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神戸に行った以上は、大会が始まる前の一時間半と終わった後の一時間半、合計三時間神戸観光をしました。この日、私から見た神戸三宮の姿です。というわけで、少し紹介。バスセンターからまず向かったのは神戸市役所。ここの24階が展望台になっているのは知る人ぞ知る。喫茶店とレストランがあって、14年前にはここでお茶を飲みながら遠く北野異人街を眺めた。今回は反対側のレストラン「百済」に寄って見た。港方面が食事をしながら眺めることが出来ます。お昼のランチビビンバを頂きました。韓国の仕来りに則って副食が七食ついているのですが、きちんとすべて日本食、しかも極小小鉢になっていたのはなるほど、と思いました。980円。神戸は昔からフィルムコミッションが発達していて、いつも映画ロケが行なわれています。24階には最近の映画ロケ地が紹介されていました。「阪急電車」とこれはたぶん私の今年の方がベスト3に食い込むと思われる「マイ・バック・ページ」も東京にはすでに70年初めの景色はなかったと見えて、ガード下の飲み屋は三宮のガード下を借りたらしい。市役所のすぐ下の公園は震災メモリアルパークになっていて、10年目に作られた「希望の灯り」の火が燃えていました。震災以降各地で保存指されていたいろんな種火をここでひとつにしたらしい。15年目の去年にはさらに説明版が追加されていた。ぶらぶら歩いていると、映画「死神の精度」のロケ地にぶち当たりました。死神が好きだったCDショップは市立博物館近くの衛生学校の建物だったようです。ここで、一時間半が時間切れ。続きをやっぱり次の日の市立博物館から始めました。ここの考古室には桜ヶ丘遺跡の青銅銅鐸がすべて展示されています。偶然ここで14個の銅鐸が見つかったということで、なんと全て国宝に指定されました。面白い展示物があったのです。例えば、6世紀に渡来人が大挙したみたいで、伽耶製の陶質土器(右側)とそっくりな陶質土器も作成されていたみたいです。観光ですから、南京町にも言ってみました。この広場も行く度にいろんな表情を見せます。この日は雨上がり、少し人は少なく、それでも人は多かった。この広場で、屋台ラーメンを食べました。ふかひれラーメンが350円というので、どんな味か試してみたくなったのです。屋台の味でした。三宮商店街に戻ると、「届け!神戸からのエール」ということで、震災復興イベントをしていました。明香音さんとか幾人かのインディーズ歌手が交代で歌っていたみたいです。さすが、神戸は神戸だった。
2011年06月29日
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日刊紙を止めてちょうど一年になる。特に朝日新聞のへたれ振りにはこれ以上我慢できなくて25年間の付き合いを突然止めたものだから、いまでも時々上目使いの勧誘員がやってくる。冷たく突き放している。熟年離婚をする世のお母さんの想いが分かるようだ。インターネットやブログやツイッター、特に情勢把握に困ってはいないが、たまに喫茶店で朝日新聞を読むとそれはそれで新鮮な記事はある。今日はちょうど山口県知事が「埋め立ての延長を認めない」方針をだして、上関原発建設中止の公算が高くなったばかりのところで「となりの原発」シリーズの特集をしていた。良くまとまっているので、こういうのは出来たら破いて持って帰りたいけど、そうはいかないわな。祝島のことは他人事じゃない。この前二泊三日の旅をしてすっかり情が移ったという事や、祝島の素晴らしさを身体で理解したということはもちろんある。けれども、それ以上に此処で万が一原発事故が起きたならば、その西(たぶん)200キロ圏内にいる岡山の私のところでは風向きの関係で被爆の危険性があるし、素晴らしき瀬戸内の海が死の海になることなんて、吉備のご先祖様に顔立てが出来ない。「上関原発を建てさせない祝島島民の会」代表の山戸貞夫さんは流石だ。知事発言も冷静に受け止めている。「ワーと盛り上がって、スーと潮が引いたら危ない。各議会の意見書も「中止」は周防市だけで、ほかは「凍結」など再会への含みを持たせている。「もう中電はやらないでしょ」というのは甘い見方。住民が動かなくなったら危ない。」原発がないと電気が足りない、という意見に対しては実に明快だ。「一地方に押し付ける問題ではない。何故我々がエネルギー確保の責任を負わされなければいけないのか。祝島では自然エネルギー100%の取り組みを始めた。これを上関全体に広げていけば、地元の業者も潤う。原発の金は都会の大手に取られる。」代表の顔を初めて見ました(映画に出ていたかしら)。私が出会った島民はみんな自分の言葉で上関原発反対を語っていた。「カムイ伝」最終巻の自分たちの暮らしの質を守るために整然と一揆を組織した農民たちの表情を思い出す。一方、原発推進派(「上関まちづくり連絡協議会」事務局長)のインタビューは無様である。「(原発は)歓迎してもらえるなら喜んで作りたい。でも歓迎されないもの、自分も危ないと思うものを作るわけにはいかない」そんなふうに気持ちが変わったとおもいきや、一方ではまだ安全が保障されれば、「工事を再開してほしい」などとのたまう。「原子力政策推進のためではない。町に金が入ればよかった」と正直な気持ちを今ならば言っている。「最初30年かかると分かっていたなら、やらなかった。もう体も心もボロボロ。たとえ国が「上関は造っていい」と言っても、反対派がどうせまた動く。現実的に進まない。いくも地獄、戻るも地獄。その地獄の道すら見えてこない。」彼も中電のエリートや町の顔役たちに、原発出来たらこれだけハコモノができて、そしたらこれだけ仕事回すからというような約束で一生懸命動いてきた庶民なのだろう。実際、上関町には16年間に85億とか24億とか莫大な交付金が降りている。上関町はそれを元に昨年は町民一人ひとりに二万円の地域振興券を発行したという。どこかの政党みたいだ。彼が「いくも戻るも地獄」というのはずっと続くと思っていたそれらの交付金がなくなるということでがっかりしているということだけなのだろう。ここまで軽蔑に値するインタビューも珍しいと思う。祝島は10億を越す漁業保証金の交付も拒み続けている。たった500人の島民が、である。彼等は本当に自然の恵みだけで生きていけるのである。祝島旅行のお土産で持って帰ったひじきを何回かに分けて食べているのであるが、噂にたがわずものすごく柔らかい。重宝している。ところで、びわ茶を通信販売で注文していて、五月末から順次発送と書いていたのだけど、未だに届かないのは何故?
