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これは弥生中期の祭り用の土器である。赤色顔料で塗装しているだけでなく、ヘラで部分的に磨いて、光線の具合によって文様が浮き出る「暗文」を施している。驚いたのは、これと同じ型の土器が北部九州と朝鮮半島金海から出土しているという説明が書かれていたということ。(そこで思い出した。この写真は既に紹介しています。福岡埋蔵文化財センターにあった比恵遺跡の土器です)これに対して職員の方は「同じ型だという説明だけであって、この壺が朝鮮から来たという事ではないんです。それよりもなによりも、この遺跡からは、朝鮮から来た土器はひとつも発見されていません。だから直接朝鮮と交流があったとは考えられない」朝鮮系土器がひとつも無い!!いよいよ、あの顔は朝鮮系渡来人ではなかった。上の右側の土器は須玖式(北九州)といわれる土器で、この土井が浜では弥生中期に出土する。中期には他には瀬戸内式土器が出土する。一方、前期ではこのようなこの土地特有の土器(綾羅木式)が出土していたという。特徴は貝殻文様である。特にこの土器は木の葉紋が描かれている。この前、岡山百間川遺跡の現地説明会では前期前葉で正確な木の葉文様が描かれていたのに、前期後葉では三つ葉に簡略されていったのが明らかになったと書いた。元あった意味が長い年月の中で薄れて行ったのか、ということだったが、もともとこの文様がこの山口県響灘から来た文様であったならば、文様の奥に隠された「物語」は、その風土から遠く離れた吉備の地では確かに薄れて当たり前だったろう。それを裏付けるためには、この文様の「発生と流れ」を研究しなければならない。誰かしてくれないだろうか。そしてもしこの響灘沿岸で前期後葉でもまだ文様が生き続けていたならば、そもそも「木の葉文様」自体に「物語」があったことを裏付けることになるだろう。それは一体どのような「物語」だったのだろう。弥生時代に「文字」は無かった。青銅器にかかれた「絵」は文字一歩手前の簡略化に成功しているという説はあるが、ともかくも無かった社会において、口頭での「物語」の伝承は決定的に重要な「智識」だった。ある人間は一字一句間違えずに伝えることは出来ただろうが、基本的にはなにかの補助道具を使ったことは充分にありえるだろう。それが土器に施される文様だったとしたら、木の葉文様の一本一本の線には重要な意味が隠されていたのかもしれない。あるいは貝殻で文様をつけること自体に意味があったのかもしれない。私はこの「文様」を見ていて、思うことがある。どういう「物語」だったか、今は具体的に一切分からないけど、「英雄物語」ではなかった気がする。なんだか「恋の物語」こそ、相応しい気がする。ヨーロッパ諸国、英語圏では多くの「英雄物語」が存在する。日本でもヤマタノオロチ退治、あるいはヤマトタケルの白鳥伝説、あるいは吉備彦の温羅退治、など英雄伝説は存在する。しかし、一番最初に編まれた国書が「万葉集」だったことは果たして偶然なのだろうか。万葉集の一番多い歌は圧倒的に恋の歌であって、英雄を称える歌は皆無に近いのである。国を統治するときに必要なのは、「恋の歌」だった。それは決して万葉の人たちが遊び呆けていたということではないだろう。国を統治するのに必要なのは、戦時においてどう動くかという話ではなかった。平和なときにおいて人とどういう関係を持つかという話だった。それは遥か弥生時代から育まれた伝統ではなかったか。そういうことを意識的に重視しているのでなくては、真っ先に万葉集を編んだ理由が見つからない。話が大幅にずれた。えっと、話はどこまででしたかな(^^;)。そうそう、職員にいろいろ質問していたんですな。この若い男性職員、もうひとつ重要なことを教えてくれました。
2011年08月31日
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ゴホウラ貝は呪術的性格を持った貴重な貝であった。腕輪として加工されているのだが、この腕輪の模型をはめてみないか、というコーナーがあったのではめてみた。それで改めて思ったのは、これじゃ絶対私の腕には通らないということだ。この模型は貝をカパッと開けることが出来るから手を通せたように見えるだけだ。本来腕輪にそのような加工は許されていない。そもそも穴が小さすぎるのである。ところが、この「英雄」とも称される人骨の場合は、二つも腕輪をしているのである。どうやって嵌めたのか。私は博物館職員に聞いてみた。「ゴホウラの腕輪は、ほとんどは墓の副葬品として出てくるのです。もし腕輪をして出土してきたとしたならば、それは小さい頃からしていたということです。だから、この人骨は「戦士」ではない。激しい運動は出来ません。ずっと高貴な人でした。しかし、なぜか頭を潰され、無数の矢を打ち込まれて葬られている。」そうだ、大きな矛盾だ。私はどきどきした。「何故か。一つ考えられるのは、生前大きな失敗をしてその罰でこのような葬られ方をしたのか。あるいは、なにかの儀式で、忌みを遠ざけるためにこのように葬られたのか。」腕輪の使い方はずっと疑問だったけど、ほとんどは眺めるものだったとは意外だった。この人骨は男である。単なる「おしゃれ」ではないのだ。そして彼の死をめぐるミステリーは想像力以外では、おそらく永遠に解けないだろう。この腕輪を成人になるまで全然傷つけずにはめておくなど、遊び盛りの子供にとっては苦痛以外のなにものでもなかったのだろう。しかし、彼はそれをやってのけた。少年なりのおそらく使命感があった。ただ、最晩年になって彼に大きな事件が降りかかる……。ともかくも、彼の人生を想像すると楽しい。
2011年08月29日
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iPhoneにして以降、ツイッターがとっても快適です。最近のツイッターでリツィートしたもの(私の気に入った呟き)をまとめてみました。旬の呟きもあるので、旅の記録の途中ですが、記事にします。まずは、糸井重里の傑作から。 itoi_shigesato 糸井 重里 小沢一郎の「郎」を含めていいなら、民主党代表選の立候補者って、「海」の「前」で「馬」「鹿」「野」「郎」って憶えられるな。これ、試験に出ても安心ですね。8月27日 kou_1970 鈴木 耕民主党党首選に名乗りをあげている人たち、誰一人として明確に「脱原発」を表明していない。民主党という党そのものが、まるごと財界に買われてしまったのか、官僚たちに乗っ取られてしまったのか。8月20日 magazine9 マガジン9 だれが首相になっても脱原発にはならないなんて。何だろ、この国は。ため息。8月26日 やっぱり原発関連が多いのです。 iidatetsunari 飯田哲也 この例文はまさに経済界が脅しのように言っていることが凝縮。全部、論破済み、つまり根拠ゼロ。 RT @meltdown_now: 【九電やらせメール6例文】1.原発は経済に寄与。2.熱中症が心配。3.自然エネルギーは不安定。4.国が安全宣言。5.電力不足。6.国内産業が空洞化8月3日この六つの項目にきちんと反論できれば、ほぼ全ての政界財界の「原発推進」の論理は論破できると私も思います。反対にいえば、それほどに「原発推進」の論理はそこが浅い。 s_kiyoe 季世恵 @ @giai_co 函南の皆さんには本当に良くしていただき感謝しています。キャンプ初日。夕食の時に出されたお野菜を見て女の子が「これ、産地はどこですか?」と尋ねてきました。「函南のよ」と答えると、嬉しそうな顔で「私、家族の分まで食べます」って。 s_kiyoe 季世恵 キャンプ最終日。東京の子どもが仲良くなった福島の子どもに「今度は私が福島に会いにくね!」と言いいました。すると相手の子は突然真顔になり「今、福島には来ない方がいい…」と答えたのです。こんなことあっていいの?来てはいけないと言ったその場に子ども達は知っていて帰って行ったのです。 s_kiyoe 季世恵 福島の子ども達を帰すために貸し切りバスがお寺に着きました。「お土産を買う所はどこがいい?」と尋ねると子ども達が「スーパーではなく函南のお野菜が買えるところをお願いします」と言うのです。小学生も中学生もみんな願いは一緒。待っている家族に安全な野菜をお土産にしたいって。8月8日 夏休み、福島の子と一緒に北海道でキャンプを企画したお母さんの呟きです。子どもにこんな思いをさせるなんて‥‥‥。言葉がありません。kou_1970 鈴木 耕 08年に東京電力の「10メートル超の大津波の試算結果」を、実は原子力・立地本部の当時の武藤栄副本部長(前副社長)と武黒一郎副社長(当時)に伝えられていたという。つまり、この人たちが大津波の可能性を握りつぶした、ということになる。責任はどうなるのか?8月26日「真夏の世の悪夢」で原爆情報を握りつぶした巨悪は逃げ遂せたが、せめてこの情報を握りつぶしたこの2人は決して許してはいけないと心に誓う。 gloomynews deepthroat 毎日◆放射性物質:7都県で焼却灰から暫定基準超えセシウム http://goo.gl/i5vTY 「福島県に限り、同10万ベクレルまでは埋め立てを許容する方針を既に提示しており、福島県以外にもこの方針を拡大する考え」※なし崩し的基準緩和か。8時間前 gloomynews deepthroat 朝日◆原発周辺住民は「ヨウ素剤飲むべきだった」 識者が指摘 http://goo.gl/wHWyf 「3月17、18日に福島県で実施された住民の外部被曝検査の数値から内部被曝による甲状腺への影響を計算すると、少なくとも4割が安定ヨウ素剤を飲む基準を超えていた恐れ」9時間前、Bu_uuu 宇宙人ぶー 福島の原発事故では「神風」が吹いた。原子炉爆発で漏出した80%以上の放射能塵雲は季節風で太平洋へ流され、日本本土への直接被害は大幅に軽減された。次に震災クラスの地震が来たとき爆発するのは、どこの原発だろう? http://www.green-act-saitama.org/genpatsu/genpatsu-map.htm8月22日 ホントそういえば、神風だったのかもしれない。 kawazoemakoto 河添 誠もう、みなさん、見たと思いますが。「動画で見る炉心溶融」。独立行政法人・原子力安全基盤機構が事故前に、原子力防災専門官向け資料として作成していた、炉心溶融のシミュレーション画像→ http://ow.ly/6bhOv 。いや、ほんとうに、なんというか、おそろしくて、わかりやすい。8月24日 こんな情報もある。 AsaumiHarukichi orangemole 縄文人 安全性認識か 貝塚、津波直撃免れる 東松島 - ほとんどの浜が津波に襲われた宮城県東松島 市宮戸(宮戸島)で、縄文時代の国内最大規模 の貝塚が密集する里浜が津波の直撃を免れた。... http://tumblr.com/xwv2k6gnwg5月17日 1100年度に大津波に襲われていた縄文人たちは津波から逃れる術を獲得していたのか。現代人でさえ、津波の被害を忘れていたのに、縄文人はいったいどうやってそれを言い伝えたというのか。私にはそれこそ「奇跡」に思える。口頭で伝説を1000年も伝えていたというか。さて、見逃してはいけないことは、原発以外にもたくさんある。気づいたところだけ紹介。 prometheus2054 prometheus コンピューター監視法案「本日6月16日午後1時、参院法務委員会において、賛成多数で可決した。反対したのは井上哲士議員(共産)だけだった。」http://p.tl/kekb 何?共産党だけ反対って…。共産党以外全員「独裁管理警察国家」の実現を目指している?#seiji6月17日kou_1970 鈴木 耕 とうとう大阪維新の会が「首長に教育委員の罷免権を与える」という条例案を提出する。教育行政への政治関与を明記した「教育基本条例案」。さすがに、ここまでくるとファシズムの腐臭が漂う。これはいくらなんでもひどすぎる。橋下知事の本性が出たか!?8月23日 sumichi_tushin すみっち 日本駐留米兵らの公務外の犯罪について、日本政府が1953年10月、重要な事件を除いて裁判権を行使しない方針を米政府に伝達していたことが明らかになった。日米不平等の原点、ここにありですね【米兵裁判権の一部放棄、米側に伝達 外交文書公表で判明】http://bit.ly/rjENQU8月26日 ちょっと面白い呟きも monjukun もんじゅ君 だいじょぶだよ。だってデモにいくってことは、みんな背景はちがっても原発やめてってとこではおなじ目的でしょ。おなじ気持ちのひとがたくさんいるのが目に見えて、心強いと思うよ。 RT @megco_com もんじゅくん、おはよう!今日のデモに、ひとりで参加するのが不安だよ。大丈夫かなぁ23時間前sakaroko 坂田 浩子 with るんぱ♪ 昨夜は、娘の宿題「税金についての作文」をどう書こうかな?という相談に、「震災復興支援の名を語る消費税増税に、反対だ!…」と書けばいいやん。と言うと「そういう、反体制的な事を書いたらあかんねん…(学校から貰った文書にそう書いてあるらしい)」と。やらせは、中学生の宿題にまであるの?58分前 katoshuichi_bot 加藤周一bot 現代は情報が多すぎて、また少なすぎる時代である『世界大百科事典』19時間前 KatsuKaishuBot 勝海舟bot 行政改革といふことは、よく気を付けないと弱い者いぢめになるヨ。全体、改革といふことは、公平でなくてはいけない。そして大きい者から始めて、小さいものを後にするがよいヨ。言ひ換へれば、改革者が一番に自分を改革するのサ。8月27日
