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マルチーズは、ダーウィンによると紀元前600年が起源という。犬では、世界最古と言える起源です。ショック・ドック(衝撃犬)の別名は、毛繕いをしないとショックで毛が逆立つからといわれます。カムフォーター(慰め役)の別名は、マルチーズが湯たんぽ代わり腹を温め、痛みや病気を取り除いたことが起源。常に人の傍にいたこの犬は、人の歴史を見続けてきました。1793年10月16日、マリー・アントワネットの処刑の日。彼女の愛したマルチーズは、サン・ミシェル橋からセーヌ川に飛び込み、命を落としたと言われます。1587年2月8日、スコットランド女王メアリの処刑の日。愛犬のマルチーズは、彼女のペチコートに隠れていたと伝えられます。そしてやがて、悲しみのあまり命を落としたそうです。人を和ませ、笑顔にさせる、この陽気なマルチーズが見た歴史。それはなぜか、悲しみに満ちた人の歴史でした。マルチーズは、陽気に振舞います。その小さな犬は、悲しみを知っているから。2,600年も、悲しみばかりを見てきたから。***● 救いを待つ子達 ●● よし@兵庫さんのブログ ●
2008.09.30
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ラブラドールは、俊敏な水陸両用の猟犬。水鳥猟犬らしく、泳ぎが得意で、また嗅覚は犬の中でも卓越しています。「カワウソの尾となめらかな毛並み」と評される美しさ。子供となじみ、外来者も親しみを持って受け入れます。作家キャスリーン・オズグッドには、次の体験談があります。彼の知人は、ウェスターというラブラドールを飼っていました。ウェスターは、その家の飼い猫と大の仲良し。16年も猫と親友でしたが、ウエスターは癌で亡くなってしまいます。親友を失った猫は、家の周りをふらふらとさまよい、ついには一晩中、ウェスターの墓で寝込むようになりました。家族にもウェスターの死は深い悲しみをもたらし、それから開放されるために、新しいラブラドールの子を飼いました。すると、その猫は、昼は新参の子犬とじゃれまわり、夜はやはりウェスターの墓で眠るようになります。よく見ると、猫はただ子犬と遊ぶのではなく、ウェスターの癖をその子犬に教え込んでいるようでした。猫は、今も子犬の中に、ウェスターを探していたのです。ある夕暮れ、ウェスターの飼い主は、海岸で驚く体験をします。海岸にいるのは、死んだはずの母親とウェスター。そして、まぼろしに違いないふたりは、ゆっくりと夕日の中に消えてゆきました。飼い主とその家族は、ウェスターが今は、母親と一緒にいると安心しました。そして強すぎるウェスターへの気持ちを、断ち切るべきだと感じました。また、家族は愛猫にも、そうあって欲しいと考えました。しかし、もうその必要はありませんでした。翌朝、墓で眠っているはずのその愛猫は、家族が迎えに行っても目を覚ましませんでした。それは目を覚ますことはない、永遠の眠りでした。愛猫は、ウェスターを追って、光の中に消えていったのでしょう。冷たくなったその愛猫は、とても安らかな表情をしていたそうです。***時間がありません。● 救いを待つ子達 ●● よし@兵庫さんのブログ ●
2008.09.28
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陶磁器2話。*** 1話 ***私は中国の陶磁器は、基本的にはコレクション対象ではありません。理由は、あまりに偽物が多いから。それでも持っているものは、図柄が面白い陶磁器です。下の写真は、古い紹興酒の容器。手描きの図柄が面白い。裏面には、美術品の輸出許可印もあります。 こちらの陶磁器も、図柄は楽しい。しかし価値は、二束三文です。 今年は特に、あらゆるものの中国製品の信頼性が揺らいでいます。真面目に作れば、高い技能を持つ中国製品。もう一度、あの高い技能を、安心して堪能することはできないのでしょうか。*** 2話 ***カズタク68さんから、来年のコペンハーゲン、イヤープレートの情報を頂きました。101枚目のプレートは、いつもと違い生活感があります。2009年、フィギュリン情報もあります。早くも来年を意識することになりました。***今日27日と、明日28日は里親会。良いしらせが、ありますように。● 救いを待つ子達 ●
2008.09.27
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そういえばと、気になることがあります。江戸時代、武士が所有する武家地と、町民の町民地は、呼び名が違ったと言います。武家地である「麹町(コウジマチ)」,「御徒町(オカチマチ)」は、「マチ」と読みます。それに対し、町民地の「馬喰町(バクロチョウ)」,「大伝馬町(オオデンマチョウ)」,「小田原町(オダワラチョウ)」は、「チョウ」と読みます。そういえば、私の知る所にも「マチ」と呼ぶ地名があります。近くにも城もある。たしかに、武家地かもしれません。他に、「マチ」はないでしょうか。最近、「マチ」探しに目覚めています。
