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ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。さて、記憶に残っている方もいると思うのですが、1994年(平成6年)10月2日~14日まで両陛下がフランス、スペインを御訪問した折りに宮内庁のミスにより、日本国家と皇室の名誉に傷のつく一大事件が起きた事があった。件の内容は、その訪問で陛下がつけるべき勲章を当地に運び忘れたと言うもの。さらに慌ててスペインに勲章を届けるはずが、宮内庁の凡ミスによって、運搬途中に大事な勲章そのものを紛失してしまったと言うお粗末な事件である。実際、勲章は晩餐会には間に合わず、陛下はスペイン王家から別の勲章を借りてその場をしのいだと言う。相手国の勲章を持ち込み忘れた上に失って、当事国に借りると言う非常に恥ずかしい出来事は、勲章の性質から言ったら切腹物の一大事件である。何しろその勲章は、訪問国であるスペインから賜った、世界でも限られた王族にしか授与されない大変貴重な勲章だったからだ。もちろんスペインでは最高の栄誉あるもの。そもそもそれを忘れるのもあり得ない話であるが、いくら3日前に気付いたとは言え、そんな大事な物をなぜ宮内庁の者が直接持って届けなかったのか? と言う疑問を持ったのを憶えている。※ 勲章は機長預かりと言う形で航空会社に依頼したらしいが、機長預かりは中身を確認しないで通関すると言うもので、機長が手に持って運ぶたぐいの物では無いと言う事を知らなかった?今回は宮内庁の失敗の話ではなく、その勲章その物の話なのであるが、それにしてもこの事件、いくらネットで探しても見つからないのである。やっとの事で見つけた記事は、唯一? 当時この件について追求した国会答弁の中にあった。参議委員会議事録 第131回国会 内閣委員会 第7号 平成6年11月24日(木曜日)「天皇・皇后両陛下の外国御訪問等に関する件」リンク 第131回国会 参議院 内閣委員会 第7号 平成6年11月24日情報が無い故に私はその続報を知らない。結局勲章は見つからなかったのかな?出て来る訳が無い。とは思っていたが・・。金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)勲章紛失事件金羊毛勲章(Toison d'or)騎士団の結成ブルゴーニュ公フィリップ善良公(Philippe le Bon)騎士の祈りの場 聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)・写真勲章(記章)のルーツ記章と紋章オーストリアの金羊毛勲章ブルゴーニュ公領のフランドル100年戦争と自由都市ブルージュフィリップ善良公(Philippe le Bon)とイザベル・ド・ポルテュガル金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳.金羊毛勲章(Toison d'or)勲章(くんしょう)は、15世紀に十字軍を想定して造られた金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の証。金羊毛勲章(きんようもうくんしょう)と呼ばれるもの。英語でゴールデン・フリース(the Golden Fleece)フランス語でトワゾン・ドール( la Toison d'or)日本では金羊毛勲章(きんようもうくんしょう)と和訳されている。つまり、この勲章は勲章(くんしょう)と言うよりは、記章(きしょう)にあたる。陛下が金羊毛騎士団の一員として選ばれた団員章と言うものであり、証でもある。最も、現在は爵位としてのみ存在しているにすぎないが・・。1430年、ブルゴーニュ公のフィリップ善良公により創設された騎士団は、後にハプスブルグ家の最大の騎士の称号として引き継がれてきた。現在はオーストリア家とスペイン王家に分かれて二つの金羊毛勲章が存在。天皇陛下が賜ったのはスペイン王家からの爵位。ウイーンの王宮宝物館(KaiserlicheSchatzkammer Wien)で撮影。映り込みの為に画像修正しました。カラー仕立ての首から提げる勲章。下がっているのは金の羊。このデザインは発足当初のもの。国会答弁の時はトワゾン・ドール( la Toison d'or)と呼ばれていたが、金羊毛勲章の方がなじみがある。羊はそもそも発祥の地フランドルの羊毛産業と、ホメロースの叙事詩にあるイアソンが金の羊を探しに行く冒険物語から由来している。騎士団の結成金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の創始は1430年1月10日。ブルージュにおいて、ブルゴーニュ公、ヴァロア・ブルゴーニュ家のフィリップ3世(フィリップ善良公)により、自身の3度目の結婚式での発表であった。フィリップ善良公(Philippe le Bon)は、神への敬意とキリスト教への自身の信仰の元に騎士団を結成。そこには騎士達の立場の確立も込められていたし、その先には十字軍の遠征の夢が込められていたと思われる。(結果的に十字軍遠征はなかったが・・。)骨子は3つ・今までブルゴーニュの為に尽くしてくれた側近たちへの感謝の栄誉。・現役の騎士達の地位の確立と、彼らの騎士としてのあるべき姿を明確化し、より騎士道に励むよう奨励。・将来騎士団の名誉にあやかりたい順予備騎士たちの励みとなる騎士団を造る事。当初のメンバーは公を入れて24人。23人の名前はその時に発表。メンバーの数は後に31人となり、カール5世の時代に51人に増員。※ 現在はスペイン王家版が18人。オーストリア家版が35人。メンバーは公開されている。詳しい経緯は、1431年、リールで行われた第一回金羊毛騎士団の会で公表される事になった。現役の騎士などは騎士としての規約が作られた。例えば騎士間の争いには、各騎士の行為に対して審理され、刑罰、戒告などがきちんと公表される。騎士道と言う物がテキストとして、公式に造られたと言っても良いかもしれない。ここに中世の花形、騎士文化が完成された?騎士道華やかなりし頃の時代背景もあるが、イングランドに伝わるガーター騎士団とガーター勲章 (Order of the Garter)が意識されて結成されたのは明らかである。※ 1348年にエドワード3世(Edward III)(1312年~1377年)によって創始されたイングランドの騎士団と最高峰の記章である。ブルージュのグルーニング美術館(Groeningemuseum)で撮影フィリップ善良公(Philippe le Bon)・・フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)首には金羊毛勲章がかかっている。ブルゴーニュ公フィリップ善良公(Philippe le Bon)金羊毛勲章を創設したフィリップ善良公(Philippe le Bon)は、ブルゴーニュ公国の最盛期の君主である。このブルゴーニュ公国の置かれた当時の立場。それは一言では伝えられない複雑さを持っている。最初の出自はフランスであるが、フランドルを手に入れてヴァロア・ブルゴーニュの時代が始まると事情は変わる。当時はイングランドと本家フランスで100年戦争が勃発していた頃だ。ブルゴーニュは立場、縁戚、立地、商売など諸々の事情で両者とかかわっている。小競り合いの戦いなど年中。このフィリップ善良公(Philippe le Bon)は、父の2代目、ジャン無怖公(Jean sans peur)(1371年~1419年)がフランス王位に感心を示したのとは反対に自身の領地拡大と保全に公領地フランドルに重きを置く。※ イングランドとフランスの間でふらふらしていたようにも見えるが、全ては自身の公領の為。それに対しては、確かにブレなかった。ネーデルランドに最大の関心を持ち、外交活動を駆使して領土を拡大。公領内は安定した政治。安定した経済活動で繁栄のピークを迎えたのである。騎士団の創設はそんな背景もあったし、経済的余裕もあったろうし、フィリップ善良公(Philippe le Bon)自身が聖地に赴きたいと言う夢もあったのかもしれない。そして、さらにブルゴーニュは、飛躍する。それは騎士設立の時のポルトガル王女との3度目の結婚によってである。ウィキメディアから借りてきました。フィリップ善良公と騎士達。ブルージュ市長舎ホールの壁画から市長舎ホールは、聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)に隣接している。2014年4月、「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)」で聖血礼拝堂について紹介しているが、ここが金羊毛騎士団の本拠であり、祈りの場となった。リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)騎士の祈りの場 聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)聖血礼拝堂入口。堂は写真左側、入口から階段で上り二階にある。下がブルグ広場。そして黄色の円が聖血礼拝堂。向こう隣が市長舎1376年~1420年に建立されたフランドル地方最古のゴシック様式の市庁舎。右に見切れているのが聖血礼拝堂リンク ブルージュ(Brugge) 6 (ブルグ広場 2 市庁舎)記章と紋章市長舎の壁面にはブルージュの諸侯と思われる石像が並ぶ。下には紋章が。紋章を囲むのは金羊毛勲章である。そしてそれは現在も同じく騎士の紋章に入れられる。下は現在のスペイン国王フェリペ6世の紋章。と現在の日本の天皇陛下が賜った紋章。前回、「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」の所でハプスブルグ方式で行われた分割の埋葬は2011年のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)が最後と紹介しているが、今は一般人になってはいたが、彼はまたオーストリア・ハプスブルク家が主催する金羊毛騎士団の主催者でもあった。2011年7月、オットー・フォン・ハプスブルクの葬儀には、スウェーデン国王夫妻、ルクセンブルク大公、リヒテンシュタイン侯爵など王侯の随員と共に、棺のかたわらにはビロードのクッションに載せられたこの金羊毛勲章が随伴すると言う最高の格式による騎士団の葬儀が行なわれたようだ。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓オーストリアの金羊毛勲章こちらも同じくウイーンの王宮宝物館(KaiserlicheSchatzkammer Wien)で撮影。上が表、下が後ろから撮影。冒頭、現在はオーストリア家とスペイン王家に分かれて二つの金羊毛勲章が存在していると紹介したが、おそらく、こちらは騎士団の主催者の記章ではないかと思う。下はウィキメディア英語版から借りてきました。オーストリアの金羊毛勲章のリボン記章。簡易版なのか? こちらが一般団員用の記章かは不明。1918年、ハプスブルグ家最後のオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。現在オーストリア・ハプスブルク家が主催する金羊毛騎士団は、ハプスブルク一族、旧ドイツ諸侯家などカトリック教徒の団員で構成されている。一方スペイン王国も革命によって王政が倒され共和制、王政復古、第二共和制、内戦と独裁者支配と内乱が続く。1975年、フアン・カルロス1世(Juan Carlos I)(1938年~2014年)が即位してスペイン王政が復活。王政が消えていたので金羊毛勲章も公の場からは姿を消していたのかと思いきや、明治天皇から今上天皇まで、天皇陛下4名全てがスペイン金羊毛勲章を受章しているそうだ。尚、スペインの金羊毛勲章は王家の与える勲章として存在。対象はカトリック教徒に限定されないが、一代限りとして、原則本人が亡くなれば返す事になっているらしい。勲章(記章)のルーツついでなので紹介こちらはブリュッセル王立美術歴史博物館からの宝冠実は誰の宝冠かは知らない。しかし、先ほど紹介した騎士の絵画の中で騎士が頭に載せているものに近い。この宝冠が後に首からかけるネック式の勲章に変わるのである。そしまた、この宝冠のルーツは、実は街を囲む城壁とタレットなのである。2016年01月「ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)」の中、宝冠と紋章 で少し紹介しています。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)せっかくまとめたので、ちょっとおまけ。そして、最後に金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳を入れてあります。ブルゴーニュ公領のフランドル今はブルゴーニュと聞くとフランスの田舎のような印象を受けるが、フィリップ善良公(Philippe le Bon)の時代、その所領はアルザス、ロレーヌ地方(ロートリンゲン)に及び、そして北方のフランドル(現ベルギー)とブラバンドを獲得してネーデルランド一帯を押さえていた。つまり一介の公領とは言え、北海からフランスの南部に至る国に匹敵する所領を持っていたのである。ブルゴーニュ公領はヴァロワ家時代に所領を増やした。ヴァロワ・ブルゴーニュの初代フィリップ豪胆公・フィリップ・ル・アルディ(Philippe le Hardi)(1342年~1404年)が1384年にフランドル女伯マルグリッと結婚し、フランドル伯領を手に入れたからだ。とにかくフランドルは盛況であった。ハンザ同盟のおかげもあり取引は増えて繁栄するブルージュは当時の欧州の交易所となり、金融セクターとなりこの上ない繁栄をみせていた。ブルゴーニュ公領の首都はディジョンからブルージュに移される。ブラバントの特産品となる亜麻草を利用したリネンの生産やベルギー・レースの取引。フランドルの特産品、羊毛は安価に対岸のイングランドより仕入れ、高級衣料や宮廷を飾るタペストリー等に加工され毛織物産業でもにぎわった。当然フランスも神聖ローマ帝国も取引先であったし、高級リンネルは欧州中の貴族が欲しがり、タペストリーは城や宮殿、バチカンで飾られたのだ。今の古都ブルージュからは想像のできない繁栄の都市であったのだ。※ フランドルのタペストリーにについてはサンカントネール美術館の所で書いています。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)今もブルージュにはその名残がある。水の都市ブルージュはオランダとはまたちょっと違う風情だ。下は現在は州庁舎である立派な建物だが、織物の屋内市場として1787年まで使用されていた。マルクト広場は市民の市場。広場には各種ギルドハウスも立ち並んでいた。この広場の広さだけでブリュッセルよりいかに規模が大きいかわかる。細切りにしないと撮影できないのだ。毛織物業者のギルドハウスの上に建てられた鐘楼。以前も書いたが、上質な高級品の織物のタペストリーは13~14世紀から需要を増し、フランスのゴブラン工場に持って行かれるまでフランドルの特産品であり、外貨かせぎの物品であった。ここに見える中世は、全て当時の冨の名残なのである。2014年03月「ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)」リンク 「ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)2014年01月2014年01月「サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)」リンク 「サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)運河は大分少なくなったが、かつての大動脈の運河沿岸には、豪商らの商館や倉庫が建ち並んでいた。水路をたどって商人らがブルージュまで買い付けに来ていたのだ。100年戦争と自由都市ブルージュフィリップ善良公はフランドルがブルゴーニュに併合され、ヴァロワ家支配になった3代目の君主。先述、フランドルの繁栄の事を紹介したが、それ故、冨を狙われた土地でもあった。立地では、東に神聖ローマ帝国、西にフランスに挟まれ、かつ北海はさんだ対岸にはイングランドが控えていた。必然的に英仏の100年戦争(1337年~1453年)の影響を受けたのである。そもそもフランドルはイングランドからは羊毛を輸入。それでフランドルの特産品の毛織物業で成功していた為にどちらかと言えばイングランド寄り。フランスはそれをよく思っていなかった。自由都市としての意識の高かったブルージュでは度々領主とも意見を違えてもめている。商売にじゃまな領主では納得しなかったのである。幾度かフランスの支配に落ちながらも気に入らなければ市民は戦った。フランスはブルゴーニュ公とフランドル伯の娘の結婚を画策。そこに広大なブルゴーニュ公領が誕生するのであるが、フランスの思惑通りには行かなかったのであるフランドルを得たヴァロワ・ブルゴーニュ公は、フランスからは独立性を維持し、イングランドともうまくやりたかった。何しろイングランドを敵にすれば市民からつるし上げを食うし・・。フィリップ善良公の時代は、100年戦争の終盤にあたる。どちらの国も戦費で疲弊してお金が無かったのである。そんな英仏の思惑にも翻弄されながらも、領地を拡大して、ブルージュに繁栄をもたらしたのである。もちろんブルージュの商人根性があっての話だが・・。ブルージュ(Brugge)の街フィリップ善良公(Philippe le Bon)とイザベル・ド・ポルテュガル1429年、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は3度目の結婚をする。相手はポルトガルのイサベル王女。イザベルの母はイングランド王女であった事から一説にはイグランドとの関係強化をねらった結婚であったと・・。しかし、イザベル自身が王女であるにもかかわらず兄達と同じように外国語、数学、科学を学び、政治学まで学んだ教養ある才女。(親の教育方針)※ イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)1430年1月、イザベルがブルージュ(Brugge) に到着すると10日に挙式をあげ、フィリップ3世(フィリップ善良公)はこの時に騎士団の創設を発表したと言われている。このイザベル・ド・ポルテュガルの才女ぶりで、後にフランスと和約。彼女はフランスから褒美に年金までもらう。そしてイングランドとも和平会談を整え、1439年の休戦協定を締結させる事に一役買っている。フィリップ3世がフィリップ善良公(Philippe le Bon)と呼ばれる理由は確かに安定した政治がもとなのだろうが、内助の功も大きかったのではないか?それに彼女の故郷ポルトガルとの交易はプラスに働いた。当時のポルトガルは同母兄のエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)(1394年~1460年)の許で航海事業が発達。ブルゴーニュの主要産業である毛織物の市場が東方(オリエント)まで拡大されたのである。※ エンリケ航海王子については「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 or 16」で、書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳金羊毛勲章であるが、フィリップ善良公(Philippe le Bon)とイザベル・ド・ポルテュガルの孫の代になって事変が起きる。フィリップ善良公の息子、シャルル突進公(Charles le Téméraire)(1433年~1477年)には一人娘しかいなかったのだ。娘の結婚は近隣諸国の感心の的になる。何しろ彼女と結婚すれば公領を相続できるかもしれないのだから・・。父の野心と相まって、結局ブルゴーニュ公を継承するシャルル突進公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)(1457年~1482年)の結婚相手は後に神聖ローマ帝国の君主となるハプスブルグ家のマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年3月~1519年)に決まった。.が、二人の結婚前にシャルル突進公はナンシーの戦いで戦死。それに乗じてブルゴーニュ南部はフランスにとられてしまった。マクシミリアン1世の活躍でフランドルは確保。二人は結婚し幸せな生活をするが、活発な美女マリーは第4子を懐妊中に落馬事故で夭折(ようせつ)。この悲劇がきっかけに、ブルゴーニュ公領もハプスブルグ家の傘下に入るのである。※ 後に、マリーとマクシミリアンの孫、カール5世(Karl V)(1500年~1558年)がマクシミリアン1世に次いで神聖ローマ皇帝になっている。因みに、愛し合っていたマリーとマクシミリアン1世であるが、マリーの棺にはマクシミリアン1世の心臓がいれられているらしい。そして、マリーの墓は父シャルル突進公の棺と並べてブルージュの聖母教会(Onze Lieve Vrouwekerk - in Bruges)(Church of Our Lady Bruges)に置かれている。リンク ブルージュ(Brugge) 11 (聖母教会)金羊毛勲章おわります。以前からやりたかったネタですが、大変でした。デンマーク王室のエレファント勲章 (Elefantordenen)の写真のせました。性質としては金羊毛勲章(Toison d'or)と同じ物。世界の王族も授与されている爵位の記章です。※ 日本の天皇陛下も授与されています。リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。関連のBack number 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)昔のなのでショートです。リンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)リンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません
2018年06月22日
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以前旧王宮の中にあるスイス宮の宝物館を紹介していますがウイーンの王宮とその一帯は 19箇所が、現在各種美術館やライブラリなどとして公開されています。広大な王宮(Hofburg)の周りに点在する美術館の場所や入口を特定するのは結構大変でした。前回紹介した「西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)」は新王宮内の「武器と鎧のコレクション」からの紹介でしたが、新王宮内だけでも以下複数の部門が入っています。その総称がはっきりしていないので新王宮美術館としました。Ephesos Museum(エフェソス博物館)Collection of Ancient Musical Instruments(古代楽器のコレクション)Collection of Arms and Armour(武器と鎧のコレクション)Austrian National Library (オーストリア国立図書館)Papyrus Museum /(パピルス博物館)Reading Rooms(読書室)今回は新王宮美術館の紹介ですが、ついでに新王宮前広場もいれました ※ 旧王宮にのスイス宮にある王宮宝物館については2014年11月「ハプスブルグ家の三種の神器」と2014年12月「聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)」で紹介しています。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)新たな宮殿の断念と滅亡へ進むハプスブルグ家ブルグ門(Äußeres Burgtor)英雄広場(Heldenplatz)と騎馬像新王宮(Neue Burg)新王宮美術館(Neue Burg Museum)ウィーンの王宮(Hofburg Wien)地図薄いブルーが市内環状道路であるリングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)リング挟んでますが、全部ひっくるめて王宮と庭園です。濃いピンクが新王宮部分。上部のレッドが旧王宮です。イエローがブルク門新王宮の前の庭園が英雄広場(Heldenplatz)です。広場宮殿側☆にオイゲン公(Prinz Eugen)騎馬像。広場左の☆にカール大公騎馬像新たな宮殿の断念と滅亡へ進むハプスブルグ家実は環状道路の上に凱旋門が建ち新王宮と現在の美術史美術館は繋がる予定だったそうです。そして同じく自然史博物館につながるよう新王宮の正面に同じ相対する宮殿が造られる予定だったそうです。下はウィキペディアから借りて来た絵に書き込み入れました。薄いブルーが:現在の道路(リングシュトラーセ)の位置ピンクの矢印が新王宮ブルーの矢印が幻の王宮新宮殿中止の理由については書かれていませんが、マリア・テレジア以降 縮小するハプスブルグ家。フランツ2世(Franz II) (1768年~1835年)(在位1792年~1835年)の時代には神聖ローマ皇帝も返上。フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位1848年~1916年)の時代に入るとオーストリアにはもっと悲劇が訪れる。イタリアとハンガリーの独立運動。1866年の普墺戦争ではプロイセン軍に首都ウィーンに迫られ不利な講和を締結。帝国内の民族問題。1914年のサラエボ事件(皇位継承者フランツ・フェルディナント大公のが暗殺)はオーストリアがセルビアに宣戦を布告しての開戦となった。それが世界を巻きこむ第一次世界大戦である。結果、第一次世界大戦は敗北。次代オーストリア皇帝カール1世(Karl I)(1887年~1922年)(在位1916年~1918年)は退位を認めなかったが、莫大な皇室財産のほとんどが没収された。オーストリアは共和国となり帝国はカール1世が最後の皇帝となって終焉した。新宮殿自体がオーストリア帝国崩壊直前に完成。さらに新宮殿の建設などと言っている場合ではなくなったと言うのが現状だったようだ。美術史美術館と自然史博物館が中途半端にある理由がわかった気がした ブルグ門(Äußeres Burgtor) 正確には城の外側の門である。環状道路リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)からのブルク門は新王宮前庭園に入る門。※ この撮影しているバックに美術史美術館があります。王宮側からのブルグ門ブルグ門(Äußeres Burgtor)かつてオスマントルコに包囲された1683年には街は城壁で囲われ要塞化されていたので外壁の一部として門はあったようです。イタリアの建築家L・カニョーラ(Luigi Cagnola)(1762年~1833年)の原案のもと現在の門はPeter von Nobileにより1824年建造。(たぶん新古典様式でしょう。)しかし、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は1857年に城壁の撤去を決めた。そして跡地にできたのが環状道路リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)だ。※ リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)については2010年の「カールス教会 1 (リンクシュトラーセ) 」で書いています。つまり門が造られた時点ではまだ城壁はあったが、世界の情勢が変わり各国が城壁を撤去する中で遅ればせながらウイーンも城壁を撤去せざるおえなくなった。(もしかしたらプロイゼンとの講和条約に入っていたのかも?)それで城の敷地の拡張がリングで分断されて不自然になったのだろう。リングができた時点で撤去の話もあったらしいが、1934年に門は改修。現在第一次大戦の戦没者のメモリアルになっている。新王宮前の英雄広場(Heldenplatz)からの門門の奥に見えるドーム左が美術史美術館。右が自然史博物館上の写真右に見切れているがテッシェンの大公カールの騎馬像である。英雄広場(Heldenplatz)と騎馬像もし計画通りシンメトリーに宮殿が建てられていたとしたらそこに凱旋門ができる予定だった?結局、英雄広場(Heldenplatz)には当初予定通りシンメトリーに二基の英雄の騎馬像だけが建てられた。テッシェンの大公カールの騎馬像 1860年設置勘違いしそうな名前であるが、カール大帝でもカール皇帝でもない。テッシェンの公(Herzog von Teschen)カール・ルードヴィヒ(Carl Ludwig)(1771年~1847年)である。1809年のナポレオンとの戦いにおいて総司令官として勝利。(それはナポレオンの初敗北)そして彼は英雄になった。新王宮の前にある対の騎馬像はオイゲン皇太子(Prinz Eugen) 1865年設置サボイのオイゲン公(Eugen von Savoyen)オイゲン・フランツ(Eugen Franz) (1663年~1736年)ハプスブルクの帝国で最も重要な将軍の1人らしい。新王宮(Neue Burg)新王宮とオイゲン公の騎馬像新王宮入口正面テラス上がヒトラーが併合宣言スピーチをした場所だそうだ。ハプスブルグ家の双頭の鷲1869年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位1848年~1916年)の為に計画された新宮殿は1881年に建設開始され1913年に完成。前述したよう新宮殿自体がオーストリア帝国崩壊直前に完成したので結局誰も住む事は無かった宮殿である。Ephesos Museum(エフェソス博物館)Collection of Ancient Musical Instruments(古代楽器のコレクション)Collection of Arms and Armour(武器と鎧のコレクション)新王宮美術館のチケットでエフェソス博物館と古代楽器のコレクションと武器と鎧のコレクション3つが見学できる。Ephesos Museum(エフェソス博物館)のブース以前たまたま「古代ローマ水道橋 4 (水道管とエフェソス) 」でエフェソスの遺跡を少し紹介しています。良いものだけが盗まれてボロボロになったエフェソスの荒廃はヒドイものです。その調度の一部がこんな所で見られるとは思ってもみませんでした。青銅と思われる彫像です。驚くほどパーフェクトなできばえです。現代の作品に思えるその製作の技術力に驚きます。下は石の彫刻のようです。左がセイレーンなのでおそらく右はオデッセウスと思われる。エーゲ海に近い現トルコ共和国のイズミールの南にあるエフェソスは非常に高度な文明を持った都市であったが、それ故にいろんな所から侵略された歴史を持つ。エフェソスと言えばケルスス図書館が有名であるが、その飾りが現地には何一つないのにここにあった(一部)のには驚いた。Collection of Ancient Musical Instruments(古代楽器のコレクション)のブースここにはたくさんの変わった形のピアノが陳列されていた。上のピアノは帝政様式のスタイルなのでナポレオン時代のものではないか?Collection of Arms and Armour(武器と鎧のコレクション)のブース武器と鎧のコレクションが内容的にも一番充実していた気がする。エフェソス博物館と古代楽器のコレクションの量は少なくちょっと物足りないかも・・。武具はまだまだ紹介したいものがいっぱい吹き抜けの天井画が素敵でした。ミュシャの絵を思い起こすスラブ系の女神と天使達。新王宮と美術館おわり
2017年01月20日
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さて、今回は写真中心でシェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )の美術館内を紹介します。何度も言ってますが、海外の美術館はほとんどが撮影OKなのです。アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )・州立ドイツ・バロック美術館祝祭の広間(Festsaal)ドイツ・ルネッサンス美術館(聖カタリナ修道院)シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )・州立ドイツ・バロック美術館フッガー家と同様、アウグスブルクの富豪で銀行家だったベネデイクト・アダム・リーベルト男爵(Benedikt Adam Freiherr von Liebert)(1731年~1810年)の屋敷がシェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )です。屋敷はマクシミリアン通り沿い。かつてのクラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)でも貴族の商館が集まっていた地域です。フッガー家もこの並び。前に紹介したヘラクレスの噴水の前にある。白い建物。もとはウェルザー(Welser)家など地元の貴族の邸宅だった所をリーベルト家が1763年に購入してロココ様式で建設。現在はドイツバロック美術館と州立絵画館になっている。マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)が踊った祝祭の広間の見事さは必見である。エントランス入ってからの大階段そもそもリーベルト家のメインはウィーン市民とミュンヘン法廷への銀の供給にあったようで、アウクスブルクへ移民してくるのは1733年の事。最初からアウグスブルクに根ざしたフッガー家とは少し違う。1769年商売の関係でアウグスブルクに本社が置かれ商館として建築されたのだろう。しかし、内部はできあがると本格的な宮殿で豪華な祝宴の広間が造られていて、まさに王侯貴族のしつらえ。見た事ない豪華さに周囲は度肝を抜かれたらしい。各広間の暖房機が目に付いたので少し撮影してみました。上の暖房機は鋳鉄(ちゅうてつ)製。陶磁器と思われる暖房機。以前「アウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)」の所「鋳物に見えて実は陶器製」の暖房機を紹介したが陶器製が先で鋳物はまだ贅沢品であったのかもしれない。逆に鋳物暖房機は産業革命のあたりからの大量品かも・・。デルフト焼きっぽい陶器の暖房機。上の白いのは磁器系なのかも・・。祝祭の広間(Festsaal)1770年5月16日、マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)が14歳の時、フランスに嫁ぐ時にアウグスブルクでの宿坊に利用された宮殿でもある。マリア・アントーニアの兄フランツ2世によって爵位を得たリーベルト家がそもそも彼女の結婚の為に造ったのか?宮殿のこけら落としにたまたま彼女に立ち寄ってもらって箔を付けたかったのか? 定かでない。天井の絵画は上がアメリカ大陸。イオロペの座す中心が欧州。下がアジアとアフリカ。実は銀のトレーダーだったヨハン・アダム・リーベルト(1697年~1766年)以降にリーベルト家はスパイスの貿易なども手がけて急成長している。これはその交易の広さを示す図なのかもしれない。ロココ様式の可愛らしさはドイツには無いものだ。やはり王女が宿泊する為にわざわざお金をかけた・・と言うのが正解かも。普通の商人にここまでのものは必要無いだろう。ドイツ・ルネッサンス美術館(聖カタリナ修道院)実際に現在教会は無いし、祭壇などもない。展示されているのはかつてどこかの教会に置かれて居た祭壇画が中心。アウグスブルクはプロテスタントに改宗した市民が多い為にどこの教会からもカトリックの調度品が大量流出している。その理由は前にゲントで書いた通り。もとはアレクサンドリアの聖カタリナを祀った修道院だっらしいがなぜ無くなったかについての記載はどこにもない。美術館はシェッツラー宮殿から繋がって鑑賞できる。Apt-Werkstatt 受胎告知ハンス・ホルバイン ベロニカ・ウェルザーの肖像 Bartholomaus zeitblomによるプレデラ(Predella)Mit Heligenプレデラ(Predella)は祭壇画の下部に添えられる絵画。シェッツラー宮殿おわり。次回大聖堂です。リンク アウグスブルク 8 (司教座聖堂 1 ゴシック様式の聖堂)
2016年05月24日
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アメリカの大統領選にからみ、今アメリカではとんでもない事態が起きている。共和党から出馬している不動産王のドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump)(1946年~)氏が共和党候補に選ばれてしまうかもしれないからだ。金持ちだが、政治は詳しくない。しかも白人至上主義で移民を排除しようとする政策を大きくかかげて皆の支持を受けていると言うのだから驚く。(かつてのKKK団のような人だ。)冗談だろ? と誰もが思っていたのだがこのままではマジに共和党の代表になり、大統領選挙となる可能性が本当に出てきたから大問題となっている。これに関してはワシントン・ポストが本当に危機感を抱き、新聞に大変な事態が起きようとしている・・と警告の社説を載せた。(この行為自体に世界が反応した。)また、ローマ法王も極端に民族を差別して排斥する彼に対して異例のコメントを出した。「彼はカトリックに非ず。」と言う内容である。※ トランプ氏は事もあろうにこのローマ法王の声明にも反論したのだから驚きだ。実際日本に対してもありがたくない政策を持つ人物だし、アメリカでももちろん良識のある人なら眉をひそめる人物である。もし彼が大統領になったら本当にアメリカはおしまいである。これは人ごとではない大事件なのだ。アメリカの大統領選挙については2012年11月「米国の選挙(U.S. Elections)」1~2で米国大統領選挙(U.S. presidential election)を詳しく紹介しているのでよかったら見てね。リンク 米国の選挙(U.S. Elections) 1 (選挙人)リンク 米国の選挙(U.S. Elections) 2 (ホノルル市長選)日本では選挙法に引っかかるが、アメリカの選挙では食事会を催し支持者に参加してもらう・・と言う会が平然と行われている。トランプ氏の支持者もそうして「ただ飯を食べられる」と言うので参加した人が増えたのではないか? と推察する。彼が勝ち進めば食事会はずっと続くし、グレードアップする。協力者には金銭も当然渡っているだろう。札束を毎回ばらまいても彼の資産はたいして減りもしないだろうし・・。造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)ボス(Bosch)最後の審判(The Last Judgment)前回に引き続き三連の祭壇画(triptych)の中央・・最後の審判と右翼・・地獄編です。ここ数日写真をセレクトしながら眺めていたのですが、内容について私ごときではやはり理解不能でしたただボスの絵は中世のその時の人々に風刺による大いなる教訓が含まれていた・・と言う事です。自身の愚かさや罪深さを独特のスタイルで表現。ただの滑稽な風刺画と異なり、彼の作品はおぞましさと恐怖とで異彩を放っている。(今の人には理解出来ない精神的背景があったのだろう。)造形美術アカデミーの三連の祭壇画(triptych)には最後の審判(The Last Judgment)とタイトルが打たれていますがヨハネの黙示録に忠実なシスティナ礼拝堂に見られる最後の審判とはどうも違います。左の楽園と右の地獄はなんとなく解かりますが中央は「これは本当に最後の審判図なのか?」 と言う疑問がぬぐえないのです。最後の審判とされる中央の図少し反射が入ってます堕落した人間は悪魔の餌食にされやすい。自身の愚かさや罪深さを表現しているのか?不気味な中にも滑稽なキャラの悪魔がたくさんいる。人を痛めつけている悪魔も・・人の有様か・・。ところで、絵の中のナイフであるが、ボスの他の絵の中にも時々ナイフが出てくるのだが、そのナイフには文字が刻まれていた。(拡大して気がついた。)M・・らしいが、何のMか論議されたままのようだ。メギド(Megiddo)のMならそこはハルマゲドンを示す。(終末の最終決戦の場所とされる。)あるいはこれは反キリストと呼ぶ者達を象徴するものとも・・。反キリストの予言はMから始まるとか・・。そうなるともしかしたらこの絵は反キリスト者の行為を示した図であり彼らの罪そのものかもしれない。戦争と言う行為もまた反キリストの行為か?神とキリストに反する反キリスト者についてはまだ勉強不足です解釈はいろいろ。ルターたちからすれば権力におぼれ聖書に反する、ローマ教皇すら反キリストに入れられる。納得いかないのがこの上部のキリストと12使徒。これこそ後に書き直された部分かもしれない。(実は近年の調査で16~17世紀に塗り直されているらしい。)下図の絵に対して絵もちょっと稚拙かもしれないし全体に意味が通らない気が・・。右翼・・地獄編?ここは反キリスト者が罪を受ける所かもしれない。サタンか?中の絵は戦争で燃える街? 右翼のこらはまるでソドムとゴモラのよう。神の審判によって滅ぼされる反キリスト達の裁きの場か?結論としてこの三連の祭壇画(triptych)は、左翼・・・楽園は人類の原罪中・・・・現世の有様、 (現世は疑惑と裏切りに満ち、人々は獣欲と蛮行におぼれている。人を魔物に具現化したものか?)右翼・・・地獄は悔い改めない者への裁き・・の図と言う事でしょうか?アカデミーで土産に買ったフィギュア Egg –monster 上の絵の中に登場しています。Back number 他リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス
2016年02月26日