2011年08月29日
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土井ヶ浜ミュージアム。入ると、最初は私一人だった。今は夏休みなのに、ちょっと少ない。びっくりしたのは、3D眼鏡を渡してくれたことだ。展示説明を映像で見せてくれる博物館は、たとえば九州国立博物館など多数だが、立体映像のシアターを作っているのは私の経験した限りでは普州の大坪里博物館のみだ。すごい最先端を行っているじゃないですか。15分の遺跡説明でしたが、まあ3Dにする必要は余り無かったかな。内容は要検討でした。ただ、興味深かったのは、人類学的に調べると、土居が浜の人骨は、中国人の人骨と極めて似ているということが最近分かったらしい。私はてっきり朝鮮渡来系だとばかり思っていたので、これは意外であった。分かりやすく、全体的に捉えたいい博物館でした。一時間弱で帰ろうなんて計画、止めてよかった。企画展は「人骨から探る防長ヒトの歴史」。山口県出土だけで顔の形の変遷を辿れるのは山口県だけだ、と企画の意図を説明していました。縄文から近代にかけての「顔」を比較していた。これは縄文人。これは土井ヶ浜の弥生人です。私はこれが朝鮮からやってきた渡来人の顔だとずっと思っていた。これは古墳時代の人骨からの復元(神花山古墳)。顔のつくりで突出しているのは、土居が浜弥生人と鎌倉中世人なのだそうだ。この中世人、なぜかほとんど「出っ歯」の特徴があるらしい。常設展示館には、PCで「あなたは何人?」というのを判定できるようになっていた。私は弥生人と縄文人の中間なのだそうだ。平均身長の移り変わりは、男と女に分けて、縄文 158 147弥生 163 150古墳 163 152江戸 156 145現代 170 157なのだそうだ。江戸時代は縄文時代の身長に戻ったということなのか。現代は日本史上例が無いくらい発育の良くなった、いわば異常な(^^;)時代なのであった。私は良くも悪くも弥生人ですな。どの時代からでも現代の日本に来れば、まるで異国に来たと思うだろう。いや、そうじゃない。この異常な発達は戦後に起きたのである。だから、現代の老人はリアルタイムで日本人類の「変形」を目撃してきたということなのかもしれない。背が高くなっただけではない。顔もうりざね顔あるいは小顔になり、あごは尖って、全体的に華奢に変わっている。「その変化のスピードはかつて日本人が経験したことのないほどの早さ」なのだそうだ。
2011年08月27日
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なぜか広島から福岡を巡った旅の最後の日は山口で、なぜか記事が五回ぐらいに分かれます。少しおつきあいください。8月4日(木) 夏旅6日目この旅の最後の日だ。今日は三回目の青春18切符を使う。つまりそれだけ電車の移動が多いということだ。実際綱渡りで予定を組んだ。数日前からダイヤとバス時刻表をにらめっこしていたのである。あとは寝過ごして通り過ぎたり、三分しかない電車の連絡で失敗をしないことだ。しかしほとんど電車の旅だと思っていた最終日があんなにも充実した内容になるとは、早朝博多駅に着いたときには予想さえもしていなかったのでした。ともかく、そんなこんなで早朝5:35の博多駅発小倉行きの電車に乗った。下関駅から山陰線に乗り換えるには三分の連絡で、向こう側のホームまで行かなくちゃ行けない。案外の通勤ラッシュでごった返していて走れない。やばかった。山陰電車には初めて乗った。乗ってみてわかったのは、本数が少ないからと言って文句を言うべきじゃないな、ということだ。気がつくと、二両編成のオモチャのような黄色い電車は単線を走っていた。至る所、駅で上りの電車がすれ違うために下り電車を待っていた。反対も然り。それでも小串駅までは良かった。8:00段階で通勤通学客あわせて一両に12人の客が居たのだ。それが小串からは1時間に1-2本の通行本数が2時間に1-2本に減り、客もおばあちゃん中心に3人に急減した。でも私はこの電車にほっとする。女子高生は化粧していないし、町並みもどこか懐かしく優しい。海が見えた。金子みすずの見た海だ。田んぼの中にぽつんとゲートボール場があった。木造のトイレや倉庫などが現役のさまを表している。結局海をしっかり見たのは、この夏これが最初で最後だった。長門二見駅に8:45に着く。8:50のバスに乗るには、この電車しかなかった。だから必然的に5:00起きになったというわけだ。問題は帰りである。土井ヶ浜ミュージアムから帰るバスはなんと3時間半後の12:21しかないのだ。これで帰ると、今日の成果は此処だけで、山口県のもうひとつの注目遺跡の綾羅木郷遺跡は見ることは難しいだろう。私はバスの運転手に聞いてみる。「土井ヶ浜からこの駅まで歩いてどのくらいかかりますか」バスで15分で着くならば、私は歩いて30-40分と見たのだ。田舎のコミュニティバスである。お客のおばあさんが合いの手を入れる。「歩いてかえる ? それゃ熱中症になっちまうよ。やめときなされ」「いや、若いですから(^^;)。出来たら10:59の電車で帰りたいんです」「うーむ、分からんけど、歩いて一時間以上はかかるじゃろうな」とバスの運転手。「えっ、そんなに……!!」半信半疑だったが、バスが動き出して私は直ぐにそのことを了解した。都会のバスではないのである。停留所が歩いて直ぐのところにあるわけじゃない。延々海岸線を走って、数少ない村を回るのだ。とうてい一時間じゃ歩いて帰れない。私は腹をくくった。土井ヶ浜ミュージアムを徹底的に楽しもう。土井ヶ浜ミュージアムは弥生人骨を300体以上も出土した日本を代表する弥生時代前期末から中期にかけての埋葬遺跡である。しかも、基本王墓ではない。もしかしたら、数百年にわたり、総ての村人の遺体が一同に葬られている、庶民の思想が分かる極めて稀な遺跡なのであった。
2011年08月26日
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8月20日、青春18切符を使って一日だけの遠出旅行をしました。iPhoneを使って路線検索をすると、大河ドラマ「江」で有名になった近江地方が遠出できるギリギリの地域だと思えました。朝7時前の電車に乗れば、昼前につくことが出来ます。最大7時間現地に居ることができる。11:55安土駅に到着。5回乗り換えでした。一本電車に乗り遅れるとこんなになってしまいます。有名な土地ですが、安土は駅の周りだけに家屋が建っています。素朴な田舎なのです。先ずは駅前で食事。蕎麦屋でランチ。この辺りの蕎麦は白いんですね。竜安ソバというブランドです。駅前の安土城郭資料館に言った見たけど、安土城1/20スケールのひな型を展示しているだけ。後は子供だましみたいなものを並べているだけで、200円の入場料は高いです。ここで降りたのは県立安土城考古博物館に行くためだ。名前とは裏腹に、弥生遺跡の展示が非常に充実している。バスが通っていないので、駅前でレンタル自転車を借りていく。しばらく行くと、田んぼの中に異様な建物が見えてくる。この田んぼ道から安土城跡の小山が綺麗に見えます。この小山の周りにほとんど家屋がないのが、私には異様です。信長はここを一大城郭都市にしたかったのか。それとも、孤立して威容を誇りたかったのか。それとも当時は現在とはまるきり違う城下町だったのか。お米の花が満開だった。大中の湖南遺跡が有名。弥生時代の水田跡や方形周溝墓が多数発掘されている。ここから多くの鎌や鍬の作田遺物が出土している。現代とほとんど変わりない。4Cの瓢箪塚古墳の石室のレプリカである。なんと珍しい竪穴式石室である。驚くべきことにこの石室の石の並べ方が、朝鮮式だ。しかも王墓のそれだ。技術者が来たのだろうが、相当な人が来たとしか思えない。この時代に最高の富と技術があったことを思わせる。これが後の継体天皇(実は新しい征服者)を生むのだろう。つい共通券を買ってしまったので、「信長の館」にも行ってみる。ここには原寸大にて復元された安土天主のみが据えられている。キンキラキンです。信長好みらしい「絢爛豪華」を写真に撮ったようなものでした。本当はこの後瓢箪塚古墳の現物を観に行こうと思っていたのですが、あいにくの雨とレンタル時間が迫ったことで諦めました。急遽、野洲駅まで戻って銅鐸博物館に行くことにしました。野洲市小篠原の大岩山からは、明治14(1881)年に14個、昭和37(1962)年には10個、計24個の銅鐸が出土した。これは島根県の加茂岩倉で大量埋納が発見されるまで長いこと全国一の銅鐸出土地になっていた。近畿の銅鐸、九州の銅剣という図式はそのときまで不動のものだった。その中心地がまさにここだったというわけだ。古い石碑が建っていた。その石碑のすぐ近くの全農の建物にこのような幟旗が立っていた。実は、個の駅の直ぐ近くの田んぼにも堂々と「TPP断固反対」の横断幕が張られていた。青い田んぼの中にとてもよく目立っていた。滋賀県の全農は「本気」である。今年の前半が本当は勝負だったが、それは震災のおかげで来年以降になった。けれども、今回はこのような頼もしい陣営が付いているので勝負はいつものように押し切られはしない。果たしてどうなるか。博物館でチケットを買うとこの「冷蔵庫保冷カーテン」をもらった。実はこれと同じものを安土城考古館でももらっていたのである。「どうしてくれるんですか」「関西電力の節電キャンペーンに協力している施設には配られたのよ」とのことであった。「やっぱり関電はお金があるんですね」受付のお姉さんも我が意を得たりという感じで「そうですね!」と頷いていた。銅鐸博物館は別に大きな発見はなかった。銅鐸の学習にはいい施設かもしれない。六時前の電車に乗り、京都駅でおばんさいの弁当を買って夜の11時過ぎに家路に着いたのでした。
2011年08月25日
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「チヨ子」光文社文庫 宮部みゆき宮部の単行本未収録の短編集である。ホラー&ファンタジーに統一されていて、500円ぽっきりのお得な一冊。何度も書いているが、最近の宮部の作品は描写が密に入りすぎて、かえって「物語にしてやられた!」という余韻を持つことは少なくなった。でも彼女の短編は本来そのようなストーリーテラーの本領を発揮した名作が少なくなかった。連作ものの「ファーザー・ステップ・ファーザー」や「長い長い殺人」、あるいは「とり残されて」等、すばらしいものがたくさんあった。しかしそれらも15年前の「人質カノン」を最後に途切れていた。今回の五編のうち私は「雪娘」と「オモチャ」が良かったと思う。特に後者は「泣けるホラー」である。思うに宮部の面目躍如であろう。最後に載っている最近作「聖痕」(2010)は力作だけど、彼女にはこの「方向」に入ってほしくない。もちろん彼女が神がかって救世主物ばかり書く平井和正みたいになる心配は、さらさらしてはいない。けれども「英雄の書」も似ているらしいが、「ドリームバスターズ4」もそうだったが、人の精神のアヤに入り込んで抜け出すことができないような、そんな世界に行ってほしくない。確かに、精神病もそうだし、心理モノはみなそうだが、人の心の中にある「まだ知られていない扉」は物語の宝庫だと思う。けれども、それは一方では黄泉の国に入った或お妃のようにいつの間にか怪物になっていってしまうのではないか。と私は心配するのである。
