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トルコ。温暖な地で生きてきた民族と、ツンドラで生き延びることを学んだ民族の子孫たちは特徴的だ。そして、他国の権利を無視して富を貪った者たちと搾取され続けた者たちにはどんな未来があるだろうか。塞翁が馬の運命が待つだろうか。謂えることは、驕れるものは久しからずではあるだろう。それは地道な努力をするものが勝つということだろう。 ・東洋だけが苦しんできたわけではない。その質においても世界はどこも、権力闘争をつづけて紛争に悩まされてきた。こうしてみると人間には平穏な人生というのは物語やフィクションの世界でしかあり得ないのだろうか。憎悪と嫉みと果てしない欲望の果てでしか生きていけないのだろうか。そこには、一片の理想も存在しないようにさえ思えてくる。悲劇と喜劇しかないのだろうか。 ・へ2・・・ヨーロッパは同根の歴史を持っている。彼は血みどろの戦いの末に、人間は悪だと考えてきた、そして、その中で生きるための宗教を信じようとしたのだろう。しかし、それは自分たちのための世界であり、宗教でしかなかった。そして世界を喰いものしただけだろう。のこったのは喰いあわされた者たちの残骸でしかない。しかしそこに住む者たちは、死滅したわけではなかった。因果応報は可能だろうか。反逆はアメリカから始まったが、しかし彼らは所詮ヨーロッパの亜流でしかない。より強く知恵あるものが未来を手に入れるだろう。
2023.02.19
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トルコ。かなり昔だと思っていたが、写真を見ると2010年11月だった。所謂西側半分をバスで回った。10日間。タシケント経由で、イスタンブール~チャナッカレ~トロイ~クシャダス~エフエソス~パムッカレ~コンヤ~カッパドキア~アンカラ~イスタンブール。 人生は旅だというが、トラベルが、リタイアした後、これだけ自分の暮らしにかかわるとは想像もしていなかったかもしれない。偶々、新婚旅行で行けなかったハワイにと、妻の念願を叶えるために出かけたが、すぐ次のベトナムに行くことになり、それから、シンガポール、ドイツをツアーしたが、病気が悪化して入院した後、ウオーキングを初めて、それが日課となって体調がよくなり、北京、桂林、バンコクと出かけて、2010年に、トルコに行くことになったのだった。 ・そのころトルコは、政情も安定していて、安心してツアーができたのは幸運だったのだろう。現地ガイドも大学の日本学科を卒業した人だったから、詳しい歴史を話してくれた。シーズンオフだったので、観光客は、中国人と日本人が多かったようだ。鉄道はあまり普及しておらず、バスツアーだったかがルートは、どこも快適であった。オフだったせいか、どこのホテルもワンランク上だったようだ。今から思えば、体調が好かったこともある。 ・へ2…東西のかなめにあるトルコは、いろんな意味で魅力的な文化を持っている。日本との関係も深いらしい。長い歴史から、ロシアに対する敵対感情があるためか、日露戦争に勝った日本に喝采をしたらしい。オスマントルコというが、トップカプ宮殿の中にあるハレムは、徳川幕府の大奥に似ている。既にトルコは共和国でもある。今回のトルコ・シリア大地震では、甚大な災害となったようだ。心痛に耐えない。
2023.02.19
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トロイの木馬。人道に対する罪が、まだこの世に存在している。強権国家が、いまだに存在しているからだ。それを黙認しているのは、それだけ人権意識がないからだろう。矛盾のない社会はない。だからこそ俯瞰的に見る目が必要なのだろう。風通しの悪い社会では、腐敗しやすくなる。進歩のない社会は、崩壊するだろう。まさか太田道灌でもないが、西欧の云うモラルでもないものが、やはり「道徳」としてあるべくしてあらねばならない。それは、ある意味生きている道徳でなければならない。だからと言って国家が国民に押し付けるものであってはならないからだ。法と道徳は違う。法は最低の道徳でしかない。法を破らなければ何でもしていいという考えが、いつか道徳観を歪めてしまった。国家による統制が皇国思想として個人の道徳観まで強制しようとした戦前を経験した日本人たちが、その解放と同時にアメリカのモラルが流れ込んできた。新しい道徳観を確立する以前に、異文化のモラルが人々を混乱させただろう。それは太宰の作品にもその晩年のとまどいが残っている。日本に所謂文化人がいるのかは甚だ疑問だが、少なくとも多くの知識人はその選択を迫られただろう。何しろ、守るべき道徳観を見失っていたからだろう。 ・そういう中で。子供の戦後の教育はどうなったのだろうか。それこそ童話くらいしかなかっただろうし、「蜘蛛の糸」「走れメロス」や「一房のぶどう」「一炊の夢」「塞翁が馬」など、古典とか、文学作品とかの中から選ばれたいくつかの物語りでしかなかったのではないだろうか。教育者がただテキストとなるものを教科書に頼っただけなのだろう。そんな形式的なもので人間の道徳が理解できるわけがない。そこに日本人の基本的な道徳観の欠如が生まれたのではないだろうか。勿論憲法も抽象的な条文で書かれている。恒久の平和とは何か、基本的人権とは何か、国民主権とは何か、それは具体的に示されているとは言えない。それは、その時代によって解釈が違うからである。 ・へ2・・・法の番人たる裁判所の判決は個別的でしかない。然も道徳を判断してはいない。それは裁判官の民事刑事の或いは公権に対する裁判官の裁量の問題でしかない。個々人の道徳観は、個々人のものでしかなく、広く大衆のものではない。では、なくてもよいものであろうか。そうとも思えない、古いお仕着せの道徳でもなく、アメリカナイズされたモラルでもない新しい「道徳観」が示されるべきではないだろうか。それこそ文部省の「期待される人間像」でもない、創造的で、現代にマッチした新鮮な道徳観がなければならない。抽象的ではなく具体的であり、論理が明確なものでなければならない。もう「十戒」でもあるまい。日本人の世界観をベースにしたものでオリジナルであるべきだろう。何時までも「スープの海」では困るのではないだろうか。それこそ、広く議論がされ、ナショナル・コンセンサスがなければならない時代ではないだろうか。どうも、人々は日本人としてのプライドを失いかけているような気がしてならない。
2023.02.19
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・日本では誰が原爆を予想していただろうか。広島も長崎も市民たちは何も知らなかったし、当時の陸軍大臣も参謀も日本政府ですら知らなかったが、然し、アメリカでは原爆が製造され、アメリカ政府は原爆投下が決断した。こうしたことが起こるというのは現実だ。そして、現実は冷徹でもある。起きるべくして起きる。 ・「勝つためなら何でもする」というベトナム戦争でアメリカの司令官の記事を読んだことがある。負ければ処罰され殺されるが、勝てば英雄だともあった。日本にも「勝てば官軍」というのがある。それでもベトナム戦争で明らかにアメリカは負けたがそれを認めていない。一応失敗であることは認めているが、処罰された話は聞かない。ソンミ虐殺でさえ下記のとおりである。併し、多くの良心的なアメリカ人兵士のトラウマになったという。 ・へ2・・・ある日突然の激変があるのではないだろうか。それは国内であるとは限らない。朝鮮半島もその可能性はあるだろうし、台湾問題もある。どれだけの備えができているだろうか。自然災害もある。リスクは高まりつつあるのではないだろうか。それに対応できるであろうか。できなければ終わりだろう。そうさせないために何ができるのだろうか。日本の運命と、中国の運命は同じではない。妥協は許されない限界線とは何か?まだ先だと思っていることも、足腰が立たなくなってからでは遅いのだ。 (Wikipedia より)「ソンミ事件」1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に行われた判決においてカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー中尉自身もその後懲役10年に減刑された上、1974年3月には仮釈放されたため、この不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
2023.02.19
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アヤソフィア。人間長く生きていれば、あちこち引っ掻けて傷つかぬものはない。そこからじわりとはいる毒がまわらぬはずはなく、或いは自ら酒をあおるように入っても来る。それが溜まってくるだろう。外から老いるばかりではない。内から腐ってくる老廃物もある。それに気付かないでいるのは、自分の癌にも気付かないかも知れない。兎角にこの世はアイロニカルだろう。 ・自分に厭な予想だけはよく当たると作品の中で書いている。それは当たり前だ。厭なことは必然であり、自分のいい気な予想は甘いだけだろう。当たらないはずである。そんな作家が天才といわれたりする。小心者の、人間の自惚れ屋のウォッチャーでしかない。何故、飛ぼうとしなかったのだろうか。自分にあわない世の中なら、外に飛び出せばいいのだ。そこですぐに死んでしまうならそれは、どこでも適応できないだけななのだ。 ・へ2・・・デーラーに定期検査のために車を持ち込まねばならない。自宅から5キロくらいだろうか。あちこちから老廃物が噴出している。それを出さねばならない。溜め込むからますます老廃物が増えるだけだろう。新鮮な空気をより多く吸い込み出す膿はできるだけだすべきだ。モンスターになる前に。そうすれば、道端の美しい花にもあえるだろう。それもわからないけど。 別に人間嫌いというのではないが、ああだこうだも面倒である。余生くらい人間関係を拗らせたくない。50歩、100歩でしかない。
2023.02.18