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ウイーンではリング(環状道路)沿いのメリディアン・ホテル(Le Meridien Vienna)に宿泊。そのすぐ裏手に造形美術アカデミー があり「そこのボス(Bosch)の絵は見応えがあるので是非見てくると良い」と遊びにきたガイドさんに勧められました。確かに今ま見たヒエロニムス・ボスの作品では一番素晴らしい作品かもしれないわざわざでなければなかなか見学に行かないだろう場所なので細かく紹介します。予定外ですが、シラー像も載せました。日本人が大好きな第九の作詞者です。※ 2014年02月「ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス」でもヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)について書いていますので良かったら見てね。リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste) シラー(Schiller)像ボス(Bosch)最後の審判(The Last Judgment)フィリップ美男公分離派会館から近いと紹介されていますが、裏手からのアクセスになり看板や表示が一切ないのでどの建物がアカデミーか見つけにくいです。しかも入り口は回り込まなければならないからシラーの銅像を目指して正面のシラー公園からアクセスする方が解りやすいです。メリディアンの右脇の道からまっすく正面にシラー公園が見え1分かからない。ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)(1759年~1805年)ドイツ古典主義の詩人、歴史学者で劇作家でもある。ベートーヴェンの交響曲第9番(第九)の歓喜の詩(An die Freude)の歌詞を書いた事でも有名。因みにリング挟んだ反対側に彼と親しかったゲーテの像があります。対に設置されたのかも・・。ゲーテは彼の死後に彼の頭蓋骨をこっそり借り受け、ながめながら追悼の詩を書いたそうです。造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)欧州で最古と言われる美術学校が現在国立の大学となった造形美術アカデミーです。創設は1688年。宮廷画家のピーター・シュトルーデル(Peter Strudel)のプライベート・スクールが始まりで、国からの支援をうけて正式に学校になったのが1692年です。ネオ・ルネッサンス様式の建物は1877年4月に皇帝フランツヨーゼフ1世の元で落成。内部装飾は1892年まで続いている。(リングの完成に伴なってこちらに学校が移転されたのだ。)学生達の勉強の為のアカデミーの画廊は絵画館として一般公開されている。ヨーロッパ絵画部門ではウィーン美術史美術館に次ぐと言われるコレクションはボスだけでなくクラナッハ、ティツィアーノ、ルーベンス、レンブラント、ティエポロなども収蔵。因みにヒトラーが1907年受験して落ちた学校です。前年に自分より年下のエゴン・シーレが入学。美術も建築もあきらめたヒトラーが前衛芸術を嫌いアカデミーを弾圧下に置いた理由は憎悪だったらしい。最後の審判(The Last Judgment)三連の祭壇画(triptych) 164cm×247cm 左翼・・楽園(エデンの園) 中央・・最後の審判 右翼・・地獄、祭壇画なので裏にも絵が描かれている。(正確には祭壇画を閉じた時の扉にあたる部分。)モノクロームの絵画グリザイユ(Grisaille)である。使徒の一人、聖ヤコブ(Sint Jacob)は以前サンチャゴ・コンポステーラで紹介した通り、スペインの守護聖人でもある。反対には ゲント(Gent)の守護聖人 聖パーフ(Sint Bavo)実はこの三連の祭壇画(triptych)はフィリップ美男公の発注だった可能性がある。フィリップ美男公フィリップ(Philippe)(1478年~1506年) 通称フィリップ美男公ブルゴーニュ公(フィリップ4世)、カスティーリャ王(フェリペ1世)でもある。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーの長子。ボスを庇護していたフィリップ美男公は記録により1504年に274cm×335cmの三連祭壇画を発注していたらしい。今回紹介する祭壇画よりもう少し大ぶりな物であるが、それは現存していない。1504年と言う年は彼の妻ファナ(Juana)の母であるカステーリャ女王イサベル1世(Isabel I)が亡くなった年であり、彼の妻が王位を継いだ年である。彼はこの時妻との共同統治を希望してカスティーリャ王(フェリペ1世)になったのでその関係で発注された可能性が大である。祭壇画の扉にあたるグリザイユ手法の聖ヤコブ(Sint Jacob)はスペインの守護聖人であり聖バーフ(Sint Bavo)はかつてはフランドルの守護聖人であったからだ。因みに彼の母マリーは幼くして母を亡くし、父(祖父)の三番目の妻となったブルゴーニュ公妃マルグリット(マーガレット・オブ・ヨーク)に育てられたが、同じく早世したマリーに代わり彼もまた母の故郷フランドルでマルグリットに育てられた。その彼女が亡くなったのは前年の1503年である。この作品は1510年頃とされる。最初に発注した祭壇画のコピーか? あるいは別物の一点(真筆)なのか議論が続いていると言う。実はゲントは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーが結婚式を挙げた聖バーブ大聖堂があり、おそらくフィリップもここで育てられたのだろう。彼の子で後に神聖ローマ皇帝カール5世も幼少期にゲント(Gent)で暮らしている。もしかして本物であるなら、もとはゲントにあった可能性もある。ゲントは宗教改革のおりにカトリックの遺産が散々破壊されているのだ。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)三連の祭壇画(triptych)の左翼 楽園(エデンの園) 167.7cm×60cmこの絵はどうやら下から上に見るようです。アダムの肋骨からイヴを造る神様。これは創世記の話です。ヘビに騙されて善悪を知る知識の木の実を食べてしまうアダムとイヴ楽園を追われるアダムとイヴ。失楽園である。すなわちそれは人が最初に犯した罪。原罪である。神に反逆した天使vs神の僕の天使神派の天使に負けて地に落とされた反逆の天使は醜い虫の姿に変化。彼らは悪魔と呼ばれる者になる。十二枚の翼を持った大天使、「光をもたらす者」と言う意味を持つ美しいルシフェル(Lucifer)も神に背いた事により堕天使となり地に落とされ悪魔サタン(Satan)になる。この左翼の絵のタイトルが楽園になっているのが解せないです。次回中央・・最後の審判と右翼・・地獄、を紹介リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)
2016年02月22日
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Back numberをラストに入れました。ミュンヘンで日本人ツアーはたいていアルテ・ピナコテークに行くらしいが、個人の方はノイエ・ピナコテークの方に入る率が高いらしい。印象派など近代の絵画を収蔵しているノイエの方は絵の知識がなくても解り安いかららしい。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)クラナッハとルターティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)(1472年~1553年)Klage Unter Dem Kreuz 1503年Lucretia(ルクレティア)前回デューラーの所で紹介したのと同じ画題です。後年特にクラナッハはルクレティアに加えてイヴ、ヴィーナスなどの聖女の裸体を多く描いています。そして必ずと言っていいほど女性は裸体の上に当時流行の装飾品を見につけているのです。デューラーの古典主義と事なり、クラナッハの作品は画家の個性が強く独特の女性の姿に官能美があると言われていますが画題はそもそも女性の裸体を描く方便だったのかもしれません。Das Goldene Zeitalter(黄金時代) 1530年クラナッハとルター以前「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」の回でクラナッハの手によるマルティン・ルター夫婦の肖像画を紹介した事がありますが、ルターとは親友であり、意外ではありますが、宗教改革側の公認画家でもあったそうです。彼自身プロテスタントに改宗しているかについては書かれていませんが、ザクセン選帝侯を通してルターと親交を深め、宗教改革後はそれら教義にのっとった主題や神話画が増えたようです。クラナッハとルターに関しては別にとりあげています。よかったらリンク先見てね。2017年3月「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)」2017年4月「クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)」リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)..ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio) (1488年/1490年頃~1576年)盛期ルネッサンスのヴェネチア派の画家であるティツィアーノは私の好きな画家の一人です 腕は素晴らしいし、何より品格のある絵なので当時から王侯貴族が彼の絵を求めていた・・と言うほど。アルテに大作と呼べる作品はないが、美術書に紹介されるティツィアーノ作品は意外に多かった。それは特にカール5世のおかげかもしれない。1533年カール5世の宮廷画家になっているからだ。最もスペイン王でもあったカール5世(カルロス1世)の事情? ティツィアーノの大作はヴェネチアだけでなくプラド美術館にも多い。Die Eitelkeit Des Irdischen(地上の虚栄心) 年代不明であるが1515年頃ではないか?選帝侯マクシミリアンIのコレクションより聖母子と洗礼者ヨハネと寄進者 1520年頃?一緒に描いていたジョルジョーネとの共作に思える一枚であるが同じ主題で寄進者が異なる絵を他にも描いている。Kaiser Karl V(皇帝カール5世) 1548年カール5世(Karl V)(1500年~1558年)神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年)、スペイン国王(在位:1516年~1556年)アウグスブルグ滞在中に皇帝からの依頼で仕上げられたカール5世の肖像は神聖ローマ皇帝の称号のみならず、ブルゴーニュ公、ブラバント公、フランドル伯、ルクセンブルク公、ネーデルラント君主、ミラノ公、ナポリ王、シチリア王などの沢山の称号を持つ権力者の肖像と言うよりは、一人の人間としての有りのままの姿を映している作品のようだ。まだ48歳なのに通風で、すでに杖(つえ)を使用していると思われる。早くから権力の中枢に置かれたカール5世の人生は戦いの一生。孤独な支配者? 哀愁を感じる一枚となっているこの作品はさすがティツィアーノだからなのだろう。それとも二人は気心知れる友人だったから描けた一枚なのか?夕刻の風景の中の聖母子 1560年頃荊の冠(いばらのかんむり)のキリスト 1570年~1576年ティツィァーノの晩年、未完の作品である。1540年、ミラノのサンタマリア・デレグラッツェ教会の為に描かれた絵のバリアント(variant)らしい。工房に残った作品をティントレットが購入。後に選帝侯マクシミリアンIに売却される。ティントレットぽさがあると思ったのは逆でティントレットがこれを真似したのだろう。描きかけの筆のタッチが逆に劇的なダイナミサックさを表現しているかも・・。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)ヒエロニムス・ボスについては、2014年2月「ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス」の中で取り上げていますが、今回のアルテの作品を一応紹介します。ボスについては前にも書いていますが、ボス存命中より非常に人気が高く、かつ彼の死後1550年頃にボスの回顧的ブームがわき起こり、非常に偽物が出回っているのです。基本祭壇画などが多いボスの絵、下はそう言うものの一部とされていますが、果たして本物なのか?ちょっと疑問ですFragment Eins Jungsten Gerichts(審判の断片)最後の審判の一部分(死者の復活)と考えられている絵らしいが、どこが復活かよくわからない。自分の所にあるボス作品を照らし合わせて見てもパーツの雰囲気は似ているものの同じ怪物や行為が他から見つからないのである。1817年以降ニュルンベルク城に所蔵されていたらしいが、それ以前の来歴が不明で製作年代も不明。しかし、当局はこの作品が1504年にブルゴーニュ公フィリップ美男公が発注した「最後の審判」の祭壇画の一部と考えているらしい。そしてウイーンの造形美術アカデミーにある祭壇画(三連幅)はそれの小品では? としているが、造形美術アカデミーの作品の中に同じ怪物はいなかった。※ 別の回でウイーンの造形美術アカデミーの作品を紹介します。さて、少ししか紹介しませんでしたが、芸術に造形の深かったヴイッテルスバッハ家のコレクションなのに全体の印象ではそこそこだった気がします。(ウイーンやパリの美術館と比べると・・)想像の範疇ですが、もっと素晴らしい目玉となる作品が本来あったにもかかわらず、ナチスの時代に持ち出されているのではないか? と言う憶測がわきました。ミュンヘンはヒトラーが関係した土地故に美術の造形の深かったヒトラーやその参謀であったヘルマン・ゲーリングらによって主要作品が散逸してしまった可能性があるのではないか?オーストリアではヒトラーに持ち出された絵画を後から取り戻した・・と聞いた事がありますが、敗戦国ドイツの場合、そのまま戻る事はなく国外に持ち出された可能性が大です。特にドレスデン爆撃で消滅したと言われるゲーリング空将の個人コレクションについては、アメリカ軍に持って行かれた可能性が・・。以前ドイツの方に「ヒトラーやゲーリングの収集していた絵画はどうなったのか?」と質問した時に「アメリカに持って行かれた。」と返されました。それが真実ならメトロポリタンにでも行っちゃったのかな? アルテ・ピナコテーク終わります。back numberリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサイン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)関連リンクリンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年02月10日
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アルテ・ピナコテークのアートブックの表紙はデューラーの自画像になっている。(英語版)デューラーと言えばまずその自画像が挙げられるくらい有名な絵であるし、確かに美貌のデューラー? が、個性的に表現されている。そして次にデューラーの代表作として紹介されるのは四人の使徒であるが、これまた必ず紹介される一品である。しかし、それだけでデューラーを見に行きたいと思った事はなかった。行けばデューラーが解るかな? と思ったが、結局デューラーらしさは未だに良く解からない アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)モノグラム (monogram)のサインデューラーは生涯かなりたくさんの自画像を描いたらしい。自分の顔にかなりの自身があったのは確か。またラテン語の学校も出ているので教養に関しても自身あり、自己の才能を非常に高く評価。それは絵の中のラテン語の文からも読み取れる。「ここに私は自らをニュルンベルクのアルブレヒト・デューラー、当年28歳を不滅の色彩で描いた。」1500年 デューラー自画像28歳。一番イケテル肖像画であろう。ちょっとキリスト風に描いている所がミソでナルシストぶり全開ですねアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)(1471年~1528年)金細工師の父の元で細工師の勉強もしたらしいが、絵画の方が興味があったらしい。(兄弟は18人。)15歳で弟子入りした先生は古い中世末期のスタイルを残す画家だったらしいが3年修行。ドイツでは一人前になる前に人生の意義を探求する為の遍歴の旅に出る慣習があったそうで彼も神聖ローマ帝国内を旅して後に一時帰国して結婚。(1494年)しかし、彼は直後に単身イタリアに向かう。技術のみならず、職人の地位などドイツとは比べものにならないイタリアに残り勉強したかったようです。彼が傾倒したのはマンテーニャなど。ベリーニとは親交もあったと言う。(時代的にはミケランジェロとほぼ同年代。)かくして彼はイタリアで全盛だったルネッサンスの技を身につけドイツで最初のルネッサンスの画家となった。(1512年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕え宮廷画家となり、マクシミリアン1世が亡くなるまでニュルンベルク市当局から年金が出続けたらしい。)ところでデューラーはイタリアと故郷ニュルンベルクを行ったりきたりして生活している。ホームは生まれた街。これは生涯ブレなかったようだ。モノグラム (monogram)のサイン名前を残す? 売る為? 1500年以降の作品には彼のサインマークが記されるようになった。上の囲った所に印がある頭文字のAとDを組み合わせたモノグラム (monogram) であるが、彼が最初にモノグラムのサインを残した人のようだ。下は別の絵から持ってきたものであるが、鳥井の中にDかと思いきや、Aとはね・・。故郷では最初版画を売り歩く事で生計を立てたらしいが、上に紹介したように絵に自分のサイン(モノグラム)を残して名前をとにかくアピール。(今まで北方ヨーロッパの職人にサインを残すと言う慣習が無かったのだろう。)彼の名声はその木版や銅販画から高まったわけだが、このアルテピナコテークに版画の作品はなかった ので紹介できない いずれにせよ彼の活動(サイン入れ)は北方ヨーロッパの画家達も真似る所となり、それが画家達の地位を高める事に繋がったようだ。悲しみの聖母(聖母七つの悲しみ)当然、画家の仕事先は教会や貴族、大商人からの依頼である。デューラーも初期の頃は沢山の宗教画や祭壇画を手がけている。(作品はあまり知れ渡っていないが・・)実はこの作品はアルテでは単体で紹介されていたが、これと似たデューラーがドレスデン国立絵画館にあった。それは下に紹介する「嘆き」と共に7つの絵で構成されていた一つで、ドレスデン国立絵画館のものは1496年「聖母七つの悲しみ」として紹介されている。聖母の構図は全く同じ。こちらの製作年代が不明なのであるが、モノグラムのサインが見えない事から1500年よりも前、ドレスデンのものと同じ時期かも・・。1500年頃 Lamentation(嘆き) (聖母七つの悲しみ)実はドレスデンの作品はもっと登場人物が少ない。逆にこちらの作品に人が多いのはこの中に絵の依頼者であるアルブレヒト・グルムとその妻が絵の中に描かれているからだ。この絵は最初はニュルンベルクのプレディガー聖堂に奉献されたものらしいが、最終的にバイエルン選定公マキシミリアン1世により買い取られてここにある。1502年~1504年頃 Paumgarten Alter(パウムガルトナーの祭壇画)中央・・キリストの生誕図らしい。 手前と画面奧の二人で東方三博士を表しているのだろう。左は聖ゲオルギウス。右は聖エウスタキウス。東方三博士の礼拝としては個性的な絵かも。上に黄色でマルをしたが、画面下左右の小さな人々は、この絵の依頼者であるパウムガルトナー家の人々。紋章と共に描かれている。尚、柱につけたマルの中にデューラーのモノグラムが記されている。但しこれに関しては年代が入っていない。聖ゲオルギウスのドラゴンの部分参考に載せました。下の祭壇画はウイーン美術史美術館所蔵の作品です。1511年 三位一体の礼拝ニュルンベルクの豪商マッテウス・ランダウアーの依頼で製作された物。この作品も中にランダウアー氏が紛れているのでは? と思われるが、それよりも画面右下の小さい人に注目。デューラー自身が登場している。サイン代わりに本人が登場している所が凄いです1518年 Der Selbstmord der Lucretia(ルクレティアの自殺)ルクレティアは王政ローマの最後の王の息子にレイプされ自殺。それがきっかけで王は追放されローマは共和制に向かう。当時好まれた画題らしい。このあたりから、私達の知るデューラーらしい特徴が見てとれる。が、先に紹介したイタリアのルネッサンス調の宗教画はサインこそ無ければデューラーとは判別できない。どう見てもデューラーらしさが見いだせないのだ さてさて、下がデューラー代名詞的な作品であるが、実はこの頃デューラーはプロテスタントに改宗していたようだ。1517年にルターの宗教改革の運動が始まる。特にドイツでは北中部に於いてルターの支持が高かったようだ。ルターが逮捕された時はカトリック教徒の襲撃を避けて逃げるように故郷に戻っているが、権力側に寄りながら見守っていたようだ。1526年 The Four Apostles(四使徒)左の絵、左から聖ヨハネ、聖ペテロ 右の絵 左から聖マルコ、聖パオロ画題はThe Four Apostles(四使徒)となっているが、実は福音所記者の聖マルコや聖パオロは12使徒には入っていない。が、広義に七十門徒を入れる正教会では使徒に数えられているそうだ。下のピンクのマルの所にモノグラムのサインがあった。上の作品はニュルンベルク市にデューラー自身が寄贈。市がプロテスタント側に付くと信じたから贈ったらしいのだ。後に(1627年)この絵もバイエルン選定公マキシミリアン1世により買い取られている。最後に、1520年、デューラーは妻と下女を伴いネーデルランドに旅をする。長い旅になるのだが、それは新しい神聖ローマ皇帝、カール5世に直訴する目的があったらだ。(戴冠式で直訴する予定だった。)実はデューラーは前皇帝マクシミリアン1世により終身年金が与えられていた。それが、彼の死と共にニュルンベルク市当局が年金を打ち切ったからだそうだ。道中幾多の芸術家に会い、スケッチブック片手にデッサンもたくさんしたようだ。そんな中クジラを見にゼーラントに向かい熱病にかかってしまう。1528年、この熱病の再発で命を落とすのである。アルテピナコテークback numberリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1 アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)他関連リンクリンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)
2016年02月04日
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そろそろミュンヘンを後にしようかと考えましたが、やはりアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)だけは紹介しておく事にしました。ルーブル美術館やメトロポリタン美術館に比べると来場客が多いとは言えませんがドイツを代表する国立美術館です。(ドイツ部門の1位はレジデンツでした。)ぶっちゃけ、わざわざ飛行機に乗って行って見る・・と言う目玉があるか? と言うと微妙ですが、美術書で各々紹介されている作品が集まっているのは確かです。なぜなら前にも紹介した通り、かつてのバイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家のコレクションがベースになっているからです。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1Cafe Klenzeアルブレヒト・アルトドルファーのイッソスの戦いイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)ピナコテーク(Pinakothek)とは、そもそもギリシア語起源のピナコテカpinacotecaから派生した言葉で、絵画のみを集めた美術館を指す言葉。つまり絵画館なのだそうです。よく使用されているミュージアム(Museum)は考古学的な物まで含めた美術博物館と言う意味らしい。命名はルードヴィヒ1世。古代ローマの建築家の著作から見つけた名前だそうだ。アルテ・ピナコテーク開館から遅れて1853年向かいに新絵画館ノイエ・ピナコテーク(Neue Pinakothek)がオープンした事により旧・絵画館アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)と名称が変わった。道路挟んで向かい合う両館の間 ヘンリー・ムーア(Henry Moore)のブロンズ像今回紹介するアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)の開館は1836年。絵画館(Pinakothek)は共にバイエルン第2代国王ルートヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年)によって設立されています。因みにルートヴィヒ1世については「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」ルードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)で紹介しています。ここが入り口? と思うほど目立た無いし解かりにくい。(ドイツは案内版が少ない)表は古いが中は近代的で清潔。エントランスはこんなに閑散。ツアーが到着すると混み混みになるそうだがこの時は空いていた 荷物は新しいロッカールームが奧に付属。Cafe Klenze 写真を撮影している側の後ろに絵画館のカフェがある。The Victorian House Cafe Klenze Alte Pinakothek(店の名前は長い)半セルフサービスな為に値段は安い。カウターで注文して簡単な物は自分で運ぶ。キッシュ・ロレーヌ 8.60ユーロ凝った料理は無いが、全てにサラダが付き味はとても良かった 看板などに表示されている値段は内税になっているので解りやすい。全体に10ユーロを超す品はなかったので安心。アップルトルテとコーヒー レシートが不明にアルブレヒト・アルトドルファーのイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)さて、最初に紹介するのはまさにコレクションの始まりとなった1点です。冒頭、アルテのコレクションは「バイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家のコレクションがベースになっている」と紹介しましたが、そもそもヴィッテルスバッハ家が最初にコレクションを始めるに至ったキッカケの作品がこれから紹介するアルブレヒト・アルトドルファーの「イッソスの戦い」と言う絵ですイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)制作1529年 158.4cm ×120.3cmアルブレヒト・アルトドルファー(Albrecht Altdorfer)(1480年頃~1538年)ドイツの写本挿絵家だったとされるアルブレヒト・アルトドルファーはデューラーと共に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の祈祷書の制作にも携わっていたと言う。地誌を正確に描き分ける風景画家とも伝えられる。彼の代表作となるのがバイエルン公ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV)(1493年~1550年)と妃マリア・ヤコベアの依頼でレジデンツに飾る為に製作された歴史画イッソスの戦い。(別名アレクサンドロス大王の戦い)イッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)BC333年マケドニアのアレクサンドロス3世(Αλέξανδρος)ことアレクサンドロス大王 VSペルシャのダレイオス3世(Darius III)との合戦。マケドニア軍3万に対してペルシャ軍10万とも言われた戦いにマケドニアが勝利した歴史的戦いであり、アレクサンドロス大王の武勇を讃える戦いの一つ。初敗退のペルシャ軍であるが、これがペルシャ衰退の始まりだったと言う。因みにイッソス(Issus)は現在のトルコ、イスケンデルン湾の奧部。(トルコ沿岸とシリア国境で地中海の最北東端。)後世語り継がれる一戦となったようでアルブレヒト・アルトドルファー以外にもブリューゲル(父)なども同タイトルで描いているように当時人気の画題でもあったのかもしれない。アルブレヒト・アルトドルファーは正確な地勢図で、史実に基づいて絵を作成。特に中央部隊を包囲するように囲みペシャ軍に裂け目ができたとする史実通りに沢山の兵が入り乱れて戦っている図が非常に繊細に描かれている。この時、ダレイオス3世はアレクサンドロス3世自身に攻撃され退散したと言われる。そのダレイオスは上の絵の中で中央少し左で金の馬車に乗っている。ちょっとボケましたが拡大しました。(馬車に名前が書いてありました)若干、気になるのは武具や装備の時代考証。ちょっと中世的すぎるかも・・。細かい、凄い・・と自然に目に留まった作品でした。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)つづくBack number アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)
2016年01月27日
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村上隆(むらかみたかし)氏 作品のBack numberをラストに載せました。Break Time(一休み)森美術館 村上隆の五百羅漢図展一昨日久しぶりに森美術館に行ってきました アーティスト村上隆(むらかみたかし)氏の大規模個展は日本では14年ぶりだそうで友人が誘ってくれたのです。ところで海外の美術館ではたいていカメラ持ち込みOKで作品の撮影が可能です。それは絵画に関しても同じです。ところが日本の美術館では一般的にほとんど撮影できないのが現状です。それが今回驚くべき事に「営利目的でなく、個人が楽しむ分に関して」撮影が許可されていたのです (ポップアートの場合、特に考えられない気がしますが・・。)そんなわけで村上隆氏に感謝してちょっと紹介する事にしました 何より今回の新作は全く新しい世界です。ポップはポップなのですが、今までのカワイイとは別物です。最初ちょっと抵抗もありましたが、美術館を出る頃には新しい世界を楽しんでいました ぶっちゃけ大人向けです。最初はいつもの慣れ親しんだ村上隆の世界iに近いところから・・。DOB君がパンダ化したような姿ですが、これは以前ルイ・ヴィトンとコラボした時のパンダに似てますねパンダの足下の球体は今までのフラワーではなく髑髏(されこうべ)です。髑髏(されこうべ)、すなわちドクロです。これは今回の作品の中には頻繁に出てきます。それはメインテーマの五百羅漢(ごひゃくらかん)にもつながる死を表すイメージなのでしょう。死の淵を覗き込む獅子?美術史家の辻惟雄(つじのぶお)氏と村上隆氏との絵合わせ遊びで始まったセッションの延長に「五百羅漢図」は生まれたそうです。その解説が出ていました。上が・・辻惟雄(つじのぶお)氏のお題 長沢芦雪(ながさわろせつ)虎図ふすま絵下が・・村上隆(むらかみたかし)氏の現代版「虎図」最初は2009年~2011年に芸術新潮で連載されていた絵合わせ。絵合わせ自体は平安時代の遊びだそうだが、今回辻惟雄(つじのぶお)氏が絵師についてのエッセイを投稿。それに対して村上氏が独自の現代的介解釈を加えて答える・・と言うセッションだったらしい。21回の対戦の中でだんだん大がかりな作品に発展。さらに東日本大震災で死や絶望を経験。そこからの復活の願いを五百羅漢に見たのか?なぜ五百羅漢を描こうと思ったのかは私は知らないが、結果、村上隆 氏は仏教とコラボした新しい世界感を展開するにいたったのだろう。羅漢(らかん)or阿羅漢(あらかん)・・尊敬と施しを受けるにふさわしい修行者。阿羅漢果(あらかんか)・・実り=悟り? 修行を達成した者をさすのだろうが、本来悟りを得たのは人間では仏陀のみ。五百羅漢(ごひゃくらかん)究極の悟り、阿羅漢果(あらかんか)を得た500人の聖者とされる。生前の釈迦に付き添い釈迦の説法を聞いてきた比丘とも、入滅後に結集した仏弟子500人とも言われる。しかし、本家インドにその話は無いようだ。五百羅漢(ごひゃくらかん)の聖者伝説は中国由来のようだ。作品は大がかりな物が多い。パネル式で連ねられているが、昔で言えば寺や城のふすま絵のような感じ。この作品は天の東西南北を司る霊獣の四神。青龍、白虎、朱雀、玄武を表した作品のパネルの一つ。下は白虎だったか?作品には四神の他にも瑞獣(ずいじゅう)がたくさん描かれている。瑞獣(ずいじゅう)は吉兆をあらわす。つまりめでたい獣である。妙に色っぽい羅漢に驚くが・・。見返り来迎図確かに菩薩(ぼさつ)に性別は無いけどね・・・。最初に紹介した死をイメージする髑髏(されこうべ)の山タイトルは「萌える人生を送った記憶」オタク人生を送りきった者達のカラフル様々なドクロ。彼らの記憶の残骸は骨にまで現れる 最後にヒルズ1階ににある村上隆の特設「お花カフェ」から一応美術館の半券かショップのレシートがある事が条件らしいが、チエックは無かったような・・。限定メニューが少々。一番人気はオムライス。既に売り切れでした 限定メニュー お花ムース(20食) 税込み700円中を割って驚く。中も真っ赤。写真の色よりもっと凄い朱色。ベリームースをチョコレートと合わせていると言うが・・。ベリーの色とは思えない。食紅だけなら怖すぎる でも味は悪く無い。レアチーズな感じでした。写真撮りたいが為に入ったお店でした。カフェは今月末までのようですが、五百羅漢図展は3月6日までですこれを見た後に・・・五百羅漢の個々のキャラ割りに驚きてす。(それぞれに個性が違う。)これら作品をベースにアニメとか冒険物のゲームが造れそうな気かします。少なくとも自分の頭の中では彼らのキャラを幾つか設定して物語が何本か書けそうな感じです それはさておき、村上隆(むらかみたかし)氏のポップ世界は仏教と融合した事で深い意味を持った作品に変革された? ・・と言えるのでしょう。村上隆(むらかみたかし)氏 作品のBack numberリンク MURAKAMI VERSAILLES 1 (Miss KOKO)リンク MURAKAMI VERSAILLES 2 (Tongari-kunリンク MURAKAMI VERSAILLES 3 (Flowers)リンク MURAKAMI VERSAILLES 4 (Kinoko Isu)
2016年01月21日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。レジデンツに入って最初に見学する宝物館には多数の値段の付けられない宝物が展示されていました。しかしレジデンツはただ展示しているだけで他の美術館のように展示品についての解説はほとんどありません。音声ガイドはあるのですが、日本語は無い。そんなわけでお宝についての来歴が今回ほとんど解からなかったのでご了承ください ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ宝物館(Schatzkammer)宝冠と紋章以前紹介したハプスブルグ家のお宝の所でもそうであったが、宝物館はそれ自体が巨大な金庫の中にある。宝冠と紋章冠(かんむり)の事初めはヘレニズム時代に遡るそうだ。街を守護する女神が頭にその街を乗せている。街があたかも城壁のようになり女神の冠のように見えた。そうした城壁形状の冠は「城壁冠」 ミューラル・クラウン(mural crown)と呼ばれるようになる。この城壁冠が根付いたのは実は古代ローマの時代らしい。古代ローマでは、軍功をあげたものにはたくさんの褒美がとらされていたと言う。土地などもその一つであるが、砦の陥落など一番に乗り込み陥落に貢献した者には、その褒美として陥落した都市の城壁の付いた冠が授与されたらしいのだ。※ 後世、勲章(くんしょう)と言うものが出てくるが、その先駆けがこうした冠の授与だったのかもしれない。その冠は盾(たて)や旗(はた)など彼らの印となる紋章(もんしょう)の中にも刻まれて行く。日本と異なり西洋の紋章は軍功など栄誉が与えられる毎に柄が加えられて行くので家紋の絵柄は複雑になって行くのである。※ 中世にそうした紋章を研究する紋章学なる学問も出ている。冠の形状に戻るが、その形は割とリアルに、城壁のみならず、歩哨櫓(ほしょうやぐら)が付いていればそのように作られ城壁冠は進化したようだ。※ 中世になるとその歩哨櫓は建築学の向上により形が変化。城壁より少しせり出した塔のようなタレット(Turret)と呼ばれる歩哨台となる。チェスで言うルーク (Rook)のコマがまさにタレット(Turret)の形である。城壁にタレットがたくさん付いている城ほど規模は大きくなるわけで、冠に付いたタレットの数でも価値が違ってくるのである。下の王冠に付いたタレット(Turret)は街の紋章として実際に使用されていたカタルーニャのものである。ウイキペディアでパブリックドメインになっていたのを一部借りてきました。上 左からVillage(村) Town(街) City(都市)下 左からRegion(地方) Province(州) Generic mural(共通の冠?)おとぎ話で見る王様や王子の被ったギザギサ冠はこうしたタレットや城の塔から誕生していたようだ 中世以降はこうした冠の形状で冠のランクもでき、かつ爵位などによる冠の振り分けがされたようです。下のサークレット(circlet)タイプの冠の来歴は全く判らないが、ロンバルディアの鉄王冠に似ているので割と初期のものかもしれない。宝石の付け方などから見るとイスラム的な気がする。金は柔らかいのでその変形を防ぐ為? 同じ形状をしているロンバルディアの鉄王冠は内側が鉄輪で留められているそうだ。しかもその鉄がロンギヌスの槍を溶かしたものだと言うからビックリである。神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)(973年~1024年)の王冠らしい形はこれぞミューラル・クラウン(mural crown)「城壁冠」なのだろう。宝石に関してはヒビがいっていたりとかなり粗悪であるが、当時は色石だけで貴重品だったのだろう。これも確証は無いが十字の形状から神聖ローマ帝国の王冠として使用された可能性がある?実際あちこちに小さな穴が無数に空いており、そこに宝石がつなぎ止められていたように見える。コロネット (coronet)いつの物か判らないので何とも言えないが、形で判断すれば確かにコロネット (coronet)タイプである。それこそタレットの変形版かイスラムの城の歩哨のイメージかもしれない。イギリスで言えばは侯爵クラスのコロネットのようだ。英国女王の王冠??Um 1370~80貴族の紋章となった王冠は戴冠式など正式なセレモニーの時に着用したそうだ。その時はアーチが付き、ビロードの布などで帽子部がつけられていたようだが、宝石のちりばめられた冠は非常に重い。通常の公式行事ではシンプルなコロネット型。女性の場合はティアラ型の軽いものが使われていたようだ。それにしても冠としては面白い形をしている。奧がアーチの付いた王冠。下は女性用?1830年頃の「城壁冠」 ミューラル・クラウン(mural crown)?真珠のはめ込まれた聖書?神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)のものらしく1014年~1024年頃のもの。ギーセラの十字(Giselakreuz)高さ44.5cmと幅32cmバイエルン公ハインリッヒ2世(Heinrich II)の妻神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)の母ギーセラの十字架。※ バイエルンのギーセラ(Gisela von Bayern)(985年~1060年)十字架をはめ込むケースにも宝石。十字のくぼみのきわには四福音書記者が描かれている。中の十字架は不明。聖母子のイコン?宝石のちりばめられたイコンの年代も不明。もしかしたらローマ帝国が分裂する前の物か?先ほど報奨としての冠の授与・・と言う話をしまたが、後々それは冠ではなく勲章に変わる。以下に少し勲章をのせました。何の勲章かわかりませんが・・。いずれにせよ宝石がはめ込まれた宝飾品です。幾つも作って配るのは無理な一品です。上段の金の下がり物は金羊毛騎士に関係しているのかも・・。いつか金羊毛騎士団についてやりたいなーと思っています。追記・・・2018年6月「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」を書きました。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)レジデンツまだ居室などが残っていますが次、どーするかなー σ( ̄、 ̄=)ンート・・・Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年01月13日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。今回はレジデンツの祈りの場と聖遺物を紹介します。かなり盛りだくさんの内容です。聖遺物については、今までたいていの教会などではもちろん写真撮影などNGがあたりまえ。ところがレジデンツは太っ腹ほぼ全て撮影がOKだったので今回紹介する事ができます。しかし、聖骨と言ってもリアル骨なので無理な方は気をつけてね ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)諸聖人宮廷教会(Court Church of All Saints)旧王室礼拝堂(Arte Hofukapere)絢爛な礼拝室(Ornate Chapel)聖遺物箱(Reliquary)レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)ハンガリーの聖エリーザベト「マルティン・ルターの宗教改革」については必ず世界史の中で1度は耳にした事があると思うが、その時にカトリックの重要な宝が多く破壊され失われた事を知る人は少ないだろう。