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長谷川岳議員は、「YOSAKOIソーラン祭り」を始めた人と思い、最初は多少評価していたが、もうかばうのも無理。きっかけになった飛行機での客室乗務員への叱責は、明らかに意味のないひどいもののように思う。航空会社への不満ならば、乗務員へではなく会社への指摘で良いはずで、他の乗客がそれで喜ぶとでも思ったのだろうか。国会議員は運賃を払わなくて良かったと思うが、本当に何様だと勘違いしているのか。時代のせいにするなんて、どんな爺様ですか。人としてどうかと思います。道民として恥ずかしい。道産子でなくて良かった。吉幾三の告発で物議の自民党・長谷川議員 パワハラ報道受け「時代に即した表現方法に変えて参ります」3/28(木) スポニチ長谷川岳・参院議員が北海道庁職員らを厳しく叱責、鈴木知事「改めるべきだ」 読売
2024年03月29日
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このニュースは旅行に行く直前に知り、本当に驚いた。長年信頼してきた相棒の裏切りや嘘に、どれほど大谷君が衝撃を受けたのかは想像に余りある。帰宅してその後の経緯や大谷選手の会見を聞き、水原さんは後悔してもし足りない愚かなことをしてしまったけれど、二人とも可哀そうだと思わずにはいられなかった。もしも水原氏が本当にギャンブル依存症になっていたとしたら、彼が今までどれほど大谷選手を支えるために努力し、様々な気配りをし、彼の助け手になろうとしていたかが想像できる。それは、普通の人間にとって、とてつもないストレスや疲労を蓄積させるであろうことだから。胡麻化したりとりつくろとするのは、依存症になってしまった人の常である。いつか長い月日が経ち、様々なことが解決し、二人が穏やかに昔話ができる日が来ることを心から願うばかりだ。大谷選手のことも気がかりだけれど、水谷さんと何も知らなかったという彼の妻のことがもっと気掛かりである。大谷翔平騒動で全米騒然!水原一平をハメた「違法賭博の胴元マシュー・ボウヤー」の正体3/27(水)ここで再度強調しておきたい。日本人は依存症になりやすい気質を持っていると私は思っている。そんな日本にカジノを持ってきたらどうなるか、考えるのも恐ろしい。カジノは絶対に反対です。
2024年03月28日
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友人と三人で「PERFECT DAYS」を札幌のシアターキノで鑑賞。これは前日に急遽行くことに決めたことだ。というのも、うつ病を長年患っているTさんは、自分から何かをしたいということがほとんどない。一緒にランチをしても、何を食べたいか自分で決めることはほとんどなく、いつも連れの誰かの選んだものを「私もそれで…」という人だ。だから、時折気分転換にと映画を誘った時には、「〇〇と◇◇という映画があるけど、どちらがいい?」と誘う。そうしても、自分で選ぶことにとてもためらいのある人だ。その彼女が、「PERFECT DAYS」を見た人が良い映画だったと言っていました。みらいさんは興味がありますか」なんてラインが来た。これは彼女が見たいということに違いないと思い、すぐに予定のないこの日に誘ったのだ。映画のことよりも、私が嬉しかったのは彼女の控えめではあるけれどの自己主張だ。ランチの時も、それぞれが別のものを注文した。彼女が私達と別のものを注文したのは、記憶にある限り初めてのような気がする。私はそのことを指摘はしなかったけれど、彼女の精神状態が少し上向きなのを感じて本当に嬉しかった。映画の感想についてはまた後日。
2024年03月27日
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本州に住む妹が来ているので、久しぶりに母の月命日に一緒に手を合わせる。そして、実家のこれからのことについて方針を話し合う。私達もそれぞれいつ何が起きるかわからないので、少しずつ考えておかなくてはならない。
2024年03月25日
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3月21日~23日の三日間、小中学生時代の友人三人に会うために、奈良~神戸に旅をしてきた。あれからもう一週間たってしまって、記憶が消えない前に書かなくちゃ。3月21日(木)千歳空港から神戸空港にスカイマークで飛び、一時少し前に到着。空港には神戸と明石に住む友人が迎えに来てくれて、そのまま奈良へ向かう。私はただ、二人の後をついていって、電車を乗り継ぎ約一時間少しで三時過ぎに奈良に着いたはず。奈良には、宇治に住む友人が来てくれていて、無事に四人が合流。そのまま宿泊先の創業1909年の奈良ホテルに向かう。事前にネットで見ていて想像通りの歴史的建造物で、まるで明治時代にタイムスリップしたような気分。昨年暮れに日程を決め、神戸の友人が一度泊まってみたかったと押さえてくれた。「少し高めだけれど…」と、四人で64000円の新館コネクティングルーム。一人の友人は、一人64000円かと勘違いして少しビビったらしいが、この価格ではなかなか取れないらしい。部屋に入ってしばし再会を喜び、お土産交換などをして、近くの地元食材を使ったお店へ。このお店「粟 ならまち店」は、宇治の友人が事前に下見までして予約してくれていた。私達がいただいたのは、「田舎どりと野菜」の鶏鍋コース。食材は奈良近辺の伝統野菜や地鶏などを使っていて、私が聞いたこともないお野菜が沢山。日本各地には、このようなその地域で守られてきた伝統野菜が色々あるのだなと再確認。孫が大学生活をしていた山形県鶴岡周辺にも、伝統野菜か色々あったっけ。私達はそれなりの年齢になっているので、結局最後の黒米を鍋に入れたおじやは、一口味見するのがやっとだった。それからホテルに戻ってからは、それぞれの近況から昔話を延々と続け、二人ずつの部屋に別れてからも、多分午前二時過ぎまで話していたのではなかろうか。私は二回も、「もう寝る! もう話さないから」なんて言って眠剤を飲んだのだが、みんな口のチャックがゆるんでいて本当に参った!(眠剤を二度飲みしてしまった)私達は小学校・中学校で同期生ではあるが、四人が一緒のクラスになったことはない。さらに、宇治と明石の友人は中学二年生の時に転校したので、一緒に卒業もしていない。彼女たちのお父さんはそれぞれ自衛官で、みんな官舎に住んでいた。私は彼女たちと時期はずれているが同級生だったり、生徒会で一緒に活動したりで、一人だけの土着民(曾祖父から数えて四代目だからそう言ってもいいだろう)である。そんなわけで、彼女たちにとっては子ども時代を過ごした地の象徴のような存在のようだ。二人はがんの手術をしていて、一人は現在も後遺症で色々と不都合があるらしい。一人は四十代でご主人を亡くし、一人で四人の子どもを育て上げ、現在は共働きの次男夫婦と同居し、平日の家事と孫育てに奮闘中。そのほかにも、色々な事情の中で孫たちを半分以上育てているような感じで、その上にご主人がそれぞれ認知症が進行中。そんな話を聞いていると、いかに私が穏やかに日々を過ごしているかと痛感した。まあ、そういう状態なので彼女たちがクラス会にも北海道にも来ることが大変なので、私が行ったわけなのだけれど。ということで、一日目はとても長かった。3月22日(金)この日はとても良い天気。ホテルで朝食後、奈良の「ぐるっとバス」を利用して、まずは春日大社へ。奈良には何度か行ったけれど、春日大社は行ったことがないような気がしたのだ。この日程で計画を立てた時には、きつと桜が見られるだろうと期待したのだが、残念ながら全く桜は咲いていなかった。それでも、色々と話をしながら散策してとても良い時間を過ごすことができた。昼食は天極堂奈良本店という葛料理のお店へ。葛づくしのお店があるとはビックリしたけれど、とても嬉しかった。本葛を使うことは少し難しいけれど、これなら自分でも似たような料理ができるなと参考にもなった。一番感動したのは、作り立ての葛餅。葛餅といえば冷たいものというイメージだったので、温かい葛餅のおいしさに感動した。自分でも作ってみようと思い、手作りセットを買ってきたけれど、まだ作ってはいない。この日は、夕方に神戸に戻り、友人が予約してくれていた三ノ宮駅近くのホテルに宿泊。ホテルに荷物を置いた後、三ノ宮の京鼎樓で夕食。一品料理をシェアしていただいたけれど、どれもとても美味しかった。夕食後はホテルに戻り、本当に久しぶりに一人でホテルでのんびり。