヴァナキュラーな身体感覚が失われていく過程は、「ポップ・オカルティズム」(『逆立ちしたフランケンシュタイン』において、オカルトの「大衆化」を指して使用された)の興隆ともちょうど比例している。 ただ、「新密さ」と「不気味さ」とがその潮流に逆らうかのように奇妙なねじれを見せているのは見逃せない。すなわち、「新密さ」への希求と忌諱、「不気味さ」への希求と忌諱という相反する現象が、身体感覚と日常生活の論理の希薄化と「ポップ・オカルティズム」の浸透の同段階において、突如として噴出することである。 このようなねじれを引き起こす主体の有する「欲求」がどこから出てくるのかは知らない。しかし、本論でも指摘されているように、時折、近代の裂け目から顔を覗かせることがあるのも確かである。 ただし、本論では「信じる」ことが安易に「新密さ」に連なっていく危惧がある。R・オットーが『聖なるもの』のなかで、宗教の本質を神秘的で、非合理的であり、そして戦慄すべきものとして「ヌミノーゼ」という概念で表した。「信じる」「新密さ」「追悼」ということだけで複雑なねじれの感情を表すとしたら、それこそ多様性を感じられないほど「身体感覚」を失ったといわざるをえないのではないか。 つづく・・・
2005年12月16日
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つづき・・・ 「共産党の共は共生の共である」という冗談じみた話を聞いたことがある。折りしも、共生と聞くと「共に生き」て地球は一つみたいなノーテンキで、何だか知らないが「いい事」のようにみなされていた時期(「個性」の時もそうだったが、外枠の記号としてのみの言葉から本来の意味を恣意的に切り取り、切り貼りした上で価値判断を加えるパターンが定期的にメディアには登場する)であった。 ポスト・モダニズム思想における数学、物理学の概念・用語の濫用にたいして、アラン・カーソルとジャン・ブリクモンは『知の欺瞞』において痛烈に批判している。 共生を巡る安易な言説はこの構図を踏襲している。共生という生物学(生態学)の用語を恣意的に用いた結果といえる。もちろん、直ちに「生態学的視点」を否定するものではないだろう。共生の本来の意味と現象を押さえつつ、その上で共生をそのものとして用いるのではなく、「生態学的な視点」から用いることは、可能かもしれない。。そのためにも、まずは共生が自然界では如何なる現象なのかそれを知っておく必要がある。 「異種間の動物が相互に利益を交換しながら共同生活を行うこと」を「相利共生」といい、これをそのまま移入したものが初めに挙げた「共生」の原型と思われる。実際にはこのような「理想的な」共生は自然界においては稀有な例であるという。多くは、「両者の間の利益が相反する」、共生相手に何の見返りもなく、むしろ損害を与える「片利共生」になるという。 また、「片利共生」において、共生相手にある程度の度を越えた損害を与えるとそれは「寄生」となる。「相利共生」といえどもその類を洩れず、条件によっては、「寄生」となってしまう場合が存在する。 どうにも、自然界では「共生」というのは、弱肉強食を乗り切る知恵というより、一方的搾取に近いようである。 ならば、「相利共生」だけを我々は参考にすればいいような気がする。理想主義ではあるが、かつて語られていた「共生」とはまさにこれであろう。 しかし、自然界における共生はその現象が起きる「社会」が限定されているので、利益の相互関係が分かりやすい。一方、我々において「社会」は、幾重にも重なる複雑な構造になっているため、利益の相互関係が非常に分かりにくくなっている。 例えば、AがBにワイロを送ったとしよう。AとBとの間には「相利共生」が成立していると言える。しかし、当然これは犯罪である。ここにAとBの利益関係とは無関係の「法律」という概念が加わってくる。AとBの「社会」の利益関係の成立は、その外の「社会」からすると損害となる。 誰にも迷惑のかからない、法律に触れない利益関係ならどうだろう。まず、資本主義における利益関係が考えられる。売る買うという単純な関係においても、否応なく「社会」は割り込んでくるので、純粋な利益関係とは言いがたいかもしれない。だが、一部においては共生関係が成立しそうである。 では、「平和」というのはどうだろう。これだと共生関係が成立するのかどうなのかすら不明で、そもそも「共生」という概念を導入する意味があるのかどうかすら分からない。 どうも、私の考える範囲では「共生」という概念を、わざわざ移入してくる意味が思い当たらない。関連の書籍には事欠かないだろうから、これはこれからの課題としておく。 つづく・・・? 『キリンの首はなぜ長いのか』