2011年06月28日
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平和委員会全国大会に行ってきました。神戸三宮勤労会館です。80歳をとうに過ぎた代表委員の畑田重夫さんは、冒頭の開会挨拶で今回の大震災は「平和」専門の個人加盟の全国組織である平和委員会のテーマと大きく関係するとのべました。ひとつは憲法。13条の平和的生存権、22条の移住権等、29条の財産権、すべて憲法の課題が今回のことに関係しています。ひとつは安保。原発のルーツもまた、日米関係そのものであるということがあきらかになってきました。米国はさらにその関係を深化しようとしています(2+2の内容)。ひとつは核。加藤周一は12年前にすでに「原爆と原発は本質的に同じである」とのべていました。池澤夏樹はつい最近の朝日新聞夕刊で「原発とは緩慢に爆発する原爆である」と言いました。いまこそ、「原発」を最優先課題として取り組むことが必要です。という挨拶でした。福島の代表者は「これから福島県民は健康チェックを30年間することになる。また、3.11、どこで何をしていたかをデータ化する。私のようなローカルはいい、けれどもこれから人生の一番大事な時を生きる子供たちにそれを強いるのは……」といいます。現在福島市民は毎日肌を出さない服装をしてマスクで通勤通学している。校庭のグランドは10センチ剥いで隅に積まれている。窓を閉めて決して表に出ない。これらの現実を聴いて私はショックでした。憲法を活かしながらできることをしなくてはならない。神奈川の代表は「横浜も他人事じゃない」と言いました。地震当日は原子力空母ジョージ・ワシントンは三回目のメンテナンスを打ち切って沖合いにすぐに出て行きました。しかし、港には空母用の発電所があります。ここが津波にやられたら福島と同じことが起きるのです(知りませんでした)。また、引き波によって空母が座礁する恐れもある。横須賀は活断層があって、いつ大きな地震が起きるかわからない危険なところです。ここに原発が二基あるのと同じ原子力空母の母港となっていることは、首都圏の人たちは知っているのでしょうか。今回改めてその危険性が浮き彫りになりました。マスコミが知らせないのならば、草の根で知らせていかなければならない。トモダチ作戦を賞賛して、その危険性を伝えないメディアの欺瞞を改めて思いました。山口の岩国代表は上関原発の宣伝行動をしているときに身重のお母さんがやってきたそうです。「まだ生まれていない子供の名前も(署名に)書いていいかしら、と尋ねて来ました。名前はすでに決めていたのでしょう」この星に生まれ出る前母親が尋ねてきたよ「原発署名いい?」その他、たくさんの全国の経験を聞いてきたのですが、余裕がありません。また機会があれば書きます。
2011年06月27日
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つい最近知ったのですが、明治二十五年の初夏、東京帝大の暑中休暇を利用して、漱石は岡山を訪ねています。夏目漱石は岡山在住時に正岡子規へ書状を書いています。「 貴地十七日発の書状正に落手拝諦仕候 先は炎暑の候御清適奉賀候 中子来岡以来愈壮健、日々見物と飲食と昼寝とに忙がほしく取紛れ打ち暮し居候 去る十六日当地より金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候 閑谷黌見物へは末だ参らず、後楽園天守閣等は諸所見物仕候 当家は 旭川に臨み 前に三擢山を控へ東南に京橋を望み、夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ、納涼の小舟三々五々橋下を往来し、燭火清流に徹して宛然たる不夜城なり。君と同遊せぎりしは返す返す残念なり云々」漱石もご多聞に漏れず後楽園、天守閣、旭川の舟遊びをしている。この写真は京橋遠景です。この京橋にある家々はこの当時は遊郭でした。漱石はさすがに学生の身分、ここには行ってはいない様子。 漱石が岡山で滞在したのは漱石の次兄直則氏の嫁であった小勝さんの実家(片岡家、岡山市内山下町百三十八番地)でした(京橋のすぐ近く)。そのすぐ近くに漱石岡山滞在を記念する句碑が残っています。なんと、漱石はこの片岡家で大水害に遭遇しています。漱石の子規宛書簡からです。「…帰寓して観れば、床は落ちて居る畳は濡れて居る壁は振い落してある、いやはや目も当てられぬ次第。四斗樽の上へ三畳の畳を並べ、之を客間兼寝処となし、戸棚の浮き出したるを次の間の中央に据へ、其前後左右に腰掛と破れ机を併べ是を食堂となす.屋中を歩行する事峡中を行くが如し。一歩を誤てば橡の下に落つ。いやはや丸で古寺か妖怪屋敷と云ふも猶形容し難かり。夫でも五日が一週間となるに従ひ、此野蛮の境遇になれて左のみ苦とも思はず。可笑しき者なり。…」さすが漱石、書簡といえど描写が真に迫っている。「丸で古寺か妖怪屋敷」の景色は、つい最近津波に出会った被災地の映像で見たばかり。今でこそ、枝川の百間川が出来て、洪水は減ったようであるが、旭川がよく氾濫したらしい。しかしこれを読む限り完全な床上浸水である。片岡家の心痛いかがばかりだったか。今度の大震災を受けて、同様な規模の南海大地震が起きたときに遠く離れた岡山ではどうなるか、というシュミレーション番組が実はローカルで五月にあった。実は私は今まで南海大地震で被害を被るのは太平洋側だけだと思っていた。人事だった。ところがこのシュミレーションでは、津波は旭川を北上し、岡山市内の三分の一は水没するという結果が出た。びっくり。良く考えたら、旭川は天井川でした。岡山だけではない。倉敷も多くは水没する。ここ十数年で岡山の大水害は、私の覚えているだけで、玉島児島の高潮、長船の大水害、津山の鉄砲水等がある。たいていはうちは大丈夫と思っているところが大きな被害を受けている。自然災害の恐ろしさ、人事じやない。あのシュミレーションでは私のところまで水は来ないけれど、断水等は十二分に考えられる。備えはしておかなければならない、と今さらながらに思った最近でした。
2011年06月24日
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「図書館危機」有川浩 角川文庫「ちょっと背伸びをした少女マンガ」だとか「私は小説でマンガを読みたくない」だとか、このシリーズに対して悪口を言いまくっているのを反省して、今回は褒めてみようと努力してみた。そもそも面白くなければいくらなんでも買ってまで読みはしない。設定は「図書館戦争」のときに書いたので繰返さない。たとえそれが荒唐無稽のお話だとしても図書館が舞台の小説なんて、本好きには堪らない設定なのは間違いない。バックヤードの作業とか、レファレンスの基本とか、さりげなく出てくるのが面白いのですね。しかも、主人公たちは本の検閲から身体を張って表現の自由を守ろうとしているのだから、それだけでもう無条件に彼らに肩入れをする自分がいるわけです。一方彼等は特殊部隊(タスクフォース)ですから、基本的に自衛隊の日常を描いているようなものです。これも今までの小説に無かった設定です。そういう知的好奇心をくすぐるところがあるわけですね。今回は「言葉狩り」が大きなテーマとして出てきています。所謂「差別語」として規制されている言葉はどうして規制されているのか、という問題です。ここでは、「床屋」という言葉が差別語として入っていて、それを逆手に裁判を起こしてメディア良化委員会に一矢報いようとする展開です。後であとがき見てびっくりしたのは現在でも「床屋」は自主規制語に入っているということ。多くの床屋さんは自分の職業の名前に誇りを持っている人も多いと思うだが、メディアというものは一旦誰かが「自主規制」をしだしたらその内容にはかまわずに「差別語」となっていく法則があるらしい。恐ろしいことに、これは「いまそこにある危機」なんです。みんなが大震災や原発に心奪われ、TVが菅が辞めるか否かでどたばたしているときに、6月16日知らないうちに「コンピュータ監視法」なるものが参院法務委を通過した。私もまだよく分っていないが、大変なことになる可能性もある。「コンピュータ監視法」参院法務委で可決、成立へ(情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)共産党以外全部賛成したというから、当然みんなの党の堤美果さんの夫も賛成しているということだろう。ホントにいいの?堤さん。彼女は言っていた。「9.11の教訓として、国民全体がパニックに陥っているときおかしな法律が通る。」