※ 以前ゲント(Gent)の所でも書いた事があるが、宗教改革のおり、13世紀より続くドミニコ会系修道院の貴重な手書きの蔵書30000冊がプロテスタントの襲撃にあいレイエ川(Leie)に投げ捨てられたりしている。それはちょうど1960年代に中国で起きた文化大革命の時に多くの歴史的文化財が破壊され燃やされた時に似ていたのかもしれない。諸聖人宮廷教会(Court Church of All Saints)レンガがむき出しになった諸聖人宮廷教会であるが、かつては美しい装飾が描かれていたようです。今は教会ではなくただのホールとして使われているのかな?旧王室礼拝堂(Arte Hofukapere)現在はコンサートなとで使用される事もあるようです。天井のレリーフ「Civitas Dei」Civitas Dei英語では「The City of God」神の都。これは古代神学者アウグスティヌス(Augustinus)(354年~430年)によってラテン語で書かれたキリスト教哲学の本。古代ローマ人の信仰していた宗教に新しく入ってきたキリスト教。さらに西ゴート人によるローマ侵略。そんな時代の中で「神の都」論はローマとキリスト教の関係においても論理的に整理されて解説されキリスト教の教義本になったようだ。絢爛な礼拝室(Ornate Chapel)天井はキンキラな黄金レリーフ。壁には色大理石の象眼細工で描かれた模様や絵画が描かれた特別な部屋。実はここはただの礼拝堂ではない。かつてヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)のプライベート礼拝堂で、聖なるお宝を収集した特別な部屋だった所。そのお宝の一部がまだ部屋に残っています。下のシンメトリーに飾られた左右の装飾 2×3台の容器に注目。それは「Reliquary」聖骨箱とか聖遺物箱と呼ばれる聖人の遺骨が納められた容器です。聖遺物についてあちこちで触れていますが、よかったらそちらを先に読んでださい「ローテンブルク 7 (聖遺物のある教会) 」リンク ローテンブルク 7 (聖遺物のある教会)「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂) 」リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)聖遺物箱(Reliquary)現在、聖遺物箱のほとんどは宝物館の中でも特別な金庫部屋に納められています。もちろん聖骨としての価値。そしてその容器の宝飾性が認められているからです。「聖遺物には霊力が宿っているとされ、聖遺物を所有する者自身にも神の栄光が降り霊験を得られると考えられ、聖遺物に選ばれた人として一目置かれる存在」でもあった。またそれは信仰心だけではなく、貴重な聖遺物を所有するという事は名誉であり、その者の社会的地位を確固たるものにした。 と、され、当時は今以上に価値を持ったお宝だったのです。ここの聖遺物箱(Reliquary)はルターの宗教改革の後にはヴィッテルスバッハ家のコレクションからカトリック教会が認める宝となり扱われるようになったようです。その理由は最初に紹介したようにルターの宗教改革のおりにたくさんの聖遺物や聖遺物箱(Reliquary)が取り払われたからです。破壊されたり宝石などが抜かれ、遺骨は捨てられ失われた物も少なくなかったかも・・。レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)ヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。実際、聖骨などを包む容器は当時の最高の技術を駆使した宝石箱のようなもの。宝冠に付けてもおかしくない宝石をちりばめた容器は素晴らしい美術工芸品となっています。しかし、この金庫のような部屋の解説に誰の聖人の遺骨かについての詳しい記載はありませんでした。当時まだ技術が未熟だったにもかかわらず容器にはガラスが多く用いられてていた。理由は人に見せる為の目的があったからだろう。遺骨は宝石や真珠などで留められて金糸の華の中に散りばめにれている。プロビデンスの目と三位一体を表す3つの納められた骨。聖体顕示代の原型はこれら聖骨の容器からかもしれない。下が1年半前から宿題にしていたザブトンに乗った頭蓋骨の謎。頭蓋骨を丸々美しく残す為にこのような宝石をちりばめた美しい覆面のような容器を考案したものと思われる。(実際はこの外回りの容器が別にあったようだ)その人はハンガリーの王女から修道女になり聖人に列聖されたエリーザベト(Erzsébet)(1207年~1231年)王女のようです。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻でもありました。ザブトンに記された名前と赤いバラが印です。ハンガリーの聖エリーザベト1227年にルートヴィヒ4世が第6回十字軍に従軍中に死去し、若くして未亡人になるが再婚を断り夫の家からもらったお金で病院を建設。自らもボロを着て貧民の為に尽くしたとされる。生前の彼女の行いから彼女の死後3日遺骸を公開すると遺骨を盗もうとする者もあらわれたと言う。(そこですみやかに列聖の審査が始まったと言う。)1235年の聖霊降臨祭の日、教皇グレゴリウス9世によりエリーザベトは列聖された。転々とした彼女の聖骨列聖の翌年、聖遺物として祭る為の儀式が行われ、頭部が切り離されたようだ。そしてたっての希望で列席した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により彼女の頭に冠が乗せられ聖遺物容器に保存されたと言う。(バラの花飾りがそうであろう。)遺骸は列聖の年よりドイツ、ヘッセン州マールブルク(Marburg)にてドイツ騎士団によりエリザーベト教会が建設されそこに祭られる事になった。しかしそれは16世紀まで。ここでも出てくるのが宗教改革の悲劇。教会はプロテスタント化され聖遺物崇拝を辞めさせる為にエリサーベトの遺骨は全てこの教会から取り除かれたと言う。ウィキペディアによれば、聖遺物箱(Reliquary)は現在ストックホルムにあるらしい。頭骨と頸骨はウィーンの聖エリーザベト病院と書かれているが、このレジデンツに頭蓋骨が丸々あるのだからそれは間違いなのだろう。聖人も大変ですね次回まだレジデンツの宝物つづきます。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ) ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年01月05日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)レジデンツ(Residenz)グロッテンホフ(Grottenhof)グロット(Grotto)とグロテスク(grotesque)キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)グロッテンホフ(Grottenhof)案内図で洞窟の中庭(Grotto Courtyard)前にある回廊がグロッテンホフ(Grottenhof)だ。「何でこんな物を作ったのだ?」と誰もがきっと思うだろうグロイ奇っ怪なオブジェが並ぶ。しかもそれは無数の貝殻で作られた代物だ。グロテスクと言う言葉はここから生まれたのではないか? と思ったものだが、調べて見ると、案外それは的外れでは無かった事が解った。1722年頃?ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)の命で建築が始まったとされるこのグロテスクな回廊は前回紹介したアンティクヴァリウム(Antiquarium)の改築とほぼ同じ1581年から1586年頃作られたようだ。設計はこの宮殿を建てさせたデューク・アルブレヒト5世(Duke Albrecht V)の芸術顧問、フリードリヒ・ズストリス(Friedrich Sustris)。今は回廊のオブジェのみの見学であるが、上の絵のように中庭にはイタリアルネッサンス式の庭園が造られていたらしい。一番の目玉になるオブジェかつてはここから水が湧いていて、ちょっとした水飲み場にもなっていたのかもしれない。金の像はオリンポス12神の一柱ヘルメス(Hermēs)である。ローマ神で言えばメルクリウス(Mercurius)である。デザインはイタリア・ルネッサンス式と書かれているが、モチーフはローマの詩人オウィディウス(Ovidius)(BC43年~AD17年)の変身物語「メタモルポーセース(Metamorphoses)」を元に考案された。・・と解説されている。 (・・が、どこが変身か良く解らなかった。)ほぼ全てが貝殻で作られている。なぜ貝殻なのだろう? ぶっちゃけ、ちょっと気持ち悪かったです グロット(Grotto)とグロテスク(grotesque)レジデントの地図では洞窟の中庭(Grotto Courtyard)と記されている。つまりこれらオブジェは洞窟(Grotto)を意味している。どこが洞窟か? と言う疑問がわくのだが、実は設計者はメタモルポーセース(Metamorphoses)と言うよりは、ドムス・アウレア(Domus Aurea)からこれを発想したのではないか? と思われるのだ。ドムス・アウレア(Domus Aurea)は古代ローマ帝国第5代皇帝ネロ(Nero)(37年~68年)が建設した黄金宮殿であり、その建設はローマ大火の後の64年頃。再発見された1480年頃には地下に一部しか残っていなかったものの、芸術に造形の深かった古代ローマのネロ帝の屋敷。ラファエロさえもここの存在を知っていたと言うように多くの芸術家がドムス・アウレアを訪れ、学び、ルネッサンス芸術のインスピレーションを得たと言われている。(発見されたドムス・アウレア自体が洞窟のような地中にあったらしい。)そもそもルネッサンスは「再生」とか「復活」と言う意味ではあるが、古代ギリシャやローマを礼賛した復活と再生なのだ。(ドムス・アウレアは、ルネッサンスを起こした要因と考えてよいのかもしれない。)ここの設計者フリードリヒ・ズストリス(Friedrich Sustris)もまたドムス・アウレアに啓発されたのでは? と思われる。(ルネッサンスを意識した点。またドムス・アウレア詣での時期が一致している。)ところでドムス・アウレアの装飾は 大理石やローマン・コンクリート、モザイク等を使った贅沢な海辺のヴィラだったらしい。また動植物や人物など過度の装飾がほどこされた壁の図柄は、当時のルネッサンスの画家達が大いに模倣したと言われている。先に紹介したラファエロはヴァチカンを監修した時にこの古代のグロット(Grotto)から発見された図柄をヴァチカン宮殿で使用し、グロテスク装飾が完成した。(因みに現在のグロテスク装飾と言われるものは本来のグロテスク模様とは遠い。)つまり奇抜で奇妙で奇怪。おぞましい不調和を指す形容詞となったグロテスク装飾を最も端的に表現しているのがグロッテンホフ(Grottenhof)の装飾と言える。キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)レジデンス内にある劇場である。礎石は1750年。1753年完成。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世(Maximilian III)の命でフランソワ・デ・キュビエ(François de Cuvilliés )親子によって建てられた。壮麗なロココ様式のキュビリエ劇場マクシミリアン3世は自身も作詞作曲するなど音楽を楽しんだ人らしいが、職を求めてやってきたモーツァルトを追い返したと言われている。入り口の柱の彫刻次回レジデンツBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年12月29日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。さて、今回は元王宮の紹介です。ウィーンのような華やかさは見えませんが、ドイツらしい贅沢が伺えます。見学の所要時間がかかるので、なかなか紹介されていない所でもあります ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)レジデンツ(Residenz)アンティクヴァリウム(Antiquarium)ここは1180年から1918年までバイエルンに君臨したヴィッテルスバッハ家の本宮殿だった場所であり、バイエルン王国時代には王宮となり政務も執り行われていた場所です。1918年バイエルン最後の王ルートヴィヒ3世が退位しバイエルン王国が解体されると、その2年後には早くも博物館として一般公開されました。内部は、博物館や劇場になっていて見所はそれぞれありますが、個人的には宝物館のコーナーが好きです。場所は旧市街北。以前「世界の看板 1 (ミュンヘン・München)」で紹介したオデオン広場(Odeonsplatz)の所です。オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(将軍堂)。赤い屋根の建物がレジデンツ(Residenz)の一部。1385年にシュテファン3世(Stephen III)(1337年~1413年)の命で建設が始まったとされる。400年の歳月の中でルネッサンス、バロック、ロココと時代の様式が加わり増改築が行われてきた。それ故にかなり複雑な構造となっている。表示版がほとんど無く、レジデンツの見取り図でもあればルートが解ったはずなのにミュージアムの入り口が解らず行ったり来たりしてしまった。ライオンのゲートがそうかな? と入っては行けずに戻る事しばし・・後で地図を載せるが、入り口はこの通りにはなく、入り口に入る為のゲートはこの通りの外れの方か建物を外れて曲がった所にあった。つまり、オデオン広場(Odeonsplatz)からは最も遠い所にあったのだ・・実際の入り口はこんな所ではないが、なぜかミュージアムショップはこのゲートの右の入り口にある。Inperial Courtyard迷っているうちにたどりついたFountain Courtyard(噴水のある中庭)奧の三角屋根がCourt Church of All Saints(諸聖人宮廷教会の庭)。ここは教会の裏庭に位置する。因みに右の赤い屋根の部分が後に紹介するアンティクヴァリウム(Antiquarium)の外観である。同じく迷っているらしい人に遭遇する1755年当時のレジデンツ(Residenz)当時オデオン広場(Odeonsplatz)は無いか絵の左下が広場の位置。アンティクヴァリウム(Antiquarium)は上下の図ともにピンクで記した。下が実際の地図。向きを同じ方角に変えてあるが、美術館や劇場、教会などはこれら建物の右半分に入っている。レジデンツ美術館の入り口は赤い建物の部分。1755年の図には存在していない。※ 左のグレーの部分はおそらくバイエルン放送交響楽団「ヘルクレスザール(de:Herkulessaal)」の本拠と思われる。下が実際の入場口入館料は王宮と宝物館、劇場のセットで共通券で13ユーロ(2014年7月時点)荷物を預けるロッカーはなく、直接係員への預け方式になります。貴重品は持って行かない方が良いでしょう。カメラはほとんどの所で撮影OKです。入館して最初に入るのはたぶんレジデンツ宝物館Residenzmuseumのほうになるが、今回は先にレジデンツ内部の建物の方から紹介します。アンティクヴァリウム(Antiquarium)レジデンツの見所の一つになっているのがこのアンティクヴァリウム(Antiquarium)です。装飾が施された全長69mのこのホールは現存するレジデンツの建物の中では最も古い部屋だそうです。建設は1568年~1571年。デューク・アルブレヒト5世(Duke Albrecht V(1528年年~1579年))が古代遺物の骨董彫刻コレクションの為に建てた部屋だったそうです。「Antiquarium」と言う部屋の名前はそこから付けられたようで骨董部屋・・と言うところだろう。しかし、デューク・アルブレヒト5世の子供、ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)とさらに孫にあたるマクシミリアン1世(Maximilian I)(1573年~1651年)の時代に宴会場に改装されている。つまり公的なダンスホールやダイニングホールになったのである。ちょっとセンスが悪いと思う。・・と言うか怖いけけど・・下が食器である。デルフト焼きっぽい感じです。(欧州にマイセン焼きのような磁器が作られるのは18世紀初頭。)16の天井画はイタリアとバイエルンで活躍したマニエリスムの宮廷画家。ピーター・キャンディッド(Peter Candid) (1548年~1628年)の作品。着座する女性の形で名声と美徳の寓意しているそうだ。ほとんど全ての女性が着座像の形で描かれている。北方ルネッサンスのインテリアらしいが、これはどう見ても暖炉と言うよりは廟(びょう)(ルネッサンス様式の墓)であるもしかしたらアンティックの廟だった物を後世暖炉に作り変えた可能性はある。反対側レジデンツ(Residenz)につづくリンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡) ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年12月21日
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風邪が悪化して数年ぶりに38度越の熱がでました。 ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)馬車博物館 (Marstallmuseum) 馬ソリ(Pferdeschlitten)(sleigh)マクシミリアン2世のソリとルードビッヒ2世のソリ車輪の付いた台車を馬がひくのは馬車ですが、台車の足の部分がソリになっているのが馬ソリです。馬ソリはもちろん雪山用で、積雪の多いバイエルンではいろいろな事に利用されていたようです。日本において、開拓時代の北海道で普及したと言う馬ソリは、運搬が主だったようですが、バイエルンのヴイッテルスバッハ家では狩猟やゲーム、祭りなど、遊びとしても利用されてきたようです。馬ソリの歴史について書かれているものが無いのではっきりわかりませんが、ヴイッテルスバッハ家においては、マクシミリアン2世エマヌエル(Maximilian II Emanuel)(1662 年~1726年)の時代にイタリア、トリノよりもたらされたようです。(マックスIIエマヌエルの母で、このニンフェンブルク宮殿を建てたバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの妃、イタリアのサヴォイ家出身のヘンリエッテ・アデライデがソリの遊び方を知っていた・・と記録されている。)マックスIIエマヌエル自身がソリの虜となり、ソリ・ライダーと呼ばれるほどソリにのめり込んだようで、狩猟の他も祭り等でもソリ自慢などがあったのか?当時いろんなデザインのソリが考案されたようです。さらに当時のバイエルンの宮廷にはそんなソリ遊びの為の草原が確保されていたと言う。マックスIIエマヌエルのヘラクレスのソリヘラクレスのヒュドラ退治を表した芸術的なソリは、実用と言うよりはイベント用かもしれない。実際、貴族にらが、ガラパーティーなどで招待された時などは、こうした趣向を凝らしたソリでさっそうと乗り付けた・・とされている。Hunting sleigh with Diana狩猟の女神ダイアナが乗ったソリは狩りに利用されたソリのようです。 1740年頃の製作のようで、時代はマックスIIエマヌエルより後のようです。18世紀頃、当時のバイエルンのフェスティバルには有名貴族を招待してソリ遊びに興じたりしていた記録もあるようですが、それよりも、馬ソリと言えば・・・。今でも伝説に残るのがルードビッヒ2世の深夜のソリ巡行です。First Nymph sleigh of King Ludwig II 1875年製 ルードビッヒ2世の最初のニンフェのソリは、ソリと言うより夜間巡行を考慮した外灯付きとなっている。(外灯のデザインにはアールヌーボーのテイストが・・。)19世紀、ソリは実用から芸術よりの作品になっていました。19世紀は工業化の時代、運輸の状況は変化し、ソリはあくまで遊びの領域?時代遅れの馬車や馬ソリに興じたのは中世趣味を愛したルードビッヒ2世だからこそ・・。Second Nymph sleigh of King Ludwig II1881年製 ルードビッヒ2世の2台目のニンフェのソリさらにどんどんルードビッヒ2世の趣味に寄った美しいものに・・。ルードビッヒ2世については「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」でも紹介していますが・・。ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)第4代バイエルン国王(在位1864年~1886年)前回紹介した馬車同様に彼のソリも豪華さをましていきます。Renaissance or Dress Sleigh with Putti, of King Ludwig II ルードビッヒ2世のキューピット付き。ルネッサンス風? 礼装用ソリ ルードビッヒ2世の深夜のソリ巡行(ヴェーニヒ作)この絵のソリが上に紹介したプットの付いたソリである。王は夕刻に起き、食事を済ませた後、真夜中にソリに乗って周辺をドライブしたらしい。そんな生活をしていたので後年の王は醜く太ってしまったと言う。最初のニンフェのソリをもっと洗練させたソリ? ニンフェははきりフローラとして表現されている。そしてプット共に乗るのは白鳥となぜか魚の尾を持ったニンフェとなっている。こんなルードビッヒ2世(Ludwig II)が造らせた豪華な馬車やソリを見て、やはり聖ミヒャエル教会にある彼の棺の質素さが気になって仕方がない。きっと今の棺に不満があるはずだ。なぜ彼は先に自分の棺を造っておかなかったのだろう。きっとこれら馬車やソリよりも最っと凄い棺ができたはずだし、そうしたかったであろう・・。馬車博物館 (Marstallmuseum) おわりニンフェンブルク宮殿バックナンバーリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2015年09月27日
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やっとの事で写真を選択。馬車博物館の馬車やソリ。精巧なのでいろんな角度で紹介したいと今回は馬車3台の紹介です。(次回ソリ)ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)マーシュタール博物館(Marstallmuseum)(馬車博物館)カール・アルブレヒト(Karl Albrecht)カール7世(Charles VII)の馬車ルードビッヒ2世(Ludwig II)の馬車宮殿の左翼側、騎士の館と呼ばれた王室用の厩(うまや)、マーシュタール(馬小屋)を改良して造られた馬車博物館がある。そこにはヴィッテルスバッハ家が保有し使用していた祭典用の馬車から普段使いの馬車、そして冬用のソリなどが保管展示されている。特に馬車コレクションはヨーロッパ最大と言われているらしいが、確かに他で馬車の展示を見ることはほとんど無い。しかも非常に贅を尽くした驚愕の豪華さなのである。(これはそれ事態が芸術品。)またソリのコレクションについても「これがソリ?」と驚く豪華さなのである。以前ブリュッセルのサンカントネール美術館のところで数点のソリを紹介した事があったが、ルードビッヒ2世がしつらえさせ、彼自身が好んで愛用していたというソリは次元が違う。(もはやソリではなく使用してはいけない美術品。)ニンフェンブルク宮殿まで行ったのであるなら、是非足を運んで欲しい必見の場所です。場所はB地点。厩(うまや)とは思えないですカール・アルブレヒト(Karl Albrecht)カール7世(Charles VII)の馬車バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(Karl Albrecht))(1697年~1745年)が神聖ローマ皇帝カール7世(Charles VII)として戴冠した時のスペシャルな馬車がこれである。※ カール・アルブレヒトについては「ニンフェンブルク宮殿 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)」で書いています。御者台の装飾と馬車後部の装飾はこれが神様の乗り物であるかのよう。パリで製作された馬車らしい。おそらく装飾の女神は戦いの神であり都市の守護神でもあるアテナイ神。ローマ神話ではミネルヴァ(Minerva)馬車の台を支える貴神が誰か不明 後部側凄いです 神聖ローマ皇帝に昇り詰めたヴィテルスバッハ家の権力を象徴する馬車なのは確かです。ルードビッヒ2世(Ludwig II)の馬車上に紹介したカール・アルブレヒトの馬車をモデルにロマンティストなルードビッヒ2世が製作した式典用の新しい馬車が下。Neuer Gala Wagen ・・新 祝祭 車両 ガソリン式の自動車(1876年)なるものを発明したのはまさにドイツ人である。そして1885年にはダイムラーとベンツがそれぞれ特許申請をし、馬車にエンジンを付けた車の販売を始めている。それはルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年~1886年)の時代にも被っていて、少なくともルードビッヒ2世はガソリン車を知っていたはずだ。ではなぜこんな豪華な馬車を造ったのか?それはやはり19世紀末、ドイツを風靡したロマン主義思想にあるのだろう。古き良き時代? 理想化した中世へのあこがれは文学、音楽、美術、建築などあらゆる芸術作品を生んだ。ルードビッヒ2世の城もこの馬車もそうした理想の中の産物。実は彼らの中世へのリスペクトは、実際全く別の世界観を造ってしまった。ルードビッヒ2世はそこに現実逃避していたわけだ。扉の絵から察するにバイエルン王位についた戴冠式の時に使用?婚約者ゾフィー・シャルロッテ(エリーザベトの妹)との結婚式でも使用されるはずだった馬車こちらは天使やニンフ?がたくさん装飾され、女性的な繊細さのある馬車となっている。後部側ロマン派のルードビッヒ2世の趣味はとても乙女チックなのである ルードビッヒ2世の馬車 2御者台の下白鳥はルードビッヒ2世のシンボルのようなもの車輪のホイールにあたる部分にも何やら貴人が・・。ソリの部に続くリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2015年09月19日
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セイレーンの所、修正しました。m(_ _)mチュニジアで邦人の巻き込まれるテロが発生 1997年11月に起きたルクソールのハトシェプスト女王葬祭殿での銃乱射事件(邦人10人を含む62人死亡)を思いだしました。犯人は直後に自殺。イスラム主義過激組織「イスラム集団」が犯行声明を出していますが、実行犯はかなりのお金をもらっての犯行であったとも報じられていました。今回と非常に手口が似ているので同じ指示系統なのかな? と言う気もします。つい先日、ISIL(アイシル)による拉致殺害事件が起きたばかりなのでイスラム圏がより、きな臭い感じになってきた気がして不安です。特に今回のように外国人観光客をわざとターゲットにしている所は、あざとさを感じざるおえません。それぞれの不満を宗教の名を借りてぶつけてくる彼らは、イスラム原理主義の団体の肩書きをつけてますが、地域、個人それぞれにより利害が異なるので決して同じではない。「うちがやった。」と言う犯行声明が複数出るのも一枚岩ではない事を示しています。まともなイスラム教徒の人達からしても彼らは反社会分子です。エジプトはあの事件により30年後退したと言われています。復興していた観光産業は壊滅。大型ホテルもつぶれて皆職を失いました。地元の人達からみても彼らは最悪の邪魔者以外何者でもない。今回邦人3人を含む21人が犠牲に。(イタリア、フランス、ポーランド、南米コロンビア)不本意にも事件に巻き込まれまれてお亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。m(_ _)m続けて起きたイエメンでのモスクでの自爆テロ。腹立たしい限りです。信仰に厚い同胞まで標的にするなんて、もはや宗教戦争ではありません。こちらも犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。m(_ _)mそれにしてもエジプトの時も出た話ですが、犠牲者にアメリカ人がいない。(・_・?) ハテチュニジア共和国(Republic of Tunisia)バルドー国立博物館(Bardo National Museum)フェニキア人の都市カルタゴチュニジア・シディ・ブ・サイド (Sidi Bou Said)チュニジアは北アフリカの国ですが歴史深い国なので世界遺産が多く集中しています。かなり前からいろんなツアーが出ていますが近年特にクルーズ船で立ち寄るツアーが人気のようで今回の被害に遭われた方々は地中海クルーズの途中にチュニスに寄港しての観光だったようです。(楽しみにしていた旅だっただろうに・・)実はかつてチュニジア特集をした事がありました。5年前なのでカメラの質も今より劣りますし、若干景観が変わった所もあるかもしれませんが、さしさわりない分の写真も少し追加してみました。とても素敵な所なので、これで観光客が遠のく事は非常に残念です 2010年03月ベルベル人の家 1 (映画スターウォーズのホテル) ベルベル人の家 2 (マトマタの民家 1) ベルベル人の家 3 (リビング、寝室) ベルベル人の家 4 (フランス移民のベルベル人) 2010年04月チュニジアン・ブルー Part 1チュニジアン・ブルー Part 2砂漠のオアシス 1 (予告) 砂漠のオアシス 2 (タメルザ峡谷とシェビカ) 砂漠のオアシス 3 (シェビカのオアシス) 砂漠のオアシス 4 (タメルザのオアシス) 砂漠のオアシス 5 (ミデス)チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 1 チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 2 (ぶらり途中下車) チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 3 (リン鉱山) 2009年05月(番外)モザイク壁画とモザイク、ガラスの話 バルドー国立博物館(Bardo National Museum)チュニジアは古代ローマ以前、フェニキア人の交易都市として大いなる繁栄をした街です。現在残っているのはローマ時代の遺跡ですが、バルドー博物館はそんな古代ローマ時代のモザイク画のコレクションが目玉になっています。今回事件が起きたのがこのバルドー博物館入り口(外観写真はありません。)ローマ時代のモザイク画コレクションとしては世界有数だそうです。セイレーン(Siren)上半身が人で、下半身が鳥。キリシャ神話の海獣である。下の絵が続き。マストに縛り付けられた男がオデュッセウス(Odysseus)。船を漕ぐ兵士等には耳栓をさせ、自身はセイレーンの歌声を聞く為に自らマストに縛り付けられた。歌声を聞いたオデュッセウスだけが暴れだしたが、船は止まる事なく走り災難から逃れるのである。これはホメーロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア」の一節。セイレーン(Siren)の話しはアルゴー(Argo)船でイアソン(Iason)がコルキスにあると言う黄金の羊の毛皮(金羊毛)を求める冒険物語のエピソードにもある。因みに、中世、「金羊毛騎士団」の名はここに由来する。下は海神ポセイドン(ギリシャ神)orネプトゥヌス(ローマ神)地中海交易で栄えた都市だけに海に関するテーマが多いようです。下は上と同じ絵の中の一部完璧に近い形のモザイク画は案外少ないのです。後世の画家達に影響を与えたであろう事は間違いないです。チュニス最寄りの大型船の停泊する港、ラ・グレット(La Goulette)からはカルタゴやシディ・ブ・サイド (Sidi Bou Said)と言った見所がある。下はチュニス近郊の地図ですが、ちょっと古いかも・・位置だけおさえてね。黄色の円・・チュニス ピンクの円・・シディ・ブ・サイド 赤の円・・カルタゴ 青の円・・ラ・グレットフェニキア人の都市カルタゴ紀元前15世くらいからフェニキア人は地中海に進出。その出身はおそらく中東レバノンあたり?(系統としてはギリシャより古代オリエントに近い? クレタの文明色もミックスされていると思う。)紀元前12世紀には地中海のあちこちに港湾都市を建設し海上貿易で冨を築き繁栄。紀元前814年頃には現在のチュニジア、カルタゴ(BC814年~BC146年)に都市が建設され最盛期を迎える。そのカルタゴには今はガラクタのような遺跡の残骸しかないが、かつては夢のような伝説的未来都市があったらしい。フェニキア時代の円形港の後は見る影もなく、全景も撮影できていないので載せるのを辞めました 何しろフェニキ人の都市カルタゴはローマに滅ぼされて燃えて無くなったので現在残っているのはローマ領になってからの遺跡です。見える半島がカルタゴとチュニス湾(チュニスは写真右方面、内陸)撮影場所のホテルシディ・ブ・サイド (Sidi Bou Said)白と青(チュニジアン・ブルー)で彩られたカルタゴの街の山の手に展開する街。ラ・グレット(La Goulette)停泊では、ここが目玉である。青と白の建物は、一見ギリシャ的かもしれないが、ここはむしろスペイン、アンダルシアと同じ姿が見える。2010年03月「セビーリャのアルカサル 4 (装飾とイスラム文化) 」の中で「モサラベ様式とムデハル様式」を書いた事がありますが、おそらくここの建築の特徴はイスラムとキリスト教のミックスに近い?次回ザルツブルグに戻ります。
2015年03月22日
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関連カ所のリンク先追加しました。今回もウイーンの王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)からの紹介です 聖遺物については度々紹介していますが・・・。キリスト教においては、イエス・キリストを筆頭に聖母マリア、12使徒、キリストに関係した人々、他にバチカンで公認された聖人列伝に叙せられた諸々の聖人に関するお骨や彼らにまつわる品物などを総称して聖遺物と呼ばれています。聖遺物は当然カトリック関係者からみればそれ自体が信仰の対象物となり、どんな高価な宝石にもまさるお宝なのです。※ 2014年4月「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話) の中、聖遺物(聖遺物収集、聖遺物産業、聖遺物の略奪)で書いています。リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)※ 2021年8月「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」で聖人や聖遺物信仰についてかなり詳しくまとめてあります。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)皇帝の十字架(Imperial Cross)キリストの聖遺物・・・十字架の破片聖槍ロンギヌスの槍(Lance of Longinus)聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)ハプスブルグ家か所有していた神聖ローマ皇帝の表章(レガリア・regalia)は前回紹介した帝冠(ていかん)、王笏(おうじゃく)、宝珠(ほうじゅ)、以外にもたまだたくさんあります。その中でも特にパワーがあり最重要のお宝がハプスブルグ家が所蔵する皇帝の十字架の中に納められていた聖槍(Heilige Lanze)です。皇帝の十字架(Imperial Cross)この宝石で装飾された皇帝の十字架は、実は本来の用途は遺宝容器なのだそうです。つまりこれは皇帝の所蔵する聖遺物を収納する為の入れ物。1024年~25年頃の品?その中に納められていたのが(上の写真)十字架の下に置かれている槍の穂先と十字架の木片です。左・・聖槍 右・・十字架の破片聖遺物の中でもキリストに直接かかわるこれらは最も位の高い聖遺物。裏側にはエッチングで福音書記者の印や使徒達が描かれていて、その裏板ははずせるようになっている。中央のヒツジはキリスト自身? 信徒だけでなく、イエス自身も人の罪を取り除き神の犠牲となる神の小羊に例えられる。左・・マルコ・・ライオンがシンボル右・・ルカ・・牛がシンボル上・・ヨハネ・・鷲がシンボル下・・マタイ・・人がシンボルちょっとマンガちっくな絵ですねキリストの聖遺物・・・十字架の破片ゴルゴダの丘でキリストが磔にされた・・と言う十字架の木片・・・らしい。血の浸った釘穴がある・・と信じられているとか・・。キリスト受難の象徴の1つだけにキリストが持ち主を守護してくれる・・と信じられている特に神聖な遺物。出自についてはよくわかっていない。宝物館の資料に入手の解説もない。コンスタンティノープルに保管されていたものが12世紀頃に散逸して欧州にでまわった・・と言う説もあるが、そもそも磔にされていた十字架が残されていたとは思えない。(張り付け板は使い回しされていた可能性だってあるし・・。)12世紀頃に散逸して欧州に・・とは、まさに十字軍の遠征後に世にそう言うものが出回った・・と言う事なのだろう。以前紹介した聖遺物産業が頭をよぎる  ̄ ̄∇ ̄ ̄ウーン・・・本来は木片のみ支柱に納められていたのものを後にカール4世(Karl IV)(1316年~1378年)により1350年頃十字の枠が作られたそうだ。聖槍宝物館の資料によれば、この槍はローマ教皇ハドリアヌス1世(生年不明~795年)からカール大帝(742年~814年)に贈られた品とされている。カロリング時代の槍の中央は鉄のピンが入れる様に削られていて、3つの真鍮製の十字架がついている。槍の中に組み込まれた鉄のピンはいつしかキリスト磔刑の十字架に打ち込まれた釘と考えられるようになったらしい。金の被いは、カール4世(Karl IV)(1316年~1378年)時代に欠けた部分を被うようにかぶせられたもので、「主の槍と釘」と刻印されている。(それによりこれはロンギヌスの槍と釘・・と言う解釈になったらしい。)しかし、近年クリーニングした時に金の被いの下から別の刻印が出てきているそうだ。287年に殉教した聖マウリティウス(St. Mauritiusu)の名前が・・。これは以前は聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)と解釈されていた・・と言う事だ。聖槍は、金の被い以降にロンギヌスの槍(Lance of Longinus)になってしまったと言うのだからおそらくその犯人はそれらを施したカール4世(Karl IV)であろう。カール4世は政治的にも様々な工作をして家権強化を図った人だ。特に位の高い聖遺物を所有している・・と言う事はただのステータスだけではない。他の諸侯より神聖ローマの皇帝はずば抜けた聖遺物を所持していなれば笑いものである。だからもっともらしい話で正当性を強調したのだろう・・と推測できる。現在の宝物館の資料によれば槍は8世紀、フランク王国時代のカロリング朝・・と表示されている。つまり聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)でもないかもしれない・・と言う事だ。オットー1世の伝説がある。オットー1世がこの槍を持ち、侵略する異教徒よりキリスト教国を守ったレフィフェルト(Lechfeld)の戦い。勝利した事によりローマ教皇より正式に神聖ローマ帝国の帝冠を戴いた。そんな奇跡の勝利をもたらした無敵の力備わったこの槍は王者の絶対的シンボルとなり皇帝のレガリア(regalia)になった・・と言う事だ。※ レガリア(regalia)・・それを持つ事でことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品。因みに聖釘はハプスブルグ家に所蔵されている他の聖体顕示台の中にも存在している。ロンギヌスの槍(Lance of Longinus)キリストの脇腹を刺した聖槍はそれを刺したローマの兵隊、ロンギヌスの名に由来していると言うが、それ自体が実は後世の創作で実在の人物ではないらしい。そもそもキリストを刺した槍の存在はヨハネの福音書のみに記載されている話。(しかも生きている時に槍でつかれたわけではないから血が噴き出す・・と言う事も物理的にありえない。)※ ロンギヌスの槍については、2013年8月「十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)」の中、キリストの墓 で少し触れています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)キリスト教徒が迫害されていたローマ帝国時代。ローマ帝国の軍隊の指揮官だったマウリティウスはガリアに進軍。しかし皇帝との宗教的トラブルで兵は皇帝に従わない者は異教徒として殺害。287年に殉教した。槍は彼が持っていたものか? 打たれたものかは不明であるが、件の槍は聖マウリティウス(St. Mauritiusu)の槍(Lance of St. Mauritiusu)とされている。ローマ皇帝マクシミアヌス帝(Maximianus)の時代に迫害された・・と書いているものもあるが、彼はそんなにキリスト教徒の迫害には荷担していないそうだ。もしかしたら聖マウリティウスの殉教にかかわったのは当時ローマ帝国を東西に分けて共同統治していたディオクレティアヌス帝(Diocletianus)による迫害によるものかもしれない。それにしても希少なはずの聖遺物は世にたくさん存在している。実際ロンギヌスの槍は他にも存在するし、釘や十字架の破片などもあちこちに存在。その3点に限って言えば、本物は1つもないのではないか? と思うのは私だけだろうか?