2011年08月24日
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iPhone4に買い換えました。実質は経費ゼロです。むしろ今までより、携帯経費が安くなるようです。良く分かりません。前回の買い替えから約四年、今月でポイント7000が消滅することが分かってお店に相談したら、これを勧められたと言うことなのです。今まで、98年ごろからのPHSに始まり、2002年ごろ携帯に変わり、2004年ごろアンテナが付いていない携帯に変わり、2007年頃に薄い携帯に変えました。その度に「世の中って変わっているんだなあ」と実感したのですが(例えば前回ではインターネットが携帯でこんなに出来るとは思っていなかった)、今回の買い替えは「質」が違うようです。この一週間はこのiPhoneを覚えるのに一生懸命でした。それでもたぶん五分の一も分かっていないとは思います。今回はどうも携帯ではないようです。どちらかというと、パソコンに近い。一番大きな違いはアプリというものの活用です。ひとつひとつのアプリは85円とか170円とか、無料とか安いのですが、これがまた馬鹿にならないのです。私は実は自分の体重管理をずっとツイッターのメモ機能のところでしていたのですが、もっと簡単な管理アプリが出来てとても楽になりました。いつも重たい本を持ち運んではハングル学習を挫折するということを繰返していたのですが、いつも持ち運び発音も出る、五分とかの隙間時間が有効活用できるハングルの学習アプリも85円で簡単にダウンロードできました。あとで報告する近江の旅では鉄道乗り換え案内がとっても役に立ちました。そこで出てきた駅がマップアプリとリンクしていて、いつでも自分の居る位置を地図の中に落とすことが出来るのです。テレビのCMでやっていることがやっと理解できました。昔、手塚治虫の「W3」というマンガがあり、諜報部員のお兄さんが持っている腕時計式のテレビ電話兼武器が欲しくてたまりませんでした。デモそれは単なる「漫画」なんだとも分かっていました。ところが、ここにあるiPhoneはそれよりも遥かに機能がある時計のような手軽な「武器」なのです(まだ設定していませんがテレビ電話機能があるようです)。「長生きはするもんじゃのう……」。私の好奇心はとりあえず達成されました。直ぐに日常の中に溶け込むのでしょうが。
2011年08月23日
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楊令伝 2 (集英社文庫) (文庫) / 北方謙三/著一巻では、最後になって登場した楊令が今度は出ずっぱりだ。「俺はね、汚れたのですよ、青燕殿。梁山泊軍にいたときとは較べられないほど、汚れきってしまった。そんな俺を待つことを、空しいと思われませんか?」「汚れたかどうか、余人が決めることではない。おまえ自身が決めることだろう」「俺は汚れましたね」「いいな。子午山から降りてきたおまえは、若いくせいに非の打ちどころが無かった。それは、いくらか異常でもあった。人なのだからな。汚れを持っていて、当たり前と言っていい」楊令はいま、新しい国を模索している。いまは、まったく具体的ではない。しかし、呉用とも、史進とも、公孫勝とも、比べてもまったく見劣りしないのが頼もしい。今回の見所は、呉用のスパイ大作戦と、杜興が孟康に無理な要求を(泣き落としを使って)拝み倒す場面と、楊令と岳飛との運命の出会いであろう。「水滸伝」が19巻、「楊令伝」が15巻、しかしそれで終わりではなかった。現在「岳飛伝」を構想し、これで「大水滸伝(水の辺の物語)」三部作を完結させるのだという。この物語がキューバ革命を擬しているのだとしたら、楊令伝は革命直後のキューバ、となるだろう。そして、岳飛伝はもしかしたらゲバラの最後になるのだろうか。ともかく気が早い。まだまだ楊令伝は序章だ。
2011年08月21日
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遅くなりましたが、やっと7月に見た映画を紹介できる環境が整いました(要は別ブログにアップできたということです)。今回は9作品に減りました。七月は一般的に夏休み映画で劇場が占められます。あまり名作は期待できない月なのです。以下見た順に紹介します。7月7日 「小川の辺」★★★7月10日 「死にゆく妻との旅路」★★★★7月14日 「ジュリエットからの手紙」★★★★7月20日 「コクリコ坂から」★★★☆7月21日 「マイティ・ソー」★★☆7月23日 「Peace」★★★★7月23日 「戦火のナージャ」★★★☆7月31日 「父と暮らせば」★★★★7月31日 「歓待」★★★
2011年08月20日
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ある夜、私は冷たいワインを飲みすぎて寝入っていたらしい。目が覚めると、深夜のNHKスペシャルをしていた。深夜だから再放送なのだろう。それを見ながら、私はちょっとした感慨にとらわれたのであるが、録音していないし、番組名さえ覚えていないし、記事にするのは止めていた。けれども、日にちが経って、あの番組が気になって仕方ない。あの悪意には『反吐』が出る。しかもそれが、現在につながっているのだ。少しずつ思い出しながら、感想を述べる。それは、広島への原爆投下のモールス信号を大参謀本営は数時間前に明確に把握していたのにも拘らず、ついにはそれを認めなかったというドキュメンタリーだった。よってそれが元で広島・長崎に空襲警報が鳴らなかった、という『事実』である。東京にはつい最近まで明らかにされなかった秘密の信号傍受の施設があった。そこでは24時間テニアン島のモールス信号の解読を行っていた。信号は当然暗号化されているので内容まではついには分からなかった。しかし、発信元だけは分かる。それを分析していくと、20年夏の初め、新しい部隊が訓練を始めたということが分かった。それを分析していくと、どうやら原爆投下の訓練をしているらしいということが分かった。けれども、参謀本部の上のところではついにはそれを認めなかった。なぜか。実は日本でも仁科博士の下、原爆の開発をしていたのである。しかし20年の夏、その開発を諦める。そのときの理由が日本の技術不足だけではなく、「アメリカで原爆開発は不可能である」というのを、おそらく何の科学的根拠もなく付け加えたのである。歴史は、ちょうどそのころ、アメリカでは初めての原爆実験が成功していたのだ。ここからは、私の推測だ。なぜ推測になるのか。ほとんどの証拠書類は敗戦のときに焼かれているからである。参謀本部はおそらく8月段階ではアメリカが原爆を持っているということは承知していた。しかし、いったん『原爆開発は不可能』と断じた以上、それを認めることは出来なかった。つまらない軍部の「面子」である。そして運命の8月6日の朝、テニアン島から、原爆を搭載した飛行機が向かってきているという情報は確実に参謀本部まで届く。ここまでは90歳になった当時の職員たちの証言で「事実」だと証明できる。しかし、参謀本部はそれを『無視』する。誰がそう判断したのかは、今になってはわからない。この時になっても、噂さえ流れないということは、見事に隠し遂せたとしか言いようがないのだろう。重要なのは、だから空襲警報は結果的に発令されなかった、ということだ。もし、空襲警報が発令されていたならば、爆心地から460m離れていた袋町小学校の地下に『たまたま』残っていたたった3人の児童が生き残ったように、大勢の生命が助かったはずだ。参謀本部は、広島の爆弾が原爆であることもしばらく『秘密』にした。おそらく「面子」のためである。それどころか、8月9日、原爆投下のための飛行機が小倉を回って長崎にやってきたということに気がつきながら、それを明らかに『無視』した。九州の飛行場ではたまたま広島の惨状を目撃した飛行士が居た。彼に出撃命令が出ていたならば、彼はたとえ自分の命を削ってでも、原爆を搭載した飛行機を落としたかもしれない。『人類の悲劇』は天災のように起こったのではない。それは予測できたし、このように具体的にその悲劇を軽減、止めることさえ出来た。それができなかった理由とは何か。例えば一人の人間のあまりにも想像力の無さ。自らの保身。まるで既視感たっぷりの現代。それはたぶん『フクシマ』でも起きた。或る教授は「再度メルトダウンは起きている」と警告する。あの分厚い鋼鉄をぶち破ってコンクリートに垂れ流されていて、建物の外に出るのは時間の問題だという。東電や政府はそれを知っていながら「無視」していないと一体誰が言えるのだろう。何しろ彼等は66年前の指導者の正統な後継者たちなのだから。或知事は原発の再開を認可した。自身や一族郎党は原発ムラの中心に居る。「わが亡き後に洪水よ来たれ」本当に責任を取るような事態が起きるのは、知事を辞めて何年も経った後だろうし、おそらく自らの死んだ後だから、堂々と「決断」が出来るのだ。真夏の夜の夜明け前、ひとりの「お偉いさん」がひとつの情報を握りつぶした。その事に起因して、何万人何十万人の人々が何十年も苦しむなどとはおそらく想像さえしなかっただろう。一夜明けた後も彼には何の「声」も聞こえなかった。「それこそが政治なのさ」と彼が死んでも彼の後継者たちは嘯いてここまで来た。いまさら、生き方は変えられない。
2011年08月19日
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ちょっと前ですが、8月7日、友人と蒜山登山を決行しました。蒜山という言葉は地元以外はなかなか読めない漢字だそうです。「ひるぜん」と読みます。なぜそう読むのかはよく知りません。この日は初心者コースということで、下蒜山だけを攻めるという計画です。往復約3時間の手軽なハイキングコースですが、20年ぶりの私にはけっこうキツイ。登山口から直ぐ急な傾斜が続きます。五合目にくると一気に視界が開けてきました。アザミの花も咲いています。向こうのとんがった山は下蒜山の頂上ではなくて、九合目辺りだそうですが、ここまできたらともかく早くあそこに行きたいと、気が逸ります。緑のじゅうたんが美しい。頂上に着いた。神戸から来たという若い女性二人組みがいました。なんと、昨日は大山に登って、今日は朝早く起きて上蒜山、中蒜山、そしてこの下蒜山を縦走してきたのだそうです。最近登山を始めたそうですが、なんの帰りはあっという間に我々を追い越していきました。ものすごい健脚でした。彼女たちの左上にかすかに見えている禿山が大山(だいせん)です。志賀直哉の「暗夜行路」で主人公が悩みを抱えながら大山に上り、その鳥取側の中腹から朝になっていく鳥取の海岸を眺めて気持を吹っ切るラストは有名です。鳥取側からは富士山と見紛うばかりの雄大な裾野をみせる大山ですが、蒜山側から眺めるとこのような非常に厳しい姿を見せます。そしてその二つの姿こそが伯耆大山なのです。今日はホントによく見えました。かつてこの山の麓にあった妻木晩田の日本最大の弥生「都市」の人々は、朝鮮半島とも交易していましたが、おそらく絶対この大山が帰港の目印であったのです。頂上辺りからは鳥取平野を眺めることも出来ました。蒜山から鳥取が見えるなんて初めて知りました。こんなに天気の好い日はめったになかったのだろうと思います。この日別行動で大山登山をしていた友人は大山から隠岐の島がくっきり見えたそうです。この平野の海沿いの辺りは、弥生の「脳」が出土し、村人皆殺しの戦争跡が残っている青谷上寺地遺跡の辺りでしょうか。帰りの頂上辺りから見た蒜山高原です。大山、蒜山の火山灰が山すそに平たく積もった平野で、この景色はおそらく縄文時代から5000年近くあまり変わっていないのではないかと思わせます。帰りに蒜山郷土博物館に寄ったのですが、縄文、弥生時代からここに人は住み着いてはいたようです。けれども、きちんと開墾して住居が増え一挙に人口が増えたのはどうやら古墳時代からのようで、遺跡の数がぐっと増えます。これは古墳時代後期四つ塚古墳から出土した家型埴輪です。四つ塚古墳群は全て円墳で16基あったそうです。「ひるぜん」といえば、B1グランプリで第二位になった「ひるぜんヤキソバ」。味噌タレで肉は鶏肉、ということでいろんな店が出ていましたが、どの店も長い行列が‥‥‥。讃岐うどんはどの店も効率よく捌いていたのですが、ここの地方にその効率を求めるのは酷だったのかも。ともかく一軒選んで入りました。美味しかったです。でも別につくってわざわざ鉄板に再度入れるという変な懲りようで750円で少し高いこともあって、今度はもっと素朴な味を試したいと思ったものでした。ラドン温泉に入って帰りました。近くに人形峠という元ウラン採掘場があるからこういう温泉もあるのでしょうか。