2008.09.26
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火事と喧嘩は江戸の華。江戸時代、江戸は火事が多い街でした。記録に残る大火だけでも、1,800件あったという。例えば、日本橋の三井本館。「越後屋」開業以来、190年で12回焼けています。16年に一度は、建て直し。江戸の火事は、不景気対策。江戸は大工が多い街。火事があると、大工の日当が2倍になりました。だから、不景気になると火事が増えます。いわゆる火付け、つまりは放火です。厄介なのは、火消しも放火をしたこと。江戸の火消し、いろは四十八組。彼らは火消しであり、また幕府お抱えの「火付け」でもありました。幕末、勝海舟は、西郷隆盛を脅します。江戸城を明け渡さなければ、子分持ちの火付け48人が、江戸を火の海にすると。いろは48組は、幕府勅命の火付けでした。12万2千人の死者を出した明暦の大火。火元の寺も処分なく、それ以降も幕府から資金援助が出ました。なぜならこれは、江戸の都市開発のための火事だからと言われます。火事を予測し、長屋は3年住めば元が取れる安普請にしました。これが後に、地震などでの災害を大きくしましたが。不景気で燃える、江戸の街。火事と“放火”は江戸の華。よく似ていませんか?景気が悪化すると起きる、現代の戦争と。
2008.09.25
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天が与えし パンドーラ罪深き 人に贈られし 天の災い美しき パンドーラ天界の 火を盗む人へ 天から彼女が 贈られるパンドーラは 作られた乙女 粘土によって箱を開く パンドーラ災いが 広がる人の世希望をつかむ パンドーラ広く放たれし 絶望と 引き換えに最初の女性 パンドーラ災いを 人にもたらす その好奇心それから人は 痛みを知る女性によって 出産の私たちが 開いた パンドーラの箱今年は 何が残るでしょう
2008.09.24
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生類憐れみの令は、かなり見直されてきました。天下の悪法として知られる、徳川綱吉の生類憐れみの令。初めは、「捨て馬禁止令」として出されました。旗本や農民で横行していた、老馬の足を切って捨てるを禁じたのが初め。捨て犬禁止でも、忘れられていることがあります。それは、江戸時代の犬は、武家でしか飼えなかったということです。しかし大名屋敷の犬の管理は悪く、野犬化することが増えました。野犬狩りの鉄砲隊も出ましたが、1688年には山犬が荒れ狂い、現在の埼玉県所沢市で4人が食い殺され、6人が負傷しました。犬愛護令は、武家の犬の無管理を禁じた法でした。さらに犬での武士の試し切りも横行し、動物虐待は続きます。それは人の精神にも悪影響します。1672年、9歳と11歳の子供による切り合い。1673年、14歳の子供同士の切り合い。いずれも双方とも無残に命を落としましたが、民衆はあっぱれと讃えました。動物虐待は、人の心もむしばみました。生類憐れみの令では、「捨て子、捨て病人」も禁じています。ついには、人の命も軽んじられていたのです。生類憐れみの令で裁かれたのは、22年間で69件。年3件にすぎません。しかも46件は武士で、裁かれた町人は主に動物の売却の罪でした。そして同罪なら、武士は死罪、町人は遠島と、武士に厳しい法律でした。生類憐れみの令は、人と動物の命を守る法。しかしそれを推進する中で、生類憐れみの令は悪法とみなされました。さらに、ないがしろにされた、徳川光圀の反抗もありました。江戸時代の動物愛護。それは素晴らしい考え方だったことでしょう。しかしその考えは、320年経ってようやく理解されつつある、多くの問題を含んだ、極めて難しく困難な課題への挑戦です。【参考図書】 古川愛哲:江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた,講談社,2008年,190P
2008.09.22