とても贅沢な気分で寝るのは惜しかったけれど、やはり疲れていたのか午後十時頃には爆睡に入った。3月23日(土)この日は朝から雨。ゆっくりと朝の時間を過ごし、十時に三宮駅で友人と落ち合う。天気が悪いので、コーヒーとトーストセットで12時頃まで過ごす。私はコーヒーだけで良いと思ったのだが、トーストセットも似たような値段だったのでつい頼んでしまった。午後一時に息子の神戸での大学の同級生のK君のイタリアンのお店に行く。彼は、学生時代何度か我が家に泊ったこともあり、お店では息子のワインも出してくれている。そんなK君が、昨年倒れて手術してしばらくお店を開けていなかったのだが、最近ランチだけしていると聞いたので、この日に行ってみようと思ったのだ。お店は神戸元町の住宅街の一角。最初見つけられずに少しウロウロしてしまったが、無事に予約時間には到着。実のところ、彼がどんな顔だったか思い出せなかったけれど、お店に入って顔を見るなり蘇った。小ぢんまりとしたお店だったが、土曜日のせいか予約で満席だった(ドアに表示されていた)。ランチコースは、冷前菜盛り合わせ、スープ、パン、飲み物、メインは二種のお肉料理や野菜のフリッター、デザートで、ビックリしたのは冷前菜盛り合わせの豊富さ。私たちは「これでプレートランチかな?」と思ってしまった。色とりどりの野菜やチーズなどの盛り合わせで、思わず「二人分ですか?」と聞いてしまった。それを食べるのにやっとの状態の私達に、シェフの彼は「メインは少なめにしましょうか?」と聞いてくれたのでお願いしたが、結局は食べきれずお願いしてラップに包んで持ち帰りにしてもらう。若い人にはそれでいいのだろうし、お料理はワインに合うものばかりなので、ワイン好きの人には人気なのだろうと思う。混んでいたので彼とは少し会話をしただけだが、思ったより元気そうでホッとした。一緒に行った友人は看護師なので、「顔色はあまり良くないね。循環器系の病気なのだろう」と言っていた。彼が言うには、「一度は心臓が止まってしまったけれど、手術して復活しました」とのこと。体を大切にして長生きして、ずっと息子と仲良くして年老いてほしい。私達のように…。その後は神戸空港に行き、もう一人の友達も来てくれた。彼女も一緒にランチに行きたかったのだが、連日の外食などでお腹の調子が悪かったので行けなかったのだ。空港で三人でまたまたおしゃべりをしているとあっという間に時間が経ち、夕方の便で無事帰宅。今回の旅では、私の想像以上に彼女たちが再会を喜んでくれて、本当に行って良かったと思う。出会ってから60年近く経っていて、その間にはお互いの関係も近づいたり離れたりもあり、それぞれの人生にも様々なことがあった。でも、それぞれ一所懸命生きてきたんだなあとしみじみと思う。そんな時間を経て再会し、豊かな時間を過ごせることの幸いを感謝するばかりだ。次にこの四人で会えるのはいつだろう。彼女たちは「あんたが来てくれたら、来月にでもまた会えるよ」と行ってくれるし、確かにそうではあるけれどなかなかねえ…。やはり、久しぶりの再会だからこそ喜びも倍増だから、さていつ頃がいいものやら。
2024年03月24日
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友達から借りた本である。「キングダム」をやっと読み終えて、昨日この本を手に取った。子どもの問題や教育に関心がありながら、今まで林 竹二氏を知らなかったことを恥ずかしく思った。問いつづけて ―教育とは何だろうか林 竹二 (著)小野 成視 (写真)どうしてこんなに美しいのか。傷つけられ、打ち捨てられ、落ちこぼれと言われるこの子たち。――逆なのだ、エリートコースに追い立てられる中で失われる人間としての真の価値を、肉体とたましいの奥深く秘めているのが、彼らなのだ。 林竹二氏が、学問的蓄積のすべてをかけてする授業が、みごとに呼びさますその劇的な姿は、こよなく深く尊い。人間にはまだ望みがある――この子らの示す事実に、私たちはたしかにそう胸につぶやくことができる。林竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 1985年4月1日)は、日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。元宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。と紹介されている。著作もとても多いのに、どうして今まで私の視界に入らなかったのかと不思議な気さえする。しかし、今地元の図書館に所蔵している本を調べたら、たった二冊だけ。うーん、どうしてなのか。この本は、林氏が全国の小中高校を授業して歩いた実践の記録だ。彼が授業をしている時の子ども達の表情の変化を、小野カメラマンが実に見事に写している。これが自分の内面で深く思索している子どもの表情なのか。これが心からわかったときの子どもの喜びの表情なのか。これを間近で見ていた教師たちはさぞ感動したことだろう。なんて思いながら読み進めたが、日常的にこの子ども達に教えている先生の受け止め方はまた違うようだった。さもありなんとも思う。林氏の授業はとても哲学的であり思索的だから、ついていける先生も少ないかもしれない。子ども達はまっさらだから、真剣にその問題を自分のこととして考え、自分の内部の心に問い、新しい自分への変容ができる。子ども達にとっては林先生の授業はとても面白くて、集中できて、「もっとこんな勉強がしたい!」と思うけれど、現場の先生たちにとってはきっと難しいのだろうとは想像できる。それでも、少数ではあっても林先生の授業に感銘を受け、授業後に子ども達が書いた感想文に感動し、その子の変化に涙する教師もいる。その先生たちは、常日頃から子ども達と真剣に向き合い、何とか子どもの喜びや成長を促したいと苦労している先生たちなのだ。もう、林氏の直接の教え子も少なくなっていることと思う。しかし、その思いを受け継いでいる人たちも必ずいると思いたい。林氏を知らなくても、彼のような思いで子どもに向き合って寄り添って、子どもに学び子どもとともに成長している人は少なからずいると思う。できれば公教育現場にいてほしいと思うが、それはどんどん難しくなっているようにも思う。不登校が激増しフリースクールが増えているが、そのような場にこのような先生がいるのかもしれない。林先生は語っている。「学校が子ども達を勉強嫌いにしている」「学びたいという願いを、子どもはみな持っているんですね。しかしそれに答えるものを学校教育は与えていない。私がよく言うように、パンを求めている子どもに石を与えているのがいまの学校教育です。そこでの優等生なんかは、石でも、うまい、うまい、というような顔をして食べてみせるわけですね。ところが、「石なんか食えるか」と言ってそれをはねつける者、拒む者は切り捨てられるのです」林竹二さんに会いたかったなあ。
2024年03月19日
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近所のスーパーで、地元の教育委員会が作成したであろう、公立小・中学校の臨時教員等の募集のポスターを見て驚いた。今までこのようなポスターを見た記憶がなかったからである。私が気が付かなかっただけなのかもしれないが、とうとう教師もパート募集のような形で募らなくてはならない状態なのかと考えてしまった。今、北海道教育委員会のサイトで調べたら、このページがあった。公立小・中学校の臨時教員等の募集についてそして、【事務職員以外の職種について、実際に勤務していただくには、原則として、対応する学校種・教科の教員免許が必要ですが、臨時免許状の授与等により対応できる場合があります】とある。え、臨時免許状っていうのがあるんだと調べたら、下記のサイトがあった。教員免許なしで学校で働く5つの方法私は子どもの教育に意欲のある人が、社会人を経て教師になる人が増えてほしいとは思っている。しかし、少なくともそれに見合う安定した処遇がなければならないと考えている。だが、このような形では不安定な臨時職、つまりパートの先生になりやすいだろう。やはり首を傾げてしまうのだが、教育現場にはこのような先生が量産されているのだろう。これでは、本当の意味での子どもの個性に向き合った教育は難しいのではないかと思う。学校が楽しくなくて、辛い場所になる傾向は益々強くなるような気がする。私の住む石狩管内の募集は次のようになっていた。小学校…江別市8名、恵庭市7名、千歳市3名、北広島市5名子どもを大切にするといいながら、何と言うことだ!