2011年08月18日
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「渚にて 人類最後の日」ネヴィル・シュート 創元SF文庫「それに対して、どんな手立ても取れないというの?」「そうだ。人類が対抗するには規模があまりにも巨大すぎる。ただじっと受け止めるしかない」「わたしはいやよ」モイラは強い調子で言った。「そんなのおかしいじゃない。南半球じゃだれも核兵器なんか使ってないんでしょ。水素爆弾だろうがコバルト爆弾だろうがそのほかのどんな爆弾だろうが、オーストラリアはぜんぜん発射なんかしてないじゃないのよ。なのに、一万キロも二万キロも離れた国がやり始めた戦争のせいで、どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」「きみのいうことはもっともだ」とタワーズ。「だがどうしようもない」1957年の作品である。第三次世界大戦によって、核兵器戦争が起こり、先ず北半球が全滅したあとの世界を描いている。時は1957年オーストラリア、クリスマス前。現代の映画界では年に五本以上は作られる「世界滅亡モノ」である。しかし、けっして英雄が現れて世界を救ったり、宇宙人が現れて選ばれし者を連れて行ったり、宇宙船で逃げたり、タイムパラドックスが起きたり、あるいは地獄と化した世界で少数の人間が桃源郷に逃げ込んだり、延々と非人間になった人間から逃げる話ではない。最初は極めて普通の日常が描かれる。だれもパニックになってはいない。まだテレビ時代ではないので、世界から届く情報はほとんどない。しかし、まるで桜前線のように放射能前線が次第に南下しているということだけはみんな知っているのである。北半球のどの都市も、タワーズ艦長の赴く原子力潜水艦の調査ではほとんど従容として全員死を受け入れたように思える。年が変わってやがて三月ごろになると、みんな九月には死んでしまうだろうと分かってくる。誰もそれから逃れようが無い、という前提でこの小説が書かれている。登場人物たちは誰一人われを忘れてパニックになったりはしない。それぞれのやり方で死んでいくのである。現代はおそらくそうではない。おそらく極めて早いスピードで情報が飛び交い、僅かだが確実に生き延びる知恵が人類共通のものになり、大パニックが起きるだろう。だからこのような小説や映画はもはや過去のものなのだろうか。そうではない。そうではなかった。鏡明は解説でひさしぶりに「この作品を読んで、ほのぼのとした気分になったと言った。「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」と書いた。改訂新版が出た2009年ならば、たしかにこのような感想を持つことは当たり前だった。私もほのぼのとした気分で読んだかもしれない。(たった、2年前だけど、なんて過去のことに感じるのだろう)2年前の情勢とはつまりはこうだった。世界はさらに緊迫度が増している。当時では「核戦争だけ」が世界滅亡の危険要因だった。しかし、半世紀が過ぎて地球温暖化、水、食糧問題、そしてエネルギー問題と滅亡要因はますます多様化複雑化していた。この小説のように単純に滅亡を迎えることが出来るのは、むしろ幸福かもしれなかったのである。そしてフクシマが起きた。私はもはや、他人事の風景としてこの「滅亡を迎える日常」を読めない。(自分の知らないところで始まった原発ムラのミスのせいで)「どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」と絶望を叫ぶ子供たちの心像風景を私たちは知った。(自分たちが去っていっても残る牛たちのために)どうしたら「1頭に付き1日半俵の乾草」を確保するべきか悩む酪農家を私たちは現実に見ている。主人公の二人の男女はお互いに愛し合っている。けれどもけっして性的な関係を持とうとはしない。男性には北半球に妻と子供がいて、それを裏切ることが出来ないとお互い知っているからである。「もしこの先、ずっと人生があるなら、話は違うでしょうけどね。それなら奥さんを泣かせてでもドワイトを手に入れる価値はあるかもしれないわ。そして子供も作って家庭を持って、一生を共に暮らすの。そうできる望みがあるなら、どんな犠牲も厭わないわ。でもたった三ヶ月の楽しみのために奥さんの名誉を傷つけるというのはーしかもその先に何も残らないというのはーとてもその気になれないわね。」……少し内容は違うが、人間は「誇り」をもてるのだ、ということを我々はこの五ヶ月いたるところで見た。私は今回、鏡明とは違い、暗い気持ちでこの小説を読み終えた。「「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」。「"戦争の時代"といわれた20世紀が終った。冷戦は終結したが、その余波は別の形で多くのところに現れている。(略)未だ終らない核の恐怖。21世紀を生きる若者に、ぜひ読んで欲しい作品だ」と故小松左京はまるで遺言のように帯で書いていた。「誰もこの戦争を止められなかったの?」(略)「新聞だ」とホームズは答えた。「新聞によって人々に真実を知らせることは可能だったはずだ。だが、どの国もそれをやらなかった。わがオーストラリアでさえだ。それこそわれわれの誰もが愚かすぎたからだ。われわれ国民は水着美女の写真や暴力事件の見出しなんかばかりに目を惹かれしまっているし、政府は政府で、そんな国民を正しく導けるほど正しくは無かった」メアリはまだよく理解できないという表情をしながらも、「じゃ、このごろはもう新聞がなくなって幸いだったってことね。たしかに、あんなものないほうが毎日楽しかったわ」この後、映画の「渚にて」を見た。1959年作品。グレゴリー・ペックがタワーズ艦長、モイラはエヴァ・ガードナー、小説では技術士官に過ぎなかったジュリアンにフレッド・アステアを配し、彼の発言によって明確に反核映画になっている。舞台は1964年になっていて、最後の誰もいない町に横断幕「兄弟よ、まだ時はある」がたなびいているところで終わる。
2011年08月17日
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ずいぶん前の話ですが、纐纈(はなぶさ)あや監督の『祝(ほうり)の島』というドキュメンタリーと監督のトークの企画があったので見てきました。「ミツバチの羽音と地球の回転」と同時期に撮影されている祝島の人々のドキュメンタリーであるが、『ミツバチ……』のほうはスェーデンの自然エネルギーの取り組みも取材しているので、こちらのほうが祝島の『生活』ははるかに濃い。上映の後に監督挨拶にしては20分と長い映画『解説』があったので、それを紹介することが、すなわちこの映画の紹介になるだろう。なぜこの映画を撮ったのか、というとキッカケは八年前の祝島で私もプロデューサーとして係わった「アレクセイと泉」上映会からでした。私はガチガチになって祝島に行った。20数年間原発反対運動をしている島民の人たちの前でいったい何が話せるというのか。でも船から下りて出遭ったのは、あの島の人々です。あのおばちゃんたちです。この日は月曜日で、あの定例デモが終って上映会に入ったのですが、面食らいました。所謂原発反対の抗議行動とは別の姿があった。日常の暮らしから来る思いーそれらを撮りたいと、そのとき思ったのです。五年後、中電との小競り合いの映像をテレビで見た。そこには、日常には無い闘いの姿でした。なにかの問題が起きたとき、当事者以外の人はテレビでの激しい姿しか眼につかない。上関原発のことも、まずは島の人々がどんな暮らしをしてきたか、その順番で知っていかないといけないと感じたのです。ただ、撮影に入る前に『日常を映していくには時間がかかる』ということだけは覚悟していました。空き家を借りて自炊生活をしながら二年間島に通いました。この映画のパンフに『頂き物日記』というのがあるのですが、毎日頂き物をしました。撮影スタッフ女性3人、本当に助けられながら撮影をしました。普通島に行けば、『自分が何が出来るか』自問すると思うのだけど、私たち自身が元気をもらって帰ってきました。特に伊東のおばちゃんの家、あそこは平さんたち四人が365日集うのだけど、NHKの介護サービスのニュースをしていたときに『私らは毎日デイサービスじゃ』と笑うんですね。平さんが『祝島には入院施設が無い。生活できなくなると島を出ないといけない。わしらは島から出たら死んでしまう』というんですね。みんなの願いはひとつです。最後を祝島で迎えたい、ということ。本来人間も植物のようなもので、根を張ったところから引き離されると死んでしまうのではないでしょうか。3.11以降、島の人のこと思うことが多くなりました。フクシマのことと同じで、そこから引き離されることの苦しみはいかばかりかと思うのです。震災後私は怖くてしばらく部屋を出ることが出来なかった。私は30代独身です。結婚して自分の子供を産みたいというささやかな夢を持っています。そのとき、ベルラーシーの危険地域から出ないおじいさんの言葉を思い出したのです。「どうしてでないといけないのか。人間の汚した土地だろ。どこへ逃げるというのか」初めてそのとき、自分の言葉として分かった気がしました。自分の子を残すよりも、これからの子のために自分の命を惜しまずに使うことが出来るのではないか。原発は先ず命の問題として捉えたい。私も質問しました。「実は震災直後、偶然祝島を旅しました。みんな本当に素朴な人たちで、ぜひとも皆さんも祝島に行ってほしいと思います。平さんの棚田にも行きました。平さんの一年がわかってよかったです。この撮影の後、亡くなった方はおられるのですか。それと自然エネルギー100%自前で完結しようというプロジェクトがあるそうですが、具体的に教えてください』「亡くなった方はおられません。でもちょっと前まで530人居た島民が今は500人を切っていると思います。でもいいこともあります。このとき、三人だった小学生ですが、いまは5人と中学生1人になっています。それからプロジェクトですが、これから詰めていく段階で、具体的にはなっていません。」他の人も質問しました。「推進派の人はいたのですか」「なぜ、推進派の人を撮らないのか。私は推進派、反対派と捉えたくない。それよりも島の人が大切。島の人たちは推進派との対立で心に傷があります。」平さんの棚田にこの春に行った時、ホントにこんな広い土地で米なんか作っているのだろうか、と思ったものだ。米は大変だから豆とかを作っているのではないかと思ったのだ。しかし、ホントに米を作っていた。しかも、記事の中にあるこの棚田を作った亀次郎さんの句碑はなんと2-3年前に孫の平さんが「おじいさんは文字が読めなかった。だから何も書き残していない。せめて句碑を残すことで生きた証を残したい」と手彫りで一年がかりで彫ったのだ。びっくりした。本当に何から何まで手作りなのだ。しかも老人が一人で。「今日もまたつもりし雪をかきわけて子孫のためにほるぞうれしき」。監督は意外にも大林素子を若くしたような美人な若い女性でした。「ミツバチ……」の監督のような闘士ではなく、素朴な志を持った正統なドキュメンタリー作家でした。私は実直なこの映像に感心しました。ちょっとひつこい処はあるので、切れ味の鋭い作品にはなっていません。けど、大晦日の伊東のオバサンのうちの紅白を見るみんなの姿勢がちょっと前のうちの「家族」のようで。もう失われている家族のようで、だからこそ愛おしくて堪らないと思ったのです。