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まだ見ぬ世界に、夢を託して。暗い土の中ですごすモグラは、外の世界を見ることはありません。その小さなモグラも、一生を土の中で終えるはずでした。しかし、その小さなモグラは、旅に出る決意をします。吸い込まれるような、高く澄んだ星空をみつめながら。彼が目指すのは、モグラが一生見るはずのない海。親元を離れて、旅立った彼が見る世界。そこは、喜びにばかりは満ちてはいませんでした。夢は、苦難を強いるものだから。みにくい争い、悲しい別れ、そして突然の死。土の中にいれば経験しなくてよかった、数々の悲哀。しかし、それらを乗り越えて、彼は成長してゆきます。多くの出会いと、愛情に支えられて。彼が海を見ることは、夢をかなえることは、できるのでしょうか。そして、その旅の果てには、何があるというのでしょうか。私たちがいつも見る、土の外の世界。そこに広がる真実を、そして夢見る者の生き方を、その小さなモグラは教えてくれます。【参考図書】秋月夕香・文,中谷和美・絵:「モグラの見た海」,株式会社てらいんく,2008年,141P****これは、童話「モグラの見た海」からのお話です。この本の著者は、私のブログのお友達、ゆうか0373さん。そして挿絵は、ゆうかさんのご息女が描かれています。親子が手を取り合って完成した素晴らしい作品。ぜひ、ご覧ください。またゆうか0373さんは、先週、ブログで障害が発生し、ブログ再スタートとなってしまいました。新ブログでも夢のあるお話を再開されています。これから広がる新しい世界が、楽しみでなりません。【ブログ】 ゆうか0307さん
2008.09.20
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悲しい話はあまりに多く、普段はご紹介しません。しかし今回は時間がありませんので、あえてご紹介します。この子たちに、残された時間はわずかです。【ご覧ください】 緊急SOS ********今日は後ほどもう一度、通常の日記も掲載予定です。
2008.09.20
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主役でなくても、人は大きなチャンスを手に入れることができます。1878年のパリ万博。スペイン会場、第2ホールに皮手袋店「コメーリャ」は出店していました。その店に立ち寄ったのは、エウセビオ・グエル。バルセロナで繊維会社を経営し、有力な政治家の父を持ち、留学経験も豊富な教養人でした。グエルはその店の、1辺60cm、高さ2mのショーケースの前にくぎづけになります。彼を惹きつけたのは、手袋ではありません。その手袋が置かれた、ショーケースでした。ケースの作者に、並々ならぬ才能を感じたグエル。彼はその作者を調べ、まったく無名の建築家アントニオ・ガウディを見出します。そしてこれをきっかけに、グエルはガウディのスポンサーになるのです。グエル32歳、ガウディ26歳の時でした。もしこのショーケースを作らなければ、ガウディは無名のままだったかもしれません。手袋の脇役の仕事でも手を抜かなかった、ガウディの芸術への情熱。それが彼を救いました。あきらめてはいけません。たとえ、今は主役でなくても。才能は、そして努力は、いつかは認められるものだから。【過去の日記】 ガウディの教え - サグラダ・ファミリア -
2008.09.19
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私を悩ませる漢字。毎日使う漢字。その漢字の日本への伝来は、5世紀ごろと言われます。もちろん、西暦57年に日本に伝わったとされる金印にも、「漢委奴国王」の文字があります。天理市東大寺山古墳出土の太刀にも、2世紀の銘が刻まれています。しかしこれらは、日本で使われた漢字ではありません。事実、4世紀後半の銅鏡に刻まれた漢字にも、誤りが多くあります。この頃は、まだ漢字は使われてはいませんでした。5世紀から使われた漢字は、今も私たちの生活に欠かせません。しかし漢字の習得は世界の文字の中でも難しく、悩ましさもあります。ワープロに頼るこのごろ、私も漢字忘れに悩まされています。ありがたく、そして悩ましい漢字との付き合い。これは一種の腐れ縁かもしれません。*遠方におり、PCに触れることができませんでした。コメントの返事など、遅れましてすみません。今日はお返事にうかがいます。
2008.09.17
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ローマ人の空想の怪物バジリスク。蛇の王バジリスクは、なぜかトサカを持った鶏に近い姿をしている。申し訳程度の蛇のしっぽが、蛇の王の証。バジリスクを見ただけでも命を落とし、その通った跡にも猛毒が残る。その息も猛毒で、武器で刺してもその武器から人に毒が回る。最強不滅にも思える怪物。しかしその弱点は、意外にもイタチ。猛毒を持つバジリスクが、あの小さなイタチに負けてしまう。まるでコブラとマングース。そして、バジリスクの名を授かった生物がいます。それは意外にも蛇ではなく、イグアナ。トサカがあるだけで、バジリスクと呼ばれました。弱点がイタチかは不明です。怪物と生物のバジリスク。見比べて、お好きなほうを選んでください。【参考1】 怪物のバジリスク 【参考2】 イグアナのバジリスク
