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カテゴリーを変更しました。さて、今回は海洋共和国編で度々登場したガレー船(galley)を取り扱ってみました。船に興味があったわけではないのですが、本スジの「アジアと欧州を結ぶ交易路」を考えた時に、その輸送手段は重要事項です。現代では、物流と言えば航空輸送や陸上輸送の車も対象になりますが、太古の物流は主に船でした。できるだけ船で運ぶ。時に運河も構築した。そして必要最小限が人なり馬などの動物を利用した輸送です。5000年前にはすでにガレー船(galley)が登場し、地中海交易での物流を担っていた。大航海時代に太洋を越える物流では帆船(はんせん Sailing ship)が優位に立ったが、小廻りの効くガレー船はエーゲ海や、バルト海、カリブ海などの諸島群の輸送では近年まで主力であったのだ。そしてそれは物流を担う商船と共に軍船として進化を遂げてきた。ガレー船は、その動力に蒸気機関が発明される19世紀初頭まで活躍していたのである。※ 蒸気船の事も最後に載せました。ガレー船(galley)の事に始まり、赤ヒゲ海賊の事、オスマン帝国との海戦でレパントの海戦 (Battle of Lepanto)も成り行きでいれました。写真はサンマルコ寺院の内部を紹介。最初にガレー船時代の美しい海の怪物の話しを入れました。付け足しして書いていたから、またまた長くなりました。海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ガレー船(galley)とセイレーン(Siren)ガレー船(galley)の変遷一段櫂船(single-banked galleys)ペルシャ戦争の三段櫂船(Trireme)アレクサンドロス王とフェニキア人(Phoenician)ポエニ戦争の五段櫂船(Quinquereme)ガレー船の漕ぎ手問題ヴェネツィアとジェノバのガレー船の事情官民一体のヴェネツィア船団小型ガレー船フスタ(fusta)元海賊、オスマン帝国の海軍提督バルバロス海賊との海戦からオスマン帝国との海戦に聖エルモ城塞(Fort st.Elmo)レパントの海戦 (Battle of Lepanto)ガレー船の衰退蒸気汽船の発明サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真ガレー船(galley)とセイレーン(Siren)まずは、私の好きな19世紀、ヴィクトリア朝の画家の作品から。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse )(1849年~1917年)写真はウィキメディアから借りました。1891年製作。絵のテーマは、古代ギリシアの吟遊詩人ホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア(Odysseia)」から セイレーンの居る海域を通過するオデュッセウス(Odysseus)の話しである。※ 二大英雄叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の執筆者として信じられているが、実在かはハッキリしていないらしい。オデュッセウス(Odysseus)はギリシャ神話の英勇。トロイア戦争の勇者であるが、彼の船は帰路すんなり帰国できず地中海をさまよう。辛い放浪の中で幾多の怪物にも遭遇。セイレーン(Siren)は、ギリシア神話に登場するかぎ爪を持つ半身が鳥の海の怪物。彼女らの歌声を聞くと海に飛び込んでしまい、あげく、食われてしまうそうだ。ウォーターハウスは、セオリー通りに半鳥の怪物として描いている。逆説的に考えると、航海の危険地帯を諭す意味でセイレーン(Siren)を利用した?座礁を起こしやすい、慎重に船の舵を取るべき海域にセイレーンは存在したのだろう。特にガレー船は岸に近い所を航行するのが常。岸に寄ったら危険・・と言う海域の警告?最も、昔のたいていの人は、船が遭難したり難破するのは全てセイレーンの仕業。彼女らの美しい歌声を聞いて惑わされたから。と信じていたのかもしれないが・・。下はフェニキア人が描いたモザイク画のオデュッセウス(Odysseus)。紀元前の作品です。かつてのカルタゴ(現チュニジア)のバルドー国立博物館(Bardo National Museum)のモザイク画から以前一度紹介していますが。こちらもホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア」を描いたもので中央で立って縛られているのがオデュッセウス(Odysseus)です。このガレー船の絵は有名ですが、この右隣のセイレーンの絵はあまり紹介されていない。こちらのセイレーンもセオリー通りの足がカギ爪のは半人半鳥の怪物となっている。ところで、中世になると怪物は人や人魚に代わったりしている。「船乗りを惑わすのはさぞ美しい魔物に違いない。」と考えたのでしょうか? 下は上と同テーマのホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」1867年製作。 怪物に注目。何と怪物セイレーンは絶性の美女群で描かれている。ハーレム状態。こんな誘われ方したらね写真はウィキメディアから借りました。フランスの風景画家レオン・ベリー(Léon Belly)(1827年~1877年) 彼はフランスの中東の調査探検に記録画家として1850年~1851年参加。ギリシャ、シリア、黒海を回り、帰国後、プライベートでエジプト、ナイル川を遡上するなど中東にとりつかれた?パリのサロンでデビューし、レジオンドヌール勲章ももらっている。この絵の女性はルーベンスを思わせる肉感がある。まあ、神話だからね。が、彼の他の絵はもっと現実志向で写実的。現実の今を写真のように切り取った彼の絵は人々に中東への興味を与えただろう。恐らく流行ったのも勲章をもらったのも、当時のフランスの中東政策にはまったからかも。それにしてもイギリスではヴィクトリア朝にこのテーマを扱った画家は多いし、フランスもしかり。ロマン主義的なテーマが好まれた時代ではあるが、裸婦を描く為の方便? 確実に魔物は普通の美女に代わっているからね。※ ヴィクトリア朝(Victorian era)はヴィクトリア(Victoria)女王(1819年~1901年)が大英帝国を統治(在位)していた期間(1837年~1901年)を指す。1877年~1901年までは初代インド皇帝としても君臨している。巨大な植民地を持っていた大英帝国の経済は絶好調。比例して国力が最もあった古き良き時代でした。ガレー船(galley)の変遷ガレー船(galley)の歴史は古くBC3000年に遡るらしい。先にも触れたが、地中海周辺の船乗りの間で貿易船として、軍船として、あるいは海賊船として19世紀初頭まで使用されていた。古代のフェニキア人(Phoenician)が地中海交易で使用している。それはオールを左右に複数備えた手こぎ(人力)の船で、さらに帆も着いたガレー帆船である。※ フェニキア人は、オールが少なく、主に帆に頼る輸送船を使用していたらしい。古代エジプトのハトシェプスト(Hatshepsut)女王の治世(在位:BC1479年頃 ~BC1458年頃)に紅海の向こうから贅沢品を持ち帰るガレーのような船が記録されているそうだ。因みに贅沢品はミルラ(Myrrh)やフランキンセンス(frankincense)であったと思われる。※ 殺菌と鎮静の薬として、またミイラを作る時の防腐剤に利用されたミルラ(Myrrh)。儀式で神にささげられる貴重な香油フランキンセンス(frankincense)。以下で書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード下は古代でなく、中世にエジプトからローマにガレー船で運ばれて来たオベリスクです。ヴァチカン美術館で見付けた絵画を撮影していたものです。オベリスクを運ぶ為に特別仕様に造られたガレー船です。左右の舷(げん)で沢山の人達がオールを漕いでいるのが解ります。後方の帆船からそれは中世である事はわかりますが、ローマにオベリスクは13本あり、どのオベリスクが新たに運ばれた物かまで今回は特定していません。ローマ帝国時代に運ばれたオベリスクを再利用して広場に設置したりしているからです。※ 確証はないけどベルニーニが1667年にミネルバ広場の為にデザインした時の物かな?世界に現存しているオベリスクは30本。古代のローマ帝国の強さと、中世以降のローマ教皇庁の威信がイタリアに16本(ローマに13本と他3本)も集めたのでしょう。因みに、ヴァチカンのサンピエトロ広場にあるオベリスクはネロ帝の競技場跡に建っていたものを1586年に移転させたものです。※ 過去に「オベリスクの切り出し(アスワン)」を載せています。リンク オベリスクの切り出し(アスワン)リンク エジプト 17 (オベリスクとベンベン)下はアッシリアの壁画(大英博物館)から BC700年、アッシリアの軍艦写真はウィキメディアから借りました。オールを見ると2段式櫂船(かいせん)のようです。下はノルウェーの復元されたヴァイキング船の写真です。時代は中世初期ですが、ガレー船としてはシンプルな初期型(一段櫂船)。見本に載せました。こちらは一応ヴァイキング船なので戦闘船です。円形の楯(たて)の収納場所も付いている。一段櫂船(single-banked galleys)古代のガレー船は、漕ぎ手座は1段(single-banked) で、1人が1本の櫂(one row of oars)を担当。また漕ぎ手の列(lines of rowers)に基づいて名前が付けられていた。初期のギリシャの一段櫂船(single-banked galleys)は、オールの数で呼ばれていたようだ。30オール・・トリアコンター(triakontoroi) 左右1列づつの 2×15人50オール・・ペンテコンター(pentēkontoroi) 左右1列づつの 2×25人初期のガレー船は甲板がない漕ぎ手座だけの船。よって積荷はほとんど積めないので水や食事の補給、休息や睡眠の為に度々着岸する必要があった。あくまで近海用である。また人件費と言う意味で帆走よりコストがかかった。海賊に人件費はいらないが・・。※ 帆走(はんそう)は帆(ほ)に風を受けて航行するヨットのような船。当時の帆船には大きな正方形の帆マストが1つしかなかったらしい。ただ風に頼らず、行きたい方向に進める小廻りの効くガレー船は近海警備や戦闘用に向いていたので古代から中世までは軍船として発展して行く。ところで、当初、軍船と商船の明確な区別は無かったらしいがBC8世紀頃からスタイルの違いが出てきているらしい。多人数でオールを漕げぱ早い走行は可能。それ故、ガレー軍船は戦士をどんどん増やし大型化して行くが、逆にフェニキアの商船の場合は積荷スペースを多くする為に漕ぎ手を減らしている。ギリシャでは馬を輸送するガレー船も存在している事から用途によってガレー船のスタイルもいろいろ考案されていたのだろう。ペルシャ戦争の三段櫂船(Trireme)漕ぎ手座は3段(three banks of oars)・・・三段櫂船 トリレム(Trireme)BC6世紀中頃~BC4世紀末は三段櫂船トリレム(Trireme)が地中海における標準的な軍船となる。BC5世紀、アケメネス朝ペルシア帝国VSギリシアの間で行われたペルシャ戦争(BC492年~BC449年)でもギリシャは三段の櫂(かい)船を使用した。三段櫂船(さんだんかいせん)は漕ぎ手60名~170名を上下3段に配置される。基本は船体衝突と白兵戦である。漕ぎ手が戦士でもあった。下はGreeceJapan.comの記事「三段櫂船のオリンピアス(Olympias)号、ギリシャで試験航海を実施」からリンク 三段櫂船のオリンピアス号、ギリシャで試験航海を実施ギリシャ海軍が復元した古代ギリシャの三段式のガレー帆船の走行実験をしている写真をお借りしました。photo: Hellenic Navy全長36.9m、全幅5.5m、全喫水1.25m、35トン 乗員170人。 このオリンピアス号は漕ぎ手座は2段であるが、重装歩兵や軍馬の輸送を担う船もあり、三段櫂船のレイアウトにはいくつかのバリエーションがあったらしい。船首に付いている金属の尖った口ばしのような衝角は、敵船に体当たりして穴を開けると言うよりは敵のオールを主に破壊し、航行不能にする武器だったらしい。ガレー船は中継点を近場に必要とする船と言う特性からエーゲ海のような諸島郡では非常に適していたのだろう。中世以降もカリブ海やバルト海など小島が点在する海域で残ったのもそうした理由だろう。このペルシャ時代の三段櫂船(Trireme)の技術は4世紀のローマ帝国の動乱期に廃(すた)れてしまったらしい。つまり複数のオールで漕ぐ所は一致しているが、動乱後の6世紀以降に海洋共和国が新たに造船したガレー帆船と古代のガレー船とは設計において全く別物の船らしい。アレクサンドロス王とフェニキア人(Phoenician)ところで、全く余談であるが、ふと思ったので・・。BC324年、ペルシャ帝国を征服し、バビロンに戻ったアレクサンドロス王(Alexander the Great)(BC356年~BC323年)はフェニキアで建造した船を解体し、ユーフラテス川沿いに建設した港に船を運ぶと、同時に何千と言う水夫やこぎ手を集めてペルシャ湾岸からアラビア海湾岸を沿ってアラビア半島南端(イエメン共和国の港湾都市アデン(Aden)を経由して紅海に入る海のルートを模索している。すでにインダス川まで到達していたアレクサンドロス王は船でインドから地中海への交易路を探っていたのだ。私が着目したのはアレクサンドロス王が使用したのがフェニキアで建造した船だったと言う点。地中海交易にたけたフェニキア人は自力で船を建造していたばかりでなく、輸出もしていたのかもしれない。アレクサンドロス王は、フェニキア人の船の凄さを認めていた?因みに素材はレバノン杉。それもまた彼らフェニキアの本拠テュロス(Tyros)の特産品である。しかし、皮肉にも海の民フェニキア人の本拠地、東地中海のパレスティナ沿岸にあったテュロス(Tyros)は、アレクサンドロス王のペルシャ遠征の時に壊滅され歴史から消えた。(一部がカルタゴへ逃げた。)アレクサンドロス王はいろんな事象において、テュロス(Tyros)を壊滅させた事を後悔したのではないか? 実際、直後の欧州に大きな経済の停滞を起こしたであろう事は間違いない。何しろテュロス(Tyros)は当時の地中海貿易の中心となる都だったからだ。フェニキア人は古からの総合商社であり、運送業者でもあった。必要な品を必要な所に運ぶ。古代から存在したテュロス(Tyros)の街は、その港からあらゆる商品を地中海の港に運んでいた。当然、代替えの効かないオリジナル商品もたくさん扱っていたはずで、テュロスに依存していた国は多かっただろう。※ 現代で言えば、例えば中国が壊滅して中国からの商品の供給が全て止まったらアメリカや日本の経済もヤバイ。と言うのに近かったと思う。また、アレクサンドロス王は帝都ペルセポリス(Persepolis)を燃やして壊滅させた事も後悔していた。ペルセポリスはオリエント1の国際都市であったからだ。こちらはまさか、火事程度で壊滅するとは思っていなかったのだろうが、実際、再建できない程のダメージを受けて消滅した。知性と教養があり、すぐれた指導者であるのは確かだが、怒りの琴線に触(ふ)れると後先考えずにまず、突っ走る性格だったのかもしれない。若かったからかもしれないが、ちょっと思慮に欠けていた? 割と浅はかだったな・・と思う。彼はフェニキア人を滅ぼすべきではなかった。そもそも滅ぼされる理由は彼らには無かったし・・。彼は巨大帝国の王位に就いた時に初めて経済を顧みたのではないか?新たな交易ルートの開拓は素晴らしい事ではあるが、結果論として、現行の経済を破壊しただけで終わってしまったからだ。それ故、アレクサンドロス王を考える時、その2点は大失態だっと思う。もっとも早世(そうせい)していなかったら、彼が新しい交易のスタンダードを造り経済を再生させていたのかも知れないが・・。※ アレクサンドロス王については以下で触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスポエニ戦争の五段櫂船(Quinquereme)漕ぎ手座は5段(five banks of oars)・・五段櫂船 クインクレーメ(Quinquereme)ポエニ戦争ではカルタゴ海軍の主力軍船として五段櫂船(ごだんかいせん)(ペンテーレス pentērēs)が使われた。実際に櫂(かい oars)が五段になっている訳ではなく、3本の櫂を5人(上段2人、中段2人、下段1人)で漕ぐ形になっていたと解説があったが、下のカルタゴ船の図は五段になっている。スタイルは色々とあったのだろう。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権」の所で一度紹介していますが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権当時のローマ船とカルタゴ(フェニキア人)の船の図です。アレクサンドロス王にテュロス(Tyros)が滅ぼされた後、逃れた一部フェニキア人は北アフリカのカルタゴ(現チュニス)に本拠を移し、カルタゴ(Carthage)の目先にあり地中海の中心でもあるシチリア島(Sicilia)を寄港地に展開する。※ カルタゴは、もともとはフェニキア人が地中海交易の中継点(船舶寄港地?)として建設していた街。が、今度はローマ軍との3度に渡るポエニ戦争で敗戦。シチリア島もカルタゴも失い、フェニキア人は都市国家ローマに完全に滅ぼされてしまう。BC146年、フェニキア人の都市カルタゴ(Carthage)は植民都市としてローマに併合されフェニキア人の歴史はここで完全に途絶えた。※ 「フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争」について書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権力を付けてきた都市国家ローマは共和制ローマとなりカルタゴ(Carthage)をローマの属州(植民都市)とし、以降地中海域の王者として君臨する事になる。が、そもそもフェニキア人の技術は他が追随できないレベチな域にあった。かつてのカルタゴ(Carthage)の街も実に未来的であったが、カルタゴ(Carthage)が滅んだ事で消えた技術もたくさんあったであろう。実際、五段櫂船(ごだんかいせん)の開発は難しかったはずだ。ローマも実は第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)の後、フェニキアからぶんどった船を研究して自国の船を建造している。ローマ帝国の海への進出はフェニキアの模倣から始まるのだ。古代に、すでに高度な文明を持っていたフェニキア人は何者だったのか?そして彼らのガレー船は、多少形を変えながらも動力が人力から蒸気エンジンになるまでの間、およそ2000年は続くのである。ガレー船の漕ぎ手問題当時軍船は人力でオールを漕ぐ ガレー船(galley)である。風力を利用する帆船と比べると持続力は乏しく長距離の航行には向かないが、小回りは効くし機動性はある。その為には狭い船内で、漕ぎ手の一矢乱れぬ技術が必要だったらしいが・・。とは言え人力なので漕ぎ手が全力を出せるのは30分程度が限界だったらしい。太洋に比べれば内海の為に地中海は風が緩く帆船よりはガレー船は適していたらしい。だからガレー船は地中海では長く使用された。初期の漕ぎ手座は1段(single-banked)で甲板はなかったので漕ぎ手がそのまま戦士となったから奴隷は利用できなかったが、やがて漕ぎ手座が2段になり、次いで漕ぎ手座3段(three banks of oars)の三段櫂船へと発展すると事情は変わる。※ 古代ギリシアの復元船、三段櫂船のオリンピアス(Olympias)号は漕ぎ手座が2段(Two banks of oars)だが漕ぎ手のtotalが3列。アレクサンドロ王以降は漕ぎ手座が2~3段(two or three rows of oars)はほぼ変わらず、ラインの漕ぎ手(lines of rowers)の数が増えた船が出現する。つまりオールの最大バンク(maximum banks of oars)は3段が術的にもほぼマックスで、後は1本のオールを何人で漕ぐかで人数が変わったようだ。なぜ人員が増えたかの理由は明確になっていないらしいが、投石機(カタパルト catapults)のような兵器が船に搭載されるようになった事などで人員が必要になったのが要因? 最も、無駄に増えただけで意味のなさいない船もあったらしいから自然と必要条件のそろう人員に収まったのだろう。オールを上げている時は停泊時 or 帆を上げて風待ちをしている図船によってサイズや人数は異なるだろうが、およそ長さ45m。幅9m。左右に26ずつの腰掛けがあり、一つの腰掛けに5人の漕ぎ手が座る。(横幅9mの船に横一列で10人。)450人ほどが乗船していた船もある。劣悪で、過酷以外の何物でもない。※ 囚人の場合は鎖で繋がれていた。誰が船を漕いだのか? 各国の漕ぎ手だけでもその国の事情が解る。かつてのローマ帝国海軍の場合は無産市民(プロレタリア)が漕ぎ手となっていた。ガレー船の乗り組み員は自分達の事を船員(sailors)ではなく、兵士(soldiers)と呼んでいたそうだ。それ故、労働に見合う給与なり報酬が必要であった。つまり、囚人は使用しなかったらしい。中世の海洋共和国や西側諸国の場合は国で様々。まれに囚人も使われたが、大方で漕ぎ手はやはり人件費を掛けて自由人が集められている。スペイン船では、宗教裁判で異端とされた罪人が使われたと言うが、イタリアにはそんな罪人はほとんといなかったらしい。ヴェネツィアの場合、かつて服属させたアドリア海の東岸の人々を漕ぎ手に雇用すると言うシステムが昔からできあがっていたらしい。しかもヴェネツィアは高額な給与を支払っていたので当初は人気はあったそうだ。アマルフィ、ピサ、ジェノバの海洋共和国では特に人集めが大変だったようだがやはり自由人を給与を払って募集した。イスラムの場合、拉致してきたキリスト教徒が奴隷として漕がされる事がほとんど。それ故、奴隷の反乱が起きると困るので、多人数のキリスト教徒を一度に乗船させる事はできなかった。また造船技術は西方よりは遅れていたので当初は小型のフスタ船が主に使用されていた。イスラムの乗員は50人程度。だからイスラム側は自国の軍船を出すよりは海賊を都合よく利用した。海賊は船も船員も持ち込み。軍功を上げれば正規軍として雇用されオスマン帝国の将軍にすると言われて飛びついたのだ。つまり地位と名誉が報酬で、海賊がキリスト教徒との戦闘に加わったのである。ヴェネツィアとジェノバのガレー船の事情ところで、ヴェネツィアとジェノバのガレー船は商用船でもあったので、40m級の大型が多く、漕ぎ手も一隻で200人は必要。当然1航海における人件費は高くなり一隻の航海における諸費用のほとんどは人件費で消える。だからヴェネツィアはガレー船にはペイできる高額品を積んで航行したそうだ。また、ヴェネツィアの船長の条件は厳しかったが、船数が増えると条件は緩められた。だが、航海術よりも商売に詳しい船長を採用する傾向があったそうだ。ヴェニスの商人。徹底していましたねまた、ヴェネツィアの商船は常に共和国の海軍の護衛の元に航行していたので、財力のあるヴェネツィアは傭兵隊長を別に雇って海軍維持にも努めたそうだ。一方、1381年のトリノ講和条約、以降、東方貿易での利権を失ったジェノバでは高額品の取り扱いができない。だから、地中海交易では人件費のほとんどいらない小型帆船のフスタ船にシフトしたらしい。とは言え、ジェノバはイベリア回りでフランドルに定期航路を持った。フランドルの毛織り物はそれ自体が宝石に匹敵する高額商品として取り扱われ、東方へも輸出されて行く。どこにでも商機はあるものだ 官民一体のヴェネツィア船団共和国の軍船は、当初20隻くらいであったらしいが、15世紀になるとオスマンの海賊対策の為にガレー船の数は増えて行く。前回触れたが、1502年に結成されたローマ教皇(法王)による連合軍に参戦した時は、その時だけでもヴェネツィア共和国から50隻の艦船が参戦している。それだけオスマン帝国側の海賊船の数が増えて脅威になってきたからだろう。それにしても、ヴェネツィア共和国の官民一体の協力体制はすごかった。ヴェネツィア商船は軍用のガレー船と共に船団を組んで航海に出る。つまり護衛艦に守られての航海なので途中襲われても安心して航海が可能だったのである。経済の維持に国が協力を惜しまなかったからだ。実際、交易品に掛けられる税収がヴェネツィア共和国の財源であったから・・。しかし、逆に国が民に求める事もある。いざ大きな戦闘態勢になって船が必要な時は民間の商用船も軍船に転じたと言う。。積荷は最寄りの港に預けられ商用船も戦闘に参加した。これは義務であった。因みに商船が沈没して荷物の回収ができなくなった時は、ヴェネツィア共和国が責任を持って積荷を回収し荷主に届けられたと言う。その非常に合理的な制度、さすがヴェネツィアである。 それに比べてジェノバの方はトップが4つに割れて争っていたからヴェネツィアのようなまとまりは無かった。強いて言えばジェノバはローマ教皇庁の為によく協力をしていたのでその見返りは大きかったのだと言う。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年で大きく貢献した事は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ですでに紹介しているが、ローマ教皇庁に大きく恩を売った。そして東ローマ(ビザンツ)帝国ともつながり植民地領をたくさん得る。またカール5世以降、神聖ローマ帝国とつながり、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのハプスブルグ家とも懇意になっていく。造船や金融など利権の獲得に成功している。小型ガレー船フスタ(fusta)フスタ(fusta)は帆走をメインにした小型のガレー船である。下の絵ではマストが横倒しになっているが・・大三角帆用の1本マストがあり2人用の漕ぎ手用ベンチが並ぶ。戦闘用だと両舷に12人から18人程度の人員が漕ぐのだろうが、小型のフスタは商用だと乗員を制限して帆に頼る航行をメインにしていた。因みに、四角帆だと逆風では行きたい方向に進めないが三角帆だとジグザグに前進する事が可能。下は以前紹介したジェノバ港の絵ですが、フスタ部分をクローズアップしました。大型ガレー船よりはるかに数が多い。むしろ一般的な実用船のようです。元海賊、オスマン帝国の海軍提督バルバロスバルバロッサ(Barbarossa)とは、イタリア語で赤ヒゲを意味する。映画などでよく怖い海賊の代名詞に使われる赤ひげの海賊であるが、実は彼はオスマン帝国の海軍の提督であった。※ ハイレディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa)(1475年~1546年) 上半身のみウィキメディアから借りました。16世紀のバルバロス・ハイレディン・パシャの肖像(Portrait of Barbaros Hayreddin Pasha ) 作者不明Louvre Museumd 所蔵15世紀のオスマン帝国は、海賊を使い地中海を荒らしキリスト教徒からの略奪を繰り返していた。その中でもキリスト教徒相手に成果を上げた海賊をオスマン帝国の正規軍に迎え入れると公言し、実際大きな成果を上げたバルバロッサ(Barbarossa)は提督に抜擢された。元海賊と言う異例の経歴を持つ提督だ。 下もウィキメディアから借りました。Istanbul Naval Museumの模型ですが、原本の解像度が悪い? 船を見やすくする為にバックを修正しました1543年、バルバロッサはこの船で当時オスマン帝国の同盟国であったフランスを支援するために210隻の艦隊でマルセイユに向かった。バルバロッサは国賓としてフランスに招かれたのである。※ これらガレー船を漕いでいたのは拉致され奴隷とされたキリスト教徒であった。彼はギリシャのレスボス島(Lesbos)出身者。つまり元はカトリック教徒でもあった。しかし、当時レスボス島の周囲は完全にオスマン帝国に包囲された環境だ。イスラム側は略奪品の一部を上納すれば海賊業を認めてくれたので、好意的に解釈すれば、生きて行く為に海賊となったと思われる。裏切り者と言われようと、相手がカトリック教徒だろうが関係なかったのだろう。実際、イスラムに征服された土地の住人、また誘拐されて来た者らはイスラム教に改宗しなければ、ほぼ奴隷扱いされたのでカトリックを棄てた者は多かったと言う。※ かつて海賊と言えば、アラブ人、ベルベル人、ムーア人が主であったが、時代は変わりギリシャ人、ユダヤ人、イタリア人、スペイン人など人材も多様化。また、以前はイスラムの土地になっていたイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)されキリスト教徒の土地に戻ると、そこを追われたイスラムの者が海賊となり、イベリア半島を襲うと言うよう、西地中海も海賊の標的になって行く。オスマン帝国は彼ら海賊をバックアップしたので海賊の数は増え、また有能な人材も増えたらしい。※ イベリア半島は、西ゴート王国が滅亡した8世紀初頭から1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)が陥落するまでイスラムの土地になっていた。※ 土地にいたイスラム教徒も残りたい者はカトリックに改宗して多くが残留している。バルバロッサ時代のオスマン帝国販図バルバロッサ(Barbarossa)は北アフリカを襲い、チュニジアとアルジェリアをスルタン・スレイマンに献上する事で北アフリカのイスラム化にも協力していた。これはバルバロッサの先行投資であった。