2011年06月22日
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「図書館内乱」有川浩 角川文庫前回の感想に「内乱と見紛うような「戦争」をしておきながら、それが単なる検閲をめぐる攻防であるところが味噌」と書いたが、今回のお話はその「内乱」の話ではない。次第と明らかになる図書館をめぐる組織の力関係の話である。(「BOOK」データベースより)図書隊の中でも最も危険な任務を負う防衛隊員として、日々訓練に励む郁は、中澤毬江という耳の不自由な女の子と出会う。毬江は小さいころから面倒を見てもらっていた図書隊の教官・小牧に、密かな想いを寄せていた。そんな時、検閲機関である良化隊が、郁が勤務する図書館を襲撃、いわれのない罪で小牧を連行していく-かくして郁と図書隊の小牧奪還作戦が発動した!?書き下ろしも収録の本と恋のエンタテインメント第2弾。そういう「見世物」を描きながら、結局「エヴァンゲリオン」等でも良く描かれる美少女美青年の若者が私生活では自分たちと共感できる悩みを抱えながら、対外的には実はとても優秀であるという、アニメにありがちな「キャラクター」モノの世界を描いている。これ絶対アニメに向いているなあ、と思ったら既にアニメとして完結しているらしい。巻末の児玉清さんとのトークインタビューを読むと、有川浩は典型的な「ライブ派」作家らしい。つまり、最初から細かな計算をせずにキャラクターが動き出したらその動きに任せるという書き方である。それはそれで分かりやすい。主人公が突拍子も無い動きをしたら、回りがそれに釣られて感動したり、反発したりするのである。そこに細かな心の動きが入るから分かりやすい。有川浩が38歳の女性だと聞いてなるほどなあ、と思う。「阪急電車」の時には女性のような感覚を持った男性作家だなあ、と思っていた。ところが思いっきり女性でした。この世代、思いっきり「エヴァ世代」なのである。しかし、そうなると悪人はその心の動きが読めない人間ということになる。手塚光の兄の手塚慧などはその典型だろう。私は小説でマンガを読みたくは無い。けれどももうシリーズを読み出したので、最後まで行かない気がすまないという気持ちにもなっている。児玉清さんの最後のインタビュー記事もおそらく四巻まで繋がっている様なのでそれも気になる。今日は暑かった。
2011年06月21日
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「図書館戦争」有川浩 角川文庫よくもまあ、こんなとっぴな思い付きをしたものだと思う。思いつきのきっかけは近所の図書館に掲げてあった「図書館の自由に関する宣言」のプレートだったらしい。彼女のだんなが見つけたらしいが、このわずか五箇条から、この一冊だけでなくどうやらシリーズ六冊を書いたことに敬意を覚える。その宣言とはこれである。たぶん一図書館の志をいたずら心で宣言したのだろうとは思う。シリーズ一冊目はこれがそのまま章立てになっている。図書館の自由に関する宣言。一、図書館は資料収集の自由を有する。二、図書館は資料提供の自由を有する。三、図書館は利用者の秘密を守る。四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。「すこしいさましいな」という感想から、図書隊という独立武装組織を発想するのである。以下ブックデータより2019年(正化31年)。公序良俗を乱す表現を取り締まる『メディア良化法』が成立して30年。高校時代に出会った、図書隊員を名乗る”王子様”の姿を追い求め、行き過ぎた検閲から本を守るための組織・図書隊に入隊した、一人の女の子がいた。名は笠原郁。不器用ながらも、愚直に頑張るその情熱が認められ、エリート部隊・図書特殊部隊に配属されることになったが…!?番外編も収録した本と恋の極上エンタテインメント、スタート。警察や自衛隊ではなく、良化特務機関と図書隊との「検閲」をめぐる武力抗争であるところが、「ありえるのかなあ」と思ってしまうが、なんとまあすれすれありえているのである。以下のような細部の設定も作っているので、まあ許しちゃおうかなとも思ってしまう。 検閲対象施設外の公共物や個人資産を射撃で破損した場合、その補償は「中から外へ」向かって撃つことが必然の図書隊の負担になることが多い。実際には特殊な損害保険で処理するが、損害実績は保険料の値上がりに直結する。近年保険料は値上がりの一途を辿っており、図書隊の予算をかなり圧迫している。 一方「外から中へ」向かって撃つ良化部隊は被害を拡大する心配もなく、また国家行政組織であるため図書隊とは比べ物にならない予算を確保しており、射撃を躊躇する必要はない。懐を気にしなくていいのは図書隊からすると羨ましい限りだ。内乱と見紛うような「戦争」をしておきながら、それが単なる検閲をめぐる攻防であるところが味噌である。この作品が発表されたときには、某首都都知事のマンガ規正条例は情報さえなかった。絵空事として書かれていたことが(まさにこの小説は絵空事であることを祈りながら書かれているのであるが)、それが現実化していることの「大いなる皮肉」が現代なのであった。今年の三月に収録したという著者と児玉清さんのインタビューが巻末にある。三月というと、すでに胃がんの告知の直後である。そういうことをまったく感じさせない「本好き」の児玉さんの知見がここにある。そういう意味では貴重な文庫になった(もしかしたら絶筆インタビューかも)。二巻目にもインタビュー後編が載っているらしいので、話の内容はちょっと背伸びをした少女マンガを超えていないので辟易するのであるが、一応読んでおこうと思う。
2011年06月20日
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善通寺に入ってとりあえず岸田うどん店を探す。ふと「本手打釜だしうどん」という看板があって何台も車が出入りしているのが目に入る。何かよく分らないが「名店」のにおいがする。車を引き返して入ってみた。店の名前は何処にもない。なんとビニールハウスの中に店があった。釜たま(小)を頼んだ。ついでに全然野菜系を取っていないのを思い出して春菊のてんぷらもつけた。330円。ところが、このうどん、かなりの曲者だった。太麺系なのだが、麺の太さが全然一定ではないのである。あまつさえ、ひとつはかなりくっついていた。しかも適度なコシと絶妙なだし醤油の辛さと玉子があいまってこれが美味いのである。口の中で美味さが微妙に変化する。あとで本を確かめると、こここそが探していた岸田うどん店だった。腹がはちきれそうだ。もう入らない。春菊のてんぷらとたこ飯が効いて来た。前回は6杯食べたが、今回は4杯で終わりか?とりあえず腹ごなしに散歩することにした。善通寺前の駐車場に車を入れる。善通寺にははじめて来た。ここは「サマータイムマシーンブルース」「曲がれ!スプーン」 等、本広克行監督の映画のロケ地で有名である。