2011年08月16日
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今回の旅が著しく考古学に埋没した旅になって分りにくくなっているのは自覚しています。私の旅はいつもいつも「平和と古代を訪ねる旅」でした。今回は事前に本も読んでいるし、これまでの経験から少し専門的にならざる得なかったようです(それでも素人の域は出ていないのですが)。旅レポートを書いてみて、分り始めたことも多く、今回の旅のテーマは何かと言うと、「現場に立つから分ること」でした。広島、福岡、山口、いたるところでそういうことがあり、考古学が分らなくても、その辺りのドキドキを感じてもらえば嬉しいかな、と思います。私の場合は「旅行」じゃなくて、いつも「旅」でした。旅とは大体そんなものですね。後一日、山口の土居ヶ浜を残すだけになったのですが、この日はほとんど電車の中だったので、あまり書くことないなあと思って実際下書きも書いていなかったのですが、書き出したら最長の長さになりそうになっているので、夏旅のレポートは今日で一端小休止します。しばらく、映画や読書ノートもたまっているので、そちらを書きます。その後、歩いて福岡埋蔵文化センターに向かった。途中で観光センターがあったので寄って見る。私の目論見通り、様々な明太子が試食し放題!!特に小イカに明太子を詰めているのが美味しかった(美味しくて後でもう一回食べに行ったほど)。客の八割は中国人だったような気がした。歩いて遺跡めぐりをすると、このような役得もたまにはある。福岡市埋蔵文化財センター。福岡市の発掘作業の中心基地である。二回目の訪問。しかし、今回はちょっと違う。ここで扱われている遺跡のほとんどをこの三日で実際に見て、歩いてきた上での訪問である。ちょっとした自負を持って遺物を鑑賞させてもらった。これは弥生時代中期比恵遺跡の土器。心配していた街中の遺跡を発掘もせずに立てているのかという疑問は杞憂に終った。発掘地図が展示されていて、なんと300(だったよね)箇所近い遺跡が博多駅からこの埋文センターにかけて広がっていたのである。これは那珂遺跡の土器。センターの職員の人に聞いてみた。この人は話をしてみると、私の行った遺跡のほとんどを発掘していて、もしかしたらとっても偉い人だったのかもしれない。終始穏やかな口調で答えてくれた。「確かに博多駅からこの平野は遺跡銀座とも言っていいぐらい遺跡を発掘しています。残念ながら、それでも総ての住居や田んぼを調査することは出来ません。」「推測でいいのですが、発掘されたところの密度でここまで遺跡が広がっていたとしたら、いったいどのくらいの人口だったのでしょうか。魏志倭人伝では奴国の人口は二万から四万とも言っていたと思いますが、その程度はあったと考えていいのでしょうか」「その可能性はあると思います」魏志倭人伝の記述が人口記述に関しては正確だったということに、私はおおきな収穫を得た気がした。例えば、四万だとすると、もし戦争場面を小説に描くとすると、1万から2万の軍勢を描くことが可能だからだ。そこまでの軍勢を描くとなると、単なる小競り合いでは済まなくなる。きちんとした戦略や戦術を持ったほうが勝利を収めるだろう。吉武遺跡での三つの気がついたこと、や板付遺跡での違和感についても、否定はしなかったのには、私は大いに勇気付けられた。素人の私にとって大切なのは事実の確認ではない。現代の研究に大きな矛盾を起こさない限りでの「想像の広がり」なのである。ただ、吉武の「飯盛山にひとつも遺跡がないのはおかしい」ということに関しては、「まだ一度も発掘作業をしていないので、これから発見されるかもしれない」とは言っていた。話は遺跡整備の話に移る。竹下総理の頃は「ふるさと創生」で、いくらでも予算が取れたらしい。「もういまや、すべてが節約で大変です。吉武にしても国定遺跡になって20年以上経つのに手付かずのままです」いやいや、岡山と比べると、考古学に対する金のかけ方は雲泥の差です。吉武遺跡の大型建物の想像模型が展示されてあった(写真)。確かにこれもひとつの可能性だろう。でもあの土地にこれがでーんと建つことに何の意味があるだろう。今日はこれから小郡の九州歴史資料館に行く予定だ。時間を見ると、3時を過ぎていた。私は充分に時間があると思っていたのだ。二つ勘違いをしていた。4:30入館締め切りで5:00閉館だと思っていたのだが、4:30閉館だったのだ。埋文の最寄の駅から10分くらいでいけると思っていた。しかし実際は西鉄の電車で30分もかかったのである。三沢駅から小走りで坂道を行きました。資料館の全貌が見えたときにはまずい、と思ったのです。思ったよりも大きい。4時10分到着。20分で見るにはあまりにも史料が素晴らしかった。いわゆる厳選されている。もう二度来れないだろう。非常に残念だ。このあと天神まで帰った。うどんウエストでモツ鍋を食べた。どこでもよい、ともかく天神でモツ鍋を食べたかったのだ。2人前580円、190円の焼酎で食べる。。最後にちゃんぽん麺を入れた。うどんではなく、ちゃんぽん麺というところが天神なのであった。今日はよく歩いた。もういまさらホテルに泊まる気がしなくなった。最後の夜も博多駅前ネットカフェCybac(092-432-3189)の期間限定サービス12時間1780円で、禁煙ブースのフラット席に泊まる。7時について、コンビニで買ったビールとツマミを食べながら、この日記を書く。今日の歩数 32088歩
2011年08月15日
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8月3日(水) 夏旅5日目朝はマックで昨晩書き足りなかった日記を書く。博多駅を出たのは九時。この旅一番の晴天だ。去年も同じ時期に大阪の街を歩いて、生まれて初めて熱中症の恐怖を味わった。今年はあの時と比べるとずいぶん涼しい。今日は福岡市教育委員会作成、博多区文化財探訪マップを利用して、博多駅から奴国を半日かけて歩こうという目論見である。比恵遺跡は説明石の通り。ビルの合間にひっそりとあった。このあたりは三階以上の建物が山のように建っている。どうして遺跡として残っているのがここだけなのか。東光寺剣塚古墳。アサヒビール博多工場のなかにある。門の守衛の人に言うと、資料と記念ステッカーをくれた。ビール会社は遺跡を壊すのではなくて観光宣伝として利用する道を選んだようだ。確かにコストはこちらがかかる。長い目で見てどちらが得か。長さ75m、福岡平野では最大級の前方後円墳である。六世紀中ごろ築造。横穴式石室であり、江戸時代から知られていたらしくきちんと祭られている。歩いて10分ぐらいすると、那珂八幡宮に隣接して那珂八幡古墳がある。三世紀末の長さ75mの前方後円墳で、三角獣神鏡が出土している。九州では最古級の前方後円墳だが、残念なことに主体部が宮の下なので詳しいことはわかって居ない。そこから竹下駅方向に少し歩いて、左に折れてセブンイレブンのあたりに那珂遺跡の説明パネルがあるはずなのだが探してもない。今回は二人のそれらしい人に聞いた。日本でも韓国でも、遺跡の場所を知っている人はたいていは年寄りの男性である。普通は近所に住んでいても知らない。弥生遺跡なんか発掘すれば跡形もなくなるのでなおさらだ。流石に日本のほうがきちんと聞けるので見つけやすい。「そんなパネル、この辺りじゃ見ないなあ。那珂遺跡じゃないかもしれんが、向こうの保育園の前にパネルがあったよ」と、おじいちゃんが教えてくれた。いやいや、見事に那珂遺跡のパネルでした。しかし、この教育委員会発行のマップ、地図と場所が違うじゃん!!昼食は途中たまたま寄った達磨ラーメン。今回の博多ラーメンは合格に近い。ただスープはよかったのであるが、麺が個性がなくて私はなんか博多ラーメンは物足り無く感じるみたいだ。那珂君休遺跡は板付の交差点からの通り沿いにマップで印しているので行って見るが無い。結果、またもとに戻って弥生小学校の中にあった。ここは古墳時代の水田跡が足跡さえも綺麗に残っていたそうだ。弥生時代の井堰から大量の農具が出た。ちょうど運動場あたりに遺跡が広がっていたそうだ。ここから板付遺跡は直ぐだ。前にも来た事はあるが、今回は弥生米が青々と育っていた。ここの環濠は十二分に防御の機能は持っていたと思う。広く深い溝が掘られていた。しかしやっぱり中に入る住居が少なすぎる。後で聞くと、住居跡は後代に削り取られていて、一切残っていないということだった。やはり環濠の役割は『村としての区切り』という説が有力のようだ。環濠の登場が戦争の始まりだという説明はすでに過去のもののようだ。教科書ははたして書き換えられているのだろうか。以前『板付遺跡』で言及した弥生の足跡の本物の石膏痕が資料館に展示されていた。その隣に自由に踏めるような足跡もあった。自分の足を合わせてみる。大きな違和感を二つ感じた。管理人のおじさんに訊いてみる。「自分の足と比べたんですけど、弥生人の足は思ったより小さいんですね?」「あれはね、かかとの部分が残っていないんですよ。本来はもっと大きいはずです」なるほど、納得である。「分かりました。それから親指が異常に外に向いているんですよ。私の足で試してみたけど、むりやり曲げてみても、とてもあんな形にはならないと思うのですが……」「ひとつは、靴を履かないで生活をすると現代人でも親指は広がるはずです。ひとつは、親指に力を入れた歩き方をすれば曲がります」私はまだ納得いかない。「少しは曲がるかもしれない。でもあの角度は人間離れしているとは思いませんか。弥生人は足がサルのように柔らかったのでしょうか。それとも躓きかけたからあのようになったのでしょうか」「確かに躓きかけたという足跡も残っていましたが、あのレプリカは違います。あれは総ての足跡があのような形なんです。実際、残っている足跡があのような形だったんだから仕方ない。そうだった、としかいえません」これは私の大きな疑問として残った。
2011年08月14日
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野方遺跡は昭和48年、団地整備をしている途中中学生が発見をする。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての住居跡である。2005年冬の旅の時にはこの遺跡を目指して迷ったり、お風呂に入ったり、道を訊いても渋滞に巻き込まれて結局分らず、諦めて伊都国に行ったのであった。念願の遺跡である。二つの環濠が発見された。小さな環濠は高床倉庫を囲んでいる。大きな環濠(直径100m)には最大7軒の住居があった。環濠の外にも3-5軒あったという。百間川遺跡のそれのように明らかに戦争に対する防御のための環濠ではない。展示館の管理人の人に「そうですよね」と聞いてみた。「おっしゃるとおり、濠は空堀で雨水などは近くの川に流れるようになっていました。濠の幅も飛び越えようとすれば飛び越えるぐらいです。おそらく自分たちはここに住んでいるんだ、という区切りのためだったのではないでしょうか。お前たちはここに住むものではない、ということになってしまったら環濠の外に追い出されたのでしょう」ただ、堀で区切っただけでそのような力があることに私は疑問を抱く。環濠の中にそれなりの祭祀装置はないのか。そういうことは聞いたこともない。吉武高木遺跡が弥生時代前期末から中期末で、この野方遺跡が中期末から始まっているからと言ってこの遺跡が吉武の後継遺跡とは捉えられないのだそうだ。吉武は王墓の町であるが、ここは「村」だからである。一時多くて30-40軒しか居なかった。弥生時代、石で錘を作り釣りもしてタイやスズキを獲り、石鏃、石包丁、石斧などを使って稲作や狩り、木の伐採なども行っていた。村長はいた。それなりのお墓はあり、中国製の銅鏡が副葬されていた。吉武の王を支える村のひとつだったのには違いない。写真は中期の日常土器。少しびっくりしたのは、住居跡がそのまま保存展示されているのであるが、形が長方形に近いのである。まるっこい四角といおうか。