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台湾。物を考えない人間の社会でもある。自分一人で生きているのでもない。あるがままの世の中なのだろう。偉い人がこの社かを支配している。自分たちの好きなようにしたいだけなのだ。それが、カルロス。ゴーン被告のような、何をしても無罪だというのだろう。評判などあてにはならない。西郷どんだって、あやしいものだ。総理大臣も陸軍大将も、祭り上げられた木偶人形でしかない。 ・英国人は、貧乏でも自己卑下しないという。恵まれている人でも、自分は不幸だと思うかもしれない。佳人薄命もある。従姉からはがきがきて、元気かとあった。もう80歳を越している。彼女の父で、私には伯父にあたる人から、励ましのはがきをもらったことがある。そこには達筆な文字で、「自愛専一」に、と書いてあった。いつも天から慈愛の目で見てくれていた。 ・へ2・・・天知る・地知る・吾知る。どんなに隠しても、見ている人がいる。恥じないことをすべきである。娘は、またこの寒いのに札幌の雪まつりを見に行くらしい。数十年に一度の寒気団が来ているというのに、何が見たいのか知らないが、好奇心が我が家のミームらしい。
2023.02.18
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トルコ。一人称の表現で書いていることが多いわけで、「私」という表現は、それは、人間が地球上で持つ個人の視点でもある。いくつかの作家の本を読んでいると、色んな「私」がいる。だがその「私」は、複雑怪奇であり、その多様性といったらない。そして書いてあるものをどこまで理解しているだろうか。作家たちの心情は作品にだけあるのではない。素直な表現もあれば、捻くれたものもある。そればパズルのようなものさえあるだろう。そうして、他人をバカにしたような作品に遭遇すると、またかと思う。自分を何ものかに表現しようとした。「私」は莫迦げたピエロであり、絶望のハムレットであろうか。エゴイストだろうか。 ・愚劣でない「私」がいるだろうか。弱い犬ほどよく吠えるという。弱味があるからだ。アジア人は世界から尊敬されることをしていないのではないだろうか。すぐギャアギャアばかりいっている。していることを反省しているのか。疑問だ。自分の子供を虐待しても平気でいる。自分を頼るしかない自分の子供たちだ。罪は重い。そんな国家が国家といえるのか甚だ疑問だ。統計不正にしろ、あってはならないことだ。出直しが必要だ。それともリセットだろうか。末世かもしれない。
2023.02.18
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トルコ。日本では、漸く、バスや電車に列に並んで乗るようになったが、中国では、割り込むひとがいるのだそうだ。道路で唾を吐いたりもするという。最低限のマナーが守られなけば、世界から嘲笑される。一事が万事ともいう。小さなことができなくて大きいことは尚更できないのが常だ。強権発動は、それがなければできないからだろう。叩かれないとできないのでは本物ではない。た ・罰が重いから罪を犯さないというのは、倫理観が高いとは言えない。いざとなれば、その歯止めが利かないことにもなる。初夏に北京ツアーに行って感じたのは、安全な国家ではないということだ。昔聴いた話とは随分違っていた。柔和な中国人ではない気がした。治安は良くないのではないだろうか。安心して、街で買い物ができるのだろうか。そんな中で、猫被りの北京オリンピックでは困る。期間中の厳重警戒では本物ではない。 ・へ2・・・中国は市民に、確りと国際レベルのマナーを教育すべきだろう。勿論それは中国の問題であるが、内と外が違い過ぎるようでは、国際社会から信用されないだろう。真のプライドこそ尊重されるべきだろう。見栄ばかりでは長続きしたお付き合いはできないからだ。面積や人口だけが、大国の要件ではない。其れに相応しい行動をしてからだ。
2023.02.18
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梶井基次郎「冬の日」。日本の文学はどうしてこうも暗いのだろうか。それは暗いもの背負っているからだろう。時代背景がある。系譜があり、彼を必然的に生み出した環境があるに違いない。肺病で死んでいくという文学者がまるでモデルのように存在した。 ・なんてけちな感情だろうか。それこそ豆腐のかどで死んで行ったようなものではないか。誰のために死んだというのだろうか。他人を押しのけて大学に入学し、その貴重なチャンスを自ら放棄して、何の責任も果たさず、無為に死んで行ったとすれば、その学ぶチャンスさえなかった者たちへの罪はどうなるのだろうか。大学は人選を誤ったのではないだろうか。社会はねじを逆に回しつづけたのだろう。 ・へ2・・・まあ暗い未来のために自嘲しよう。俺たちのまわりには腐れた畑しかなかったのだ。そこでどんな花が咲くというのだ。ハトに豆をまいて暮らせというのか。下っていく坂道を転げ落ちながら過去の栄光を引きずっていく英国のように斜陽の中を走りぬけようとするばかな日本の崩壊の時代だ。
2023.02.18
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和白干潟のミヤコドリ。人間をどう見るのか、決めつけられないところが<みそ>なのだろうか。明治維新からたった151年間しか経過していないのだがら、あまり多大な要求も無理なのかも知れない。それまで気の遠くなるような歴史がある。先人と私たちの差は殆どないのではないだろうか。ただ過去を知っているだけだ。それを生かさなければ意味がない。この地道な作業を誰もしようとはしない。アバウトで済まそうとしている。 ・最大公約数で割り切れるような現実はなく、科学もミクロになれば闇の中である。だろう、だろうは科学ではない。それこそ細胞の一つまで追及して真実を知らねば、全体を知ることができない。澱んだ目で科学的事実を見てはいないか。そこに予断があり、気紛れな権力が介在して、真実を隠してはいないだろうか。結果だけが重視され、肝心なプロセスが蔑ろにされている。生命の誕生の機序さえわからない。人間の野心や欲望をどうしたら正常な状態に保ち得るか、人間の叡智を一つの力に集約できないのは、何故だろうか。 ・へ2・・・何か大きな壁があるのだろうか。もう取り戻せないくらい時間を費やしてしまったのだろうか。植物と人間とどちらが先まで生き延びるのだろうか。どうも人間には勝ち目がないようだ。
2023.02.18
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トルコ。ここ10数年ツアーをしたが、トルコツアーは、10日間だったが、印象深い。トルコ・シリア大地震では、甚大は被害が出ているが、他人事ではない。医師たちが、患者にそのメディカルステージを精確に伝えないことは許されるケースがあることは判る。そのことが患者のダメージになるからでもある。外交問題も、事実を隠すことはあるだろう。それは、公共の福祉のためでなければならない。安倍元首相は、毎日のようにテレビに登場したが、都合の悪いことを隠すことが多かった。選挙の前には、羊になったが、終わればオオカミだったと思う。 ・中国やロシアの政府のプロパガンダは、時々胸糞が悪くなる。国際社会から嘲笑されているが平気らしい。クロをシロと言いくるめるというが、まさしく厚顔無恥である。それが彼らの仕事でもあるのだろう。同情はするが、罪は重い。なぜなら国民を惑わせるからだ。自分たちが正しいと思うのは勝手だが、それではまともなことができなくなる。ウクライナはロシアの一部だから、それに反対する人間は、みなナチズムだというのだろう。戦争に反対するものを、戦前の日本では非国民にされ迫害された。 ・へ2・・・ひとは人に対してオオカミにもなるらしい。犯罪を犯した囚人たちをウクライナに送り込んで戦わさせている。80数人を殺害したといわれる凶悪犯もその戦場に行きたいといっているらしい。まともな社会ではない。私たちの目の前にある現実は、そうした国家との闘いでもあるのだろう。恐ろしい敵はいくらもいる。修羅場が待っているのだ。勝ち抜いてこそ未来もある。
2023.02.18
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トロイ遺跡。政治という幻想が、世襲という甘いイメージを創出したのだろう。そして、夢は破れ続けているが、いまだにその郷愁があるらしい。そして悲劇が生まれる。光陰矢の如く去り、そして時は夢の如くでもある。人びとの思いも洋の東西を問わず、さして変わるところはない。それは、権力者が自分たちの都合のいいように仕向けてきただけでもあろうか。そこにあるのは、程度の差でしかない。アメリカは合衆国であり、多民族の融合と衝突が膨大なエネルギーを生じて、世界を支配しようとしたが、それは野望でしかない。見果てぬ夢のようなものだ。自分たちのルーツから逃れることもできないでいる。 ・日本も西洋を真似て近代化を図って151年経過したが、それは猿真似でしかなかったことに、気付き始めている。西洋を日本に持って来れる筈もない夢を見続けたに過ぎない。個人レベルの知識で西洋に勝てるはずがない。負ける戦を仕掛けていただけだろう。もはや時は過ぎ一流国ではないことを潔く認めるべきだろう。そして、いま、やれることを真剣に取り組んでいかなければそれこそ、悲惨なことになるに違いない。いま127百万人が、急激に人口の減少を招きあと数十年もしたら100百万人を切る。そういう中での「道路特定財源」をはじめとする国の施策は、無策というしかないだろう。 ・へ2・・・あと僅かの政権能力しかない内閣に未来を委ねるつもりだろうか。なれ合いの政治に何ができるだろうか。自分の存在を膨らませようとしてばかりいる政治家ばかりではないだろうか。そんな連中にどんなプランがあるのだろうか。先日の橋下新大阪府知事の、「どんな意見でも言って欲しい」というのは、自分に何のプランもないということではないだろうか。現実も知らないものが裁判官にでもなったつもりだろうか。どうも勘違いしているのではないか。それがまた日本的知識人ではないだろうか。兵隊になって、社会悪と闘うつもりはないのだろう。
2023.02.18