写真は「曲がれ!スプーン」で何度もでてきた風景。善通寺は初めて知ったのであるが、弘法大師の誕生の地らしい。四国84箇所の寺のうちひときわ立派なものがたくさん。五重塔とか。これは樹齢はどれくらいなんだろう。立派な楠木です。ホントに立派なクスノキです。神木になったのが分る。門前町の風情が其処彼処に残っていた。こんなところとか。こんなところとか。写真に撮り捲った。堅パンのお店に寄った。石パン100グラムと角パン3枚買った。290円。石パンは飴玉のように口の中で転がしていると、しだいと柔らかくなってきていつの間にかなくなっているという感じ。ハッカの味もして、当たりだった。角パンもとっても美味しかった。もう少し買えばよかった。歩いていると、こんな風景にもであった。善通寺市は自衛隊の町でもある。10年前ほどの編成で日本原の部隊も相当数こちらに移った。その後亀山城に行く。駐車場につくまでの間、突然睡魔が襲ってきてかなりやばかった。駐車場で一時間強仮眠。食べすぎが原因である。やっと起きて天守閣に登る。ここの石垣は比較的小さな石を重ねているので有名だ。若葉紅葉が映えて美しい。に登るとすっかり晴れて西讃岐が一望だ。飯野山を展望する。最後にもう一軒だけ、うどんが食べれるだけ回復。あえて普通の店を選ぶ。セルフのチェーン店。「まるいち」。そうそう、ふつうのうどんって、こんなだった。あまりコシはなく、弾力のあるふと麺。主張なんてしない普通のだし醤油。やっぱりうどんって、ピンからキリまであるんだ、と再認識。次回からはうどん巡礼ツアーを決行しようとしたら、最低でも5000円(電車)かかる。しばらくは来れない巡礼ツアーである。さらば讃岐うどん。
2011年06月18日
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高速休日1000円が18、19日で取りやめになるのでドライブを計画しました。渋滞に巻き込まれない行き場所といえば、瀬戸大橋を渡るだけの香川うどんめぐりがあります。とはいえ、いつもの通り行き当たりばったりの旅です。まず行こうと決めていたのは、麺通団のムックに「超行列製麺所」に数えられている「なかむら」です。いままで「山越」「がもう」「谷川米穀店」は制覇しているので、後残すところはここと「やまうち」「田村」だけです。「やまうち」は少し遠くて効率よく回れないので諦める。「田村」は今回も休みの日に当たってしまって三回続けてチャレンジしそこねている。いつか行かなければならない。そしてなかむらだ。土器川のほとりのなんでもない民家のようなところにあるこのうどん屋がどれだけ美味しいのか、やっぱり確かめないときがすまない。なんとか臨時駐車場に滑り込めて9時の開店前に行くと既に長い行列が出来ていた。40分待って釜たま(小)200円を注文。釜がひとつしなくて茹で上がるまで時間のかかるのが、長い行列のひとつの理由になっている。山越とはえらい違いだ。お客に卵を割って自分で生姜と大根をおろしてもらうように指示する。少し戸惑うがそもそもそういうところだった。味。しっかりとしたコシとつるりとした食感は確かに風格を感じさせる。上田うどん店に行く。ここはセルフではない。おろしぶっかけ(小)と名物といわれるたこ飯をセットで頂く。420円。少し値段は高めだが、味はとっても個性的だった。超細麺のくせにコシは半端じゃないほどにある。ラーメンじゃない。うどんのコシだ。ぶっかけ汁は甘口だった。私はどちらかというと辛口が好みなのだが、これは人好き好きのうちに入るだろう。美味しく頂いた。今日は雨で残念だったが、ここから飯野山(讃岐富士)の全景がみえる。日の出製麺所。前回は11時から1時間のみ営業ということで諦めたところだ。11時前に行くと、見事に並んでいた。葱は各自ハサミで切ることになっている。製麺所の片手間にやっていたうどんが評判を呼んだらしいが、それもそのはず、食べてみてコシこそ少し弱いものの、ノドごしといい、つゆの味といい本格的なうどんだった。あつい(小)が100円というのも嬉しい。腹いっぱいである。苦しい。上田うどんが(小)といいながらふたタマ分くらいの量があったのが計算違いだった。晴れていたら飯野山登山を決行するところなのだが‥‥‥。とりあえず善通寺を目指して11号線に乗った。
2011年06月17日
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東京の脱原発デモ出発前集会の映像を拾い見しているのですが、とっても楽しい。制服向上委員会の「ダッ!ダッ!脱原発の歌」も少しバージョンを変えて披露されたり、中学生反原発アイドル(?)の藤波心さんのスピーチと歌、雨宮処凛さんのスピーチがあったりしました。そして主催者の素人の乱松本哉さんの顔と声を初めて拝顔しました。松本さんのスピーチは、短い話の中にずーと「あのー」が20回ぐらい連発されるという素人丸出しのスピーチでして、人前で話したことのある人はわかると思いますが、「あのー」を言葉のつぎはぎに入れるのは、これはもうどうしようもないんです(きっぱり)!!私はこれで一気に松本さんを好きになりましたね。「あのー」をつぎはぎに入れないで演説できる人も確かにいます。それは演説の才能のある人か、或いは事前に演説原稿を用意してその通りに喋る人であって、「演説というのは、ライブなんだから原稿を用意するのは邪道だ」と固く信じているものでスピーチ才能をもたない者には「あのー」はどうしようもないんです。あの、話が変な方向に行きましたが、「民主と愛国」著者で知られる小熊英二さんのスピーチが一番印象的でした。新しい歴史教科書を作る会の西尾幹二さんが脱原発の意見を出していることを紹介しながら「浜岡のことからも分るように、原発は、事故処理にしても止めるにしても超法規的な権力がないとむりだ。原発と民主主義は相容れない。」「新たに原発を作らなかったら三年以内、現在停止している原発を稼動させなかったら一年半以内に脱原発です。今七割以上の脱原発です。がんばりましょう」と、いう意味のことを喋っていたような。この人はしっかり自らの発現が記録されることを意識しながらスピーチしているようです。
2011年06月16日
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「清冽 詩人茨木のり子の肖像」後藤正治 中央公論社Yー夫の安信への愛情は、終生変わることはなかった。それは茨木の死後刊行された詩集「歳月」の中に詰まっている。この評論の中に、茨木の未公開日記の本の一部が紹介されている。それを読んで「なんて美しい日記なんだ」と思った。引用を始めたら膨大な量になるので省略する。茨木の強い意向で、葬儀、お別れ会、詩碑などは断ったという。茨木は葬儀が嫌いだった。「日々の出会いを雑に扱いながら、永訣の儀式には最高の哀しみで立ち会おうとする人間とは一体なにか?席を変えてお酒など飲むときもしみじみ故人をしのぶでなく、仕事の話、人々の噂で呵呵大笑、あっけにとられるばかりである」だからである。「永訣は日々の中にある」というのが信条だった。そして、密葬のあと知人の向けて二百数十通、事前に茨木が準備していた「別れの手紙」が郵送された。見事だった。私もこんなふうに死んでいけたら、とふと思う。死んだら誰かに頼んでブログに「別れの記事」を用意しておこうかしら。詩と人生がイコールで結ばれるだけではない。茨木の少女時代からの知人に、重ねてどんな小さなことでもいいから、とこのように聞いたという。「茨木の詩と茨木その人との乖離を感じたことはありませんか。また宮崎医院に住んだことにかかわって嫌な思いではありませんか」両人は頸を振る。まったくないと断言する。そう、彼女には正しい意味の品格があった。同人誌「櫂」のなかまたちは彼女の品格を愛した。