2008.09.14
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旧暦8月15日は、中秋の名月。今年の中秋の名月は、9月14日、明日です。9世紀末に中国の風習として始まったこの習慣も、今ではすっかり定着しています。元の時代に始まった月餅の習慣。この餅も、昔は30cmもの大きさで、表面には月宮,ヒキガエル,ウサギが刻まれました。月の丸さと家族円満を掛けて、祝ったものです。14日の空に輝くでしょう、名月のその美しい姿。多くの人が、その月を見上げるに違いありません。それならば、私は9月15日に月を見ましょう。今年の満月は、15日だから。14日は、満月ではありません。15日の空に輝く、中秋ではない名月。私は、そんな月を、ひとりじめ。【参考図書】 志賀勝:月の誘惑,株式会社はまの出版,1997年,280P【関連日記】 月の女神セレネの想い ― 永遠の若さと永遠の眠り ―
2008.09.13
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宇宙の形を解き明かす鍵となるとされるポアンカレ予想。「単連結な3次元閉多様体は3次元球面に同相である」というその予想は、数学的意味を正確に理解することすら難しい。1904年に提案され、100年間解かれなかった難問。1億円の懸賞金がかけられたその難問に、多くの数学者が挑み、敗れていきました。しかし2002年の秋、数学界に奇妙な噂が流れます。インターネット上に、ポアンカレ予想の証明が現れたというのです。そのインターネット上の論文の筆者こそ、グレゴリー・ペレルマン、その人でした。多くの数学者が「悪夢」とすら感じた、世紀の難問の証明。今までその証明に取り組んだ学者すら、その解法を理解すらできませんでした。当然の様に、ペレルマンには、数学界最高のフィールズ賞が与えられました。しかし驚くことに、ペレルマンはその4年に一度しか与えられない賞を辞退します。しかも裕福とは言えないにも関わらず、1億円の賞金にさえ興味を示しませんでした。マスコミや、世間からさえも姿を隠した彼は、今は母親の年金で細々と暮らしています。なぜ、彼は賞を辞退するのか。なぜ、彼はポアンカレ予想を証明できたのか。その答えは、同じです。彼が数学に対して、あまりに純粋だったから。ただ、それだけのことなのです。【参考図書】 春日真人:100年の難問はなぜ解けたのか,日本放送出版協会,2008年,229P【関連日記】 フェルマーの最終定理
2008.09.12
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三葉虫と並ぶ、化石の代表格アンモナイト。少しずつ姿を変え、長く生き続けた生物。その末期には、ニッポニテスと呼ばれる、異常巻きアンモナイトが現れます。北海道で発見された、この異常巻きアンモナイト。規則正しい巻貝状ではなく、ぐねぐねと一見不規則な形をしています。以前は、アンモナイトの種の遺伝子が乱れ、滅びる間際の奇形と考えられていました。アンモナイトの種の力が弱まり、そして滅びてゆく。その説は、私も長く信じていましたが、今では見直されています。一見不規則な巻き方も、3つの巻き方の法則で出来ています。つねにアンモナイトの開口部が、水中で水平になるように巻き方を変えると、ニッポニテスの姿になります。アンモナイトは、絶滅の直前まで、その環境に適合しようとしていました。アンモナイトが滅んだのは、恐竜と同じ原因。それは隕石の衝突かもしれません。アンモナイトは、その姿を変えてまで、生き続けようとしていました。*アンモナイトといえば、ニャンモナイトを思い出します。そして、あのかたのことを。アンモナイトの様に、がむしゃらに生き続けること。そのことは、あのかたからも教わりました。ニャンモナイトの軽妙な、響きと共に。【参考】 アンモナイト・ニッポニテス 【参考図書】 重田康成:アンモナイト学,東海大学出版会,2001年,155P
2008.09.11