2014年12月01日
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一部修正今度は長野県北部で地震 被害の大きい割に人的被害は少なくすんで何よりです。あくまで私感ですが、東北の大震災で歪みねじれた地層を修復するかのように列島が少しずつよじれを戻しているかのように思います。それにともなって若干の火山活動が起きているのか? 日本を東西に分断するフォッサマグナ内の山が微妙に活動を始めているのも気になります。今回被害の大きかった白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。今年9月に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。そしてフォッサマグナの東側線にある草津白根山も今年に入り噴火警戒レベルが引き上げられています。これ以上の災害はゴメンなのですが、油断できないフォッサマグナの地域。そして今後アルプス越えて歪みの修正は西日本にも起こるのか?さて、三種の神器と言うと日本では天照大神よりもたらされた鏡、玉、剣。天皇家により代々継承される三つの宝物をさす語ですが、今回は神聖ローマ帝国の王冠とハプスブルグ家が継承する三種の神器を紹介ハプスブルグ家の三種の神器神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)フリードリヒ2世のマントオーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ウイーンの王宮(ホーフブルグ・Hofburg)の中でも13世紀に建てられたと言う古いスイス宮(Schweizerhof)にハプスブルグ家のお宝を集めて展示している王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)があります。宝物館はそれ自体が巨大な金庫歴代の皇帝の戴冠式には冠(かんむり)以外に笏(しゃく)、宝珠(ほうじゅ)など権力を象徴する2点が加えられている。(後々マントなども加えられている。)この帝国の皇帝の持つ神器の意味と力は特別なもので、後々ヒトラーがそれらを持ち出しニュルンベルクに運んだと言う。(ヒトラーが本当に第四帝国再興のために必要としたのかは定かでないが・・。)1946年大戦の終結後に宝物は発見回収されウイーンに戻された。神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)製作年代10世紀後半。頭部十字架とアーチは11世紀に追加。この冠は神聖ローマ帝国の初代皇帝在位中に製作されたものと推測される。神聖ローマ帝国の初代皇帝 オットー大帝(Otto I)(912年~973年)(在位:962年~973年)962年戴冠。共同統治者として967年に息子のオットー2世(Otto II)(955年~983年)(在位:973年~983年)も戴冠。王冠は967年の戴冠式には存在していたらしい。皇帝を表す8より八角形のプレートでつなげられ、正面のプレートには12使徒とイスラエルの12の部族を示す12の貴石がはめられている。貴石以外のプレートは六翼の天使セラフィム(seraphim)がキリスト、ダヴィデ王、ソロモン王、ヒゼキヤ王を挟むかたちで描かれている。神の慈悲、正義、知恵、長寿をそれぞれ表す4人だそうだ。正面の十字架とアーチは5代目? 皇帝コンラート2世(Konrad II)(990年?~1039年)が加えたらしい。(名前が入っているから・・)十字架には勝利を象徴する貴石が組み込まれ、裏にはキリスト磔刑の図が描かれている。皇帝はキリストの代理人として統治し、キリストから権力を与えられ、キリストに対して責務を負う。「我により、王は統治す」と表記してあるそうだ。少なくともこの帝冠はコンラート2世の時代までは使われていた事がわかる。フリードリヒ2世のマント戴冠式のマント1133年頃、イスラムのパレルモの宮廷で製作されたマントにはラクダを踏みつけるライオンが刺繍されているようだ。(これはあきらきかにキリスト教圏以外の国の技法と意匠)このマントは1194年にホーウェンシュタウン家のものとなり1220年のフリードリヒ2世の戴冠の時には着用され、以降帝国の宝物に加わっているそうだ。フリードリヒ2世(Friedrich II)(1194年~1250年)神聖ローマ帝国ホーウェンシュタウン朝(在位:1220年~1250年) シチリア王(在位:1197年~1250年)異国の意匠にちょっと驚くが、もともとフリードリヒ2世の宮廷があるシチリア島パレルモはイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合していた土地。(1198年母方よりシチリア王位を継承。)肉体も頭脳も明晰でラテン語含む6つの言語に精通していたと言う博識の王は信仰に対しても寛容であったし、イスラム教の事もよく理解していた。しかし、フリードリヒ2世の知性からくる進歩的な考え方はまだこの時代には通用しなかったようだ。何度か教皇より破門を受けていて、当時イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを1239年、無血(交渉のみ)で休戦協定・・と言う偉業を成してもを教皇庁は彼を破門したままだった。なかなかドラマチックな人みたい神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)初代オーストリア皇帝の肖像画神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I)(在位:1804年~1835年)として即位。※ オーストリア帝国は1867年にオーストリア・ハンガリー帝国へ前回カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)では彼の柩を紹介したが、神聖ローマ帝国最後の皇帝が彼である。帝国解体にともないオーストリア帝国を建国して初代皇帝となり戴冠。そのオーストリア皇帝として正装した肖像画が上であり、下はその時身に付けた表章である。オーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝が付け加えた宝珠と王笏(おうじゃく)全てプラハで製作。ルドルフ2世の帝冠もともと皇帝の司教冠としてあった古代の宝冠をルドルフ2世の時代(1602年頃)にヤン・ヴェルエメンにより手直しされたものらしい。ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)神聖ローマ皇帝(在位:1576年~1612年)、ハンガリー王、ローマ王、ボヘミア王ルドルフ2世は政治の方は無能だったらしいが芸術家を保護、プラハは彼により文化的な繁栄を遂げている。その彼が選んだ工芸家が作り上げた見事な宝冠は1804年よりオーストリア帝国の正式な帝冠になった。中央ユリの紋章をかたどった真珠の中央には聖霊降臨祭を示す赤い色のルビーが配され王の叡智を示し、冠のアーチ部分に施されたダイヤモンドは王の統治を保証するキリストを表しているそうだ。冠トップの青いサファイアは天国を示しているらしい。これ自体が当時の技術を結集した立派な工芸品である。だいぶ研磨技術が上がってきたようだが、それでも中央のルビーは石の破片を磨いたたげの物。宝珠球体の宝珠は世界を象徴し、キリスト教世界が確立してからは上の十字架は宇宙の支配者キリストを象徴。そしてそれらは皇帝の普遍的な統治権を表す。王笏(おうじゃく)の頭の部分枝の部分はユニコーンの角と言う事になっているが、実際は存在しないので海にいるイッカクの牙であろう。ユニコーンの角はキリスト、神の力の象徴となり、キリストから王権を与えられた世俗の支配者の印になるらしい。関連のBack numberラストにいれました。マティアス帝が付け加えたこれらは帝冠に合わせて製作。宝珠と王笏(おうじゃく)共にアンドレアス・オセンブルック1615年頃製作。1619年よりこれらはフェルディナント2世の新しい表章となりフランツ2世はオーストリア皇帝としてこれを使用。皇帝の戴冠式にはどうやら正式な装束と備品(帝冠、宝珠、王笏)が必要不可欠だったらしい「ハプスブルグ家」関連Back numberリンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2014年11月26日
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近年イル・モーロの居城であったスフォルツェスコ城 (Castello Sforzesco) では、塗り込められたイル・モーロの部屋の壁からレオナルド・ダ・ヴィンチの新作が発見されたそうです。現在スフォルツェスコ城では作品を復元修復しているようですが、まだフレスコ画が主流だった時代です。他にも塗りつぶされたり破壊された壁画がどこかにあるかもしれません。またレオナルド・ダ・ヴィンチはイル・モーロの依頼で巨大な騎馬像の制作をしていたそうです。しかし原型となる粘土製の像はイタリアに侵攻したフランス軍により射撃練習の的にされて破壊され、材料のブロンズの方は大砲の材料に持って行かれ結局造れなかった。(完成していたら残っていたかも・・。)何しろこの戦争でイル・モーロは囚われミラノ自体の運命が大きく変わるのです。その時(1499年)ダ・ヴィンチは弟子のサライや友人とミラノを離れヴェネツィアに逃げています。ミラノ侵攻がその時に無ければ、ミラノにはもっとダ・ビンチの作品が残っていたに違いありません。さて、今回はミラノの貴族の私邸を改造した美術館の紹介です。偶然にもこの時、一部作品が日本に来ていたようで逆に残念でした。(Bunkamura ザ・ミュージアム と大阪で特別展)所蔵品の質においては前から定評がある美術館でしたが、館の素晴らしい調度品の中でこそより引き立つ絵画やコレクションの鑑賞は来館したからこその有意義な時間でしたポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)マルティン・ルター夫婦の肖像聖人図ミラノの貴族であった美術収集家ポルディ・ペッツォーリ(Gian Giacomo Poldi Pezzoli )(1822年~1879年)の私邸はモンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone)駅から数分のところです。以前「モンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone)のレストラン」で紹介したジュゼッペ・バガッティ・バルセッキ(Giuseppe Bagatti Valsecchi)美術館と同じようにゲートは狭く中庭に美術館入り口があります。ルネッサンスから19世紀までの美術品のコレクションは、もともとポルディ・ペッツォーリ(Gian Giacomo Poldi Pezzoli )とその母ローザ(Rosa Trivulzio)のコレクションからなっているそうです。ポルディ・ペッツォーリは1879年に57歳で亡くなり、コレクションや屋敷は遺言で芸術財団に寄贈。財団により1881年4月にポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)は開館しています。エントランス右の螺旋階段は待合室を兼ねた造りになっている。こじんまりしているけど個人の家としてみたらかなり立派。オブジェの池には金魚が・・。コレクションを飾る為の場所にもこだわったと聞く。1階には中世の武具コレクションの部屋とペルシャ絨毯の部屋がありました。2階に上がってすぐに陶器のコレクション・ルームマルティン・ルター夫婦の肖像突然ですが、階段上がって正面の小部屋にはルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach il Vecchio)の手によるマルティンルター夫妻のポートレイトがありました。一般に紹介されているのはたいていこの写真です。左・・マルティン・ルター(Martin Lutero)(1483年~1546年)右・・カタリナ・フォン・ボラ(Katharina von Bora)(1499年~1552年)マルティン・ルター(Martin Lutero)は免罪符を非難し、宗教改革の引き金を引いた人で有名ですが、いくつかの改革の中でも聖職者の独身制を否定して自ら結婚していた。と言うのを実は知りませんでした。ルターはもともと聖アウグスチノ修道会系の修道士であり、カタリナも修道女。ルター41歳、カタリナ26歳の時に2人は結婚したそうですが当然カトリック教会からは猛反発。しかしプロテスタント教会においてはルターのおかげで牧師の結婚が認められる事になったのです。ところで、プロテスタントとは、ラテン語のプロテスタリ(prōtestārī)(抗議)が由来。カトリックに抗議した事から来た語と言う訳だ。陶器の間の先ずっと奧に特にスペシャルな部屋があった。そんなに広い空間では無いがその部屋は隅々凝りに凝った装飾がされている。装飾の雰囲気からしてここはプライベート祈祷室だったのかもしれない。向かって左サイド入り口側を振り返った所まるでイスラム教のミフラーブのような造りと装飾はちょっとムデハル様式を思い出す。壁に描かれた絵画からロマン派の要素もうかがえる。これが本当の本場イタリア式のネオ・ルネッサンス(Neo Renaissance)様式なのかもしれない。そう考えてみると建物も気になった。古代ローマを意識したような古典リヴァィバルである。ポルディ・ペッツォーリの時代からしてもおそらく建物自体もネオ・ルネッサンス様式に違いない。ポルディ・ペッツォーリのコレクションで最も感激したものが下である。これは自動時計の開発される前の携帯日時計なのだ。金持ちはこうした象牙でできた方位磁石と日時計を持ち歩いていた・・と言う事実に驚いた 聖人図ポルディ・ペッツォーリの館には沢山の絵画コレクションもある。特に聖人像や聖母の絵画は非常に有名どころがそろっていて質が高い。聖セバスティアヌス(Sebastianus) 日本でも三島由紀夫のおかげでよく知られているセバスティアヌスの絵画がこの家にはかなり多かった。その理由は彼はミラノ市民だったからのようだ。若くて美しい? セバスティアヌスはローマ軍の指揮官で皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)(在位:308年~313年)の時代に生きた人である。特に皇帝ディオクレティアヌスにはかなり気に入られていたにもかかわらず、キリスト教徒であることが知れると矢で射られる刑を受けた。その受難の姿が上のような図なのであるが、実際彼は矢では死なず、後に棍棒で打たれて殉教したとされている。(黄金伝説)ミラノではキリスト教が公認されるとわりとすぐに聖人認定されていたようだ。聖母子数多いポルディ・ペッツォーリ美術館の聖母子の中でも特に魅入られたのがこの作品。実に気品あるこの作品はサンドロ・ボッティチェリ(Sandoro Botticelli)の「Madonna of the Book」ボッティチェリと言えばヴィーナスの誕生など異教の女神を描いたものが有名であるが、こんな聖母子も描いていたのが逆に新鮮 他にジョットなど紹介したい作品もあるから続きにすべきか・・次回まだ未定。 ( ̄~ ̄;)ウーン・・・
2014年09月15日
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ウィキメディアからのきれいな写真に変更しました。やはりポスターでは色調が・・・。前は無かったのです。基本撮影ができない所なので、どこかが許可どりして撮影した写真なのでしょう。非常に助かります。今回トイレ事情が一番悪かったのがイタリア、ミラノでした。欧州の常識は、トイレが少なく、かつ有料が原則。トイレがタダなのは空港や美術館の中、レストランくらい。駅のトイレも有料です。だから逆にトイレでしない人がいるから街の衛生が悪くなる現状もあるわけです今回のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院もトイレ事情が悪い所の一つです。教会にトイレが無いのはあたりまえ。カフェで飲食すればタダで借りられますが、トイレだけなら有料。近辺にこれといったカフェもあまり無いところです。チケットを持っていて「最後の晩餐」を見学した人は出口のお土産コーナーにあるトイレを借りる事ができますが清潔・・とは言えないトイレでした。(便座が無い洋式が一つと、汚れたアラブ式。しかも男女共用)因みに近所のカフェのトイレも便座がありませんでした。どうもイタリア人は女性でも便座に座らずにするようです。行く前にどこか比較的きれいな所ですませて行く事を勧めます (;^_^A修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復完成後から崩れ始めた壁画ナポレオンが発注した複製モザイク画事務所で受け付けしてもらったチケット。(2人分)予約した人の名前が入っている。2枚は当日借りたオーディオ・ガイドのチケット。オーディオ機器は、借りる時にIDを預け返却の時にIDを返してもらう。CENACOLO VINCIANO(最後の晩餐)事務所待合室わずかな座席しかないので次の回に入る人で一杯。(見学は15分で入れ替え)CENACOLO VINCIANO(最後の晩餐)の壁画はもちろん撮影禁止。(本から撮影)部屋の広さに呼応している遠近方、食堂の長さを1.5倍にしている。(実際はもっと薄暗い)当初質素な食堂は、ブラマンテか? あるいはダ・ヴィンチが絵画との調和を考えてルネッサンス風に改築。また、後世、戸口を付ける為にキリストの足が描かれていた部分が壊されている。さらにダ・ヴィンチは壁画を描く壁の裏を砂袋を入れた袋を並べて壁自体の保護補強をしている。そのおかげで1943年の爆撃で食堂の東の壁と天井が崩れ落ちたのにこの壁画のある壁は生き残った。まさにミラクル教会の方の売店で買ったポスターから撮影下はウィキメディァから前は無かったのです。近年の修復は1977年~1999年まで行われた。この修復はできるだけダ・ヴィンチのオリジナルに戻す事とされ、従来の修復の概念に反した為に物議を醸したようですが、保存と美的観点から、この修復計画は成功したようです。何しろ18世紀に行われた修復では顔、表情、物腰、色までゆがめた上にダ・ヴィンチが陰影によって表現した時間軸や使徒達の属性をも塗りつぶしてしまっていたようです。要するにダ・ヴインチの作品か? と言うほど変貌していたようだ。ダ・ヴィンチはこの絵画を科学的考察により描いている。多才なダ・ヴィンチはこの頃、力学や弾道学など物理学の研究もしている。解剖学の勉強はデッサンに生かされ、建築学、幾何学と彼の興味は枚挙(まいきょ)にいとまがなかった。彼はただの芸術家では無かったので、この絵の中には彼の実験がたくさん閉じ込められている。それが近年の新しい修復により、500年前の姿が取り戻されたのである。今、ダ・ヴインチが見る者に伝えたかった真実を見せてくれているのである。限りなく、オリジナルに戻すと言う修復方法は、絵画においては、今後の修復の基本になる事だろう。下もウィキメディアから色彩は飛び、壁もかなり剥落しかけているが、人物にダ・ヴィンチらしさが感じられる。完成後から崩れ始めた壁画しかし、実際オリジナルに戻す事はかなり難しい問題があった。普通のフレスコ画で描かれていないこの作品の元の壁がどこまで残っているか?上の加筆された壁を取り除いた時にどれだけオリジナルが残っているかは、やってみなければ解らない一つの賭けだったようだ。上の写真はもちろんポスターを写しとったものであるが、壁や色の剥落がこの写真からも解ると思う。おそらく、私達が今まで本などで見ていた修復前の色あざやかな作品とは別物になっている事だろう。壁の土台は石膏2層の壁。それにテンペラ画で描かれている事が科学的解析で判明。(数カ所油性)通常フレスコ画の場合、まだ湿った状態の漆喰層の上に絵の具を染みこませて色を付けるのが一般的。だが、彼は後から絵の具の上塗り(加筆)による効果を考えて普通のフレスコ画の技法では描かず、テンペラの絵の具を使用したようだ。その実験的趣向のせい? あるいは湿気のせいか? 「最後の晩餐」は完成後から20年目には早くも傷み始めたと言う。さらに50年すると壁画はもっと悲惨な状況になり、修復の仕方で大論争も起きている。1770年の修復ではユダ、ペテロ、ヨハネ、キリスト以外の使徒の元絵そのものを全て塗りつぶして書き換えられたと言うナポレオンが発注した複製モザイク画写真は、ウイーンのミノリーテン教会(Minoriten Kirche)に置かれている「最後の晩餐」のモザイク画である。これは本物の複製として造られたモザイク画らしい。制作年は1809年。製作者はGiacomo Raffaelli。依頼者はナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)このモザイクはナポレオンが皇帝時代に発注してパリに運ばれるはずだったものだそうだ。完成時にナポレオンが皇帝ではなくなっていたので、フランツ1世が買い取りウイーンに運ばれ、どう言う経緯か解らないがここに飾られる事になった。※ 確かにナポレオンはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院に来ている。さすがに壁画は持ち去れなかったが、教会の聖母像前から銀の燭台(しょくだい)を持ち去ている。上のダ・ヴィンチの作品とは似て非なるもの。非常に細かなモザイクでカメラでアップしてもモザイクには思えない。モザイクの腕はすばらしいが・・。制作年から推察すると、この作品はひどい修復時代の作品がモデルになっている。構図だけが最後の晩餐を示しているもののダ・ヴィンチの作品としては見る影もない。もし、これが修復以前の最後の晩餐の姿であったのなら、やはり真実の姿に戻してくれてありがとう。・・と、言いたいです。m(_ _)m アリガトォ~★関連back numberリンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)
2014年08月03日
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タイトルについて「わたしのこだわりブログ(仮)」の仮(かり)タイトルであるが、2009年4月にブログをスタートしてから結局タイトルは決められず、「仮」のまま継続したのでこのようになっています。当時はヤフー検索でも、(仮)タイトルの使用は私以外誰もいなかった事もあります。ところが、最近やたら多くなっています。それはゲームサイトのニコニコ動画が2012年10月に(仮)を使用してからです。ニコニコ動画(現在Ameba)は、その後ゲームソフトの末尾に必ずと言っていいほど(仮)を載せるようになり、今や(仮)だけでそこのゲームソフトしか出ない程に・・。私的には(仮)はのっとられてしまったような気分だ ( ¬^¬ ) ムウ~今回のアクセスの上昇は(仮)のせいかな ? ブルージュ(Brugge) 10 (聖母教会周辺から)グルートフーズ美術館(Gruuthuse Museum)ブランギン美術館アーレンツハイス(Brangyn Museum Arentshuis)聖母教会(Onze Lieve Vrouwekerk - in Bruges)聖ヤンス病院 メムリンク美術館(Sint Jans hospitaal Memling Museum)今回はダイフェル(Dijver)からグルートフーズ通り(Gruuthusestr)につながる聖母教会界隈の紹介です。言ってみれば外側から聖母教会を見る・・と言った回です。このあたりはなかなか素通りの観光客は写真に撮らないので情報が少ない場所。敢えて細かく紹介する事にしました。実際ブルージュ観光は人気・・とは言え情報が少ないし、ベルギー観光局の情報サイトが良くないのです。その上ガイドブックでさえ写真を取り違えているカ所もある。実はブルージュと言う街は今でこそ田舎ですが、中世は金融でも、貿易でも欧州一と言うほど賑わったすごい街だったのです。これから紹介する聖母教会には中世のブルージュの君主と娘の棺が置かれているのですが、その娘の孫がカール5世です。そのへんの事情は棺の時に紹介します。鐘楼からの写真で位置関係を説明S・・・聖母教会G・・・グルートフーズ美術館M・・・美術館(左 グルーニング美術館, 右 ブランギン美術館アーレンツハイス)P・・・ペギン会修道院ブルーのラインは運河の位置グルートフーズ通り(Gruuthusestr)とグルートフーズ家の門と聖母教会の鐘楼手前の撮影場所はダイフェル(Dijver)通り側グルートフーズ家と聖母教会は隣接している・・と言うよりはほぼ接着しているのである。教会の聖堂の脇にはグレートフーズ家の者だけが礼拝に参加できる小部屋が造られているからだ。グルートフーズ美術館(Gruuthuse Museum)建物右後方が聖母教会13世紀に遡るグルートフーズ(Gruuthuse)家の邸宅は現在美術館として公開されている。入り口上の飾りは騎士として成功した印?グルートフーズ(Gruuthuse)家ビールの香りをつける薫草(gruit)の販売独占で成功したグルートフーズ家。特にフランドルの黄金時代の富と贅沢の中で育ったルイス・デ・グルートフーズ(Louis de Gruuthuse)(1422年~1492年)の代には最も輝かしい時代を構築。ルイスは騎士としてトーナメント(ホワイト・ベアの大会)で何度も優勝。その腕はブルゴーニュ公の目にとまり宮廷入りをする。ゲントとの戦いでは勇敢で忠実な盟友となり、軍事スキルも得て政治家になるとブルゴーニュ公シャルルの依頼で娘マリーの縁談をまとめたのである。因みにここは娘のブルゴーニュ公女マリー(マリー・ド・ブルゴーニュ・Marie de Bourgougne)とシャルルの霊廟になっている。)ルイスはとんとん拍子に出世してグルートフーズ家の地位を確固たるものに・・。(バラ戦争からの亡命中のエドワード4世をかくまったので、後にウィンチェスターの伯爵の称号も得ているし、金羊毛騎士団にも名を連ねている。)かくしてグレートフーズ家は軍事、外交で仕え、コレクターとして、パトロンとしても一流貴族に名を連ねた家なのである。ダイフェル(Dijver)側のブランギン美術館アーレンツハイス(Brangyn Museum Arentshuis)地下をもぐる運河のトンネルをくぐると・・。トンネルをくぐり・・・船越しに見た聖母教会と手前がグルートフーズ家の屋敷の一つ聖母教会(Onze Lieve Vrouwekerk - in Bruges)(Church of Our Lady Bruges)高さ122.3m。こちらは教会の聖堂側。(教会の後部屋根組のあたりを専門用語でシュヴェ(仏語 chevet)と言うらしい。)ブランギン美術館アーレンツハイスのトンネル裏側(聖ボニファティウスの橋から)ブランギン美術館アーレンツハイス(Brangyn Museum Arentshuis)写真の建物アーレンツハイスは18世紀貴族の邸宅で、現在美術館として公開されている。2階はブルージュ生まれのイギリス人、ウェールズの芸術家フランク・ブランギン(Sir Frank William Brangwyn)(1867年~1956年)が寄贈したコレクションが展示。アーレンツホフ(Arentshuis)写真右がアーレンツハイス(Arentshuis)で左が運河挟んでグルートフーズ美術館(Gruuthuse Museum)ここはアーレンツハイスの裏庭である。ちょっと見えにくいが「死」、「戦争」、「饑餓」、「革命」をテーマにした「黙示録の4騎士」のブロンズ像がある。写真左奧には運河にかかる聖ボニファティウスの橋があり、グルートフーズ(Gruuthuse)家の裏庭に通じる。聖母教会の撮影ポイントでもある。聖ボニファティウス(St Bonifatius)(672年頃~- 754年)8世紀にゲルマニアにキリスト教を伝えた伝道師。ドイツの守護聖人教皇グレゴリウス2世より「善をなす人」を意味するボニファティウスの名を与えられゲルマニア地域の司教に昇任するも伝導中のフリースラントで殉教。ゲルマニアのローマ帝国時代の国境の北部および西部におけるキリスト教化は彼のおかげらしい。聖ボニファティウス橋の上から(南、ペギン会方面)運河はこのあと右に教会を回り込む形でメムリンク美術館の横を通りペギン会修道院へ向かう。メムリンク美術館の裏手聖ヤンス病院 メムリンク美術館(Sint Jans hospitaal Memling Museum)12世紀に建てられたヨーロッパ最古の病院とされる? 聖ヤンス(聖ヨハネ)施療院の中が今は美術館となっている。(聖ヨハネ病院は十字軍の時に出てきましたね。)その為中には病院関係の器具なども展示されている。メムリンク美術館と呼ばれるのは、ハンス・メムリンク(Hans Memling)の祭壇画と聖ウルスラの絵が所蔵されているからである。聖母教会の入り口(拝廊)の正面に位置していてかなり広い敷地面積。中には薬局の役割も担っていた僧院も併設。聖母教会入り口正面側の美術館入り口次回、聖母教会内部リンク ブルージュ(Brugge) 11 (聖母教会)
2014年05月22日
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Break Time(一休み)ブルージュに入る前に、是非紹介しておきたかったけどブリュッセル(Brussels)シリーズに載せるにはちょっとマイナーな番外編。前回ヴィクトール・オルタ(Victor Horta)のアールヌーボー建築の話をしましたが、今回アール・デコの邸宅です。ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)ブリュッセルの高級住宅街ウックル地区にある美術館は、もともとここに住んでいたダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン夫妻の邸宅を1973年に美術館にしたものです。ガイドブックにもあまり紹介されていないので日本人の訪問者は少なく。そうでなくても地図も看板もなく、ここにたどり着くのはかなり至難な美術館でした。前日に人でごった返したオルタ美術館(Musée Horta)を訪ねていただけに閑静な住宅街の中のこの美術館はいろんな意味で対象的な美術館でした。時間がある人で建築や庭に興味のある方にはお勧めです 住所 41 Léo Errera Avenue, 1180 Brussels写真は昨年5月の中旬。季節には季節の花が咲く。庭園ではちょうどキングサリやライラックの時期でした。残念ながら例年より寒くパラなどはまだこれから。7月頃に行くのがベストかも・・。表札はこれだけトラムを降りてからどの辻に入るのかがわからず場所を特定する為にこのあたりをくるくる回りました。(辻が8叉路くらいあった)しかもオープンは毎日14時~17時30分(火曜日を除く)それまで門は普通に閉ざされているので民家と見分けがつきにくい。1928年に完成したこの建物は外見上アムステルダム派の建築に分類。実はこの建物の設計は施主であるダヴィッド(David)自身が行い建築家の甥が設計図を描いたようだ。オランダ風の赤煉瓦の外観は施主の控えめな性格が現れていると言うが、内装は凝りに凝ったアールデコ様式にデザインされている。しかも、家同様家具も施主であるダヴィッド・ヴァン・ビューレン(David van Buuren)がこだわって造らせたものなのだそうだ。アール・デコ(Art Déco)は幾何学図形をモチーフにした装飾で1925年のパリ万国博覧会で紹介されたスタイル。1930年代のニューヨークのクライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンター等がアール・デコ建築として有名。ダヴィッド・ヴァン・ビューレン(David van Buuren)(1886年~1955年)はオランダで生まれ1909年ブリュッセルで銀行家になった。1922年結婚してこの土地を購入すると二人は自分達の好みで当時流行していたアールデコ調のデザイン家具や絨毯、テキスタイル、ランプなどを発注。実はここもオルタ同様内部の撮影は禁止されている。そこで奥の手。購入してきたガイドブックから写真を借用しました。玄関ホールと階段木材はブラジル産の紫檀とマホガニー。デザインはパリのデザイナー、ドミニク。リビングの家具も全て彼の作品。ガラスのシャンデリアはウィーン分離派出身のヤン・アイゼンルーフェル。窓やドアのステンドグラスはオランダの装飾家でアムステルダムのアメリカホテルを手がけたヤープ・ヒディング。左に見切れているブロンズはベルギーの芸術家ジョルジュ・ミンヌひざまずく人。ボタニカル・ギャラリーと呼ばれるこのリビングは特製の花柄の絨毯に由来する。デザインは1925年にパリ万博で活躍したフランスのアール・デコのデザイナー、モーリス・デュフレーン。ちょっとなつかしい昭和のにおい。アール・デコ(Art Déco)は日本でも昭和初期に流行ったようで、なんとなくどこかで見たようななつかしさを感じるのかもしれない。品の良いお金持ちのお宅に遊びに来た・・と言う感じ。写真は無いが、カトラリーや食器まで施主のこだわり抜いた趣味が反映。絵画もわざわざダイニグの為に描かれた6点の静物画。(6点で一つの作品)等の他、ブリューゲルの「イカロスの墜落」をはじめ、ペルメーク、ヴァン・ド・ヴェスティーヌ、スピラール、アンソール、藤田、ド・スメト、ゴッホ、エルンストなどの作品がコレクションされている。しかし個人的に思うに実際の所絵画については本物か不明な部分もある。例えばブリューゲルの「イカロスの墜落」はカンヴァス版が王立美術館にあるが、近年それは偽物ではないかと言われているし、メトロポリタンにもイカロスがあった。画商は本物としてダヴィッドに売ったそうだが果たして?まあ、とにかく芸術好きの施主がこだわり抜いて造り上げた家にこだわり抜いて集めたコレクションが当時のまに展示されているわけです。ダヴィッドが亡くなり後にアリス夫人により1970年に財団法人が設立され屋敷とコレクションが寄贈されダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館ができたそうだ。家側からの庭園ジュール・ビュイッサンスによるアール・デコ様式の薔薇園(1924年)や英国庭園など当時の一流どころが庭園設計家を手がけたそうたで、手の込んだラビリントスなどいろんな種類の庭があり花がある。ラビリントス(迷路1968年)は大人も楽しめる。一度入ったらリタイアできないので注意。ハートの庭(1969年~1970年)アリス夫人が亡きご主人の為に造らせたと言う。とても可愛らしいコーナー。よくよく見ると花はシャベルできている。楽しいオブジエがあちこちに。近所の人なら子供連れで楽しめるコーナーもある。日本人の来訪者などほとんど来ないようで、何を見てここに来たか? と訪ねられた。それでも日本語解説が用意されていたので日本人ウェルカムのようだ。だから少し宣伝してあげたいな・・・と思ったわけです おわり