実際、これら功績により、バルバロッサは「トルコ帝国海軍の最も武勇にすぐれた海将」として迎えられ、スルタンよりアミール(amīr)の称号を与えられた。同時にたくさんの艦船を与えられている。※ アミール(amīr)とは、ムスリム集団の長の称号であり、アラビア語で「司令官or総督」を意味する。何より特筆するのはこの時期のオスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年~1566年)がスレイマン1世(Kanuni Sultan Süleyman I)(1494年~1566年)だった事。海賊登庸など大胆な彼の政策により? スレイマン1世はオスマン帝国の最盛期を造り上げたスルタンとして評価されている。因みに、聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪った(1522年)のもスレイマン1世なのである。※ 聖ヨハネ騎士団は1530年にマルタ島を与えられ移るが、それまでは教皇庁海軍基地などに居候。スレイマン1世は、オスマン帝国の海軍提督となった赤ヒゲ、バルバロッサを地中海制覇に向けて公式に送り出したのである。1538年9月、教皇庁連合軍とのプレヴェザの海戦 (Battle of Preveza)ではバルバロッサがオスマン帝国を率いて勝利。これによりクレタ島、マルタ島を除く地中海域の制海権をオスマン帝国がほぼ掌握する事になる。海賊との海戦からオスマン帝国との海戦にスレイマン1世がスルタンになると軍船の数も半端なく増えている。また、戦いはどちらが先の一手を打つか? その為に事前の情報収集と根回しが必要。戦いは情報戦の時代となりスパイも暗躍しているようだ。闇雲(やみくも)に戦う時代ではなくなったらしい。ヴェネツィア共和国は13世紀頃から各国に大使や領事を派遣し、常駐させてきた唯一の国。ヴェネツィア共和国には諜報機関があったから情報収集もハンパ無かったのだろう。コンスタンティノポリスの軍船の移動もすぐさま伝達された。教皇庁連合結成もヴェネツィアの呼びかけであるし、レパント戦のスペイン参戦もヴェネツィアがローマ教皇ピウス5世に働きかけた結果である。総司令官をヴェネツィアがとるか、スペインがとるかでもめたらしいが・・。※ 初期のイスラムの海賊については「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海」と「サラセン(Saracen)の海賊」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊聖エルモ城塞(Fort st.Elmo)ヴァチカン美術館で撮影した写真に面白い地図を見付けた説明を撮って居なかったのでこれが何か最初は解らなかったが、本の図解でこの形がまさに・・と気付いたのだ。絵は攻防以前の城塞だと思う。1565年、マルタ島の攻防戦のメインとなったマルタ島の聖エルモ城塞を中心にした陣であった。オスマンと海賊の大軍に襲われ、危ぶまれたマルタ島であるが、当時、マルタ島には聖ヨハネ騎士団がいた。以前いたロードスがオスマン帝国に奪われ苦渋をなめていた。今回は負けられない。オスマン側の残虐な手法にも精神力で負けなかった。5月に始まった戦いは夏のシロッコや暑さに助けられた。4ヶ月に及ぶ攻防でオスマン側には疫病も流行った。キリスト軍援軍の知らせでオスマン軍は撤退し、勝利したが、エルモ城塞は壊滅。キリスト軍の7割の兵士が戦死。戦闘の中でも悲惨な戦闘の一つではないか?ヴァチカン美術館が敢えて記録として? 残している事からも、そうなのかもしれない。レパントの海戦 (Battle of Lepanto)それにしても絵画に描かれている海戦のスタイルを見て驚く。陣形が出来ている。海戦も進化した。まさに戦争だレパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年10月)ローマ教皇の連合艦隊 vs オスマン帝国艦隊前回、「法王庁海軍結成と共和国連合艦隊」については説明済ですが、オスマン帝国との戦いにはローマ教皇(法王)庁先導で共和国が連合が結成された。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊レパント決戦の前にシチリア島のメッシーナに艦隊は集結。ヴェネツィア 110隻(6隻のガレアス船を含む)スペイン 72隻教皇(法王)庁 12隻マルタ騎士団 3隻サヴォイア公国 3隻その他 3隻ガレー船の総計 203隻フスタ 50隻大型帆船 30隻人員 漕ぎ手43500人 総計8万人を越えたらしい。バチカン美術館の地図ホールのフレスコ画らしい。写真は上下共にウキメディアから借りて、上は部分カットしています。艦船の数に驚く。海賊対策の教皇庁連合軍はオスマン帝国との戦争に突入。ガレーを主力とする海戦としては最後らしい。最初、防衛側にいたヴェネツィアが残虐なやり方で皆殺しにされるとそれまで対立していたスペインとヴェネツィアの対立は消え、復讐に燃え結束はかたまったらしい。戦闘は5時間ほど? 結果的にレパントの海戦は教皇(法王)庁連合の圧勝であったが、戦死者7500人。負傷者8000人。敵のイスラム側も戦死者8000人。オスマン宮廷の高官や指揮官はほぼ全滅。この戦死者のうちヴェネッアだけで半数以上の4836人出している。艦長クラスの18人全員がヴェネツィアの名家出身者がしめたと言う。料理人から技師までが、一丸となって戦っている。どこよりもヴェネッアが健闘した証しである。人数が正確に出ているのもヴェネッアだけ。管理や統計にも抜かりがなかったのだろう。教皇庁連合軍はこの海戦に勝利し、地中海の制海権を取り戻す。※ 1538年9月プレヴェザの海戦で敗戦して以来の地中海の制海権の奪還となる。勝った。負けた。は一言で終わるが、中身は知れば知るほど壮絶である。ロンドンのNational Maritime Museum 16世紀後半 下もレパントの海戦です。レパントの海戦 (Battle of Lepanto)の勝利はスペインの参戦にもある。スペインはアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)(1466年~1560年)の元で力を付けてきた。最も彼は1560年に亡くなっているのでレパント戦にはいないが・・。ローマ教皇ピウス5世 の呼びかけにやっと応じての参戦だが、艦船が少ない。スペインがどこまで本気だったか? はちょっと疑問だ・・。ヴェネツィアが新たに開発投入したガレアス船(galleass)も勝利に貢献している。レパント戦では、ガレアス船(galleass)が6隻投入された。ガレーと帆船を合体させたガレアス船(galleass)は漕ぎ手の頭上に砲列甲板があり、13~16門の砲台を積んだ。これは今までのガレー船の2~3倍近い砲台らしい。海上で一周しながら敵に砲撃できるので敵の陣営を崩す事ができると言う新兵器だったらしい。因みに、ガレアス船(galleass)は外洋航行に向かずコストも維持費も高かい。ヴェネツィアやオスマン帝国では軍船として17世紀後半以降も使用したと言う。このレパントの海戦でオスマン帝国の海軍は壊滅したに等しい。それでもヴェネツィアは危機を唱えていたが、その勝利に酔った教皇庁の連合軍は1572年に解散。ヴェネツィアは今後のオスマン帝国の復讐戦を恐れたのだろう。1573年3月、ヴェネツィアはキプロス島を手放す条件でオスマン帝国と正式調印し和解した。ヴェネツィアはキリスト教国から裏切り者とされるが、レパントの海戦での犠牲を最も受け、オスマン帝国との戦闘を避ける事を教訓としたのだろう。ガレー船の衰退長距離航海の大航海時代(16世紀~18世紀)にガレー船は当然向いていない。ガレー船から帆船への移行は15世紀には始まっている。キャラック(Carrack)船は遠洋航海を見据えて開発された。※ 1492年、クリストファー・コロンブスが新大陸に到達した際に乗船していたサンタ・マリア号もキャラック船(Carrack)であった。16世紀から18世紀は大航海の時代に突入。ガレオン船(Galleon)の時代になるとさらに荷が多く積載できる。ガレオン船はキャラックに比べて幅と全長の比が長くスマート、また吃水が浅く沈没しやすい反面速度は出たらしい。帆船の話しは次回ですかね。本当はイントロとして使う予定だったのですが・・。蒸気汽船の発明世界初の蒸気エンジンの開発に成功したのは、実はフランス人の造船エンジニアであったクロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ(Claude Francois Dorothee Jouffroy) 侯爵(1751年~1832年)だったそうだ。彼はエンジンが回転ブレードを備えたオールを動かすと言う13mの船(Palmipède)を造り1776年6月と7月にフランス、ブルゴーニュ (Bourgogne)のドゥー(Doubs)川で実験、そして1783年にはリヨン(Lyon)のソーヌ(Saône)川で、今度は外輪船(Pyroscaphe)を造り実証実験に成功している。国立パリ海兵隊博物館のコレクションから Pyroscaphe-MnM 23 MG1の縮尺モデル写真はウィキメディアから借りました。しかし、当時のフランス・アカデミーからは認められず、しかも1789年に勃発したフランス革命の不幸も重なり認められる前にパリの廃兵院アンヴァリッドでコレラにかかり亡くなっている。その後の蒸気船の開発に現れたのがアメリカ人エンジニア、ロバート・フルトン(Robert Fulton)(1765年~1815年)で、1801年に一度完成し実験に成功するも1803年のパリ、セーヌ(Seine)川での実証実験で成功はしたが沈没。その後、フルトンはイギリスに移動しイギリス海軍が使用する武器の製造を依頼され魚雷の開発もしている。魚雷の完成度は微妙だったらしい。因みに、ロバート・フルトンは1800年に世界初の手動式潜水艦ノーティラス(Nautilus)号を設計している。最もその動力は 手動手回しのスクリュープロペラだったが、ナポレオンの要請による開発だったらしい。1805年、対仏、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)でイギリスが勝利するとロバート・フルトンの需要は減り彼は母国アメリカに戻っている。そしてそこで、富裕な投資家であり政治家のロバート・リビングストン(Robert Livingston)(1746年~1813年)の協力を得て、すでにパリで実用実験していた外輪の付いた蒸気汽船を完成させ、ハドソン(Hudson)川を遡上(そじょう)する蒸気船としてし1806年に「クラーモント(Clermont)」号の運行に成功している。※ 32時間で150マイル(240 km)走行。商業用実用化に成功したこの蒸気船はノースリバー蒸気船と呼ばれ、ニューヨーク市とニューヨーク州アルバニー(Albany)間のハドソン川を運行した。下もウィキメディアからです。1909年に運行していたクレルモン(Clermont)号。別名ノースリバー蒸気汽船(North River Steamboat)。当初のオリジナルではありません。要するに、蒸気エンジンが発明されるまで、船の動力はもっぱら風力か人力しかなかったのである。蒸気エンジンによる艦船が現れるのはナポレオン戦争(トラファルガーの海戦)以降と言う事になる。そして船体のボディーも木造から鉄製に代わって行く。船が人類史に現れて5000年? やっと造船は次の世代に入ったのである。それ以降の変革はすさまじいが・・。さらに余談ですが、1811年に開始されるナチェズ(Natchez)とニューオーリンズ(New Orleans)間のミシシッピ川(Mississippi)を走行する蒸気汽船もまたフルトンとリビングストンにより建造されている。作家マーク・トウェイン(Mark Twain)(1835年~1910年)がトム・ソーヤーの冒険 (The Adventures of Tom Sawyer )で「あこがれの蒸気船」として執筆したのがこれである。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真聖エルモ城塞やレパント戦まで入れる予定ではなかったのですが、追加が増えて力尽きましたとりあえず写真は載せましたが、サン・マルコ寺院の解説は無しで終わります。(*_ _)人ゴメンナサイ。(_△_;) ツカレタ・・何を書いて良いか迷って2週間。とりあえずガレー船について書き出しても見え無くて・・。この数日で全く別物になりました。とりあえず載せますが、誤字チェックなどはまた後で追々させていただきます。m(_ _*)mBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年10月22日
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ラストにBack numberを入れました。平安が続いた江戸時代には、いろんな文化が花開いている。お洒落、なんて物が庶民にまで降りて来たのもこの頃だろう。今まで、文化芸能は貴族のもの、それが戦国武将が活躍する時代になると武士の装いにもフォーマルが誕生。刀装具(とうそうぐ)や提げ物(さげもの)もこだわりが現れる。特に、刀剣の鍔(つば)や目貫(めぬき)、笄(こうがい)など装剣金具に至っては繊細で凝った物が造られ始め、印籠や根付けなども江戸初期は武士や富裕な商人のお洒落アイテムであった。そんな高級な持ち物でのお洒落はマネできないが江戸初期に若者らから始まった一風変わったお洒落スタイルがある。それが傾き(かぶき)ファッションである。ルーツは出雲の阿国(いずものおくに)が始めた「かぶき踊り」にあるらしい。歌舞伎のルーツとも言われる出雲の阿国(いずものおくに)(1572年(元亀3年?) ~没年不詳)は実は女性。その女性が男装して歌や舞を舞ったのがそもそもなのである。江戸初期、出雲の阿国以来女性の歌舞伎が流行する。しかし、これは特に遊女の品定めに利用されたらしく、風紀が乱れるからと禁止された。そして、代わりに現れたのが少年による「かぶき踊り」だったそうだ。ところが、これまた今度は美少年(若衆)目当てに男色が増えて風紀が乱れると禁止された。が、そのファッション事態は江戸の街の、今で言うイケイケの若者の間に広まったようだ。傾く(かぶく)と形容されるファッションがそれである。傾く(かぶく)は、後々、歌舞伎に転じるようだが、そもそもは出雲の阿国(いずものおくに)の「しなり」ポーズを真似た所から発しているらしい。必須アイテムは刀。そして髪は長髪。決して月代(さかやき)はせず、前髪も残して曲げを結う。※ 月代(さかやき)とは、武士のたしなみ。頭頂部を剃る事。実は兜(かぶと)の蒸れ防止だったとも・・。ちょっと女性のカッコ。いや、もともとは出雲の阿国(いずものおくに)のイケテル姿を真似したカッコだったのだろう。着衣も小袖の上に黒の袖無しを重ね着するなど本当に当世の若者ファッションに発想は近い気がする。アイテムは刀。これは戦う為ではなく、小道具である。刀に寄りかかったり、担いでポーズを取って見せたり、この姿がカッコ良いんじゃないか? と研究している様が見える。当然、大人達はそんな若者らを嘆いたそうだが・・。つくづく、今も昔も、案外変わらないのが若者の真理なんだなーと感心した次第である。さて、今回で「東京クルーズ・隅田川ラインと水門」は終わりです。普通のクルーズ船案内のつもりが、内容が濃くなり、クルーズからかけ離れて「隅田川の紹介」になってしまった気がしますが・・何より隅田川は歴史が深い。一朝一夕に語れない所だと改めて実感しました。またポイントを絞って紹介するチャンスがあるかもしれませんが・・。ところで、昨今は少し無理して忙しかったので、休憩兼ねて少しお休みし、今後はネタが思い浮かんだ時、内容を短くして、ちょこっとずつ、月1回(無理して2回)くらい掲載できればと考えています。年内には昨年中断したクリスマス関係も書かねばならないので、何回かは載せられると思いますが・・。とりあえずいつもごひいきしていただき感謝しております。過去ログも近年5年内のものは、内容も充実しているので読んでいただければ幸いです。m(_ _)m東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)江戸時代のファッション金のビルとオブジェ吾妻橋(あずまばし)源森川水門(げんもりかわすいもん)隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)言問橋(ことといばし)隅田公園と桜橋(さくらばし)白鬚橋(しらひげばし)歌川広重「隅田川水神の森真崎」隅田川の総鎮守 水神の森今回でクルーズは終章。やっと浅草の吾妻橋(あずまばし)まで来ました。吾妻橋の上流に向かって左岸(西)に隅田川ライン・クルーズの浅草乗船場があり、登りの終着駅になっています。しかし、上流に向かう時は、サービス? スカイツリーを他の角度から眺めるようにとの配慮かな?東武伊勢崎線の鉄橋を越え、次の言問橋(ことといばし)手前まで航行してからUターンして浅草の乗船場まで戻るのです。そんな訳で取りあえず吾妻橋を越えます。アサヒビールタワー(左)とスーパードライホール(右)金のビルと金の巨大オブジェこの角度のアサヒビールタワーが一番泡っぽく見える。もともと隅田川の吾妻橋のたもとにあった工場跡地の再開発で1989年に建造完成されたのが、壁面はビールのジョッキを、最上部は白い泡をイメージしたアサヒビール株式会社の吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)である。そして隣の金の巨大オブジエは?隣接するスーパードライホール(1989年竣工)である。屋上にのった奇妙なモニュメントは、燃え盛る炎を形象した「フラムドール(flamme d'or)( 黄金の炎)」と呼ばれるものらしい。チューブを絞ったかのような物に見えますが、炎の揺らぎの形らしい。アサヒビーの燃える心を象徴したと言うオブジエだそうだ。フランスのデザイナー、フィリップ・スタルク(Philippe Starck)(1949年~ )による設計で一応、聖火台をイメージしたものらしい。aでも、なんで横倒しなのでしょうね。建築許可の問題ですかね?吾妻橋(あずまばし)向こうに見えるのが東武伊勢崎線。右岸、次の駅が「とうきょうスカイツリー駅」地上、浅草側からの吾妻橋。左に見切れているのが、隅田川ライン・クルーズのチケット売り場。スカイツリーまで近いように見えて、ここから歩いて15分くらいかかります。上流側からの吾妻橋下はスカイツリー、フロア450からの吾妻橋から東武伊勢崎鉄橋までの写真です。東武伊勢崎線のラインに沿って運河のような北十間川(きたじっけんがわ)が隅田川に合流。水門は源森川水門。水門の左隣に見えるビルが墨田区役所である。区役所の対岸が隅田公園と、東京隅田クルーズの浅草乗船場。下はさらに地域を拡大。上の方に浅草寺。その右方向に花屋敷がある。左、吾妻橋のすぐ北に浅草寺山門の雷門(かみなりもん)を→しました。下は拡大写真。浅草寺(せんそうじ)と花屋敷(はなやしき)花屋敷(はなやしき)は都会の遊園地です。東京隅田クルーズの浅草乗船場。すぐ上が隅田公園で、桜の時期は桜越のスカイツリーの写真が撮れます。右は墨田区役所。(公園から浅草乗船場からの写真東武伊勢崎線の鉄橋 左が浅草。右がスカイツリー駅方面鉄橋手前に北十間川(きたじっけんがわ)の隅田川、合流点。.源森川水門(げんもりかわすいもん)形式 公鋼製ローラーゲート水門寸法 幅11m 高さ7.5m開閉速度 常時0.5m/min 急降下地2.0/min扉体自重 43.75t竣工 1994年(平成4年)北十間川(きたじっけんがわ)の隅田川、合流点の水門が源森川水門(げんもりかわすいもん)?その理由は、今でこそ北十間川(きたじっけんがわ)となっているが、かつて、合流のこのあたりは源森川or源兵衛堀と言ったそうだ。因みに北十間川(きたじっけんがわ)の由来は、川幅 十間から来ているらしい。隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)別名 東武花川戸鉄道橋(とうぶはなかわとてつどうきょう)構造形式 複線中路カンチレバーワーレントラス(3径間)鋼材重量910(重量トン)橋長 166m幅員 不明着工 昭和2年竣工 昭和6年言問橋(ことといばし)「言問(こととい)」という橋の名は平安の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)(825年~880年)の詠んだ、歌に因んでいると言うが、優雅な歌とは真逆に 1945年(昭和20年)の東京大空襲の時は橋の上で多くの人が焼夷弾で亡くなったと言う惨劇の歴史もある橋だそうだ。構造形式 三径間ゲルバー鈑桁橋橋長 238.7m幅員 22.0m着工 1925年(大正14年)竣工 1928年(昭和3年)クルーズではここでUターンして浅草の乗船場に戻るのですが、スカイツリーからの写真があるので少し延長して橋を紹介。スカイツリーからの左、言問橋(ことといばし)と右のクロスが桜橋(さくらばし)。隅田公園と桜橋(さくらばし)右側が上流。上が浅草側なのであるが、不思議にもと、隅田公園が言問橋両岸に分かれている。つまり台東区浅草側の隅田公園と、下の右岸、墨田区向島の隅田公園に分かれているのである。そもそも隅田公園は、関東大震災(1923年)の復興事業の一環により、計画された日本さくら名所100選に選定される桜の名所だそうだ。約700本の桜の樹があるらしい。※ 隅田川両岸の桜並木は、古くは八代将軍 徳川吉宗(1684年~1751年)の計らいで花見の為に植えられたと言う歴史を持つ。その両岸の隅田公園を結ぶ隅田川唯一の歩行者専用橋が、桜橋(さくらばし)なのである。両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ橋は、X字形の特異な形をした橋で、1985年に完成。花見シーズンには、多くの人で賑わうと言う。総工費、28億3000万円。台東区、墨田区の折半だそうだ。下はパブリックドメインになっていたので参考にウィキメディアから借りてきた桜橋の写真です。墨田区側の隅田公園さらに上流の左、桜橋(さくらばし)と右、白鬚橋(しらひげばし)写真上方に横切る荒川が見えている。そこで合流するのかと思いきや、隅田川は荒川手前で左にカーブ。荒川に併走するようにくねりながら常磐線の鉄橋をくぐり、千住汐入大橋をくぐりさらに登る。前回紹介したが、千住大橋は徳川家康の時代(1594年)に架けられた隅田川最初の橋。1657年(明暦3年)の明暦の大火以前は隅田川を渡り江戸市中に入る橋はこれしかなかったのである。ブルーのラインが荒川(あらかわ) ピンクノラインが隅田川(すみだがわ)桜橋の次が白鬚橋(しらひげばし)。そして次が水神橋で、その次が千住汐入大橋と続く。※ 水神大橋の手前の森が、かつての「水神の森」。現、東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)。白鬚橋(しらひげばし)千住大橋が完成して主だった街道筋が移されるまではここから渡し船に乗って、隅田川を渡っていたらしい。創架は1914年(大正3年)、基金を募って資本金を作って住人により架けられた橋が最初らしい。先ほど言問橋で触れた、在原業平が詠んだ歌(伊勢物語「東下り・すみだ河」)は、実はここの渡しだったとされている。※ 白鬚橋下流のところに渡舟場があった。下はやはりハブリックドメインになっていたのでウィキメディアから借りてきた白鬚橋です。橋の名は橋の手前、東岸にある「白鬚神社」(現在は東向島白鬚神社)に因むらしい。構造形式 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋橋長 168.8m幅員 22.1m着工 1928年(昭和3年)竣工 1931年(昭和6年)歌川広重「隅田川水神の森 真崎」白鬚橋の西岸に石浜神社があり、東岸には東白鬚公園が隅田川の堤にそって次の水神橋まで連なっている。(現住所で言えば墨田区堤通。)それはかつて、歌川広重が名所江戸百景の一つ「隅田川水神の森真崎(すみだがわすいじんのもりまさき)」を描いた場所である歌川広重 1856年(安政3年)絵に見えるのは筑波山だそうだ。実はこの絵が東岸から描いたものか? 西岸から描いた物か? 今一つハッキリしなかった。何しろタイトルが「「隅田川水神の森真崎」となっているので東岸の水神様から描いたものだと考えられているふしがある。しかし、いくら隅田川が蛇行しようとも、筑波山が正面にあるのだから、やはり方位的にこの絵は西岸から東岸の水神の森の方角を描いたと解釈した方が良い。つまり、この絵は普通に武蔵野国から下総国を見た図と言う解釈で良いと思う。絵を描く立場で言うと、デザイン的に筑波山の位置を多少ずらしている可能性はある。バランスの関係で・・。必ずしも真実を紹介する必要が無いのもまた浮世絵の世界観であるし・・。では、そうなると手前の鳥居は何か?これこそ、真崎(真先)にあった「真先稲荷神社」であり、絵は、その手前のかつての石浜城跡の丘あたりから描いたのではないかと想像できる。※ 真先稲荷神社(豊受姫神)は1926年(大正15年)に石浜神社に併合。現在、境内社になっている。※ 隅田川西岸一帯がかつての真先(まさき)。今は南千住3丁目あたり。かつて隅田川の眺望を楽しむ場所としても知られたそうだ。隅田川の総鎮守 水神の森絵の対岸の向島方面が、現在の東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)になっている。住所では墨田区堤通(つつみどおり)。かつては隅田村。東京都神社庁に所属する、現、隅田川神社が「水神様」である。※ 明治5年(1872年?)、「水神」から「隅田川神社」に名称変更されている。※ 明治政府による宗教政策については、以前八坂庚申堂のところで書いています。2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」維新政府の宗教改革(振り回された神社)リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)古くは「水神宮」または「浮島の宮」と呼ばれた隅田川神社の歴史は源頼朝(みなもとのよりとも)(1147年~1199年)の関東下向、挙兵の際、1180年(治承4年)この地に到り、水神の霊験に感じて水神社の社殿を造営したと伝わるそうだ。小高い丘の上の宮は増水でも沈む事がなかった事で「浮島」とも呼ばれた事、またこのあたりが交通の要所(往古の街道筋)で、渡舟場があった事などから隅田川流域の船主の信仰を集め、後々船頭や荷船仲間に広く深く信仰されて隅田川の総鎮守となったようだ。震災・戦災にも焼失を免れた森も戦後の開発で消えてしまった。現在の社殿は幕末(1858年、1864年)の二度の建設によるもの。場所も100mほど移動。昔の面影は全くないらしい。荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、かつては隅田川の落ち口(終点)だったそうです。つまり、昔はここから海(江戸湾)。今はかなり上流だけど、ここらが入江だったらしいのです。「江戸」の語源は、ここの「江の口」から由来しているとの説もあるそうですよ。隅田川の総鎮守の水神様にたどりつくとは、当初思ってもいませんでした。また、最初の東京湾入り江にたどり着き・・。落ちもよろしいかと・・。「東京クルーズ・隅田川ラインと水門」終わりにしたいと思います。ちょっとお待たせしてすみませんでした。m(_ _)m Back numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで) 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年08月25日