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和白干潟。 憧れていた21世紀であるが、どうやら期待は絶望に代わってきた。戦後生まれで、20世紀の終わりは、定年の5年くらい前だったが、ステージが急変したようだ。好いほうでないことは確かだろう。空白の10年が、日本経済に垂れこめていたのだろう。それこそ国内には、外圧に立ち向かうような、政治家も学者たちもいなかったのだ。偶然の産物でしか高度経済成長もなかったのだろう。 ・甘い夢を見ていたのだろうか。実のある知識を身に着けていないからだろうか。ペーパーテストでしか、学力は評価されなかった。鍛うべき筋肉や識見が、教育されてこなかったのだろう。それこそ生命が、浪費されたのではないか。国家が他国に占領されていたこともあるに違いないが、独立心はあったはずだ。欧米の支配に従属していただけだろうか。 ・へ2・・・アメリカをはじめ、欧米があり、かたやロシアや中国がある。そして、北朝鮮と韓国、そして台湾と、東南アジアが控えている。何処の国も、それぞれ多くの国内問題を抱えている。理想的な国家はない。政治は、一寸先は闇だというが、まさにそれだ。日本も、戦前のような軍事主義国に戻らないとも限らない。皇国主義かもしれない。ロシアや中国の衛星国になるかもしれない。どんな未来が待っているのだろうか。はたして国際社会から尊敬されるような国家に成長できるだろうか。それはこれからの私たちの生き方にかかっている。前途は多難だろう。然しそれはいつものことだ。
2023.02.18
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アオサギ。ロシアは、囚人を使って戦争をさせても許される国らしい。ロシア兵は、正規軍と囚人は同じなのだろう。使い捨てにされるからだろうか。親や子もいるし妻たちもいるに違いないが、死ねばみな同じ愛国者なのだろう。冷酷な人間たちの社会でもある。 時々常軌を逸したことをして世間を震撼させる事件が起きる。漫画の世界に耽溺した若者がそのまま社会に出ていくことがあるのではないか。漫画の世界と現実の世界を確り普段は区別できていたとしても、何らかの強烈な刺激を受けて抑制が効かなくなることがあるのではないか。それこそ、「漫画」だからと油断していると、それが脳にインプットされておりニューロンの長期記憶になっているかも知れない。それは人間を人間とも思わないゲームにもなる伏線になりはしないか。犯罪事件の多くは、その社会人としての平衡感覚の欠如があるようにも思えてくる。 ・確り教育を受けないとどんな人間が生まれるか判らない。つい「教育」というと高等教育に目が行くが、「常識を養う」という教育には重要な仕事があるだろう。何をしてはならないか。「それはどうしてそうなのか」。はっきりとした認識がないと、措かれた環境で、人間はナチス軍団にもなるだろう。殊にそのリーダーがどういう世界観をもっているかでもある。時津風部屋の親方も、社会人としての平衡感覚をもっていたのだろうか。とても教育者とは思えない。勿論学校ではないが、その世界が異常だろう。そういう異常な世界が今回の事件を起こしたのではないか。どれだけ人間が耐えられるかなど、ろくな知識もない素人が判る筈がない。ただ目先の損得に目を奪われていたのではないか。 ・へ2・・・自分が何をやっているのかさえ学識のある人間でさえ分からなくなることがあるだろう。それほど人間の平衡感覚は微妙で脆いものだろう。しかし、どれだけ激情的だろうとなかろうと、やっていけないことがある。それをやるような組織は信用できない。それこそ癌細胞のように、他のグループにも転移しているとみるのが常識だろう。それこそ時津風部屋といえば有名な親方がいた名門である。相撲界で、特別なことをしていたとは思えない。日本人の平衡感覚が問われている。
2023.02.18
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ゲーテの生前も死後も、相愛の詩人マリアンネは思い出のハイデルベルクを度々訪れている。とくにハイデルベルクからネッカー川を数キロ遡ったノイブルクの旧修道院を好んだ。彼女の晩年、1850年頃にはドイツ鉄道で、フランクフルトから行くことができた。修道院は、1825年に友人の弁護士が買い取り、親しい人たちの安息所だった。1860年10月3日から5日にかけてノイブルクに滞在した。そしてハイデルベルク城を訪れた。遠縁のエミーリーエ・ケルナー夫人が「ゲーテとズライカの原型」を書いている。「小さな石門のそばで、マリアンネは立ちどまって、一人にさせてほしいと言った。彼女は庭に入っていったが、なかなか戻って来ないので、付き添いの私は心配になって、同じ門を通って中に入った。・・・人けのない緑の林の中に彼女は物思いにふけって立っていた。両手を合わせ、顔には涙があふれていた。そこで彼女は、この庭の中でゲーテは自分にキスをした、と語った。・・・城の中庭から出て、右にまがると、公園のみちばたにいちょうの木が立っています。彼女は、そこに立ちどまって、日傘でいちょうの葉をニ、三枚取ろうと試みて、<これが、ゲーテがあのとき、葉を一枚ちぎって、私にくださった木です。そしてあの詩を作って送ってくれたのです。>つまり、彼女が「西東詩篇」のズライカであることを明かしました。」マリアンネについて「彼女は死に付いても、感傷的になることなく、間近に迫っている避けがたいできごととして語っていた。生に対する愛がいつも彼女の中に目ざめており、たえず彼女を若返らせた」とヘルマンも「ゲーテとズライカ」の終わりに記している。ハイデルベルクからフランクフルトに帰り、その後二ヶ月、病気らしい病気もせず、死ぬ二日前にも夕方散歩したくらいだった。1860年12月6日マリアンネは、この世に別れを告げた。フランクフルトの中央墓地に埋葬された。その飾りもない鉄の十字架には、 「愛はやむことなし」(Die Liebe horet nimmer auf.)と刻まれた。このまえ借りたかった本「ゲーテ相愛の詩人マリアンネ」を大学の図書館で借りてきました。また、振り出しに戻りつつあります。
2023.02.17
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グルントヘルシャフト(荘園制)は、中世及び近世においてもっとも重要な経済的および社会的組織形態のひとつであった。しかし、これは抽象的で包括した概念ではなく、近代歴史学・法学の整理概念である。中世後期および近世の法学者にとって、土地の処分権は、荘園制の本質的構成要素であった。荘園制とは、土地の授受がなされ、荘園領主と隷属農民相互の権利・義務が定められるための機構を生み出す制度とみなされたものだ。即ちグルントヘルシャフトとは、土地の貸与を受け、それを自己の経営で耕作し、経済的に利用する人びとに対する土地所有者の支配という意味である。領主の所有権は、土地の貸与によって強く制限された。隷属農民が貸与地に課せられた義務を規則どおりに履行する限り、領主にはその土地を取り戻す可能性はほとんどなかった。隷属農民は、荘園領主による勝手な土地没収から法的に保護されていたのである。土地の処分権から、土地を耕作する人びとに対する支配権が生まれた。純物権法的な関係を超えた、身分法的特徴を帯びたものだ。この人的隷属関係は、多くの場合、一種の「誠実宣誓」Huldigung によって儀式化した。隷属農民をさす「グルントホルデ」ないし「ホルデ」と呼ばれた。他方、隷属農民は領主に対して「保護と庇護」Schutz und Schirm を求めた。隷属農民は、経済的な困窮に陥ったとき、貢租を免除ないし軽減され、播種用の種、種畜あるいは建築材料を支給された。裁判で権利を守り、不当な差し押さえ、略奪や暴力から保護する義務が領主にあるとされたのだ。シュヴァーベンシュピーゲル(1274)・法書。 Wir suln den herren dar umbe dienen, daz si uns beschirmen, unde beschirment si uns nit, so sin wir in nit dienestes schuldig na rehte. Der Schwabenspiegel nach einer Handsechrift vom Jahr 1287. Hrsg. von F.Lassberg.Tubingen 1810. S.133(Neudruck hrsg. von Karl August Eckhardt, Aalen 1972). 荘園制は、中世の多様な支配、社会組織と政治・社会・宗教・文化上の生活を支える経済的基盤でもあった。とくに中世のうちに進展して、中世文化の開花の基礎となった社会的分業は、主として荘園制に組織された農業の経済力に基づくものだった。
2023.02.17
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「封建制」Feudalismus と「レーエン制」Lehnswesen という二つの語は近代でつくられたことばであり、ドイツ語では多く同義語的に用いらている。「封建制」は、最も古い使用例は9世紀後半であり、当初は土地ではなく動産を意味した。併し、10~11世紀にフランスでレーエンの意味<beneficium(恩給地)>を獲得した。この意味の変化は、封臣が主君から本来は生活物資だけを受けていたのが、ここにようやく土地を支給されるようになったということだ。「レーエン制の時代」Lehnszeitalter(ハインリヒ・ミッタイス)は中世と同一ではない。レーエン制は8・9世紀のフランク王国で展開し、おおよそ10世紀から13世紀の間に最盛期を迎えた。レーエン制は、中世後期にはまだ大きな役割を果たしていたが、近世になると急激にその意義を失った。しかし、それが完全に消滅したのは18~19世紀初頭にかけてのことであった。広い意味での封建制は、いくつかの特徴をもつ特定の社会秩序であり、「封建社会」Feudalgesellschaft をさす。この用語法は18世紀のフランスからうまれた。そこでは旧体制(アンシャン・レジーム)が「封建体制」あるいは「封建制」と呼ばれ、国民会議は1789年8月11日にその廃棄宣言をした。この反封建的スローガンとして生まれたこのコンセプトはドイツにの継受され、政治学、哲学、歴史学および社会学の用語にも採用された。封建制概念は、広く考えれば封建的な諸要素がはっきりと指摘される他の国々や文化圏(日本、中国、インド、エジプト、トルコ、ロシアなど)にも適用可能だ。だが、世界的な社会形態としての封建制の本質的特徴とは何かという問題について定説はない。封建制度は、マルクス主義の歴史観にとっては格別の重要性をもつ。奴隷制度と資本主義の中間にあるのが、封建的社会秩序であると位置づけられている。封建的体制は世界史的な社会形成の序列における必然的な段階としてどこでもみいだせるという学説でもある。