2014年02月24日
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写真一部入れ替え追加しました。オフ・シーズンに海外旅行をすると空いていてホテルも手頃だし、観光する教会や美術館もすいているから見やすいだろう・・なんて思いがちである。しかし、これは問題があった。実は観光客の少ないオフ・シーズンに合わせて当局が修復工事を行ったりするからである。美しい教会の外観を撮影したくても、足場とホロがかぶっている事があるし、目玉の絵画が展示されていない事も多い。大がかりな修復工事の時は、外貨稼ぎの為に海外にレンタルされる作品は結構多いのだ。昨年の旅行ではテイトギャラリー(ロンドン)のラファエロ前派の作品が目当てだったのに無かったし、ハーグ(オランダ)では目玉のフェルメールが無かった。美術館のホームページを見ても、「今は貸し出し中です」なんて案内は一切無い。(ハーグに至っては美術館自体が修復工事で移転しているのに案内が無かった。おかげで工事現場の回りを3周もしてしまったぞ)だからわざわざ行って空振りだった時のショックは大きいのです。・°°・(>_<)・°°・。 ウエーンそのかわり期待していなかっのに大きな収穫があるラッキーもあるが・・サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)タペストリー(tapestry)フランドルのタペストリーとフランスのゴブラン織りソリ(sleigh)のコーナーからタペストリー(tapestry)タペストリーの歴史をたどると古代エジプトまで遡るそうだが、歴史に登場してくるのは古代ローマの交易の中からだそうだ。同じくペルシャ絨毯も東西の交易の中で流通して広まった。なぜ絨毯の話を持って来たか・・と言うと、フランドルの厚みのあるタペストリーを見ると、ちょっと絨毯のようにも見えたからである。もっとも遊牧民の生活の中から生まれた敷物の絨毯と高官の宮殿の壁掛け装飾のタペストリーは似て非なる存在だ。しかし絨毯は高級になると壁に飾られ、タペストリーと同じような機能を持つのである。そしてフランドルのタペストリーは壁と床と両方の機能を持って使用されたに違いない。製作過程の展示もある。13~14世紀になると欧州では、城や聖堂、貴族の邸宅などには装飾性の高いタペストリーがポピュラーに飾られるようになった。タペストリーは装飾だけでなく、巻いて持ち運びができるので、旅先にも持ち歩きができたうえに窓を塞ぎすきま風を防ぐなどの防寒としての機能もあったと言う。つまりカーテンの用途もあったわけである。(だから大きく裾が床に着くほどの大きさで織られていたのだろう。)前回の写真から最初にこの部屋に入った時、バチカン美術館からシスティナ礼拝堂に向かう途中にタペストリーがたくさんつり下げられた回廊を通った記憶がよみがえってきた。絵画のような精巧な絵が織り込まれた美しい大きなタペストリーは天上が高く、広い回廊のバチカンの中でも存在感があたからよく覚えている。あのバチカンの回廊を飾っていた数多くのタペストリーはこのフランドルで織られた至極の逸品。ここに展示されているタペストリーと同じ物だそうだ。王侯貴族のパーティー?テーマからどこかの諸王の宮殿を飾っていた品であろう。古来よりタペストリーは祭具や室内装飾布、袋物、帯地等に用いられたと言うが、フランドルのつずれ織りのタペストリーは精密な絵画仕立てで品質がよく、上質な高級品として当時欧州一だったそうだ。しかし、ルイ14世が国策としてゴブラン工場を造ると仕事はフランスに持って行かれたのである。部分その精密さは拡大するとよくわかる。実際タペストリーは今見ても本当に素晴らしい。絵画にひけをとらない精密さと色使い。これが織物とはとても思えないできばえである。女性のドレスのフリンジ部分絵画のようなタペストリーにはフレームも花やフルーツなどの絵柄になっている。とにかく細かくて凄い。フランドルのタペストリーとフランスのゴブラン織りつづれ織りの織物をゴブラン織り・・と言ったりするようだが、本来のゴブラン織りは、ゴブラン兄弟の工房から出荷されるゴブラン家の家紋が織り込まれたもののみに与えられた呼称だったそうだ。が、そもそもはゴブラン家は染め物工場で、そこにフランドルから職人を招き、フランドルの技術を受け継いで織られたのがゴブラン織りなのだそうだ。そこにフランスの経済政策がのっかる。時は1667年ルイ14世(1638年~1715年)の元で財務総監だったジャン・バティスト・コルベール((ean-Baptiste Colbert)(1619年~1683年)は産業の発達と輸出を奨励。その中にゴブラン織りもはいっていて、国策として工場を買い上げゴブラン織りの生産、輸出を薦めた。そして、先述のように織物市場はフランドル産からフランス産にシフトしたのである。※ 全然中身の質が違うが・・。おまけ・・・バチカン美術館からシスティナ礼拝堂に向かう通路のタペストリーバチカンのタペストリー絵柄は新約聖書「ヘロデ王による幼児虐殺」であろう。タペストリーだけではつまらないので、最後にめずらしいものを・・。この博物館以外では見た事がない珍しいソリのコレクションを一部・・。ソリ(sleigh)のコーナーから来歴などチエックしてこなかったのでコメント無し。アールヌーボーのソリは転んだら大けがしそう。いずれのソリも従者が後ろに乗ってコントロールするようになっている。アールヌーボーの部屋からサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire) おわりback numberリンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)
2014年01月25日
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サンカントネール公園のついでに美術館の紹介もここで挟む事にしました。(2編くらい)最初に・・公式の正式名称はRoyal Museums of Art and Historyです。厳選された骨董価値のある逸品が飾られている見応えのある美術館でした。美術館の善し悪しは、もちろんどれだけのお宝を収容しているかで左右されますが、その見せ方も大切な要素です。つまりそこの学芸員の腕次第で、それほどの展示物でなくても、素晴らしく価値のあるコーナーを造る事が可能なのです。昔と違い、最近どこの美術館もただ並べるだけの展示から、コンセプトを持った展示に切り替わって来ているのでかなり面白くなってきています。知らなかった新しい世界を提供してくれる展示は、ワクワクします。それこそ学芸員の知識とセンスのたまものでしょう。今回は特に目を引いた逸品を載せて見ました サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)(Royal Museums of Art and History)ローマン・グラス(Roman Glass)古代エジプトコーナーからブリュッセルでは王立の美術館があり、絵画部門と工芸博物館とに別れています。サンカントネール美術館は、王立の美術史博物館であり、ベルギーの工芸品だけでなく、世界五大陸からの美術工芸品など35万点が展示されている大規模美術館です。しかしもともとハプスブルク大公の所有だった高価なコレクションのほとんどは1794年ハプスブルク家当主となったフランツ2世(1792年~1835年)の時代にウィーンの帝国の博物館に移送されたようです。(※ フランツ2世(1792年~1835年)は初代オーストリア皇帝フランツ1世となる。)ベルギー王室2代目のレオポルド2世(Léopold II)(1835年~1909年)(在位:1865年~1909年)の時に公園造園と共に計画され、寄贈されたコレクションや王のプライベートコレクションなどが集められ始まったようです。1912年王立サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)となり、1922年~1926年正式名称は王立美術歴史博物館(Royal Museums of Art and History)になる。その後、大戦でストップするまで、国王の植民地政策の他、博物館には研究機関が組織され、エジプトやアフリカ、イースター島にまで行ってコレクションの収拾を計った。(それが現在の幅広いコレクションの発端になっているようです。)入場は5ユーロ入ってわりとすぐ左手にあるお土産コーナーお土産も多いが、美術関連の書籍、リアルに近い複製の工芸品もたくさん販売されている。入り口より右手の方は中世のたたずまいを持つ室内装飾になっている。所々置かれて居るのはアンティックの聖水盤中庭古代のローマン・グラス左から4つが宙吹き ・・宙吹きの技法でガラスは薄く透明に近づいた。写真右のゴブレット ・・たぶん「型吹きアーモンド杯」2世紀のシリア産。同じ物が大英博物館にもあるようです。ローマン・グラス(Roman Glass)広義には古代ローマ時代に造られたガラス製品を指す言葉で、欧州では昔から使われてきたガラス器の呼称だそうです。古代ローマとは紀元前8世紀(ローマ建国)から始まって5世紀の西ローマ帝国滅亡までを指すのが妥当だと思いますが、狭義のローマン・グラス(Roman Glass)として考える時は、紀元前1世紀から5世紀に造られた製法のガラス製品をさしています。なぜならローマ時代に発達したガラス造りの転換期が紀元前1世紀に起ったからです。紀元前1世紀、資源調達国であるローマ帝政期のシリアで吹きガラスと言う新しい技法が誕生。さらに進化して透明ガラスになるとガラスの価値も一変。従来は細かいガラスをつないだモザイク技法やパートドベールなどの手間のかかるガラス細工は装飾的なお宝でしかなかった。それが大量に生産できるようになってサイズも大型化、そして値段は200分の1にまで落ちて製品として実用化にまで発展。ローマ帝政期の1世紀~3世紀のローマン・グラスは、ローマ市民のポピュラーな実用品となり市民の生活の中にも浸透して行ったそうです。「ローマではガラスの瓶や杯が銅貨1枚で買えるようになった。」by ストラボン(Strábôn)・・・古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家。初期のガラスの存在は金や宝石に匹敵する高価な存在だたようですが、技法が確立され、生産性があがり安価になったローマン・グラスはローマ帝国の交易にのって世界に広まった。そして、最初に紹介したようにベルギーおよびオランダ、ルクセンブルク含む一帯が古代ローマのガリア・ベルギカ(Gallia Belgica)州であった為にそうしたローマ時代の遺物も結構出るのでしょう。ところでローマ時代のガラス職人の地位はかなり高かったらしく、名工は、作品に名前を刻んでいたそうである。今で言うブランドの走り・・でもあるようですね。コア・グラスとラスター彩色のミニボトルフランス語解説ではまとめて紀元前6世紀~3世紀となっているが・・これらは、おそらく香油ビン(Perfume bottle)と思われる。左2点がコア・グラス ・・解説は無いが、たぶん紀元前15世紀ぐらいの古代エジプト時代のもの。右の3つは宙吹きのラスター彩色のローマン・グラス あくまで私の推定で、古代ローマ時代、3~4世紀のシリアか?ラスター彩色はイオン交換着色と言う金属酸化物を吹き付けて化学反応により光沢を出す高度な技法。なぜ古代ガラスを載せたか? と言えばこのラスター彩色の小瓶があったからである。小さいし、そうは見えないかも知れないけど、これはなかなかの宝なのです 薄くて小さくて、壊れやすいガラスが現在まで残っている事自体奇跡なのですから・・。collier en perles de verres(トンボ玉のビーズ・ネックレス)Iran Amlash(イラン アムラッシュ) 紀元前10~8世紀 Fouilles de Ramat -Abat(ラマシェィド発掘)こんな完品はおそらくお墓からの出土では?俗にトンボ玉と呼ばれるガラス玉は紀元前2000年にはすでにあったようです。ガラスは宝石級の扱いだった事がわかります。因みに・・近年、シリアで売られていたレプリカの土産用ガラスの小瓶なぜこんなに小さかったのか?古代、最初は炭火でガラスを成形していたからだろうか?やはり希少品・・と言うプレミア以外に目的がなかったからだろうか?シリアにはガラスの博物館があります。今の内戦で破壊されていないか心配です。ガラスに関してはティファニーランプなどいろいろ過去ログに書いています。このブログ内検索で「ガラス」と入れて検索してみてください 古代エジプトコーナーから研究チームがエジプトから持ち帰ったものだろう。まだ1900年初頭には出回っていたのかもしれない。誰もいない部屋で一人で見学するのはちょっと怖かったミイラに巻く亜麻布巻く順や部位で変わるようである。今まで布まで展示している所は見た事がなかった。キャップストーン(Capstone)冠石ピラミッドのキャップストーン? あるいは形状からするとオベリスクのキャップストーン?いずれにせよ今までお目にかかった事がなかったかも・・。次回フランドル・タペストリー予定リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)
2014年01月23日
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最新の「アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 」シリーズのリンク先をラストに載せました。Break Time(一休み)前回カサ・ミラ(Casa Mila)で紹介した屋上の屋根裏にガウディの制作した椅子が展示されていたのでその椅子の紹介です。ガウディの椅子についてはグエル公園にあるかつてのガウディの家(現在は博物館)でオリジナルが公開されています。そちらの写真と共に紹介しますが、データが無いので椅子に関する詳しい説明はありませんが・・。ガウディの椅子ガウディの奇抜な家は、窓やドアに至っても奇抜です。当然そんな家の調度品は従来の品では物足りなかった事でしょう。何しろ建築と一体となる無くてはならない存在が家具です。フランク・ロイド・ライトは自分の設計した建物には原則的に自分で設計デザインした家具を置いた・・と言われますが、ガウディもまた幾つかの椅子やミラーなど小物もデザインしているのがわかっています。(それ以外については実はよくわかりません。)実はガウディの家具について調べていたら、面白いサイトがヒットしました。それはガウディの椅子のレプリカを販売している会社のページです。そこによればこの家に合わせた家具・・と言う意味で椅子に名前が付いていますが、実際の所その確証がとれないので今回はそう呼ばれている・・と言う事で参考に名前を載せておきます。それにしてもレプリカなのに随分高価な値段がついていましたよオーク材のベンチ(カサ・ミラより)カルベット フラワーベンチ(Calvet Flower Bench)?カサ・カルベットの為に造られた? と言う説明になっていますが、実際は不明。何しろカサ・ミラにもガウディ博物館にも展示されていますが、資料がないので・・。オーク材のチェア(カサ・ミラより)カルベット・チェア(Calvet Chair)?上のベンチと対になる椅子。ところでたぶんカサ・ミラにあるこれらはレプリカです。オリジナルとはちょっと違う。ガウディ博物館のオリジナル椅子の高さ椅子の高さは、その家の人の使い勝手で決まります。つまり、足の長さで椅子の脚の長さも変わるのです。既製品の場合は、自分に合う高さの椅子を自然と探すものですが、オーダーできる場合には椅子の高さも聞かれます。例えば靴を履いて使用するのか? 裸足で使用するのか? は重要なポイントです。ガウディの椅子が低めと書いていた人がいますが、その椅子の使用者の背が低かった・・と言う事も考えられるわけです。高さの合わない椅子は、座り心地、云々以前の問題ですから・・。オーク材のアームチェア(カサ・ミラより)カルベット アームチェア(Calvet Arm Chair)?オーク材のコーナー・テーブル(Corner Table)カサ・カルベットの為に造られた? と言う説明になっていますが、実際は不明。ガウディ博物館のオリジナルオーク材のチェアバトリョ・チェア(Batllo Chair)?カサ・バトリョの為に造られた? と言う説明になっていますが、実際は不明。闘牛士のかぶる帽子の形?コーナー・ベンチ(カサ・ミラより)バトリョ・ベンチ(Batllo Bench)?これもバトリョの為に造られた? と言う説明になっていますが、実際は不明。この椅子には何パターンも形がありました。それが博物館で展示されています。ガウディ博物館のオリジナルまさにガウディの建築した曲線の壁の家の為に設計された椅子のようです。ガウディ博物館のオリジナルコロニアル・グエルの教会のベンチ現存しているのは13脚とか・・。軽量化と安価にする為に鉄材が用いられたのでしょうね。振り返って見れば、どの椅子もとてもシンプルでモダンでガウディの奇抜な家とは正反対な普通の椅子です。そのデザインは今でも十分通用するものです。さて、我が家では、画一化されたマンションの部屋の中にロココの椅子が並んでいます。(昔フランスから持ち帰ったものです。)ベルサイユ宮殿にあるようなその椅子はどう考えてもうちの部屋には似合わないものですが、不思議なもので、いつもそこにあると案外なじんで見えるのです。家具とは使ってなんぼ・・のものです。生活の中にあると何となく家具もその家の一員になっているのかもしれません。それともなじんでいると思うのは自己満足か? さて、次回はガウディ博物館の部屋の写真を継続紹介予定です。Back numberリンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線リンク ガウディ博物館 1 (グエル公園)リンク ガウディ博物館 2 (ラ・トーレ・ローザ・la Torre Rosa)リンク ガウディ博物館 3 (ガウディ家の人々)リンク ガウディ博物館 4 (ガウディの病気)リンク グエル公園(Parc Guell) 1 (2つのパビリオン)リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)リンク グエル公園(Parc Guell) 3 (大階段のタイル)リンク グエル公園(Parc Guell) 4 (列柱ホール)リンク グエル公園(Parc Guell) 5 (ギリシャ劇場)リンク グエル公園(Parc Guell) 6 (擁壁と柱廊)リンク グエル公園(Parc Guell) 7 (テクスチャーにこだわった柱廊と陸橋)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 1 (外観)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 2 (パティオ)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 3 (屋上1)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 4 (屋上2)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 5 (屋根裏の梁)関連リンク コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho) ガウディの椅子リンク モンセラート(Montserrat)
2012年05月18日
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写真バペルの塔と言うよりお知らせです。先月より緊急で大阪にいます。毎日とても忙しくてパソコンゆっくり見る暇もありません。簡単に終わらせる予定がズルズルと長くなってしまいました。しかも家族がケガで入院してしまいました。 毎日病院通いで疲れて夜はダウンです。完成間近のハワイ王国近日中に終わらせるようガンバリます ぺこ <(_ _)>おまけ写真ピーテル・ブリューゲル バベルの塔 ウィーン美術史美術館旧約聖書の「創世記」11章この物語は、人が神に近づこうと塔を高く天に近づけた為に神の怒りをかい、一夜にして突然に人々がお互いに話す言葉がわからなくなる話である。言葉が通じず、意味もわからなくなり、コミュニケーションをとれなくなった人々は互いに塔を離れ、世界に散って行く。世界にいろいろな言語の民族が誕生した理由・・とも言われる。「バベル」とは乱れる・・・と言う意だそうだ。だからこの塔は人々が混乱して散らばった塔・・と言う事でハベルの塔と呼ばれる。そもそもこの話はノアの洪水の後に起こる。人々がだんだん神をないがしろにする事を神が怒る話の最たる物語の1つであるが、簡単に人を粛清(しゅくせい)させる神こそあまりに傲慢な気がしてならない。ハプスブル家のコレクションであるウィーン美術史美術館では、隣あわせにプリューゲル親子のそれぞれのバベルの塔が飾られていた。学生の頃教科書で見て、興味があった絵であるが、絵、そのものより、やはりその内容に興味がわき、印象に残った絵の1つである。ウィーン美術史美術館にはすばらしい絵画や宝物がたくさんある。一流貴族の品格とセンスの良さがにじみ出ているのだ。どこよりもすばらしい数々のコレクションにハプスブルグ家の芸術性の高さが見て解る。ルーブルよりもはるかにレベルが高い・・と個人的に思う美術館である。
2012年03月31日
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Break Time(一休み)考えたらここの所建築が続いていました。つまり、スペイン、バルセロナと言う街の見所はやはり建築・・と言う事になるからなのでしょう。しかし、建築に興味のない方は少しあきているのでは?そこで緊急中休みにクイズを入れる事にしました。休暇の時によくやる「クイズここはどこ? シリーズ」の番外編です。名付けてクイズここはどこの陶磁器工場? Part 1ただ、古い写真で、カメラの性能も画素数もかなり劣る上に少しボケている写真もあるのでご了承下さい。17世紀にオランダ東インド会社からヨーロッパに大量にもたらされた白い陶磁器は、王侯貴族のあこがれであり、それを持つ事は一種のステータス・シンボルでした。「白い金」とまで称された、その磁器をどうやって作る事ができるのか?」その製法の謎を解き明かして磁器を造ろう・・と欧州各国では競争になったのです。製法の謎は磁器の原料であるカオリンにあります。謎を解き明かし、かつその原料がとれる場所に軍配があがったわけで、ここの陶磁器会社はまさに王の要請の元に、1710年に造られた王立の工房が前進です。そして歴史は300年。もはや東洋の陶磁器とは一線を画す西洋の美しい陶磁器としての道を切り開き、西洋陶器としてステータス・シンボルにまで高めた会社です。つまりこの会社はその先駆的な偉業を成し遂げ、西洋陶磁器の頂点に君臨する会社。ブランド中のブランド会社なのです。これだけで解る人は簡単に解りますね磁器の粘土をこねて成形している職人さん。パーツの組み立てをする女性パーツの型どりは、和菓子の型どりに似ています。絵付け師一見単色のおさらですが、実は下絵、下書き、色つけ・・と完成までに3回窯焼きされているのです。一色一窯?? と思っていましたが、この工房では下書き焼き付けがあったようです。陶磁器会社によって、絵付けの段階はには違いがあるようです。絵付け師担当のカ所が決まっているようです。まだ仕上げの窯に入っていない未完成磁器のコーヒー・セット一般的に使われる花柄のセット。尚、写真のここはデモストレーション用の場所で、本当の作業場ではありません。陶器の絵を見ればどこの会社か解ってしまうので、今回はこんなもので解答編リンク クイズ陶磁器工場 1-2 解答
2011年03月03日
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「MURAKAMI VERSAILLES」今回残りの作品をちゃちゃっと紹介して終わりたいと思います。(作品解説はできませんが・・。)村上 隆 MURAKAMI VERSAILLES Part 4 MURAKAMI VERSAILLES 4 (Kinoko Isu)Kinoko IsuJellyfish Eyes - SakiJellyfish Eyes - Max &ShimonJellyfish Eyes - Tatsuyapom & meThe Simple ThingsKinoko Isu Medium 2003flower シリーズ同様にキノコは村上作品の中でも重要な位置を占めるそうです。「世界を静観し、全てをしっている。」と言うキャラなのだそうです。村上氏の母がしいたけ栽培をしているところからキノコ作品は着想されたようです。Kinoko Isu Large 2003キノコの傘に描かれている目こそ「Jellyfish Eyes」らしい。そしてこの「Jellyfish Eyes」は2003年に発表されたルイ・ヴィトンのモノグラム・マルチカラーの中にも登場しています。余談ですが、村上 隆がルイ・ヴィトンとコラボした事は、ルイ・ヴィトンに新しい風を与えた事でも大反響を呼びました。特に3色刷りだったモノグラムは33色刷り・・と言う色を与えられヴィトン愛好者を驚かせたものです。その後発売された作品に可愛いキャラクターを配したバックも、新しいポップな発想で、ヴィトンに従来のイメージを覆す新しいバックを提案した作品となっています。ルイ・ヴィトンの村上氏との契約は終わっていますが、今もモノグラム・マルチカラーとして色つきは残っているのです。Jellyfish Eyes - Saki 2004資料不足で、なぜこの作品が「Jellyfish Eyes」のカテゴリーにはいるのか解りませんでした。Jellyfish Eyes - Max &Simon 2004村上隆のアニメーション作品のキャラクターらしいです。Jellyfish Eyes - Tatsuya 2004pom & me 2009-2010meとは、作者 村上 氏自身のようです。子供時代か? と一瞬思いましたが、髭があるので今の姿のようですね。他の作家とのコラボ作品も展示。The Simple ThingsMurakami Takashi & Pharrell Williams 2008-2009スカルプチャー(彫刻)と言うよりファニチャー(家具)のカテゴリーなのでしょうか?村上作品を造形にするのは大変そうです。もともと解説書もないのでたいした説明もできませんでしたが・・。とりあえず、ベルサイユ宮殿での作品展示に反対派が大騒ぎした・・と言う個展の作品はどんなものだったかを紹介した回となりました。でも、どれも反対するような作品ではない・・と思うのです。それこそ新しい物を受け入れる事に対する過剰反応に思えました。村上氏の作品はどれもオリジナル性に富み、ポップで奇妙で、でも可愛くて・・。親しみ易いやわらかさがあるのです。ここまでポップになると違和感を越えてしまっている・・と思いませんか? おわりback numberリンク MURAKAMI VERSAILLES 1 (Miss KOKO)リンク MURAKAMI VERSAILLES 2 (Tongari-kun)リンク MURAKAMI VERSAILLES 3 (Flowers)MURAKAMI VERSAILLES 4 (Kinoko Isu)MURAKAMI作品他リンク 森美術館 村上隆の五百羅漢図展
2010年11月28日
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ベルサイユの村上 隆 作品もう少し紹介です。村上 隆 MURAKAMI VERSAILLES Part 3MURAKAMI VERSAILLES 3 (Flowers)Flowers seriesSuperflat Flowers 2010村上 隆のシンボルともいえるお花モチーフ Flower シリーズは平面から立体まで、どこにも使われるアイテムです。Flowers村上氏が芸大受験の時に花を毎日描いていた・・と言う花好きからフラワーは誕生したようです。カイカイ・キキと並ぶ村上ワールドのオリジナルな世界観を表現するイメージ・キャラのひとつです。デイジーの花? に描かれた可愛いお花はニコニコ笑って幸福感に満ちあふれたキャラとなっています。日本の女の子の言う「可愛い-」と言う表現がピッタリなキャラですね。6枚のパネルをつなぎあわせた絵は金箔を貼って描かれているようです。屏風絵のようなきらびやかさです。この作品については名前がわかりませんが、日本画風にあえて描かれているのでしょう。ネオ・ふすま絵? でしょうかね。恠恠奇奇(カイカイキキ)ところで前回書きませんでしたが、会社名ともなっているカイカイ・キキ(KaiKai &KiKi)の名は桃山時代の異端日本画家「狩野永徳」の作品を表現した言葉だそうです。「恠恠奇奇(カイカイキキ)」・・「怪しく、しかし魅了される」と言う意味だそうです。 ・・と会社の説明にはあります。当時、日本画壇の保守派からは正統と認められないが、面白い・・と言う意味合いで批評本に使われた言葉からの引用だとか・・・。村上氏も、東京藝術大学美術学部日本画科を卒業し、さらに博士号持っているそうですが、彼の作品は、日本画壇からは異端とされている・・。と、言う彼の立場と重ね合わせたアイロニーから面白がって名付けたのかもしれませんね。村上氏によれば、「日本人よりも外国人のほうが面白がって評価してくれる。」だから今回のベルサイユはまさしくそれですね。床のカーペットもFlowers です。さて、大回廊の鏡の間とその前後にある戦争の間と平和の間については、2009年6月「ベルサイユ宮殿」シリーズの中で紹介しています。今回はちょっと雰囲気だけ・・・「こんな所に展示されていますよ」的な写真をのせました。天井ばかりですが・・。戦争の間鏡の間鏡の間はルイ15世時代以降、王朝が崩壊するまで、毎夜夜会の開かれた舞踏会場でした。あの有名なマリーアントワネットがワルツを踊っていた所です。その鏡の間には最初に紹介したFlower Matangoが展示されています。Flower Matangoは、Flowerの球体型です。Flower Matango???Matangoの意味は・・・勉強不足でわかりませんが、もしかしたら東宝映画の「マタンゴ(Matango)」からきているのかも・・。映画によれば、新種のキノコのようなマタンゴを食べるとマタンゴ化が始まりマタンゴに変身するらしい。古い日本のB級映画の、いわゆる怪物です。舞踏会場に鎮座した花の妖怪? フラワー・マタンゴ・・・面白い図です。下のも鏡の間に展示されているフラワー・マタンゴの仲間? Superflat Flowers です。Superflat Flowers 2010つづくリンク MURAKAMI VERSAILLES 4 (Kinoko Isu)
2010年11月25日
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一昨日東京ドームの嵐のコンサートに行って来ました。今や人気絶頂の嵐のコンサートはファンクラブでもチケットがとれないのが現状。それが、奇跡ともいえるアリーナのほぼ中央の席が取れたのです。生嵐が肉眼ではっきり見える位置です。とても幸せでした。今年の運を使い切ったかもしれません・・・さて、前回に引き続いて村上 隆 MURAKAMI VERSAILLES Part 2 です。MURAKAMI VERSAILLES 2 (Tongari-kun)Tongari-kunThe Emperor's New Clothes KaiKai &KiKi ジェフ・クーンズ・・バルーン・ドッグ村上作品を紹介する前に・・。2008年にベルサイユ宮殿で初めて現代美術展が開かれた時も保守派から論争があったと言います。その時のアーティストがジェフ・クーンズ(Jeff Koons)です。今年の2月にビルバオ・グッゲン・ハイム美術館、子犬のパピー(Puppy)で紹介した事のあるネオ・ポップなアーティストです。今回たまたまその2008年のベルサイユ宮殿と庭園に17作品を設置した時の写真があったので併せて紹介します。ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)バルーン・ドッグ(Balloon Dog) 1994 2000 金属製以前も紹介したとおり、彼の作品は必ずしも特別な意味があるわけではなく「見たまんま」が彼の作品だそうです。同じポップ・アートでも村上作品とはかなり異なり解りやすい誰もが知っているモチーフを使っているようです。しかし、そのせいか著作権訴訟をけっこう起こされているようです。今回同じ場所に展示されているのがTongari-kun 2003~ 2004頭にとんがったアンテナをもつとんがりくんは、千手観音のようら腕をたくさんもっています。高さ7m。「とんがりくん」は愛称で、本当の名前は「二重螺旋逆転」らしい。とんがりくんのコンセプトは人との交信とつながりにあるようです。もともと「とんがり君」は、「いつでも誰かとつながっていて、どこにいても大切な人と交信できるから、(心の)アンテナを持って生きよう」という子供たちに向けたメッセージを込めて創作された、アメリカのと、ある病院に設置する作品だったそうです。(カイカイキキ・コーポレートの説明より。)台座はレンゲ座でその上にカエルが乗っている。レンゲ座もポップですが、やはり仏教の観音様を意識して創作されている気がします。実際六本木ヒルズの毛利庭園に設置されているとんがりくんには、他に四天王が配置されているそうです。The Emperor's New Clothes 2005作品説明はないのですが、おそらく裸の王様がモチーフなのかな?マンガやアニメは今や世界に知れ渡るサブカルチャーですが、日本ではマンガやアニメあるいはそれらから発したフィギュアや造形物などはどんなに素晴らしくてもアートとして取り上げられる事はありませんでした。村上隆 氏の作品はどちらかと言えば、そうしたおたく文化から出発したポップ・カルチャーです。KaiKai &KiKi 2000~ 2005カイカイキキはアーティストのマネジメントや販売をする会社の名前でもありますが、もとは村上氏の個人事務所だったそうです。その会社のシンボル? がカイカイとキキのようです。「アニメ」や「マンガ」などの言葉同様「かわいい」も世界に認知されつつある言葉であるように、日本の「かわいい系」のフィギュアも十分世界に通用するポップアートである事を証明したのが村上 隆 氏だと思います。日本の芸術界はどう思っているかわかりませんが、世界で彼の作品は認められ、すでに一流のアーティストとして認められているのです。そこに今回のヴェルサイユ宮殿での個展騒動はアーティスト村上をさらに知らしめる事件となった・・と思います。その彼が、今度はキュレーター(Curqtar)となって日本のポップアートを紹介しているといいます。期待したいですね。日本では地位の低いサブカルですが、マンガのキャラクターがドールになり、そのドールが芸術品として取り扱われる・・。それがにわかに海外から起きている・・。近い将来、自分の持っているフィギュアやドール、ソフビにも海外から高値買い取りの依頼が来たりして・・・村上 作品 つづくリンク MURAKAMI VERSAILLES 3 (Flowers)