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陶磁器の歴史に、万博は大きな影響を与えました。今日のお話は、西洋陶磁器と万博の歴史。【ヘレンド】1851年のロンドン万博。この万博でヘレンドはヴィクトリア女王に認められ、御用達となりました。この時、コーヒーセット「ヴィクトリアヒストリック」が作られました。1867年のパリ万博。ナポレオン3世の妃ウジェニーに、ディナーセット「インドの華」を買い上げられます。【ミントン】1851年ロンドン万博。ミントンも、青と緑の2個の巨大な花瓶を出品します。【ウェッジウッド】1851年ロンドン万博には、やはり大きな花瓶を出品しています。ロンドン万博には、ジノリの出品しています。いずれも、日本が始めて出品した1867年のパリ万博、そして薩摩・伊万里が大成功した1878年のパリ万博以前の話。【バカラ】ガラスのバカラは、1855年パリ万博でグランプリを獲得します。さらに1867年パリ万博には、高さ7.3mの大噴水や重さ100キロのシャンデリアを展示。作家ジャン・バティスト・シモンがデビューします。そして再度、グランプリを受賞。さらに1878年も、ジャポニズムを取り入れた作品を出し、三度グランプリを受賞します。【クリストフル】1855年パリ万博に、銀器を出品。グランプリ獲得。ナポレオン3世は、1,200人分の銀食器をクリストフルに注文します。1867年パリ万博に小サロン出展、1878年パリ万博でジャポニズムの作品を展示します。万博と深い関わりのある、西洋のメーカ。それにしても、1878年パリ万博のジャポニズムの過熱ぶりが偲ばれます。今日は、ちょっと変わったお話でした。でもたまには良いでしょう。ここは、西洋陶器のブログなのですから。【参考図書】 久島伸昭:「万博」発明発見50の物語,講談社,2004年,246P
2008.09.10
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ご心配をおかけしましたが、無事に全快しました。当面はこれで痛みなどはありません。優しいお言葉を沢山頂きまして感謝しております。ありがとうございました。これからは、通常通りご訪問できますので、よろしくお願いします。
2008.09.09
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トロイア遺跡発掘を夢見たシュリーマン。彼の情熱は、尊敬に値するものです。しかし発掘をめぐり、彼は多くのトラブルに巻き込まれます。トルコからの発掘中止命令、ギリシアとの発掘品をめぐるかけひき。それを支えたのは、30歳も年下で16歳で結婚した伴侶ソフィア。事実、トロイアを発見してからの彼は、名誉欲に取りつかれていました。それは発掘品は彼の手に残らず、金銭的なメリットがないこともありました。しかし最も強かったのは、彼がアマチア考古学者だったことでしょう。結果的に、その名誉欲は、ドイツ考古学界の強い反感を招きます。学術的検証の弱い発掘、発掘における遺跡破壊。それらが激しい攻撃の口実になりました。それに加え、持病の内耳炎が悪化。激しいあせりにかられた彼は、ついに発掘を放棄します。発掘現場での陣頭指揮を生きがいとした彼が、なんと株式取引のためにキューバに渡ったです。その後も、海外を点々とするシュリーマン。ついに、1890年のクリスマスの日、彼はナポリの路上で昏倒します。警察は彼を行き倒れとみなしましたが、その懐には多量の金貨が詰まっていました。翌日、彼はその黄金とともに、息を引き取ります。名誉と黄金を手にした彼の最後は、誰にも看取られず寂しいものでした。夢は人を輝かせ、欲は人を闇に誘う。それは誰にでも、そしていつの時代でも変わらない、あまりに確かな法則なのです。【参考】谷沢永一:「世界の十大伝記・プラス・ワン」,集英社,(2000年)278P
2008.09.08
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いつのまにか、16万ヒットになっていました。逆算すると、9月4日に16万達成でした。いつも皆さん、ありがとうございます。それでは、短めの「日記 それから」です。●【「失うものが 大きすぎて - ドーピング -」 それから】 また、ハンマー投げのドーピングが問題になっています。 人は同じ過ちを、繰り返し続けます。●【「名を変え 幻覚の彼方に - エンジェルトランペット -」 それから】 SIR JAPANさんのところでも、チョウセンアサガオが咲きました。 花が生きる短い時間。そこには、本当の美しさがあります。●【「たたきつぶす ― ワット、スチーブンソン、そして、トレビシック ―」 それから】 1年前の日記を振り返ります。2007年9月4日の日記はお休み。 9月5日は、ジェームス・ワットが若手技術者トレビシックを、暴力と権力で叩き潰した話。 偉人も権力を持つことで、道を踏み外すことがあります。●【「パイレックス」 それから】 2年前の日記を振り返ります。 またも9月4~6日は日記を書いていませんので、9月3日。日記を書き始めたばかりですが、コメントが3件のみ。しかも全て、華吹雪深雪さんです。こういう時期を経て、ようやく多くの皆さんとお会いできるようになりました。ご心配をおかけした体調は、やや小康状態です。完治ではないでしょうが、かなり楽になっています。たくさんの応援、ありがとうございました。これから描く「それから」は、どのような話になるでしょう。それは、皆さんとの会話のなかで描かれる世界に違いありません。これからも、よろしくお願いします。