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ラストにBack numberを入れました。前回紹介した新大橋。その橋から今回冒頭紹介している隅田川を横断する首都高の橋桁手前の西岸がちょうど浜町公園になる。※ 残念ながら写真が無い。上を高速が走り防潮堤の壁が連なり船からは公園は見えなかった。その浜町公園界隈は江戸期には各大名屋敷が連なっていた所。※ 明暦の大火(1657年3月)後には吉原は浅草に移転。新吉原となる。江戸幕府に長らく陳情に出ていた遊郭の主人達。やっと遊郭の許可が降りたのは1617年(元和3年)だったとされる。※ 豊臣家との結着がついた大阪夏の陣が1615年。大阪が直轄地になるのも1619年と世がまだごたごたしていた頃だ。幕府としては、風紀上の問題もあり管理も楽。一方市場の独占を狙う遊女屋の主達との利害が一致しての取り決めだったのだろう。以降、江戸では公式の遊郭は吉原だけとなり、遊女は吉原の外には出られず(出張も無し)など厳しい吉原の規則ができる事になる。 最初の吉原は、葺町屋(ふきやちょう)にできたらしい。そこは葭(よし)の生えた原っぱ「葭原(よしはら)」で、そこから「吉原(よしわら)」の名に転じたらしい。「吉」の字で商売繁盛を願ったのかな?吉原は公認された遊女屋が一ヶ所に集まった場所。(遊女の質は特Aランクから普通まで様々。)人の行き来を制限して内部の治安を維持、安全性をうたって男性の集客をした男性の為のテーマパークのような所だったと言える。とは言え、吉原以外に実際のところ遊女がいなかったわけでは無い。違法は常の世にある。ついでに最初の吉原の場所を特定しようとしたのだが、「現在の日本橋人形町あたりにあった」とされているだけ。意外にネットでは書いている人がいない。(浅草の方はあるが・・。)もう少し調べてみようと古地図とニラメッコしながら現在の日本橋富沢町と人形町2丁目あたりと絞ってみた。明暦の大火後に吉原の跡地は新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町に分かれたらしい。新和泉町、住吉町は(現 日本橋人形町)高砂町は(現 日本橋富沢町)浪花町は(現 日本橋人形町と日本橋富沢町)※ 現 富沢町は、町名の無い単独の町名。その南側が、現 人形町2丁目である。江戸初期にできて、39年程で消えた吉原の場所の特定は難しい。(資料が不十分なのかもしれないが・・。)吉原の南の端に水天宮があったとされるのだが、水天宮の場所も移動しているかもしれないし、規模も小さくなっているだろう。また明暦の大火、関東大震災。第二次大戦と、都会の土地はずいぶんと変わってしまったし・・。古地図には各藩主の屋敷がある中、不思議な一角が見つかった。「松島町」なる誰の屋敷でもない何も表記の無い謎の四角い土地が・・。ここに何か関連が?※ 旧名の松島町は現日本橋人形町になっている。吉原に隣接していたか? もしくはここも吉原の名残かもしれない。この謎は宿題ですね。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)旧 吉原の場所竪川(たてかわ)水門両国橋(りょうごくばし)江戸の大火で掛けられた両国橋(りょうごくばし)神田川(かんだがわ)と柳橋(やなぎばし)柳橋と花柳界JR総武線の鉄道橋蔵前橋(くらまえばし)蔵前のルーツは幕府のお米蔵厩橋(うまやばし)駒形橋(こまがたばし)船がまさに浜町公園の横を航行。首都高の右の橋桁の向こう、調度、竪川(たてかわ)からの合流点になる。もちろんそこには水門があります。隅田川との合流地点は、ちょうど首都高速7号線と6号線が合流する両国ジャンクションである。大阪もそうであったが、東京も、土地買収の関係から高速道路は川の上などに設置されたのだ。ところで、首都高及び首都高速の名称は、首都高速道路株式会社の登録商標だそうだ。首都高の本来の名称は、都市高速道路(としこうそくどうろ)とされる。それは都市内の道路交通を円滑にする目的で建設された自動車専用道路であり、昭和43年の都市計画法に基づいた施設として「通行が自動車に限定された道路」として誕生した。※ 都市高速道路は6つの都市内に誕生。「首都高速道路」、「阪神高速道路」、「名古屋高速道路」、「福岡高速道路」、「北九州高速道路」、「広島高速道路」。竪川(たてかわ)水門竪川(たてかわ)は、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河。その全区間の上を首都高速7号小松川線が走っている。※ 竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で、かつては、物資輸送のみならず、成田山、香取、鹿島神宮への参詣路としても利用された重要路。竪川(たてかわ)水門形式 鋼製:単葉ローラーゲート径間 11m×2連扉高さ 7.5m竣工 1959年(昭和34年)度両国橋(りょうごくばし)江戸の大火で掛けられた両国橋前にも触れましたが、防衛の面から、幕府は隅田川への架橋を制限していたそうです。(橋は千住大橋しかなかったらしい。)※ 千住大橋は徳川家康の時代(1594年)に架けられた隅田川最初の橋。しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火では、逃げ場を失った江戸市民が多数焼死。その被害は死傷者含み10万人とも・・。さすがに幕府の方も今後の対策を検討。防火と防災と江戸の街の復興の為に新たな架橋をする事になった。両国橋(りょうごくばし)は、千住大橋に次いで、隅田川に2番目に掛けられた橋なのだそうだ。歌川広重 名所江戸百景から 両国橋大川ばた 1856年両国橋の東岸がかつての本所(ほんじょ)。江戸市中の川向こうであった本所は、元禄年間に宅地化が進む。深川と並んで、拡大する大都市江戸の新興居住区域となった場所。歌川広重 名所江戸百景から 両国花火前回、「東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで」の冒頭隅田川の花火大会の事に触れましたが・・。リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までその発祥は隅田川での水神祭。そして季節は秋祭りだったようです。上の浮世絵は、歌川広重 名所江戸百景の中、秋の部に含まれていました。下の写真は「両国花火」現代の刷りの物の一部です。橋の周辺に活気があった事がわかります。当時の人達が、今の隅田川の現状を見たら絶対腰を抜かすでしょうね。と、同時に逆に設備もない時代によくこんな立派な橋が架けられたものだと感心します。素材は全て木製ですしね。神田川(かんだがわ)と柳橋(やなぎばし)柳橋(やなぎばし)手前は隅田川(すみだがわ)。柳橋から向こうが神田川(かんだがわ)。そして中央区と台東区の区境に位置する。最初の橋は幕府の命により、町年寄御三家の1つ樽屋(たるや)の当主 樽屋藤左衛門により掛けられたと言う。※ 1~10代まで、当主は 樽屋藤左衛門を名乗っているので何代目の時かは不明。現在の橋は1929年(昭和4年)に架橋。震災復興計画で耐震構造に配慮した鋼鉄橋で、永代橋のデザインをモデルに建設された、区内に残る数少ない復興橋梁で、中央区、区民有形文化財 建造物に指定されているらしい。歌にも歌われる神田川はこれでも一級河川。この源は三鷹の「井の頭公園」だと言うのだからちょっと驚き。しかも都心を流れる川であるにもかかわらず、地下を潜る事もなく、全線、開渠(かいきょ)だそうだ。※ 開渠(かいきょ)・・地上の水路で、特にオープンでふたが無い水路。柳橋と花柳界この界隈は江戸時代以降、花柳界(かりゅうかい)として発展した所。両岸には料理茶屋が多く洗練された江戸市中の商人や文化人の奥座敷となったと言う。1698年(元禄11)神田川の河口に橋が架けられ、火除けの柳が川辺に植えられると河口の橋は柳橋(やなぎばし)と呼ばれるようになったらしい。柳がある花街だから花柳界か? と思われがちだが、花柳界があるからこそ柳の木が植えられたのではないかとも思う。唐代の詩人、李白(りはく)(701年~762年)の詩に花柳の語がすでにあるからだ。出典は「夜郎(やろう)に流されて辛判官(しんはんがん)に贈る」758年、李白が反乱に手を貸したかどで夜郎(貴州省西北部)に島流しされた時に、友であった判官の職にある辛さんに当てた手紙(漢詩)の一文。「昔在長安醉花柳 (昔 長安に在りて花柳(かりゅう)に酔(よ)ふ)」「昔、長安にいた頃は、二人で歓楽街で酔ったものだね」はるか昔、「花柳(かりゅう)」のワードが歓楽街の意味として使われていた事は明白だ、最も李白の時代、「花街に柳の木があった」からなのかもしれないが・・。両国橋を川上から見た所。神田川合流は写真右の方総武線と遊覧船・卑弥呼(ひみこ)「銀河鉄道999」の作者 松本零士 氏のデザインだそうだ。卑弥呼(ひみこ)の写真はお台場にて撮影していますが、いずれどこかで紹介。JR総武線の鉄道橋鉄道橋なので橋に名前は無い?先には蔵前橋(くらまえばし)が見えている。このJRの鉄道橋を越えると右側に両国国技館の屋根が見えてくる。建物で見えにくいけど、ピンクの矢印の当たりに国技館の屋根が見える。スカイツリーからの写真です。両国橋を過ぎ、神田川合流を左に見ながら、総武線の鉄道橋をくぐると右に国技館なのですが、ごらんの通り、手前の高速道路とビルによって船からでは垣間見られる程度なのです。蔵前橋(くらまえばし)鋼・コンクリート道路橋形式 - 3径間連続上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ、および上路式コンクリート固定アーチ橋長 173.2m 幅員 22.0m支間 50.902m(鋼アーチ最大支間)/ 12.192m(コンクリートアーチ支間) 活荷重 一等橋着工 1924年(大正13年)9月竣工 1927年(昭和2年)11月蔵前のルーツは幕府のお米蔵蔵前とは、両岸共にもともとお米倉の倉庫が並んでいた所。現在の国技館とその後ろの江戸東京博物館も引き込み式の造りのお米蔵があった所。当初、和田倉や北の丸、鉄砲洲、竹橋などにあった幕府のお米蔵は、幕府の命により浅草蔵前に移され、先に紹介した江戸の町年寄 2代樽屋藤左衛門元次により、1620年(元和6年)に蔵前に移転設計されたそうだ。隅田川西岸、蔵前の御米蔵の面積は3万6650坪(約99ヘクタール)。一番堀から八番堀まで埠頭のように8つの堀が並んだ造りになっていた。蔵前橋(くらまえばし)を越したところから川下方面橋を越えてすぐ西岸にあるのが蔵前ポンプ場厩橋(うまやばし)構造形式 3径間下路式タイドアーチ橋橋長 151.4m 幅員 22.0m着工 1926年(大正15年)竣工 1929年(昭和4年)元禄年間からもともと「御厩の渡し」のあった場所であるが、先に紹介した蔵前の米倉の荷を運ぶ為の厩(うまや)のあった場所「御厩河岸」から由来している。実はここの渡しはよく転覆事故を起こしていたそうだ。「三途の渡し」と皮肉られる事も・・。それで1874年(明治7年)、橋の架橋は最初民間の手により、長さ150m(511尺)、幅約6m(20尺)の木橋が架けられたと言う。蔵前橋の袂は一部、屋形船の乗船場江戸風数奇屋造りの和風座敷の屋形船は最近では通信カラオケ装置・冷暖房装置・水洗トイレも完備されているらしい。川上からの厩橋(うまやばし)。橋の向こうには蔵前橋が見える。厩橋(うまやばし)の橋下からの駒形橋(こまがたばし)白いアーチは改装中だからです。スカイツリーからの修復中、駒形橋の写真駒形橋に向かう頃、スカイツリーが右手(東側)にハッキリ見え始めて来る。吾妻橋のたもとにあるアサヒビールの金の巨大看板も視界に・・。両国橋あたりから隅田川は右に30度ほどカーブ。駒形橋(こまがたばし)改装中だった事と、吾妻橋と近接している為にちゃんとした写真がありませんでした。そんな訳でウィキメディアでパブリックドメインになっていた改装前の駒形橋の写真を借りてきました。構造形式中央径間 (中路式ソリッドリブタイドアーチ橋) 側径間(上路式ソリッドリブアーチ橋)橋長 149.6m 幅員 22.0m着工 1924年(大正13年)竣工 1927年(昭和2年)駒形橋(こまがたばし)の由来は橋の西詰にある駒形堂(こまがたどう)に因んでいる。駒形堂(こまがたどう)は、浅草寺の飛び地となっている堂である。因みに本尊は馬頭観音立像(秘仏)だそうだ。先に紹介した蔵前(くらまえ)と厩(うまや)にやはり関係しているのか? 馬の供養を目的として堂が建てられたのは、ほぼ間違いない。かつては隅田川に向いて建ち、ここで船を降りて、浅草寺の観音堂に向かう前に参詣して行く場所であったらしいが、今は水上タクシー乗り場の裏手になり見えなかった。次にやっと吾妻橋です。今回も終わりませんでした f^^*) ポリポリ次回吾妻橋とその界隈。言問橋とその先をスカイツリーからの写真を交えて紹介して終わらせる予定です。全2回予定のはずが、細かくやり過ぎて長ーくなってしまいましたが、今回もちょっと収穫がありました。江戸時代、案外面白いです。Back numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年08月14日
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ラストにBack numberを入れました。7月28日(土)の予定だった平成30年(第41回)隅田川花火大会の開催は、台風12号の影響で29日(日)に順延。今年も無事に終了したようですが、今年は2020年東京オリンピック・パラリンピックを意識した警備体勢でのぞんだそうです。最近、人を巻き添えにする異常凶悪犯が増えていますからね。平和な日本とも言えなくなったし・・。警備の強化は市民の安全の為にも仕方ない事だと思います。隅田川での花火大会は、もともとは江戸時代、1732年(享保17年)の大飢餓と疫病で多くの死者を出した事から当時の8代将軍徳川吉宗が翌1733年(享保18年)5月に犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈って隅田川で水神祭を行ったのが発端だったと言います。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来だとか。※ この両国の花火が歴史的記録の残る最古の花火大会だそうです。1961年まで打上場所は両国橋上流。1978年に「隅田川花火大会」と名称変更。隅田川で復活し、打上場所もさらに上流へ移動。今年の打上場所は第一会場 桜橋下流~言問橋上流 。第二会場 駒形橋下流~厩橋上流 となっている。第一会場では 約 9370発(コンクール玉200発含む)。第二会場 約10650発の計 約20020発が打ち上げられる盛大なものです。隅田川リバーサイドのマンションからの眺めは格別でしょうね。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで隅田川の花火大会のルーツ永代橋(えいたいばし)夢の憂橋(ゆめのうきはし)&永代橋の悲劇豊海橋(とよみばし)隅田川大橋(すみだがわおおはし)清澄排水機場江東区清澄の水門管理センター平賀源内(ひらが げんない)電気実験の地清洲橋(きよすばし)萬年橋(まんねんばし)と小名木川(おなぎがわ)と新小名木川水門新大橋(しんおおはし)永代橋(えいたいばし)永代橋(えいたいばし)中央径間: 下路式スチールアーチ橋ニューマチックケーソン工法橋長 184.7 m 幅員 25.0 m着工 1923年(大正13年)12月 竣工 1926年ゅ大正15年)12月1698年(元禄11年)8月、江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目と、案外古い。徳川5代将軍綱吉の生誕50年を祝う記念イベントの一つとして架橋されたと言う歴史を持つ。当時としては最大規模の大橋。橋脚は満潮時でも水面から3 m以上。長さ110間(約200 m)、幅3間余(約6 m)。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所だったと言う。永代橋の向こうに横切る高速とその下が隅田川大橋。「永代橋」という名称は、架橋された江戸対岸に元あった中洲「永代島」に因むと言われるが、江戸幕府が末永く代々続くようにという意味もあったとか?しかし、不幸な事故も起きている。夢の憂橋(ゆめのうきはし)&永代橋の悲劇架橋から20年。財政難から維持管理が出来なくなり、橋の管理は町民の手にゆだねられる。町民管理になってから、おそよ90年の1807年(文化4年)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの深川祭が行われた時に悲劇が起きた。江戸市中から多くの民衆が祭礼に来た為に詰め掛けた群衆の重みで橋が崩落。死傷者・行方不明者を合わせ1400人を超える大惨事となったそうだ。川上から月島方面を見た永代橋。バックのビル群は月島、佃エリアの高層マンション。大正期までに隅田川に5つの鉄橋が架橋。しかし、そのほとんどは橋底に木材が使用されていたのでの関東大震災1923年(大正12年)では、再び悲劇が起きている。避難する市民が橋とともに焼け落ち、焼死者や溺死者が多数出たそうだ。1926年(大正15年)に震災復興事業により隅田川の9橋の再架橋が決まり現在の橋梁が再架橋。震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした、現存最古のタイドアーチ橋らしい。永代橋を過ぎると、川上に向かって左サイドに日本橋川が合流する。日本橋川は、文字通「日本橋」まで続く川。豊海橋(とよみばし)日本橋川の河口にかかる橋が豊海橋(とよみばし)である。(日本橋川の第一橋梁)つまりこここから川を遡れば茅場町を通り日本橋や神田のほうまでたどり着けるのである。橋の北側(写真右)は箱崎である。こちらも関東大震災の復興橋として1927年(昭和2年)架設されたそうだ。永代橋との景観とバランスを考慮して設計。橋長 46.13m幅員 8 m着工 1926年(大正15年) 竣工 1927年(昭和2年)フィーレンディールトラス( Vierendeel truss)工法を仕様したフィーレンディール橋(Vierendeel bridge)である。※ フィーレンディールトラス( Vierendeel truss)工法とは、はしごのような形と言う事らしい。重量感のある鉄骨橋梁はとても目立つ。中央区民有形文化財だそうだ。豊海橋(とよみばし)を過ぎるとじきに隅田川大橋。ちょうど写真バックが、元の永代橋西詰があった場所。写真の都合上川上側から川下に見た隅田川大橋(すみだがわおおはし)になってしまいました。写真右が箱崎。隅田川大橋(すみだがわおおはし)隅田川唯一の二層式の橋。東京都道475号永代葛西橋線支線と首都高速9号深川線の高架橋と一体化された単純合成桁橋。橋長 385.3m幅員 30.0m(4車線)竣工 1979年(昭和54年)10月首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が完成。翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通。二層式の橋と言ったが、実はこの川底の地下には東京メトロ半蔵門線が通っているのである意味三層ですね。隅田川大橋左岸。上段の高速、この先が箱崎ジャンクション。上流に向かって左岸、橋の向こうのビルがDaiwa リバーゲート。建物が凱旋門のよう。Daiwa リバーゲートそのすく真向かいにあるのが清澄排水機場。(上流に向かって右岸)清澄排水機場ポンプ口径:2600mm×3台 48b/s昭和61年度竣工エンジンはディーゼル江東区清澄の水門管理センターこの清澄排水機場の道路隔てたすぐ後ろに東京都江東治水事務所の水門管理センターがある。住所は江東区清澄一丁目。そこでは東京都の、東部低地帯における水害対策として整備した、防潮堤や水門等などの監視・制御を24時間体制で行っている事務所である。※ 10水門及び1樋門の遠隔監視制御、3水門、1樋門及び5排水機場の遠隔監視と共に水門操作時には、複数のカメラ映像による安全の確認を行っている。平賀源内(ひらが げんない)電気実験の地余談であるが・・。同じく清澄排水機場の左裏に「平賀源内電気実験の地」と言うのが地図に載っている。平賀源内(ひらが げんない)(1728年~1780年)と言えばエレキテル。そのエレキテルを長崎より持ち帰り、この地で修復して公開実験したのがここなのだそうだ。かつてここには武田長春院という幕医の下屋敷があり、源内は武田長春院の塾生にまじり居候させてもらっていたのだろう。つまりそこが源内の江戸の住まいだった所だ。※ 幕医・武田長春院とは、江戸時代中期の医師で武田杏仙の家をつぎ,幕府の医師となった武田叔安 (たけだ しゅくあん)(1700年~1774年)こと武田長春院、が開いていた塾。つまり医師の卵達が全国から教えを請いにきていた所。平賀源内(ひらが げんない)は1770年(明和3年)長崎より持ち帰ったエレキテルを修復して実験。1776年(安永5年)エレキテルをオリジナルで復元。「エレキテル」とは単なる静電気発生装置だっらしいが、高額な見物料をとって公開したにもかからわず大盛況。大名屋敷などへも持ち込んで見世物にしたらしい。清洲橋(きよすばし)構造形式 自碇式鋼鉄製吊り橋橋長 186.3m幅員 22m着工 1925年(大正14年) 竣工 1928年(昭和3年)関東大震災の震災復興事業として、。「帝都東京の門」となる永代橋と共に計画された為にデザインに気がくばられた。モデルとなったのは、ケルンにあった「The Deutz Suspension Bridge (ドゥーツ・サスペンション橋)」の方。「The Deutz Suspension Bridge」 は、アイバーチェーンを使った自立型の吊り橋でしたが、1945年2月28日に修理工事中に倒壊。※ 1948年世界初の鋼製ボックス桁橋に置き換えられた。1935年、ドイツの第2代大統領が死去した後、ヒンデンブルク橋と呼称されるようになった事から、同じく当時ドイツにあったライン川にかかる鉄道橋、ヒンデンブルグ橋(Hindenburg Bridge)と混同されたのではないか?※ 当のヒンデンブルグ橋(Hindenburg Bridge)は第二次大戦の空爆対象となり 1945年1月13日橋梁の全域が破壊。 ヒンデンブルク橋の最終的な破壊は1945年3月。こちらは再建されなかった。2007年(平成19年)、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。川下に向かっての清洲橋(きよすばし)清洲橋を過ぎてすぐに右岸より小名木川が合流。萬年橋(まんねんばし)と小名木川(おなぎがわ)と新小名木川水門萬年橋(まんねんばし)は小名木川にかかる橋で第一橋梁ここで隅田川に合流。小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河。それ故、船の運航に支障が無いよう橋はいずれも橋脚を高くしていたが、萬年橋は特に大きく高く虹型に架けられた太鼓橋。その優美な姿から北斎や広重が浮世絵に描いている。萬年橋(まんねんばし)構造形式 1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋、鉄筋コンクリート床鈑橋長 56.25m幅員 17.2m竣工 1930年(昭和5年)萬年橋の後方に見えるのが新小名木川水門この先は深川新小名木川水門(しんおなぎがわすいもん)形式 鋼製単葉ローラーゲート径間 11m×3連門扉高さ 7.8m竣工 1961年(昭和36年度)葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」 初刷1830年頃ここからも富士山が見えたようですね。歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」 初刷1857年放し亀を描いた作品。食べる為の亀ではありませんよ。万年生きる亀と萬年橋がかかっているらしい新大橋(しんおおはし)に向かって隅田川は左カーブ新大橋(しんおおはし)左岸手前の中洲公園前には日本橋消防署の水難消防艇「きよす」と「はまかぜ」が停泊。水難消防艇「きよす」と「はまかぜ」は共に型式は 軽合金船、V型全長は13.0mと13.34mと微妙に違うが、総トン数 9.7t 定員 10人 最高速度 30ノット以上 (約54km/h以上) 放水銃 流量可変型×2基 は一緒。遊覧船ホタルナ新大橋(しんおおはし)構造形式 2径間連続斜張橋橋長 170.0m幅員 24.0m着工1976年( 昭和51年)竣工 1977年(昭和52年)川の地下には都営地下鉄新宿線が横断。新大橋を過ぎると次の橋は両国橋なのであるが、実は隅田川道路橋(すみだがわどうろきょう)をくぐるのである。隅田川道路橋(すみだがわどうろきょう)とは、首都高速が上空を交差している場所なのである。首都高速6号線向島線と首都高速7号線小松川線が通っている。次回両国から つづくBack numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年08月01日
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ラストにBack numberを入れました。前回触れた造船所の石川島播磨重工(IHI)であるが、どうも私の母校に縁がある。母校もご近所の築地にあったのだ。母校は関東大震災後に武蔵野に移転した。その後戦争で、武蔵野の学校が爆撃されて生徒が亡くなっている。その理由が、石川島播磨重工の飛行機部門、ジェットエンジンを造っている工場が近くにあった事で間違われたらしいのだ。武蔵野の学校は緑に囲まれた広大な敷地にあったから、上空からでは確かにわからなかったのかもしれない。その悲劇について、学校の七不思議の中「乙女椿の伝説」なるものが有り、「女生徒の死」以降「血のように真っ赤に咲くようになった」と言うツバキの花の事が伝説となり伝えられている。在学中にどのツバキだ? と探したのを憶えている。爆撃された場所の特定はしたが、ツバキの方はたくさん有りすぎて解らなかった。それにしても、石川島播磨重工(IHI)がもともと水戸藩の造船所が出発だったとは知らなかった。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史月島川水門東京都下水道局明石町ポンプ所東京都の水害対策聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)佃大橋(つくだおおはし)と佃島の渡し(つくだのわたし)住吉水門(すみよしすいもん)と佃川支川(つくだがわしせん)徳川家康と佃島の歴史亀島川水門(かめじまがわすいもん)霊岸島水位観測所(れいがんとうすいいかんそくじょ)中央大橋(ちゅうおうおおはし)大島川水門(おおしまがわすいもん)月島川水門昭和39年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 11m×1連 上空制限高(A.P.) +8.9m平成28年に耐震化工事が完了。門が変わったようです。※ 耐水対策で浸水しても可動できるよう電気系統が上にあがったのでしょう。月島川は月島川水門を経て隅田川と朝潮運河をつなぐ全長530mの川。明治25年~27年に作られた月島1号地(現月島)と月島2号地(現勝どき)の間を流れている川で、月島川を境として中央区勝どきと月島に分かれている。月島川水門前のブルー補強工事か? 3月には無かった。対岸の勝どき橋から佃大橋の間に東京都下水道局明石町ポンプ所がある。地図上では川が見えないので不思議であるが、この地帯はもともと土地が低いので恐らく人工的排水システムで内部の水位を下げているのでしょう。このポンプ場の少し裏手に築地本願寺があります。関東大震災が起きた後に海の上に再建したと聞いたので、このあたりも埋め立てなのかも。東京都の水害対策東京都では、東日本大震災を受け、建設局、港湾局、下水道局の3 局で「地震・津波に伴う水害対策を検討。今までも、すでに東部低地帯の河川域の対策を講じてきていますが、震災後にマグニチュード8.2 の海溝型地震等、想定される最大級の地震や津波高潮などに対応できる設備の強化などすすめられてきた。※ 特に地盤の低い隅田川、中川、旧江戸川等については防潮堤や護岸(スーパー堤防)、水門・排水機場等の整備が完成している。近年、さらに建物の耐震設計と護岸の強化、また津波、高潮によ浸水被害など例え浸水しても設備が稼働できるよう、電気系統などを高い位置に設置するなど対策を進めている。東京で特に心配なのが、この隅田川流域を含む東部低地帯の浸水。大正から昭和40年代にかけて進行した地盤沈下の影響で、地盤高が朔望平均満潮位より低い。かつては度々水害に襲われていた場所。水門や排水機場等の設置により、平常水位を人工的に周囲の地盤高程度まで低下させ、また護岸や河道の整備で水害はなくなったらしい。とは言え、今回の岡山県倉敷市真備(まび)町で起きた小田川の決壊などは集中豪雨による増水。荒川が同じように決壊したら東部低地帯は水没。東京も壊滅に? 東京都は決壊を起こさないよう学識経験者を集めて対策を講じているらしい。佃大橋(つくだおおはし)に向かって左手前が聖路加(せいるか)レジデンス。聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)裏手は聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)の第3街区に位置する聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)は、47階のタワー塔と、38階の聖路加レジデンスのツインタワーで構成されている。38階の棟は、4階に医療施設「聖路加クリニック」が設置。7階〜30階は、医療介護付き居住施設の「聖路加レジデンス」(175戸)となっていて、介護・介助サービスも万全に提供されている。つまり、超高級系の介護付きマンションである。尚、38階の棟の32階〜38階はホテル「銀座クレストン(旧 東京新阪急ホテル築地)」となっているので家族が来ても宿泊には困らないようですね。因みに、「せいろか」ではなく、本来は聖路加(せいるか)が正しい。福音書記者の「聖ルカ」を和名にしたのが「聖路加」なのだ。「聖ルカ」の家は、代々医者だったと信じられているからかな?聖路加ガーデン前からの佃大橋全景右の白い橋が中央大橋。隅田川は右にカーブしていく。またここは亀島川(左)から墨田川への合流点でもある。佃大橋と右の高層ビルは月島のラスト「佃エリア」かつて石川島の造船所があった場所である。佃大橋(つくだおおはし)と佃島の渡し(つくだのわたし)江戸時代より320年余り続いたと言う隅田川の渡船場「佃島の渡し」があった場所に架橋された佃大橋(つくだおおはし)。戦後初めての隅田川の架橋だったと言う。実は江戸時代に隅田川への架橋には防備の観点から制限があったそうだ。特に東方面は奥州や総州へ繋がるので、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡船場が街道筋に存在したらしい。自動車や市電の発達など、交通網も変化する中、特に関東大震災の被災からの復興事業に伴う新規架橋が進み、渡しは消えて行ったと言う。「富士見の渡し」(葛飾北斎 「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」)ウィキメディアコモンズより借りてきました。佃公園(つくだこうえん)とリバーポイントタワー&住吉水門写真右の鳥居が、おそらく佃の氏神である住吉神社へのかつての隅田川からのアクセスゲート。.住吉水門(すみよしすいもん)と佃川支川(つくだがわしせん)佃川支川(つくだがわしせん)の水門が住吉水門(すみよしすいもん)。かつての月島と佃島の間を流れていた川は、佃大橋の完成と共に一部埋め立てられ、住吉神社につながる逆L字の掘割りに残っている。