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ピサはイタリアのトスカーナ州でも西のリグーリア海に面した街である。
教会自体のある広場は市内から少しはずれていて、アルノ川河口から10キロ程さか登った所に位置しているので、海に近いと言う感覚はありません。アクセスは、フィレンツェから電車で50分くらいで、斜塔へは駅からさらにバスで10分弱? フィレンツェからの日帰り旅行で行けます。
ピサと言えばロマネスク建築の斜塔のイメージから中世の街に思われがちですが、歴史は古く、古代ギリシャの植民都市として開かれたのが起源ではないかと言われる海洋国家だったそうです。
以来海港として、ローマ時代には海軍基地となり、中世にはジェノバやベネチアと並んで地中海に勢力を伸ばし、パレルモ沖の海戦(サラセン帝国との戦)で勝利すると、1162年に神聖ローマ皇帝より広大な領地と特権を与えられ、ピサの最盛期を迎えます。(その12~13世紀に街のモニュメントのほとんとが作られたと言われています。)
その後ジェノバとのリグリア海の利権争いで敗北し、サルディニア島、コルシカ島の利権を失ったのをかわきりに衰退し、1405年フィレンツェの支配に落ちると歴史から消えていきます。
ピサの街は大聖堂(ドゥオモ)、鐘塔、洗礼堂、共同墓地(カンポサント)の複合体を一体とみて、「カンポ・デ・ミラーコリ(奇跡の広場)」と呼ぶそうです。(生まれて、洗礼し、教会に通い、死んだら墓に・・と言う一連の流れがそこにある都市計画は、古代ローマの典型だと言うことです。)世界遺産に登録されています。
写真左大聖堂(ドゥオモ)で右に鐘楼が配置され、写真手前左に洗礼堂があります。
大聖堂の建築はパレルモ海戦の勝利を記念して建設されます。(1063年に着工1118年に献堂)建築家ブスケートの作で、ロマネスク・ピサ様式の代表作です。装飾的なファサード部分(正面)は40年後にライナルドによって増築されています。
聖堂内部は、5身廊式で古代ローマのバシリカを思わせます。写真中央に下がっているのがガリレオ・ガリレイが、振り子の法則を発見したと言われているブロンズ・ランプです。
下が洗礼堂。
3つの層からなり。上部と中間がゴシク様式で、下部がロマネスク様式、高さ55m。どこにも書いていないが、ガリレオもここで洗礼を受けたのではないかと思われる。
下がピサの斜塔。本当ならただ美しいだけの鐘塔である。斜めになったからこそ世界にその名が知れた・。
大聖堂の鐘塔として建てられた6層の回廊を持つ塔(1173~1350)は、ボナンノ・ピサーノの設計。3層まで建築したところから地盤が沈下し、(このあたりはアルノ川の運んだ砂地らしい)4層目から角度の修正を加えて建築を続行し地上55m、階段は297段あり、重量は14,453t、。着工から180年近くかかり、ズレは4.5mとか・・。今は、これ以上倒れないようにされていると言う事です。(昔、熊谷組が工事していたような・・)
上に登る程、傾斜がきつく、落ちそうで端には寄れません。ちょっと危険でしたね。ぜったい今まで誰か落ちていると思います。
さて、ここは、ガリレオ・ガリレイが小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を、斜塔の上から落として実験した事で有名でもあります。
ここ、ピサを出身に持つ素晴らしい学者が二人います。
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)(1564~1642)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者です。もともとガリレイ家はフィレンツェ出身の小貴族でしたが、父の仕事で彼はピサで生まれます。17才(1581年)の時にビサ大学に入学し、医学を志しますが、在学中にピサ大聖堂のランプの揺れを見て「振り子の等時性」を発見。その後に数学・物理学に転向します。
25才頃ピサの斜塔から「鉄球落下の実験」を行っています。(これは当時の物理学で最高権威のアリストテレスの著作に反していたため認められなかった。)28才から46才までの18年間、パドヴァ大学の数学の教授となりますが、趣味か? オランダで発明された望遠鏡を改良して惑星の自転を見ていて「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見してしまいます。(コペルニクスの地動説を証明したわけです。)
天動説(神主体の・・)を主張する教会とは正反対であるので、ローマの異端審問所の宗教裁判にかけられる事2度。判決の際「それでも地球は動く」と言った言葉は有名ですね。彼のそんな業績から天文学の父と呼ばれていますが、一方カトリック教会の敵と見なされた事で、カトリックとしてのお葬式も墓にも当初入れさせてもらえなかったそうです。
現在墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれています。
(正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日に行われたそうです。)
裁判の誤りを認めた。法王によりガリレオの破門がとかれたのはなんと、その死から350年もたった1992年のことです。 (ニュースで見て、今頃? と思った。)
下はガリレオの眠るフィレンツェのサンタ・クローチェ教会です。
この聖堂は、ガリレオだけでなくミケランジェロ、マキャベリ、ジョヴアンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった著名なイタリア人の埋葬場所でもあり、そのことから(イタリアの栄光のパンテオン)としても知られているそうです。
ピサにはもう一人の偉人がいます。
レオナルド・フィリオ・ボナッチ(1170頃~1250頃)またはレオナルド・フィボナッチ(ボナッチの息子レオナルドの意)
「インドの方法」(modus Indorum)としてアラビア数字(私達が現在使っている算用数字)を紹介し、ヨーロッパに導入したイタリアの数学者です。(まだローマ数字を使っていた。)彼の「算盤の書」は簿記にもてきしていて、知識人に広く受け入れられたと言う事です。同時にもたらした「フイボナッチ数列」は有名です。
フィボナッチ数列の各項を一辺とする正方形
彼の名だったんですね・・。(インドの数学書にはもともとあったらしい。)彼もピサで生まれた人です。すごい発見ですが、一般にはあまりかかわりがないので知られていないのかも・・。
ビサは学者を生む素養があった街だったようですね。ピサ大学は1343年に創設された歴史の古い大学です。(今ももちろんあります。)それも地中海貿易で繁栄して、財力があったからなのでしょうか・・。
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