長方形は古墳時代に入って普及する、と思っていた私には意外でしかし思い至るところがあった。松菊里がまさにそうだったからである。この住居の両端が一段高くなって居る。ベッドではないかと書いていた。ありえる、と私は思う。丸丸も寝床の場所は決めていたからである。管理人は懐疑的だった。「寝床にしては狭すぎはしないですかね」うーむ、なかなか。遺跡前からいっきに天神に帰った。そこで270円の吉野家牛丼時間が閉まるのにギリギリ間に合い、昼飯。また、バスで市立博物館に行った。ここに吉武遺跡の遺物が一同に展示されているからだ、というからである。ここにくるのは二回目だけど、なんとまあ贅沢な造りか。写真禁止なんだけど、こっそり撮りました。これは板付遺跡の模型。私はこの博物館には大いに不満です。ひとつ。説明では、松菊里遺跡からストレートに板付遺跡に稲作が伝わったかのように書いているし、映像でもそうなっている。中国ルートはまったく無視されているし、そもそも松菊里からストレートじゃないでしょ。不満点。ひとつ。朝鮮との交流についての展示が多いのに、ハングルでの説明が一切ない。ひとつ。ほとんどの遺物に(時代)と(場所)の明記がない。例えばこの朱塗りの高杯は非常に個性的だと思うのだけど、一体どの遺跡の出土物なのか。一つ一つの遺物は流石に厳選されているけど、これじゃ意味がない!!!吉武遺跡の細形銅剣、銅鉾をみる。さすがにすらっとしていて、日本には見られない型だと一目で分かる。その横に中広型もずらりと展示されていて、これは分かりやすかった。もちろん、この博物館の展示の目玉は「金印」の実物である。おもったよりも小さく、そして金があまりにもきらきらしている。ご承知のように、ここが奴国だということを決定付けた遺物なので重要なのだが、あまり興味はない。国産らしき細形銅剣を「異型銅剣」として展示していた。いったん細形銅剣を作り出したけど、どうもしっくり来ないので中広型とか広型とかの銅剣、銅鉾を作り出したということなのか。民俗展示では、「山笠」の昔の見事なジオラマがあった。細い通りにむりやり山を入れようとしているところを、男たちは誇りを持って入れようとし、観客は驚きや喜び、いろんな表情で見上げている。思うに、ジオラマの傑作である。博物館から南に少し歩くと、西南学院大学のとなりに元寇防塁跡が残っている。昭和六年に史跡として整備したらしい。「神風よ吹け」か……。史跡としては、しかし興味深い。この石積み製法が進化してやがて城つくりに生かされるのだろう。さらに西には上部だけ残っている元寇防塁があった。地下鉄藤崎駅の近くには藤崎遺跡跡があると聞いていたのだが、行ってみてもなかった(後で駅構内に小展示があることを知った。残念)。さらに東に歩いてもうひとつ遺跡跡を探したのだが、見つからず諦めて夕食をコンビニで買ってネットカフェに戻る。今日はよく歩いた。カフェで生ビールを頼んでインターネットで「もしどらアニメ版」などを見ていたら寝込んでしまい、十分身体を伸ばさずに寝てしまった。この日も寝不足気味になってしまった。歩数 27374歩
2011年08月13日
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8月2日(火) 夏旅4日目7時前のバスに乗って吉武高木遺跡を目指す。上手くバスがつながらないので木ノ葉モール橋本北口で降りて歩いていくことにした。以前読んだ本では「弥生中期後葉の須玖岡本遺跡が奴国の王墓、三雲南小路遺跡が伊都国の王墓であることは間違いは無い。弥生中期初頭のこの遺跡は、それらの国に先立つ王墓ではないかとみなされています。」と書いていました。近くに橋本八幡宮があるので少し寄ってみることにする。落ち着いた神社だ。1482年柴田内蔵助重信父子創建ということで、武士の建てた神社である。のちに黒田藩主の別荘まで建てられるので地元の人の愛着が深かったようだ。若い女性が神社の空気を吸いに来ていた。槙と楠が幹の途中でつながった「きずなの木」があった。こういうのを大切にする心が嬉しい。地図で見つけた。次郎丸駅のとなりに紫式部神社あり。少し遠回りであるが寄ってみる。なるほど式部神社である。小さな祠があるだけで、謂れが全然書いていない。本来の神社から株分けでもしてもらったのかな。室見川を渡ってやっと着いた。田んぼが広がる何にもないところに吉武高木遺跡がある。この写真は大型建物跡である。東西の柱間が四間(9.6m)、南北の柱間が五間(12.6m)の規模で、床面積120平方m以上だそうだ。高床建物か土間式か未だに検討されているらしい。この説明パネルは去年三月に設置されたとある。1985年発掘なのに、ずいぶんと遅い。この広場からは王墓の跡が発見された。弥生時代前期末から中期末にかけてのおそらく日本列島最初の「くに」の墓である。ここから出た青銅の細形銅剣、銅鉾、勾玉などはほとんど朝鮮製で、墓は木棺墓と甕棺墓の二通りある。これは奴国の先駆なのか。今回現場に足を運んで、気が着いたことが三点ある。ひとつ。奴国では墓は丘に作っていた。しかし、ここはまったくの平地である。平地を墓にする思想は、いつから高みに墓を置く思想に転換したのか。ひとつ。そして、ここから見事に飯盛山(382m)が見える。この遺跡のどこから見てもこの飯を持ったような山が見える。間違いなく飯盛山は「特別な山」だったはずなのに、弥生遺跡がまったくないと言うのは返っておかしいのではないか。ひとつ。この山を越えていけば、実は伊都国の都に着くのだ。こんなに近いとは思わなかった。平地で言えば、奴国とつながっていて、距離で言えば伊都国に近い。この「くに」の運命はどうなったのだろうか。飯盛山に登りたくて、飯盛神社に行ってみた。九世紀に創建されたと伝えられている。建物は江戸時代中期のもの。珍しく常駐の神主がいた。ただ、登山口がはっきり分からなくて登るのは諦めた。バスで野方遺跡に一番近い停留所の壱岐南小入り口で下ろしてもらう。地図を見ると、側に「戸切人権の町づくり館」というのがあった。同和関連の資料館かと思い訪ねて見る(博物館フェチなんです)。そしたら、集会所なんだそうだ。公民館みたいな役割もしているらしい。今年四月にオープンしたばかりだが、なんと遺物も小展示していた。建物を作ったり、道路を作ったりしたときに出土した遺物の一部である(兵庫遺跡)。弥生前期末から古墳時代にかけての遺跡だった。弥生土器なんかほとんど縄文土器だ。「ここは当時日本でも最も国づくりが早くできた最新地域だったんですよ」と館長らしき人に説明したが、へぇという感じだった。なにしろ縄文土器そのものの言葉を知らないのだ。大きな新興住宅地のなかに野方遺跡はある。ここからも飯盛山はよく見える。地図を見ると、ここら一帯は新興住宅だらけだ。ゴルフ場と新興住宅地は弥生遺跡の宝庫である。微高地に弥生人は住むからである。住宅をしばらく歩くとやっと野方遺跡に着いた。
2011年08月12日
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丘から少しはなれたところに須玖岡本遺跡(平若B遺跡)がある。甕棺墓群が発見されたところである。住宅地の中で綱の張られたこの一角だけが突如聖なる森になる。不思議な空間だった。赤出遺跡・古墳。弥生時代から古墳時代にかけての集落跡で、ガラス勾玉の鋳型や青銅器の鋳型が出土した。また、最古級の鉄器工房跡が発見され、鉄器の生産が行われていたことがわかっている。ちょっとした小高い丘になっている。竹の本遺跡・古墳。前方後円墳だけが残っている。弥生集落があったらしい。このあたりはやはり一段たかい。ぐるりと戻ってもう跡形もないが、須玖岡本遺跡坂本地区をみる。鏡や銅矛などの鋳型や坩堝、銅滓など、青銅器生産を示す多数の遺物が出土した。青銅器を鋳造した工房跡がいくつも発見されている。写真は近くにある春日北小学校。その小学校を挟んで反対側に須玖五反田遺跡がある。説明版が住宅地の風景の中に溶け込んでいて、探すのに苦労した。たぶん当時もまるで平地の中に庶民のこのような仕事場などがあったのだろう。ここでは、ガラス工房跡が発見されたことで有名。明治32年最初に王墓の上石が発見され、甕棺の内外から多くの出土品があったという王墓の発見の場所はまったくの住宅地(須玖岡本遺跡)であった。一番大きい王墓なのになぜ平地なのか。後で資料館の人に聞くと、今でこそ住宅地ではあるが、ここはちょうど奴国の丘の丘陵地の突端に当るところだったらしい。覆屋にある甕棺墓はどちらかというと庶民の甕棺墓であって、ここには王墓といわれる甕棺墓がすぐ近くに密集していた。丘陵の一番上ではなく、突端に墓を設けるというのは、その後の古墳でもよく見られることではある。青銅器やガラス、鉄器の生産は平地で庶民が行なう。階層差が明確に出来ている。西暦前後、庶民と王の間には既に超えられない何かがあったのだろう。おそらくこの住宅地のどこかに王族の住居跡が眠っているに違いない。右下の白い二つのポチが奴国の丘資料館のとなりの甕棺墓の覆屋。左上の空き地が春日北小学校である。その間に王墓があった。遺跡めぐり、特に弥生遺跡めぐりは想像力がカギだ。遺跡を巡りながら、現代の家や道路を全て消し去り、昔の風景を想像する。それが楽しいのである。だからなんなんだ、といえばそれまでだけれども。ところで、現代。この周りの人たちはどこか様子が違う。ちょっと凝った「自宅」があまりにも多い。こんな家を見つけた。二階と三階の区別をつけていないのかもしれない。遺跡めぐりの途中にチェーン店のうどん屋に寄った。小麦屋だったけ。味は汁が濃い。あまり本腰ではない。それ以外は頑張っている。博多駅に戻って総合案内所で明日の吉武高木遺跡の行き方を聞いた。なかなかどうして日本の案内所も優秀でした。今日の泊まりは博多のネットカフェだ。最近のネットカフェは必ずフラット席があり、無料シャワーが付いている。韓国に負けない安宿ツアーは日本でも可能である。今日の歩数 16916歩
2011年08月11日
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8月1日(月) 夏旅3日目朝五時半に起きた。けれども路面電車の連絡が悪くて西に向かう電車に乗れたのは6:27。博多についてさらに福岡南駅に降りたのは12:30だった。これだけ電車に乗ると青春18切符はお得だという気になる。普通電車で九州入りは初めての体験だ。下関-門司間はさぞかし長いトンネルをくぐるのだろうと思っていたら、ちょっと暗くなったら直ぐ明るくなって、明るくなったらそこは門司駅という感じだった。「ここがほんとに九州 ? 」と、きょろきょろしたが、確かに幾つかレンガつくりの建物も見えた。明らかに「空気が違う」と思ったのは、小倉で鹿児島線に乗り換えたときだ。普通列車なのに、シート座席が豪華なのである。そして急行列車もみんな個性的な顔をしている。『吉備の国から、奴国に来た』と私は思った。ワンパターンですが駅前で博多ラーメンのランチセット。味は言いたくない。ただしこの店で念のために聞いた奴国の丘歴史資料館の場所が私の思っていた方向の反対だったのは聞いて正解だった。危なかった。福岡自衛隊駐屯地がすぐ側にある。珍しくも訓練している処を見ることができた。彼等はこういう訓練を日長一日しているのである。けっして災害救助が彼らの「主要任務」ではない。戦争が任務なのだ。須玖岡本遺跡には一度来ているのだが、もう20年くらい前の話で歴史資料館もまだ出来ていなかったと思う。今回来て見てやっと奴国の全体像が見えてきたと思う。弥生中期から後期始めにかけてもしかしたら倭国最大の国がここにあったのかもしれない。『魏志倭人伝』にいう(訳文)。「東南の奴国まで百里ある。そこの長官を?馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。」須玖岡本遺跡は奴国の王の都だったといわれている。資料館の入り口で青銅器の作り方を詳しく解説してくれていた。勉強になった。これは銅とスズを入れて炭火で溶かそうとしているところ。ふいごは作られているが、果たしてこういう形だったかどうかは明らかではない。ただし、鉄鉱石を溶かし、鉄を抽出するよりも簡単な構造だったのは確かだ。奴国の土器は須玖式というのだそうだが、こうやって見ると祭祀土器に赤色顔料が塗られていて、ひどく個性的だ。これは資料館から別に建ててある甕棺墓跡をそのままドームで囲ったところ。甕棺墓方式もついには吉備に流行ってこなかったし、精神構造はどこか違っていたのかもしれない。いうなれば、朝鮮半島の強い影響を持った王族が弥生中期全般にかけて奴国を駆け抜けたということなのかもしれない。AC18の奴国金印を受理した王よりも少し前の王墓の石蓋が奴国の丘に移築されている。なんか支石墓の変形のように思える。