2010年11月22日
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さて、ラスベガスも終わり・・今度は芸術で・・・昨年、2009年10月に「アーティスト村上隆の美少女フィギュア Miss KOKO・ココ」と、言うのを掲載しましたが、その村上隆 氏が、このほどフランスのベルサイユ宮殿で個展を開いています。テレビでニュースになったので、その事自体知っている方も多いのでは?ニュースになった理由は、「ベルサイユ宮殿にそんな物を飾るな・・。」と言う、一部フランス人の批判があった事が取り上げられたのです。実は今回そのベルサイユ宮殿の写真が入手できたので、一部作品を紹介したいと思います。注・・作品についての写真規制はなかったようです。村上 隆 MURAKAMI VERSAILLES 全4作です。MURAKAMI VERSAILLES 1 (Miss KOKO)村上 隆 MURAKAMI VERSAILLESOval Buddha Silver Miss KO² 現在公開中期間は September 14 ~ December 12 (9月14日~12月12日)村上 隆 氏としては、今までで一番大規模な個展のようです。宮殿内の14の部屋と鏡の間や庭園に、新作含む彫刻? などの造形物が宮殿にもとからある骨董品の中にまじって展示公開されています。宮殿の宣伝看板よりなかなか日本でも見られない作品の数々が、宮殿のガラスの間や寝室などに設置されて、宮殿と村上作品の両方を堪能できる・・と言うシステムになっています。ポスターに遣われた像オーヴァル仏陀Oval Buddha Silver 2008直訳すると楕円の仏陀(銀)でしょうか? 仏陀と言うよりは河童に見えますが、今回のテーマ? あるいは彼のテーマの中に仏教がテーマにあるのかもしれません。庭園にこれの巨大なの(Oval Buddha Gold)が展示されています。後で他の作品も紹介しますが、その前に以前紹介した美少女フィギュア Miss KO²のオリジナル? も展示されていたので先に紹介します。これが鏡の間入り口に展示されていた等身大の本物Miss KO² 1997以前も紹介しましたが、かつて、NYクリスティーズのオークションで56万7500ドル(当時6180万円)になり、当時日本現代美術至上最高額をマークした作品です。(因みに今ドル相場が下がっているので、82円で計算すると約4654万円になりますが・・。)ここにあるのは、当時売れた作品ではなく、アーティストのコレクションのようです。村上 隆の作品が飾られた現在の鏡の間 Flower Matango(d) 2001-2006フラワー・マタンゴアニメ風のキャラクターなどをモチーフとするポップアートに、賛否両論・・と騒がれているわけですが、ここでは過去に他にもいろいろなアーティストの作品展示がなされています。そして反対騒動があったのも彼だけではありません。つづくリンク MURAKAMI VERSAILLES 2 (Tongari-kun)
2010年11月19日
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台座の「Lady on Eagle 」は E. PICAULT(1833年~1915年)フランスの彫刻家の作品だそうです。サインは見当たらないと以前書きましたが、よくよく見たら台座ではなく、ブロンズ本体の下方にサインらしきものが刻まれていました。今回は中継ぎ・・・、以前紹介のティファニーシリーズ3つめのランプシェードの紹介です。ティファニーランプ ポピーのランプシェード セレブの愛した装飾ランプ Part 4ティファニーランプ(Tiffany Lamp Shade) ポピー(poppy)ティファニーランプの工作・・・ステンドグラスルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)ちょっとおさらいから・・・。ルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)(1848年~1933年)ティファニーランプの考案者ルイス・コンフォート・ティファニーはニューヨーク5番街にあるティファニー商会の創設者の長男として生まれたお坊ちゃまでした。彼が父の後を継がず、芸術、特に室内装飾の世界に道を進めたのは、自身の才能もさることながら生まれ持った環境と、さらに父の工房にいた主任銀細工師ムーア親子の影響があった事です。「本物を知るには本物に触れる事」・・これは骨董を扱う人には常識的な事ですが、なかなか本物に触れる事のできない人たちに対して、彼の場合は生まれてから本物しか周りになく、それ故本物の善し悪しが自然に身について育っている事です。その彼がもっと素晴らしい物を世に出そうとした・・・「建築とデザインの結合」その中で生まれた作品の一つが通称「ティファニーランプ」と呼ばれる電気スタンドなのです。ポピー・ケシ・poppyランプの明かりのみランプ台は今回オリジナルではありません。ブロンズ製の台座で「Lady on Eagle 」と言う名がついていたと思います。当時のランプ台の一つは陶器と銀細工の組み合った重厚なもので、今手に入るレベルの品ではありません。おそらくシェードより遙かに高価。部屋が暗いのであまり綺麗に撮影できませんでしたこのランプシェードはティファニースタジオが1906年に115ドルで販売したデザインのシェードです。因みに前回紹介した藤のランプ。ショート丈の台座の場合1906年当時セットで400ドルで販売されていたようです。ポピーのシェードのデザイナーはMr.and Mrs. William Feldstein ,jr 今回も写真のシェードの制作者はもちろん私ですライトを付けると黄色になるバックガラスですが、ライトを付けていない時の淡いブルーが素敵なガラスです。(ブルーとイエローの混じったウロポロス社の大判1枚ガラスを使っています)ルイスはガラスの開発も手がけています。少年の頃よりガラスに興味のあった彼は理想のガラス開発に情熱を注いでいます。それは当時アメリカに輸入されるイギリスやバイエルンのガラスが、実は質が悪かった事、同時に宗教改革後にステンドグラスのガラスの質が落ちたことにもあるようです。プロテスタント系ではバロックと違って着色ガラスやエナメル絵付けのチープなガラスになり(全てではないが)、従来の教会の荘厳なステンドグラスは近年消えつつあったようです。(近年は着色ガラスによるただのガラスのモザイク画に・・)ルイスは、「ガラスの質感やガラスの持つ色味だけでガラス絵画に陰影をもたらしたい」・・・・中世以来の金属酸化物による加工で色ガラスを造り出す事を考えたようです。そんな古式の方法を再考しての独創的な美しいガラスの開発・・。だからティファニーのシェードに使われるガラスは宝石のように美しいのです大判ガラス(60×80cm位)の値段はファッション・リングと同等くらいのお値段になります。幾つ指輪が買えたか・・なんてね・・・今回も付属のネットが必要になっています。これがないとポピーではなくシクラメンに見えてしまいますこれもお値段が結構した? (忘れた)付属品の必要なランプを造る人は少ないです。お金かかるし、面倒だし・・結構半田を乗せるのに気を遣いますから・・。(トンボに比べれば楽勝ですけど・・)例によってシェードの裏側・・ネットの無い世界ネットがないとつまらないでしょ繊細で芸術家で商売に関心の少なかったものの、装飾美術に関心を持ってから、その普及に向けてルイス・コンフォート・ティファニー・アンド・アソシエイテッドアーティスツを設立。アメリカの上流社会の邸宅の装飾や劇場、等、他にホワイトハウスの装飾まで手がける程にデザイナーとしての国際的な名声も得ています。ティファニー商会の幻の宝飾品家督を継ぐがなかったとはいえ1902年にルイスの父チャールズ・ティファニーがなくなった後ルイスはティファニー商会の副社長と美術顧問になっています。父の残した宝石コレクションを使用してティファニーのジュエリーを造る工芸宝飾部門を設立。ダイヤ、エメラルド、ルビーなどを使って宝剣、宝冠、ティアラなど、芸術的高級宝飾品を彼も自ら制作して世に出したそうですが、アートジュエリーとしての域を超えていた為値段も高すぎて1916年にその部門は採算があわずに閉鎖されているそうです。一説には彼が亡くなるまで作品制作は続いた・・といいますが、人気のある宝石を使う・・と言うよりは彼の好む石で非常に独創的な作品をデザインしていたようです。(ティファニー商会の商標で出されているので銘はなく、識別は難しいようです。)何にしても、彼は自分の欲する物しか造りたくなかったのかもしれません。ティファニーのステンドグラスは終わりますが、いつか? パネル物のステンドグラスを紹介します。追記・・・・台座についての質問を頂ました。質問では台座は「ピコー」のレプリカか? との内容。コメント欄に返しましたが、実際私自身が台座のデザインがそんなに有名なデザインとは知ら無かったのです。台座の「Lady on Eagle 」は E. PICAULT(1833年~1915年)フランスの彫刻家の作品だそうです。以前質問いただいた時は気付かなかったのですが、よーく見たらサインらしき文字がブロンズに刻まれていました。当初は大理石の台座しか見ていなかったので気がつきませんでした。シェード・ランプ用に造られているので、もしかしたら台座の会社が契約してデザインを買ったのかもしれません。※ 時代的にはもともとシェード・ランプ用のデザインかもしれない。品物は、輸入カタログから選んで購入した台座です。ブロンズの素晴らしい造りの割には格安であったと記憶しています。back numberリンク ティファニーランプ 蜻蛉シェードリンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 1リンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 2
2010年10月12日
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藤のランプシェード続きです。ティファニーランプ 藤のランプシェード 2セレブの愛した装飾ランプ Part 3 ティファニーランプ(Tiffany Lamp Shade) 藤(Wisteria)ティファニーランプの工作・・・ステンドグラスルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)父の会社、ティファニー商会(1837年創業)の成功銀細工師のエドワード・C・ムーアペンシルバニア陸軍士官学校卒・・と言う経歴を持つルイス・C・ティファニーは、親の反対をおしきって? 最初は画家を志しています。実際「言っても聞かない性格」を理解していた父はすでにあきらめていたようですが、同時に息子に創造の才覚がある事には気付いていたのかもしれません。彼の才能は生まれた環境に大きく起因しているのです。宝石商テイファニー商会の息子だったからこそ、こうしたものが生まれた・・と言っても過言ではないかも・・・。明かりを付けたところ 12段階の照度が調整できるので見た目には3通り楽しめます。電球の強さだけでもかなり違いがでるのです。明かりを付けたところ 2今思えばグリーンをもっと深みを持たせたかったし、紫のガラスがもう1種色が欲しかったのですが、当時ガラスの種類がなかったのです。このランプの細かさは半端なく大変で、2度と作りたくないランプの一つです。だからこれも、プライスレス 父の会社、ティファニー商会(1837年創業)の成功ルイス・C・ティファニーの芸術性を理解するにも、やはり彼の生い立ちが重要。ルイス・C・ティファニーが生まれた1848年、ヨーロッパでは革命の動乱でダイヤモンドの価格が半値に暴落。それを期に父チャールズ・L・ティファニーは大量のダイヤ買い付けを行っている。そのルイスの買い付けた宝石の中にはフランス政府の売り立ての元にマリーアントワネットの連状のダイヤのネックレスやルイ15世の宝石も含まれていた? その事がティファニーの名を広く世に知らしめたようです。アメリカの振興富豪達はその宝石類を欲した。どうもアメリカ人は今も王族(ロイヤル)の言葉に弱い・・ふしがあります。歴史の浅い国なので伝統とか由緒ある品に引け目があるのかも知れない。そう言った物を側に置く事は・・彼らのステイタスなのかも・・・。ロイヤルな宝石を欲した新興勢力の富豪がティファニーのお得意様になっている。だからルイスの幼少期には、すでにティファニーは富豪相手の高級宝飾店になっていた・・と言う訳です。彼は何不自由なく・・どころか贅沢の中で育っている。父が息子の周りに置いた物は高級な家具や調度美しい置物、素晴らしい食器・・etc。常に当たり前のように本物に触れていた彼の感性はそこで知らずに磨かれていたと思われます。銀細工師のエドワード・C・ムーア生まれ以上に彼に影響を与えたのが、ティファニー商会の職人達。ティファニー商会の主任銀細工師のジョン・C・ムーアと息子エドワード・C・ムーアの存在は大きかったと言えます。特にエドワード・C・ムーアは卓越した美術鑑識眼を持つ職人でありデザイナーで、彼はニューヨークの多くの若い芸術家や職人にも影響を与えた人らしい。エドワード・C・ムーアはルイスに自分の知識と洗練された感性を教え、ヨーロッパ以外の美術にも目を向ける事も勧めている。ティファニーの作品に現れるイスラムの意匠、日本の銀細工職人に習った細工など東洋美術の影響はそこに生まれたようです。またエドワード・C・ムーアのガラス・コレクションは、ルイスがガラスに傾倒する要因となったコレクションらしい。エドワード・C・ムーアの存在なくしてファブリルガラスも生まれる事はなかったろうし、ステンドグラスのランプも生まれなかったかもしれない。ステンドグラスのBack numberリンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 1 ティファニーランプ 藤のランプシェード 2リンク ティファニーランプ 蜻蛉シェードリンク ティファニーランプ ポピーのランプシェード
2010年09月25日
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近年ステンドグラスの工房が流行っていますが、例えティファニーランプを作らなくても道具やガラス、鉛線・・等お金がかかる世界です。続けているのはお金のあるマダムばかり。そう言えば、かつて鳩山夫人もティファニーランプを作っていましたね。ティファニーランプの神髄は美術品としての装飾性です。ティファニー・スタジオではランプのシェード以上に土台となる台座の美術性を注視しています。ですからティファニーのシェードを乗せる台座も完璧で無ければならなかったはずです。高級なプロンズ像の上に完璧なランプシェードが乗ってる・・それがティファニーランプでなければならない・・・と私も思います。つまり、シェードの出来もさることながら「安物台座に乗せてくれるな・・」なのですティファニーランプ 藤のランプシェード 1セレブの愛した装飾ランプ Part 2ティファニーランプ(Tiffany Lamp Shade) 藤(Wisteria)ティファニーランプの工作・・・ステンドグラスルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)今回紹介するのは「ティファニーランプ」の代表格とも言うべき藤の花房をあしらったランプシェードです。今回も私の作品です。藤の花のランプシェードは、カーティス・フレッツェル婦人のデザインで発表当時から人気商品だったそうです。明かりをつけた印象明かりをつけていない時の印象 ドラゴンフライのランプ台よりは気持ち低い。ステンドグラスは使用する時の目線の高さに設定して台を選ぶと良いのです。このツリー型の台は高さが何パターンがあります。藤のランプは今もティファニーランプを作る人にとってはあこがれのシェードです。ただ実際にこれを作る人はあまりいません。なぜならお金がかかる事もさることながら、根気のある人間でなければ途中で絶対挫折する事になるからです。オリジナルの型紙で、ガラスのピースは全部で1945カットもあるのです。型紙の切り出しの段階で挫折する人も多いようです。この作品はデザインを多少自分なりに変更しています。1945ピースに加えて70ビース増やしているので全部で2015ピースになっています。明かりをつけていない状態コンセプトは白藤と紫藤のコラボです。オリジナルデザインでは花房がはっきりしていないので、はっきり房が解るようにデザイン変更しています。藤の花のランプは虚無僧(こむそう)のかぶる笠の形に似ています。このランプにもトンボの時のように足して買わなければならないパーツがあるのです。藤棚を伸びるつるを表した傘のようなベースが必要になります。藤の花のランプを作る時の最大の難所が実はこの傘の部分である・・と言うのはやった事のある人でなければわからない苦労が・・。鉛でコーテイングするのに半田コテを二刀流で3人がかりでした。さらに伸びる小枝の部分を表した特性の鉛でできた枝が必要になっているのです。これらのパーツがまた加算される上に、このパーツ故にランプの台は藤の花の場合はツリー型と決まってしまうのです。下から裏を見た所。このランプは4球なのでドラゴンほど明るくはありません。よくキングサリのランプシェードを紫のガラスにして藤のランプにする方もいるようですが、このランプシェードがオリジナルのティファニーの藤です。キングサリと藤では、そもそも樹形が全く異なります。下の写真はほぼ実寸に近いかもしれません。(画面の大きさで違いますか・・・)小指の爪ほどのピースばかりなので、組み立ても最も大変なランプであるのは確かです。1,型紙を切ってナンバリングして・・・2.両面テープで固定してガラスに貼り付け・・・3.ガラスをカットして・・・4.ガラスを研磨して・・・5.型紙をはがして綺麗にしてからカッパーテープで巻いて・・・6.半田でランプに一つずつ貼り付けて・・・7.仕上げる・・のがステンドグラスなのです。だいぶん割愛していますが、手間がかかるので材料費に加えて人件費がかかるのでティファニーランプはとても高価になるのです。買えないから自分で作ったのですが・・・1年かかりました。それでも型紙代金やベースとなるモールド代金、傘の部分に枝。ガラスも大量に使うし、カッパーテープや半田の値段を考えるとやはり材料費で数十万はかかっています。私のランプはどれも明かりをつ付けていない時は淡い色に設定しています。付けていない時のが多いので・・。でも光を入れた時には上品に色が出るようにガラスを選んでいます。30cm角のガラスで1個しか取らない場合もあります。気に入るガラスがないので途中で辞めている・・作品も実は残っているのです。まあ、こだわりはさておき、丁寧に作る事が大切です。その簡単な見分け方は、接合部のハンダの太さです。カットを失敗して角が落ちたのをハンダで埋めてごまかしているようなのは駄目です写真がまだあるので分割する事にしました。次回写真は明かりをつけた時のランプで、ルイス・C・ティファニーを少し紹介します。ステンドグラスのBack number ティファニーランプ 藤のランプシェード 1リンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 2リンク ティファニーランプ 蜻蛉シェードリンク ティファニーランプ ポピーのランプシェード
2010年09月23日
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今回紹介するのは、ルイス・コンフォート・ティファニーの発案したティファニーランプです。と、言ってもランプ自体は私の作品なので数千万もするわけではありませんが、ニューヨーク・メトロポリタン美術館にあった品より良い出来だと思います。 自画自賛 美術館の品は後期工房作品と思えますし、昔はあまり良いガラスもなかったからです。これから撮影ですどのみち時間はかかりますねティファニーランプ 蜻蛉シェードセレブの愛した装飾ランプティファニーランプ(TiffanyLamp Shade) 蜻蛉(Dragonfly)ルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)何? と言われれば、アールヌーヴォー期にアメリカで発案された有鉛のガラス・ランプです。ティファニーランプの発案者ルイス・コンフォート・ティファニー(1848年~1933年)は、あのニューヨーク5番街にある1837年創業の世界的宝飾店のティファニー。その創設者であるチャールズ・ルイス・ティファニーの息子です。現在は宝飾店として知られていて、ガラス製品との因果関係が解りかね、「あのティファニーと関係あるのかな?」と思う人は多いと思いますが、実は会社は別でしたが、跡取り息子が室内装飾の方面に起業して制作、世に出したランプなのです。彼は富と財産を継承する事を辞めて、芸術家になった人なのです。ブロンズのランプベース 今回紹介するティファニーランブはステンドグラスを窓からはずして室内装飾に用いた画期的なガラス装飾でもありますが、彼にはそれ以上にアールヌーボー期のガラス製品に多大な功績を残しています。今回は写真もありませんが、ラスター彩の美しいファブリルガラスを発案したのも彼で、ティファニーの工房はガレやドーム、ラリックに並ぶガラス工芸店でもあったのです。ティファニー・スタジオは「家の中に美しい品を置きたい」人達の需要に応えて室内装飾品を考案。ランプはその中で生まれたもの。もともとガラスに興味のあった彼なので装飾品はガラスを使った美しい造形の物が多かったようです。1893年のシカゴ万国博覧会、「婦人館」で作品を紹介。(これはコロンブスのアメリカ大陸発見400周年記念祭典でもあったらしい。)1895年に最初のティファニーランプの販売が開始。絵柄のデザインはそれぞれデザイナーがいます。彼のスタジオからは優れた女性デザイナーが輩出。ランプ部門の2大デザイナーはカーティス・フレシェル婦人とクララ・ドリスコル婦人。ティファニー・スタジオは今は無いが、そのデザインは今も型紙とベースを買う・・と言う特許的な仕様になっています。(それも結構高い)Dragonflyの制作年とデザイナーはわかりませんでした。どこか本で見かけたら報告。私の制作のコンセプトは「命尽きてアシの中に墜落するトンボ」です。アールヌーボーぽいテーマです。グリーンのガラス(2種類のみ)がアシで下に水を表すガラスを配置しています。色合わせだけでなくやはりコンセプトは必要です。配色にセンスが出ますが・・。下は光を入れない時のシェード光を入れた時と消している時の表情の違いを計算してガラスを選んでいます。ライトを付けた時と全く別の印象があるのは使ったガラスのせいです。街で簡単に売られているのは、安物ガラスを使ったもどき品です。ガラスの値段はピンからキリまで、でもティファニー・ランプの制作ではアメリカ、ポートランドのウロボロス社のガラスを使用するのが一般的。(よりオリジナルに近い作品にする為)グリーンのガラスとトンボの羽根は同一のガラスをカットして使っています。ウロボロス社の製品は絵の具をまぜたような色むらがあるので大判のガラスでも部分部分で違う表情をかもしているのです。ガラスの表面と裏の違い・・ガラスはカットしやすい裏側からカットするので型紙も裏側からとるので色どりが大変。(こだわる人には)実はオリジナルよりもトンボをリアルにする為にカット数を増やして細かく造りあげています。(ものすごく面倒でした)ライトを付けるとこんなに違うのです。今世間では省エネでLEDライトが流行ていますが絶対それにはない味がある白熱球を使用。間接照明は電球の暖かみ・・かつてロウソクやオイルで明かりをとっていた延長に明かりの定義がある・・と思います。もともと贅沢な品に節約はありませんティファニーランプはもともと当時でも最高級の贅沢美術品。1906年当時の販売価格はこのトンボのシェード部分だけで175ドルだそうです。今幾らに相当するかはわかりませんがそこそこのお金持ち程度では手に入らなかった品です。台も買わなければならないし・・。台も物によりシェードと同等の値段がしています。今回の台は最もオリジナルに近い物で輸入品です。かなり高かった自分の為のランプなので時間にも、お金にもいっさい糸目を付けず、贅沢の限りこだわって作った作品なのでプライスレスルイス・C・ティファニーの続き・・次回は藤のランプです。リンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 1リンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 2リンク ティファニーランプ ポピーのランプシェード
2010年09月22日
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日曜に、地元商店街のお祭りがあった。マンションのベランダから覗いてみると、滅多に見られないものが展示? 屋根に丸い出口が見える・・・装甲車のようだった。飛んでいって見てみたら、自衛隊が隊員募集を兼ねて子供達を車に乗せていたのである。(私も乗って見たかった・・)さて、なかなか賢い勧誘方法である。祭りに来る暇な若者をゲットできれば・・と言う事か? もしくは、将来チビッコ達が自衛隊に来てくれたら・・・と言うところかな?アメリカでは小学校に軍が行って親しみをもたせるのは、当たり前の事なのだが、日本の学校は日教組がうるさくて出来ないからね・・・。オーストリア共和国(Republic of Austria)ウィーン(Wien)ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere) Part 3ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)上宮(Oberes Belvedere)オーストリア・ギャラリーグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)とウィーン分離派と世紀末芸術帝政時代のバロックの上宮殿は、今19、20世紀の美術館として活用されています。ハプスブルグ家の終焉(962年~1806年、1918年)オーストリアの歴史と言えば、当然ハプスブルグ家の歴史であり、神聖ローマ帝国の歴史です。962年~、ハプスブルグ家は現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部に領地を展開していた当時は小さな豪族で、1273年にルドルフ1世が最初の神聖ローマ帝国の皇帝となってからハプスブルク゜家の栄華は始まっています。婚姻による血の拡大によって大きくなっていったハプスブルグ家ですが、その栄華が終焉に向かうのは1805年10月のウルムの戦いでナポレオンの勢力がオーストリアに及んだ頃からでした。そして1806年ハプスブルク家のフランツ2世は退位するのですが、帝室として存続し、最終的には第一次世界大戦が終了後、1918年に最後の皇帝カール1世が亡命してハプスプルグ家は崩壊しています。宮殿から美術館にプリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)(1663年~1736年)の死後、この宮殿を手に入れた女帝マリア・テレジアは、ハプスブルグ家の膨大な美術コレクションを収容する場所に使いました。以来19世紀末までは帝室美術館となり。1953年にオーストリア美術の歴史を伝える美術館となっています。オーストリア・ギャラリー下宮は中世オーストリア美術館とオーストリア・バロック美術館。上宮は世紀末からウィーン分離派等のオーストリアの画家を中心にした19、20世紀の美術館。中でもここの目玉は上宮の世紀末ウィーン美術のコレクションです。庭園を見るよりも、むしろ美術品を見る為に館内の滞在時間が長くなるので、ツアーの場合は、なかなか庭園まで回る時間はないかもしれない。シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿、カール教会は、バロックの都市ウィーンを象徴する建築で、「失われた帝都の遺産」なのだそうです。上宮の宮殿庭園正面ウィーン分離派の出現17世紀バロックや偉大な音楽家の輩出など文化面でも中心となっていたウィーンですが実は、地理的な要因もあってパリやロンドン、ベルリンに比べれば、近代的な国際都市とは言い難いおくれがあったようです。ウィーン分離派の出現は、ヨーロッパ近代美術との積極的な交流による国際化であり、ウィーン芸術界の古さと閉鎖性を象徴する存在だった・・と言う事です。ウィーン分離派1897年にウィーンで画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)を筆頭に結成されたウィーン分離派は絵画、彫刻、工芸、建築などの会員が集まり、過去の様式に捉われない、総合的な新しい芸術運動を目指した工芸家の運動です。よく世紀末的とか退廃的とか例えられますが、今までなかった革新的な芸術運動は、当時においては近代的過ぎた運動です。それらは今見ても革新的ですし・・・。クリムトのギャラリー宮殿内も美術館も撮影禁止ですが、参考に、ギャラリーで買って来たクリムトの写真集から何点か紹介。(重かったぞ・・。)ここは、クリムトの作品の代表作がたくさん集まっています。クリムトの好きな人は、絶対にここに来なければならない聖地です。The Kiss(抱擁)(全部は入らないので多少トリミングしています。)クリムトの作品は、世紀末的・・官能的と表現されますが、世紀末は余計な気がします。今見ても斬新な作品です。fulfillment (成就)今回は解説は入れませんが、クリムトの絵画に用いられる文様は、日本の意匠をモチーフにしたもので、彼の日本趣味が伺えるところです。Judith 2 (Salome)(全部は入らないので下部はトリミングしています。)このタイトルのユーディットとサロメは別人なので、疑問。実はカットした下に男の生首があります。旧約聖書のユーディットなら敵の大将の寝首を掻(か)いた聖女ですがサロメはキリストの洗礼者であるヨハネの生首を望んだ悪女で、ユダヤの王女です。時代的にはサロメがブームなので、悪女サロメが正解でしょう。実は、クリムトの作品には別の見方が存在します。人物のシルエットのみ、形で捕らえると、それらは全て性器を象徴しているのです。彼は絵の中にダブルでエロスを暗示しているのです。今回は長くなったので、こんなところで・・・。ベルヴェデーレ宮殿おわりBack numberリンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め) ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)
2010年07月26日
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伝説の都市のように語られているエトルリアから棺を紹介します。本当に実在の都市だったのね・・ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 6エトルリアとギリシャ、ローマ部門エトルリア(Etruria)BC10世紀~4世紀頃、イタリア半島中部に存在したエトルリアはものすごく高度な文明の発達した都市国家だったようです。(詳しい資料があまりなく、実は謎につつまれた都市国家なのです。)BC7世紀~BC6世紀に最盛期を迎えてBC4世紀頃からローマに圧倒されて徐々にローマに併合されて消えていきます。古代ローマ建国の王政期が、そもそも伝説として語られていますが、初期ローマの王7人のうち3人がエトルリア出身の王だったと言われ、古代ローマの文明はエトルリアの影響をかなり受けたものだったようです。ローマの建築のアーチしかり、特に上下水道の設備は、エトルリア出身の第5代王タルクィニウス・プリスクス(在位BC615年~BC579年)自ら工事に参加して故郷の技術を伝えたと言われ民政においてもかなり進んだ文化をもっていた事が伺えます。(6月に特集した「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で少し紹介。)古代ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアのリディアからこの地にやってきたと語られていますが(前回紹介したメソポタミア4王国の1つ)証拠はなく、ただ古代地中海世界の至るところからその存在が認められているのは確かなようです。チェルヴェテリの夫妻の棺 or カエレの陶棺1845年イタリアのエトルリア、カエレのチェルヴェテリのバンディタッチャの墓場より発見。粘土彫刻(テラコッタ)は、埋葬記念碑や建築装飾にカエレの職人が好んで使用した素材なのだそうです。高さ1.11m、幅1.94、奥行き0.69m。BC6世紀後半、ギリシャ東部に移住したイオニア人がエトルリア美術に影響を及ぼして制作されたアルカイック様式(BC650年頃~BC480年頃)のテラコッタ素材の棺のようです。イタリア半島中部のエトルリアに対して、当時ギリシャもイタリア半島の南部まで進出していたようです。ギリシャとは海上交易でもつながり、文化の相互影響も大きかったのかもしれません。横に寝たようなポーズは小アジア(オリエント)のスタイルだそうで、エトルリア人やギリシア人は、このように横になりながら饗宴をする習慣が有ったと言われ、それを表現しているようです。夫の手には杯が載せられていたとか・・。それにしても、アルカイック・スマイルの様式で死者を生き生きと表現した大胆な発想にも驚かされます。旧カンパーナ・コレクションから、1845年ナポレオン3世が収集して1861年ルーヴル美術館に入ったようです。同じ古代ギリシャ、エトルリア、ローマの所にあった棺ヘレニズムの影響が見られる。BC2世紀以降、浮彫装飾が施された巨大な石棺の制作は、ギリシャとローマの工房で競い合い地中海を通して頻繁に輸出されていたよううてす。故人が横たわった葬祭用の寝台を表現。下は古代ローマの棺のように見えます。武具 冑と楯BC7世紀にギリシャでとても普及したコリュスまたはコリントス型の冑はT字型の鼻あてを持つのが特徴。おそらくこれは重装歩兵の武装具の一部らしい。鼻当てと幅の広い頬当てが最良の防御を保証。コリントス型の冑は、その原作は、アルゴスの工房の制作とされるが、コリントスの壺に頻繁に描かれたこの冑は、コリントスの工房で大量生産されたらしい。リアルな戦闘用にしては装飾華美なので、司令官などの形だけの冑か?いずれにしても、この冑は本当に美術品クラスである。下も装飾用の楯か? 実際使っていないようにきれいなままです。ルーヴルつづくリンク ルーヴル美術館 7 (宮殿小史)