住吉水門(すみよしすいもん) 昭和40年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 4m×1連上空制限高(A.P.) +5.75m平成28年度に耐震化工事が完了。門が変わったようです。徳川家康と佃島の歴史佃島と住吉神社の歴史は16世紀の天正時代に遡るらしい。1582年(天正10年)6月本能寺の変の知らせを受けた徳川家康は慌てて大阪を脱出する際に摂津国の佃村(現・大阪市西淀川区佃)の漁師らが船を出し、食べ物を提供してくれたおかげで大阪脱出を果たしたと伝えられている。その恩義の延長なのか?後に徳川家康が江戸に幕府を開くと、もともと江戸湾に漁師も少なく増える人に対しての食糧事情が低かった事もあり、彼の佃村および大和田村の漁夫33人と神主を江戸に呼び寄せ、漁師として、将軍家に魚を献上する任をまかせたと言う。当初は安藤対馬守重信(あんどうつしまのかみしげのぶ)の屋敷に居候。後に当時干潟であった場所をもらい受け、埋め立てて築島にして住んだと言われる。住吉神社は彼らの氏神様であった。だから佃島(つくだじま)の名は彼らの故郷(摂津国佃村)に由来しているし、もともと彼らの塩ゆでの小魚料理は、江戸に来て醤油に代わり、名物の佃煮が誕生したと言う。佃大橋を振り返って川下側を見た所。橋の手前側、双方に佃島渡船跡が残っているようだ。高いビルが先に紹介した聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)のタワー塔。その右手が築地であり、さらに奧が銀座。さて、月島にかかる最後の橋。中央大橋に向かって中央大橋の手前左に亀島川が合流。亀島川水門がある。(写真見切れている所)亀島川水門(かめじまがわすいもん)昭和43年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 15m×2連上空制限高(A.P.) +8m日本橋川から分流する亀島川はその分流点に日本橋水門を持ち、隅田川と合流する中央大橋下流に亀島川水門(かめじまがわすいもん)を持つ。2つの防潮水門で完全に閉め切ることができるそうだ。何しろ亀島川は八丁堀、茅場町、箱崎へと流れているからだ。江戸期には亀島川沿いの八丁堀に御船手奉行所が置かれ、江戸に入る船舶の検め(あらた)をおこなったと言う。検めを行った徳川水軍の将で、御召船奉行であった向井忠勝(むかい ただかつ)(1582年~1641年)こと、向井将監 (むかいしょうげん)の屋敷は合流の箱崎。亀島川河岸は将監(しょうげん)河岸と呼ばれていたらしい。気になっていたのが、水門前のキューブ。(写真下の右)霊岸島水位観測所(れいがんとうすいいかんそくじょ)1873年(明治6年)~明1879年(明治12年)の間、3ヶ月毎の満潮位と干潮位を測定しその平均値を算出。霊岸島水位標を東京湾平均海面(T.P.0m)とし全国の高さの基準としたそうです。つまり、ここは日本の水準点の原点だった場所です。しかし、東京湾の埋立てや隅田川の影響があり、水準原点の検証をする観測所としては不適合となり、現在は神奈川県三浦半島油壺の観測所に移設。隅田川のテラス護岸の施行に伴い1994年(平成6年)に元の位置から移動して現在も荒川水系の基礎データの観測を続けているようです。川上側からの中央大橋川上側からの中央大橋 この橋を写真右(西)に進むと東京駅の八重洲口に出るのだ。中央大橋(ちゅうおうおおはし)竣工 1993年(平成5年)8月構造形式 二径間連続鋼斜張橋橋長 210.7m幅員 25.0m橋桁製作 石川島播磨重工業横浜工場(地元だからね)昭和の橋と異なりデザインも考慮された造り。ひと味違う橋である。ライトアップが映えるらしい。バブル絶頂期のものなので分不相応なほどの贅沢だとウィキペディアには書かれていた。笑えるちょっと逆光ですが・・。豊洲運河を越えると江東区に入り越中島。越中島と永代大島川水門(おおしまがわすいもん)昭和33年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 11m×2連上空制限高(A.P.) +7.5m平成28年に耐震化工事が完了。門が変わったようです。この水門の向こう大島川は永代、門前仲町、深川とめぐる。調度大島水門前あたりからの下流、中央大橋と月島方面。中央区の月島。右が隅田川 左が豊洲運河の分岐点船は永代橋に進む Back numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年07月23日
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東京港湾局のリンク先、変わっていたので入れ替えました。西日本の豪雨による土砂崩れや川の氾濫による大災害が続き、日本は大丈夫なのか? と本気で心配します。何十年に1度の災害とは言うけど、果たしてそうなのだろうか?近年毎年のように、年間の降雨水量を超える豪雨に見舞われ、土砂崩れや堤防の決壊と言う事故が起きているこの現状。もはや地球環境そのものが変化して、気候が変動しているとしか思えない。つまり、今までの年間降水量などあてにならない。集中豪雨は当たり前のように毎年起こる事象になるのではないか? と言う事。そしてそれに伴う水害や土砂崩れも然り(しかり)である。そうなれば、当然、今までの都市整備では処理しきれないだろう事は目に見えている。抜本的改良をしない限り、毎年のように同じところが水害に見舞われるだろう事は秤(はかり)知れると言う事だ。めったに無い事だから。予算も無いし。・・と、自治体が後手後手に抜本的改革をしないで来た所が被害にあった。ハザードマップで警告していたとしても実害が出るまで住民にはハザードの意識はなかったろうから。何も考えずに山を切り開き、宅地を造る。人口増加で一見、都市化したように見えても、これでは「砂上の楼閣(さじょうのろうかく)」。無作為な街の拡大が招いた災害だったと思わざる終えない。亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします m(_ _)mさて、東京クルーズ2回目ですが、2回目もクルーズから遠くなってしまった気がします。当初は簡単に水門も入れるだけのつもりだったのですが、今回の水害を受けて細かく載せる事にしました。隅田川にたくさんある水門は今回のような水害に際して重要な役割を持っているからです。水門を単独に扱うか迷いましたが、場所にも意味があるので橋と平行で入れる事にしました。今回は最初に浜離宮の所にある水門と浜離宮も入れて紹介。隅田川は勝どき橋までですかね。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場水門と排水機場の意味汐留川水門築地川水門と浜離宮築地市場月島の歴史勝鬨橋(かちどきばし)隅田川(すみだがわ)を遡上(そじょう)。見えるのは築地(つきじ)大橋。その左手前に浜離宮(はまりきゅう)。右手が月島の「豊海エリア」ピンクの→左から、汐留川(しおどめがわ)水門、築地川(つきじがわ)水門。.水門と排水機場の意味東京港に整備されている、高潮対策の整備の一つとして、支流の口に水門が設置されています。まさに今回の岡山県倉敷市真備(まび)町で起きた小田川の氾濫による浸水災害。そんな災害を防ぐ為にある水門です。岡山県倉敷市真備(まび)町で起きた小田川の決壊による水害は、そもそも小田川が注ぐ1級河川の高梁(たかはし)川の水位上昇が発端で起きたバックウォーター現象だったと言います。バックウォーター現象とは、本流への合流地点で、本流の水位が高いと支流の水が配水できず、逆に支流の方の水位が上がってしまうと言う現象で、それにより支流域に被害をもたらすと言うものです。※ 小田川では1970年以降、大きな浸水被害が5回も発生。1972年にも大雨で決壊し2000戸以上が床上浸水。問題は今の合流点にあるようで2029年頃をめどに新しく造り完成させる予定だったとか・・。東京港の水門は、高潮等で外水域の水位が高くなった場合、水門を閉鎖して内水域の水位上昇を防せぐ為にある。この時、同時に中の水を排水するシステムが作動される。(排水機場)水門を閉鎖した時、内水域の水位は当然上昇するので、排水機場のポンプを運転して内水域の水位を下げる為の排水作業が同時に進行すると言う方法がとられているようです。東京も水の都市でした。小さな河川はたくさんあるので、特に高潮による海からの逆流に対応する為にあちこちに水門と排水機場が造られているようです。この排水システムはどれくらいの河川にまで対応できるのでしょうね。下は東京港湾局のページから港湾局の資料に寄れば、50年確率(約250mm/日)又は100年確率(約340mm/日)の大雨が降っても、内水位が維持できるよう主排水ポンプの能力を決めているとの事。リンク 東京港湾局排水機場しくみ汐留川(しおどめがわ)水門昭和44年竣工 門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 14m×1連上空制限高(A.P.) +6.1m汐留川(しおどめがわ)江戸時代初頭には軍港として利用された日比谷入り江。当初は江戸城前まで広がっていたと言う。1620年代になると埋め立て地が大名屋敷となり、もともと日比谷入り江にそそいでいた川は江戸城の外堀の一画として東に延伸。浜御殿(浜離宮恩賜庭園)の西縁にあたる水路を指して汐留川と呼んだそうだ。かつてこの汐留川の先に江戸城があったと言う事だ。現在残るのは浜離宮の西側と南側を縁取る900m程度。築地川(つきじがわ)水門 昭和44年竣工 門扉型式 スイングゲート有効幅員 14m×1連上空制限高(A.P.) なしクルーズ船の浜離宮停泊場へのゲートにもなっている。かなり驚くのはゲートの通り抜け。まさかここを? とちょっと感動。本来、浜離宮に入るのは下流コースのみ。今回は便宜上先に紹介する事にしました。※ 船のサイズによっては浜離宮に停泊できないので便が限られている?尚、浜離宮排水機場の写真がありませんが情報だけ。昭和45年竣工。主排水ポンプは立型軸流 ポンプ×4台口径 2,100mm。 排水量 42t/sec。浜離宮(はまりきゅう)正式名称は浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんしていえん)元は将軍家の鷹狩の場所であったと言われているが、浜離宮の歴史は甲府藩の下屋敷だった所から始まる。時の甲府宰相,松平綱重(まつだいらつなしげ)の長男 松平虎松(幼名)が徳川の6代将軍 徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)(1662年~1712年)(在職:1709年~1712年)として即位すると。ここは徳川将軍家の別邸となり、浜御殿と呼ばれる。1709年(宝永6年)頃、現在のような庭園になったらしい。宮内省管理の離宮を経て現在は東京都の都立公園として開放されていて、近年外国人に人気の場所なのである。右の護岸は築地市場の一角である。正面左の斜めに見えるビルは東京汐留ビルディング。複合ビルで、ソフトバンクグループ本社やコンラッド・ホテル(Conrad Hotels)が入っている。正面右の大きなビルは大手広告代理店の電通(でんつう)が入る電通本社ビル。築地川は現在では本流が河口付近に750m程残っているのみ。かつての築地川の大部分は現在の首都高速都心環状線に転用されたようだ。大阪もそうであったが、東京も高速道路の用地に買収のいらない川の上が利用されているからね。浜離宮での乗船が終わると再び水門を抜けて隅田川に本当にこする事もなく完璧で拍手をしたくなるようなギリギリの通り抜けでした。築地大橋に向かって隅田川を遡上。築地大橋は先ほどの築地川の北側にある。築地大橋(つきじおおはし)と築地下は築地大橋(つきじおおはし)からの勝鬨橋(かちどきばし)築地大橋(つきじおおはし)頭上に横繋ぎ材の無い開放感がある鋼3径間連続中路式アーチ橋。橋長×幅員 245.0m×32.3~48.0m環状第2号線が通る「環二通り」となるもの。平成27年度に完成した隅田川の最も下流にある新しい橋なのですが、未だ通行がされていないそうです。上の地図は「環状第2号線 事業概要 2号線のあらまし」&道路Webから当初は地下トンネルで隅田川を越える予定だったが築地市場が豊洲に移転するので橋に変更。しかし、その豊洲移転が未だできていない事から築地市場内に計画されている環状第2号線の整備ができていない。だから未だ橋は未開通。東京都は「東京2020大会は、地上道路で対応」し「市場機能移転後、本線(トンネル)を整備し、東京2020大会後に完成」するとしているらしい。豊洲移転でコタゴタしたからです。築地大橋の下からの築地市場のバックヤード築地市場(つきじしじょう)東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場の一つ。その規模は取引金額で日本・世界最大と言われる。市場は中央区築地。銀座からも歩いて来れる。まさにこの隅田川の真下、都営大江戸線が走っている。東京って凄い。築地市場の対岸、月島側はマンションが立ち並ぶ。このあたりは月島の「勝どきエリア」。リバーサイドの高層タワーはオール賃貸の高層タワーマンション「プラザタワー勝どき」手前の「リオフレンテ 勝どき」も賃貸らしい。最近は利便も良いし、おしゃれな地区になっているようですが・・。月島(つきしま)の歴史月島はほぼ埋め立てでできている。月島1号地は1892年(明治25年)にできた。隅田川が運んだ海底の泥土を積み上げてできたのだそうだ。もともと石川島に水戸藩の造った造船所があった。※ 石川島は佃二丁目あたりの旧名。※ ペリー来航に対抗するように江戸時代にできた造船所は後に石川島播磨重工業となり、現在 IHI Corporationと名称が変わっている。月島には造船関連の鉄鋼業や重工業が増えて行ったようだ。しかし、当時、隅田川に橋は無く、築地側などからの渡し船にたよっていたと言うのでかなり便の悪い所だったようだ。1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴う4度目の計画で待望の架橋が決まった。※ 着工 1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)竣工。当時は船舶の往来も多く、3,000t 級の船舶が航行が視野に入れられた為に可動橋が考えられたと言う。しかも、当時、月島地区は1940年(昭和15年)に東京万国博覧会のメイン会場となる予定があり、橋は日本の技術力を誇示できるものでなくてはならなかった。1940年(昭和15年)東京万博の年に橋は完成する。それが勝鬨橋(かちどきばし)である。が、戦争の為に万博自体が中止となってしまった。勝鬨橋(かちどきばし)晴海通りが通る勝鬨橋(かちどきばし)は日本では数少ない可動橋の一つです。真ん中がパカッと持ち上がって開く跳ね橋(はねばし)構造になっています。可動部 シカゴ型双葉跳開橋固定部 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋着工 1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)竣工。全長246m。 幅22m。最大支間長 可動部 51.6m。 固定部 86.0m。とは言え、現在の勝どき橋が開く事はない。1980年に機械部への送電が止まり、可動部もロックされ、役目を終えたようだ。市民団体からは再び開きたいと言う要望があるらしいが、動力部の整備に莫大なお金がかかる事。また勝どき橋を通る晴海通りの交通量の多さから、難しいらしい。橋の上の4つの小屋? は運転室、見張室、宿直室だったらしい。開く角度は最大70度、約70秒で全開。橋の上を都電が走っていたと言うのだから尚、驚く。軌道の電気はどう通していたのか?上からの撮影もほしかったですね。勝どき橋を川上側みた所。左が月島の「月島エリア」の部分のリバーサイド。写真左に青い何かが見えるがそこが、月島川水門である。今回浜離宮も入れて長くなったので、次回月島水門から始めます。隅田川クルーズ つづくBack numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年07月14日
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ラストにBack numberを入れました。さて、今回はシンプルに観光ネタです。行った感でるよう写真をたくさん持ってきました。実は今年3月、4月と続けて、たまたま隅田川クルーズに乗る機会があったのです。ちょっとロンドンのテムズ川のクルーズに似ていました。見るべきは橋が中心ですが・・。乗船客の9割は以上は外国人です。(もっと多いかも・・。)今、最も外国人にHotな東京観光の一つとなっているのです。そんな訳で、4月はハワイの姉夫婦をつれて浅草からお台場まで乗船。乗り出があり、非常に楽しんだとの事でした。外国人に人気の理由は納得だったそうです。.東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港東京クルーズ (隅田川ライン)東京港の埠頭東京港の観光船ターミナル日の出埠頭と日の出桟橋晴海埠頭(はるみふとう)竹芝(たけしば)月島(つきしま)地域と朝潮(あさしお)運河月島(つきしま)埠頭東京クルーズ (隅田川ライン)そもそも隅田川(すみだがわ)とは、荒川の新岩淵水門から分岐して東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川です。隅田川ラインクルーズは、東京湾のクルーズの中でも、日の出桟橋から浅草の隅田川公園間を遊覧するものです。※ お台場行きも日の出桟橋から出港なので、浅草からだと1度 日の出桟橋で船を乗り替える事になります。会社によっては直通もあるかと・・。ちょうどお台場から晴海を通り隅田川を遡上すると浜離宮、築地市場、永代橋、両国と観光スポットを通り浅草で下船するとスカイツリーにも行けるし、浅草観光など延(ひ)いては浅草寺(せんそうじ)や合羽橋(かっぱばし)商店街にも行ける。なるほど、確かに外国人の興味のありそうなスポットばかりです。当初は橋だけ紹介の予定でしたが、東京港の紹介も入れました。周りの景色と共に水門も入れる事にしました。しかも、これらの場所はまさにオリンピックの中心会場になるの場所。初回は東京港から。全3部くらいになるかも? スカイツリー、フロア450(451.2m)から東京湾方面を撮影。下がほぼオリンピックの会場一帯です。地名を入れたのですが、小さくて見えなかったですね。左から Shinkiba(新木場)、Ariake(有明)、Fji TV(フジテレビ)、Toyosu(豊洲)、Shinagawa(品川埠頭)、Harumi(晴海埠頭)、Shibaura(芝浦ふ頭)※ 対岸が黄色。品川埠頭の向こう隣が大井埠頭で、またその向こう隣が羽田。※ 品川埠頭に東京入国管理局がある。船も、飛行機(羽田)での入国でも共に利便が良い。高層のビルが遠くまで建ち並び海がほとんど見えないですが、東京港、全てはこの写真に収まりませんでした。もっと左の台場(だいば)や葛西(かさい)が入っていません。スカイツリー、フロア450(451.2m)から晴海と豊洲を中心に撮影。右の赤い→ 日の出埠頭。 黄色 浜離宮.月島地域と晴海(はるみ)、豊洲(とよす)は埋め立ての中洲のような所。隣合っているけど、月島地域と晴海は中央区で、豊洲は江東区(こうとうく)です。東京湾方面に右が隅田川、左が豊洲運河に分岐する月島地域。右の橋が中央大橋。正面が石川島公園。月島地域は川上が佃(つくだ)から始まる。最近は河口に行くほど埋め立てが進んで土地が拡張しているから建築ラッシュで高層ビルだらけの気が・・。都心部よりも海の上のが諸々、建築しやすい理由があるのでしょうね。東京港の埠頭日本の五大港(東京港、横浜港、名古屋港、大阪港、神戸港)の一つ。そして日本三大旅客港(東京港、神戸、北九州港)の一つでもある。関東大震災で港湾設備の必要性が重要視され、日の出埠頭1925年に完成。1941年には国際港としての東京港がオープン。1960年代末から国際貨物輸送の主流がコンテナ輸送にシフトし出すと東京港はいち早くコンテナリゼーション(containerization)に対応。※ コンテナリゼーション(containerization)・・コンテナ輸送1998年からは外貿コンテナ取扱個数で国内首位となっているそうです。つまり、東京港は国家戦略の中で国際貿易に重きをおき発展。東京港の湾岸はコンテナ埠頭が次々に建設されたようです。.観光船の埠頭だけの予定でしたが・・。塩漬け株に海運株を持っている私としては、ちょっとコンテナ船が気になる所です。実はリーマショックから未だ大型貨物の方は復活できていないのです。そう言う意味で言うと、東京港の活気は微妙かな?※ コンテナ用の埠頭も一覧にしてみましたが、データ元はウィキペディアです。内港地区品川埠頭(品川コンテナ埠頭 岸壁総延長555m。品川外貿埠頭 延長570m。品川内貿埠頭 延長475m。)※ 品川コンテナ埠頭は現在、日韓・日中・東南アジアなどアジア近海航路用の埠頭として利用。芝浦埠頭 延長879m。日の出ふ頭 延長564m。竹芝埠頭 延長465m。月島埠頭 延長1351m。辰巳埠頭 延長1040m。晴海埠頭 延長1189m。朝潮埠頭 延長1074m。豊洲埠頭 延長283m。南部地区大井(おおい)埠頭(大井コンテナ埠頭 延長2354m。大井水産物埠頭 延長450m。大井食品埠頭 延長610m。※ 水深は全域で15m。北米・欧州方面の長距離基幹航路に就航する大型コンテナ船が主に入港。東京港のみならず日本を代表するコンテナターミナル。川汽、商船三井、郵船の専用ターミナルがある。城南島(じょうなんじま)(大井建材埠頭 延長280m。城南島小型油槽船係留施設 延長387m。城南島建設発生土埠頭 延長160m。)中部地区青海(あおみ)埠頭 (青海コンテナ埠頭 延長1570m。お台場ライナー埠頭 延長1800m。青海客船ターミナル。)有明(ありあけ)(10号地埠頭 延長2420m。10号地その1多目的埠頭 延長180m。)有明埠頭 延長750m。有明フェリー埠頭 延長902m。中央防波堤地区中央防波堤内側ばら物埠頭 延長240m。中央防波堤内側外貿雑貨埠頭(上組東京コンテナターミナル) 延長260m。東部地区若洲(わかす)(15号地埠頭 延長190m。15号地木材埠頭 延長720m。若洲建材埠頭 延長370m。)東京港の観光船ターミナルそして今、オリンピックも控えて外国人の旅行者も増え、時代は空前の旅客船ブーム。今回は東京港の 旅客船のターミナルがある埠頭中心の紹介になりました。晴海客船ターミナル(晴海埠頭)・・国内外の豪華客船が接岸竹芝旅客ターミナル(竹芝埠頭)・・伊豆諸島・小笠原諸島日の出桟橋(日の出埠頭)・・・・台場・有明方面への水上バスや東京湾クルーズなどが発着。他に非鉄金属・化学薬品等の内貿もある。東京港フェリーターミナル(台場)・・北海道・九州・四国とを結ぶフェリー航路。沖縄・奄美航路船客待合所(台場)※ 内港地区のみの紹介。中部地区(台場)はありません。墨田川ラインのコース一部(東京湾界隈)日の出埠頭と日の出桟橋見えてる沿岸が全て日の出桟橋浅草、お台場海浜公園・東京ビッグサイト・パレットタウン行きが運航している船着き場。住所は港区海岸2-7-104。「海岸」なんて町名あったんですね。モノレール「ゆりかもめ」の「日の出駅」から徒歩2分。後ろの水色のラインはモノレールの軌道。「ゆりかもめ」の景色もこのあたりから海の上を走っているようで楽しい。日の出桟橋からの対岸(東)。見えているのは対岸の晴海(はるみ)と、右奧が豊洲(とよす)。晴海埠頭(はるみふとう)見えていた晴海埠頭のあの建物は?実はあちらは晴海客船ターミナル。国内外の豪華客船が接岸する東京の海の玄関です。晴海埠頭の南側は豊洲。上の写真では豊洲市場も見えている。豊洲は市場だけでなくさらに観光誘致すれば、クルーズ船で来日した観光客の東京観光はこのあたりでほぼ完結できてしまうわけです。下、見えているのは晴海埠頭公園と晴海一帯。晴海埠頭の住所は中央区らしい。晴海埠頭公園は、東京都港湾局が管理する海上公園と言う事だが、レインボーブリッジと東京タワーが望める事から中央区観光協会の夜景八選に入っているそうだ。右(南)方面はレインボーブリッジ。橋の左がお台場。橋の右岸が芝浦ふ頭です。左(北)側方面は隅田川河口とスカイツリーがはるかに見える。見えている橋は築地大橋(つきじおおはし)。つまり橋の左が現在の(旧)築地市場。クルーズはこの後、あのスカイツリーの足下近くまで蛇行する隅田川を遡上して航行する。竹芝(たけしば)埠頭日の出桟橋から運河隔てて北隣の海岸1丁目にホテル インターコンチネンタル東京ベイ羽田からのモノレールからも見える高級ホテル。実は3月のクルーズはここのホテルのランチ・ブッフェのプランに付いていたのですホテルも戦国時代。いろいろ仕掛けているようです。因みにこちらアクセスは「ゆりかもめ」の「竹芝(たけしば)駅」から2分ほど。竹芝客船ターミナルは、伊豆諸島・小笠原諸島への人や物資の玄関口、またレストラン船などの発着場になっているそうだ。このあたり、確かに埠頭(ふとう)だらけ。用途別? それなりに振り分けられているようですね。因みに、ホテルの手前運河の所が小型船の発着所だそうです。インターコンチネンタル東京ベイから浜離宮(はまりきゅう)の手前までが竹芝(たけしば)。※ 写真右の見切れた方が浜離宮。これらビルの裏手の方が港区芝(しば)。ビルがせ高くてみえないけれど、芝東照宮、芝の増上寺、また東京タワーがある方向。ビルの隙間から微妙に見える東京タワー。浅草に向けて出発(写真は日の出桟橋)進路先には、まだ小っちゃくスカイツリーが・・。対岸の晴海埠頭を回る形で隅田川河口方面に向かう。晴海埠頭公園の裏手は大規模工事中。東京都港湾局が管理する海上公園前に停泊しているのは、航海の大型練習帆船、日本丸であった。工事のクレーンとマストが重なりあってよく見えないので日本丸のホームページから持ってきました。帆を張るとこんなに美しい。2代目 日本丸 (1984年進水式)。総トン数(2570t)。全長(110.09m)。航海速力(13.20ノット)。.何の工事かな? と思いきや。どうもオリンピックの選手村の工事らしい。月島(つきしま)地域と朝潮(あさしお)運河中央区臨海部の月島地域と晴海の間に走る運河。ハゼが釣れる事で知られているらしい。こんな所でね月島地域は隅田川河口から中央区豊海町(とよみちょう)、勝ちどき、月島(つきしま)、佃(つくだ)で構成。月島(つきしま)埠頭船が2隻停泊しいる場所。先ほど紹介したウィキペディア情報に寄れば、月島埠頭 延長1351m。となっていたけど桟橋はとっても狭い? 。たまたま停泊していたのは東京海洋大学の海鷹丸(うみたかまる)総トン数(1886t)。全長(93m)。航海速力(17.4ノット)。調査研究及び、乗船実習教育船として太平洋、インド洋、南氷洋等、遠洋航海の実習船となる。月島埠頭の扱いは水産品・窯業品・鉄鋼。築地大橋からすぐの豊海町(とよみちょう)は水産会社の冷蔵倉庫などが建ち並ぶ食品庫のような場所。桟橋の前はマルハニチロの物流倉庫。※ 豊海町(とよみちょう)は丁番を持たない単独町名らしい。次回は、この対岸向かいにある桂離宮に入る汐留川(しおどめがわ)水門と築地川水門を紹介してから築地大橋の下をくぐって隅田川を遡上します。つづくBack number 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年07月02日