2024年03月19日
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二日続けて「人の死」に関するドキュメンタリー番組を見た。どちらも再放送だったのね。どちらもたまたま途中からだったのが残念。↓こちらは文句なく感動した。番組の中で内藤医師が語っていた「在宅医療は目的はないんですよね。私がやりたいことは、病院から引き戻すことではなくて、本人が、家族が、安心して命に寄り添えてその人の尊厳を守れるところで過ごしてほしい。それがダメなら人生の最期を看取ることは辛い作業にしかなりません」に、心から納得と共感が出来た。「いのち」に寄り添う医師が模索する、"究極の在宅医療"とは誰にもいつかは訪れる「死」。できれば医療に管理されるのではなく、我が家で最期を迎えたい。そう願う人のために病状や環境、家族や周囲の人間関係までも配慮した在宅ホスピスを実践するのは、山梨県・甲府に小さなクリニックを構える医師・内藤いづみ。10月6日放送のドキュメンタリー番組『情熱大陸』では、老衰で人生の幕を閉じようとしている94歳の女性とその家族を通じて、内藤が実践する「在宅ホスピス」の現場に密着。数多くの命に寄り添い、患者の望む“最期の瞬間”を見つめてきた内藤が目指す、究極の在宅医療とは――。本人と家族が安心して命に寄り添える環境を内藤が甲府にクリニックを開設して24年。午前中に診療を終えると、白衣を脱いで往診に出る日々を続けている。一日に訪ねる家は3、4軒。自宅で終末期治療を望む高齢者の体調を定期的にチェックし、必要なら薬で痛みなどをやわらげるのが主な仕事だ。これまで、様々な患者とその家族に出会ってきた。例えば、治療よりも畑仕事をしたいと願っていた大腸ガンの男性。吐血して緊急入院することもあったのに、「帰る。ここには俺の見たいものは何もない。風景も、食べたいものも。」と言ったそうだ。我が家の窓から八ヶ岳を眺め、家族とペットと過ごす日常を選んだ男性は、こう口にしたそうだ。「自分で大根を育てて、ふろふき大根を食べられるかな...」内藤の務めは、ただ寄り添い痛みを和らげること。男性はその後、自らの手で大根を収穫し、穏やかに旅立っていった。(内藤)「私がやりたいことは、病院から引き戻すことではなくて、本人が、家族が、安心して命に寄り添えてその人の尊厳を守れるところで過ごしてほしい。それがダメなら人生の最期を看取ることは辛い作業にしかなりません」死亡診断書は、人生の卒業証書研修医時代。回復の見込みのないガン患者が、患者の意志にかかわらず無機質な病院のベッドで人生の最期を迎える医療の在り方に、内藤は疑問を感じていた。イギリス人男性と結ばれ、夫の転勤によって移住したホスピス医療の本場・イギリスで、自分が目指していた終末期医療を見つける。そこはホスピス発祥の地。病を得ても最期まで自分らしい生き方を貫ける医療に触発され、クリニックを開業した。往診に出るとき、内藤はバッグにいつも死亡診断書を忍ばせている。無味乾燥に思えるたった1枚の紙だが、ある思いを込めていた。(内藤)「その人の最期のところに関わったときに、私たちが見たものって様々なものじゃないですか。この人の人生を終えたっていうのは、人生の卒業証書だと思うんです。」卒業証書を受け取るのは、患者に付き添った人。内藤は、残された者にこそ卒業証書の意味があると考えている。(内藤)「家族も自分の命削ったくらいの思いで付き添うので、本当によく付き添いましたね。だから、代理で受け取ってくださいって」患者だけでなく、その家族も支える医療5年ほど往診を続けている患者がいる。今村久子さん、94歳。重い病こそないが、体調の浮き沈みは激しかった。が、内藤の顔を見るなり「先生、うれしいです。ようこそ」と表情に花を咲かせた。娘3人に恵まれた久子さんは、以前から自分の老い先を見据えていた。10年前に娘に託した1枚の便箋には、久子さん自らしたためた「延命治療 お断り」の力強い文字。天命をあるがままに受け入れる覚悟で、内藤を頼りにしていた。穏やかな日は、長くは続かなかった。体調が悪くなると、次女の家に姉と妹が寝泊まりし、交代で母親の世話をする。家族が抱え込む負担は大きいが、それでも、家の中でしか分かち合えない濃密な家族の時間がある。内藤は、訪問するたび家族へ何度も声をかけた。「みんなよく頑張ってる」「倒れないようにね」久子さんが、寝たきりになり食事を口にしなくなって20日に経った日。内藤は家族に訪問入浴のサービスを勧めた。入浴は時として体への負担になりかねないが、今なら大丈夫。医師の直感だった。シャンプーをしてもらう久子さんは、気持ち良さそうな優しい表情を浮かべる。(娘)「垢が取れて、顔が白くなったみたい。本当にありがとうございます。」見守る娘さんたちの頬も緩む。(内藤)「お風呂は大成功でしたね。良かったって顔を(家族に)見てもらうのが大事。私たちも嬉しいですよね」そして、6日後の朝。久子さんがその生涯に幕を下ろした。(娘たち)「産んでくれてありがとうね」「幸せだったよ」そこにあるのは、悲しみだけではない。内藤が何より大切にしている最後の仕事。久子さんの死が決して喪失でないことを残された家族に伝えなければ。そんな思いを託して書く「卒業証書」を、娘さんに手渡す。(内藤)「本当に、女性陣がみんな頑張って、無事送り届けた。でも生きたように死ねない。苦しんだり。今村さんの場合、本当に性格のまま、生きたように旅立ったなってみんなが噛み締めてる。私としても、ちょっと役目を果たせたかな」内藤は語る。「私自身が、究極的には医師という隣人になりたいというか。身近な心許せる存在になりたい」医師という隣人を求める人々が、今日も内藤いづみを待っている。次の日は安楽死を取り上げた番組。難病に苦しみ続け、スイスでの安楽死を望む女性「早く痛みから解放されたい」「安楽死」を考える スイスで最期を迎えた日本人 生きる道を選んだ難病患者【報道特集】この番組では、スイスでの安楽死を決めて亡くなっていった女性や、決めて死の直前まで行ったけれど、付き添っていた父の言葉に決意が揺らいで生きることを決めた女性が取り上げられていた。その後、「日本で安楽死が認められたら、周囲に迷惑をかけることを恐れて安楽死を選ぶ人が続出する」と危機感を覚え、強く反対しているALS患者である男性の活動や生き方が紹介されていた。私はこの人の主張に強く共感している。自己決定を子どもの頃から鍛えられていない日本人は、周囲の反応や思惑で自分の行動を決める傾向が強い。ただでさえ、「人に迷惑をかけずに死にたい」という国民性ともいえる。生きていれば、苦しみや辛さもあるけれど、周囲の人たちの励ましや支えに喜んだり、自分の存在で周囲が学んだり感謝されたりすることも多いはずだ。それに何より、今は技術の進歩で自分の意志を表現したり、外出したりすることだって意欲次第ではかなりのことができる。生きていればこその希望や夢や喜びであり、辛さや苦労を乗り越える達成感があるのだ。安楽死で簡単に自分の命や役割を諦めることになってはいけないと思う。多くの人が「周囲に迷惑をかけたくないから」とか、「私にはできることや希望がないから」と決めてしまうのは、支援体制の充実とその人の存在そのものの役割を気付いてもらうことで踏みとどまってもらえると思う。死を選ぶ方法は安楽死だけではない。体が健康でも将来を悲観し絶望し、自ら自死する人は後を絶たない。せっかくこの世に生まれたのだから、病や障害があっても自分の人生を諦めないでほしいと強く願っている。この番組を見ながら思っていたことがある。重度の障碍があっても諦めず生きようとする人と、「身体的苦痛からの解放など」を求めて安楽死を決める人の違いはどこにあるのだろうかということだ。ふと思ったのは、どんな人にも役割はあると思えるかどうかではないかということだ。それは多分、「人とのつながり」と「人間への信頼感」の多寡ではないかと感じている。私の出会ってきた障害を持つ人達は、誰も死を願っていなかったし、いない。(多分、辛い時には死を願う時もあっただろうが、それが持続していた人はいなかったように思う)どの人も誰かの介助や支援がなくては生活が成り立たないけれど、それだけに周囲の人との出会いや支えに心から感謝していた。そしてその気持ちを自分のできる限りお返ししたいと思っているし、精一杯生きる姿は周囲の人に希望や喜びの意味を伝えてくれている。そして何より、自分が元気に前向きに生きることが同じような障がいや病を持つ人の希望になってほしいと思い、その活動が新しい支援システムにつながるはずだと信じて行動しているのだ。私は自ら死を願う人の気持ちを否定することはできない。そのような選択を全うした人に対しては、「本当にお疲れさまでした。どうぞ安らかにお眠りください」と手を合わせたい。しかし、できるだけそのような人が少なくなるようにとも、強く願う。【追記】報道特集の記事を今朝見つけたので、リンクした。それをあらためて読んで、48歳の時にALSを発症した岡部さんの次の言葉に感銘した。「誰かに生きてほしいと思われていること、誰かに生きてほしいと思うことで、私たちは生きる力や希望を持てるのだと思います。この気持ちを失ったら、この社会はもっと悲惨な出来事が増えるでしょう」「私たちに限りませんが、人は死にたいなと思うこともあります。安楽死で死んでいけるような社会を目指すなら、希望をもてる社会ではありません。安楽死を選ぶのではなく、生きることを選んでほしい―」」