現在数少ない同人の生き残り谷川俊太郎にインタビューしている。「茨木さんは一貫して自分と向き合い、きちんと書いてきた詩人ですよね。社会とも向き合ってきた。それは彼女の美質だけれど、表現されるものもまた行儀がよくて、パブリックすぎるといか、へたをすると教訓的になってしまう。」一方、谷川の元妻岸田衿子はこのように言う。「難解な現代詩の中で茨木さんの詩は平易で分かりやすいといわれてきた。でも実は、深いものを分かりやすく書くのが一番難しい。(略)一方で、わかりやすそうで難解という詩も茨木さんにはある。」茨木はカタブツ一筋というのではなかった。ユーモアを好み、自身を嗤う精神に富んでいた。人として可愛げがあった。それは散文にも見られるし、詩にも見られる。生前茨木の出した詩集は八冊を数えるのみである。谷川俊太郎などを除けば、一般的に詩人とは到底職業として成り立つものではない。夫・三浦安信の遺族年金が月十万ほどあったらしい。不足する生活費を文筆業の収入によってまかなうことを茨木は生涯維持した。親族の援助は一切受けなかったという。純然たる詩人では稀有のことだと後藤は言う。「清冽」という名をこの評伝につけた後藤さんの感覚を私は支持する。現在、NHK朝のテレビ小説で「おひさま」のヒロイン陽子さんのモデルは実は茨木のり子ではないか、と私はひそかに思っている。二十歳で敗戦、それまでは軍国少女だったけど、豊かな感性とまっすぐな気性は生涯変わらなかった。鶴形荘内の出の母親が結核で亡くなるのが、のり子十一歳のとき。父はあかひげ的気質を持つ医者で、仲のよい弟は医者の道に進む。幾つかのところは違うが、いくつかのところで重なっている。育ちのよさと、まっすぐなところが茨木を見るような気がしてならない。ついついまた見てしまいそうである。
2011年06月15日
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「清冽 詩人茨木のり子の肖像」後藤正治 中央公論社今年前半で一番感銘を受けた本になった。初めての茨木のり子の評伝である。十三章からなり、一章一章にかなりのページ数を割いて茨木の詩そのものが載る。それが全然手抜きに感じない。後藤正治は茨木の詩をよく読みこんでいるし、文章そのものがたぶん影響を受けて簡潔にそして核心を衝いて書かれている。去年の秋から今年にかけて文庫版の「言の葉」全三巻が刊行された。私はこれが茨木の全集そのものなのではないかと思っていたが、どうやら間違いだったようだ。茨木は生前全集を編むことを出し渋ったという。これも不十分、これも恥ずかしい……。そういって当初の全集の企画がずいぶん削られて自選集になった。それは、茨木の自身にたいする厳しさであった。茨木のそれは変わらぬ資質なのであった。事実、茨木の書いた総ての詩で、大げさに書いたり、事実でないことを書いたりしたことないと私は確信した。君が代に対しては「私は立たない 座っています」もそうであるが、「ビデオデッキがない/ファックスがない」し、夫安信に対する純愛も「一人の男(ひと)を通して/たくさんの異性に逢いました」し、「じぶんの感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」の厳しさも、真っ正直に自分を律しているのである。天皇のこの発言に関して茨木は「四海波静」を書く。「戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い吐血のように/噴きあげては 止り また噴きあげる(略)野ざらしのどくろさえ/カタカタと笑ったのに/笑殺どころか/頼朝級の野次ひとつ飛ばず/どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット/四海波静かにて/黙々の薄気味悪い群集と/後白河以来の帝王学/無音のままに貼りついて/ことしも耳をすます除夜の鐘」茨木にしては、きつい表現である。それほどに戦争は茨木の原点だった。「私が一番きれいだったとき」への自分自身への厳しい想いを生涯持ち続けた。ただ、この詩に関しては、天皇よりも矛先はあまりにも反応がなかった「群衆」に向けられている。どうして狂歌のひとつも出てこなかったのか、この問いは実は現在にも続く問いである。ふと思い出す。私も天皇死去の際のマスコミ報道に疑義を抱いて当時働いていたところの機関紙に「もう二度と元号は使わないだろう」等々の詩を載せてもらったことがある。私にはお咎めはなかったが、機関紙担当者は大目玉を食らったらしい。それはそうと、私はその後結局元号はどうしても使わざる得ないときには使ってしまっている。茨木さんのように、自らの発した言葉を練りに練って責任を持つということは出来ていないのである。意外な一面に、買い物をするときには、服なんかは「私これにするわ」とあっさりスパッと決めるらしい。私の買い物は、たいていはああでもないこうでもないと、時には半年か、PCなどの高額になると三年以上買おうかどうか迷うのと対照的である。茨木の気質は厳しさであるが、もうひとつの気質は初々しさだという。「汲む」という詩で「夕鶴」の山本安英に影響された経験を詩にしている。「初々しさが大切なの/人に対しても世の中に対しても/人を人とも思わなくなったとき/堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを/隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」と山本に言われそれが生涯の気質になった。「すべてのいい仕事の核には/震える弱いアンテナが隠されている きっと……」もう少し書きます。
2011年06月14日
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「海嘯」田中芳樹 中央公論社【中古】 遥かなる海嘯(ウミナリ) (徳間文庫)海嘯とは津波のことである。ときは1275年から1279年にかけて、南宋末期フビライ汗率いる元の大軍の前に、杭州臨安府は津波に攫われる町のように為す術も無く蹂躙され、そして南宋は滅びていく。その最後の三年半の宋の群像を描いている。滅亡を前に元に次々と寝返る高官も出るが、一方忠義に生きる高官、勇猛果敢な将軍も現れる。結局勢いのある元の前には如何ともし難い。まろさんの「優れた王政と衆愚制」の感想において田中芳樹の「銀河英雄伝説」に触れ「中国モノが得意な著者は、中国の聖賢政治が中国三千年の歴史から言えばほんの一時だったということを知っているのです。」と書いた。それでふと、田中の中国歴史モノを読みたくなって手に取った次第である。のちに田中は南宋初期(北方「水滸伝」の続編「楊令伝」で南宋側の宿敵となるはずの)猛将岳飛を主人公にして長編をモノにしている。これを読んで田中の歴史モノは北方「水滸伝」とは対極にあることが分かった。歴史を背景にして一人の人間のロマンを描くのではなく、複数の人間の運命を描きながら結局歴史のロマンを描こうとしているのである。つまりあくまでも田中芳樹にとって物語は「歴史」が主なのであった。ところで関係ないといえばないが、そのまろさんが昨日「制服工場委員会」の「ダッ!ダッ!脱原発の歌」の紹介をしてくれた。正直驚いた。時はちょうどAKBの総選挙の結果発表があったばかり。日本でグループ少女アイドルのうねりが頂点に達したかのようなこの時期に、決してテレビ電波に乗らないこのような歌を発表するプロデューサーの心境はいかばかりか。少女たちがあまりにも無邪気そうに踊って歌っているのだが、彼女たちの気持はどうなのか。ますばそっちの方が心配になった。おじさんなんです。彼女たちの発表媒体のひとつ、ユーチューブでアクセスの多いものでも半年で7000くらいしかいっていない。ところがこの歌は、発表たった3日と少しで10000を超えた。評価もすこぶる高い。(私も評価しようとしてアカウント取ったのになぜかできない^_^;)基本的に彼女たちに影響力はないと思うが、もしかしたらこの歌は化けるかもしれない。完全アイドルソングの形を取っているが、中味は過激である。特にみんなに迷惑かけちゃって、未熟な大人で恥ずかしいよね」「原発推進派、安全だったらあなたが住めばいい」という歌詞がいい。もう少し歌手として洗練してほしい。というオジサン的な感想を抱きつつも、一生懸命やっているのならがんばってね、といいたい。