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前回に引き続きクルーズ(Cruises)を紹介です。写真はコスタ・ルミノーザ (Costa Luminosa)で行くバルト海クルーズが元になっています。余裕があれば地中海クルーズの写真も対比に載せたかったけど無理でしたクルーズ(Cruises)の寄港地あれこれ(バルト海クルーズ)クルーズ(Cruises)の寄港地オプショナルツアー下船について寄港地でのビザ(サンクトペテルブルク)バルト海(Baltic Sea) オーランド諸島(Aland Island)オーランド諸島(Aland Island)はバルト海(Baltic Sea)のスウェーデンとフィンランドの間ボスニア湾の入口。6500を超える小さな島々が点在する場所です。ここは住人はスウェーデン系が多いにもかかわらず、フィンランドの特別自治領として扱われている特別な場所です。※ フィンランド下の方が自由があるらしい。2009年8月「シリヤライン(バルト海クルーズ) 4 (オーランド諸島・免税) 」の中ですでに紹介していますが、スウェーデンのストックホルムからフィンランドのヘルシンキを結ぶフェリーの重要な通り道(立ち寄り所)となっています。それはオーランド諸島(Aland Island)を通る事により本来できないEUの免税制度が適用されると言う裏技となっているからです。※ 今回のバルト海クルーズではロシアが含まれているのでわざわざ立ち寄らなくても免税の対象に入りますが・・。何となく水は冷たそう。実際北欧だから夏でも寒いし冷たいだろう。バルト海クルーズに限った事ではないが、クルーズの場合、時間は早朝到着に遭わせて入港時間の調整が行われている。前の寄港地での出港時間の調整もしかり、である。早く入りすぎても、現地オプションのツアーが動き出さない事もあるのだろう。フィンランド ヘルシンキ(Helsinki)ヘルシンキ大聖堂と手前がロシア皇帝アレクサンドル2世像寄港地オプショナルツアーでは有名どころのポイントだけ回る。この日のスケジュールでは下船14時乗船17時なので実質3時間の滞在。駆け抜けるようにヘルシンキ(Helsinki)は終わり。下はスウェーデン ストックホルムの港 バスは船主催のオプショナルツアー用の観光バスクルーズ(Cruises)の寄港地オプショナルツアー船が寄港する時、クルーズ会社より、寄港地観光のオプショナルツアーが販売される。※ 正確にはクルーズ(Cruises)会社が代理販売する寄港地オプショナルツアーらしい。ツアー申し込みは船に乗ってからで良い。空いていれば前日でも申し込み可能。但し、船舶会社主催のツアーだとほぼ日本語ガイドは無い。(あっても英語くらい。日本船なら別だが。)そこで日本人のツアーの場合、ツアー会社が独自にオプショナルツアーを設定し、日本語ガイドを付けるのが一般的。(最初からツアー料金に観光が含まれている場合もある。)いずれにせよ、クルーズ会社のオプショナルツアーとは観光プランにも違いがある。下船について下船については、必ずしもオプショナルツアーを買う必要はない。自由に降りて自分で観光に行く事は可能。但し、オプショナルツアーに参加する客が優先されて先に下船。その他の人は後からとなる。コスタ・ルミノーザ (Costa Luminosa)の場合、乗客定員は2826名。全員降りるとは限らないが全員が下船するのにかなりの所用時間が予想される。その混乱を避ける為に下船では、グループに分けられてそれぞれのデッキで待機して順番に降りる事になる。近年はカードの導入で下船、乗船でカードを通す為に、出航の時に皆が乗船しているか確認できるシステムだ。但し、仮に誰か戻っていなくても、船は時間がくれば迷わず出航するので注意だ。乗り遅れた場合は自己責任で次の寄港地に自費で先回りするしかない。世界一周クルーズのコース(一例)上はMSCクルーズのもの2019年1月イタリアのジェノバ港から出発して西周りで5月まで航海して再びジェノバに戻るコース。世界一周と言ってもコースの組み立てはいろいろ。寄港地はまちまち。ショートで68日くらいから長いのは133日くらいに及んでいる。全行程乗るなら決める前に寄港地確認した方がよい。※ 上のコースは冬から春の航海なので南半球を通るコースが多いのだろう。ところで船があちこちの港に寄港する理由は、観光だけが目的ではない。主たる理由は水や食料の調達である。ワールド・クルーズなどの3ヶ月以上にも及ぶロング・タイムの船の場合、寄港地から寄港地までの距離が極めて長い場所もある。特に太平洋横断の場合、日本に寄港してアメリカ大陸を目指すと次はハワイまでノンストップとなる。(日本船なら日本発だろうが、外国船の場合、日本に寄らないクルーズのが多い。)ハワイまでおよそ5日間。他に行きようが無いので到着まで船内で楽しむしか無い。つまり必然的に船は大きくなり、移動が無い事から「ゆったりのんびり」できるクルーズかもしれない。が、日本からハワイの距離だけならともかく、ハワイからアメリカ大陸までの距離もかなりあるので船での生活は確かに飽きて来るかもしれない。(飽きる程乗って見たいものだが・・)そんな理由もあるからだろうか? 最近は世界一周クルーズと銘打っていても細切れの区間販売が多いようだ。ロシア サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)エルミタージュ美術館(Hermitage Museum)と宮殿広場サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)は、1990年にユネスコの世界遺産に登録されている。「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」それはこのエルミタージュ美術館(Hermitage Museum)を含む30を超える建物群が含まれている。この街の見応えはかなりありそうだ。しかし、下船は早朝。夕刻には戻らなければならないので大方はバスで通りすぎポイントだけ入館。エルミタージュ美術館(Hermitage Museum)だけは絶対行かないと・・。そのコレクションはロマノフ朝の女帝(在位:1762年~1796年)エカテリーナ2世(Yekaterina II)の個人コレクションから始まり、そのコレクション収蔵の為の建物が後に美術館になったと言うもの。※ 今は宮殿の方も美術館になっているらしい。正面からの撮影時間はなかったたものと思われる 下は美術館内部血の上の救世主教会 正式名はハリストス復活大聖堂(Собор Воскресения Христова)このロシア正教会の聖堂は1881年ここでテロにより爆死したロシア皇帝アレクサンドル2世を弔って建立さされたもの。ここも世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区」の中に入っている。ロマノフ家の悲劇の象徴であるこの教会は最高の芸術家の手によってできているそうだ。装飾には貴石もたくさん使用され、ローマ系にはない彩りの美しさが凄い 今回の場合、サンクトペテルブルクの入港は7時。出港は19時。ここではロシア領となるので、他のEU国と違って入国手続きが行われる。その分さらに時間がかかるのだ。世界遺産は多いし、本来、一日で観光する所じゃない。サンクトペテルブルク停泊2日のクルーズもあるようだからのんびりしたい人はそう言うコースを選んだ方が良いかも。サンクトペテルブルクの港の出入国の建物出国ゲート(赤は申告ありの人のゲート)寄港地でのビザ(サンクトペテルブルク)一昔前のバルト海クルーズにロシアは入っていなかった。本来ロシア入国には事前にビザが必要。(ビザが許可されない人も希にいる。)なかなか面倒だったのだ。しかし、近年クルーズ船の入港を促す為にクルーズ会社が代理で販売する寄港地オプションを買った場合、サンクトペテルブルクでのロシアビザが免除されるそうだ。ロシアも外貨稼ぎに観光の門戸を開いたのだろう。昔の鉄のカーテン時代には考えられ無かった事だ。オプションを買わない人は、従来通り事前にロシアビザが必要との事。また、寄港地オプションでビザが免除の場合、単独行動はできないようです。サンクトペテルブルクの港の免税店乗船は階段。港により出口の高さが違うようですが、車イスの人はどうするのか? 別の入り口があるのかな?それにしても毎日早朝から下船して終日の観光の場合もあるので、結構忙しい。船を楽しめるのは夕方から夜にかけて。船の食事はレストランの収容人数の関係で、だいたい2回に分けて提供されている。日本人のツアーでは、早寝早起きの日本人のお年寄りなどを考慮して夕食は最初の回に設定されている場合が多いだろう。その後、劇場のショーを見たりして早い人なら眠るのか? 北欧のクルーズは夏でも寒いからプールで泳ぐ人はどれだけいるのか?尚、船では初日に船内説明会と避難訓練があり、同じく下船前日にも荷物排出や精算など下船説明会がある。※ 下船前夜にポーターに預ける荷物は荷造りして廊下に出しておかなくてはならない。それ故、下船前夜はキャリーバックに荷物をまとめる程度の服しか無いのでドレスコードも無いと言うわけだ。さて、今回のような短いクルーズでは、たとえどこに行たとしても、乗り降りが激しく忙しい。観光も寄港地滞在が短く中途半端。本来の楽しみであるゆったりのんびりクルーズ感も少ないかもしれない。では次はもう少し長めに船を楽しむクルーズにするか?そうしてクルーズをあれこれ体験する人が増えて行くのだろう
2017年03月21日
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Break Time(一休み)船舶会社の株主になっているのでクルーズのご優待案内が毎年やってくる。言ってもたかだかお一人様3~6パーセント割引。(条件付きで10~20パーセント割引)。もともとクルーズはバカ高買ったので興味もなかったのだが、最近は近海の3日~4日の安いツアー案内が入っている。リーズナブルなクルーズ船の人気が高まっているのに便乗したのだろう。実はこんな優待案内より配当をどうにかして欲しいのが本音である。リーマンショックの大暴落を受けてから未だに地獄の底から這い上がれないでいる海運市場。要するに売りそびれてそのまま塩漬けにしている株なのだ。かつては配当が良かったのに、昨今は激減して無い時も・・。それでも年2回、この微妙な優待券が届く。以前は世界クルーズの案内も入っていたが・・。確かにクルーズ人気は高まっているけれど、世界景気は悪い。しかも原油安が続いて海運指数であるバルチック海運指数(Baltic Dry Index)はリーマン以降よりも酷い最安値を昨年更新している。景気に連動している海運会社の株価。しかも中国の景気をもろに受けた日本の海運市場は全く行き先見えずの状態だ。ちょっとクルーズが人気だからと言っても海運の株価には何の影響も及ばさないのださて、今回はバルト海クルーズの写真を提供してもらったのでちょこっと船旅の紹介をしますクルーズ(Cruises) ブームの到来コスタ・ルミノーザ (Costa Luminosa)クルーズのランクいろいろカジュアル船とラグシャリー船の違い ドレスコード(dress code)一見デパートのようなビルに見えるが・・。これで10万トン弱の客船である。上の写真はサンクトペテルブルクの港今回提供してもらった写真の船はイタリアのクルーズ会社の客船コスタ・ルミノーザです。ドレスコードのフォーマル度も高くないカジュアルラインの船だそうです。コスタ・クルーズ社(Costa Crociere S.p.A)コスタ・ルミノーザ (Costa Luminosa)2009年5月就航 92,600t 全長294 m 全幅 32.3m総客室1130室 乗客定員 2826名 乗組員 921名上の写真はヘルシンキの港出港時は荷物がなかなか部屋に届かないのでその日の夜はドレスコードが無いそうです。下船前夜も同じく荷物の関係でドレスコードはない。下は会社のホームページ掲載の写真です。コスタ・ルミノーザはもともと地中海やエーゲ海界隈就航の客船。夏場は需用でしょうか? 北のバルト海や北欧は5月から9月までとクルーズ船のシーズンが決まっているのです。ツアーは、飛行機でデンマーク(コペンハーゲン)入り。そこから乗船デンマーク(コペンハーゲン)→ フィンランド(ヘルシンキ)→ ロシア(サンクトペテルブルグ)→ エストニア共和国(タリン)→スウェーデン(ストックホルム)→デンマーク(コペンハーゲン)1週間かけて一巡し、再びデンマーク(コペンハーゲン)に戻り飛行機で帰国すると言うコースです。※ バルト海クルーズは、古いですが、2009年にタリンク・シリヤライン(Talink Silja Line)と言うクルーズ船で紹介していましたが、船が大きくなり、より豪華船が運行しているようです。これもクルーズ人気の影響でしょうか?クルーズのランクいろいろ昔はクルーズと言えば超高級な贅沢旅で、それこそタイタニックのような船でのラグシャリーなクルーズのイメージ。しかし、最近はクルーズも随分様代わり。多種多様になっています。昨今は日本沿岸でのクルーズのラインナップも非常に増えていますが、海外旅行に合わさって人気なのが、バスで観光地を回る代わりに、船で移動するちょこっと船旅のカジュアルツアーです。海外旅行と船と一隻二丁に楽しめるのが良いのでしょう。カジュアル船とラグシャリー船の違い ドレスコード(dress code)簡単に考えれば、船はホテルと一緒。セレブが集う一流ホテルがラグジャリーな船。ディズニーランド界隈の子供も楽しめるホテルがカジュアル船と言った所でしょう。そして、伴って異なってくるのがドレスコード(dress code)の違いです。ドレスコード(dress code)日本語で言えば服装規定の事です。冠婚葬祭の時と同じようなマナーが船の乗船には絶対条件に存在するのです。一流ホテルに行く時はオシャレしますが、ディズニーランドのホテルならショートパンツにTシャツでも許される。でも夕食はどちらにしてもきちんとした服装で行くのが実はマナーです。その違いが、カジュアル船とラグシャリー船では全く違うのです。そもそも日本はそれほどドレスコードのうるさいお店は存在しませんが、まれにレストランで、ディナーならともかくランチでも男性はジャケット着用が義務づけされているお店があります。そんな店には行かない・・と言う人はそれで良いのですが、船ではそうは行かなくなります。どのレストランに行く時も、例えバーでも、夜には夜の装いをして船旅をみんなで楽しむのがマナーだからです。ある意味それが船の醍醐味とも言えます。要するに船は毎夜パーティー会場になるのです。船長主催のカクテルパーティーは航行中に一度はありますし、例えば今晩はみなさん真っ白な服で参加してくださいね。と言うホワイト・ナイト。あるいはハロウィーンならそれらしく仮装して参加してくださいね。と言った船からの指示によるドレスコードもいろいろ存在しているのです。カジュアル船の場合、そもそも服を持っていないから着のみ着のままの人もまれにいるようですが、基本絶対に守らなければならないのがこのドレスコードだと言う事です。そんなの堅苦しい・・と思う方は規定のゆるいカジュアルラインを選べば良いし、常日頃オシャレしなれている方やもっと派手にドレスを着たい方などはラグシャリーなラインを選べば毎夜社交界気分が味わえるわけです。カジュアル船の場合カジュアル船と言っても、船でドレスアップの日がもうけられている場合はインフォーマル(ワンピースやスーツ)などのを着用しなければならない夜もある。(船指定の正装の日)※ カジュアル船の乗客の場合、全く着用しない人もいる。ラグジャリー船ワールド・クルーズなどの3ヶ月にも及ぶロング・タイムのラクジャリーな船旅など。そう言う船はそれ自体がリゾートのようなもの。まさに船を楽しむクルーズなのでしょう。また乗客は全行程乗船せず、途中下船して次の寄港地に飛行機で先回りして観光する人もいる。※ 部屋が空いていれば一部区間を乗る事も可能。(例えば東京とハワイ間。どちらか片道が飛行機。)しかしラクジャリー船の場合はさしずめ動く社交界のようなもの。当然フォーマル(タキシードやイブニングドレス)な服装が要求される。その他にもイベントが多いから毎日服をとっかえひっかえ衣装の持ち込みは大変。(だからこそ船旅に荷物制限はない)カジュアル以上ラクジュアリー以下のミディアムタイプ最近増えた、1~2週間程度で気楽に船を楽しむ事を目的にしたカジュアルでも少し上等なクルーズ。船会社や旅行社が上級の船をチャーターして特定の地域を限定にツアー企画したものなどがこれにあたります。気負わなくても良い程度に自由にオシャレして、夜はインフォーマル(スーツやワンピース)、あるいはフォーマル(タキシードやイブニングドレス)を着てレストランに出かける。ちょっとステータス感ある旅をしたい人向き。※ 但し、ツアーで行く場合食事など団体行動になる場合もあるので注意。ぶっちゃけ自分はきちんとしてもいてもツアーの中にきちんとしない人がいると恥ずかしい・・と言う場合もあるかもね。最近ではクルーズの事前説明会があったりするから参加していろいろ聞くのがお勧め レストランの一つこちらは船提供の写真より大型の船にはレストランも複数ありますが、乗船した最初の段階で使用できるレストランはあらかじめ船側から割り振られて決められている。座席についても最初に座った席でほぼ固定される。毎回同じ人達が周りにいる事になる。ところで、「船では食事も乗船料に含まれているので全て無料。」と言う紹介をよく聞きますが、実際は追加料金を払わないと利用できないレストランも船内にあります。また、部屋へのルームサービスも食事自体が有料になるようです。※ 船内でのチップはまとめて後で徴集されるから毎回払わなくても良い。船内での支払い船内では一切の支払いを下のような乗船カードで行う。乗船すると速やかにクレジットカードの登録が行われ、おそらくどこの船も同じと思われるが、下のようなマイカード(名前入り)が渡され、その登録で全て管理される。要するに船の上で買い物したりするのにも、現金やカードは一切不要なのである。※ 上のカードは今回のコスタルミノーザのカードではありませんが同じ会社のコスタヴィクトリアのもの。船自体のランクもあるけれど、さらに船の中で部屋のランクは存在する。上の階に行く程に値段も当然高くなる。そして部屋は広くなる。海が見えるか? (見えない部屋もある。)テラスが付いているか? 部屋の広さに余裕はあるか?当然お値段は変わってくるのである。下はコスタルミノーザの一部、部屋の間取り図です。ホームページから持ってきました。上の間取りが下です。船に乗るからにはテラス付きのこのくらいの部屋はほしいですね 因みに全ての部屋はツインルームになっています。ツインなのでお一人様で入室する時は、部屋代を倍額支払わなければなりません。下はトイレとシャワー室です。狭いので写真が2枚になっています。ビジネスホテルな感じですね。(あくまで上の写真クラスの部屋の場合です。)基本船の場合、お風呂はほぼ付いていません。シャワーだけがほとんどです。海の上では水が貴重品だからです。が、ハイクラスのお部屋や、ラクジャリー船の場合は部屋により浴槽も付いている場合があるそうです。※ 欧州の場合、ホテルでも浴槽の付いていない部屋は多いです。日本人のようにあまり湯につかる習慣が無いからです。船への荷物の持ち込み量に制限はありません。ただ、船室は案外狭い事。また行き帰りの飛行機で荷物制限があるので、やはり荷物の持ち込みには限りが出るでしょう。さて、どんなツアーに行きたいかは予算と日数次第と言うわけです。※ カジュアルクルーズでも、船室にランクはありますから部屋で贅沢しても良いかも。もしドレスコードで迷う場合は、最初はカジュアルから入って慣れてからグレードを上げたらいいかもしれません。皆がどんな服装で来るか? 日本人ではなく外国の方を見ながら勉強した方がいいかもしれません。船旅好きは船で選ぶ方もいるようです。だから行き先は関係ない。それは電車好きと変わらないかもしれません。ところで、気付いた事があります。のんびりできるのが船旅だと思っていましたが、このバルト海クルーズのようなショートの船旅は、案外忙しいようです。その訳を次回紹介します。
2017年03月15日
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タイトルを変更Break Time(一休み)また起きた飛行機の墜落事故(11月28日コロンビア、メデジンの国際空港手前13kmに墜落)事もあろうに登場していたのはブラジル、サッカー1部リーグ所属シャペコエンセ(Chapecoense)の選手ら乗客68人と乗組員9人(最終的な死者は71人。生存者は6人)。しかも事故の直接の要因は燃料切れと言うから驚きだ。また信じられないのは大量のサッカー選手がこの機に搭乗していた事だ。最近ではサッカーチームの移動はチャーター機が主流になっていたらしいから起こるべくして起きてしまった事故かもしれない。こんな事故の可能生も想定して、大手の企業では何十年も前から同じ機に従業員が複数乗らないよう社内規定を作ったりしている。一度に有能な人材を失わない為の対策だ。当然クラブ側の危機管理も問われるべきだろう。今となっては亡くなった方々の冥福を祈るばかりですが・・ さて、今回は京都はちょっと休憩。実は今、昔のフィルム写真のネガをパソコンに取り込んでデジタル化している最中です。そこでかなり古い写真ですが、珍しいのを見つけたので紹介します 超音速旅客機 コンコルド(Concorde)の残影超音速(supersonic speed)旅客機 コンコルド(Concorde)アームストロングリミット(Armstrong limit)今は知る人も少なくなったと思うが、かつて超音速の旅客機が飛んでいた時代がある。音速で水平飛行が可能な航空機は今や戦闘機くらいしか無い。しかし、1976年から2003年10月まで一般の人も乗れる超音速旅客機が確かに運行されていたのである。※ 主に大西洋上が定期航路。日本にはテストフライトや臨時便で数回来たらしい。超音速(supersonic speed)旅客機 コンコルド(Concorde)超音速(supersonic speed)旅客機とは、文字通り超音速で飛ぶ飛行機の事。つまり音の速さ以上の速度で飛行するものすごく早い飛行機の事である。※ その早さはパリ~ニューヨーク間で通常8時間かかる所を超音速旅客機(コンコルド)では3時間45分。コンコルド(Concorde)はマッハ2( 2200km/ h)と言う早さで飛行する旅客機だった。※ マッハ数は1は航空機やロケットなどの速度。マッハ1は音速と等しい速さで秒速約340m/s、1225km/h。エールフランスのコンコルド(Concorde)資料写真はコンコルド搭乗時に配られた冊子より。飛行高度の比較図図の2段目、通常のジェット機の飛行高度は20000~43000フィート(約6000m~13000m)。一般には33000ft(10000m)を飛行。しかし、コンコルドは成層圏まで達して飛行する。図の1段目、コンコルドは53000~62000フィート(約16000m~19000m)の高度を飛行する。50000ft(16000m)での大気圧は地球上の10分の1。空は紺色でほとんど紫色の宇宙空間に近い。この高度になると気象の影響は無い。アームストロングリミット(Armstrong limit)大気圧が10分の1と言う事は、空気の抵抗は少なくなるかわりに沸点が下がる。自分の体温温度で体の水分が沸騰すると言う気圧ラインがアームストロングリミット(Armstrong limit)である。高度にして60,000~62,000フィート(18000m~19000m)。それはまさにコンコルドの飛行高度なのだが、人間が生きていられなくなる限界高度がアームストロングリミット(Armstrong limit)と言う事になる。戦闘機のパイロットなどは肺気圧傷害を防ぐ為に圧力衣服が必要であるが、コンコルド内部は通常の旅客機と変わらない。むしろ気象の抵抗が一切無いので飛行中の揺れも無く快適なのである。但し、乗っている人間に影響は無いが、音速で飛ぶ為に音波による衝撃波が発生し周囲に影響する。(sonic boom)マッハ2に到達するまでの高度や距離のグラフ330km(27分地点)で高度30000ft(9000m)に達し、速度はマッハ1超え。 440km(35分地点)で高度42700ft(13000m)に達し、速度はマッハ1.7。 1255km(60分地点)で高度50200ft(15300m)に達し、速度はマッハ2.0。 冊子より見た目は戦闘機に近い。でもこれで100人は搭乗できる。コンコルドは、一般の飛行機よりダントツ早かった訳だが、燃費は高いし食うので、給油無しで太平洋の横断はできなかったらしい。(大西洋越が限界)当然その飛行運賃は高くなる。定員100人と言う事もあり料金は通常のファーストクラスの20%増しと言う値段も超高額であった。(それ故、乗れた人は少なかったろう。)当初なりもの入りで世界各国の航空会社からの受注を受けたようだが、時代はオイルショックの影響もあり、格安の大型輸送飛行の時代に突入。割高の航空運賃や結局相次ぐキャンセルが続き、開発国のイギリス(ブリティッシュ・エアウェイズ)とフランス(エールフランス)のみしか運航されなかったと言う経緯があった。※ 1972年には日本へもプロトタイプがテスト飛行。日本航空も当初購入予定からキャンセル。最終的にプロトタイプ以外に16機が製造されただけ。採算ベース(250機)には遠く及ばなかったそうだ。1988年2月のフランス、パリ、シャルルドゴール空港それでも超音速旅客機コンコルドは飛行機好きにはあこがれの対象だったはず。実はコンコルドは日本にこそ来なかったが、1988年にJTBがチャーターしてパリ~ルクソール間をフライトさせた事があった。(内容的にはコンコルド搭乗とエジブト旅行が合体したもの。)今回家族が乗ったその当時写真を少し公開しようと思います。ただ、当時はまだデジタルカメラが一般的でなく、普通のカメラで撮影。それをスキャナーで読み取っての紹介なので解像度がものすごく悪いしフィルムの劣化が難ですが・・。超音速の飛行機は半世紀以上前に完成していて、コンコルド含めて1960年代には各社が商業ベースにのせるべく開発競争をしていたそうだ。その中で開発に成功して実際1970年代にはテストフライト。1976年運行となったのがコンコルドである。因みにコンコルド(Concorde)の名前はローマ神話の協調や調和の女神であるコンコルディア(Concordia)から由来しているそうだ。座席は2席2席で狭い。ワインをサーブするフライトアテンダントの横に速度計がついている。写真ではボケて見えにくくなっていたがマッハ2を超えていた。1988年2月のエジプト、ルクソール国際空港解像度が悪すぎて拡大ができません。戦闘機のような超スーパー飛行機からタラップで降りるなんて・・。チャーターの特別フライトなのでそもそもルクソールへは通常飛ばない。パリ~ルクソールの所要時間は定かで無いが2時間程?食事なども定期便とは内容が異なっていたのでは? と推定。機内食など写真がボケていて全然使えませんでした。尚、搭乗前にパリでは特別ラウンジを使用しています。何より1988年です。いろんなものが古いです。でも、飛行機の速さで言えば、今の時代よりも早く飛んでいた・・と言う事になります。コンコルド搭乗証明書機内で配られたグッズ(レター・セット)一般の人も乗れる超音速の旅客機は1960年代に開発が進み、イギリスとフランス共同開発のコンコルド機だけが商業ベースにのり1976年から定期運行が開始されていた。が、2000年7月に起きたシャルル・ドゴール空港での墜落事故。原因は前に離陸した飛行機の落とし物が運悪くコンコルドの主脚にぶつかりタイヤが破裂。さらにタイヤ片が主翼下面にあたり燃料タンクを破損。直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上、墜落して113人の人的被害(地上の被害者もいた)を出したそうです。(ウィキペディア解説より)2001年には改修されて再運行になったようですが、システムの古さに加え、コストパフォーマンスの悪さ。さらに運が悪い事に2001年9月11日のNYの同時多発テロの影響があり収益性の回復が見込めず2003年4月、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは共に廃止を決定。同年2003年10月24日に最後の営業フライトを終えて超音速旅客機は二度と乗れなくなったのである。ある意味テクノロジーの後退と言える残念な出来事にガッカリしたのを憶えている。超音速旅客機コンコルド(Concorde)は飛行機ファンでなくても乗ってみたかったあこがれの航空機だったと思う。2007年4月 パリ シャルルドゴール空港コンコルドの機体はメモリアルとなって飾られていた。
2016年12月06日
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ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)クレムス(Krems)シュタイナー門(Steiner Tor)中世の定期便(駅馬車)デュルンシュタイン (Durnstein)を後にクレムス(Krems)へ (船で15分もかからない。)見えるのはマウテルナー橋。このあたりはもうクレムス(Krems)。クレムス(Krems)正式名はKrems an der Donau 自治体独自の都市法を持つ憲章都市(Statutarstadt)だそうです。(現在オーストリアにはそうした憲章都市が15あるそうです。)市のエンブレムはシュタイナー門(Steiner Tor)に印されている。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)東の拠点クレムスの街も歴史が古く27000年前の旧石器時代に遡ると言う。995年には記録に表れ、中世ウイーンに並ぶ繁栄があったと言われている。それはクレムスの街がヴァッハウ渓谷 (Wachau)の川下であり、ワインの集積地として栄えたからだそうだ。クレムスで集積されたワインはドナウ川をさらに下りウィーンへと運ばれたのだろう。クレムス(Krems)の船着き場船着き場はちょっとしたターミナルであるが、そこからの交通手段が無い。個人の場合、オーストリア鉄道のクレムスの駅まで15分~20分くらい歩く事を想定した方がよい。(旧市内をめざすなら道は駅から離れる事になる。)船のターミナルにインフォメーションがあり、街の地図をもらう事ができるが地図はわかりずらいのと、街に街の地図や標識がないので、旧市内をめざすと、駅の方角がよけいわからなくなる。列車の時刻が決っているなら、日本で解りやすい地図をダウンロードしていく事をすすめます。駅方面を示す看板が一切無いので駅入り口が非常に見つけにくいのです クレムス(Krems)の旧市街入り口には古い城門が残っている。19世紀まではまだ街を囲む城壁が残っていたらしく、ドナウ川が氾濫した時の防波にも役立っていたようです。現在一部保存されているだけで治水が出来るようになった近年街の壁はほぼ取り壊されたらしい。門は3つ印されていたシュタイナー門(Steiner Tor)、 クレムス門(Kremser Tor) 、 リンツァー門(Linzer Tor) 、確認したのは1つ。シュタイナー門(Steiner Tor)クレムスの唯一の目玉がこの門。現在の門は2005年に再建されたものらしい。最初にできたのがいつなのかは定かでないが、1477年にハンガリー軍に破壊され1480年再建された・・と言うのが古い記録。先ほど紹介したクレムスのエンプレムが出来たのが1453年から1463年頃。いずれにせよ、中世以来クレムスの街に入るメイン・ゲートがここであったのである。この城門からの通りが昔からの街の目抜き通り(オーベレ・ラント通)で、今は観光客や地元の人も利用するショッピング・アーケードになっている。オーベレ・ラント通り(Obere Land st)クレムスは人口20000人以上の都市なので新市街には大手スーパーもある近代的な街ですが、この旧市街にはホテル、パブ、レストラン、お土産やさん。中世の街の縮図が全部詰まっています。写真左は中世以来のホテル・レストランです。店のアイアン・ワークに注目。 駅馬車とラッパと鍵。ここは中世、ホテルであると同時に郵便車の止まる指定宿の1つでした。中世の定期便(駅馬車)2009年7月「馬車と駅馬車」のところで中世の駅馬車のについて1度紹介していますが・・。中世の都市交通の1つとして生まれた駅馬車は街と街の宿を結ぶ定期便です。それに手紙を一緒に運ばせたのが郵便事業であり、郵便車の始まりなのです。手紙をどこかの街に届けてもらいたい時にこの宿に郵便物を預けにきたり、逆に受け取りに来たりと、街の老舗ホテルは初期の郵便局を担っていたのです。そしてその馬車は黄色であった。駅馬車の車掌は停泊所に近づくとラッパを鳴らして人々にその到着を知らせました。それがルーツとなり、欧州では郵便ポストが黄色であり、ラッパのロゴが残っているのです。Goglhaus・・1500年前後に建設された中世の家。オーストリア連邦鉄道(OBB) クレムス(Krems)駅クレムスを出発してからはしばらくブドウ畑が延々と続いていました ヴァッハウ渓谷 (Wachau) おわりBack numberリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオンリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船) リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2015年01月31日