2023.02.17
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「幸せのちから」主演のウイル・スミスが好演していましたね。「幸福は追求するものだ」という意味のアメリカ人の精神がよく解かる映画でした。”the pursuit of happiness" なのですね。ただ、一流会社への就職が即幸福だ、という視点が、果たして正しいのだろうか。それとアメリカの一流会社の就職試験が、ペーパー優先ではなく、厳しい実務の審査をされるらしいことがわかりました。貧しさが半端ではないことも。選り抜かれたものだけがリッチになるのが当り前だという思考で良いのだろうか。努力したものが報われることは異存がないとしても、20人に1人しか採用しないという選抜は果たして公平な社会なのだろうか。アメリカのサクセス・ストーリーは、どこか欠落した部分が多い気がしてならない。結果がよければ何でもありなのだろうか。実力のあるものが切捨てられている部分があるに違いない。仲間にならなければ席を得られないのではないか。同じ仲間には親切で、それ以外には冷たいという利己的な遺伝子ではないだろうか。
2023.02.17
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ハンス・K・シュルツェ著。本書「西欧中世史事典ー国政と社会組織ー」はドイツの歴史学部で中世史入門の教科書・必読文献として広く知られているとのことだ。日本語訳の序文に「ヨーロッパの中世史が日本で強い関心をひき、ドイツで人びとを大変に驚嘆させています。・・・ドイツと日本の国制と社会組織にはよく似た現象が見られますので、この著作は、比較研究の手がかりとして役立つでしょう」とある。折目正しい丁寧なことばが寄せられている。それは、明治政府は、ドイツから学んで立憲政治を目指したのだから国制は似ているはずである。併し、その後西洋と東洋との相違がそれぞれ屈折した進化をし、やがて第二次世界大戦では、両国は敗戦という悲惨な経験をした。国制と社会組織の「基本構造」は、基礎となる知識といえるものだ。それを学ぶことは必須ななことだと思うからだ。そして、日本人にとってドイツを学ぶことはルーツを知ることであるだろう。歴史の空間が体系化されたときひとつの時代の社会秩序をみることになる。ドイツ人と同じ本を読むことは、意味があることだ。翻訳本が、どんどん紹介してくれる時代がくるだろう。同じ教科書を勉強することが、やがて価値観の理解にも通じるに違いない。相愛のマリアンネをもっと理解していけば、やがて偉大な詩人ゲーテにつながる道をたどることになるだろう。如何に歴史が、狭い空間の中に拘束されていたかを知ることが重要なのだ。ヨーロッパの中世が、内なるミームの中にあるとしたら、それを知るべきではないだろうか。
2023.02.17
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久能山ロープウエイ。最近近くに新しい大学ができたり、業務スーパーができたりしているが、外国人が増えているようだ。時代は、変わっていくのだろう。何故アメリカが悪の枢軸の北朝鮮と交渉するのだろうか、平和へのアプローチがされていると見る向きはあるとすれば、期待は裏切られるに相違ない。ポーズに過ぎないからだ。それを毎日報道してみせる日本のメディアは何なのだろうか。それは、彼らの飯のタネの仕事だからだろう。日本政府もそれと知りながら追随してもいる。拠ってたかってゲームをしているのだろう。国と国とが遣るゲームに過ぎない。そこで犠牲になるひともでるだろうが、そんな事で誰も責任を取らないだろう。それはゲームだからだ。それはまさに仮装の出来事が繰り返されている。今度開かれようとする二回目の米朝首脳会談にしても、前回と同じ、ひとつのアメリカの戦略であり、北朝鮮の足掻きでしかなく、その他の国のシラケた対応なのだろう。アメリカは、いま極東でアメリカの軍隊を使いたくないだけなのだ。できるだけ時間稼ぎをしたいだけだし、北朝鮮は現体制を一日でも長く延命させたいだけだ。そのためなら何でもする気でいる。その妥協をするか、だけだろう。もしその歩み寄りと言われるものが出たとしても態勢にそれほどの影響はないだろう。つまり敵味方の衝突のだ。やっと、LEGAL RESEARCH が使えるだろうか。それは、これからだ。余り期待してはいない。それ程甘くはないだろう。一部のためのものでしかないからだ。現在の日本社会が開放的になったのではない。らしく見せたいだけなのだ。空っぽのデータを如何にもそれらしく見せているだけだ。それこそアメリカが、日本の政治が遣っているレベルの範囲でしかない。紛らわしいことをするものだが、このプロセスが、何を引き起こすこともあるだろう。虚偽とアドバルーンと、そして、私たちの戸惑いが付き纏うのだ。キツネとタヌキの化かし合い。どうも見ているほうが白けてしまう。
2023.02.17
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久能山ロープウエイ。肌の色がどうとか、民族がどうとか、もともと同じ人間で、誰とでも愛し合えるようにできているのだ。偏見でものを考えてしまうからだろう。ロシアとウクライナの関係も、醜い人間たちの争いでしかない。国家の名のもとに戦争をしているから辞められなくなる。いつも後で後悔することになる。始めるより辞める時が問題である。相手が何を言っているか?言いたいのは何か?喋っていることだけが言いたいのではないかもしれない。もっと、本当は違うことを言いたいかも知れない。殊に日本人は、まわりくどい言い方をするし、言いたいことをいわない傾向がある。土台、議論が苦手なひとが多い。だから実力が判り難いはずだ。簡単なペーパーテストに評価などできるはずはないのに、それがメジャーとは情けない。いまのままの日本の教育では世界から置いて行かれる。インドの教育の現状が特集されている。インドの人口14億人の知的躍動が衝撃を与え始めている。インドの未来の可能性は、日本の比ではない。貧しさの渇きに勝てるものはないだろう。そのパワーに圧倒されて日本の学生は吹き飛ばされるだろう。深い知的能力を高めなければならない。どうすべきか。その問題の所在を見出さなければ日本は世界の未来のお荷物になるだろうことだけは確かだ。脳の活動にカネは要らないのは有難いことだ。誰でも参加することができる。学生は皆同じスタート台にいるだろう。
2023.02.17
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トルコ。私たちの伝えたいことは、その思いはいつもショートしてしまう。だからいつも消化不良だ。こんな社会で健康でいられるなんて、どうせ中途半端な奴なのだ。自分だけが良けりゃいいだけの人間なんだろう。他人のスペースに土足で入り込んでも何も感じない不能なのだろう。腐った空気を醸しいるのは自分の排泄でしかない。そいつを他人の所為にして、生きているなんで、ラットの赤ちゃんと変わらない。ラットの母親は、赤ん坊の排泄物まで嘗めて、育ててやる。それをしてもらえないと一人前のオスになれないのだが。戦場で逃げたがるような卑劣漢が、平時では大きな顔をしている。そういう奴をヒーローに思っている阿呆がいっぱいいるだろう。臆病な奴は、せめて戦場をつくらないことだが、そういうやつにかぎって反対のことをしたがるものだ。いつか臭覚を失くすらしい。車の初心者が、わざわざ危険なことをしたがるのと同じだ。
2023.02.17
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またひな祭りが来る。ことしはまだ押し入れの中にあるようだ。毎年年に一度だからと、すでに40年近いが、出して飾っているようだ。娘が小さいころは、手伝っていたが、もうずいぶん前からしなくなったが、細かいことが苦手でもある。私たちが、熊本から福岡に引っ越すとき、娘の祝いに義父母が購入して親戚を集めて宴会を開いてくれた思い出の品でもある。 ・福岡に来た当時は、3DKのマンションだったので、飾るのに苦労をしたものだ。6畳間が潰れてしまうからだ。小さいもので好かったのに、立派なものを贈ってくれたが、これは、初孫であったのと、娘が生まれたときにチアノーゼが出て、心臓病の怖れがあると、半年ばかり心配した後、自然治癒したことの反動でもあるかもしれない。絶望の後の喜びは、それだけ大きいのだろう。 ・へ2・・・日赤病院で乳飲み子で手術もできず、手の施しようもないといわれ絶望したものだ。毎朝、車で早朝の暗い中を診察の順番待ちをした。そのころ失業していたこともある。暗い気持ちの中で子供が生まれて、それが重い病気だといわれたのだから絶望するのも当然だろう。ところが、日々の経過とともに自然治癒した。体が成長してそれとともに心臓の状態も正常になっていったらしい。感慨も深いひな壇である。
2023.02.17