2011年08月10日
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二日目の母親大会は一日分科会だ。私は討論型式の分科会には行かず、特別の映画を見て講演を聞くという楽な分科会に行った。「映画「父と暮らせば」を鑑賞 井上ひさしの文学・憲法九条を語る」小森陽一さんが講師である。好きな映画を見て、好きな小森さんの講演を聞けて、さらには九条の会の課題や原発の課題まで聞ける可能性があるなんて、なんて豪華な企画なんでしょ。映画はよかった。黒木和雄2004年監督。原田芳雄、宮沢りえ主演。二回目だけど、やっぱりこれは名作だと思う。映画を見る前に小森さんから挨拶があった。「黒木監督はずっと「自分は生き残ってしまった」という。自分の戦争の映画を撮るきっかけを作った作品です。井上ひさしと黒木監督の二人の才能とと原田芳雄と宮沢りえの迫真の演技を見てください。芝居では絶対に見られないシーンもたくさんあります。」午後からの講演でそれを深めるかと思ったらまったく違う方向に行った。小森陽一さんの講演要旨を書く。しかし、彼の講演は早口でしかも言ったりきたりするから、とてもまとめることが出来ない。だから、大まかこんなことを言ったとしかわからないのでご了承いただきたい。私の近著は対談集「記憶せよ、抗議せよ、生き延びよ」です。これは井上ひさしの言葉です。元はエドワード・トンプソンの「抗議せよ、生き延びよ」からとっている。ひさしさんはそれに「記憶せよ」を付け加えたんです。ひさしさんにとってこの芝居の脚本は長い助走期間があったんです。元は二つのことがきっかけだった。1975年昭和天皇の言葉です。「広島市民にとっては気の毒だったけど、やむ得なかった」これで最初に切れました。次ぎに80年代のときの首相中曽根康宏の言葉です。「病は気から。根性さえしっかりしていれば病は逃げていく」これで完全に切れた。切れるべきです。私がひさしさんと知り合ったのは86年ごろですが、そのころひさしさんは広島の図書館に通いつめ、二万とも四万とも言われる被爆者たちの手記を読んでいる。ひさしさんはこれを聖書だといい、写経のように書き写し、脚本を書くときは部屋一杯に貼り付けそれに囲まれて書いたのです。今や、井上ひさしさん、黒木さん、原田さんがなくなり、この作品の主要人物で生き残っているのは宮沢りえさんだけです。これは、私には偶然には思えないのです。作品の中で竹造の幽霊は娘の美津江に言います。「お前が生き残ったのは、その役割があるからだ。生き延びよ、おまえが語り継げ。それがダメならばお前の子供が、あるいは孫が……」ひさしさんはなぜ被爆者の言葉にこだわったのか。昭和30年代の後半ひさしさんは広島の被爆者に出会います。「あのころ死ぬのが自然で生残るのが不自然だった」という被爆者に出会います。「生き残っている私がどうして幸せになれるのか」それを励まして父の幽霊が出てくるのです。どう伝えるか、それがこの作品の中心にあります。手記を何万と読み込んで幾つかを取り出して、そこから言葉を生み出す。「爆心地の想像力」がこの作品の要にあります。映画の中で幽霊の竹造がエプロンをかけて、図書館司書の物語の読み聞かせで原爆の話をしろといって語り始める場面があります。幽霊なのに、映画なのに、そこだけスポットが当る。全部広島弁です。でも聞けば分かります。決して映像で語ってはいけない。これはこのように描かなければならなかった。全編広島弁の中、「おとったん」という言葉があります。このおとったんは広島弁ではない。そうですね?(会場肯く人多数)安心しました。しかし美津江が死者である竹造に呼びかけるとき、「……たん」という言葉が詩のように響くのです。ひさしさんは造語をしてしまった。一言のフィクションの中に、井上ひさしがかけた文学的な想いの丈が篭められている。なぜ、8月6日、9日原爆が投下されなければならなかったのか。昭和天皇が「気の毒だけどやむ得ない」といった。これは切れるべきです。ポツダム宣言のときに無条件降伏していれば‥‥‥。アメリカはソ連の参戦の前に日本を単独統治したかったために原爆を落としたのだから。戦後はこの核の材料を金儲けとして使っているのが原発でしょう。御厨という人は「戦後は終った。これからは震後だ」言ったけど、間違っている。広島長崎から震災を問い直さなければならない。どこから天災で、どこから人災なのか問い直していかなければならない。いま毎日被爆者が出ている。そういう状況から「父と暮らせば」を問い直していかなければならない。中曽根を見ると、かつての軍国主義者が原発主義者になった。4/26の朝日の中曽根のインタビュー記事「原子力と日本人」で、彼は原発政策を微塵も反省せず自慢話のように語っています。「戦後日本最大の問題はエネルギーだった。着目したのは原子力」「エネルギーと科学技術でいかないと、日本は農業国の四等国になる」1954年の3月3日、第五福竜丸の事故が国民に知られる直前に彼は同志と語らって独断で原子力の予算2億3500万(ウラン235)を付けます。この年は母親大会が始まった年でもあります。ひさしさんはこの作品の第二幕を書こうとしていました。生き難い世を生きねばならない。一幕で結婚した美津江さんは謙吉という息子をもうけます(同じすまけいさんが演じる予定)。そこでは原発問題や朝鮮人の被爆二世も登場してくる予定でした。被爆した日本を生きることとはどういうことか、を描こうとしました。結局これは書かれずに終りました。3.11以降、お母さんたちは直ぐに危ないと思い政府の言う前に逃げました。お母さんたちは賢明だった。それは広島長崎の経験があったからです。加藤周一さんは日本では言っていませんが、2005年私と北京に行ったとき、自分はなぜ医者を捨て文学者になったか述べています。戦後直後アメリカは原爆の調査をして加藤さんも参加しています(原爆傷害調査委員会(ABCC))。「アメリカは治療は一切しなかった。これは医療ではないと思い医者は止めた」と加藤さんは言いました。日本中に原発があるのに、沖縄だけには原発はないのです。なぜか。沖縄米軍基地があるからです。「お前が生き残ったのは、その役割があるからだ。生き延びよ、おまえが語り継げ。」この言葉、実は原発に『生き残った』われわれにむけて言われているのだと、そのとき私はおもったのです。このあと、隣の広島市立図書館に行って見ました。シリーズ展示企画として「スポーツと戦後復興」として、広島カープを立て直すためのカンパ活動の象徴、酒樽のカンパ箱が展示されていました。三階には郷土資料室があったみたいですが、そこには行きませんでした。比較的小さな図書閲覧室の中に郷土図書コーナーがあり、大きなスペースを持っています。そのさらに三分の二は原爆関係の図書でした。井上ひさしさんはおそらく三階に何度も足を運ばれたのでしょう。関係ないですが、チキンラーメンバスが通っていました。繁華街に行って、少し書き物をして、八丁堀の福屋八階の八丁座に行きました。日本一のシートに座って映画を見たかったからです。二時間座って、まったく疲れを覚えない、(昨晩ほとんど寝ていないのにかかわらず)全然眠たくならない、素晴らしいシートでした。この日は「歓待」という映画(他のところで記事にします)をしていて、主演女優の杉野希妃さんの舞台挨拶がありました。宿泊は昨日と同じネットカフェに泊まった。今日の歩数 19008歩
2011年08月09日
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7月31日(日)夏旅2日目泊まりは紙屋町のネットカフェだった。フラット席である。ナイトパック8時間1500円。安いほうだ。ところが、しっかり眠るためにフラット席を選んだのに、全然眠れなかった。冷房の風が直接当るのだ。少々の寒さには強い私が我慢できなかったのだからそうとうなものだと思っていただきたい。とうとう夜中の三時に苦情を言って場所替えをした。五時の出店までほとんど眠れなかったのはいうまでもない。店は「迷惑をかけた」と言って一割引をしてくれた。許そう。今回の旅は長距離移動は青春18切符、五泊のうちホテルに泊まるのは一泊のみと自らに課している。あくまでも韓国旅行と同じ貧乏旅なのである。すぐ近くの平和公園を散策した。時間があるので碑めぐりでもしよう。原爆ドームを眺める。夾竹桃の花が咲いている。レストハウス(旧大正屋呉服店)は1997年市が解体計画を発表したとき、「今の平和公園は被爆前は四つの町の繁華街だった。そのなかで唯一倒れず残り、地下室で一人だけ奇跡的に生き残ったこの建物は、原爆と戦後の公園化によって二度ふるさとを失った私たちの街の墓標である」と強く保存を求める運動が広がり、11万を越す署名が市に提出された。そして残されたのだ。(母親大会資料より)昭和の雰囲気を綺麗に残した曲線である。○原爆遺跡はその場所にあってあの日の惨状を語り伝える文化遺産である。○原爆遺跡は「残った」のではなく「残した」のである。○原爆遺跡は世界のどこにも再現させてはならない。○原爆ドームを中心とした市内各地の原爆遺跡を活かした街づくり広島の人たちはこのような視点で原爆遺跡保存の運動を進めている。レストハウスの斜め向かいに原爆の子の像がある。全国各地から今年も無数の折鶴が寄せられている。ひとつだけこのようなメッセージをつけた折鶴があった。このような像をけっしてフクシマに建てさせてはならない。今の状況では時間の問題だ。平和公園は原爆資料館と原爆ドーム、そしてこの原爆死没者慰霊碑を一直線に結ぶように設計されている。優れた設計である。ただし、この言葉「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は主語があいまいで、結果的に核兵器を開発推進してきたものたちの責任をあいまいにさせる役割を果たしてきただろう。この慰霊碑の説明文がライオンズクラブによって作られているのは、けっして偶然ではないだろう。その財界と政府が戦後原発を開発推進してきた。そのことは、この広島の地できちんと押さえておく必要がある。今年、沼田鈴子さんがなくなった。けれどもアオギリの木はあと何十年も何百年も生きていけそうに元気だ。広島の町を歩けば、平和公園以外にもおおくの被爆跡が見て取れる。これは爆心地360mの位置にあった旧帝国銀行跡。今は改修を重ねてアンデルセンというパン屋さんになっている。少し歩いて袋町小学校平和資料館に寄った。昨晩はもう閉まっていたのだが、建替えた新しい運動場では夏祭りをしていた。同じ夏祭りでも、爆心地から460mの市にある此処では「慰霊夏祭り」になる。なぜ此処に来たのか。「ヒロシマ-壁に残された伝言」という新書を読んだからである。被爆当時、鉄筋コンクリート製だった西校舎は外郭を原形をとどめた。よって、被爆直後から被災者の救護所として利用された。その壁面には、被爆者の消息などを知らせる「伝言」が奇跡的に残っていたのである。この資料館にはそれが展示されているという。私はいつも現場主義である。本で読んだところは現場に行きたくて仕方ない。実際に行ってみないとわからないことは、あまりにも多いと思う。新書では、後の広島平和宣言を初めて起草した市の職員が妻の居所を明らかにするために柱に書いた「患者 村上」の文字を見て娘は平和運動をするきっかけになったというエピソードがあった。その文字は、表札のような大きさかと勝手に思っていたのだが、実際はとっても大きくはっきりと書かれていた。お父さんは、絶望が交差するあの忙しさの中で「はっきり」としていたのである。おそらく人類に課された初めての最大の悲劇を前に自治体職員としてすべきことをはっきりと自覚しながら生きていたのだろう。当時は鉄筋三階建ての校舎で、しかも地下があった。だからこそ此処で三人の生徒が生き残っている。現代の校舎と見間違うかのごとくしっかりとしたつくりだ。漆喰もきちんと塗られている。だからこそ、チョークで書かれた文字が(後に漆喰で上塗りされて)後まで生き残ったのだ。管理人のおじさんに少し聞いてみた。「(造られたのは)昭和12年、当時は広島では二校しかない鉄筋コンクリート製だったらしいよ」昭和というと木造校舎しかないと思われがちだが、現代のさきがけはいつも何十年も前から始まっている。建築は特にそうだ。現代の何が残り、何が淘汰されていくのか。想像すると面白い。現代の小学校は街中にあるためかさらにモダン、そして児童館と一緒に作られており、財政的にも厳しそうだ。さて、いい時間になった。母親大会の分科会に行こう。