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人質事件残念です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)第三次十字軍(Third Crusade)デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世リチャード1世の像(ロンドン)現在の国会議事堂であるウエストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の上院側、Old Palace Yardに像はあります。リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)イングランド王(在位:1189年~1199年)父は、プランタジネット朝初代国王のヘンリー2世(Henry II)で彼はその3男として誕生。以前テンプル教会を紹介した時に中世の騎士の事を書きましたが・・。2013年9月「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」そんな騎士道華やか成りし頃のイングランドでリチャード1世は誕生。当時の慣習により(イングランドは全ての家督を継げるのは長子に限る)家から外れ、騎士としての訓練を受けたのだと推察。騎士は彼にとって最高の生き方だったのかもしれません。長兄が亡くなりイングランド王位が彼に回ってきても、彼は自ら戦闘に出る事を辞めなかった。在位していた10年で国にいたのはわずか6か月とか・・。彼は常に先陣を切る騎士王だったようです。以前テンプル教会で紹介した英雄的騎士、ウィリアム・マーシャルは、プランタジネット朝のヘンリー2世、若ヘンリー王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として重要(ちょうよう)された騎士であり政治家です。彼はリチャード1世の時は遠征中の王に代り本国イングランドで政務を担っていた人ですが、彼は「王たる物が浅はかに敵を追うな。そう言う事は部下にさせろ」と言う旨の苦言を提したと伝えられています。それでも彼は聞く耳持たず、第三次十字軍では一人奮闘してサラディンと戦い、そのサラディンから「彼は本物の騎士だ」と賞賛されるほど・・。ウィリアム・マーシャルが心配した通り、彼の最後はフランス領のアキテーヌ公領シャリュでの戦いにおいて受けた矢の傷が元で戦死。若干42歳でした 街の裏手、デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)矢印が城跡。途中ブドウ畑を通過。この当たりまでは道も整備されてましたが、城跡まで上る道は結構険しい。一応案内では20分でしたが、体力落ちている私はもうちょっとかかりました とにかく足場が悪い。雨の後だったら滑って危険です。眼下に見えるのは川上、メルク方面。第三次十字軍(Third Crusade)(1189年~1192年)1187年、サラディンの元で再びイスラムの手に落ちたエルサレムを奪還する為に教皇グレゴリウス3世の要請で立ち上がったのが、神聖ローマ、フランス、イングランドでした。1189年、先発で進軍したのが神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世。しかし途中急死。1国で派遣した十字軍部隊としては最大規模だっそうですが、1190年キリキアのセレウキアの街。サレフ川で溺死してしまいます。(現在のトルコ。シリフケの街はずれ現在のGoksu川。)※ 皇帝亡き後、臣下の多くは帰国。ドイツ隊としては少人数が統率者の定まらぬまま残った程度。1190年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)は7月それぞれ出立してシチリアで合流。(父王以来土地の問題で戦争関係にあったが、リチャードとフィリップはこの時点では仲良しだった。)1191年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)、それに神聖ローマの残った兵隊でアッコンを陥落。(イングランドの艦隊の海上封鎖による兵糧攻めが勝因。)リチャード幽閉事件の要因は、このアッコン陥落の時に起きた些細な出来事。神聖ローマの残った兵隊の司令官であったオーストリア公レオポルト5世はフランスとイングランドに並べて図々しくも自身の旗を掲げ、それをリチャード側により撤去された。その後怒ったオーストリア公レオポルト5世は帰国。残ったフィリップ2世もその後意見の衝突が多くなり帰国。残されたリチャード1世は一人で軍隊率いてサラディンと戦闘を繰り返す事になった。しかし二人の間には何かしら信頼関係が出来たのだろう。1192年、サラディンとの間で休戦協定が締結。エルサレムの奪還こそできなかったけれど再びキリスト教徒のエルサレム巡礼が再開。これをローマ教皇は高く評価した。デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)ファースト・ステージからセカンド・ステージ入り口城は大きく3つのステージに・・。現在ファーストには何もない。デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世第三次十字軍(Third Crusade)はイングランド王リチャード1世の功績により終結。ところが、エルサレムからの帰国途中にリチャード1世は捕らえられ(1192年12月)、デュルンシュタイン (Durnstein)で幽閉された。捕らえたのはアッコンの一件でリチャード1世に恨みを持つレオポルト5世。(英雄を捕らえたのですから、後にレオポルド5世は教皇より破門。)1194年2月神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身代金を払い解放されるまでリチャード1世はデュルンシュタインの城に閉じ込められていた・・と言う訳です。デュルンシュタインがクーリンガー(Kuenringer)家の領地として歴史に出て来るのは1158年。もともとはメルクと同じく要塞が起源で、クーリンガーはオーストリアの高官。写真からは解りにくいですが、日差しが強すぎて真っ黒に焼けました。日焼け止め必要です。サード・ステージから撮影。絶景。絶景。風が凄いです。次回でヴァッハウ渓谷終わり。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2015年01月25日
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ヴァッハウ渓谷、今回はデュルンシュタイン (Durnstein)です。私の中の目玉でした ここは小さな中世の街がそのまま残ったところです。中世ながらの造りの家が現役でリフォームされて今に使われている。しかも景観を残す為に幹線道路や鉄道は街の地下を走っている。日本のように電線が見えている事も無い。綺麗目な中世の街はとても居心地の良い所でした。滞在時間は次の船まで。ランチをして山の城跡までリチャード1世を探しに行ってきました それにしても、資料が少なすぎて建物の正式な名前など調べるのに苦労しました。調べていると時間が早くたつ。夜の方がはかどるのでもっぱら夜の作業なのですが、最近0時過ぎると眠くて仕方がない。無理したくても眠気の誘惑に負けてしまう昨今です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)デュルンシュタイン (Durnstein)の街吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)中世の大イベント、十字軍の遠征については、以前紹介していますが(2013年8月)、今回紹介するデュルンシュタイン (Durnstein)は第3次十字軍(1189年~1192年)の功労者、イングランド王のリチャード1世(Richard I)が幽閉された場所として歴史に残っている有名な街です。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)最大の観光スポットデュルンシュタイン (Durnstein)の街街の象徴とも言える水色の塔はデュルンシュタイン・ドナウ教会(Kirche in Dürnstein Donau)教会左隣は参事館(Chorherrenstift) 左に見切れているのが5つ星のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)デュルンシュタイン (Durnstein)は街を取り囲むように石の壁が築かれた城塞都市です。赤とオレンジで城壁の部分を塗り分けてみました。デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)は見切れている上方にあります。A・・デュルンシュタイン・ドナウ教会(Kirche in Dürnstein Donau)と参事館(Chorherrenstift)B・・宿・サンガー・ブロンデル(Gasthof Sanger Blondel)C・・前クレア修道院(ehem. Klarissinnenkloster)で現在はホテル・レストラン リチャード獅子心王(Hotel Richard Lionheart)D・・古城(ehem. Schloss)のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)参事館(Chorherrenstift)の下に船着き場があるのですが、そのまま真っ直ぐには街には入れません。街に入るルートをピンクで示してみました。城壁の下のトンネル城内から見たゲートたまたま居合わせたデュルンシュタイン・ドナウ教会で式を挙げたばかりの新郎新婦。大人のカップルですねメインストリートに繋がるゲートの方メインストリートのハウプト通り(Hauptstrabe)ラートハウス(Rathaus) 旧市庁舎? 現在はペンションのようです。古城(ehem. Schloss)のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)ロケーションもNo1ホテル・シュロス・デュルンシュタインからのヴァッハウ渓谷 (Wachau)の眺めホテル・シュロス・デュルンシュタインから先は岩山に張り付くように建つ教会や邸宅が並ぶ。街を囲む城壁と岩山に溶け込むかのようにはまっている建物。吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)最初に、ここは第3次十字軍(1189年~1192年)の功労者、イングランド王のリチャード1世(Richard I)が不本意にも、幽閉された街・・と書きましたが、リチャード1世はデュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)に幽閉されていたとされています。なぜ幽閉されたかについては、次回説明しますがBlondelsageと呼ばれる逸話があり、それによればリチャード1世の家臣で、吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)の歌声が彼の場所を突き止めて、救出にいたった・・とされる話です。その為に功労者プロンデルは英雄となっています。前クレア修道院(ehem. Klarissinnenkloster)入り口現在はホテル・レストラン リチャード獅子王(Hotel Richard Lionheart)そして中庭右に同じく宿・サンガー・ブロンデル(Gasthof Sanger Blondel)が同居しています。しかし、実際はBlondelsageはイングランド側による作り話かもしれません。なぜなら、実際リチャード1世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身代金を払って解放されているのです。そして、実際山の上のデュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)はかなり遠く、風も強い。とうてい下から声が届く場所ではなかったのです。仮に下の方に小屋があったとしたら可能かもしれないが、1000年近く前の話である。建物など今は存在していないので検証もできない。天下のリチャード1世が身代金で解放ではみっともないから後世そんな話が作られ吟遊詩人が歌い続け、さもそれが事実のようになったのかもしれない。・・と思うわけですデュルンシュタイン (Durnstein) つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)
2015年01月18日
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せっかく写真があるので、クルーズしている感が出るようたくさん写真載せる事にしました。今回は中盤のシュピッツ(Spitz)界隈とのヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)航行を紹介します。この当たりは両岸日当たりよく、ワイン用の葡萄畑が一面です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)ヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)ドナウ川クルーズ・シュピッツ(Spitz)ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)仲間同士で、優雅に食事を楽しんだり、パーティーをするなどのイベント船(Donau Wachau Brandner)や自転車を積んで、サイクリングしながらクルーズする船(MS Theodor Körner Boat & Bike Danube)など夏場にはいろいろな船が運航しています。特にサイクリング船はドナウ川だけでなく、オランダ、ベルギー、フランドル、ドイツクロアチアなどバルト海域など様々な場所でクルーズをするアクティブな人向けの船でちょっと面白そうです 自動車まで乗っかる渡し船世界遺産に認定されているので橋が架けられないようです。世界遺産に認定された後に地元住人が勝手に橋を架けて認定取りやめになった所が確かドイツにありましたが、地元の住民の利便か世界遺産認定か・・難しいですねヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)ところで葡萄畑が広がるこの河岸で1908年にオーストリア最古と言われる旧石器時代(紀元前24000年頃)の土偶ならぬ石偶が見つかっています。わずか11.1cmの石灰岩を彫り込んで作られた豊満な女性の立像はおそらく五穀豊穣や多産の象徴的なお守りだったのではないか? あるいは不妊の神様? と考えられヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)と呼ばれるようになったそうです。立像は現在ウィーン自然史博物館に所蔵されていると言う事ですが、写真を撮ってきていないのでウィキペティアの無料メディアリポジトリより借りてきました。日本の土偶は出産で亡くなった女性への弔いの要素が強かったと思いますが、こちらは見た感じ、五穀豊穣でミルクが沢山出て子供が良く育ちますように・・と言う身重の女性のありがたいお守り神様のような気がします。 (^人^)パンパン 人(-_- )一礼 謎は顔が無い点だとか・・。何にしてもやはり川辺の日照の良いこの土地には古来より人が住んでいたと言う事です。それは同時に昔から陣取り合戦で、敵が攻めてくる土地だった・・とも考えられます。そしてローマ帝国時代にはドナウ川の源流から河口までのほぼ全域が帝国の北方の防衛線であったと言われ、今もあちこち当時の名残の城塞跡が点在しています。ヒンターハウス(Hinterhaus)城跡ヒンターハウス(Hinterhaus)城跡より川下がシュピッツ(Spitz)の町です。シュピッツ(Spitz)の桟橋に着岸する時は方向転換して川上が船首に・・。シュピッツ(Spitz)の桟橋シュピッツ(Spitz)の1000Eimer-Berg1000Eimer-Berg・・・「1000アイマーのワインが収穫できた山」の意1Eimerは56.5リットル 昔使われたワインを量る単位だそうです。標高の低いとこにはグリューナー・フェルトリーナー種高い所にはリースリング種が植えられているとか・・。また町のもう一つの特産品がアプリコットらしい。時間が無かったのでここでは船を降りませんでした。船は1日2便しかないので1度降りて次の船に乗るには下船できるのは1箇所のみ。他の手段はバスで次の町に出るしかない。ヴァイセンキルヒェン聖ミカエル教会(Weissenkirchen St Michael)ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)城塞跡の城塞教会と言う変わった経歴の教会。1500年~1523年に建立されたという城塞。塔は1531年にオスマン軍の侵略から守る為に立てられたとか・・。ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)の町ヴァイセンキルヒェンは白ワインのぶどう品種であるリースリング(Riesling)の発祥の地と言われている。つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)
2015年01月10日
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新年おめでとうございます。m(_ _)m♪☆ヾ(*∩_∩)∠※☆ノ+。:.゚.:。+ 本年もよろしくお願いします゚+。:.゚.:。+゚♪新年迎えて6日。関東では7日には早くも松飾りの撤去です。歳神様を迎える(松の内)の松飾りは今でも地方では、小正月(1月15日)までの所が多いようですが、関東では大正月(1月7日)までで撤去です。それは寛文2年(1662年)に江戸幕府により出された江戸城下の通達以来徐々に広まったそうです。正月の短縮の意味は今一つよくわかりませんが、この時に松飾りの炊きあげをしていた火祭りも江戸では禁止されています。理由は炊きあげによる火災を恐れての通達だったようです。何しろ明暦3年(1657年)には江戸城下の大火事(明暦の大火)が起こっていますし、元号変って万治4年(1661年)には内裏の火災が発生。縁起が悪いので元号を変えた寛文2年(1662年)にこの通達が出されています。江戸幕府は冬の関東の乾燥と火の気を何より心配した・・と言う結果が今に継承されているのですから歴史は面白いですね ところで、明暦の大火は、振り袖火事とも言われ、供養の振り袖の炊きあげにより起こった・・とされる火事ですが、現在の見解では老中の屋敷からの出火と言うのが真相だったとされています。さて、ヴァッハウ渓谷のクルーズ写真が結構たくさんあり、選ぶのにわけがわからなくなっています 本来4回程度で終わらせる予定でしたがすでに5回目。もう少し長くなりそうです ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)ドナウ川クルーズ船メルク修道院(Stift Melk)のテラス眼下にメルク川があり、そこから1社、橋を渡ってドナウ川岸に数社の船乗り場があります。そこからヴァッハウ渓谷 (Wachau)のクルーズ船が出発しています。GGSG Blue Danubeの観光船MS Wachauはメルク発。(1日2本運行)こちらは遊覧船で宿泊船ではありません。いずれにせよヴァッハウ渓谷 (Wachau)のクルーズは冬はやっていないようです。地図の下方Melkよりスタートそこからヴァッハウ渓谷 (Wachau)自体は36km程の距離。渓谷にはかつての要塞や古城、修道院が点在。2000年にユネスコ世界文化遺産に登録。メルク修道院(Stift Melk)を後方に見て出発ドナウ川に合流日差しが強い7月の上旬。サングラスも必要。写真下、左が支流のメルク川すぐ対岸にはEmmersdorfの船着き場。ドナウ川はかなりの大河。なかなか気持ちの良い航行です。そんなに揺れませんが、風は強く帽子は飛んでしまいます。そしてかなり日に焼けるので日傘が必要ですが、それも風で押さえるのが大変でした。キャビンに入れば日焼けは免れますが、良い写真を撮りたいならデッキにいるしかありません かつては、オスマン帝国の兵や物資を運ぶ輸送路となり、十字軍の遠征にも利用されたこの航路は川下は黒海に至れる河川であり地中海に臨める経済航路です。しかし、上流は、現在でこそライン・マイン・ドナウ運河(Rhine-Main-Danube Canal)により北海にも繋がっていますが、昔は途中陸路を移動してライン川やマイン川に連絡しなければならなかったようです。これら河川をつなぐ構想は8世紀からあったようですが、標高差が異なる為に最終的に完成したのはつい近年(1992年)だそうです。シェーンビューエル城とシェーン・ビューエル修道院1844年にバイエルン王妃エリザベート(シシィ)が訪問してバルコニーから手を振った・・とか・・。航行の難所と言われるこのあたり。結構多くの船と行き交いました。夏だけ運行している船旅用の客船A-Rosa Bella 全長124.5mこちらはブタペストからウイーンを通り、ヴァッハウに至る船舶で、船の中はかなり豪華みたいです。それにしても船の絵柄のセンスが・・(* v v)。こちらも船旅用客船Prinzessin Katharina 全長110mこちらもブタペストからウイーンを通り、ヴァッハウに至る客船です。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)はオーストリア最大のワインの産地でもあります。両岸にはブドウ畑がたくさん見られます。何よりこれだけ夏の日射が強いのですから、かなり糖度の高い良いブドウが育つでしょうね。カメラ3台で撮影しているのでカメラによりかなり色調が違ってきています。特に日差しが強すぎて色が飛んでいるか、青く出過ぎるか。・・で、多少色調調整をおこなっています。それにデジカメのモニターが反射して何も見えません。天気が良すぎるのも難しいです。クルーズ写真次回も続くリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)
2015年01月05日
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長らくお待たせしました ぺこ <(_ _)>連休前にストップしていたプルージュの続きです。ブルージュ(Brugge) 9 (Dijver)ダイフェル(Dijver)聖ヨハネス・ネポムク(Sanctus Joannes Nepomucenus)運河クルーズ運河観光の名所、ローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)の埠頭から運河に併走する通り、ダイフェル(Dijver)運河通りからです。運河観光の船からの目線と共に紹介します しばらく開いてしまったので再び地図を載せておきます。Aは前回紹介したローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)の埠頭。ダイフェル(Dijver)はBの場所です。BとCのつなぎ目まで紹介。ローゼンダッカイから最初の橋(名前は不明)マルクト広場につながる通りの名前はウォレス通り(Wollestraart)橋の上には聖ヨハネス・ネポムク(Sanctus Joannes Nepomucenus)の像聖ヨハネス・ネポムク(Sanctus Joannes Nepomucenus)ボヘミア出身で1387年、プラハの司教の教区牧師だった彼はおそらくボヘミア王との間にトラブル(王妃の告解の秘密を守った)があり、拷問の後、川に落とされ溺死して殉教した。謙虚で信心深い彼は教会関係者からも市民からも愛されていたようで教皇ベネディクト13世によって1729年に聖人に認定。現在プラハの聖ヴィート大聖堂に埋葬されていて、ボヘミアの守護聖人であると同時に、水の脅威や橋、船員の守護聖人。告解に関係する守護聖人。それになぜか製粉業者の守護聖人になっている。川や橋の近くに多く彼の像が置かれているらしい。持ち物に十字架、頭には5つの星がついた輪が聖ヨハネス・ネポムクの印である。右側ボート乗り場の場はホテル・ドゥ・オランジェリー(Hotel de Orangerie)客室は20室。4つ星がついているようです。ダイフェル通りから見える塔は聖母教会この通りの左側表はお土産屋やレストラン、ホテルが連なる。聖母教会までの道には時期には蚤の市がでるそうだ。ダイフェル運河岸の蚤の市毎年春から秋、3/15~11/15の土・日曜 10:00~18:00ダイフェル運河岸で開催れているそうだが、行った時は曜日でなかったので残念 ダイフェルの通りがここから少し広がる。ちようどこのあたりにグルーニング美術館(Groeningemuseum)の入り口(左手)がある。地図のBとCのつなぎ目がここ。運河はこれから通りの下をくぐり、建物の下を通過。船は一隻しか通過出来ないので順番待ちの渋滞ができるのだ。建物はブランギン美術館アーレンツハイス(Brangyn Museum Arentshuis)細密画のコレクションがとても面白い美術館であり、裏庭から聖母教会が撮影できる。ダイフェル通りはここからグルートフーズ通り(Gruuthusestr)に名前を変える。運河クルーズローゼンダッカイの埠頭を出たクルーズ船は、市役所裏の古文書館裏を通り、北上してスピーガル運河へ。ヤン・ファン・アイク像を見てからUターンして一度スタート位置に戻る。今度は反対にダイフェル方面に南下。聖母マリア教会の隣のグルートフーズ家裏手を抜けベギン会修道院方面へ。修道院入り口の愛の湖まで出たら再びUターンして元へ戻る、という約40分のコースである。値段はだいたい7.6ユーロくらい。(乗船場所にもよる)3月1日~11月15日まで運行。あまりひどくなれば雨天中止。橋の上からダイフェル方面を撮影。グルーニング美術館(Groeningemuseum)入り口ここは門。美術館はこのずっと先にある。グルーニング美術館(Groeningemuseum)15~20世紀のオランダ、ベルギーの画家、初期フランドル派の絵画が展示されている。ヤン・ファン・エイク、メムリンク、ヒエロニムス・ボスなどの作品が展示されているが、作品数はそんなに多くはない。1時間もしないで見終わってしまう。ところで、ここにはヒエロニムス・ボスの「三連祭壇画」と「最後の審判」の絵がありました。前に「ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス」でボスの奇っ怪な絵画を紹介しましたが、ここもいつか紹介したいです。(今は時間がありません)リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス運河のトンネルがちょうど道路の盛り上がっている下にある。その下ダイフェル通りと民家の真下をくぐり抜けると右がグルートフーズ家(Gruuthuse)の屋敷。今はグルートフーズ博物館(Gruuthuse Museum)となって内部公開されている。聖母教会に隣接したこの屋敷には特別な部屋があり、聖母教会に行かなくても礼拝できる窓があいている。聖母教会につづくリンク ブルージュ(Brugge) 10 (聖母教会周辺から)
2014年05月19日