2024年03月17日
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一連の茶番劇を夫は面白がってみている。私はさほど見たくないけれど、居間にいると目に入るので何となく見ていたが、三人の顔を見ていたら少し興味が湧いた。世耕氏は顔がグローブに見えるほどに頑丈な面の皮で、これはこれで凄いと思う。開き直りもここまで来たら仲間内には評価されるのだろうか。西田氏は自分には裏金化の直接的な責任はないと確信しているせいか、幹部に対して腹を立てている。しかし、この人は一歩間違えると部下にはパワハラ体質なのかもしれないと感じる。だから、部下も本当のことは言えずに隠していたのも考えられる。北海道出身議員という意味で身内びいきかもしれないが、橋本さんは三人の中では責任を感じているように見えた。しかし、お神輿に乗っていただけでは政治家とは言えない。それにしても、そんなに長く政治家をやっているんだと驚く。もう、いいんじゃないですか。政治家を卒業して、正直に自民党の暗部を告発してくれたら、第三の人生はまっとうに生きれますよ。還流経緯、謎深まる 自民内輪もめ、信頼回復遠く 安倍派「知らない」連発・政倫審 3/15(金) 7:05 時事通信 14日に開かれた参院政治倫理審査会では、自民党安倍派(清和政策研究会)による政治資金パーティー収入裏金化の経緯を巡って新事実が明らかになるかが焦点となったが、出席者は一様に「関知せず」との立場を強調した。 出席者同士が批判を浴びせる内輪もめの様相も呈し、裏金事件の収拾を図りたい岸田政権の思惑は空転し続けている。 「肝心な記憶はなくして、それ以外は雄弁に語る。それだけで信用できない」。参院政倫審で質問に立った立憲民主党の蓮舫氏は、一段と声を張り上げた。 面罵されたのは、この日最も注目を集めた自民の世耕弘成前参院幹事長だ。先に開かれた衆院政倫審では、2022年8月の幹部会合で裏金還流の復活を協議した際の証言に食い違いが表面化。いったん廃止が決まった還流の復活を「誰が決めたのか」が違法性の認識にも関わる焦点と目された。 世耕氏は同会合で、故安倍晋三元首相による還流廃止の方針を「守るべきだと言った」と主張。その上で、「各議員個人のパーティー券を清和会として買うなど、適法に対応するアイデア」が上がり、自らは賛同したと明かした。 だが代替案の提案者が誰かと畳み掛けられると、「記憶にない」を連発。5年で約1500万円に上る自身への裏金還流について「責任が重く多忙な役職に切れ目なく就き続けた」ことを理由に把握できなかったと釈明する世耕氏に対し、公明党も質疑で「正直申し上げてひどいありさまだ」(竹谷とし子氏)とあきれ気味に指摘した。 疑惑はますます広がっている。改選を迎える参院議員にパーティー券収入を全額還流させていた可能性を問われた世耕氏は、「各議員への還付状況や議員の声を聞くと、そういう運用がなされていたもようだ」と事実上認めた。 改選期の参院議員だけを対象にした特別な裏金還流に対し、質疑では「選挙に使われたのではないか」(国民民主党の舟山康江氏)との見方が浮上。各議員への確認を求められた世耕氏は、「収支報告を見れば分かるのではないか」と投げやり気味にあしらった。還流の経緯を知る「キーパーソン」と目される森喜朗元首相に、参院安倍派トップとして事情を聞かなかったのか問われると、「決めつけは問題がある。誰がいつ(還流開始を)決めたかははっきり言って分からない」とけむに巻いた。 この日出席した西田昌司、橋本聖子両氏も世耕氏と同様、裏金還流について「全く知らなかった」(西田氏)「報道されて初めて知った」(橋本氏)と説明した。西田氏は「私たちのような何も知らない受動的な人間と、主導的な人では全く立場が違う」とも強調。世耕氏の答弁に「聞いていて全く納得できない」と不満をあらわにし、安倍派幹部に「自ら進退を考えるべきだ」と迫る一幕もあった。 真相解明に乏しいばかりか、仲間内の泥仕合の格好になった審議内容に、ある閣僚は「これでは国民の疑念は晴れない」と厳しい表情を浮かべた。蓮舫氏は質疑後、記者団に「政倫審の限界を感じた」と述べ、今後、証言次第で偽証罪が問われる証人喚問なども視野に入れるべきだとの認識をにじませた。
2024年03月15日
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「我が心の石川啄木」(47歳)色あせて手垢やシミがついた一冊の本「啄木詩歌集」。それは、中学生になりお小遣いを貰うようになってから、生まれて初めて自分で買った本である。あれからもう三十五年も経ってしまった。 啄木との出会いは、小学五年生の頃だったと思う。確か、彼の伝記を読んだのがきっかけだったが、その生い立ちよりも、そこに書かれていた短歌が私の心をわしづかみにした。 私はノートに短歌を書き写し、暇さえあれば口ずさんでいた。どの歌も、なぜか心にジンときた。まだ子どもだった私が、彼の何に共鳴していたのか今でも不思議な気がするが、それらの歌は私がこれから踏み入れようとする青春や、大人の世界の悲しさや切なさを予感させ、同時に強い憧れも感じさせたのだろう。 どうしても彼の書いたものを全て知りたいと思い、私はその詩歌集を買ったのだった。 それには、「一握の砂」「悲しき玩具」と、詩集「あこがれ」が収められていたのだが、詩の方は言い回しや言葉が古臭く、どうも馴染めなかった。 短歌のわかりやすさとのギャップが大きいこともあり、詩は一読して(難しい)と見捨て、ひたすら短歌だけを恋し続けた。思えばあれは、私の初恋だったのかもしれない。 中学生になり密かに憧れる人もいたが、それが自分の真情なのか啄木の心情なのか、今ではよくわからない。ひょっとすると、啄木の心に重ね合わせるために、似た雰囲気の人を求めたのではないかとさえ思う。 そのせいか、私の現実の初恋は何とも歯切れが悪く、その人のどこがいいのかもぼやけたものになってしまった。私の啄木熱は、何と高校生になっても続いていた。 大人になって啄木の現実生活を知るようになり、その身勝手さや、あまりの自己中心性にショックを受けもしたが、彼の歌を好きなことには変わりはなかった。 今でもこの詩歌集を開くときには、「初恋のいたみを遠く思い出ずる日」になり、胸がキュンとしてしまうのである。思春期に石川啄木を好きになった人は多いのではないだろうか。でも今では、彼も随分と過去の人というか歴史上の人物に近くなってしまったので、若者では知らない人も多くなってしまったかもしれない。しかし彼の短歌は、口語体と言うか話し言葉に近いものなので、現代人にもすんなりと理解できる歌である。そして、彼は若くして亡くなったこともあり、まさに思春期のままに生きて詠んで旅立ったため、はっきりいって大人の歌はない。周囲にとってははた迷惑な人だったと思うが、それがあってこそのあの歌の数々と思うと、何とも複雑な気持ちになる。もし彼が長生きして、沢山の人達に愛され支えられてこその人生であり命だと知った時には、どんな歌を詠んだのかなと思ったりもする。でもその時は、彼の短歌の魅力は失われ、つまらない普通の歌になっていたのかもしれない。ともあれ私は、啄木の短歌のおかげで、自分の心を言葉で表現することを知ったような気もする。石川啄木の生涯と文学 26歳の生を二冊の歌集に凝縮
2024年03月14日
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二日続けて、息子たちのワイナリーでのラベル貼り作業。三月末に販売するので、それに向けてラベル張りと蝋付けをしてゆく。何種類もあるので、準備できたものから発送作業も同時進行。さほどの重労働ではないのだが、やはり何時間も作業を立ち仕事で続けると軽い疲労感。それでも、家族総出で仕事をすることは楽しいと少しワクワクする。畑の雪融けも随分進んでいるようだ。今年はどんな年になるだろう。変な天候になったり、鳥獣被害があまりなければいいけれど。昨年は鳥の被害が甚大だったので、収穫量がガクンと減ってしまった
2024年03月13日