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堂ヶ島遊覧船。民主主義とはなんだろうか。欧米の言うデモクラシーと、ロシアや中国でいう民主主義と雲泥の差がある。コンセプトの違いは相当違うのだろう。言論の自由が、まず問題である。人権もある。基本的人権が、私たちの固有の権利である。自由と平等は、時代とともに変化している。平時と戦争の間で、私たちの一生もその意味が変わってくる。「クラッシュ」は、複雑な人種の差別と翻弄される人間たちを描いている。皮肉な巡り合わせがあり、如何にも狭い世界で生きているかを表現しているようだ。そこにあるのは善いか悪いかの単純な社会ではないのだ。退廃した世界が広がりつつある現実を思わせた。バイエルン地方に在住(国際結婚)のブログ仲間のsuhさんが一時帰国で、そろそろ東京ではないだろうか。飛行機嫌いだそうで大丈夫だっただろうか。九州は荒れ模様だが東京はどうだろうか。また、面白いプレビューを愉しみにしている。自宅からの定点写真を見るとドイツのバイエルン地方は雪が積もり、深深とした風景が見えてくる。人種の坩堝で生きていかなければならないことは、何と厳しいのであろうか。自由な社会とは程遠い油断のならない世界だろうか。併し、それも訓練なのだろう。この社会で、ヒーローは、いつもは必要ではない。ただ正常か異常かが問題だろう。人間の受け継いだ人間性の形質は、平和ではないだろう。平和になろうとしなければならないし、その努力をすべきなのだ。
2023.02.17
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久能山ロープウエイ。旅を続けて来ました。これからも平坦ではないだろう。だから愉しいのだというひともいるでしょうね。怠け 者の私は、他人以上に試練の日々を過ごした訳でもない。努力はしましたが、成果が左程ないところを みると相応なのでしょうね。恐らく、修羅場を生きているとは言えない。これからどういうことになるかは、 未定です。これまでのように可もなく不可もない人生でしょうか。敢えて、のたれ死にする道を選ぶのも 良いかも知れない。どんな後世であれ、自分らしく生きれれば良いと思います。誰も皆自分の思いの 儘に身罷ることなどできません。或る意味恨みを残して逝くでしょう。如何に羨ましいような死であろうと 実際はそうではないのでは・・・。私は、母から学びました。遣るだけ遣れば死は安らかに来ることを・・・。利己的なDNAに対するミームは、人種差別、男女差別、民族差別などを当然のようにしでかしてしまう残酷で救いようのない社会に陥っています。このままでは、地球さえ破壊してしまうでしょう。現代社会は、それでもなお反面人間脳の発達にともなう文化がある。ミームは、冒険心と真善美をもとめる心でもあり、貧困と無知に対する闘争心をも持っているのです。ミームは、しなやかで弱い存在でもあるだろう。併し時にヒットラーの狂気にもなった。我執にみちた煩悩具足の凡夫でしかない人間が、ミームの存在に活路を見出すべきではないかと思う。
2023.02.16
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そして、いつか、過去の出来事は幻影となり、闇の彼方に遠のくだろう・・・。人は、生きる意味を見出して自分らしく生きて、いずれは自分に相応しい死に方で終わりたいと願う。生物は、寿命が尽きて、個体は失われ、分解し粒子となる運命だ。誰も皆家族や友人たちの記憶となり、いつか消えて行く。地球も、太陽も何れ宇宙の塵に戻るだろう。そして、終には、宇宙が静止する。それとも The Big Crunch だろうか。 まるで、セルが巨象の話をしているようだと・・・自嘲的になる。だが、人の知識もコピーから始まりいつか真理を見出すのだ。 ヒトは、ながい過程を経由して、ようやく言葉をもち、科学を手に入れようとしている。しかし、もう深い海を原子力潜水艦が、世界を破壊する原子核を搭載して潜行している。知らないところでヒトは、生命の危機に晒され続けるのだ。この殺し合いが続く限り・・・。
2023.02.16
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他人より高価なものを食べ、リッチな生活をしたからといって、それが何だろうか。それが文化というのか。高い文化だろうか。もし、それが羨望の的だとしたら、そんなものは、似非でしかない。みんなとともに生きればいい。周囲とともに暮らすのだ。いつの時代もそうして庶民は生きてきただろう。援け合って生きてきた。雪が降れば、ライチョウのように白くなるだろう。何故なら、そうする必要があることを知っているからだ。そうして生き残ってきたから。他人より目立ちたがるのは、未熟なものには安易な生き方でしかないからだ。そんなことより、自分のこころを真実にふるわせろ! 21世紀になっても、世界は、未だ遣らなければならないことが、地球サイズであるだろう。ルワンダで、100万人が虐殺されたが、国連でさえ口を噤んでいる。何故、自殺やいじめがあるだろうか。無能な学者が、学生を惑わせるのだろうか。社会のリーダーがうそをついて、人々を不幸にしているだろうか。社会的搾取が繰り返されている。それほど、人間社会は、歴史を学ばない愚劣な生き物だろうか。何が、「美しい日本」なのだろう。本当にそれを描いているのだろうか。そういう人が、今の日本の中にいるだろうか。それは、仮装社会ではないだろうか。日本の首相とは、国民に何を言っているのだろうか、まるで、中学生の作文ではないのか。官僚の頭の中が見えるようだ。世界をひとつに繋ぐことのできる、キーワードは何だろうか。それは、ひとつで足りるだろうか。それが、未来を切開くだろう。くだらない偽善で、自分のこころを貶めるな。そんなことより、心をふるわせろ!!
2023.02.16
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ジョウビタキの雌。家畜を寄せ集めて主人のところに連れていくタイプの「ヘッダー」と、家畜追い立てて主人から切り離させるタイプの「ヒーラー」がある。これは見張り番のガーディングドッグと違い、群れを纏めるハーディングドックといわれるカテゴリーになる。この「牧畜本能」は、じつは祖先のオオカミから受け継いできたと考えられる一連の「捕食行動」からくるものだ。ヒーラーは、獲物に体をむけ、にらみを利かせ、忍び寄り、追いかけ、捕まえて噛みつき、噛み殺し、切り裂き、むさぼり食らうのだ。人間行動の本質をよくみれば分かるように、遣っていることは、時に動物的な本能を露呈しているのではないだろうか。この社会の差別化を進めているのは、政府を代表とする支配層のしていることだろう。口で言っていることは偽善でしかない。一口に「牧畜本能」などというのは本質的には語弊がある。なにしろ多様性を包含しているからだ。
2023.02.16
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セドナ。1638年「島原の乱」で、老若男女37,000人が原城で惨殺された。組織された反乱軍ではない。しかも宣教師に指示されたキリシタンばかりではなかった。半強制された素朴な農民たちではないなかっただろうか。本当に反乱軍と言えるのだろうか。甚だ疑問だ。宣教師は、布教し、信徒に、異教徒を排除するように指導したのだ。家康は、それを危惧して弾圧した。幕府は改宗によって信仰を棄てさせようとした。然し、ローマ・カトリック教皇は島原の乱の10年前にキリシタンに、「殉教」を指示した。それは、聖戦としてだろう。ポルトガル・イスパニアの宣教師たちが、農民たちに布教したキリスト教とは、幕府転覆を狙う意図があっただろうか。ローマ教皇は、宣教師の大群を送る約束をし、殉教を指示したのだ。それは事実ではないが、少なくともそれを信じた人たちがいた、神が奇跡を起こすと信じたのだ。利用されたのが天草四郎だっただろうか。キリスト教国からの援軍が来るまでの原城の籠城だった。圧制者に日々餓えながら搾取されて殺されるか、絶望した死だろうか、それともいわれている殉教であっただろうか。いまは知る術もない。キリシタンは、なで斬りにされた。島原の乱後、ポルトガルとの国交は断絶され、230年間の鎖国となった。島原の乱は、単なる圧制に対する農民一揆だったのだろうか。それにしても幕府と農民との戦いは熾烈を極めたものだ。生か、しからずんば、死かの宗教戦争の態を示しただろう。それとも、幕府による、ホロコーストでしかないだろうか。宣教師は、世界への布教を通じて、植民地政策の尖兵として働いたといわれている、キリシタンのカトリック教会への信仰は、当然幕府への反逆を意味してもいただろう。幕府の異常な反応は、それを感じさせる。そして、それは戦場となった原城を跡形もなく土で埋め尽くしてしまうという行動になったのだろう。宣教師たちの思惑は、所期の目的を果たすことができなかった。日本にとってそれは幸か不幸かは判らない。
2023.02.16
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和白干潟からみた志賀島。「もしも・・・」の世界の話ではなく、紛れもない本当の「過去」が史実だろう。一次史料はそのために重要だ。日中戦争で、日本軍が中国国内で残虐行為をしたことは疑いようがない事実だろう。それを否定することはできない。それが、世界で日本人は野蛮な国だと評された。いえるのは、それが戦場であれば、日本軍だけではないことだ。キリスト教徒やイスラム教徒だとしても、神の「愛」や「戒律」を信じるものが、殺し合いをするのが戦争だからだ。優しい戦争などありはしない。日本人の悪いところは、口封じができると思っている節がある。それは宗教性にあるかも知れない。日本人の素朴な世界観だろうか、神と言う存在を信じないことからだろうか。何れにしろ「上官の命令は、天皇陛下の命令だ!」という絶対服従を日本軍兵士たちは強いられた観念がある。「島原の乱」がテーマの「その時、世界は動いた」があるらしい。12万人の幕府軍が3万数千人の農民を皆殺ししたが、殆ど一次資料が残っていない。軍隊でもない農民が、「死にたくない」くらい残していても不思議ではない。どうも、ドラスティックな口封じをしたのだろう。そういうことをする国民の歴史があるから、中国の残虐行為もありえる話だと思う。然し、人間性を否定するまさに軍隊とはそういうものではないだろうか。アカデミー賞で「硫黄島からの手紙」が作品賞にノミネートされたというニュースが流れている。戦後の61年経過して、初めてアメリカの監督が、敵側の日本語で、日本側から観た映画だとして評価されているという。それは、日米の勝者と敗者の落差を物語っていることでもある。日本人がもつ自分の評価というものは、世界で通用している評価ではない。寧ろ、本当の「過去」を知ることが重要だ。