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写真が多すぎて100分の1くらいまで選定するのに何日も要してしまいました 疲れた (`@_@'') 目が・・・。さて、今回は運河観光の名所、ローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)の埠頭とダイフェル(Dijver)の運河通りを紹介。運河の街、ブルージュの顔・・とも言える場所です。だから写真も多めにしました (全2回くらいになりそうです。)ブルージュ(Brugge) 8 (Rozenhoedkaai)ローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)ダイフェル(Dijver)ブルージュの熊 伝説「8世紀後半~11世紀、フランク王国の北部地方は、今度はノルマン人の南下で揺れていた・・。」と、最初の方でベルギーの歴史に触れましたが・・。そもそも、もっと歴史を遡ればローマ帝国時代からヨーロッパ中北部はすでにインド・ヨーロッパ語族のケルト人達が広く入植していた土地でした。その後フランク王国の誕生により彼らはキリスト教に改宗して土地に残った者もいたし、土地を追われアイルランドやイングランド、フランスへと渡った者達もいた。そんな経緯もあり、北海沿岸地帯には、ケルト人達の遺跡や霊場が結構あちこち残されているようです。例えば、以前紹介したモン・サン・ミッシェルの岩山もそうでしたし、今回のブルージュのダイフェル(Dijver)もかつてはケルトの神聖なる場所で、ドルイド達の祈りの場所であったようです。(もっとも現在そのような遺跡はみあたりませんが・・。)まずは現在の運河の地図から中心の黄色の円の部分が今回紹介するダイフェル(Dijver)と言う場所。見て解る卵形の円内が旧市街。かつては円周の運河に沿って壁が張り巡らされていた。下の地図がダイフェル(Dijver)を中心にした運河と道路の地図。(部分)(ブルージュのインフォメーションで購入した冊子より)ざっくり分けるとこのようなブロックにA・・ローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)B・・ダイフェル(Dijver)C・・グルートフーズ通り(Gruuthusestraat)・・聖母教会とグルートフーズ家の屋敷がある。ローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)前にレストラン「デュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)」でも紹介した運河の埠頭あたりがそう呼ばれています。(市のインフォメーションにも名前がしるされているので間違いないでしょう。ここを含めてダイフェル(Dijver)と紹介している本もあります。また日本語訳の時にローゼンフートとしているのもあります。私は今回、ローゼンダッカイと読む方を支持しましたが、「何と読むのか? 」「本当にそう呼ぶのか?」と言う疑問を解消する為に必ず現地の文字を合わせて載せるようにしています。RozenhoedkaaiとはRozen(ロザリオ)、かつてロザリオ販売の屋台がこのあたりにたくさん並んでいたからつけられた呼称のようです。もしかしたらジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach)の小説「死都ブルージュ(Bruges la Morte) (1892年)以降からポピュラーになったのかもしれません。せっかくなので運河クルーズの目線と合わせて写真を紹介していきます。広角に撮影した写真はこれ(雨)しか無かったので・・。左に見える橋までがRozenhoedkaai。それにしても日程全体、雨が降ったり止んだりで、あまり晴れ間が無かったのが残念でした。普通のカメラで全景は入らない写真ボート乗り場の建物の右奧がHuidenvetterspleinのスクエア夕刻の写真一番綺麗に撮れたのは夕刻のこの角度。これより左は西日で逆光になる。さて、運河クルーズの目線で正面に見えているのがマルクト広場の鐘楼(Belfort)前にも紹介したが、かつてはまっすく運河が直進していてマルクト広場まで船が横付けされていたようだ。運河クルーズ運河観光の船はこのあたり含めて5カ所くらいから出ているが、どこから乗ってもほぼ同じルートを航行する事になる。所用時間は40分。写真白い建物(デュック・ドゥ・ブルゴーニュ Duc de Bourgogne)の角を右折し、古文書館の裏を通りヤン・ファン・アイクの像まで行ってUターン。戻ってこの前を再び通り過ぎ、ダイフェル(Dijver)を南下して聖母教会の横を通り過ぎ、ベギン会修道院の前の愛の泉で再びUターンして帰路となる。やはりブルージュに来たなら一度は乗っておきたい。雨でもね・・デュック・ドゥ・ブルゴーニュ (Duc de Bourgogne)から撮影みなさんが記念撮影する場所。運河側から見たRozenhoedkaaiの縁である。かつてロザリオの屋台がたくさん出ていたと言う通り。たぶん先に見える聖母教会に詣でる人や、ブルージュ土産に購入する観光客が増えたからかもしれない。後に予定していますが、聖母教会にはミケランジェロ作の聖母子像があり。それも観光の目玉なのである。観光馬車も市内を走り回る。次回は橋から先、ダイフェル(Dijver)です。ところで、以前(ブルグ広場 1)のところ、「旧古文書館の扉の上の紋章」を紹介。その時紋章の中、「熊が解らない」と書きましたが、理由が解りました。ブルージュの熊 伝説「初代フランドル伯ボードゥアン1世(Baudouin I)(生年不詳~879年)によって建てられた城塞が街の起源」と言う事は何度が紹介していましたが、そのボードゥアン1世がこのブルージュの地に降り立ち、最初に出会った生き物が熊だった・・と言う伝承によりブルージュの紋章に熊が採択されているのだそうです。昔は熊が生息する場所だったのでしょうかね?次回はローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)の埠頭から運河のコースに沿って続ます。リンク ブルージュ(Brugge) 9 (Dijver)
2014年04月21日
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先週末に帰国しました 戻ってからは時差ボケのせいか? 突然暖かくなったせいか? 眠くてだるくて2~3日は何もやる気がなく、ゴロゴロしてました (_△_;) あちらで更新したかったのですが、最後のホテルはネットが極めて遅すぎて全くつながらない状態で断念しました。実は簡単なのはフェィスブックの方でつぶやいていたのですが、それも全く開けないネット環境の悪さでした。最後のホテルはハーグの高級ホテルだったのにラクジャリー過ぎて最新にはついていけてなかったようです。やはり伝統より革新的なホテルのが良かったかもね。ホテルはそのうち紹介します。さて、今回はとりあえず軽く機内食の紹介です。まだ疲れて何から載せるか考えがまとまらないので (;^_^AKLMの機内食 (東京からのビジネス便)Tokyo(Narita)~AMS(Schiphol Airport)AMS(Schiphol Airport)~LHR(London Heathrow Airport)今回の旅行はベルギーがメインでしたが、KLMオランダ航空で行って来ました。マイレージに足してビジネスに乗ったので機内食はビジネス仕様です。ビジネスなんて贅沢な・・と思われるでしょうが、荷物をたくさん持てるからいろいろ便利なのです。お土産たくさん持って帰れるし・・。とは言え今回は列車の移動も多かったので荷物はなるべく自分で持てる範囲で収めました。下着は着たら捨ててくるか、洗濯して着回しです。想定外に寒く(オランダはダウン着てました)、例年にない寒い春になったそうですが、とにかく悲劇的に毎日雨で日程の9割が雨だったかもしれない Tokyo(Narita)~Ams(Schiphol Airport)ディナー(洋食)・・前菜黒いのはトリュフ。ディナー(洋食)・・メイン・・チキンの包み焼きメニューを無くしてしまったので内容がわからなくなってしまいましたディナー(和食)・・前菜パンは付く。なぜ漬け物にらっきょうが入るのかわからない。和食人気で一人は洋食に変えられたが、外国の飛行機の時は洋食の方が正解かも・・。ディナー(和食)・・メイン・・カニ入りクロケットご飯は外側がパサパサで硬くてひどかった。カニ入りクロケットはカニクリームコロッケを期待していたが、よくわからないものだった。実はKLMの日本発着の和食はホテル・オークラ・アムステルダム「山里」レストランのシェフ富川正則氏のプロデュースになっている。ところがどっこい・・たぶん調理しているケイタリング会社がレシピ通りに作っているのかもしれないが調味料が違う。特に和食は微妙な味加減が必要。それが無いから何となく微妙な味。日本発はまだしも帰りの便はひどかった。特に帰りの便はトラブルで日本人が一人もいなかったからサーブもメチャクチャ。前菜の後に味噌汁が出て。それから15分何も来ず、メインが来る前に居眠りしてしまったし、メインも煮詰まり過ぎて野菜は溶け、肉は味が濃くなりまずかった。せっかくの良いレシピも最後のサーブで大失敗になるのだなーと驚いた。余談だが、日本人スタッフがいないと機内アナウンスは日本語がない。何かあった時には、英語もわからないと逃げていいのかもわからないだろう。カトラリーは結構ステキ。でも、ナイフもフォークもかなり鋭利で、いいのか? 危険なのでは? と思った。因みにマットは黒。塩胡椒入れも凝っている。マルセル・ワンダース(Marcel Wanders)のデザインしたテーブルウェアだとか。知らなかったが、デザイン界のスターなのだそうだ。若くてイケメン。いつも真珠のネックレスをしているらしい。食後のデザート(和洋共)デザートは3つくらい選べる。下のはババロアのようなもの。フルーツは全て串刺し。ベルギーやオランダで思ったのだが、串刺しが好きなようで、イチゴも串刺しで売っていた。まるで団子のように食後のコーヒーもちろん紅茶でも良いしグリーン茶ももらえる。チョコレートは2~3個選べる。到着前の軽食・・・二種類あり、サンドイッチ? とカレー上はカレーライスAMSのスキポール空港には15時頃到着。それからロンドン行きに乗り換えて再び機内食。AMS(Schiphol Airport)~LHR(London Heathrow Airport)こちらは搭乗が1時間程度だから大忙しで弁当箱に入ったものがサーブ。ビジネスの軽食生ハムとパスタ。イタリアン・テイストでした。ブルーの木靴の形をしたものは塩胡椒入れ。以前乗ったエールフランスのビジネスも生ハムだったなー。デザートは右に見切れているカップに入っていました。せっかくなので塩胡椒入れも撮りました。オシャレ。歴代の中でオシャレ度はナンバーワンかも・・。これもマルセル・ワンダース(Marcel Wanders)のデザインなのだろうか?お酒は飲み放題だけど機内はアルコールの回りが激しいから残念だけど全て控えました 帰りの便の食事も撮影していますが、とりあえず行きの分は終わり。次はロンドンから・・の予定 (゚∇^*)ノ⌒☆
2013年05月29日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました。Break Time (一休み)ザンベジ川(Zambezi River)の渡しカルー氷河期(Karoo Ice Age)と進化さて、ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls)直前の広いザンベジ川の渡し船を紹介。ザンビアからボツワナ行きの渡しです。ザンベジ川(Zambezi River)の渡し以前ザンベジ川には橋が少なく日本のODAでカズングラ(Kazungula)橋建設の計画がある旨を書きましたが、橋ができるのはそれなりの場所。目の前を渡るのが合理的なのは間違いありません。ザンビア側の岸を出発本当に護岸のないただの川縁。一応出国手続きをしてからの乗船です。ザンビアからボツワナに船で国境を渡る? このボートで?ザンベジ川の真ん中を国境が通っているのです。ところでアレは?何か工事をしているのか? と思いきやこれも船だった。凄い。大型トレーラーも乗るのね筏(いかだ)? これでも一応カー・フェリーに入るのかな?これは少し小型の一般車両用フェリー?沈みかけて見えますが・・。アバウトなのかな?地元の人? これが現地の人御用達の一般フェリーのようです。日本のフェリーのような安全性とかそんなのは無いようですね。要するに向こう岸に渡れればいい。やっぱりこれは「渡し船」と言う形容が一番しっくり来る。おお、こちらも護岸が無い。(ボツワナ側)まるで工事現場のように大型のトレーラーがいるのは渡しの順番を待っているからのようです。それにしても本当に何もない所に乗り上げる。上陸して少し走ると出入国管理事務所(Immigration)があります。この停滞は経済に痛い。是非、早く橋をたくさん作ってあげてほしいものです。カルー氷河期(Karoo Ice Age)と進化ところで前々回紹介した洪水玄武岩によるカルー氷河期(Karoo Ice Age)の発生ですが、カルー氷河時代は酸素濃度が高く、生物が巨大化、そして飛行の進化をも促したと言い実に興味深い進化の時代なのです。悩(なや)めるサル環境を守ろうとする人間が多い昨今ですが、進化の観点から見れば、それは同じ形(DNA)を守ろうとする人間の傲り(おごり)ではないかと思うのです。本来は移り変わる環境に合わせて進化が行われる・・と言うプロセスの方が地球的には正しい。実際地球の変遷は環境の激変による進化によってなされてきているのだから環境をそのまま維持する事は歴史に反する。霊長類の進化の歴史はたった8500万年前ぽっち。45億年と言う地球の歴史からみれば人間(Homo sapiens)の歴史など点にしかすぎない。それでもそこに人間が誕生する土壌が生まれたから現れたのだ。その人間が人間の為に有効な現在の地球環境を破壊して、人間が住めない世界にしたとしても、地球的には人間に変わる新たな種が生まれる土壌になっただけの話なのだから何の問題もない。。そもそも人間は増えすぎたのだ。環境に害を及ぼすほど人口が増えたのだから地球環境が破壊されても仕方が無い事。人間だけが主役として生き残れる時代はもうあまりない・・と考えた方がいいかもしれない。でもその後は、きっと進化したニューエイジ(New Age)が出て来るさ・・・と思うのだ。ひょっとすると放射能に耐性のある進化した人間が生まれる可能性もある。悪環境こそが進化の進む時であると言う事実を忘れるなかれ・・。。追記人が増えすぎた今、人の存在自体が地球環境に変化をもたらす材料だ。それは良かれ悪かれ地球は影響を受けて変わって行く。人の為に地球をキープしようと言うのはある意味人間のおごりでしかないとつくづく思う。そもそも地球は人間だけのものではない。地球はきっと人間がいなくとも変化を続ける。地球の軸が少しブレるだけで大きな気候の変化を受けるのだ。環境を保ちたいなら、人の数を減らすのが真実だろう。だから時々、神は災厄を与えて人を調整するのかもしれない。ザンベジ川 関連リンクリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 1 (Devil`s Cataract)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 2 (Main Falls)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 3 (Zambian side)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 4 (滝の行方)リンク 2012年8月 ここはどこ? クイズ 1 (バンジーの場所は?)リンク ヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)リンク デイヴィッド・リビングストン サファリ・ロッジ(David Livingstone Safari Lodge)
2012年08月30日
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Break Time (一休み)ヴァイキングもやっと終わってホットした。ぶっちゃけ毎日思いつくまま計画もなく書いていた・・。、「徒然なるままに・・・」の割には良く最後までまとめきったものだ・・ 時間を掛けてもっと本をたくさん集めて勉強していたら・・もっと写真があったら・・・よかったのだが・・。参考文献を列挙するか迷ったけれど書くの面倒・・出典は必要かな? ヴァイキングの本が8冊神話が2冊、フィヨルド関連が2冊、アイスランド2冊、ヴァイキング博物館等資料多数。他旅行書が5~6冊くらい。一応3冊紹介「ヴァィキングの世界」ジャクリーヌ・シンプソン 東京書籍「ヴァィキングの足跡」G・ファーバー アリアドネ企画「ヴァィキング」荒 正人 中公新書後、ウキペディアも結構参考に・・活躍。でも、ウキペディア、書き込み者の持論を展開している場合があるので内容により、気をつけなければなりません。(いろいろな角度から照らし合わせる事が大切です。)さて、今回はカナダ、ニューファンドランド島(New Foundland)内を飛ぶ双発機を主役にしました。住民から「ザ・ロック」という愛称で呼ばれる、太古の岩盤があちこちに露出したダイナミックな地球が見える手つかずの大自然の残る島。そしてヴァィキングが到達した新大陸、アメリカ最東端の島。プロペラ機デ・ハビランド・カナダ DHC-8 (de Havilland Canada DHC-8) Provincial Airlines Saab 340Aプロペラの回転する動力を推力にして飛ぶ飛行機。第二次世界大戦末期までの航空機ではエンジンがレシプロだったので飛行機も飛行船もプロペラが主流。でも今や、エンジンはジェットが主流なので高速で飛ぶ必要のない機体orジェットエンジンの搭載が難しい機体にのみ適用。小型の機体ではレシプロエンジンorターボプロップエンジンが搭載されてプロペラ機が生産。トロントから3時間ほどセントジョーンズに到着そして、セントジョーンズからディアレイクセントアンソニーからセントジョーンズまでの島内の飛行機が双発機。Provincial Airlines DHC-8 (de Havilland Canada DHC-8) 双発、高翼、垂直尾翼1枚、水平尾翼上取り付け1980年代初頭にカナダのデ・ハビランド・カナダ社が開発した双発ターボプロップ旅客機現在は買収されてボンバルディア・エアロスペース社で生産。拡大 高翼で、翼にライトが付いている。車輪がプロペラの下と言うのは知らなかった・・。必ずしも・・ではないようですが・・。Provincial Airlines Saab 340A双発、下翼、垂直尾翼1枚、水平尾翼下取り付けスウェーデンのサーブ社とアメリカのフェアチャイルド社が協同開発した近距離用双発ターボプロップ旅客機。拡大 なかなかマジマジ見ることも無いですよね。小型機のプロペラは地方行きに乗らないと滅多にお目にかかれないのです昔ハワイのモロカイ島に行った時、乗ったプロペラ機は10人乗り程度の超小型で、スピード含めて、本当にマイクロバスでチンタラ走っているような飛び方でイライラしたのを記憶している。滑走路も大型機に遠慮して、信号待ちして横断しながらつつましく滑走して飛んだのだ。乗れば絶対に印象に残るのがプロペラ機。そう言えば小型飛行機への大型スーツケースの持ち込みはヒンシュクだった貨物室の入り口でつかえていた・・・
2010年02月18日
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追記・・ルクソールからアスワン間の移動は日中に限られます。エジプト・アラブ共和国(Arab Republic of Egypt)カイロ(Cairo) ハーン・アル・ハリーリ(Khaan il-Khaliiii)エジプトのポリスと治安バザール内の一角に待機していたおまわりさん・・けっこうイケメン隣のおじさん? は私服警官らしいです。バザール内の治安維持と旅行者の為にもうけられた詰所のようです。ハーン・アル・ハリーリの近くのモスク前で治安を守る警官とパトカーカイロ市内は今はかなり安全のようです。しかし、エジプトでも地方に行くとかなり様相が違うのだそうです。1997年11月17日にルクソールで起きた外国人観光客を狙った銃撃事件は記憶に新しいと思いますが、そのルクソールからアスワン間の移動は、今も危険があるようです。ある程度の車や観光バスの連隊を作り、前後に警察官の車が警護に付くのだそうです。(車の台数によって警護の車の数か変わるようです。)ルクソールからアスワン間のエジプト警察の護衛車地元のエジプト人はともかく、安全のほしい外国人は、事前に届け出た上で今はこの連隊で移動する事になるそうです。ところで最近エジプトのタクシーにもメーターが導入されつつあります。メーター車は白で付いていない旧型車は黒です。料金でもめない為にも気をつけましょう。今回は簡単に終わります。
2010年01月20日
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南ドイツのバイエルン州で見つけためずらしいものを紹介・・・。でも、今回はちょっと忙しいのでクイズにしておきます。ディンケルスビュール 1 (はしご車の仕事)ドイツ連邦共和国(Federal Republic of Germany)バイエルン( Bayern)ディンケルスビュール(Dinkelsbuhl)消防はしご車IVECO(イヴェコ)奥の教会が聖ゲオルグ教会中世に手工業と交易で繁栄した帝国自由都市ディンケルスビュールの街の中心聖ゲオルグ教会の前、マルクト広場(Marktpiatz)で発見。マルクト広場の意味は、 「ザルツブルク 4 (マルクト広場)」で紹介。マルクト広場(ドイチェスハウスは別の機会に紹介)ここに何かが・・・。(この写真は夏のものです。)何をしているのでしょうか?かなり、ビックサイズの大きな消防はしご車が出動しています。はしごは、ローマ帝国時代から高い城壁を突破するための兵器として使われてきたようです。火事を消すためにハシゴを積載したのは19世紀中頃のだそうですが、今回の用途は城壁・・・に近いかもしれません。ハマーのような消防自動車ですが・・・・。イタリアのIVECO(イヴェコ)社製。IVECO(イヴェコ)1975年に誕生した企業で、フィアットが中心となってヨーロッパのトラックメーカーが合併した会社だそうです。そういえば、日本で最初のはしご車は、警視庁消防部が1903年(明治36年)に導入したものだそうです。その頃の日本も3~4階建ての建物が増えたからだそうです。その後、1920年(大正9年)に導入したはしご車もドイツのベンツ社の車で、日本橋消防署に配備。木製の四段のはしご車と言う事で驚きではありますが、25mの高さまで伸びたそうで、当時としては最新鋭だったようです。現在でも日本の消防車はドイツ製が多く、(特に上の写真と同じ)イヴェコ社、ドイツのマギルスの消防車が広く知られいるそうです。1983年、国内に50m級のはしご車を製造できるメーカーが無かったため輸入したようで意外に今も日本とドイツの関係は深いようです。消防車と言うより重機を扱っているようです。・・・確かに日本ならクレーンがやることですが・・・・。何だかカッコイイです・・・車が大きいと・・・
2009年12月19日
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ロンドン・タクシー(London taxi)英国のタクシーの名称ロンドン・タクシーは、商標でもあるそうです。走るグランド・ピアノと呼ばれる黒塗りの、箱形のタクシーは、最近こそ広告を付けて品位を落としているけれど、相変わらずタクシー車両の仕様には厳格な規定がある為に、その形は大分変化したにしても、古めかしいスタイルを今も踏襲しているようです。ロンドン・タクシー・インターナショナルのLTI TXシリーズ?1948年にリリースされたオーステイン車のFX-3の形が未だ踏襲されて現在にいたっているようです。全長は、15フィート(4.57m)を超えてはいけない。全幅(サイドミラーを除くボテ゜ィー)は、5.9フィート(1.75m)を超えてはいけない。座席のクッションが一番沈んだ点から天井までの高さは38インチ以上なければならない。座席の全幅が・・・・など車内外のサイズにまで及ぶ規定。Uターンの時のU字の幅の内径が28フィート以内でなければならない。性能についての規定まであるので、スタイルはおのずと決まってしまったのでしょう。(ロンドン・タクシーはこうでなければならないと言うスタイルがこれにより決まった?)この規定現在は多少の数字も変化していると思いますが、基本1906年に決められた法律で、小型の一頭立て馬車の大きさと能力が元になって作られた規定のようです。実際ロンドン・タクシーが全て自動車になったのは第二次大戦後の事だそうですが、17世紀からつづく馬車タクシーの歴史は今もいろいろな規定や呼び名でたくさん残されていて歴史の深さを感じさせてくれます。キャブ(Cab)とも言われるタクシーは、19世紀にフランスから来た小型軽量で快速で走る一頭立ての2人乗りの小型馬車の名から来ているそうです。エレガントでかっこ良くても、人をはねたり、街頭を倒したり、乗客を振り落としたり・・と、交通事故も非常に多かったそうです。しかし、きどる若者には人気で、キャブに乗った回数が自慢になるほどだったとか・・・。最近見かける広告タクシー。「MARC JACOBS」のコーシャルだ・・・。ちょっと前までは考えられない・・・。紳士淑女の乗る馬車から発展しているので、山高帽(シルクハット)をかぶっても乗れるのがロンドンのタクシーの規定ですが、時代の流れといってもちょっと残念かも・・・。下の広告よりは花柄のがましだけど・・・。座席はシートに3人向かいのシートを2個たおして2人。向かい合わせは馬車の名残ですね。今は、車いすもそのまま乗れるそうです。ロンドンタクシーの運転資格ロンドン・タクシーの運転手の愛称はキャッビー。タクシー運転手のライセンスを取得するのは非常に難しいそうです。運転実技、性格テストに加え大変なのが地理テスト(Kowledge)。ロンドン市内の全ての通りの名と番地を覚え、主要な建物ホテルを覚え、一通や右左折の禁止等も覚え、常に最短距離を即答できなければいけないそうです。下は、勉強中の見習いさん・・・バイクで走りながら覚えるようです。雨でビニールをかけているけど中はクリップで止められた地図などの教本のようです。ロンドンには半径100km圏に22000本の通りがあるそうです・・・・独学ではやはり無理なので、専門の養成所に入るそうですが、ストレートの合格者はほとんどいないそうです。一度落ちると8~12週間は試験が受けられず、合格まで12~14回試験をうけるのが一般的で2年6ヶ月はかかるようです。定年がないのが良い所だそうですが、これだけ難しいとある意味エリートですよね。一般的には会社に入り、何年か働いて、お金を貯めたら自分で車を買って、オーナー・ドライバーになるのだそうです。
2009年10月08日
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ただいま戻りました伊丹から東京行き18:00発で帰ってきました。ANAのマイレージ・カードでパソコン予約して、座席を指定して、会計を済ませれば、電車の駅改札と同じように荷物預けも、手荷物検査も、搭乗も、カードを「ピッ」とかざすだけのチケット・レス。ゲートも駅の改札と同じです。違うのは、座席を刻印した紙が出て来る事です。日本の飛行機もバス化してきた気がするこの頃です。行きは新幹線で行きましたが、新幹線も「のぞみ」の新型車両はパソコンも使えるのでサービスはかなり良くなりました。でも大阪行きは、飛行機の方が安いのです。(マイレージもコツコツ貯めてます。)ゲートに付随している階段は、清掃係の人達が昇降する階段です。この間のベトナムの時は大きなゴミ袋をたくさんころがして落としてました。一機飛ばすのにかかわる人が多いだけに、少し遅れても多くの人が迷惑するのが飛行機です。
2009年09月28日
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お待たせしました。船に戻ってきました。が・・・少しそれ気味・・Break Timeネタ・・。タリンク・シリヤライン(Talink Silja Line)フィンランド(ヘルシンキ)←→スウェーデン(ストックフォルム)ムーミントロールとミイちゃんの乗船のお出迎え。ムーミン(Mumin)日本でもお馴染みのムーミンは、もともとは、英国の新聞イブニング・ニュース紙に掲載されたフィンランドの作家トーベ・ヤンソンの漫画の主人公です。北欧の伝説に現れる妖精トロール、「ムーミントロール」は一つの種族をさしています。もともと北欧では、トロールは人間にとって気味のわるい生き物であるとされており初期のムーミンでは少し不気味さがあったようです。加えて、最初に描いた原型は、政治風刺誌『ガルム』誌上であった事もあるのか、登場人物には哲学的・詩的な発言をするものも多く子供の理解を超える内容や不条理な内容も頻繁に出てくるストーリーだったそうです。小説として初めて登場するのは1945年、漫画としては、1953年からトーベ・ヤンソン自身の作画によってロンドンで連載が開始されたそうですが、途中から実弟ラルス・ヤンソンに引き継がれ1975年まで連載。私の大好きだった自由と孤独をこよなく愛し、気ままな暮らしをしているスナフキンが、ミイの弟だったなんて・・・驚いた・・。パイプをふかしている・・どう見ても大人。ではミイも子供に見えておばさんだったのか???話がそれてしまった・・・が、現在ムーミンは子供向けの本になってはいますが、ガリバー旅行記やグリム童話のように大人になってから読まないと真の面白さの伝わらない本なのかな? と思ったりした・・・。下は船内7階のデッキ、プロムナードの階。ロビーは吹き抜けで天井からは外の自然光が差し込む。こういう自然光を大切にする造りは、日の光が少ない北欧の方ではあたりまえ。陽が出ている時には陽の光を少しでもあびる事が重要なのです。全長143m、幅8m、高さ18m。蜂の巣のように飛び出ているのは内側のキャビンの窓です。レストラン、免税店、会議場、クラブ、カジノ、ディスコ、サウナ、スパ等も付いています。でも、ヘルシンキからストックホルムまで15時間程しかないのであれもこれもは無理ですね。出航してまもないヘルシンキの港界隈。デッキから・・。つつ゜く楽天の調子が悪いのでしょうか? 書いてて突然画面が切れたり、ネット回線が切れてフリーズしたり・・・。確かにVISTAもかってにバージョンupして、ブログ書いてる時にかってにシャット・ダウン、再起動をしたりします。当然書きかけのブログも飛んでパーです。Atokの相性ももっと悪くなって最悪・・。