2010年04月28日
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写真追加ルーヴルの絵画に移る前にオリエントなど若干の作品を紹介です。オリエントの歴史も復習ですペルセポリスも特別紹介・・。ルーヴル美術館 5 (オリエント史)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 5オリエントの歴史と美術オリエント(Orient)メソポタミア文明史 (シュメール~ペルシャ帝国)アッシリア(Assyria)バビロン第一王朝時代の遺跡 ハムラビ(ハンムラビ)法典簡単にメソポタミアの文明史も紹介しておきます。オリエント(Orient)古代ローマから見てオリエント(Orient)は「太陽の昇る方の地」として位置づけされています。地理的には、ティグリス、ユーフラテス川を挟むメソポタミア地方(今のイラン)を中心に西はエジプト北はトルコのあるアナトリア高原、東は小アジアまでをも含む一帯が範囲。言語的にはアフロ・アジア語族の中のセム語派(アラビア半島を中心とする西アジアで話される)中心に、ハム語派(北アフリカを中心)も多少含み、その分布に分類されているようです。因みに現在のセム語はアラビア語、アムハラ語、ヘブライ語、ティグリニャ語等が入るようです。来歴不明ライオンはレリーフ等にもよく使われている動物です。メソポタミア文明史 (シュメール~ペルシャ帝国)最初の都市国家としてメソポタミアに栄えたのがシュメール(Sumer)人の国家で、現在のイラク、クウェートあたりが発祥とされています。(シュメールの楔形文字が使われ始めたのはBC3500年頃と推定)シュメールより南のメソポタミア南部(イラク南)の地域に誕生したアッカド(Akkad)人はBC2500年頃メソポタミアを統一。それが最古の帝国とされています。BC2000年頃、シュメールの南半分とアッカド北半分を含む地帯に首都バビロンを都とする王朝が誕生。それが古代バビロニア(Babylonia)王国です。この時にシュメールとアッカドは征服されています。BC8世紀頃、メソポタミア北部で、バビロニアの北西に隣接したアッシリア(Assyria)が世界帝国を築くと一時バビロニアをも支配(BC1240年~)。※アッシリアの項で説明BC612年メディア、バビロニア王の連合でアッシリアが滅亡するとBC625年支配されていたバビロニアが再び新バビロニア王国を再建。このころメソポタミアは4王国時代(メディア、リディア、新バビロニア、サイス朝エジプト)に入ります。が、それも半世紀しないうちに4王国はペルシャ帝国に征服されています。ペルシャ帝国(BC550~651年)の時代に突入。初代ペルシャ帝国の王朝がアケメネス朝ヘルシャ(BC550年~BC330年)です。アケメネス朝、アルサケス朝、サーサーン朝に区分。ルーヴルの遺跡はこのアッシリア時代からアケメネス朝ペルシャにかけてが多いようです。来歴不明シルバーの立体の馬の造形物。細工がルネッサンス期の品か? と思えるほど良くできています。かなり完成された技術。場所的にはスサ出土の柱頭の近くなので、アケメネス朝のペルシャのものかもしれない。アッシリア(Assyria)初期アッシリアはBC1450年頃に自立。帝国となるのはBC933年頃からのようです。古アッシリア、中アッシリア、新アッシリア時代に区分。BC612年滅亡。かつてシュメール人の都市国家ウルの覇権下にもあった国は、戦っては負けて支配されても一貫した中央集権体勢を保ち、興亡の激しいオリエント世界の中ではめずらしく大成し、メソポタミアと古代エジプトを含む広範囲に長く帝国を築きあげた国家です。シュメールの配下時代は楔形文字を習得し、古代バビロニアを配下に置いた時にはバビロニア文明を取り込んで成長した古代国家は、アッシュル神を主神にいだく多神教の国のようです。新アッシリア時代(BC10世紀~BC609年)の遺跡獅子の子を抱くギルガメッシュ ギルガメッシュ(Gilgamesh)(BC2600年頃)シュメール初期(古)王朝のウルク第1王朝の伝説的な王は、伝説的な英雄とされていて、このレリーフは、新アッシリア時代に、彼をモチーフにしてアッシリア風に描写した作品。サルゴン2世(BC722年~BC705年)と大臣 BC8世紀頃新アッシリア王国時代、その絶頂期の王であり、BC709年にバビロニア再征服して陥落すると自らバビロニア王であることを宣言してバビロン第10王朝の王ともなっている。(バビロニア第10王朝はアッシリア王等による兼任時代でもある。)来歴がわかりませんが、おそらく新アッシリア以降だと思います。人頭有翼牡牛像と言うより人頭有翼獅子像のようです。スフィンクスの原形になる図柄のレリーフか? これはゾロアスター教の精霊?らしい。バビロン第一王朝時代の遺跡 ハムラビ(ハンムラビ)法典ハムラビ法典については、昨年4月に「ハムラビ法典と裁判」で紹介していますが、一応写真をのせて違う角度から紹介。これもルーヴル美術館の目玉ですからハムラビ(ハンムラビ)法典1901年、閃緑岩に刻まれたものがイランのスサで発見。バビロン第一王朝第6代目の王ハムラビ(BC1810年~BC1750年)の治世末年に制定した法典を刻んだ石碑と考えられ、それはバビロニアの主要都市に置かれていたと言います。スサで出土したこの石碑は、BC13世紀にバビロニアを攻略したエラム王がエラム国の首都スサに戦利品として持ち帰ったものとされています。刻まれている楔形文字の部分言語の表記としては最も古い文字なのだそうですが、成り立ちは絵文字からはじまって、徐々に簡略化されて完成されたようです。イラン、テヘランの考古学博物館にあるハムラビ法典の石碑の写真から紹介しておきます。恐らくルーヴルのレプリカ・・だとは思いますが、ルーヴルの物は光って見にくいので・・。太陽神シャマシュが法典を授ける図で、下部に282の条文が刻まれています。もともとはシュメール人によってシュメール語記録の為にBC3500年頃発明された文字だったようですが、他民族であるアッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリア等でも借用されて独自に発展して1世紀くらいまで使用されていたようです。番外 出土する遺跡の発掘場所今回のルーヴルの出土品にはありませんが、アケメネス朝ペルシャの王、ダリウス1世が建設したペルセポリスの宮殿遺跡を参考に紹介。イランの遺跡はここほど残った所は少ないようですが、遺跡の現状がわかるかと思います。ペルセポリスの宮殿にも見られるアッシリア時代の宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像が見られます。アケメネス朝ペルシャの帝都として建設されたペルセポリス。アッシリアをお手本に建設されているのだそうです。スサの出土品の玉座の間の柱頭に似ていますが、こちらは牛ではなくクチバシを持った幻の獣のようです。こちらもゾロアスター教の精霊なのか? 発掘ブームの中欧州で生まれたロマン主義の中で生まれた伝説の獣、グリフィンの原形かも・・。アレクサンダー大王がペルセポリスを攻略して4ヶ月。出立前に宮殿に火を放ちペルセポリスは廃墟になった。その詳細は以下にリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン上の章では「フェニキアとアレクサンドロス王との攻防」と「ペルセポリス(Persepolis)のラマッス(lamassu)」に触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス上の章では全般ペルセポリスとアレクサンドロスです。次回の載せきれなかった棺を紹介。リンク ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)
2010年04月27日
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さて、ルーブルに戻る前に・・。アイスランド爆発で足止めを食っていた人達が続々帰国。何でもロンドンのホテルは今回の騒ぎで帰れなくて困っている人達から、ホテル代を値上げしてボッタクリしてたらしい。・・・ひどいルーヴル美術館 4 ( オリエント美術)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 4オリエント美術アッシリアの美術アケメネス朝ペルシャの美術オリエント史が知られるのは19世紀に入ってからのようです。おそらく、それは植民地支配で領地を拡張していた時期に遡るのでしょう。リシュリュー翼に展開しているオリエントの先史、古代の美術品の質は、他の美術館と比べても、かなり高いようです。それは旧約聖書の真意を確かめようとする人々により、オリエント学が早くから興味の対象に入っていた・と言う事もあり、フランスが発掘調査に率先して加わっていた事が1つあります。また、レバノン、シリアのあたりはフランスの委任統治下(第二次大戦終了まで)だった時期もあり、旧宗主国の地位を利用してこれらの発掘に加わって、発掘物の上前をはねていた事もあるようです。実際、初期の発掘目的は、考古学的な研究目的と言うより、確実にお宝美術品の盗掘であったようですし・・・。ルーブルにある有翼人面の牡牛像はBC8世紀サルゴン2世の都コルサバード出土サルゴン2世(BC722年~BC705年)メソポタミア(現在のイラク)北部地域を支配した新アッシリア帝国の君主の一人フランスの調査団は、メソポタミアに近接するイラン、シリア、パレスティナで大きな成果をあげています。フランス調査団はかなり広範囲に展開していたのです。赤でフランスの調査団の発掘ポイントを印ました。(データは結構古いものですが・・。)18世紀末から始まる考古学遺跡発掘のブームは19世紀に入りより増して、そうした出土品の美術的価値も高騰しています。イギリスのラッサムやフランス人ボッタがアッシリアの首都ニネヴェやカルフ、コルサバードの王宮を発掘して、その入り口の有翼人面の牡牛像や、宮殿の壁面を切り取って大英博物館やルーブル美術館に送り込んだのだと言います。アッシリアの美術アッシリアの地理的位置から、バビロニアとアナトリアの間の中継貿易で栄え、商人は交易により多くの富をもたらし、多くの文化が花開いたようです。アッシリアの特徴的な彫刻として、宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像があり、各地で発見。(大英博物館にもあります。)正面の揃う前足2本に対して、視覚の不自然解消の為に横から見ても足は4本あるようです。逆に全体で足は5本となりかえって不自然?上は、知性を備えた人間の顔。鳥獣の翼。豊穣と繁栄の象徴としての牡牛。下は、人の姿をした有翼の神なのだろうか・・。いずれにしても、表現描写にかなりレベルの高い芸術性が伺えます。手に持つのは聖なる木から採った松ボックリと手提げ。イギリスのローリンソンが古代ペルシャ語の楔形文字の解読に成功して、それを手がかりにバビロニア語の解読にも成功。アッシリア学は考古学的発掘と楔形文字の解読によって成り立っているのだそうです。アケメネス朝ペルシャの美術ダリウス1世の宮殿を飾る浮き彫りタイルの壁画 BC500年 スサの出土品王の狩猟シーンや戦争の場面が描かれており、当時の様子を知る資料にもなる。ダリウス1世(BC558年頃~BC486年)アケメネス朝ペルシア第3代の王で、アケメネス朝全盛期の王。中央集権体制を作り、交通網を整備して情報通信網を確保。エーゲ海からインダス川におよぶ最大版図を統治。近衛兵射手の浮き彫りのレリーフ何がすごいか、立体的なタイルももちろんそうであるが、この彩陶である。発掘して、すぐにフランスが本国に持ち帰り美術館に入ったからこそ、こんなにきれいなままで保存ができた事は、ある意味皮肉かもしれない・・。ギリシャの美術品もそうであるが、出土した美術品のほとんどは当事国にないものなのである。以前ギリシャの文化大臣になったハリウッド女優のメリルストリープが「美術品を返せ」と世界に訴えていたっけ・・。BC6世紀 スサの出土品 玉座の間の柱頭ダリウス1世の宮殿の牡牛の柱頭。ダリウス1世は新都ペルセポリスを造営しても、相変わらず政治の中心はスサであったそうです。ルーブル美術館 つづくリンク ルーヴル美術館 5 (オリエント史)もっと詳しく知りたい方、関連記事「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の中、「ペルセポリス(Persepolis)のラマッス(lamassu)」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンまた、ペルセポリスについては「アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
2010年04月25日
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ルーヴル美術館 3 ( ミケランジェロの奴隷像)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 3古典主義、リアリズム、マニエリズム、バロックの彫刻群イタリア、ルネッサンス期の彫刻の中でも目玉がミケランジェロ作の2体の奴隷像です。前回の階段から・・ここはドノン翼でも宮殿の通路を利用した部分のようです。ミケランジェロ作の2体の奴隷像ローマ教皇ユリウス2世(在位1503年~1513年)の墓廟の為に15年かけて1つの石の固まりから掘り出された作品なのだそうです。墓廟の依頼は1505年。忙しかったミケランジェロはユリウス2世の在位中に完成できず依頼から42年かかって完成。1547年にサンピエトロの中に完成した墓廟は縮小変更され40体の像を置く予定が結局本人が造ったのは3体のみ。サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑がそれです。昨年7月に「ミケランジェロ(Michelangelo) 3 (最後の審判) 」のモーセ像の所で紹介しています。(モーセ像も実は他の為の像だったようです。)因みに、ミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描くよう指示したのもユリウス2世です。この2体の奴隷像は最終的には墓廟から外され、ミケランジェロはそれを友人である銀行家のストロッジに贈るのですが、ミケランジェロの傑作故にこの彫刻は転々と居所を変えています。ストロッジは、フランス王アンリ2世にこの像を贈呈し、王はモンランシーの司令官にこれを与え、その後1632年にリシュリュー枢機卿の所有物となり、ポワトーの城に飾られ、1749年にリシュリュー家のパリの邸宅に移され、1792年にパリ国立美術館に収められ、1794年にルーヴルに収まりました。ミケランジェロ作 瀕死の奴隷ミケランジェロ作 反抗する奴隷アントニオ・カノーヴァ作 アモール(クピド)とプシケー1789年制作。新古典様式のこの像のテーマは絵画でもこの頃頻繁に使われています。そのシルエットからも解るフォルムの美しさは、どの角度から撮影しても素敵ですが、カノーヴァのライバルは「ロココの風車」と酷評したと言います。古代彫刻の伝統を持ちつつ、ロココ時代の甘美な表現に官能性を魅せながらもそのフォルムに近代の新しい美意識? を感じさせる作品です。女性好みなのは言うまでもありません。誰の作品か解りませんが、ルーベンスの絵画を彫刻にしたようなテーマです。ゼウスが女性をさらう所でしょうか・・・。作品展示にあたっては、教会、庭園、収集家の書斎や宮殿の内部など、敢えて空間の演出もしているようです。ピエール・ビュジェの中庭18C~19Cのフランス彫刻を展示ルーブル美術館つづくリンク ルーヴル美術館 4 ( オリエント美術)
2010年04月23日
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ルーヴル美術館 2 (ギリシャ彫刻)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 2イタリアの彫刻の部屋に入る前にギリシャ後期の彫刻を2点紹介します。完璧なギリシャの女神の彫刻です。来歴は解りませんが、とにかくギリシャ彫刻でこんなに完璧に残されている物を見ることは無い・・にひとしいのです。クラッシック期でしょうか・・。神殿の御神体のような気がします。こんなにギリシ的でパーフェクトな像を見るのは初めてです。(アテネにも無いです。)ギリシア彫刻の発展は5期に分類されるようです。(参考に)幾何学様式期 (BC10世紀末~BC8世紀中頃)大型の石像はなく、青銅やテラコッタの小像時代で、陶器の装飾の文様からこう呼ばれるようです。注 BC13世紀頃に突如現れたキクラデスの石像の頭のようなのは例外中の例外か? モダン過ぎて理解できない。東方化様式期(BC720年頃~BC650年頃)オリエント地域との交易による影響でスフィンクス等、動植物が図柄に使われるようです。芸術性の極めて高い造形の彫刻が現れるのはこの頃あたりから・・かな・・。アルカイック期 (BC650年頃~BC480年頃)アルカイック・スマイル(archaic smile )で知られる石像に感情を与えた表現は独特のもの。私的には癒し系表現のギリシャ彫刻である。ギリシャ彫刻の偉大な時代のスタートはこの頃クラシック(古典)期 (BC450年頃~BC330年頃)古典時代のギリシア建築の傑作の1つがパルテノン神殿。アテネを中心に、調和と理想美が追求された時代・・でも人離れした理想美かも。ヘレニスティック期 (BC330年頃~BC30年頃)アレクサンドロス大王の遠征の成果? ギリシャ美術は東方に伝播すると同時に東方からの影響も受けて造形はリアルな人間の情動を追求? (彫刻は神様から人間になった?)アテナイ神かな?古代エジプトで造られていた石像は、硬い班岩や花崗岩ですが、ギリシャ彫刻では、エーゲ海産の大理石が用いられ、軽い道具や金剛砂で加工しています。古代ローマの彫刻はギリシャに引き継がれていますが、色大理石も混合されてより派手に進化しています。あくまで、私の意見ですが、ローマ人は見栄っ張りだったのでは? と思います。ギリシャ建築を安上がりに模倣した感がポンペイの遺跡で見えたので・・。ローマ時代の彫刻とギリシャやエジプトも少し入っているようですが、この部屋は装飾が素晴らしいのです。柱の上部意匠が柱により異なった彫刻が施されています。下はヤギです。そしてなぜかサボテンが・・。薄暗い中での撮影なので少しボケ加減ですが・・。凄く芸術性の高い・・。立体的なグロテスクの意匠のようです。角にも素敵な彫刻が・・。こんな所まで凝らしているので、この宮殿の部屋は相当お金がかかっている事が伺えます。誰が増築した部分でしょう・・・。ギリシャ神話の神様かローマ神話の神様か・・。完璧ですルネッサンス期の部屋へ彫刻類は絵画より多いと思います。上はミケランジェロですが、説明は次回に・・。リンク ルーヴル美術館 3 ( ミケランジェロの奴隷像)
2010年04月22日
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前回の訪問の時に3日通って中をほぼ一通り見てきました。ルーヴルはそれだけ巨大な美術館なのです。もちろん中の絵画部門のほとんどは写真撮影は出来ませんが、撮影出来る箇所は結構撮影してきたほうです。私も含めて、なかなかパリまで行けないし、行っても一部しか見る時間が無いので、どんな所で、どんな作品があるかだけでも簡単に紹介する事にします。(行った気になれるように・・)ルーヴル美術館 1 (ニケ、ヴィーナス他、彫刻)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 1グラン・ルーブル計画前回ルーブルができるまでの歴史で終わってしまったので、少し補足してから、オーソドックスな作品の紹介と館内を簡単に紹介。グラン・ルーブル計画革命200年記念の大改造。グラン・ルーブル計画で、大きなガラスのピラミッドの下、地下には広い受付ホールが設けられ、売店が数種と、書店、土産物コーナーの他カフェテリアと駐車場が造られました。(駐車場については確認していませんが・・。カフェは逆さピラミッドのそばにありますし、スターバックスもメトロからの美術館入口近くにありました。美味しいコーヒーが飲めます)ガラスのピラミッドは国際コンクールによる入選作として決定したようですが、入館者に対して入口が狭すぎたので、入館に長蛇の列ができています。地下入り口も並んでいますが入口は計5箇所。ドノン翼地下入り口・・右の列が入場者何より変わったのは、以前は財務省が入っていたリシュリュー翼も展示室としてオープン(1993年)した事です。それにより地下から3階までの総面積は6万m²。収蔵物30万点の内、およそ3万点が展示されているそうです。テーマ別にエリアが区分けされています。ルーブル宮殿部分(美術館の部分のみ)リシュリュー翼・・・5~19世紀のフランス彫刻、メソポタミア美術、中世等の工芸品、フランドル絵画ハムラビ法典、シュリー翼・・・・・・中世のルーブル、古代ギリシャの美術工芸品、エジプト美術、オリエント美術、17~19世紀の工芸品、17~19世紀のフランス絵画。ミロのヴィーナス、エジプトの棺とミイラ、アッシリア有翼の雄牛像ドノン翼・・・・・・・・11~15世紀のイタリア・スペイン彫刻、12~18世紀の北ヨーロッパの彫刻、古代ローマ・エトルリア美術品、13~18世紀のイタリア絵画、フランス絵画の大作サモトラケのニケ、ミケランジェロの彫刻、絵画(モナリザ、ナポレオン1世の戴冠式、民衆を導く自由の女神)最短コースの観光ツアーで見学するのはドノン翼の絵画部門+ミロのヴィーナスのあたりです。さて、昔の入り口はドノン翼にありました。(ドノン翼とシュリー翼しかなかったからですね)ドノン翼の入り口左の階段を上がった踊り場にニケがあり、館内の待ち合わせには良い場所でしたが、リフォーム後は何だか情緒が無くなって無機な冷たい感じがします。サモトラケのニケ(Victoire de Samothrace) BC3末~BC2 ドノン翼台座の大理石の由来から、彫像がロードス島のものでありロードス人の海戦の勝利を記念するものであろうと推定。古代芸術の傑作です。1863年にギリシャのサモトラケ島(サモトラキ島)で発掘され1884年にルーヴル美術館の「ダリュの階段踊り場」に展示。118のピースで発見され現在も1950年に発見された右腕は保管されたままだそうです。ミロのヴィーナス(Venus de Milo) BC130年 アンティオキアのアレクサンドロス作 シュリー翼1820年エーゲ海のミロス島で発見されたアフロディーテ像。当初はオスマン・トルコに没収され、後年買い上げてルイ18世に献上され、それをルイ18世は、ルーヴル美術館に寄贈。ヘレニズム期特有のポーズをする女性の両腕はなく、幻のその手が永遠に謎・・と言う所にまた魅力がある。古代ギリシャの女性美を示す傑作です。常に周りに人が多く、正面の撮影は大変です。(結構場所が移動しています。まれに貸し出される事もあり。)古代ギリシャ美術のコーナーだったか?おそらく月の女神で狩りの女神でもあるアルテミスだと思います。オリュンポス十二神の一人ですが、もともとギリシャ以前の女神だったようです。おそらく、半人半馬のケンタウロス族の賢者ケイローンとクピドでしょう。神殿の柱になっている美女の像こんなのがある家に住みたい個人的に気に入ったものしか撮影していないので、解説書にも出ていないので、来歴はつけられませんが、一応コーナーでまとめて載せます。彫刻好きな私です。次回は古代ローマとイタリア彫刻のコーナーの紹介です。リンク ルーヴル美術館 2 (ギリシャ彫刻)リンク ルーヴル美術館 3 ( ミケランジェロの奴隷像)リンク ルーヴル美術館 4 ( オリエント美術)リンク ルーヴル美術館 5 (オリエント史)リンク ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)リンク ルーヴル美術館 7 (宮殿小史)リンク ルーヴル美術館 8 (天井の装飾)
2010年04月21日
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今回でオルセーは最後です。私はどちらかと言うと盛期ルネサンスとバロックの合間にあるマニエリスムの画家達の作品の方が好きなのだと思う。それはやっぱり今も変わらない・・・。まだ幼少の頃、美術誌を見ていてボッティチェリの「ビーナスの誕生」や「プリマベーラ」に感動し、ラファエロやミケランジェロの作品に傾倒したのを覚えている。(その時、ゴッホ等の印象派の画家の作品を見て、「何だこれは?」、「チープだ・・。」と幼心にも思たものだ・・。)世間ではわかりやすい印象派が特に日本では取りざたされていたけれど、全く興味はなく、初めてパリで美術館を訪れた時もジュ・ド・ポーム(旧印象派美術館)はサクサク見て、ルーブルのドノン翼の2階に重点をおいて鑑賞した。印象派と分類される作品の良さがなんとなくわかりかけてきたのは実はずっと後なのだ。フランス(France)パリ、(Paris)オルセー美術館(Musee d Orsay) part 5オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)バーンズ・コレクション(The Barnes Foundation)ポール・セザンヌ(Paul Cezenne)セザンヌが売れるまで正直印象派にもセザンヌにも全く興味はなかった。私の気持ちを動かした大きなきっかけは1994年に国立西洋美術館で特別展示された「バーンズ・コレクション」なのです。アメリカの大富豪アルバート・C・バーンズの印象派絵画のコレクションは、今まで美術誌で発表されている作品など話にならない、はるかにレベルの高い作品群で、私にとって、印象派と言う絵に対する「目からうろこ」となりました。印象派の作品の中にも、見ていて、味のある作品が確かに存在する・・と知ったのがこのコレクションなのです。画家の名前だけで、たいした事のない作品も祭り上げられて、高値で取引されている昨今、誤解していましたが、彼らの作品の中でも特筆できる良い絵が確かにあったのだ・・。と感銘して、それから心を入れ替えて、印象派の絵画を鑑賞する事にしたのです。最初にオルセーに所蔵されているセザンヌの絵画から紹介。ポール・セザンヌ(Paul Cezenne)(1839年~1906年)彼の代名詞的な果物の静物画。彼は200点に及ぶ静物画を描いたと言う。幾何学的に配置された構図。これは繰り返し描かれる静物のモチーフであり、何度も配置を変えて、この果物が腐るまで、何度も手を加えて描き続けたといいます。描かれたのは1895年頃・・壺から・・。「自然の中に球形と円錐形を見なさい。」と彼は言ったと言うが、世間のセザンヌの印象はこれに尽きるのではないか?カードをする男カードをする男はたいてい相手がいるので複数で描かれている。バーンズ・コレクションでは5人の人物が登場しているが、この作品は1人称の空間で実に印象派的で、遠近にとらわれず、男の心情が伝わる作品です。このモチーフもセザンヌの作品紹介にはたいてい登場している。自画像?サント・ヴイクトワール山この山もセザンヌが特に繰り返し描いたモチーフである。制作年はわかりません。1885年~1887年頃か?オルセーの作品は、世間に広く知られている。だから世間はこれらがセザンヌの全てと勘違いしているかもしれない。実はセザンヌの作品は50歳を過ぎるまであまり世間には知られていなかったそうです。富裕な帽子屋から銀行家にまでのし上がった父の最初は私生児として生まれています。法律家の勉強を辞めて画家になる決心をしたものの「怒りっぽい田舎者」「救いようのない変人」・・彼の内的な要因で彼自身パリではなじめなかった。絵も死体、殺人、ごうかん・・そんな作品ばかり描いていて、その傾向が変わるのは後に夫人となる社交的な年若いオルタンス・フィゲとの出会い(1869年)です。バーンズ・コレクション(美術書より)レダと白鳥(1880年~1882年)女性に恐怖心さえ持っていたと言うセザンヌにしてはめずらしい作品なのである。1880年代のセザンヌの特徴を持った作品と言うが、こんな作品を彼が描いていたなんて知る人は少ないだろう。女性のヌードを描くには神話を題材にして、絵に高尚性を持たせる事が常套手段だった時代である。セザンヌが売れるまで30代を戸外に出て印象派の画家達のように絵を描き、カミーユ・ピサロの勧めで1874年(35歳)に第1回印象派展に出展していますが、1890年(51歳)までセザンヌはほとんど無名です・・・と、言うより忘れ去られた存在だったようです。(金銭的には莫大な遺産を相続していたので、絵が売れていなくても生活は出来た。)1895年にやはりカミーユ・ピサロの勧めで開いた個展を境に彼の名声は高まったのです。その個展を開いた画商のアンブロワーズ・ヴォラールが1897年彼の作品を全部買い取って行きます。これらがアメリカに渡ったのではないでしょうか。バーンズ・コレクションに1900年代以前のセザンヌの作品が多いのは、パリよりも先にアメリカ人に評価されたからなのでしょう。バーンズ・コレクション(美術書より)頭蓋骨を前にした青年(1896年~1898年)死の象徴である頭蓋骨も繰り返し出されるモチーフで、彼の構成要素に重要なものだったのでしょう。何よりもバーンズ・コレクションの作品には華があるのです。タッチが・・構図が・・よりも好まれる絵が多いところが素晴らしい。やっとパリで認められるのは1900年(61歳)に行われた「パリ万国博覧会」で催された19世紀のフランス美術を代表する「フランス美術100年展」への出典です。オルセーの作品浴図の小品裸の人物を風景と融合させると言うセザンヌ晩年の一連の作品の一部と思われる。彼はやがて印象派を乗り越えキュビスムに大きな影響を与える存在になるのです。オルセー美術館はぶっちやけ彫刻やアールヌーボーの家具等の調度品のコレクションの方が素晴らしいけれど、日本のツアーでは印象派の絵画くらいしか見に行かないのです。フリー・タイムにじっくり見学に行く事をすすめます。おわりオルセー美術館(Musee d Orsay) back numberリンク オルセー美術館 1 (パリ万博とオルセー)リンク オルセー美術館 2 (印象派・・マネとルノワール)リンク オルセー美術館 3 (ジョルジュ・スーラ)リンク オルセー美術館 4 (モネとモネの庭)リンク オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)リンク オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)
2010年03月28日
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昨日のオレオレ詐欺事件で名前を使われた弟は、今日実家に行って自宅電話と母の携帯の指定以外の電話の着信拒否する設定をするといっていた。実は携帯からも犯人に電話をしていた母は、直後、携帯の電話番号もメールも全て変更するはめにもなったのだ。多分本人なりにショックだろうから今日は何も言わなかったが・・。(昨日言いすぎたようで、途中で怒って電話を切られたし・・・。)でも、もし被害に遭っていたら、金額は結構大きかったのだところで、実家の隣の家にも、すでに3回このような電話が来ている事が解ったのだが、いずれも次男の名を語っていると言う。次男はこうした事件を引き起こす・・・と言う「立ち位置」なのだろうか・・・。フランス(France)パリ、(Paris)オルセー美術館(Musee d Orsay) part 4オルセー美術館 4 (モネとモネの庭)クロード・モネとモネの庭(ジヴエェルニー)戸外で描くと言う事は、印象派の画家達が始めた新しい制作方法です。カンヴァスと絵筆を持ってアトリエを飛び出した彼らは、自然の中の絶えず変化する光や色を追い求める事を好みました。特に、少年時代をノルマンディーの田舎で過ごしたモネにとって、田舎の自然は絵画への情熱を与えてくれたものであり、生涯変らぬ素材対象だったようです。ところで、自然の移りゆく太陽光を捕らえ、瞬時にカンヴァスに描く事はたやすい事ではありません。画家達は新しい手法として、予備デッサンもせずに素早タッチで直接絵の具をカンヴァスに乗せるやり方で、見たものを写し描いたのです。左を向いた日傘の女(1886年)モネの母港となるジヴェルニーで描かれた日傘の女は左右向きの異なるものや、子供のいる風景もある。彼が好んだモチーフで、女性は彼の夫人らしい。セリー(連作)季節や天候、時間の経過が同じモチーフでも異なる効果を出す・・と言うアイデアが生まれたのがこの頃とされる。そして、季節や時間の連作が次々生まれる事になるのです。ルーアン大聖堂 正面玄関とサン・ロマン塔 の連作1892年~1894年までの間に、晴天、雨天、夜明け、日没、春夏秋冬といったあらゆる時間の中でこれをモチーフに30点ほど描いています。主題は、大聖堂そのものではなく、大聖堂に降りかかる日差しなのです。そう言えば、私も写真を整理していて、季節により、建物の映え方が異なる事に気がつきました。夏の青空は美しいのですが、建物がまぶしく光って見えにくい。冬の空はばっとはしないけれど、建物を鮮明に浮き上がらせるのです。両者の写真は、例えば寺院で言えば外壁の石の色が全く異なるのです。どちらを採用するか・・どちらもある意味真実の色なので、悩み所となるのです。モネはそれを絵の具で示して見せた。確かに印象で捕らえる彼らのやり方だと、写真よりもはっきり別物になるでしょう・・。「朝日 青の調和」1890年頃からリューマチを患っていたモネは戸外での活動に無理があり、この作品92年~93年、大聖堂向かいにアトリエを借りて窓辺から描いているそうです。(仕上げは94年~95年、ジヴェルニーのアトリエです。)茶の調和ルーアンのタイトルはオルセー美術館発行の案内書のものを使っています。ルーアン大聖堂をモチーフにした作品はテーマ・ペインティング最たるものとして評価されています。クロード・モネ(Claude Monet)(1840年~1926年)食料品商と船具商を営んでいたモネの家はそこそこ裕福で、幸せな幼少期と青年期を過ごしている。彼の絵の才を見つけたのは叔母で、オンフール出身の風景画家ウジェーヌ・ブータンとの出会いは彼が戸外で描く画家となる道を決めた人のようです。パリで画学生をし(1859年~)、アルジェリアに兵役(1861年~1862年)に就いた後に故郷ル・アーブルで知り合ったオランダ人画家ヨンキントンも彼に影響を与えている。「私の視覚教育はヨンキントンに追うところが多い。」とモネ自身が言うように恐るべき早さで第一印象を描き留める技術を持っていたと言う。モネの絵画は風景画家ウジェーヌ・ブータンと オランダ人画家ヨンキントン無くして生まれなかったかもしれない・・。ジヴェルニー(Giverny)パリから西方約80キロ地点。モネの晩年の住みかとなる場所です。特に庭は連作「睡蓮」を制作した場所として、モネの庭として知られています。1883年にジヴェルニーに居を構え、そこで「水と反射光の諸風景」と言う研究を続けるのです。1900年頃 庭園の日本風の太鼓橋を描いた連作の1つ同ジヴェルニーの今青い睡蓮(1917年以降)この頃の作品にはまだ花の形があります。後年、睡蓮の形はだんだん無くなり、オランジュリーの大作睡蓮となると、もはや花の形も葉の形も輪のようになり、近くで見ると何の絵かわからないくらい抽象化されています。例えるなら音楽のような絵画です。それがモネのたどり着いた究極なのかも知れませんが、オルセーには無いのです。モネの絵が売れ出すのは40才を越してからで、長命だった彼は、晩年は名声も得て、裕福な暮らしをしたそうです。今回は簡単に終わりますが、モネもジヴェルニーもまた別の機会にもう少し紹介するかも・・・。もう一回くらいオルセーはつづくリンク オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)