2023.02.16
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和白干潟。2023.2.16.文春で「日本の親子100人」というのを拾い読みしたが、北杜夫親子は笑えた。娘の斉藤由香が、ぼろくそに父親をやっつけている。中学生のころ「楡家の人びと」「どくとるマンボウ航海記」などに毒されたものにとっては、妙に北杜夫のいまの腑抜けたところが、懐かしい思いがする。少なくとも、醜悪をばら撒いている作家たちよりは、正直な人間なのだろう。日本人が、自分の親を語る時、いまや親子の絆は切れてしまった夏の暑さ鬱陶しい襟元の残り香でしかない。もしそうでないなら世間に対する親子の衒いでしかない。「家」を残そうとするアンシャン・レジュームがあったとしても、中国の「弟妹」思想の家族は、日本でははじめからないのかも知れない。日本の「親子」とは、「母子関係」はあっても、「父子関係」は希薄でしかない。多くの親たちが、自分の生き方に自信を喪失している。そして子育てを放棄した「親子」たちが、家族という「絆」を失いつつあるだろう。それが意味するものが何なのか、最近の自殺や、孤独死、家族崩壊にみられる現象につながってもいるだろう。個人主義が、ひとびとを切り離して行っている。個人主義に欠かせない自立するという訓練を経由しないで社会に放り出された子供たちがやがて、結婚し、利己的な親になりつつあるのではないだろうか。
2023.02.16
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久能山ロープウエイ。福祉で介護者が、被介護者に対する心構えに「相手の靴をはいて歩くように歩け」というのがあるらしい。これは、良いことばだと思った。強者が弱者に対する押し付けではない。相手の措かれた状態を理解して、思いやりを示すことではないだろうか。アメリカが、イラクに対しているという協力とは、「相手の靴をはいて歩くように」しただろうか。宗派の争いを煽っていないだろうか。軍人の戦略が優先しているのではないか。政治家と軍人がお互いに責任の擦り合いをしているだけではないか。人間社会では、優れた能力を示すものは少数ではない。一部の者にだけ叡智があるのではない。智慧は、繋ぎ合わせなければならないだろう。私たちの日々の自惚れや傲慢は、しばしば忘却されがちだ。それを思い知るのは、被介護者に接する時ではないだろうか。他人の介護を必要としている人たちが大勢いるはずだ。赤ん坊がそうだろう。年老いた親たちがそうではないだろうか。相手が、どんな状態か、どんな靴を履いて歩いているだろうか、と考える時、どんな声をかけるべきかが分かるのではないか。日本と北朝鮮の関係も、外交面でうまく行かないのは相手国の靴を履こうとしないからでもあるだろう。軍事力や経済力を背景とした交渉など話し合いではないだろう。勿論、抽象的な表現で外交はできないだろうが、そこにあるのは基本となる精神だろう。虎の威を借りるような外交をしないことだろう。かさにかかることをいわないことだ。絵に描いたような紳士でないことだろう。
2023.02.16
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いつまでもごみを積み上げてもゴミの山にしかならない。念仏を唱えても理解していなければ意味はない。悟ったようなふりをしていても詰まらない。 私たちのしていることは、ごみと変わりはあるまい。そして、地球外か、内側か、分からないが、いずれは崩壊してしまうだろう。結局は同じかもしれないが、やり残している人たちがいるに違いない。立つ鳥跡を濁さずというが、どうなるのだろうか。悲観的なことばかりあるが、腐らないで生きていくしかあるまい。いうまでもなく、中国だって、その将来は決して、ただばら色でないし、アメリカも些細なことから、崩壊しかねない課題を多く抱えており、予断を許さない。ただ、今後突然襲ってくる困難や、苦境があるだろうということは、避けることができないだろうということだ。それは、これまでもそうであった様に、想定外であるだろう。これに立ち向かうだけの「内なるエネルギー」が用意されているかでもある。我々は、「いざ」という時に社会の求心力となるべき、政府を信頼することができるだろうか。その「いざ」については、自分たちは、個人としてどうあるべきかについて、それは、個人のスペースのことであれば自己責任として、どう受け止めるかの問題でもあることを感じている。然し、国家のこととなると次元が違うだろう。然し、国が国民に保障している安全は、甚だ曖昧なものでしかないのが、残念だが言えることではないだろうか。無責任な政府は、強大な軍隊をつくり、武力と威圧によって国家の安全を守ろうとさえするだろう。そのために支払う対価は、小さいものではない。計り知れない犠牲を強いることになるのは、言うまでもない。何をもって「いざ」に備えるべきだろうか。ひとは、それを「天災は、忘れたころに遣ってくる」という寺田寅彦のことばとともに、肝に銘ずべきだろう。
2023.02.16
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アンコール遺跡。 本当は、何が悪いことなのか、よくわからないことが多い。真実は隠されるからだ。素直な政治など期待するほうが愚かだろう。政府だって、分かっていてウソをついている。戦前の大本営は、負けていて勝ったと宣伝さえしていたのだ。国民は騙されていた。そして必要のない命が奪われたのだ。プーチン大統領が、時計の針を逆戻りさせようと戦争を始めたが、ロシア人たちは、それを支持している。少なくとも、この1年間は、戦争は継続されたし、ロシア兵だけではなく、ウクライナでは死傷者が、数十万に及んでいるかもしれない。600万人のウクライナ人が、住まいなどを失ったといわれる。 ・ロシア化が進められているというが、自分たちの奴隷を作ろうとしているだけだろう。台湾もその犠牲者になるかもしれない。それはロシアではなく、加害者は中国だということだ。香港市民や、チベットや新疆ウイグル自治区でも、同じことが行われてきた。合法だという名のもとにそれは進められているだけだろう。実質は奴隷化だ。食べるだけなら、今日では、国際社会では、十分その力があるだろう。多くの餓死者が出るのは、救済をしようとしないだけだ。 ・へ2・・・恐るべきは、支配者たちの非情さである。自分たちは、リッチな暮らしをしているからだ。フェイクニュースが、蔓延しているが、だれがしているのだろうか。自分たちは正しいとだけ言う人たちだろう。優位に立とうとばかりしている。彼らを排除しない限り平和は遠い。
2023.02.16
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和白干潟。曹操は、水上の遠い影がはっきりと呉の艦隊であることを認めると、攻撃開始の命令を発した。赤壁の戦いだ。必ずしも大軍が勝つのではない。風向きにもよるのだ。三国志は多くの示唆を与えてくれる。・苦境にある者をを助けることを、ほんとうに、助ける、という。・ちがう立場の者へは、ちがういいかたをするというのは弁論の常識である。聴き手の理解力によっても、言辞を変転させねば、語れない。ー述べて作らず(「論語」)中国の優れたところは、能ある者を君主にしたことだ。やがて血統を信じたが、必ずしも現実は期待通りには行かなかった。三代と続かない。時代は、急激に価値観を変えるからだろう。曹操は、大軍でも勝つことができなかった。何故だろうか。アメリカは、ベトナムで勝つことができなかったし、イラクでも勝利することはできないだろう。どれだけ戦力があっても、イラク人を皆殺しにできるだけの正義がある訳ではない。もしそうしたら、世界から八つ裂きにされるだろう。世界は、平和を求めている。たとえゆるやかでも、それが人間に優しい成長でも、異なったイデオロギーの調和を願っている。それは、「鼓を打て、旗を挙げよ!」という掛け声の後ろを歩くことではないだろう。私たちは、これまでにどこまで「真の民主主義」を身につけているだろうか。そして、それを世界レベルまで高めつつあるだろうか。個人としての努力が問われていると思う。
2023.02.15
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カワセミ。メス。現代は自己責任がシビアになっている。甘えが許されなくなるだけではない病気になってもすぐに立ち上がらないものは医療が切られるようになる。これまでの温情主義では通用しない。日本人が変わらなければ、これからの日本には医療はないのかも知れない。日本に生まれたから安全ではない。どれだけ働けるか。世襲や学歴で決まるわけではない。どういうアイデア、プランがあるかだ。 ・これまでの見落としが叩かれ、才能が見直され始めた。そうでなければならない。生まれたままではものの役に立たない。心身を鍛えなければゴールはできない。どれだけ、自分の力でエリアを拡大できるかだ。この国は、誰も私たちの骨を拾わない。社会性のないものは価値がない。社会から放り出される。私たちの人権のエリアは意識次第でもある。 ・へ2・・・走りながら考えながらボールを蹴る。そしてゴールを目指さねばならない。そういう時代になった。動体視力をもたなければならないのだろう。それは自己責任であり、厳しい状況は続くだろう。
2023.02.15
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「攻撃の限界点とは、攻撃によって得られる優勢の頂点」を言う。(Wikipedia) 自分勝手な理論は、ひとが陥り易い過ちだ。然も人生の大半をかけるひとさえいる。自分は気持ちよいだろうが、傍迷惑にもなる。全くの科学的根拠のない誤解が多い。そして、「蜘蛛の巣」のように、網にかかるものを餌にして生きているようなものだから、犠牲者も出る。軍事学に「攻撃の限界点」というものがあるらしい。戦前の日本は、それを超えてしまったのだと云う。だから敗れたという論理だ。勝手な論理だが、観念としては、まだ何処の国でも持っている概念ではないだろうか。つまり、この「世界は戦場」でしかないという前提である。人類は、殺し合いながら進化したのだ、という。資源のない日本が、大国の真似をしても、それこそ「攻撃の限界点」があるだろう。積み上げられた情報は、いつか世界の平和のために整理されるだろうが、まだその力が人間にはない。それまでまだ、「蜘蛛の巣理論」が横行することになる。或いは、戦争の肯定である「攻撃の限界点」などというのも幻想も消滅しない。専門莫迦はどこにでもいるが、彼らは、いつか終わりのない洞窟に迷い込む。そして、人びとは類的存在としての貴重な時間を奪われかねない。