2011年06月12日
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「流星の絆」講談社文庫 東野圭吾分厚い本ですが、さくさくと読めます。既にテレビドラマ化されているとのことで、三兄弟のキャストは後で知りました。私としては、長男に玉山鉄二、次男に小池徹平、長女だけはどこかで記憶があって戸田恵梨香をイメージしていた。実際は長男二宮和也、次男錦戸亮、長女は戸田恵梨香だったらしい。二宮だと線が細すぎる気がするのだが、そこそこ視聴率は稼いだということである。あんまり感想はない。これが「東野作品史上、売り上げNO1」というのだから呆れる。それに釣られて買ってしまった私にも呆れる。要は両親がが殺されて孤児になって詐欺師になった三兄弟が、自分たちの敵にめぐり合って自分たちの悪事がばれないように警察に知らせようとする話なのである。小さい頃に起こった原因と、貧乏人が金持ちに復讐しようとする構図は古い日本映画によくあったし、韓国ドラマでは定番である。少し目新しいのは、そこに長女と敵の一人息子との恋が絡んでくるところぐらいだろか。でも誰かが発想しても全然おかしくない。戸田恵梨香はピッタシのキャストだったと思う。最後の種明かしは少し強引ではないか。どこかで分かるような伏線があったろうか。私はなかったと思う。確かに戸神政行が犯人であるというのは、弱かったと思う。でも違うと言い切れないミスリードの材料だけが出ていた。それを否定するだけの材料をちゃんと出して欲しかった
2011年06月11日
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いよいよ、八丁座めぐりです。エレベーターを出るとすぐに目が行くのは、松の廊下の屏風です。名画ではない。ところどころに明らかに瑕がある。ところが非常に貴重な絵なんです。これは東映時代劇の全盛時から培われた京都東映撮影所大道具美術の渾身の襖絵です。去年の開館に当り、蔵本社長の懇願で譲ってもらったそうな。最後の仕事はなんと去年の私の邦画ナンバーワン「十三人の刺客」、平幹次郎が冒頭江戸に出ていたときの後方にあった襖絵だという。八丁座のマークも凝りに凝ったものでした。「八」と「蝶」の判じ絵を凝らしたマークに「八丁座」の文字は、黒澤明の映画のタイトルをずっと描いてきた書家のもの。松の廊下から劇場に移行していくと、入場扉の表絵が広島をイメージした紅葉の四季が連なって12枚並んでいます。こちらも京都東映撮影所大道具美術の作品だという。トイレも和風です。男とか女とかのマークがつくのではなく、殿と姫で案内、中には地元の宮島焼の水受けがありました。日々の案内や作品名もデジタルじゃなくて、「書」になっていました。作品名はスタッフがそれぞれ書いているらしく、個性があって面白いものでした。さて、休憩時間に劇場を見させてもらいました。設計は、日本アカデミー美術賞にも輝いている美術監督の部谷京子さん。江戸時代の芝居小屋をイメージしたという。ぱっと目に付くのは、緞帳があります。最近の映画館にはなくなったものです。私的には大変嬉しい。この椅子の豪華さ。マルニ木工の特注品です。広いし、なんと前には食べ物も置けるし荷物も置けるようになっている。こっちは170席ある「壱」の会場。メインの椅子は二通りあり、ソファー仕様と木の香りを重視するもの。どちらも個性がある。一番後ろにはカウンター席もある。こちらのほうを好むお客さんもいるらしい。後ろに人がいないのがいいという。私が気に入ったのは、この畳席だ。もし周りに人がいなければ、肘掛を外して寝転ぶこともできる。「壱」の緞帳はこんなもの。賛否両論あったらしい。私は支持する。総ての席は指定席であるが、料金で差はついていない。これを割引料金を使えば、1000円で見ることができる。「お金はないけれど、気持ちは日本一の劇場を作ろう。映画館自体が作品であってもいいのではないか。お客は一度足が向かなくなるとこなくなる。反対に映画館がいいからということで、観光がてらに来ている人も多い。おかげさまで今はずっとヒットしている」と蔵本社長は言う。シネコン全盛の時代に、あえて広島八丁堀という街の真ん中に豪華な映画館を作る。ものすごい冒険だったと思う。全国の映画館としての入りがシネコンを抜いて八丁座が14位とか15位につけていることがあるという。それで全国の映画興行者の間でも注目を集めている。けれど、単館映画館の人が見学に来ての感想は「うちではやれない」といって帰るという。そうだろう、こういう映画館を作るのはひとえに蔵本さんの力量に拠るという印象を強く受けた。ハッキリした数字を覚えていないけれども、改装だけで10億というお金をかけたが、「正直、成功するかしないかよりも、お金を借りることが出来たらあとはこちらのものだと思っていた」というこの度胸のよさ、そして元映画の街だった中心街を活性化させようという志、そしてお客さんの声を常に社長が先頭に立って聴こうとする姿勢、社長の魅力でいまはこの映画館が成り立っているのである。懇親会を開いてもらって、気がつけば2時間もお話を伺っていた。父親から映画館の経営を受け継いだ。映画から勇気をもらった恩返しの気持ちもあるという。ランドセルを放り投げて、普通に映画館に入り浸った子供の頃である。好きな映画はラブストーリーだけど、大好きな映画は「風と共に去りぬ」だという。「明日は明日の風が吹く」というスカーレットの生き方はそのまま蔵本さんの生きたかにもかぶる気がする。あとは時代劇も好きだという。やくざ映画も好きで、特に高倉健が好き。ペットに健さんと名づけるのははばかれたので昭和残侠伝シリーズの花田栄次郎の名前をつけて毎朝「英さんおはよう」と言っているらしい。これもまったく彼女に似合う。「お披露目式は寅さんの替え歌でスタッフ全員で踊ったのよ。」という。「映画を見てもらって、感想をいただくのが大事なの」終了後、社長のほうから声をかけることがある。「クレーム含めてラブレターだと思っている」これからの夢を聞くと、「新しい劇場を作りたい」と即答。この冒険に全然満足していない。「まだ反省があるの。今回は和風モダンだったけど、今度は純和風にしたい。シネコンとは違う、日本的な映画館を作りたい」このバイタリティー。観光がてらぜひ近いうちに広島に映画を見に行くぞ、と心に誓った旅でした。
2011年06月09日