2005年12月15日
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始祖鳥:実は恐竜だった 骨格に特徴、「鳥類」覆す発見 長く最古の鳥類と考えられてきた始祖鳥(ジュラ紀後期、約1億5000万年前)の骨格に恐竜特有の特徴があることを、米ワイオミング恐竜センターなどの研究チームが発見し、2日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。研究チームは「始祖鳥は、鳥類ではなく恐竜の特徴を持つ動物だった」と結論付けている。日本の高校教科書には始祖鳥は「最も古い鳥類と考えられている」と紹介されている例もあるが、今回の発見は恐竜であることの有力な証拠となる。 研究チームは、ドイツの約1億5000万年前の地層から発掘された始祖鳥類(全長約50センチ)の骨格を分析。その結果、脚や口、胸の骨格が鳥類より恐竜に近い特徴を持っていた。特に、足の親指が、木をつかむ鳥のように後ろ側に伸びていなかったこと、中指に恐竜のように大きく動く関節があったことが明らかになった。 毎日新聞 2005年12月2日 東京朝刊 「鳥類の本質的証拠は、前脚が翼に変化していること、体が「羽毛」で覆われていること」とある。他にも調べてみると、「気嚢を持つこと」「肩甲骨と烏甲骨が急角度で接する」「大きな胸の骨」など「分類」の方法により種々あるようだ。 分類学の祖・リンネによる人間の分類には「ホモ・トログロディテス、ホモ・カウダートゥス、ホモ・モンストロードゥス」の三つの「人種」が含まれており、「ホモ・トログロディテスは類人猿か、「野蛮人」のこと」らしく、「ホモ・カウダートゥスは「有尾人」」だといい。さらに、「ホモ・モンストロードゥスという「分類単位」には狼男や吸血鬼が属している」のだという。 リンネ以後、分類に用いる「特徴」は諸々の「発見」により正しい分類が模索されている。今回の「発見」がその一助になることは間違いないだろう。しかし、ここで注意すべきは、「始祖鳥は鳥ではない」というのは大きな誤りであるということだ。これに関してはココやココが詳しい。「鳥」と一言で言ってもどうにも単純にはいかないようだ。 さらに、実際のところは「恐竜から鳥になった」と単純には言えないようで、本書においても浦本昌紀の『アニマ』79年3月号の対談での発言「骨盤の形が鳥と恐竜では全く違う」を引用している。 つづく・・・
2005年12月14日
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昨日は『日本イカイカ雑誌』の続きを書くつもりだったが、体調不良と時間がなく、更新できなかった。今読んでいる本にまで、なかなか追いつかないので、続きはパス。 題名『パンダの死体はよみがえる』から一瞬、『ボーンヤード』(巨大化したプードルが二足歩行で襲ってくる映画。本当はキョンシー。)を思い出すが、オカルトはなく、れっきとした科学の本。解剖学の世界から動物の謎を解く。著者の遠藤秀紀はパンダの掌の骨がどのようにして竹筒をつかんでいるかを解明して世界的に注目されたとのこと(進化論好きはグールドの『パンダの親指』を思い出すかもしれないが、本書では解剖学的見地から新しい見方を示している。)。 一般の動物モノの本とは違い、やはり興味を持つのは解剖学所見である。例えば、ゾウの前脚には骨の関節がないとか、モグラの足がどのようにして土をかきだしているかなど、初めて聞く知見が面白い。 また、動物の「遺体」を集めるには「無目的こそが大道」という考えは、マニア特有の発想形態で、参考になる。
2005年12月08日