2010年03月27日
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前回奇しくも番外編となった「ロダンの地獄の門」は予定では使わない写真でした。何があるか解らない世の中です。あんな形で載せる事になろうとは・・。しかも、今回はスーラとモネを取り上げる予定だったのに予想外にスーラが長くなってしまった・・・。フランス(France)パリ、(Paris)オルセー美術館(Musee d Orsay) part 3オルセー美術館 3 (ジョルジュ・スーラ)新印象派のジョルジュ・スーラ点描主義or分割主義光を印刷の粒子のように分解して点描と言う特殊な手法で緻密に描き上げたのがジョルジュ・スーラです。印象派は明るい光の下に絵を描きましたが、モネやルノワールの表現ではスーラは満足出来なかったようです。スーラは水面に写るキラキラとした、眩しい光を追求して実験を重ねてたどり着いた表現がそれだったようです。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat)( 1859年~1891年)パリの中産階級の家庭に生まれて、働かなくても暮らせるだけの財産があった彼は、売る為の絵を描く必要がなかったので、売れるような絵も描かなかったそうです。父ゆずりの無口で、内気で几帳面な性格は、彼の絵を見れば何となそれもわかります。さらに、人並み外れた集中力と忍耐力を持って、脇目もふらずに絵画に没頭したのだそうです。残念ながらオルセーには彼の代表作はありません。短命な為に画業も12年間しかなく、作品は緻密で時間もかかるので、数も少ないのです。知る限り私がいいな・・と思う絵はほとんどがアメリカにあるようです。来歴がないので解りません。タッチを見るのに拡大しました。点描主義or分割主義学校では伝統的な構図を学びながら色彩理論を研究し、視覚混合の原理や色彩配合に関する理論を学んで確立した、「点によって図像する方法」は彼の考案した独創的な手法です。簡単に言えば、小さな色の無数の斑点をキャンバスに置いて絵に仕上げると言うやり方で、最終的に見る者が、絵の具を視覚的に混合して像や配色を組み立てて感知すると言う作品です。科学的、色彩論がベースにあるスーラの絵は、印刷紙を拡大すると見えるの色のドットの集合体とほぼ同じ理論になっているのです。グランド・ジャット島の日曜日の午後(1884年~1886年)下の作品は、オルセーではなく、シカゴ美術館にある作品です。写真もウキペディアでパブリックドメインになっているものをかりてきました。この作品はスーラの作品の中でも代表される作品なので参考の為に・・。(解像度が悪いです。)1886年5月の印象派展に出展されたこの絵は、ほぼ3m×2mもある対策で、2年かけて根気よく作成した絵画です。場所はパリ近郊、セーヌに浮かぶグランド・ジョット島ですが、実際島はこの絵で見るような静かな場所ではなかったそうで、この上品さと静けさは、彼の性格の現れ・・とか、好みのようです。この作品はオランダのクレラー・ミュラー美術館の作品です。色彩の参考の為に美術書から持ってきました。シャユ踊り(1890年)おそらくこの絵のデッサンもブルーで描かれていると思いますが、事物の色は赤と緑、オレンジと青と言う補色関係で描かれているようです。光を絵の具で表現光のプリズムでは三原色はホワイトになるのですが、絵の具の三原色では、色は汚く濁るのです。スーラが考えたのは、色は混ぜずにそのまま点で置くことにより、離れて見れば、視覚的iに混合色を造る・・と言った発想のようです。サーカス (1891年) 未完オルセー美術館の作品ですが、写真に撮っていなかったので、美術書より載せました。ウキペディアは発色が濃く出過ぎて、違う気がしたので・・・。ブルーのラインで描かれた下絵も見つかっていますが、完成していたら恐らく上の「シャユ踊り」に近い色合いになったのでは? と想像出来そうです。突然亡くなったそうです。原因は髄膜炎となっていますが、親友は、「働き過ぎで命を縮めた・・」と嘆いたと言います。彼の作品は気が遠くなるような緻密さで、細部まで計算し尽くして、下絵を何枚も描いてから・・と言うこだわりがあり、真面目で実直で几帳面でなければ描けない絵なのは確かです。探して見ると、なかなか面白い絵も描いていたようで、最後の2点は私が好きだから載せたのです次回はモネで・・・参考にジベルニーの写真も載せる予定です。リンク オルセー美術館 4 (モネとモネの庭)
2010年03月26日
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実はつい数時間前に母はオレオレ詐欺にあった。一応怪しんで息子の前の番号に電話をしたらしいが、仕事中の弟が電話には出なかったのも問題ではあった。新しい番号にはすぐ犯人が出る。それでもおかしいと思いながらも本人と思える気がしたと言う。発覚銀行へ向かう道々、本人に連絡がとれないので私に電話があり、私から弟に確認するように言われて詐欺だと発覚。一度冷静になって、「そんな事をする子か?」と考えればよいのだが、慌ててまくしたてられるので考えたり聞いたりする時間が持てない。それも手口のようだ。不思議な事に騙された人が共通するのは「もしかしたら・・。」と思う息子がやっぱりいた事だ。ところで、気付いた事がある。娘のバージョンは無いようですね。娘はしっかりしているから、ヘマして母に泣きつく確率は低いからかな?今回は、事前に電話を登録させているから、息子の名前も相手の携帯に出てしまうわけで、敵ながら見事な詐欺っぶり。頭いいね。それにしても警察があてにならない。被害届を出したから家まで警察官が調書を取りに来たそうだ。まさにその時犯人から電話がかかって来たのに、警察官は何もしてくれなかったと言う。「今警察が来ています。」と母は犯人に言ったので犯人は電話を切ったが、警察官は「今慌てて携帯の番号を変えているでしょう。」と言っただけで帰ったそうである。彼らは犯人を捕まえる気が全く無いようである。つかまえる気になればつかまえられたかもしれないのに・・。母はガッカリしたらしい。で、今回は、こんな詐欺師が落ちる地獄の「地獄の門」をついでに紹介しようと思ったのだ オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)オレオレ詐欺に騙されそうになった母オルセー美術館(Musee d Orsay) 地獄の門松方コレクションだった国立西洋美術館の地獄の門オルセー美術館(Musee d Orsay) 地獄の門ダンテの「神曲」の地獄編の中に登場する地獄門を彫刻家のオーギュスト・ロダンがブロンズ作品として制作したもの。※ フランソワ・ルネ・オーギュスト・ロダン(François-Auguste-René Rodin)(1840年~1917年※ ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)イタリアの詩人、哲学者、政治家。その地獄はダンテの考えたものですが、キリスト教の終末論に起因。人間が死んだ時に受けるとされる「最初の審判」で悪者は地獄の穴に落とされると言う思想により、独自の発想で地獄は描かれましたが、後世地獄の原型がこれになったのです。当然その地獄では最下層に行く程極悪人になる。その地獄の入り口の門と扉をダンテの新曲に基づいてロダン(Rodin)が制作したものが今回の「地獄の門」となります。つまり、文字通り、「地獄の門」は地獄へのゲートなのです。因みに、「神曲」の中、地獄の門には「この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ。(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)」と書かれている。※ 2009年7月「最後の審判 1 (ダンテの神曲)」,「最後の審判 2 (福音書と黙示録)」で紹介。リンク 最後の審判 1 (ダンテの神曲)リンク 最後の審判 2 (福音書と黙示録).そして、その石膏モデルが現在オルセーに置かれています。オルセー美術館の石膏の門大部分のパーツが独立した存在性を持つ彫刻となっています。実は、この作品は、当初以来のパリの装飾美術館が、依頼を撤回したためにロダン個人が製作を続けた石膏型です。そして、それはロダンが生きている間に鋳造される事はなかったと言います。.しかし、1920年になって鋳造が実現。彼の死後、版権がどのようになったかわからないが、注文発注により、現在青銅(プロンズ)で製作された「地獄の門」は世界に7つが展示されていると言う。その1つが東京、上野の国立西洋美術館の前にもありました。国立西洋美術館の地獄の門ブロンズ製 高さ540cm、幅390cm、厚さ100cm 重量 7t制作年1880 年~1917年(原形) 設置年 1959年(国立西洋美術館オープンから)松方コレクションだった国立西洋美術館の地獄の門こちらの作品は実業家で、美術収集家であった松方幸次郎氏の注文による鋳造だそうです。つまり松方コレクションの一つだったわけです。※ 松方幸次郎(まつかた こうじろう)(1866年~1950年) 実業家(川崎造船所社長)。政治家(衆議院議員)。美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。※ 松方コレクションは、印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心に収集されている。しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻。自身の負債整理のため松方コレクションは散逸する事になった。そもそも上野公園の国立西洋美術館(The National Museum of Western Art)は戦後、海外に散逸していた松方コレクションの返還要請に基づいて、フランス政府などから返還された作品を展示する為にル・コルビジェ(Le Corbusier)の設計により造られた美術館だったのである。※ ル・コルビジェ(Le Corbusier[)(1887年~1965年)フランスの建築家皮肉にも、国内の作品は差し押さえられ消えたが、むしろ海外に置かれていた松方コレクションは、全てでは無いが返還される事になったのだ。※ フランスが返さない印象派の作品はまだある。※ 件の「地獄の門」が、松方家からの寄贈婚なのか? 美術館が買い取った作品なのかは解からなかた。1880年、会計検査院の跡地に建てられる装飾美術館の為に国家によりロダンに注文が入る。1880年~1890年にこの地獄の門の構想ができたらしいが、この話自体が取りやめになってしまう。しかし中止と言われても、お金を払ってでも、自身の作品としてロダンは制作を続け彫り続けたそうでだ。確かに芸術家が1度着想f始めたものを止める訳はない。彼がこれを世に出す事は彼の使命と思ったのかもしれない。これはダンテの「地獄の門」と語るにふさわしい貫禄を持った作品であるからだ。でも、先ほども紹介したが、生前にブロンズの形で世に出る事はなかったそうだ。ところで、門の上で悩む男に見覚えがありませんか?地獄の門の上で熟考する詩人はダンテ? 当初はそう発表されたらしいが、ロダン自身だったのではないか? と考えられている。.考える人(Le Penseur)1889年、ロダンは「地獄の門」を覗き込むこの部分を一つの彫刻として発表。それこそが、地獄門よりも有名になっているロダン作の「考える人」(Le Penseur)です。しかし、その名はロダンが付けた名ではないそうですよ。ロダンの作品はたくさんありますが、代表作がこの「地獄の門」と、その一部を抜き出した「考える人」と言えるかも。ところで、ロダン作品は、極めて緻密でリアルな上に力強さがある。強い生命力を感じる作品です。ブロンズ作品愛好家としては、嘆美系と趣味が分かれるところかもしれません。実際日本人には好まれ、よって日本にロダン作品は多く来ていますが、フランスをのぞけば他ではあまり見かけない?※ 明治43年、同人雑誌「白樺」で紹介された為に日本では有名に。当時白樺派でフランス語の出来る有島生馬(ありしまいくま)が手紙を書きロダン自身と交流もあったそうだ。唯一、記憶ではデンマーク、コペンハーゲンのニュー・カールスバーグ(Ny Carlsberg)美術館に作品が多く集まっていた気がします。取り寄せている本はまだ届かないので、オルセーは、続きます。オルセー美術館b ack numberリンク オルセー美術館 1 (パリ万博とオルセー)リンク オルセー美術館 2 (印象派・・マネとルノワール)リンク オルセー美術館 3 (ジョルジュ・スーラ)リンク オルセー美術館 4 (モネとモネの庭)リンク オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)
2010年03月26日
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フランス(France)パリ、(Paris)オルセー美術館(Musee d Orsay) part 2オルセー美術館 2 (印象派・・マネとルノワール)印象派とは?アカデミーとは?オーギュスト・ルノワール ルノワールの彩色エドワール・マネここは、2月革命(1848年)から第一次世界大戦が起きるまでの1914年までの作品が展示されています。印象派とは?印象派は、19世紀の後半にパリを中心に立ち上げられた大きな芸術運動(改革)で、従来のアカデミーの仕切る絵画論に立ち向かう(反抗する)べく、新しい絵画スタイルを発信した画家達の一団のスタイルを総じてこう呼びます。それは従来の絵画のスタイルである写実主義から、想像性を交えた様々な表現を駆使した絵画(何でもありの絵)への移行期の序章で、それ自体「革命的な絵画への挑戦」だったと言ってよいでしょう。特徴は「暗から陽へ」・・薄暗がりの中の絵が、明るい光の下の絵・・に変わった。絵は、おもいっきり、陽の光を浴びて光輝く、明るい絵画として表現されたのです。太陽光、電球の明かり・・・それら光のマジックを画家のインスピレーションで表現した作品でもあります。ただその為に絵は、リアルではなくなり、画家の想像力が大きく左右される作品になりました。ちょうど、産業革命で電気が導入され、夜の街も明るくなり、計らずも、一般庶民の生活にも明るさが芽生えてきた、そんな社会を表現した技法かもしれません。スタイルは様々ありますが、彼らは主に戸外で作品を描いています。時間による光のマジッックを描き出した第一人者はクロード・モネに代表されますし、女性の肌を光輝く艶で表現したのは前回紹介したオーギュスト・ルノワールで、電球のスポット・ライトの光に照らされた女性を描いたのはエドガー・ドガです。後期に入りますが、光を印刷の粒子のように分解して点描と言う特殊な手法で緻密に描き上げたのがジョルジュ・スーラです。彼らは光に焦がれて、自然に焦がれて積極的に動き回り、自由に発想して見たまま、感じたままをキャンパスに描いた挑戦的画家達でした。アカデミーとは?アカデミーは、簡単に言うと、芸術の管理団体です。特に国家対策として芸術家の地位と育成に力を注ぎ、表彰や展示までを仕切っていた・・特権団体です。それは創始目的が、宮廷お抱えの芸術家の育成と言う所からスタートし、伝統や保護、保守が優先されているので、それはそれなりに必要な部署なのです。ただ、19世紀になると庶民の文化の中の芸術界にまで仕切り出し、権力をかざし、アカデミーにそぐわない芸術家を認めず、締め出し、展示さえもさせないような強行スタイルをとっていたので、一般の芸術家にとっては敵対者でした。印象派のような新しい改革者達とは水と油ほど考えが違っていたわけです。前回に引き続きオーギュスト・ルノワール( Pierre-Augustê Renoir)(1841年~1919年)の作品から・・。せっかくなので額縁も入れてあります。額縁も絵画の一部だと絵の先生に言われた事があります。額縁が豪華だと絵も良く見える・・と言うマジックを自分の作品でやっていますブランコ(1876年)モンマルトルのアトリエの庭で描いた作品だそうです。ルノワールの彩色ルノワールは影を描くのに黒ではなく、青色を使っています。青を意識して、細部の配色も計算されて黄やピンクが置かれています。前回もその色彩表現が非難されたと紹介しましたが、絵の具を混ぜて色を創り出す事をほぼやめて、絵の上でうまく色がからむような構成にしているのです。読書する娘(1875年~1876年)読書する少女の左からライトが当たっている事が強調されている一品です。そして、その光の中で少女の高揚する感情を表現しているようです。拡大遠目に見るとそれなりに違和感はないけれど、近くで見ると輪郭もぼやけて消えている。(特に光の当たる部分は・・。)デッサンはどうなんだ? とも思いがちですが・・・。彼らの絵は、遠く離れて初めて良さが見えるというわけですこの絵はアカデミーの巨匠達の絵とは明らかに別物ですね。彼らには全く経験がないので理解できなかったろう・・・。ピアノに寄る娘たち(1892年)この絵は複数見かけます。赤が基調になっていて、幸せな家庭のリビングに飾るのに象徴的な絵ですね。エドワール・マネ(Edouard Manet)(1832年から1883年)司法省の高級官僚の家に生まれた彼は18才で画家のアトリエで勉強しています。父の多額の遺産を相続した彼は他の画家のように食べるのには困らなかったようです。印象派の友を支持しながらも、彼自身はアカデミーで認められる事を願ってサロンの出展を重視し、1881年にレジョン・ド・ヌールの勲章をもらっています。印象派に組み込むには無理がありますが、明らかにアカデミーから脱した開拓者です。バルコニー(1869年)サロンに出品されたこの絵はグリーンの手すりと白いドレスの対比が見る者を釘付けにするのである。女性はベルト・モリゾー。マネに戸外で描く事を勧めたのは彼女だと言います。マネの弟と結婚するまでは度々モデルをしたとも言います。マネの作品でよく引き合いに出されるのは娼婦を描いた「オランピア」ですが、それに比べると確かにアカデミックではあります。写実的ではあるけれど、従来にはない構図は、むしろフォトのようです。どうも自分の中の面白さ・・思いつきに忠実に描きたがる人のようです。決して悪くない作品です。来歴不明ですが、バルコニーより後だと思います。どうもマネの作品は、初期にサロンで酷評された「草上の昼食」や「オランピア」が引き合いに出されますが、酷評以降の作品の方が、マネの良さが出ていると思います。つづくリンク オルセー美術館 3 (ジョルジュ・スーラ)
2010年03月25日
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さて、ベルベル人の住居を紹介しようかと準備をしていましたが、取り寄せている本が届かないのでもう少し後にしました。その次にヴァチカンの予定もありますが、それも長くなるので据え置きして、とりあえず美術館でも行ってみる事にしました。フランス、パリにある印象派の殿堂と言われるオルセー美術館本体から紹介。オルセー美術館 1 (パリ万博とオルセー)フランス(France)パリ、(Paris)パリ万国博覧会オルセー美術館(Musee d Orsay)パリ万国博覧会・・・駅から美術館にまずはパリの街から・・ですが、これから紹介する写真は、全てパリ万国博覧会に関係しています。コンコルド広場遠くエッフェル塔が見えます。9月に「パリのエッフェル塔 」で紹介していますが、1989年の第4回万国博覧会の為に建設されたものです。アレクサンドル3世橋とアンヴァリッドアレクサンドル3世橋オルセーと同じ1900年の「第5回パリ万国博覧会」で建設。フランス共和国の大統領とロシア皇帝アレクサンドル3世の間の友好の証として、ニコライ2世によりパリ市に寄贈されたものだそうです。(凄い贈り物ですね)アンヴァリッド橋を渡って正面に見えるのがアンヴァリッドと言われ、1676年にできた退役傷痍軍人を収容する為の施設です。(マンサール設計)現在も療養所は少し残り、軍事博物館などに一部転用されています。そしてここにはナポレオンのお墓があります。中央のドームが教会で、その地下にナポレオンが眠っています。普通観光では行かない所なのであまり知られていないかも・・・。パリ万国博覧会ちょっと驚きましたが、パリの万国博覧会は、9回開かれています。1855年、1867年、1878年、1889年、1900年、1925年、1931年、1937年、1947年。「第5回パリ万国博覧会」で建設されたのが、アレクサンドル3世橋とグラン・パレ、プティ・パレとオルセーです。万国博覧会は、様々な物品を集めて展示する国際的博覧会で、前身は、1798年、フランス革命の時期にパリで初めて開かれた国内博覧会で、1849年までにそれは11回開催されたそうです。1849年になり、フランスの首相から国際博覧会が発案され、第1回国際博覧会が1851年にロンドンで開催されています。今年は中国で開催されますね。セーヌ川畔・・写真の奥に見える建物が、グラン・パレ以前ノートルダム寺院のところで紹介していますが、「パリの街を東から西に流れるセーヌ川は、北側を右岸、南側を左岸」と言って街を分けています。写真右が右岸で左が左岸。グラン・パレ1900年のパリ万博の時に建てられて19世紀のフランス美術を代表する「フランス美術100年展」で新古典主義から印象派までの絵画や彫刻を展示されたそうです。古典様式にアールデコ装飾がされた定物で、4人の建築家が設計。この向かいにプティ・パレがあります。まさに中身はオルセー美術館の前身ですが、中身がいきなりオルセーにきたわけではありません。オルセー美術館この美術館は、かつて駅でした。画家のデタイユは「このオルセーの駅舎を見て「この駅は素晴らしい。美術館の風格を持っている。美術宮殿の方が駅みたいだ・・まだまにあうなら取り替えっこしないか?」と提案した・・と言うくらい当初から素晴らしい出来だったようです。写真左にまだ建物はつづく・・・入り切らない。オルセー駅前述した1900年に開催されたパリ万国博覧会の為に建設されたオルレアン鉄道の終着オルセー駅舎兼ホテルとして建設。設計者ヴィクトール・ラルー(1850年~19937年)2年ほどで建設され、1900年7月14日落成。まさにこの廊下に4路線の線路が通っていたようです。正面の時計や壁などはそのまま。でも、元駅とは気付かない。駅から美術館にオルセー駅はオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルでしたが、手狭になり1939年には大規模な鉄道線による交通が打ち切られその後様々なイベント会場になったと言います。(大戦後の捕虜受付センターになった事も・・)その後ジョルジュ・ポンピドー第2代共和国大統領(1969年~1974年)政権下で美術館への移行が確認されヴァレリー・ジスカール・デスタン第3代共和国大統領(1974年~1981年)引き継がれ、フランソワ・ミッテラン第4代共和国大統領(1981年~1995年)の代1986年、オルセー美術館が開館。オルセー駅当時の写真・・・確かにあまり変わらない。時計もそのまま日本人は印象派の絵が好きな人が多いようで、ルーブルより人気があります。フィルム写真しかないので載せられませんでしたが、会館当時のホテルのレストランがそのまま美術館のレストランに利用されています。天井画がとてもロマンティックで素敵なのです。たかが美術館のレストランになぜ? と思ったらそう言う事だったのですね・・。時計側から撮影絵画はジュ・ド・ポーム(旧印象派美術からオルセーに移行。旧印象派美術館はこじんまりして見やすかったのですが・・。何より作品に近かったし・・。新印象派美術館には絵画だけでなく、彫刻やアールヌーボーの家具等の調度品もあります。私は、絵画部門よりそちらの方が実は好きです・・・。ムーラン・ド・ラ・ギャレット 1876年オーギュスト・ルノワール( Pierre-Augustê Renoir)(1841年~1919年)この作品は1894年にギュスターブ・カイユボットから国に寄贈された絵なのだそうです。ただし、国のアカデミーは当時、まだ印象派と言うものをかたくなに拒絶していたので、この作品はしぶしぶ受け取ったとされています。今じゃアカデミーの作品よりお値打ちに品になっていますが・・・。ルノワール35才当時の作品だそうです。1854年(13才)から4年間、磁気の下絵描きとして奉公して絵の経験を積んんだ後、模倣画家としてルーヴル美術館で巨匠の絵画勉強し、初めて画家になったと言われるのがこの作品なのだそうです。この色彩表現は非難の的となったようですが、彼への肖像画の依頼は増えていったようです。印象派の作品紹介・・つづくリンク オルセー美術館 2 (印象派・・マネとルノワール)
2010年03月24日
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久しぶりの美術品ネタです。Break Time (一休み)スペインのビルバオで見つけたアートを紹介グッゲン・ハイム美術館(Guggenheim Museum)ソロモン・R・グッゲン・ハイム財団が運営するグッゲン・ハイム美術館は1937年 ニューヨーク市に設置されてから世界各地に展開している20世紀の近代・現代美術を中心とした作品の美術館です。その分室の1つがスペインのバスク自治州ビルバオ市に1998年開館されました。ビルバオ・グッゲン・ハイム美術館(Bilbao Guggenheim Museum)この美術館はビルバオ市の文化再生の事業として立ち上げられたもので、建物はバルセロナの1989年オリンピック村施設などを手がけた建築家フランク・O・ゲーリーの設計。ビルバオ市最大の川(ネルヴィオン川)の土手に建設写真中央にいる巨大クモのオブジェは六本木ヒルズにあるのと同じ。外観は光触媒としての性質を持つチタニウム板を最先端の技術を駆使して、有機的な螺旋を描くような形を造形。工業都市ビルバオをイメージして設計されていると言う奇抜な建物は中身の美術品よりも印象に残り、オープン以来町に観光客を呼んでいるそうです。2011年竣工予定の分室、グッゲン・ハイム・アブ・ダビの設計もフランク・O・ゲーリーのようです。因みに本家ニューヨークの建築設計はフランク・ロイド・ライトの手によるもの。しかし、今回紹介するのはそれではなく、その正面玄関の脇に鎮座する・・・ワンコである子犬のパピー(Puppy)近くで見ないとわからないけど・・圧倒されるその大きさ・・・名前はパピー。犬種はウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア。1992年にドイツの展示会用に生み出されて、1995年にはいったん解体されて長持ちする骨組みに設計されて再建。それをソロモン・R・グッゲンハイム財団が購入して、ここにやって来た。パピーは子犬である。大きいけど・・。高さ12.4mの、鉄の骨組みに種々の花々を植え込んだ巨大なトピアリーになっている。造形主はアメリカのアーティスト、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)( 1955年1月21日~)彼の作品は「巨大バルーンアートのようなオブジェ」など、ちまたではネオ・ポップorポスト・ポップと揶揄して評価されているようであるが・・・。彼は気に入らない。彼曰く、「美術作品は必ずしも隠された意味を持っているわけではない。最初に作品を見たときに感じたもは、作品の中身となんら変わらない。」と言うのが彼の言い分で、見たまんまが彼の作品のようである。パピーは除幕式の前に過激派に爆破されそうになったと言う。なぜ?生き延びたパピーは以降、ビルバオ市の象徴となって愛されている。花はベゴニアのように見える。いずれにせよ手入れが大変である。私もトピアリーを作った事があるけれど植物の場合太陽のあたる方向に生育が偏るからだ。季節による差もかなりある。このパピーは一番綺麗な季節の時のパピーかもしれない。ところで、先程のジェフ・クーンズの理論で、この作品を私が評価するなら、一目見た時に「幸福を感じた。」だからこの作品は幸福な作品と言う事になるのだろう。
2010年02月26日
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Break Time (一休み)ニュー・カールスベア美術館(Ny Carlsberg Glypotek)カール・ヤコブセン(1842年~1914年)古代エジプト作品古代バビロニア遺跡発掘前回城の再建に貢献したカールスベアのビール会社の創設者J.Cヤコブセン(1811年~1887年)の息子2代目の、カール・ヤコブセン(1842年~1914年)が創設した美術館です。チボリ公園のすぐ近く、中央駅からはバスで2つ目くらいの所にあります。私的なコレクションが中心なのだそうですが、かなりハイレベルの考古学的な遺物が展示されています。この写真はウキペディアからです。カール・ヤコブセン(1842年~1914年)ヤコブセン親子の間には確執がありました。1882年、息子カール・ヤコブセンは父(J.C.ヤコブセン)の経営に反発して別会社を設立。それが「ニュー・カールスバーグ」社(Ny Carlsberg)で、父の「オールド・カールスバーグ」社(Gammel Carlsberg)と張り合う事になる。父は1887年逝去、父の遺産はカールスベア財団に移されていますが、もしかして美術品類のいくらかは彼に残したのかもしれません。カール・ヤコブセンの私的なコレクションが中心と言われているが、コレクションの内容を見ていると父の時代に集めたのでは? と思われる部分もあるからです。いずれにせよ父と同じように美術品への関心が高かったのは確かなようです。ところで会社は1906年に合併統合されています。それでもこの美術館の名前だけは「ニュー・カールスバーグ」と残ったようです。美術館1階の中庭アトリウム個人とはいえ市の美術館よりはるかに素晴らしい施設と展示物を誇っています。考古学好きにはお奨めです。古代エジプト作品Glypotek(彫刻陳列館)の名の通り、当初は古代彫刻作品群がコレクションの中心だったようだ。前回のエジプト企画カルナック・アメン大神殿(Temple of Karnak)にもなかった品質の作品です。左がアメン神の冠を付けています。ひょっとするとカルナックから出土しているかも・・・。青銅製の冥界の神アヌビス神では? 写真は部分で全身完璧な像です。他でこんなの見た事がありません。ミイラ作りの神とされていたアヌビス神は埋葬されたミイラを守護するとも言われています。どこか王家の墓から出土したものでは?マヘス (Maahes)神?獅子の頭を持つこの神は戦争や天気の神? 母系制とアメン高司祭の保護を司る神とか・・・。アメン神官達のアメン大司祭国家の時代のものでしようか? これもカルナックの匂いがしますね・・・。古代バビロニアペルガモン美術館で見たようなこの浅浮き彫の壁は・・・、シルシュ(ドラゴン)を表した壁絵まさかイシュタルの門に続く壁か? 他にライオンとオーロックスの壁がありました。ペルガモン美術館の写真と照合・・イシュタルの壁に間違いなさそう。メソポタミア神話に遡るスフィンクス?ヘレニズムに近く見えるがメソポタミアからの古いスフィンクスもあります。スフィンクスの歴史が古代バビロニアに遡るとは知りませんでした。セイレーン(Siren)のような気もする。枠をとっておきたかったけど・・・二度と載せない美術館なのでこの写真も紹介・・・。来歴は不明ですが、ヘレニズムか?ギリシャ神話の方のスフィンクスのようですね。髪の毛は古代バピロニアに近いけど。それにしても鮮やかで美しい一品です。これは欲しかっただろうな遺跡発掘全体にセンスも良く、彼がコレクションとして買い集めたと言うよりは、彼あるいは彼の父がパトロンとして遺跡発掘の資金提供をしていたのでは? と思える品揃えです。資金提供の代わりに良い発掘物を手に入れる・・・それは19世紀に始まった遺跡発掘ブームを感じざるおえません。実際現在は遺跡の国外持ち出しは簡単に出来ませんが、当時は欧州やアメリカへ良質の遺跡が大量に渡っています。ここのレベルはそうした位置にいたからこそコレクションできたであろうと言う内容のレベルです。因みにハワード・カーター率いる王家の谷の発掘は1916年からカーナヴォン卿の援助で行われています。ヤコブセン親子が収集していた時代は、まさしく発掘のラッシュでトレジャーハンターも活躍していた時代。そう言う時代があったから発掘場所の当時国に、逆に良い遺跡美術品がほとんど残っていないのが現状です。ロダンの彫刻作品も結構まとまってありました。絵画は私的には遺跡にくらべれば、それほど目に留まるものはなかったと思います。でもコペンハーゲンに行く事があったら是非寄った方が良いですよ。
2010年02月01日
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