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もう一ヶ月前だが、5月8日、私の参加している映画鑑賞サークルの15周年企画として、去年広島市でオープンした和風モダンな映画館八丁座を観に行きました。幸いにも社長の蔵本順子さんに案内してもらったあと懇談会を開いていただいて、いろいろとこの映画館に対する想いを聞くことが出来ました。想像以上の映画館、そして社長でした。たくさんの刺激を貰って帰ってきました。八丁座を開いたのは、もともと広島市内で単館上映の映画館を経営していた序破急という会社です。サロンシネマ、シネツィンといえば知る人ぞ知る映画館です。私も過去二回行ったことがありました。「父と暮らせば」と「夕凪の街桜の国」の先行上映のときです。「父と暮らせば」のときには映画上映の前に原爆をテーマにした詩の朗読があり、とっても感銘を受けた覚えがあります。聞けば、社長も原爆の映画には思い入れがあり、力を入れているのことでした。さて、我々は広島に着くとまずは映画館めぐりをしました。サロンシネマ(2スクリーン)は広島市中区大手町にあり、タカノ橋商店街から少し中に入ったところのビルの二階にあります。ちょっと目には映画館とは分からない概観ですが、ラインナップを見ると、岡山の単館上映にも来ない作品が来ていたりして「非常に渋い」映画館でした。このときに掛かっていたのは「サラエボ希望の街角」「ランナウェイズ」「ビー・デビル」「津軽百年食堂」「シリアスマン」「大韓民国1%」です。映画通の人には分かるけど、渋いでしょ。次ぎに行ったのはシネツィン本通りです。中区本通のビルの地下にあります。「父と暮らせば」を見たのもここでしたが、案内を見るとどうも2-3年おきにリニューアルしているらしく、フランス製キネット社の両ひじかけ付きのシートに、床暖房、大型劇場並みの音響施設を持っているらしい。私のときはそんなにいい椅子ではなかった。もともとは中央名画劇場だったらしくて、映画館としての歴史は51年あります。そしてお好み焼きを食べた後に行ったのがシネツィン新天地です。ここも1952年から続いていた新天地劇場リニューアルしたところです。此処ではやっと中まで入って映画を見ました。広島の福山市でオールロケをした作品で「少女たちの羅針盤」(感想は別のところで書きました)です。ここにいたってやっと自慢の椅子に座ることが出来ました。フランス製キネット社シートです。もと200席の席数を148席にしたそうです。非常にゆったりして豪華です。びっくりしたのは、足を伸ばしても前の席を蹴ることがないということ。これだけ前に余裕があれば、あとから来てもらくらく座れますね。ここが終わってやっとすぐ近くの福屋の8Fにある八丁座に行きました。蔵本社長が和服で迎えてくださりました。
2011年06月08日
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「長い散歩」安藤和津 学習研究社安藤和津は奥田瑛二監督の奥さんである。最初映画「長い散歩」の映画と同時期に作ったノベライズかと思った。あるいは、脚本家による小説なのかと。しかし、読み終わった後に奥田監督のあとがきを読んで分かったのは、まったくの独立した小説らしい。監督が「書いてみないか」と提案し、安藤さんは時には監督に色々聴きながら、小説世界を作ったらしい。だから、映画は映画、小説は小説としてみる必要がある。映画の中で、サチが熱いものを嫌がる理由をワタルが簡単に見抜く場面がある。映画的作法では、そのことは物凄い大きな事件だったのであるが、小説のなかではさらりと描かれている。松太郎の「人間として不足している部分」はそのような映像ではなく、独白の中でゆっくりゆっくりと彼に覚らすのではある。よって、あの映画は主に安田松太郎の視線だけで作っているのに対し、この作品では時には少女のサチの視線で、あるいは母親の真由美の視線で、松太郎の娘亜希子、妻の節子、あるいは旅の途中で知り合った帰国子女のワタルの視線を実現する。あの映画は名作だった。どこが名作かといえば、わたしの書いた記事を読んで欲しい。しかし、唯一不可解なシーンだったのはワタルの自殺だった。この小説では、それを衝動的な自殺だったと描いている。それはそれで一応納得はしたのであるが、映画の欠点を拭った感がしてならない。松太郎の過去も、小説らしく詳細に描かれる。映画ではなぜあそこまで松太郎を嫌うのか突発な感があったが、単に母親を追いつめてアルコール依存症にさせただけではないということも分かった。思春期のプライドをずたずたにしたのである。松太郎は本当には自分の罪が分かっていなかった。サチとの長い散歩も、これをすれば罪になる等何もかも自覚した上での行動ではなかった、しかし、そのような無様な姿のほうが、私にはリアルではある。校長まで歴任した男の巡礼の旅とも言えるサチとの「長い散歩」は、やはり彼にとっては大きな財産になるだろう。あの映画を豊かにするためには、格好の小説だった。監督の妻もやはり只者ではなかった。「CNNデイウォッチ」の元キャスターらしいが、私は顔は知らない。
2011年06月06日
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5月も映画館で見た映画は10を超えました。映画専用ブログ「くまさんの再出発日記」にアップが追いついていなかったのですが、やっと追いついてきました。評価は五点満点で★は1点、☆は0.5点です。私の基準では4点以上が合格になりますが、一方5点満点というのは一年に一回あるか無いかぐらいの厳しいものになっています。勢い、4点前後に点が集中する傾向があるようです。合格にするかしないかの微妙な判断があるのだと思ってください。5月1日 午前10時の映画祭「レベッカ」★★★★☆ 「阪急電車 15分の奇跡」★★★★5月5日 「八日めの蝉」★★★★5月8日 「少女たちの羅針盤」★★★5月12日 「ブラック・スワン」★★★★5月14日 午前10時の映画祭「ディーバ」★★★ 「岳ーガクー」★★★☆5月19日 「ザ・ファイター」★★★★5月23日 「ダンシング・チャップリン」★★★☆5月28日 午前10時の映画祭「ブラック・サンデー」★★★☆5月29日 「無言館」★★★
2011年06月05日
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湯浅は自らを活動家と述べている。その原点はなにか。または、活動とはどういうことなのか。「なぜ活動家と名乗るのか」(09.8大田出版「atプラス」)には「すべては偶然だった」とのべている。兄が障害者だったということもあるだろう。私が注目したのは、大学院博士課程で戸坂潤や中野重治、三木清などを研究していたということだ。私はてっきり社会学部系だと思っていたので、日本思想史をやっていたのだと読んで、一気に親近感をました。彼の思想史的な位置づけをやりたいと思ったのは、ここを読んだからだ。湯浅は「90年代は後退戦だ」と時代を読んでいたので、玉砕タイプの宮本顕治や徳田球一には興味が無かったようだ。「状況を見つつ、一歩一歩引いていきながら、その都度戦線を立て直す」というのに惹かれていたようです。博士論文を書けずに途中退学をするが、ぜひとも試論でもあれば見てみたいと思う。「あうん」は当初は食べていけなかった。しかし「人間は希望のない作業を続けていると、それをなんとか希望のあるものに出来ないかと真剣に考えるものです」少しずつ形になっていく。私の場合、運動をつなげていくという発想は弱さの自覚から生まれています。我々は小さいので、自分たちだけでは何も出来ません。(略)相手を選んでは運動は広げられません。日本労働組合総連合会だって、680万人組織と言いますが、たいした強さではありません。(略)社会運動には、そういう弱さの自覚が必要だと思います。夢みる権利は誰にでもある。しかし他方、夢みる条件とうものがある。夢みる条件をととのえなければ、夢は見られない。(その条件を私は溜めと呼ぶ。)夢みる条件をととのえようとする夢、それが「活動」だ。モノを言える空間をどんどんつくっていくのが活動家の役割だと教えています。活動家は爆弾を作る人ではありませんと。自己責任論の最大の効用は、結局相手を黙らせることだったと思います。(略)自己責任論は人を黙らせるもの、活動は人をしゃべらせるもの。そういうふうに問題をつなげていきたいと思います。09年2月12日朝日に「まかり通る違法な借家追い出し」という記事を書いているとき、湯浅は怒りがわいてきてしようが無かったと、他の本で述べている。派遣労働者が、寮を追い出されるとき、「寮費が家賃相場だったときには、一般のアパート同様追い出される法的根拠は無い」というのが、法律関係者の常識であると彼は聞く。「じゃあ、どうして世の学者はそのことを社会に訴えなかったのか。」と彼は憤るのである。しかし、湯浅の秀逸なところは、そのとき怒りに任せて突っ走らないところである。いや、まて彼等は記者会見を開くという発想そのものもなかったのかもしれない。これは「活動家」がこの間育ってきていなかったからだ。と、すぐに冷静になる。熱いものを持ちながら冷静でいる人なのだ。それが「活動家一丁あがり!講座」につながったらしい。09年以降の活動については、また別の本を読みながら書きたい。