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「人形ではないんだから」(47歳) テレビの中で中学生が語っている。「誰にも本音は出せない。僕はいい人間でいたいから。親に? 話せませんよ」。「キレそうになることはよくある」。 続発する中学生の事件をテーマに、中学生にインタビューした時の一場面だ。それを見ながら、(私もそうだった)と、昔の自分を思い出していた。 あの頃は、「出来のいい人形」として生きるのが良いのだと考えていた。良い人間とは多数の人が期待する人のことであり、他人の期待に応えることが良い生き方なのだろうと。 親にとっての娘、妹にとっての姉、先生にとっての生徒、友人にとっての友達。自分の描くそれぞれの役柄の理想像に、少しでも自分を近づけたいと願った。だから、心の中の不満や怒りは抑えるべきものだった。 醜い本音を少しでも見せてしまったら、みんなが失望して嫌われるような気がしていた。良い人間になるためにそれらしく役割を演じていたら、いつか本当にそうなるのではないか。そんな私は、多分「いい子」だったはずだ。 しかし、青春はそんなに甘くはない。人の期待に応える人形になりきれるはずはなく、「キレル」時も必ずある。私もある日、母に対してキレた。 その頃の私は栄養士になるはずで、バタフライナイフではないが自分専用の「牛刀」を持っていた。しかし、幸か不幸かそれを料理以外に使うことが発想できず、ブルブル震える唇を刃に変えて、積もり積もった思いを母にぶつけていた。「私はお母さんの思い通りには生きたくない!」。 それから何度もキレながら、そのたびに「母の期待する娘」や、「夫の理想とする良妻」「子どもにとっての賢母」からの脱出を図ってきた私は、キレることが悪いとは思えないし、本音も醜いものばかりとは思えない。「もっと本音を大事にしようよ。時にはキレてもいいんだよ。人形じゃないんだから」。 テレビの中の少年達に向かって、私は思わずつぶやいていた。これを書いた頃、「バタフライナイフ」を使った少年の殺傷事件があったのだろう。最近でもそのような事件はあるのかもしれない。しかし、近年は少年犯罪は減っているようで、少年院の収容者数も減少していてガラガラだということも保護司の人から聞いた。それは良い傾向なのだろうとは思うが、少子化の影響もあるだろうし、青少年の自殺が多いということは、不満や怒りが他人へではなく自分に向いているのかもしれない。あるいは、あまりにも周囲に合わせて生きているために、自分自身の本音がどこにあるか見失っているのかも。さて、本当のところはどうなんだろう。
2024年03月10日
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このニュースを見た時はとにかく呆れたのだが、公式に中国が発表したということで一歩前進か?中国原発のトリチウムが上限超え 福島第1処理水の最大9倍 3/9(土) 18:23共同 【北京共同】中国の原発が2022年に放出した排水に含まれる放射性物質トリチウムの量が、東京電力福島第1原発処理水の年間放出計画量の上限と比べて最大9倍に上ることが9日、中国の公式資料で明らかになった。処理水を「核汚染水」と呼んで海洋放出を非難する中国が相当量のトリチウムを放出してきたことが改めて浮き彫りになった。 中国は処理水には他の放射性物質も含まれるとして海洋放出に反対する立場を崩さず、日本と主張が平行線をたどっている。中国による日本産水産物の禁輸といった問題解決は困難な情勢だ。 公式資料は23年版の原子力専門書「中国核能年鑑」。22年の原発の運用状況や安全性のデータが記録されている。13原発計19カ所の観測地点で放射性物質を調べたところ7割以上に当たる15カ所の排水に含まれるトリチウムの量が、福島第1原発から放出が計画されるトリチウムの年間上限量の22兆ベクレルを超えていた。 浙江省に立地する秦山原発が22年に放出したトリチウム量は202兆ベクレルと、処理水上限の9.1倍だった。
2024年03月10日
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「悲しき独白」(47歳) ボクがここに来てから、ずいぶん経ってしまった。確か、夏の終わりだったと思うけれど、今はもう雪がチラついている。きっとこのまま雪に埋もれてしまって…、それからどうなるんだろう。ボクを可愛がってくれたあの少年は、もうボクを忘れてしまっただろうか。ボクだって、彼の顔をはっきりと思い出せなくなってしまったのだから。 ボクは今年の春、高校進学のお祝いとしてプレゼントされたピカピカの自転車だった。 彼のおばあちゃんが、乏しい年金の中から彼に買ってあげたんだ。彼もとっても喜んで、ボクとの通学を楽しんでいたんだ。 それからしばらくして、彼はボクに乗って写真館に行った。お母さんに頼まれたお使いだった。その時彼は、ほんのちょっとだからと鍵をかけなかったんだ。ボクはあっという間に、通りがかった二人組の少年にまたがれて、少し遠くのゲームセンターまで連れて行かれた。 それからは、ずいぶんいろんな人に使われた。スーパーで買われたボクには防犯登録がされていなかったし、マジックで書かれた少年の名前なんか、すぐに消されてしまった。きっとあの少年は、書いた名前を手掛かりにしてあちこち探し回ってくれたはずだけど。 ゲーセンから駅、駅からカラオケボックス、そこからパチンコ店、そしてスナック。随分色々走らされた。 ある時、一瞬あの少年が見つけてくれて目を輝かせた時があった。けれど彼は、首を傾げてちょっと考えてから通り過ぎてしまった。あの時ほど、声を出せない自分が悔しかったことはない。 今ボクは、町はずれの無人駅の自転車置き場にいる。半年のうちにあちこち乱暴に走らされて、汚れてガタガタになってしまった。ボクはもう誰にも見向きもされなくなってしまった。 ふと周りを見ると、同じように錆びついた自転車が何台もある。たまに持ち主と一緒に走り出す仲間を見ると、本当に羨ましくなる。 もうすぐ冬。雪に埋もれてしまうと思うと、むしょうに寂しい。これを書いたのは、私自身がこの少年のような不注意で自転車を紛失した経験があったからだ。私は自動車に乗らないので、仕事をしていた時も自転車で通勤していたし、仕事でも使っていた。だから、うっかりと鍵をかけずに乗り逃げされて、一度は防犯登録で短期間でみつかったが、もう一度は半年以上経ってから警察から電話があった。だがその時は、すでに別の自転車を買っていたし、何よりも部品を取り外されていて乗れる状態ではなかったようなので、警察に廃棄処分をお願いした。仕事で高校生たちと付き合っていた時、彼らの仲間たちの中では、鍵のかかっていない自転車をシェアサイクルのように使っていると話すのを聞いたことがある。呆れた私は、「それは泥棒と同じだよ。やめなさい」と注意すると「だって、オレだって盗られたことがあるし…」などとのたまう。その罪悪感のなさにガックリしながら私は叱った。「盗られたからって盗っていいわけないでしょ! 何を言ってるのかわかってるの」その時は少しは反省したような顔をしていたけれど、今どきの高校生が万引きするっていうのもわかると思ってしまった。今でも、冬になるとあちこちに乗り捨てられた自転車が雪に埋もれている。きっと、このエッセイに書いたような運命の自転車ではないか。そんな自転車を見ると、とも悲しくなってしまう。
2024年03月09日
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大谷翔平クンと結婚した女性の動画が、昨夜知人からラインで送られてきた。多分本人のものだろうと想像するが、私に届くくらいだから、すでにこのような動画が拡散されているのだろう。決して悪意あるものではなく、多分彼のファンである人が好奇心に突き動かされてのものだろう。いずれはわかることなのだろうに、一刻でも早くみんなに知らせたいと思うのだろうか。私だって彼が結婚した人がどのような人かは知りたいけれど、このようなことまでしようとは思わない。まあ、そこまで熱烈なファンになったことがないので、その心理は推し量るしかない。雑音に惑わされずに、お二人ともマイペースを貫いて、それぞれの選んだ人生を歩み、二人とも幸せになってほしいと願うばかりだ。ちにみに私は、「幸福or不幸の手紙」などというものの時代から、このようなものは次には送らないことに決めている。ストップして、不幸になったり幸せになったりはしていないと思う。
2024年03月09日