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誌名を聞いたことのあるもので、全体の4分の1程度、実際に読んだとなるとたったの3誌(紹介数は40件以上)しかない。それも、ペラペラとページを撫でたにすぎない。 誌名となっている「イカイカ雑誌」とは、「イカがわしくイカしてる雑誌」のことである。 実際に紹介されている雑誌を見てみよう。 「BUS MEDIA」 実家に通じていた私バスが経営状況の悪化から路線を廃止し、変わって市バスが走り始めたのが数年前、現在住んでいる名古屋市の最近のニュースによると、「バス事業の窮状を利用者に知ってもらおうと、名古屋市は102系統の赤字具合を発着する57バス停で29日から表示する。100円の収入を得るためいくらかかるかを表す営業係数を、電光表示板か時刻表下にシールで表示する。」という。乗車促進のためというから、何のことやらサッパリ分からんが、「04年度の赤字は全161系統のうち約96%の155系統。係数の平均は141(円)だがワースト系統は953(円)」と聞くと実感だけは湧きそうだ。因みに、名古屋市交通局は「地下鉄とバスで約5600億円の累積赤字を抱える」という。税金を納める身としては、気の遠くなりそうな数字だ。 鉄道ファンはマニアの間でもその特異さが際立つ存在として知られているし(通称「鉄チャン」)、一般的にも認知度は高く、鉄道開通などのニュースでその雄姿を見ることができる。一方、上記のような状況が影響しているかどうかは知らないが、バスファンの知名度は低い。あまり見かけることもない。しかし、バスファンたちの情熱はしっかりとこのような雑誌に結実している。もちろん、業者への提言もあるというから、上記のような問題にも手厳しい指摘がなされていることだろう。 門外漢にも楽しめそうな「おしゃかをさがせ!」のコーナーが単行本になるというが、果たして既に単行本化は成し遂げたのだろうか。気になるところだ。 どうにも体調が悪いので、今日のところは終了。 つづく・・・。
2005年12月06日
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キャッチセールス評論家(!)によるキャッチセールス潜入ルポ、表題『ついていったらこうなった』そのままの内容である。 怪しい仕事や裏のシノギに関するルポには、日名子暁や朝倉喬司といった大御所から、北尾トロや草下シンヤのような若手まで、作家層は厚い。本書はキャッチ専門ということでその中でも貴重な資料になるだろう。 ノンフィクションについてはいくつかの困難がある。 例えば、「事実」の問題。「事実」なんてのは一つしかないのだから、たまねぎの皮を剥くように一枚一枚づつ剥いでいけば、「事実」に辿り着くはずだ。これは事実主義、この場合は現場至上主義として陋習として効力を持っていたりする。 確かに、この考え方は、「事実」を目指して進めばやがて「事実」に辿り着くという進歩主義のような甘美な魅力をもっている。 だが、果たして「事実」とは誰にとっての「事実」なのか?一見バラバラの「事実」をつなぎ合わて「事実」となるならば、個々バラバラの「事実」は「事実」ではないのか?完全無欠の絶対なる「事実」(真理!)など存在するのだろうか? たまねぎの皮をいくら剥いでいっても「たまねぎ」そのものを「発見」することはできないのだ。 さて、「事実」に関してだけでもこれほどの困難があるノンフィクションにおいて、本書では体験取材というオーソドックスな手法をとっている。これは、予め被行為者の視点のみに焦点を当てて行為者の視点は切り捨てることだ。実際、本書を読んでもキャッチセールスの全体像は掴めない。 このやりとりにおいて着目すべきは、キャッチの手法にあるようだが、本当の眼目は、キャッチの断り方である。手法の紹介だけなら、体験取材という方法をとる必要はない。断る際の個別のかけひきが重要なのだ。百戦錬磨の猛者たちから如何にして逃れるのか、そしてそれに対して見せる多様な人物像、そこに面白味を感じるのだ。 キャッチセールス対策のために読むことは勧めない。キャッチに引っかかる人はどうやっても引っかかる。彼等を甘く見てはいけない。それよりも、この掛け合いをこそ味わうべきである。それができれば、あなたはキャッチセールスには引っかからないだろう。