2008.09.07
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事故車両207系は、今も走っています。あの福知山線の事故以降、事故の要因はJRの体質にばかり目が向けられました。しかし転倒脱線の限界速度以下で、なぜ電車は脱線したのでしょう。その原因は、不明確なままです。脱線した207系には、3つの大きな弱点がありました。ひとつは、先頭車両にモータがないこと。電車の最大のブレーキは、モータ空転時の回生抵抗ブレーキ。モータ自身をブレーキに使います。そして空気ブレーキは、低速で働きます。先頭車両にモータのないJRのZ16編成は、ブレーキが弱いことで有名でした。阪急電鉄等の私鉄が先頭車両はモータ付きとするなか、JRは衝突時に高価なモータ付き車両が破損するのを恐れ、先頭車両はモータなしにこだわりました。ふたつめは、ボルスタレスという軽量構造。ボルスタ(橋梁)がない車両は軽量になる反面、左右の傾きが大きくなり、また重心も高くなります。そのため、207系は低速度での転倒脱線が起きやすくなっています。公表はされていませんが、日比谷線での207系の脱線事故の原因も、ボルスタレス構造にあると考えられています。事実、日比谷線での事故では、地下鉄に傾きにくくなる対策が施されました。みっつめは、空気ダンパの耐久性。207系では車両の傾きを押さえるダンパは、空気ダンパ。福知山線脱線時の傾きは異常に大きく、一方の空気ダンパが破裂した可能性があります。乗客も、それを裏付ける異常振動を感じています。事故の原因が明らかでないまま、JRはひそかに先頭車両をモータ付きに変えました。しかしボルスタレス構造は、今でも新幹線を初めとしたJRの主流です。一方で、阪急,京阪,京浜急行などの私鉄は、ボルスタレス構造はほとんど採用しません。そしてこの事実を語ることは、今ではタブーとされています。技術的検証を忘れ、JRの体質や日勤教育などの精神面にばかり注目する日本人。その精神面を重視し、科学的分析を忘れる様は、敗戦した太平洋戦争中と変わりません。ボルスタレス車両は走ります。軽くまるで空を飛ぶように、高速で。多くの恐怖を載せたまま。【参考図書】 川島令三:「なぜ福知山線脱線事故は起こったのか」,草思社,(2005年)203P【参考】 「ボルスタレス台車と尼崎事故」
2008.09.05
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世界一、数が多いとされたリョコウバト。1914年9月1日、その最後の一羽が命を落としました。北米に90億羽もいたと言われるリョコウバト。18世紀初め、リョコウバトの群れは、地上を暗くするほどに、空を群れて飛んでいました。しかし多量に渡ってきた白人により、リョコウバトは乱獲されます。また開拓により、その生息地も奪われてゆきました。そしてわずか200年で、90億羽もの世界最多の鳥は絶滅したのです。無軌道な環境破壊は、最多を誇る生物すら滅ぼします。最多の鳥を滅ぼした人類。次に環境破壊で滅ぶのは、今、最多の大型哺乳類ともいえる人類かもしれません。
2008.09.04
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オスが出産する、タツノオトシゴ。タツノオトシゴは、メスがオスのお腹の中に卵を産み付けます。そして卵を生んだメスは、知らん顔をしてさようなら。40~50日間、200個の卵をお腹に入れたオス。出産は、岩にお腹をこすって行われます。激しい苦痛に耐え、しかもその出産は数日間続きます。あまりの苦痛と疲労で、そのまま死んでしまうオスもいるほど。日本では安産のお守りとして、乾燥させたタツノオトシゴを持ちます。しかしそれは、オスとメスのペアとか。安産のお守りは、オスだけでよいのでは?究極の女権社会。ちょっと気の毒な、オスのタツノオトシゴでした。
2008.09.02
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お気に入りブログ。最近、こちらを登録くださったかたがおられますが、こちらからリンクのお返しができていません。もう5名ほどお返しができていないまま。実はお気に入りブログがいっぱいで、登録できないのです。登録するには、どなたかを消さなくてはならず、悩んでいました。対策として、長くお休みになっているかたを、お気に入りブログからはずし、ショートカットで記録することにさせていただきます。整理は次の土日あたり。それまで、登録くださったかた、お待ちください。
2008.09.01
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