2023.02.15
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久能山東照宮。人生は、経済だけに左右されるのではない、大金を手にすることしか考えない精緻な頭脳なのではない。人間は、もっと別の妙味のためにあるだろう。この社会の現状の追い詰められた人間の不安や苦難はどこから来ているのだろうか。おそらく世界で起こっていることは、鎖のようにひとつに繋がる病根があるはずだ。歴史の史実が整合しないのは、させない勢力が強いからだろう。併し、それでもいつか将来の希望を持つことができるはずだ。それは、歪めているものを見出し、ただ今までのようにただ現実にサーチライトをあてるのではなく、「やわらかな光をあてる」ことだろう。自然光でみることによって、影になっている部分をも見ることもできるようになるだろう。何よりも雄弁なのは、事実だろう。世界で起きている事実を冷静にみていけば、何が間違っているか、分かるはずだ。人間の頭脳はそれくらい理解できるくらいの精緻さは持っている。
2023.02.15
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久能山東照宮。その場になってみないと解からないことはいくつもある。学生になって解かることもあり、サラリーマンで苦労して悲哀も覚えた。こうしていると為って見ないと解からない方が多いのではないかとさえ思える。便増になったことのない総理が、国民のために何ができるのだろうか?疑問だ。親から援助して貰ってそれを知らなかった人だ。恩を仇に返すのではないだろうか。早く暇になり自分のしたいことばかりして暮らしたいと念願していたが、なってみると結構ばかりではない。だが、その中で生きていくしかないと解かった時、遊び心も生まれるのだろう。 ・親からは優しくして貰ったが、社会が悪いので、人間も捩じれている。正直そうにしていて、そうでもない。素直で良い子だと言われたことがないわけでもないが、余り利口には育たなかった。他人が言う反対のことを考える癖も付いている。他人が遊ぶ時に学び、他人が勉強しているときに遊びたいと思う。天邪鬼でもある。ひとは、何かに夢中になって忙しいと思う時が、その人の幸福な瞬間でもあるのだろう。余計なことを考えて自滅する人は多い。それこそ夢中に為れない人が多いのではなかろうか。 ・へ2・・・凡人には学問も一つの遊びでしかない。その遊びに夢中になっているから、幸福でもあるのだろう。そこから離れれば、この社会が厭になるに決まっている。陸に上がった魚のようになってしまうだろう。そこにあるべき人が、そこにいないで、そこにいるべきでないひとが社会のリーダーになっている気がしてならない。皮肉な社会だ。
2023.02.15
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DVDタイトル「死ぬまでしたい10のこと」 "My life without me."イザベラ・コへット監督。主演は、サラ・ポーリー。思ったけど、若い女性が、死に直面してしたいことがどれほどあるものなのだろう。そして、何ができるか。 良い映画だった。しっとり鑑賞できた。結局身の回りのことしかできないし、娘たちの成長に立ち会うことのできない寂しさは喩えようのない悲しみになる。それでも受け入れなければならない。のこさないで消えることは、死んでいくものの大きな役割でもある。全部を描かなくても、観る者が理解できるかだろう。 そういう意味では、西欧の映画の優れたところは、そのシャープな切り口にある。ただいいたいことだけを書いている小説とは、相当文化の質が違うだろう。主人公のアンは、未練がましい死ぬまでしたい・・・のではない。ちゃんと死後のことを思い遣っているではないか。日本語のタイトルと映画の伝えたい意味は、全く違うだろう。 優れた作家は、べらべらと言いたいことをいうのではない。むしろ文脈を通じて語るものだし、映画の質も、画面に出てこない切り取ったシーンこそが、生きてこなければならない。そういう意味では、憔悴した主人公のシーンがカットされていたのが、いい。 観客に媚びない映画こそが、良い映画の証明だと思う。
2023.02.15
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DVDタイトル「死ぬまでしたい10のこと」 "My life without me."イザベラ・コへット監督。主演は、サラ・ポーリー。思ったけど、若い女性が、死に直面してしたいことがどれほどあるものなのだろう。そして、何ができるか。 良い映画だった。しっとり鑑賞できた。結局身の回りのことしかできないし、娘たちの成長に立ち会うことのできない寂しさは喩えようのない悲しみになる。それでも受け入れなければならない。のこさないで消えることは、死んでいくものの大きな役割でもある。全部を描かなくても、観る者が理解できるかだろう。 そういう意味では、西欧の映画の優れたところは、そのシャープな切り口にある。ただいいたいことだけを書いている小説とは、相当文化の質が違うだろう。主人公のアンは、未練がましい死ぬまでしたい・・・のではない。ちゃんと死後のことを思い遣っているではないか。日本語のタイトルと映画の伝えたい意味は、全く違うだろう。 優れた作家は、べらべらと言いたいことをいうのではない。むしろ文脈を通じて語るものだし、映画の質も、画面に出てこない切り取ったシーンこそが、生きてこなければならない。そういう意味では、憔悴した主人公のシーンがカットされていたのが、いい。 観客に媚びない映画こそが、良い映画の証明だと思う。
2023.02.15
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写真を見て思い出したことがある、まだ熊本にいたころ、母が亡くなり、父と二人になり、父も定年したので、一年ばかり、ふたりで九州を免許を取り、運転の練習を兼ねて、小旅行をしながら遊びまわった後、あるボデーメーカーに就職したが、若い跡継ぎの専務が、人吉市の元相良藩の家老の家柄の女性と婚約したので、何かの用事で、専務と同行させられたことがあったが、その時、出されたお膳が、ウナギ料理であった。 ・なんでもその家老が、ウナギが好きだったそうで、大名料理ではないのだろうが、お膳がいくつもあって、それにウナギが重ねられていた。うな重には、ウナギのかば焼きの下に、ご飯があり、その下にもウナギがあった。食い残しては失礼だと思い、無理に食べたが、胸やけがした。あれは空前絶後のウナギ料理であった。 ・へ2・・・それこそ美食も度が過ぎると体に悪い。人吉は、ウナギが名物らしいが、近くに球磨川が流れている。暴れ川でもある。急流の中で育ったウナギは美味しいには違いあるまい。残念ながら、専務の妻となる人の顔を見たことはなかった。
2023.02.15
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両生類が出てから、やがて哺乳類が生まれた。子孫を残そうとしてきたが、すべてプラス面だけを継承したのではない。立ち塞がる障害に多大のエネルギーを費やしても来たのだ。或る時は犠牲を強いられた。 水面下にあるものが見えないことが人類を苦しめても来ただろう。私たちが日常的に観察するものは氷山の一角でしかなく、真実は隠されている場合が多いのだ。然し、人びとの一日は誰もみな同じ一日でしかない。この世に誕生し、成長し、生殖して、移動し、そして死ぬというサイクルをとめることはできない。それに逆らおうとする試みがあるとしてもそれが容易く得られるとは、少なくとも現代では想定できない。 縦しんば、それができたとしても、それが「種としてのヒト」の運命を変えるとは到底思えない。寿命が100年が1000年に延びた処で、どれだけの貢献ができるのだろうか。寧ろ、硬直化させるだけではないだろうか。夢は夢でしかなく、ひとが1000年間生きることができるとしても、老化を防ぐためのエネルギー消費の方が大きいのではないだろうか。 私たちの日常は、謂わば水面下で生きているようなものかも知れない。そして時々水面をジャンプしてみなければ周囲をみまわすことができない。私たちに、そのエネルギーは、あるのだろうか。
2023.02.15
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最後の海外ツアーは、20年の1月であったから、まだ3年間しか過ぎていないが、ずいぶん昔のようにも思えてくる。それまで15年余り、内外のツアーを楽しんでいた。パンデミックという未曽有の出来事が起きて、観光もできなくなり、国際社会もそれまでの雰囲気が悪くなっていった気がする。ロシアが暴走し、米中という新たな冷戦が始まった。キリスト教とイスラムの宗教戦争があり、ソ連邦が崩壊して、より複雑な文明の衝突がある。 ・宿命の対立というのだろうか。東西文明には、大きな溝がある。栄枯盛衰は、付き纏っている。勝者は、いつかは敗者になる時が来る。犯罪者は、罰を受けなければならないのだ。百戦百勝など絵に描いた餅でしかない。それを言えばウソつきである。負けても勝ったという厚顔無恥が、あってはならないだろう。人の犠牲の上に立つものは正義ではない。 ・へ2・・・喜びも悲しみも幾年月という映画があったが、戦争は悲劇でもある。弱者を貪り食うオオカミになり果てた国家があってはならない。差別社会が齎しているものは、人の心の荒廃でもある。社会システムが歪曲してきているのではないか。適材適所ではない。姑息なものたちを淘汰すべきだ。
2023.02.15
