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11月27日付の日記について、補足というか、質問への回答をしておきたい。 そうなるだろうと予想しながら書いてはいるが、やはりああいう刺激的な書き方をすると、必ずムキになって反論する方々がいる。>「バイブル本」は科学的じゃないと批判しているが、科学や法律だけで人間の>価値は決められない。喜ぶ人がいるなら、そういう本も「あり」じゃないのか。誰も、「なし」だとは書いていない。私(弊社)が、非合理なものは書く気がしない、と述べただけである。ちょっと考えて欲しい。たとえば、タバコが、あなたにとって必要な気分転換であり、個人的価値観としては「あり」だったとしても、「科学的」に見て、発ガン性を否定することはできない。個々人にとって価値のあるものでも、科学的にどうかという問題はまた別だ。私は後者の次元の話を書いている。どうか、そのくらいの読解力と理性は持って欲しい。>お前だって、ライターで食っているのだろう。>「バイブル本」だって儲かればそれでいいじゃないか。>もっと素直になれよ これも価値観の問題だろう。「儲かればそれでいい」という価値観をもつのかどうかだ。持つこと自体をとやかくいうつもりはないが、私の考えでは、そういう了見なら、物書きではなく、金貸しや土地ころがしをすべきだと思う。原稿を書くというのは、本来、市場原理に見合わない労働であり、その売り上げの期待度についていえば、博打をうつようなものといっていい。しかし、取材・執筆・編集などは、どう端折っても一定の労働力と労働時間が費やされるものである。つまり、労働は地味な生産活動なのに、利益は博打なのである。こんな割の合わない仕事はないだろう。本当にお金持ちになりたいのなら、お金でお金を稼ぐべきであり、労働で稼ぐうちは、本当の金持ちにはなれないと思うが?資本主義というのはそういうものだろう。私は、どうせ、そんな割の合わない仕事をしているのなら、その仕事の醍醐味を楽しむ方向に活路を求めることこそがナチュラルな価値観だと思っている。自分の仕事の出来で原稿料より1円でも多く版元に返そう。書籍代より1円でも多く読者に返そう。そんな仕事ができたら、すばらしいじゃないか。その「結果」として、「お金持ち」になれるのなら、そのときは喜んでならせていただきたい。そうした決意も努力もなしに、はじめから、「お金持ち」ありきというのは、思考の逆立ちした、非合理な欲ボケにしか私には見えないのだ。
2003年11月30日
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1年が回るのははやいもので、もう書店には、パソコンで年賀状を作る素材集が平積みになる季節である。最近では、デジカメとインクジェットプリンタによって、業者に出さなくても、写真付きのカラフルな年賀状が作れるようになった。それもあってか、家族や子どもの写真をデーンと大きく載せた年賀状が年々ふえてきている。だが、私は個人的に、そういう年賀状が好きになれない。もっとはっきり言えば、押しつけがましく、非礼ですらあると思う。こちらは、年賀状の差出人と付き合っているのであって、その家族と付き合いがあるわけではない。そんな写真を載せるぐらいなら、自分の近況を書くスペースをもっとゆったりとったらどうなんだ、と思うことは、決しておかしな感想ではないだろう。本人が写っているものならまだマシで、中には子どもだけの写真を載せているものもある。そうなるといよいよ興ざめである。だから私は、自分だけはそういう年賀状は作るまいと気をつけ、自分のことを書くように心がけてきた。しかし、それはそれで気にくわない御仁がいるようだ。全く厄介な話である。つい最近の話だ。それまでシンプルな年賀状を作ってきた私が、取材でお会いした有名人とのツーショットの写真と、その年に上梓した書籍の表紙の画像を入れた年賀状を作った。別に自慢するつもりではないが、1年の仕事報告といったところだ。ところが、それを出したら、かつて、エディタースクールでともに学んだ仲間からの年賀状が来なくなってしまったのだ。それまで10年以上も欠かさず近況をやりとりしていた仲なのに、だ。彼女の場合、子供も持たずに仕事に励んできただけに、一旗揚げたいという気持ちは私よりも強かっただろう。