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ニュースに関心がないわけではないが、見るたびにガッカリしたり絶望感が襲ってきてブログに書く気にならない日々だ。たまには取り上げてみようと思ったが、やはり楽しくないことばかり。<変わろう、変えよう>女性の働きやすさ、日本は29カ国中27位 英誌エコノミスト3/7(木) 19:24 毎日新聞 8日の「国際女性デー」を前に、英誌エコノミストは経済協力開発機構(OECD)に加盟する38カ国のうち29カ国を対象に、2023年の「女性の働きやすさ」を比較した。総合ランキングで日本は22年よりも一つ順位を上げたが、29カ国中27位にとどまった。日本は前年27位だったトルコを抜き、その後はトルコ、韓国と続く。1位アイスランド、2位スウェーデン、3位ノルウェーなど上位には北欧諸国が並んだ。他には5位フランス、19位英国、22位米国――など。 項目別で見ると、女性管理職の割合では、日本は14・6%と最下位だった。OECD平均の34・2%を大きく下回り、同誌は日本の状況を「嘆かわしい」と指摘。この項目のトップに立つチェコは管理職の46%を女性が占め、24・8%だった18年から急増させた。 他には、日本は女性役員の割合(OECD平均33%)は18%で下から3位だった。性別の平均賃金を比べると、女性が男性よりも21・3%少なく、下から3番目だった。 同誌は「北欧諸国がいつも上位に並ぶが、下位の国も見慣れた顔ぶれだ」と分析。「韓国や日本、トルコの女性は依然として職場で大きな障害に直面している」と評価した。【五十嵐朋子】女性の一人として、毎年毎年ガッカリし続けている。変わらないんだなー、日本社会は。次期戦闘機輸出、公明が軟化 与党、月内合意へ調整3/8(金) 時事通信自民党はどうしても武器輸出三原則を無きものとして、防衛装備移転三原則を骨付きにしていきたいようだ。平和の党だったはずの公明党も権力にしがみつきたいようで情けない。ウクライナ紛争、欧州の全面戦争に発展も=ロシア軍幹部3/7(木) ロイターガザ全土で作戦継続宣言 イスラエル強硬姿勢崩さず3/8(金) 共同通信↑こんなことがまかり通る時代なのだろうか。こんな時代だからこそ、日本には愚直に平和のために働く国になってほしいと思うのだが…。
2024年03月08日
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「吹雪の中で」(47歳) 冬になると、吹雪の中でもがく自分を思い出す。私が通った中学校は、家から4キロの距離だった。 35年前の冬の田舎道は、人の足跡や馬橇の跡だけが道の痕跡だった。近所に同級生のいない私は、いつもその雪道を一人で歩いて通学した。いくら寒さが厳しくても、雪が降っても、吹雪かなければ夜道でもへっちゃらだった。小学一年生の時から、私は一人で歩いていたのだから。 しかし中学生になり、生徒会やクラブ活動で下校時間が遅くなると、身の危険を感じることも多くなった。最初から吹雪いていたなら、遠回りして除雪された道を帰るのだが、途中で吹雪き始めた時が大変である。 足跡だけの道は吹雪ですぐにかき消され、道路脇の用水も雪に埋もれてまっ平に見える。用水に落ちる危険を避けるためには、道をはずれてもそこから離れなければならない。つまり、踏み固められていない雪原を、腰まで雪に埋まりながら一歩一歩這いずるように歩くしかない。 風と雪は容赦なく私に吹き付け、周りの景色を失わせ、方向感覚さえも狂わせてしまう。鞄を持つ手は次第にかじかみ、感覚もなくなる。雪と夢中で格闘しているうちに手袋が抜けてしまい、ハッと気付いて必死に探し回った時もある。 雪の中でもがくうちに方向がわからなくなり、(このまま動かずにいたら、死ぬかもしれない)と思いつつ、じっとしている心地良さをボンヤリ楽しんでいた時さえある。 しかし、いつも私は無事に帰ることができた。ジッと待っているとフッと風が止み、その一瞬の静寂の中に我が家の灯りが見えたり、(もうダメだ)と泣きそうになった目の前に、父の持つ懐中電灯の光が突然現れ、(助かった!)と安堵したり。 私が多少なりとも孤独に強く、あまり人に頼ろうとせず、(諦めずに努力していれば、きっと道は開けるさ)という楽天性を持つようになったのは、あの頃の体験のおかげかもしれない。吹雪の体験については、この時に書いたエッセイが下敷きになって何度かブログで書いている。今ではこのような体験をする子どもは少ないと思うが、時々大吹雪で亡くなる人が今でもいる。その多くは、自動車が立ち往生して排気ガスが車内に入っての中毒死や、「あともう少しで家だ」と車を乗り捨ててと歩き出し、方向感覚を失っての雪倒れか。天候の急変はよくあることだ。また、最近は自然も温暖化のせいか従来とは変化してきて、目につくのは雪山での遭難や、スキー場のバックカントリーでの遭難や雪崩事故。いつの時代も、自然を侮ってはいけないと思う。
2024年03月07日
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コミックの「キングダム」を読走中である。(読走なんて単語はないでしょうが、走り読みに近いかな) 「キングダム」は知ってはいたが、コミックにはさほど興味がなく、昨年まではどんな漫画なのかもよく知らなかった。しかし、昨年長男の家でその本を目にして、パラパラと斜め読み。面白そうだったので、「まだ持ってるの?」と聞くと、五巻までしかないという。とりあえずそれを借りてきて読み終え、お正月に来た時に「続きが読みたいけど何巻まであるの?」と聞くと、70巻近くあるはずだという。ヒェーッ! そんな長編なのだとビックリして、レンタルで借りるにしても大変だなあと話すと、次男が「BOOKOFFで60巻セットで売ってたよ。買えば?」という。もう本を増やしたくない私は、「私は買わないよ。もし続きを買った時には見せてよ」と頼んだ。すると、息子たちはみな読みたかったらしくて、早速お正月のBOOKOFFの割引の日に60巻を買ってきてしまった。(私の言葉が背中を押したらしい)ビックリしたけれど、「読み終わったら貸してね」と頼んでおいた。(次男はネットである程度読んでいたらしいし、長男とお嫁さんは農閑期に読まなくちゃと大車輪で読んだらしい)ということで、先月から私たち夫婦は日々「キングダム」を読み続けている。夫はもともと三国志など古代中国を舞台にした小説を読んでいたので、それまでキングダムのことは知らなかったけれど馴染みやすい漫画だったようだ。しかし私は、ずいぶん昔に「三国志」(吉川英治)があまり面白いとは思わなかったので、中国古代史についてはまったく疎い。それでも、「キングダム」は始皇帝の少年時代からの青春群像の成長譚のような側面があり、なかなか面白く読み続けている。現在50巻まできたのであと何日かで手持ちの本は読み終えるだろう。それにしても、漫画家というものはすごいものだ。基本的には史実を「史記」など記されていることをもとにしているようで、時々(「史記」にはこう記されている)という注釈があるのだが、あの数行でこのような物語を紡ぐとはと驚くばかりだ。どの国の歴史の事実は誰も知らない。後世に残された歴史書は、勝ち残った者の立場で書かれているものがほとんどだ。そうだとしても、中国の歴史はこのような殺戮と侵略と謀略の歴史だったんだとあらためて思う。それが今の中国の国と国民のアイデンティティなのかもしれない。それにしても登場人物が多いので、途中で休むと誰が誰だかわからなくなりそうなので、早くキングダムをやっつけたい。
2024年03月07日
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このブログを訪問してくださっている方、毎日過去のエッセイばかりで申し訳ありません。私にとっては意味のあることなのですが、もう26年前のものなのでつまらないことでしょう。本当にゴメンナサイ。「センセイ」(47歳) 人間はたくさんの人と関わりを持ちながら生きている。だから、つきあう相手によって呼ばれ方も違ってくる。 私の場合、「みらい」「みらいちゃん」「〇〇(本名)」「○〇さん」「先輩」「奥さん」「◇◇君のお母さん」などなど。たまにではあるが、「山△(旧姓)のお嬢さん」「山△の孫さん」なんていうのも登場する。 私の旧姓は「山△」であり、曾祖父の代にこの地に住み着いたので、お年寄り世代にとっては「山△の孫・娘」になる。さらに「先生」と呼ばれるのは、若い頃に障害幼児の療育指導の仕事をしていたためである。 どの呼ばれ方が好みかといえば、やはり私自身を表現する「みらい」とそのバリエーションだが、その他の呼ばれ方も仕方がないことと割り切っている。 しかし、どうしても不快感を覚えるのは、最近「センセイ」と呼ばれる時だ。三年前から「主任児童委員」という民生児童委員の仲間入りをしてからのことである。 名称は偉そうだが、実際は公的ボランティアであり、何の権限も資格も無いに等しい。さらに、新しい制度によるものなので社会的認知度も低いから、学校や教育関係機関を訪問する時には、プリントゴッコ製の名刺を持参する。 すると、なぜか学校や教育関係者は私を「センセイ」と呼ぶのである。(それも役職が上になるにつれてその傾向が強い)。「教育者ではないので『センセイ』は勘弁してください」と頼むのだが、どうも「センセイ」が口癖になっているようで、改めてくれない。 学校などとの付き合いが深まるにつれて、私の「先生」への失望感は深まるばかり。責任回避、熱意や子ども達への共感性の薄さ、慇懃無礼な言葉の裏の素人軽視…、などなど。(そんなアンタにセンセイとは呼ばれたくない!)と、心の中で毒づくこともしばしばである。というわけで、「センセイ」だけは返上したい敬称である。この当時は、まだパソコンを使っていなかったようで、名刺もプリントゴッコだったんだなと懐かしい。私は仕事をしている時も、プリントゴッコ製の名刺を作っていた。原稿はワープロで作っていたと思うし、これらのエッセイの下書きもワープロだった。このエッセイの講評には、「前半と後半も面白いので、もったいない」と書かれていた。どちらかのテーマに絞って書き込んだ方が良いようなことだったが、私はテーマの「先生」を書くために前半を書いたつもりだったから、(まあ、仕方ないよね)と感じたような気がする。