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いまは、楽をして生きているのだろう。労働者階級は時間を売らなければ暮らしていけなかった。それが資本主義社会の労働者の宿命でもある。昔とは違うのだろうが、それでも時々疎外感を感じるのは、それは事実だからだ。ついひがみたくもなる。然しそんな気持ちに負けてはいられない。大事に使えばまだ使えるからだや脳のスペースはある。 ・コストを払いその対価としての作用と反作用と、さまざまの要素があって事は為されてもいる。あるものはあるものが前提があって成立する。自分の価値観でやっているが、それが誰も同じではない。日本人という存在は、中々メジャーに成らないのも無理はない。俯瞰すれば、狭い視野のそれでしかない。 ・へ2・・・この社会で笛を吹く人が大勢いようとする。その資格があるかどうかわからないひともいる。右往左往してしまうのだろう。いつかタイムリミットが来る。1クールの人生でしかないのに。すべてはタイムオーバーしてしまう。それでも僅かの一瞬を笑うか、泣くかの軌跡を描いていくのだろう。
2023.02.14
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古代は、西ローマ帝国の滅亡をもって終わり、宗教改革をもって近世の初めと考えるとすれば、中世は、5,6世紀から15,6世紀までの約1000年間。と言うのが通説である。即ち中世哲学は、スコラ哲学でもある。さて、イスラエルの思想とは、哲学でも科学でもない。それは神による人間救済の宗教であり、神と人間とを両極として、他のすべてのことは、ただこの両極との連関においてのみ付随するものでしかない。イスラエルの思想の伝統を引き継ぐ、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、それぞれの救済の道についてとくことを異にするが、神による人間の救済を究極の目的としている点において一致している。しかし人間は、単独に神に対しているのみではない。両者の間に、存在する「世界」があるのだ。根本思想は創世記第一章からしるされている。第一に、神は万物の創造者である。第二に、世界は、創造者なる神に対して、被造物なのである。神は世界ではない。世界は神によって造られたものである。神は世界を無限に超越する。宗教について述べるつもりはないが、古代から中世へ歴史を経ながら人間は苦しみ抜いてきただろう。そして、血生臭い争いはその由来とともに、それぞれの理想を捨てようとはしない。中世における神と人間とは、まだ「旅」を続けているのだ。いつか旅の終わりは来るのであろうか。超大国が、21世紀になっても、覇権争いをしている。大人になりきれない傲慢な駄々っ子でしかない。そんな大国が、核兵器で殺し合いでもするつもりではないのだろうか。引くに引けない局面まで辞めないのかもしれない。それこそ天罰の起きない前に、正気に戻れるだろうか。
2023.02.14
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ナショナル・トラストは、民間人が土地や建物を買い取って自然環境を保護する‐運動(組織)のこと。イギリスの自然保護はその情報収集力と行動の早さにあるという。日本でもできないものだろうかと思って、サイトをみたら、 Wikipedia によれば、1964年に古都鎌倉を乱開発から守るために、作家の大佛次郎が立ち上がり、鎌倉市民と共にナショナルトラスト運動を展開したのが始まり。とある。 ・イギリスの湖水地方というのは昔から憧れている。グーグルアースで見てみようと思い借りてきた。以前は、イギリス人と結婚した日本人の女性のサイトを良く見ていたが、写真を紹介していて面白かったが、途中で見るのをやめてしまった。どうも、何がいいたいのか分からなくなったから。この本の中で、「ナショナル・トラスト」の話が出てきた。著名な施設としては、湖水地方(ピーター・ラビットの舞台)があるようだ。鎌倉は、古い建物が残っているのも、その精神があるからだろう。(財団法人日本ナショナルトラストというのがあるらしい) ・へ2・・・やはり、住民の意識が高くなければ、成果が上がらないのだろう。景観という概念も日本には最近出てきたものでしかない。自分の住む環境を良くしようというのは、それだけ責任を負うことでもあるだろう。他人に任せればいいということでは、環境は守れないのだろう。ある程度「容」ができてこないと、前進しないところがある。その良さを実感することが大事ではないだろうか。学生の時、海商法の教授がロンドンに住んでいたときの話をしてくれて、感動したのを覚えている。それが、あるのだろう。これから、イギリスのLake District を楽しむことにしようと思っている。
2023.02.14
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立山・黒部アルペンルート。種の絶滅の急激さとは、環境の急激さに必ずしも比例せず、緩慢な環境変化が進行し、ある臨界点を超えた瞬間に一気に絶滅するのだという。たとえば、水生の生物は、じりじりと死んで行くのではなく、ある許容範囲を超えると一気に絶滅するパターンをとるのだ。それまでは、元気に泳いでいるのだとう。他の種は平気だったりする。たった1乃至2℃の境界線でしかないという。或いはその差はコンマ以下もある。徐々に進む環境の変化に対して生物は、寧ろ鈍感でさえある。危険なものから逃れようとする余り、その時期を見失うのかも知れない。自分に口実を与えて何時までズルズルと日々を過ごしてしまっている自分がいないだろうか。やがて、自分だけの「ヘイフリックの限界」が待つだろう。身体を張ってひとは、生きているだろうが、上を向いたり、下を向いたりして前を見損なうらしい。 今の自分に気づかないまま時は流れて、その時は深まるのだ。
2023.02.14
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また春が来ると信じて活きているところがあるが、ないひとのことをそれほど深く考えたことはない。俎板の鯉ではないが、いつかはその時が来るのだろう。やはり当事者にならなければ解らないにちがいない。順風もあれば逆風もある。そんなことは解かっているが、何度やっても慣れない悲しみはある。 ・どれだけ多くの観音様の名前を覚えても、阿弥陀仏国に上品往生できるとは思えない。煩悩をそなえた凡夫だろう。信心を得た人は違うらしい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはないという道があるのだろうか。然し、それを乗り越えなければ明日に行けないのではないだろうか。 ・へ2・・・諦めてはならないものもある。安楽浄土に往生するだけがあるのでない。然し、逃げるのではなく、立ち向かうべきなのだろう。
2023.02.14
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モンサンミッシェル島内。<作品> 「硝子戸の中」・当時の貨幣の価値について。・漱石の金銭感覚。かなり漱石は高い給料をもらっていた。当時の校長より高い。・漱石の家計簿がある(資料)。漱石は細かい。元々漱石は数理に明るい。・「道草」の構想ノート。母親が出てこない(?)。拘りがある。・「硝子戸の中」には、その母親が出てくる。その違い。・作品の構成。39区分。・不特定の新聞購読者に向けて書かれた作品。・吉永秀のはなし。くわせ者の話。「春の盗賊」太宰。「六、七、八」漱石の感情的な側面。鏡子「漱石の思ひ出」の中にもある。・境遇の違い。心の交流。漱石も自殺を考えたことがある。「ファウスト」にもある。漱石と妻。違う視点で来客を見ていた。・漱石からみた「吉永秀」と、妻の見た同人とは違う。視点が違うのが重要。・漱石でさえかっこつきの個人主義。差別感覚。当時は中江兆民くらいしか差別意識がなかった人はいなかった。・「十四」泥棒にはいられた話。・西南の役。西郷が死んで(明治10年から)明治が始まった。という意識がある。・「十六」昔なじみの床屋のはなし。「道草」とダブっている。・「三十」自分の病気と「継続中」。参照「門」「道草」の結末。・「三十一」他人のことも自分のこととして書いている。実在する人物「喜いちゃん」のこと。・「硝子戸の中」と、外。世間。「道草」との違い。孤立できないでいる。「こころ」の先生との違い。・笑わせる力が世の中、笑いたくない私が個人・・岡三郎「夏目漱石の研究 二」・「こころ」転落する前の先生。・あやふやな直覚。お延の千里眼。実は、千里眼ではない。漱石は信じていない。・文法(骨法)の構成。・男の盲点がある。女でないと分からない視点がある。・「悪い人」のあとに「善人」がくる。そのあとに「悪人」が来る。その繰り返しがある。・「変化」に気付かない凡人。・「経験」がないと分からない。「過去」と同意語。いつまでも過去に拘っている。・「消えぬ過去」ズーデルマン。の物語を書こうとした。過去は現代に現れる。漱石も読んでいる。・深層とは。「現在・過去」 ・「三十三」は、重要なポイントになる。・心の比喩。・片付けられない。「十八」対話。問答。禅の世界。漱石の作品には男と男の対話が多い。意図的に書いている。モノローグではない。ダイアローグの世界。・「こころ」モノローグからダイアローグに引き出している。・漱石は相手を理解しようとしている。・「三十」 「互殺の和」・すべては継続中。・・・以下が「道草」に繋がっていく。片付かない。漱石の中にそのモチーフがあった。それまでは、自覚していなかった。・「三十六」亡兄の話。・「三十七」「三十八」亡母のこと。不変。何時までも変わらない。漱石の母も変わっていない。吉本隆明はこれは「フィクションの母」だといっている。単純な感情ではない。・母親に対する恨み。漱石は神話化されている。所謂一般的な漱石に対する評価(表面的なもの)とは違っているのではないか。・月岡芳年。漱石の母親に対する感情。・悲惨小説。深刻小説。・「明暗」「道草」では、母のことは書いていない。漱石には母に対する拘りがある。
2023.02.14
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