2011年06月04日
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「岩盤を穿つ 「活動家」湯浅誠の仕事」湯浅誠 文芸春秋社この本は、湯浅誠の2007年から2009年にかけての文章を集めている。湯浅は2006年の夏ごろから急に注目されるようになったと言っている。それは私にとっても印象的な時期だった。2006年11月朝日新聞で初めてネットカフェ問題が取り上げられて、(その直後にBEでも特集)、2007年は「ネットカフェ難民」が日本テレビで命名される。(1月28日放送)湯浅のホームレス支援事業「もやい」が注目されるようになった。私が蒲田のネットカフェに泊まったのは2007年3月。このころ、一挙に「貧困」が注目されるようになった。それはまた、湯浅の見事な「戦略」であったことがここに書かれている。2008年1月週刊「金曜日」の記事である。「いつの間にか、日本は「生存をめぐる闘い」が闘われる国になった。いや、生存をめぐる個別の闘いが、ようやく社会的に「闘い」として認知された、というべきか。三割が10年以上その暮らしを続けている「ネットカフェ難民」がようやく社会的に認知されることになったのは、その象徴だ。」(略)「言葉と状況の規定力を再度私たちが獲得しなおす必要がある。それは個々の運動が展開していった末に勝ち取られるものであると同時に、07年に出たもろもろの芽が育つために必要な条件である。手前味噌を承知で言うが、そのための「仕掛け」の一つが「反貧困」だった。格差論隆盛の中で、現在の状況を貧困問題として規定しなおし、その言葉によって個々の生活諸問題やそれに取り組む運動を、貧困問題との関係の中で位置づけること。もろもろの政策・事象がそれぞれの対象者を越えて「貧困」というフィルターを通じて共有化されること。それが一定の状況規定力を生む。」読者を考えたのか、難しい言葉を使っているが、この本(09年11月刊)の「まえがき」では意識して「貧困」という言葉を使ったと書いている。「その現実を名指さないと、それは可視化されない。「ない」ことになってしまう」圧倒的な資金力とマスコミ戦略の元、民衆の側の闘いは、戦略上いつも敗れてきた。非正規労働者がこの20年で急増したのはその象徴だ。政府財界の戦略に対して、民衆の側が「戦略」で勝ったのは、加藤周一が構想した九条の会とこの湯浅の「反貧困」戦略ぐらいしか思いつかない。今回左のカテゴリーの中に「湯浅誠」を追加したのは、そういう処から来ている。中江兆民、加藤周一論は私のライフワークであるが、「湯浅誠研究序論のためのノート覚書」ぐらいのためにやはりこのブログを利用していきたいと思う。次の一手は何か。「私の立場から08年の課題を述べるとしたら、それは"生きさせろ""反貧困"といった「生存権」をめぐる諸問題の普遍化・全国化ということになろうか。」「さしあたり労働運動・社会保障運動・生存権運動・消費者運動との連携、各地方都市での分野・政党横断的なネットワーク型組織の設立という形をめざすことになる。」(前述「金曜日」記事)これはその年にすでに「自由と生存のメーデー」「反貧困全国キャラバン」という形や、労働者派遣法や最賃法の改定が政治日程に上らせることにつながっていく。08年の末に彼が心残りにしていたのは「雇用保険」の問題だったらしい。出来るところから。しかし、柔軟に大胆にスパッと展望を持って動くフィールドを広げていったことが分かる。2009年8月、民主党は政権についた。その秋、内閣府参与に就任する。2009年末に湯浅は書く。「(民主党が掲げたマニフェストについて)私たちにとっては、これが民主党の最大の政権公約である。この理念が堅持され、実行に移されるなら、私は民主党を支持する。この現実が再び、これまで幾度となくそうだったように、再び放置されるのであれば、私はそれを最大の公約違反とみなす。」「この理念」とはこのような文章である。「母子家庭で、就学旅行にも高校にもいけない子供たちがいる。病気になっても、病院にいけないお年寄りがいる。全国でも毎日、自らの命を立つ方が100人以上もいる。この現実を放置して、コンクリートの建物には巨額の税金をつぎ込む。一体、この国のどこに政治があるのでしょうか」その後民主党の「この理念」のほとんどは放置され、或いは大きく変貌しているということはご存知のとおり。他のところでは湯浅は「一億層中流の幻想から目を覚ませ」(09.11「イミダス」)と書き、全世帯の30%を超える年収300万円未満の生活状況の改善を視野に入れる。民主党は可処分所得の増大を目に見えるし指標とすべきだ、と提言する。それが「子供手当て」「高速無料化」などのやや強引な政策ではあった。いまとなっては空しい。湯浅誠はしかし結局、内閣府参与を去ってはいない。柔軟に使えるものは使う、という主義だからだろう。今回の震災で彼はボランティアセンターの統括みたいな仕事に就いた。「震災関係は私の専門外ではあるが、政府との調整役は出来るのではないか」という考えからだという。これによって、来るべき「なにかの運動」のときに、震災関係その他のNPO団体と、その連帯のおおきな糧になるのかもしれない。では湯浅の明らかにした「貧困」とはどのようなものなのか。「反貧困」を08年の夏に出版し、その年に金融危機が起きる。既に「反貧困全国キャラバン」を成功させていた湯浅は、労組や反貧困弾田との連帯を基礎に派遣村を立ち上げる。「寄せ場化するニッポン」(国交労連中央労働学校08.11講演録)がある。ほとんどは私の聴いた講演と似ている。おそらくこの当時連続して労働団体から貧困について概論を述べてほしいという要請があったに違いない。そして多くは「反貧困」(岩波新書)という概論に繋がっていく。この本には私がその全文を載せた新書が大仏次郎論壇賞を獲ったときの朝日コメント(08.12)も載っている。「派遣村から見た日本社会」(09.4講演録)という文がある。「貧困は貧困状態に追い込まれた人だけの問題ではない、社会の問題なんだ」と彼は繰り返し述べる。それがおそらく核心である。セーフティネットから漏れてくる人が最後にたどり着く生活保護、しかしその補足率は15-40%。もし15%ならば、900万人近い人が、必要なのに生活保護も受けれていない日本の現実がある。生活保護受給者は景気が良くなったからと言って減らない。事実02-07年の戦後最長の好景気間に、一貫して増え続けている。社会全体の構造の転換が必要である。そもそもセーフティネット、社会保険的な立法は富国強兵のために行われた。(1930年代ドイツビスマルクの時代、1938年日本の国民健康保険制度)セーフティネットは社会のお荷物ではない。新自由主義は効率を求めているようで、じつは非常に不効率な考え方だったのだ。このような湯浅の思想の原点はナニなのか。それは後半で書きたい。
2011年06月03日
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