2024年03月06日
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「放 火」(47歳) ある医師の話によると、てんかんの発作の時に放火をしてしまう人がいるという。発作時なので、本人には当然放火の意識も記憶もない。もちろん、きちんと治療を受けていれば問題はないのだが、その病気を見つけられないことも大いにありうる。 それにしても、(どうして発作が放火につながる?)と不思議だったが、よく考えればわかるような気もする。発作で意識が薄れた時期には理性や思考のタガが緩み、無意識のうちに眠っている欲望や嗜好が浮上するのではないか。そう考えた時、ふと幼い頃を思い出した。 私は火を見ているのが好きな子どもだった。だから、お風呂を沸かす手伝いは嫌いではなかった。薪を焚口に入れて、それが燃えてゆくのを時間を忘れて見入っていた。パチパチと音をたてて燃え上がる炎の中に、様々なものを見ていたような気がする。 一瞬たりとも動きを止めないゆらめきの中に、いつしか自分が入り込み、やがて燃え尽きて白い灰になってゆくまで見つめ続け、「何ボヤ―っとしてるの!」の母の声に、ハッと我に返ることもしばしばだった。 「マッチ売りの少女」や芥川龍之介の「地獄変」も、炎を見つめる時に覚える一種の恍惚感を描いたものだと思うが、私にとっては単なるストーリー以上の興味をひくものだった。私にも、ひょっとするとそんな傾向があるのだろうか。 そんな私も、いつしか炎への並々ならぬ関心は卒業はずだったが、過日の「発作→放火」の話は、突拍子もないことを連想させた。7年前、私の勤務する事務所が不審火で全焼し、随分調べたようだったが原因はわからぬまま。さらに新事務所になってからも二回のボヤ騒ぎがあったが、結局事件は迷宮入りとなった。 「放火説」に尾ひれのついた噂が飛び交い、そこに働く私達は不安と不快の波に翻弄された。年月と共に、悪夢のような日々も過去になりつつあったのだが…。 万一私が「隠れてんかん」であったとしたら…。まさか…?講評には、「こんなサスペンスタッチの作品が書けるとは」なんて書いていただいたが、ここに書いてあることは事実である。今、てんかん発作と放火の関係についての情報があるかどうか探したが、まだ見つからない。随分前のことなので、てんかん発作と放火についてはエビデンスもないのかもしれない。だとすると、てんかんを患っている方には申し訳ないことなのだが、この時はこのように思ったということでご容赦いただきたい。
2024年03月05日
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「正しい『秘め事』を!」(46歳)最近は「不倫」ばやりだ。現実にはどれほどあるのかわからないけれど、渡辺淳一氏の「失楽園」が大ヒットしていることからも、男女を問わず「秘め事・不倫願望」が強まっているかに思える。思えば「マディソン橋」あたりからそんな兆候があったような気がする。 渡辺氏が書きたかったのは、「とことんまでの愛の追及」だったようだが、社会現象としてのこの「秘め事ブーム」は、何か変だと思うばかりだ。「秘め事」は、倫理観というか罪の意識があってこそのものであると思っていたのに、テレビのワイドショーや週刊誌を見ると、まるで秘め事の告白大会のようだ。誇らしげに言いふらしたり、自慢したいようにすら思える。 人に知られたら誰かを傷つけると苦しみ、誰かを守るためには絶対口には出せないと悩み、外に出してしまったら色あせてしまいそうだから大切に秘めている…。だからこそ「秘め事」には一種の甘美さも合わせ持っていたはずなのに。 テレビでレポーターが聞く。「ご主人に悪いとは思いませんか?」画面にぼかしこそ入っているが、出演者はしゃあしゃあと答える。「全然思いません。彼と会うことで自分が満足でき、かえって夫や家族に優しくできていいと思っています」。こんなアッケラカンとした答えを聞くと、(アリャリャ…)とただ呆れるばかりだ。その上、「二人の男性を共に愛しています」なんて、失楽園じゃなくて失笑園じゃないか。 二人を愛することもあるだろう。でも、それには苦しみも伴うのではないか。匿名とはいえ得々と情事を語るなんて、これはもう秘め事ではない。援助交際の名で売買春人たちと同じではないか。 フェミニズムが求めてきた女性の解放は、今や女性自身によって裏切られている。女性の仲間達よ、お願いだからみんなで正しい「秘め事」を取り戻しましょう!(うん、わかった。でもどうやって?)これを書いた当時の私は、ひょっとすると今よりも規範意識が強かったのかもしれない。今では、テレビのワイドショーは面白くするためのやらせもあるし、テレビに出る人は受けを狙ってのリップサービスも多いと思っているから、面白半分に見ていてあまり腹も立たなくなっている。いちいち腹を立ててしまうのは、今では政治家がらみのことだけになってしまった。小説も映画もテレビドラマも、私が面白いかどうか、好きか嫌いかだけであり、社会現象になった時には「なぜこれがそれほどに支持されるのか」と考えてしまう。映画も小説も、事前にネットで調べられるので、自分の関心の持つものを選ぶようになっている。かつてのように「流行っているから」ということで選ぶことはほとんどない。残念ながら、恋愛に関してはいくら社会的ルールや倫理観で人を縛ろうとしても、それはあまり有効に働かなかないどころか、かえって燃え上がらせてしまうということも事実だ。それはどうしようもないことのようなので仕方がないけれど、やはり人として周囲の人への責任感だけは見失ってほしくないと願う。
2024年03月04日
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「エリカ 奇跡のいのち」文:ルース・ジー 絵:ロベルト・インノチェンティ 訳:柳田 邦男【内容紹介】お母さまは、じぶんは「死」にむかいながら、わたしを「生」にむかってなげたのです。第二次世界大戦中のドイツで奇跡的に生きのびた、ひとりの女性の物語。<赤ちゃんを走る列車から投げ出すなどということは、平時であれば、殺人行為と見られてしまう。しかし、(中略)たとえ生きられる確率は1万分の1であっても、ゼロではない道をわが子のために選んだという母親の決意は、一筋の「生」の光を求める崇高なものとして、人々の心を揺さぶらずにはおかないだろう>――柳田邦男(「訳者のことば」より)衝撃の実話を『百年の家』の画家ロベルト・イノセンティが繊細な絵で描いた絵本。*第10回日本絵本賞 翻訳絵本賞 受賞作品この絵本は以前に読んだことがあるのだが、先日BOOKOFFでみつけて購入した。このような時代を生き延びてきたはずの人が作った国イスラエルが、今はパレスチナの人達を殲滅しようとしている。現在のパレスチナのお母さん達も、わが子の命を守ろうと必死だろうに…。争いの連鎖の中に、一筋の光をどう見つけたら良いのか…。
2024年03月03日