それだけに、子育てに明け暮れていた私がいつの間にか自著を出すようになっていたことに対して、嫉妬を抑えきれず、関係そのものを絶つという露骨な反応を示したとしか思えない。嫉妬する前にオノレの仕事と向き合えと言いたいところだが、男社会の中にあって、自分の頑張りだけではどうしようもない部分があるのかもしれない。しかし、だからといって自分のできない(しようとしない?)ことをやっている人を遠ざけるというのでは、イジケ人生になってしまう。彼女には、内心では嫉妬していても、涼しい顔で今まで通りのつきあいを続けてほしかった。そしていつの日か、今度は私を嫉妬させるような近況報告が欲しかったなあと思っている。ところで、同じ年賀状でも、専業主婦で3人の子供を持つ友達からは「活躍しててうらやましいわ」という返信が届いた。そこには続けてこう書かれていた。「私も働きたいけれど子供の世話で忙しいから」。こうしてみると、子供主体の年賀状は、仕事をしない、あるいはできないことの口実に使われている部分もあるのではないか。仕事を通して自己実現を果たしている人に対して、円満な家庭を自慢しつつ、内心の焦りや嫉妬を覆い隠すことができる。それに、少子化とはいっても、女性が結婚して子供を産むのは珍しいことではないから、家庭自慢は仕事自慢に比べて、相手の感情を逆撫ですることはまずない。ほどほどの関係を保ちながら、自分の立場も確保できる、子供年賀状は便利な手法なのかもしれない。
2003年11月29日
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書き屋生活は、もはや「駆け出し」とはいえない年数に達してしまったが、まだまだ未経験のことはたくさんある。 たとえば今年、はじめて「ビジネス書」なる分類の書籍執筆を経験した。「はじめて」と書いたが、正確には、原稿買い取りで一部分の分担執筆の経験はある。が、まるごと1冊の本を書いたことはこれまでなかった。 ある会社と、別の企画の話が進んでいたのだが、それが流れてしまったため、“埋め合わせ”のような意味合いで、先方から依頼されたものだった。「○○さんの方でも悪いと思って、せっかく話を持ってきてくれたんだし……」 弊社の社長もそう言うので、断るのが悪いような感じでその仕事は引き受けてしまったのだが、弊社がこれまで「ビジネス書」を手がけてこなかったのは、それなりの理由があった。 率直に言って、「ビジネス書」ぐらいくだらない仕事はない、というのが、弊社のスタッフの統一見解なのである。 誤解のないように、定義を書いておくが、ここでいう「ビジネス書」とは、経済動向分析や社会政策解説ものではなく、日常的思考や経験則からある事実判断を説く啓蒙書でもなく、いわゆる「お金持ちになれる」だの「できるビジネスマンになれる」だのという「バイブル本」のたぐいをさす。 啓蒙書と「バイブル本」の線引きは難しいが、ないわけではない。たとえば、「なれる」「できる」というたぐいの文句のついたものは「バイブル本」と思って間違いない。パソコンの図解本とは訳が違うのだ。 科学や論理学をちょっと知っていれば、それらが「非合理」であることは縷説は要しないだろうから、ここでは解説はしない。ただいえることは、それらの本は、いわば社会科学分野の疑似科学ともいえるシロモノということだ。 自然科学分野の疑似科学本は、トンデモ本としての認定が比較的しやすいが、(読者の)価値判断という“イチジクの葉”をまとう「ビジネス書」なる「バイブル本」は、その意味でオカルト本以上に始末が悪いと私は思う。 しかし、閉塞感で未来を明るく展望できない現代では、「手っ取り早く答えを欲しがる」風潮があるようだ。書き手、読者ともに、こうしたまがいものに安易に手を出す傾向がある。まあ、「ビジネス書」を何十冊買っても、競馬や競輪をやるよりは、少なくとも「読書」なんだからいいじゃないかと思うかもしれない。 しかし、そうしたものの愛読者になることで、“理性が傷害される”後遺症は、誰も考えていないのではないか。「ビジネス書」なる「バイブル本」の著者たちは、書き屋魂に賭けて、オノレの原稿に対してそうした問題はないと言い切れるのか? 冒頭の「ビジネス書」の仕事に話を戻そう。 私は、手持ちのネタを使いテキトーにまとめて、1ヶ月ほどで200ページを書き上げた。