2011年08月08日
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タグサービス終了につきまして という「お知らせ」が突然あったようだ。楽天ブログでは、2011年8月10日をもちまして、タグサービスを終了させていただきます。タグサービス終了に伴い、以下、3つの機能が利用できなくなります。?管理画面での「タグ」の設定?ブログ画面でのタグ検索?設定したタグの編集・削除また、ユーザ様のブログに表示されていたタグも利用できなくなります。タグに関しては「TB廃止」のような衝撃はない。他局ブロガーに迷惑をかけることもない。けれども結局、これもブログの中の「連帯」機能の縮小である。そして、今までこまめにタグ設定していたのをまたもや一瞬で消し去るという暴挙である。今後このような記事を書いたところで、TBがないから他の同じような記事を書いた人にTBできない。タグがないから、タグに付いて書いた人を瞬時に検索できない。他の人たちが今どんなことを書いているのか、分らなくなる。それをたどって検索して「お気に入り」に入れて、ブロガー同士が仲良くなるというようなこともなくなっていくだろう。これは楽天のブログ廃止への二里塚なのだろうか。そろそろ引越しの準備を本格化したほうがいいのかもしれない。
2011年08月07日
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7月30日(土) 夏旅一日目日にちを入れるのを忘れていました。昨日の続きで母親大会のメイン講演、湯浅誠さんの話を紹介します。昨日のある会合で「母親大会の湯浅さんの話は思ったよりはよくなかった。やっぱり彼も政府側の人間になったということなのかな」という世間話が耳に入った。おそらく、政府批判が一切なかった為にそう思ったのではないかと推測した。私は違うと思う。彼は政府参与になる前も後も、政府にしろ、その他団体にしろ、利用できるものは利用する、という態度で一貫している。彼の目的は政府批判ではない。他にある。湯浅誠は学者でもなく、政治家でもなく、広い意味での活動家なのだと思った。彼女は湯浅さんから「求める人は求めるばっかりで、作るのはおろそかにしがちです」と批判されたことに気がつかなかったのか。それとも、批判されたから反発したのか。以下私なりの講演の内容を「まとめ」てみたい。文責はもちろん私です。「貧困をなくし、人間らしく生きられる社会をつくる」皆さん、子供は何人おられますか?(手を上げてもらう。2-3人が一番多い)私の父は13人兄弟だった。今日のテーマのなかの「人間らしく生きられる社会をつくる」誰が作るのか。私たちが作る。どうやって作るのか。このとき二つ大事なことがあります。「つくる」ことと「求める」ことです。つくる、それは地域、状況、時代によって違うでしょう。障害を持った人が社会参加をするために作業所を「つくる」。誰に言われてするのではない。仲間に話して「あなたも困っている。私も困っている」と、そういう広がりががあって、政策支援、制度的なものを「求める」ということがあって、社会に求めていくのでしょう。私はホームレス支援を95年からはじめた。きっかけは単純で友達がしていた。誰かにしろ、といわれたわけじゃない。「つくる」と「求める」はセットです。言うは簡単だけど、難しい。作る人はただそれだけで一生懸命で手一杯でなかなか求めることが出来ない。求める人は求めるばっかりで、作るのはおろそかにしがちです。二つはセットにしないと活かせない、説得力がない。私はホームレス支援をしてわかったことが一杯ある。作らずして求めるのは弱い。求めずして作るのも社会状況が変わる中でだんだんと疲弊していく。いま、高校中退の問題をしています。高校中退は増えています。私はホームレス問題で早く対応することが大事だと気がつきました。彼等は小中で躓いた人が多い。そこでつながりが切れる。ずーと低空飛行を10-30年間した人が大勢いる。そこから回復するのは、とても大変。個人的にも、周囲もそうです。前、講演の後定時制の先生が言って来ました。「外国の人が多くて、彼等は日本語が喋れない。家庭環境が悪くて、お母さんの対応までやっていられない」学校の労力がないからさよなら、じゃなく、サポート体制を地域でつくること、中退する手前でサポートする人、中退してもサポートする人が必要です。いま未婚率がどのくらいかご存知ですか。30代前半ではほとんど五割です。20代後半では六割です。ちょっと前の常識は常識ではないんです。結婚したくない人が増えたのでしょうか。そうじやない。九割の人が結婚したいという。みなさんの娘さんになぜ結婚しないか聞いて見るとこういう答が返って来るでしょ。「いい人がいない」。いい人とは何でしょうか。性格、容姿、経済力でしょう。こういうデータがあります。25-35歳の女性に相手にどのくらいの年収を求めるか聞くと、七割が400万円以上だという。贅沢でしょうか。一方、同年代の男性で400万円以上のひとは二割しかいないという現実があります。いい人がいない、というのは経済的なことに落ち着くのです。働きたいけど働けない人は失業者です。結婚したいけど結婚できない人にはまだ言葉ができていません。でも、バブルが弾けて就職氷河期になって出来た言葉「シュウカツ」というのがあって、いま「婚活」が必要になってきている。結婚するためには(結婚)活動家にならないといけない。生涯未婚率(50代での未婚率)は増えてきています。1950年代は1%、1970年代は2%、2005年は15%でした。2030年には30%になるといわれています。そこでふと気がつきます。就活、婚活とくれば、生活。生きるための活動です。ぼーと生きていけると思うなよ、生きていこうとするならば活動家になれよ、といわないといけなくなっています。笑い事じゃない。若い人の死因のトップは自殺です。三万人以上自殺するのが13年間続いている。国際的に見て日本より高いのは経済力が低くて、気候が厳しいところばかりです。ほんとに異常なのは、13年間続くと驚きがなくなってくること。異常なのが、異常と思えなくなってしまうのが、異常なのです。毎年の交通事故死は何人か。5000人です。毎年の他殺は何人か。減ってきていて600人です。日本は他人に殺されるより、自殺のリスクが50倍、交通事故死よりも自殺のリスクが6倍高いのです。子供さんが外に出るとき、「車に気をつけてね」と声かけるけど、その六倍のわりあいで「あんた、生きてね」と言わないとちゃんとリスクにあった声かけにならない。貧困率は2006年が15.7%、2009年が16%。子供の貧困率はその三年間に23万人増えた計算になっています。貧困状態が16%もあるような社会じゃ回っていかないのです。一人ひとりはそれぞれの力を持っている。それを出さないと回っていかない。3が出来て7が出来ない人に「おまえ7ができないのか」と言って切り捨てるのは3を失っているのです。私の兄は障害者で印刷の有限会社で働いています。キーボードを打つスピードは私の1/10ですが、幸にも兄はそこで25年間働いている。もし兄の働く場所がなかったら、ずっと家に引きこもっていただろう。母はいま社交ダンスをしていますが、それができるのも兄が働きに出ているからです。兄が働くのは、兄にとっても、母にとっても、そして私にとっても、社会にとってもプラスになっている。いま、これを社会的に換算できないのです。障害手帳がなくても求めている人はたくさんいます。貧困や自殺は人の心に傷を残します。震災でも生き残っている人は自分を責めますよね。13年間で40万人の人が自殺しました。遺族は100-200万人です。この人たちは自分を責めている。心の瑕は簡単には癒えない。気持ちが前向きにならない。そしてその気持ちは伝染します。自殺を一人阻止する、貧困を一人阻止する、一人であっても社会参加することに対する波及効果はおおきい。マイナスとプラスの差は、とても大きいものがあります。それが社会への活気を作っていく。人間らしく生まれる社会、それぞれが役割を持って社会を作っていく、それはつくり、求めることで果たされる。私も目指すし、みんなも目指してほしい。でもあまり頑張りすぎないで、やっていきましょう。(感想)湯浅さんは、講演上手だと思う。話す対象によって、話し方をみごとに変えている。お母さん相手に明るく、難しい言葉は一切使わず、笑いを何度もとって、言いたいことを言い切った。湯浅さんの関心が貧困から一歩進んで、貧困状態になる手前の社会をサポートする(言葉があるけど忘れた)方向に舵を切っていることがはっきりした。湯浅さんはこの五ヶ月ボランティアセンターの調整の仕事をしてきたはずで、彼から見た震災の姿を聞けるかと思っていたが、彼の引き出しは豊富で今回はまだ聞けなかった。今日の歩数 14430歩
2011年08月06日
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6日ほど、広島、福岡、山口を旅してきました。12回ほど短期連載します。日本母親大会in広島に初めて参加した。不思議な大会だった。どうしてあんないい加減な大会なのに、こんなにエネルギーが集まるのか。(あっ、いかん。だんだん世の女性の厳しい視線が……「そこまでいうのなら最後までいいなさい!」「はい、わかりました」)だって、事前に配られている大会決議案について決議するときは、長い文章を項目さえいわない。せめて事務局長が要点のみでも言うのかと思えば、三分で紹介して拍手で採択。大会アピールは三分の二をすっ飛ばしたし、途中一時間の長い休憩がある。これは休憩という名前の買い物時間。大物産展の買い物に、ものすごい人が群がる(写真参照)。それでいて、全国からなんと8500名も集まるという(延べで行くと1万を優に超える)。日本平和大会が2000名の壁を敗れないのに、なぜなのか。もちろん素晴らしい講演(私が行ったのはこれが目当て)と、感動的なクミコさんの歌声、そして全国の経験交流はあったのである。これが第一日目。そして二日目は何でもありの豪華な分科会が一日行われる(この分科会のひとつに吉永小百合が現れて脱原発を表明したそうだが、私はサユリストではないので行かなかった。よって彼女は見ていない)。生命を生み出す母親は生命を育て生命を守ることをのぞみますこのスローガンの下、平和、文化、教育、自治、なんでもありの話題が語られる。そしてこれがそのまま今回の原発事故にもピッタシのスローガンになっていることが分かる。ちょっと関係ないが、主催者挨拶の中で、現代の情勢を網羅的に出したときこのような言葉があった。「どうせ結婚は出来ないから」と、窓を開け放す女子高生ショックだった。この女子高生の「絶望」は「いっそのこと原発なんて全部爆発しちまえばいいんだ!」と言った定時制高校の学生の「絶望」とイコールだ。イヤ、むしろ深刻だ。日本は本当に被曝してしまったのか。今そうならないように、一生懸命頑張っているのではないか?甘いのか?母親大会のエネルギーとは、要は「壮大な井戸端会議」なのだろうか。もちろん褒めています。本当です。青春18切符を使い、ネットカフェに泊まり、さらにこのまま九州貧乏旅に出かけるという強行スケジュールです。ずっと避けてきた母親大会に金もないのになぜ参加したかというと、前に湯浅誠研究を始める、と言った以上久し振りに生の湯浅講演を聞く機会を逃したくなかったということなのです。それは明日詳しく書きます。
2011年08月05日
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