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裏金「納税するつもりない」 詳細は「知らない」 安倍派幹部4人が言い張る根拠の「今さら感」東京新聞 2024年3月2日 自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件で、不記載が5年間で総額約13億5000万円もあった安倍派の幹部4人が出席した1日の衆院政治倫理審査会。いつ裏金づくりが始まり、なぜやめられなかったのか。国民が抱く不信と疑念に対し、4人は「反省」を口にしたが、詳細は「知らない」「存じ上げない」と異口同音に繰り返した。裏金を国会の議員事務所で保管して秘書の判断で支出していたのに、納税を否定するなど、国民感情を逆なでするような責任逃れの弁明が相次いだ。(井上峻輔)◆過去の経緯、森喜朗元首相に確認する事も拒む 裏金づくりがいつから始まったかについて、安倍派で事務総長を務めた西村康稔前経済産業相は「歴代会長と事務局長との間で長年慣行的に扱ってきたことだ。判然としない」と回答。塩谷立元文部科学相も「二十数年前から始まったのではないかと思うが、明確な経緯は承知していない」と述べるにとどめた。 それならば、過去に派閥会長を務めた森喜朗元首相に確認すればいいのではないか。野党側から森氏に尋ねるよう求められたが「私が聞くと口裏を合わせたと言われかねない」(西村氏)と応じず、違法行為が長年、行われてきた実態は分からないままだった。◆還流復活のいきさつも、うやむやもうひとつの大きな疑問は、かつて派閥会長だった安倍晋三元首相がノルマを超えたパーティー券収入の還流中止を決めたのに再開された経緯だ。 いつ誰が復活を決断したかについて、経緯を知らないと話した西村氏の後任で事務総長になった高木毅前国対委員長は「誰がどんな形でそうしたのかは、私には分からない」と答弁し、真相を確認しようとする姿勢すら示さなかった。塩谷氏も曖昧な説明を続け、謎の解明には至らなかった。 裏金に関し、事務総長としての監督責任を問われた松野博一前官房長官は「道義的な責任はあると思うが、不記載の監督責任を求められるものではない」と開き直った。◆松野博一前官房長官は事務所金庫に800万円 裏金の扱いや使い道に関しても「国民感覚とかけ離れた永田町の常識」(塩谷氏)が明るみに出た。松野氏は国会内の自らの事務所で約800万円の裏金を保管していたことを認め、立憲民主党の枝野幸男前代表は「金庫の中に自由に使えるお金が800万円もあった。それに所得税がかからないのは理不尽だ」と追及した。 政治活動以外に使った分や未使用分は雑所得として所得税の課税対象になり得るが、松野氏は「会合費など政治目的と認められるものに支出し、領収書もある」と強弁。塩谷氏も「政治活動に使用しているので、納税するつもりはない」と言い切った。◆「納税者は納得できない」 枝野氏は「今になって政治活動だったから払えませんと言っても納税者は納得できない」と厳しく批判。与党の公明党の中川康洋氏ですら「不記載分の収入に支出を近づけるため、領収書をかき集めたのではないかと思えてしまう」と不信感を示したが、説得力のある弁明は聞かれなかった。男性は政治ショーが好きなのか、昨日は国会中継の間、夫は飽きもせずにテレビを見ていた。私は見ていると腹が立つばかりなので、チラチラと見るだけ。それだけでも、政治家っていうものはグローブのような面の皮なんだなあと呆れる。こんなことを続けることができるのは、呆れて無関心になる国民を増やそうとする自民党の戦略なのか。国民の政治離れは自民党に利することが多いからねえ。それでいいのか、日本人!
2024年03月02日
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「遥かなる道草」(46歳) 長男は道草が大好きだった。小学校に入るまで一人で歩く体験がなかったせいか、未知の道を行く冒険心が俄然ふくれ上がったらしい。 小学校まではゆっくり歩いても20分。交通量の多い道路もあり、通学路は決められていた。もちろん、道草はせずにまっすぐ帰るように指導されていた。 それなのに、彼がちゃんと帰宅したのは最初の2~3日だけで、日に日に帰宅時間が遅くなる。何しろ最初の子どもだし、それまで保育園に預けていて社会体験が不足している面もあり、私は毎日心配で仕方がない。 好奇心旺盛で警戒心の少ない息子が事故にでも遭ったらと、つい考えてしまう。「決められた道を歩かなくちゃダメ。途中で遊ばないで、まっすぐ帰りなさい!」と、何度厳しく注意しても効果がない。 叱られると神妙な顔で、「ごめんなさい。明日はちゃんと帰る…」と反省しているようなのだが、翌日になると約束をケロリと破る。 途方に暮れた末、私は泣き落とし戦術に変えた。「お母さんね、あんたが帰るまで心配で心配で泣きそうになるの。遊びに行くのなら、一度帰ってからにしてちょうだい」と、多少オーバーにべそをかくような調子で哀願した。「お母さん、ごめんね。ぼく、学校を出る時には(今日はまっすぐに帰ろう)と思うんだよ。でもね、途中で違う道を見つけたら、どうしてかわからないけどお母さんのこと忘れちゃうんだ。どうして、こんなに一杯違う道があるのかなあ」。私には返す言葉がなかった。 あれから16年、大学卒業を間近にしたある日、長男から久しぶりに電話が入った。彼は口ごもりながら、申し訳なさそうに言う。「お母さん、悪いんだけどあと一年就職しないから…。卒業はちゃんとするし、仕送りももういらない。でも、自分がやりたいこと見つけるまで、もう少しあちこち見て回りたいんだ。今年中にきっと仕事を見つけるから」。 多分こんなことになるかもしれないとの予感はあった。あの子の道草癖は、この先いつまで続くことか。それから長男は、北海道での農業をめざし、色々な出会いの中で今はワインを造る農夫である。その時からは道草はせず、葡萄を育てワインづくりに一直線だ。しかし、彼の好奇心は健在で、面白そうなことにはチャレンジせずにはいられないようだ。まあ、多少は「大丈夫かな…」と思うことはあるけれど、さほどの躓きもせずに生きていることにホッとしている。
2024年03月02日
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「あといくつ寝ると…」46歳 お正月には、一年ぶりに家族が揃った。長男は神戸で大学四年生、次男は兄より一年早く社会人になって東京暮らし。たった四人の家族なのに、全員揃うのはお正月だけになった。「三年は北海道に帰らないつもりだったんだけどな…」次男の呟きは、故郷への懐かしさを想う東京暮らしを実感させる。「やっぱり北海道はいいよな。僕も最終的には北海道で暮らしたいと思うよ」就職を控えた長男も、言葉を重ねる。 そんな二人の大人びた顔が、いつの間にか幼い頃の顔に重なり、口々に問いかける声が耳に蘇ってきた。「お母さん、あといくつ寝るとお休み?」「明日はお休みの日?」「今日がお休みの日だったでしょ? あと七つ寝るとお休みだよ。いい子で保育所に行って、お友達といっぱい遊ぼうね」 子ども達は保育園児。保育園でお友達や保母さんと遊ぶのは嫌ではないけれど、やっぱりお父さんやお母さんがお休みの日が楽しみらしい。 子煩悩の夫は、休日にはよく遊びに連れて行く。冬はソリすべり、春は野山に山菜取り、夏は海。秋は紅葉の美しい山。動物園や遊園地、水族館などはビックイベントだ。 休日にはたまった家事を片付けたり、少しはのんびりしたい私にとって、その状況は少々苦痛ではあったが、いつも我慢させている子ども達への罪滅ぼしと、頑張って付き合っていた。 あの頃の子ども達にとっては、どんなにか「お休みの日」が待ち遠しかったのだろう。毎晩毎晩、よくも同じ質問を繰り返すものだと、未熟な私はうんざりしながら機械的に同じ答えを繰り返していた。 時には、「あと四つ」などといい加減に答えると、数を知り始めた長男のチェックが入る。「違うよ! あと三つだよ。お母さん、間違えちゃダメ!」(知っているなら聞くなよ…)などと、愚かにも心の中で毒づいたりもしたものだ。 ふと我に返ると、目の前には私が子どもを産んだ年に近づいた息子たちが笑っている。 みんながお休みの日は、やっぱりいいもんだ。このエッセイを書いてからもう27年が経っている。長男の子供二人も社会人となり、当時の私達のように家族が揃うのも年に一度程度となっている。すっかり世代交代をしていると実感するし、月日の経つのは早いものだと思う。書き写しながら、そんなことがあったなあと思う。早く寝てくれと思いながら、絵本を読んだり昔話をしているうちに私の方が眠ってしまい、子ども達に「おかあさーん、寝ちゃダメ」とか、桃太郎がいつのまにかカチカチ山になったりして、「お話が変になってるよ」と注意されたり…。考えてみれば、忙しくていつも何かに追われていたけれど、今となれば楽しい思い出だ。二人の子どもに恵まれ、育てることができたことを感謝する。
2024年03月01日
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【速報】大谷翔平選手「初めて会ったのは3年ちょっと前」会見で結婚について語る3/1(金)大谷翔平 会見全文おこし昨日のこのニュースには驚いた。でも、やはり大谷翔平はすごい人だとあらためて感心する。セルフコントロール、リスクコントロールが完璧!これからは二人三脚での彼の活躍を、さらに楽しみにしたい。
2024年03月01日
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