「こんな(つまらない)仕事」と思っているからさして力も入らなかった。売れなかったとしても別にいいや、とすら思っていた。 それが出版されたのが6月(初版9000部)。翌月にははやくも6000部の増刷を決めていた。 嬉しいかって? いや、アホか、と思った。 買ってもらった読者に悪いが、何となく日本人の水準が窺い知れた気がした。 謙遜でも偉ぶっているわけでもない。私の「ビジネス書」の仕事は、やはり「バイブル本」なんだなあという確認から一瞬脱力し、そして複雑な思いがこみあげてきたのだ。 読者は、私の筆力にお金を出したわけではない。もちろん、論理構成に納得してくれたわけでもない。 自分の価値観を自分で磨き、自分の人生を演出するといったことが一切できず、しようともしない人間が、自身を説得し、納得させてくれる対象として「バイブル本」が欲しいのだけなのである。 そう、「バイブル本」は存在自体が読者のニーズであり、読者自身が私の本で「脳内プレゼン」を勝手にやって、自身の脳内で本の価値を勝手に高めてくれているのである。「バイブル本」の客観的実体はどうでもいいのだ。 こうなると、もう「バイブル本」というより、「オナニー本」だ。 私にそれがあるかどうかは別としても、一般に、「バイブル本」は、書き手のカリスマ性と読者の“オナニー”で成り立っているのではないかと思う。 だから私は、アホか、と思ったのだ。 もちろん、「バイブル本」でも売れないものもあるだろう。しかし、売り部数の多い少ないにかかわらず、「バイブル本」が、そうした宗教的な価値観によって成り立っている面は否定できないのではないか。しょせん、「バイブル本」は「非合理」なのだから、そこに帰結するのは全くの必然なのだが……。 青臭く気取るつもりはないが、仕事は、やはりお金よりも充足感と誇りをもてるものにしたいなあ、と心底思った。
2003年11月27日
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弊社の社長は、某学術団体の大幹部である。その中で年齢は若い方だが、このたび、最長老を、事実上、ある役職から更迭した。どこかの首相とは違い、まわりくどい嫌がらせも、大向こう受けのパフォーマンスも一切ない、団体の現状と将来を慮って、自ら恨まれ役を買って出た直通告だった。人間関係その他を案じて、婉曲にくすぐるしかできなかった最高責任者にかわって、相手に対する理路整然とした主張は、たとえるなら、まさに「直球勝負」といえた。かけひき・腹芸当たり前の日本社会では、さぞや、勇気と理論武装が求められることだろうと思った。当日記の掲示板を見ると、「直球勝負」なる評価が書かれているが、これは、決して誉め言葉ではないと私は謙虚に、冷徹に受け取めている。ある同業者も、自分の日記の中で、「変化球」的構成の文章に高い評価を与えている。私は、それを、当日記へのあてつけも含まれていると解釈している。どのような書き物にいかなる評価を与えるかは、その人の価値観であるからとやかくいうものではないが、その人達に一言だけ、言い分がある。「直球」自体をちゃかすアナタ、まずは自分できれいな「直球」を書いてご覧なさい。きっと書けないだろう。書けないから、ジェラシーとコンプレックスで「直球」を矮小化しているのではないかな?野球選手の直球は、年齢とともに減速する。しかし、著述における「直球」は、磨きを掛けることで、より速く、より重く、より深いものになる。私は、そんな豊かな「直球」を放れる書き屋になりたいと思っている。
2003年11月15日
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前回募集したテープ起こし。さっそくご応募いただきましたが、選考の上、あるプロの方にお願いすることになりました。他の方にはお返事差し上げませんが、この書き込みで通知にかえさせてください。応募してくださった方々、ありがとうございました。心の真っ黒な人にチャンスを差し上げようと、あえて挑発的に書いてお待ちいたしておりましたが、案の定、また正々堂々とこれなくて場外で力んでいたようですね。でも、誰にも相手にされなかったと。いや、面白かった。
2003年11月14日
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