2005年12月05日
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七人の侍ならぬ、七人の香具師である。 とはいえ、遠からずもあらじ。香具師の起源説のなかには、「その名をヤシというのは、野士、すなわち野武士から来た」という説もあるのだから満更でもない。 「ピリリと辛いは山椒の子」 酒と女と博打には眼がなく、天衣無縫の漂泊性、ガンをつけた女(ナオ)は即座に犯し、口上ひとつで人にいっぱい食わせるのが何よりの生き甲斐という下衆なインチキ野郎たちだ。しかも、この時代(天正)は香具師の草創期であり、「後年よりはるかに野生をもち、奔放姓をもち、闊達剽悍をきわめ、ムチャクチャぶりは徹底していた」という。ただし、仲間同士は「五本の指」として生死を共にする誓いをたてている。 「スワスワ辛いは胡椒の子」 毎回の如くためになる日下三蔵の「忍法帖雑学講座」に、「週刊朝日」への連載に先立って書かれた、山田風太郎による「著者の言葉」が載せられている。曰く、「豪快で、エロチックで、ユーモラスで凄絶な物語になればいいが」と。 確かに、最初からいきなり「エンコヅケ」て陵辱する傍若無人な様は、エロチックで圧巻である。 本編を通してみると、風太郎の試みは大いに成功しているといえる。終盤のシリアスな場面に至っても、どことなくユーモアも漂っている。 でかすぎる一物のために未だ童貞の馬左衛門、ドジョウヒゲの軍師・昼寝睾丸斎などキャラクターもいい。 「ケシの子胡麻の子陳皮の子」 本書『風来忍法帖』の目玉はなんといっても、口は立つが腕は立たぬ香具師たちが、化け物みたいな風魔忍者に、持ち前の能力と機知と詐術で挑む壮絶なかけ引きである。かけるのが姫の貞操というから堪らない。 『柳生忍法帖』で十兵衛が井戸のような石牢に閉じ込められたときのように、追い詰められたところから面白い。物語作りがうまいんだよなぁ。 「なかでよいのが娘の子 女買わんかぁ」 あまり小説を読むほうじゃないが、風太郎だけはちょくちょく読む。学生時代に出会っていれば、また違ったんだろうなぁと思う。 文体も平易で読みやすく、エロシーンでの淫靡な筆の冴えは、毎回のように魅了されっぱなしだ。 荒唐無稽かつ奇抜で、妖艶で、凄惨な種々の忍法、未だ、味わっていないなら、人生損しているよ。さぁ、忍法買わんかぁ。 「ベンベラボンのベンベラボン」
2005年12月02日
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1時間で書き終わるはずが、気が付けば倍の2時間。しかも、夜中の3時。完全に寝不足だ。 昨日の文中でも触れた、いばら美喜の著作でも紹介して、お茶を濁そうと思って本棚を漁り始めて気が付いた。 エロ系、時代物は昨日の話の流れからややずれる(面白いのも多いんだけどね)。エロ系に関しては18禁の問題もあるので、そもそも駄目そうだ。となれば、やはりいばらの代名詞であるホラーものとなる。だが、他の人が紹介していない作品となるとなかなか難しい。 貸本だと、『怪談』『オール怪談』あたりだろうが、蔵書のほとんどが手元にない。新書には『黄金』『殺さないで』などの中にいくつか面白いのがあったが、これまた今手元にない。ならば、雑誌の中からとおもったが、未分類のこの山の中から探し出すだけの気力がない。 何だかんだ書いてる間に、眠くなってきたので、他の人のサイト紹介で終わる。とりあえず、ココでもどうぞ。 書き忘れたが、貸本には『疫病神』や『呪われた眼』などのいばらだけの本があるし、「ミステリーマガジンシリーズ」という大虐殺アクション劇がある。 手に入りやすいところでは、ひばり書房や立風書房の新書版が、まんOらけなどのマンガ専門店にいけば、500円位で売っているはず。貸本時代の作品は高いので、こちらがオススメ。作品のデキは遜色ないどころか、むしろ上回るぐらいのテンションだ。
2005年12月01日
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