2009年08月25日
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北欧諸国をめぐるツアーで外せないのが、船上でショッピングや食事を楽しみながらバルト海や北海を航海するクルーズ船の旅です。観光、グルメ、ショッピングに船旅と来ればそれだけで贅沢てんこ盛りのツアーですが、さらに船が豪華客船ならおいしさ倍増です。タリンク・シリヤライン(Talink Silja Line)フィンランド(ヘルシンキ)←→スウェーデン(ストックフォルム)シリヤ・シンフォニー建造・・・・・・・・・1991年全長・・・・・・・・・203m最大船幅・・・・・31.5m喫水・・・・・・・・・7.1m総重量・・・・・・・58400t最高速力・・・・・23ノットエンジン出力・・32000kw旅客収容数・・・2862名キャビン数・・・・986室駐車台数・・・・・ バスで約60台 or 乗用車役450台 収容可能。豪華クルーズ船ですが、カーフェリーになっています。船内は12階建てで、3~4階のデッキが車のゾーンです。フェリー好きなら「 フェリー 1 (ゲイランゲル・フィヨルド) 」も見てね。車の乗船口がチョー素敵これは降車専用口です。入り口は船尾にあります。サンダーバード2号機から4号機が出てくるのを思い出した・・。フィンランドやスウェーデンに住んでいる人達は車を持ち込んでの旅行のようです。外国に行くと言う感覚ではないのでしょうね。(理由があって、地元民もよく利用するクルーズ船です。)タリンク・シリヤラインのフィンランド。ヘルシンキのポートです。人間様の方は、こちらから乗船。建物の左右に出ているのが搭乗口(boarding gate)で、Portの建て物はもう一つあります。搭乗口(boarding gate)となる通路が伸びて船に接舷します。船の7階のデッキ、プロムナードの階から乗船です。つづく
2009年08月22日
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まだまだ暑さが続きます。時々ナミビア等もフラフラ行きつつ、まだ北欧に停滞していようかと思います。バルト海を囲むように、スウェーデン、フィンランド、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)ポーランド、ドイツ、デンマーク、ロシアなどの国々が面しており、海上交通網がたくさんあります。船舶は50000t を超え、長期クルーズの船舶は100000t を超えるそうです。北欧首都、主要都市間のラインは毎日運航されていますが、一般的に夏季と冬季で基本料金も違えば夏のみの運航しかない場合もあるようです。今日はノルウェーの隣国(スウェーデン)とそのまた隣の北欧の国(フィンランド)を結ぶ連絡船(船体)を紹介します。フィンランド(ヘルシンキ)←→スウェーデン(ストックフォルム)両国の間は、フィンランド船会社所属のシリヤライン(Silja Line)とスウェーデン船会社所属のヴァイキングライン(Viking Line)とがあり、フィンランド自治領のオーランド島を経由をして連絡しています。(その理由は次回に・・。)タリンク・シリヤライン(Talink Silja Line)バルト海を運行する豪華客船。ヘルシンキとストックホルムを結ぶ定期船のほか、ヘルシンキとタリン(エストニア)、ヘルシンキとロストック(独)、ストックホルムとリガ(ラトビア)などのルートがあります。ノルウェーのフィヨルド・クルーズのツアーも出ているようです。セレナーデ号シンフォニー号ヴァイキングライン(Viking Line)フィンランドとスウェーデン、エストニア共和国タリンを結びます。 フィンランドとスウェーデンを結ぶルートは曜日によってチケットの料金がかわりますが、14~15時間程の航海なので、キャビンを取らなければ格安だそうです。マリエラ号ガブリエラ号次回タリンク・シリヤライン(Talink Silja Line)で改めて航路を紹介します。フィンランド(ヘルシンキ)←→エストニア共和国(タリン)フィンランドのヘルシンキからエストニア共和国タリンを結ぶ高速船は,多数の船会社から出ているようです。ヘルシンキからは高速船を使えば1時間半。ユネスコの世界遺産に指定されているだけあって船が多いですね。フィンランドに比べ物価が安く、さらに免税のショッピングもできるので、フィンランド人がちょっとした買い物に出かけるのがタリンだそうです。ノルディック・ジェット・ライン(Nordic Jet Line)現在運休中とホームページに出ていました。フィンランドのヘルシンキの街つづく
2009年08月21日
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お待たせしました。またまた姪のバトミントンの試合を見に行って先ほど戻りました。朝一から暑い体育館詰めでヘトヘトです。東京の多摩地区の高校生のバトミントの大会で、青梅線の河辺町まで行って来ましたが、東京は、多摩といえども異常に学校が多く、5回戦でやっとベスト8です。優勝までに8試合を一日で決着する訳ですから、本当に気力と体力です。学校の数が少なくて、すぐ代表になれる県と東京のようにまず地区優勝するまでに試合数の多い所とではすでに差があるように思います。とにかく東京の代表になる事は大変です。ソグネ・フィヨルド(Sogne Fjord) グドヴァンゲン~フロム間のフィヨルド・クルーズですPart 3景色のみお楽しみください。フロム鉄道、フロム(Flam)の駅フロムは「険しい山間の小さい平坦な領域」意味するそうです。ミュルダル駅からフロム駅までの長さは20.2kmを結ぶフロム鉄道はベルゲン鉄道の支線です。急勾配の山間部を走り風光明媚な景観で知れた山岳鉄道ですが、当初は海路からからフロム経由でベルゲン線の工事用資材を運ぶための道路だったそうです。1916年にルートが決定され、1923年に着工、1940年に列車の運行が開始され、翌年の1941年から旅客列車が運行されるようになり、1944年に電化されています。眠すぎて思考力が0になってしまったので、とりあえずソグネ・フィヨルドはこれにて終了してしまいます。フロム鉄道は近いうちに紹介できればと思います。
2009年08月14日
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やはり1回ではもったいないので・・、写真だけサクサク紹介します。ソグネ・フィヨルド(Sogne Fjord)グドヴァンゲン~フロム間のフィヨルド・クルーズです。ナールオイ・フィヨルド(Naroy fijord)からスタートグドヴァンゲンのポート近くの農場で、ヴァイキング時代の遺物が出土したとか・・。ヴァイキング船の復元が置かれている。グドヴァンゲン(Gudvangen)とは、神と草原、草深いと言う意味だそうです。氷河でけずられたU字谷が良くわかるフィヨルドの光景です。フィヨルドの深さ1. ソグネ・フィヨルド 1308m2. ティス・フィヨルド 897m3. ハルダンゲル・フィヨルド 861m4. ビンダールス・フィヨルド 724m5. ボクナ・フィヨルド 719m6. ヴォルダ・フィヨルド 697m 7. ストール・フィヨルド 679m8. ヨセン・フィヨルド 664m9. オークラ・フィヨルド 650m10. オステル・フィヨルド 645mつづく
2009年08月13日
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「朝早く起きて」が苦手な私・・・。早く寝たのに・・たくさん寝てしまった・・。今回はフィヨルドをもう一つ、サクサク紹介します。ソグネ(Sogne)フィヨルド(Fjord)ソグネ・フィヨルドは全長204km、最深部の深さで1308m、平均幅5km。世界で最も長く、深いフィヨルドです。(この長さなので、幾つもの支流フィヨルドを持っています。)ヨーロッパ鉄道景勝ルートにも選ばれている山岳鉄道のベルゲン鉄道とその支線フロム鉄道があり、それらとクルーズ船を使ってソグネフイヨルドにアクセスするコースは人気のようです。オスロ→ミュルダール(ベルゲン鉄道)ミュルダール→フロム(フロム鉄道)フロム→はグドヴァンゲン(フェリー)・・・ソグネ・フィヨルドをクルーズ(と言っても支流のアウランド・フィヨルドとナールオイ・フィヨルド)をクルーズグドヴァンゲン→ヴォス(バス)ヴォス→ベルゲン(ベルゲン鉄道)一般的には、もちろん全部は回らず、人気のコースをオスロ側から入るかベルゲン側から入るかです。時間があればフロムあたりのトレッキングも魅力なのだそうです。フロムから(Aurland Fjord)→方向チェンジ(Midt Fjord)→(Naroy fijord)グッドバンゲンへ 広義には3つのフィヨルド含めてソグネ・フィヨルド(Sogne Fjord)です。景色は、グ゛ッドバンゲン側のナールオイ・フィヨルド(Naroy fijord)に入ってからの方が素晴らしく、最後の30分左右の1300~1400mの高い山にはさまれたフィヨルドが絶景ポイント。絶景ポイントNaroy fijordには滝も多い。滝の右にズームするとアザラシがいます。アザラシが見られるのもラッキーかも・・。カモメが追ってくるのもNaroy fijord。Naroy fijordの途中にディールダールと言う村があり、長寿で有名なのだそうです。(若い人でも60代後半)グッドバンゲンは1800年代からフイヨルド観光で賑わっていたそうです。現在は船の到着に合わせてバスが待機していますが、昔は馬車が、それも350台も待機して乗客を迎えたそうです。
2009年08月13日
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ちょっと予定が変わりました・・ソグネ・フィヨルドに行くはずでしたが、ゲイランゲル・フィヨルドの捨てがたい写真がまだあるので今回もゲイランゲルで紹介です。(ソグネ・フィヨルドはたいした写真もないので1回で終わりますから・・。)その前に今回はフィヨルドの長さを紹介です。(長い順です。)1.ソグネ・フィヨルド 204m2.ハルダンゲル・フィヨルド 179m3.トロンハイムス・フィヨルド 126m4.ポシュサンゲエン・フィヨルド 123m5.オスロ・フィヨルド 120m6.ノール・フィヨルド 106m7.ボオクナ・フィヨルド 96m8.ヴァランゲル・フィヨルド 90m9.ロムスダルス・フィヨルド 88m10.ストール・フィヨルド 86mゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)ゲイランゲルの街に行く途中のベスト・ビュー・ポイントからの眺めです。見えるのはゲイランゲルの街。下も、ビュー・ポイントから反対方面を撮影。ヘルシルトの街に入る手前でゲイランゲル・フィヨルドは終わり、フィヨルドの幅が広がってまるで湖のようなSunnylvs・フィヨルドとなります。ゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)は、最も美しいと言われるのがわかります。フィヨルドはつづく
2009年08月11日
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ゲイランゲル・フィヨルドを運行するフェリーも紹介します。今回は普通のフェリーですが、フェリーってあんな風に開閉したっけ? と思って撮影です。開閉の仕方は船によって様々な仕様があるようです。北欧の方は、交通手段としてもフェリーが何かと多いので、気になったのを今後幾つか紹介していきます。フェリー(Ferry)ゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)フェリー(Ferry)とは旅客および車両の運搬船の事で、現在は車を運ぶ船的に考えられていますが、当初は鉄道を運ぶための鉄道連絡船から始まったようです。鉄道連絡船としておそらく国際的に初なのは1833年、イギリス、スコットランドの鉄道(Monkland and Kirkintilloch Railway)が運河(Forth and Clyde Canal)で車両を搭載する船を運航した事だと思われます。最初の近代的な設計のフェリーとしては1849年にスコットランドでフォース湾を横断する鉄道(Edinburgh, Perth and Dundee Railway)が建設されるまでの一時的な連絡手段として運航されたリバイアサン号(the Leviathan)かもしれません。英語でFerryは「渡し船」とか「渡し場」と訳されるそうで、当初、日本では自動車も運ぶという意味を加えて「Car ferry」と呼ばれたそうです。(最近はひっくるめて「ferry」)近年では トレーラー等も含む多様な自動車すべてを運ぶ船をROPAX(roll on/roll off passenger) vessel や Ro-Pax Ferry と呼ぶようです。日本での運行は1934年、北九州市が初のようです。ノルウェーの沿岸急行船フェリーは南端のベルゲンからフィヨルド沿いに北上し、ヒルケネスを往復する航路は、生活航路であり、同時に観光ポイントを巡るクルーズ船として特に有名なのだそうです。(バルト海クルーズ船のシリヤラインは近いうちに紹介します。)ゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)のクルーズ船クルーズ船と言うよりは、この船舶は地元民の足です。冬場も運航している小型のフェリーです。港に近づいたらもう船首の先端部を開口しています。どうやら貨物用ハッチは先端のようです。でも、船首がそのまま上がるのは日本では見かけないような・・。(こちらでは多いようです。)何だかオウムがクチバシを開いているような光景です。人もそこから出入りです。向こう側が見えてますね。クルーズ中のフェリーとゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)夏場は河口の方からも観光船が来るので大型船舶も出入りしてにぎやかになります。次回ソグネ・フィヨルドです。フィヨルドによって個性があるようですが、感動も写真にしても天気次第で違いますね。Webが突然遮断される事しばしば、ここまで書くの苦労です。ネット・トレードの画面も最新のが使えなくなり、逆にシステム後退となっています。セキュリティーが大幅にUpされた事が原因のようですが、VISTA失敗作ですね。
2009年08月11日
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ノルウェーの4大フィヨルドノルウェー海の沿岸はフィヨルドだらけです。数あるフィヨルドの中の代表的なフィヨルドが4つあげられます。ゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)ソグネ(Sogne)フィヨルド(Fjord)ハダンゲル(Hrdanger)フィヨルド(Fjord)リーセ(Lyse)フィヨルド(Fjord)今回は、上の2つのフィヨルドを紹介します。ゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)引き続き第2夜です。ゲイランゲル(Geiranger)フィヨルド(Fjord)海岸より深部にあるフィヨルドで、ゲイランゲルの街からヘルシルトへのフェリーの航路はゴールデンルートと呼ばれる人気のコースです。全長20km、最深部で200m。(フィヨルドとしては浅い方です。)春先(6月下旬)までは大量の雪解けの水が山肌を幾筋もの滝となってフィヨルドに注いでいます。オスロからゲイランゲルまで約500km。途中1000mを超す高原を通過しますが、高原は5月中旬まで雪と雪崩の為に閉鎖されているようです。(ルートは他にもあるようですが・・。)観光用のフェリーは春から夏場のシーズンには増便されているようですが、冬場でも地元の人達の足として、フェリーは運行活躍されています。不凍港(ふとうこう)前回軽く流しましたが、ノルウェーは冬季においても海面等が凍らない港です。地理学的言葉で言うと不凍港(ふとうこう)なのです。通常ならこれだけの高緯度地帯(北緯57度以上)に位置するため凍りつくはずなのですが、アメリカ大陸東岸から北大西洋を北東方向に北上して流れる北大西洋海流が分岐してノルウェー海流となってノルウェー海域に来るからなのだそうです。英語で「a warm-water port」とか「an ice-free port」と言うようです。水面が鏡面となってきれいです。下は、七姉妹の滝です。ダイナミツクな景観とアクセスの良さで夏場は世界各国から観光客が来ますが、夏場とはいえ寒くて冬の軽めの防寒着を身につけますが、冬場のフェリーは寒すぎてデッキには出られないそうです。2021年4月 このフィヨルドに住み付いていたバイキングについて書いています。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人
2009年08月10日
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写真をあれこれいじっていたら運河のコースがわからなくなってしまいました。コースはこのさい取りやめて、何となく雰囲気で載せるので、ご了承下さい。アムステルダムの運河 4 キャナルクルーズ 2キャナルクルーズ(Canal Cruise 水上遊覧)ベネチアと異なりアムステルダムは街の規模も全然異なります。商取引を考えた海上交通の発達は、早くから近代的に合理的に完成されたのでしょう。考えてみれば、陸上の動力は、蒸気機関の発明まで待たねばならなかったのですから、街の持つ特性を生かした海上交通は、なんて合理的な物流システムであったのか。しかも現在も通じる大型物資の運搬できる航路は、今見ても革命的なシステムに思えます。下は、旧港のOostrdocとアムステル川を接続するOudeschams運河だと思います。左奥に見える塔はムント塔です。ムント塔は昔、市の城壁の一部の見張り塔でした。1620年の大火で城壁が消失し、塔だけが残っているのだそうです。1627~1629年にこの塔の中でお金(ムントは硬貨の意)を作った事からムント塔と呼ばれるようになったそうです。Oudeschams運河からいったんアムステル川に入り、遡ってから、環状のヘーレン運河(Herengracht)に入り巡って行きます。街の運河は環状と小さな放射状の運河が結びついているで、ヘーレン運河を通りながら見られる幾つも橋や支流へのトンネルを見るのがこのツアーの面白さです。小さく見えて、これでもけっこうな大きさの船が通るのです。橋の縁に着いている電球は、夜になるとライトアップして綺麗です。夜の運河クルーズも絶対お奨めです。橋の密集地です。橋の向こうに橋が見えて、そのまた向こうに橋が見えて・・・、何だか合わせ鏡の中を見ているかのようです。アムステルダムがこんな街だったなんて行くまで知りませんでした。街自体は大きくないですが、本当に楽しめる街です。小さな足こぎボートも楽しそうですね。でも、思う以上に広いので、小さな運河めぐりには良いですが、元の場所に戻れるのでしょうか? 迷路のような運河ですから地元の人なら建物でわかるでしょうが・・。昔からあった橋は丸いですが、近年作られた橋はシンプルでちょっと味気ないですね。でもこのタイプの橋も無数にあります。運河は閑静な中ばかりではありません。ここは賑やかな街中のようです。そのせいか放置自転車が多いようです。近くに何かあるのでしょうか? 橋の上に止めるのはいけませんよね。つづく
2009年08月05日
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運河に張り巡らされたアムステルダムの街に来たら、やはり運河めぐりのクルーズに乗るのがお勧めです。キャナルクルーズと呼ばれる遊覧船は会社も数社あり、コースも何通りかあり、市内の数箇所の場所から出ています。日中、運河の何箇所かのポイントを回るスタンダードのコースの他、夕刻、ワインとチーズを飲みながらライティングされた橋などイルミネーションを堪能するコースや、ディナーの付いたゆっくりコースもあります。昼と夜は景色もコースも違うので、どちらも楽しめますし、ワインとチーズのコースでは、途中、下船して酒場に寄って一杯飲む体験も付いていました。(会社等で異なります。)クルーズの他にも、水上バスや水上タクシーなどもあり、ホテルの場所によっては水上交通のみで移動も可能です。街中の印象は薄いのですが、運河の印象は強烈に残っています。.アムステルダムの運河 3 キャナルクルーズ 1アムステルダム キャナルクルーズ(Canal Cruise 水上遊覧).日中のスタンダードコースは、たいていアムステルダム中央駅から出発します。アムステルダム中央駅を出ると、北海運河(写真上部)に出てから中央駅裏手を回り、海洋博物館と前回紹介したアムステルダム号前を立ち寄って、No4の東港(17世紀の海軍ドック)から市内の運河に入っていきます。アムステルダム中央駅前の乗船場です。前の建物がアムステルダム中央駅の表側。(裏側は、温室のような半円筒形ドーム)各社乱立してます。b\rコースが同じでも値段は、各社異なるようです。昨今キャナルクルーズの船が多くなっているといいます。それだけ需要があるのでしょうね。下、船は国鉄の線路の橋げたをこぐります。いわゆるガード下ですね。地味ですか、変わっているので乗せました。これから橋をたくさんこぐるツアーが始まります。一見どこにでもあるような線路下のガードですが、船がこぐると考えると不思議な気がします。よく見ると、水面とほぼ同じ高さを車と人が往来していますし・・。ガードをこぐって北海運河方面に出ますが、初回に上からの写真を紹介しているので、アイ湾(アムステルダム港)は、はしょります。キャナルクルーズはやっと運河に突入です。この船は、椅子が固定されていなくて、ざっくばらんな雰囲気ですね。下は、旧港から入った運河にあるNo5のモンテルバーンの塔です。元は、16世紀に建てられた城の見張り台だったそうです。今は時計台が乗っていますが、当初は砲台が乗っていたそうです。船が真下を通過するので見上げる感じです。しばらくすると支流に入るので、運河はどんどん狭くなりますが、それでもベネチアに比べればかなり広いです。小船しか通行できないような路地はありません。つづく
2009年08月03日
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Break Time (一休み)ネーデルランドで見つけた珍しい物です。何で渋滞してるの? こんな所で・・。Aゲゲッ・・・?????B道路が垂直だー。これはオランダの郊外で遭遇した道路です。道路は向側も同じようになっています。残念ながらここの写真はこれで終わりですが、ベルギーのブルージュで同じような物を見つけたので理由がわかると思います。下はベルギーのブルージュ郊外で撮影。オランダの物よりかなり小さめですが・・。C下は運河でした。D船が通行する時のみ道路? でなく橋桁が開閉(上がる)ようになっている可動橋です。可動橋にはタイプがいろいろあるようで、このタイプは跳開橋(ちょうかいきょう)と呼ばれる物だそうです。通路は狭く見えますが、車を積んでいるので、そこそこ船も大きいのです。橋の長さも結構あるのでは?E一応管理棟で監視して開閉を行っているようです。意外に時間はかからず、普通に道路の信号待ち程度です。橋の開閉時間に時間がかからなくなったからなのでしょう。日本にもこうした橋は存在するようですが、一生お目にかかる事もないような稀少な橋です。(近所にある人は別だけど・・。)オランダもブルージュも運河だらけなので、橋の下をたいていの船はこぐって行きます。だから船の高さも割と低めにできています。海抜が低く水運の盛んなオランダには、多くの可動橋が存在すると言われていますが、案外見つからないものです。それにしても太鼓橋のように橋桁を上げて川を渡せばいちいち開閉の必要はないと思うのですが・・。こちらの方がコストが安いのかな? 何にせよ、こちらでは昔からあったようですね。(ゴッホの跳ね橋が有名です。)道路側の交通が遮断されることや、可動部の保守点検などのマイナス点に加え、架橋技術の進歩で、やはり新規の架橋はもうあまり無いようです。Bのパターンはロンドンのタワーブリッジと同じ両方開く跳開橋(ちょうかいきょう)です。他に、ニューオリンズのように橋桁が水平方向に回転する旋回橋(せんかいきょう)や、橋桁がそのまま上昇する橋昇開橋(しょうかいきょう)、引込橋(ひきこみはし)、運搬橋(うんぱんきょう)等があるようです。また、変わり種として、橋桁を水面下に沈めることで船の通行を可能とする降開橋(こうかいきょう)とか言うタイプもあるようです。橋も案外奥が深いのですね。
2009年08月01日
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Break Time (一休み)ちょっと体調悪いです。耳鳴りするし・・。サントリーニ島、番外編サントリーニ島のテレ・フェリックの写真が結構あるのでそれだけ紹介。テレ・フェリック何度か紹介しているので、説明は抜きです。下は、スカラ・フイラのテレ・フェリックのスタート場所です。6人乗りのゴンドラです。6機同時に出発です。運行間隔は15分位ですが、山頂まで5分かかりません。船が着く時は、ほぼ同時なのでその時は運行本数も増えるのでは? 殆どがテレ・フェリックに乗ります。外は暑いし・・。かなり急ですよね。テレ・フェリックの為に岩壁を削ったようですね。計算ミス? 削ってもゴンドラぎりぎりです。凄い傾斜角度です。崖上に到着。帰りは早めに乗らないと、クルーズ船は一斉に出港しますから、いろいろな船に帰る客で混雑します。テンダー・ボートも50人乗りくらいですから、一隻2000~の船に戻る人達のラッシュは大変なものです。遅刻して船に乗れない場合は、置いてきぼりです。待ってくれる? そんな甘い社会は日本だけですよ。
2009年07月21日
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Break Time (一休み)カプリ島でこのカワイイ車がやたらに多かったので撮影。珍しいのか? と思いきや、イタリアではポピュラーなPIAGGIO社の製品で、最近では日本にも販売店ができて主に宣伝用に売られているらしい・・。(がっかり)この妙なバイク(イタリアではスクーター)はカプリ島の地形にあっているので、車の走りにくい島では、ロバに代わって大活躍のようです。(一般のバイクより多いかも・・)ピアジオ(PIAGGIO)社のAPE50 愛称はAPINOエンジン50cc 巾1.26m、長さ2.7m、積載量200Kg の三輪バイクです。映画「ローマの休日」で一躍世界的にベストセラーとなった世界初のスクーターVESPAの販売で有名になったPIAGGIO(ピアジオ)社は1884年にリナルド・ピアジオ氏によってイタリアのジェノア市(北イタリアの要港)で創設されたヨーロッパ屈指の輸送機器メーカーだそうです。第一次世界大戦時代は、車両だけでなく武器や軍事品を製造も手がけ財力をつけたようですが、リナルドが他界し、第二次世界大戦になると壊滅的な打撃を受けたようです。そんな中も息子アルマンドとエンリコにより開発されたスクーターが大人気となり起死回生となったのが、1946年発表されたVESPA第1号なのです。中はやっぱりバイク。つまりバイクに車のようなボディを装着したようなものです。日本での宣伝文句は「小型軽量で機動性にも優れ燃費も良く、おまけに車検、車庫証明も必要なく年間の自動車税もわずか2,500円!とかなり経済的な車です。」 と書かれてました。しかし実際の所有者の話では、「ディスプレーに最適でも、走りは・・最悪で、走りに癖があるので、一般車道を走る気にはなれない。」と書かれていました。日本では広告塔向きなのかもしれません。(走りにくくてもイタリア人はイタリア車を愛しているからね・・。)都市の荷車として開発されたAPEは、様々な職種の顧客のニーズに答え、多彩な改造を受けて販売されている。PIAGGIO(ピアジオ)社の3輪バイクAPEの歴史は戦後、荒廃の復興からスタートしたそうです。すでにスクーターVESPAの生産と販売に手応えを感じていたPIAGGIO社は、従来のロバに引かせた荷車に取って代わる貨物用三輪車の生産を始めたようです。(まさしくカプリの地形に打って付けだったわけです。)スクーターの運転席から後ろに荷車を接続した、簡素な構造で、エンジンはVESPAより強力な125ccエンジン、積載量は200kg。(ロバと競争する為のパワー)からスタートしたようです。さらに、APEは自動車免許無しで乗ることができたため、誰でも手軽に購入できたようです。戦後復興のイタリアの都市で小売商店などから支持され、移動販売車としての利用が始まったそうです。(今も免許無しかどうかはわかりません・・。)働く三輪車のAPEは、それ自体がやはり最高の広告媒体となり売れたようです。 現在50ccエンジンを搭載し、積載量200kgのAPE 50は大ヒットとなり、小型化により都市の路地や山間の街で活躍しているようです。21世紀の今でも現役のモデルとしてイタリアでは人気なのだそうです。
2009年07月04日
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カプリ(Capri)の街からアナカプリ(Anacapuri)の街へ市バスウンベルト1世広場から少し歩いた所にアナカプリ行きの市バス乗り場があります。バスと言ってもミニバスです。この街は道路が狭いので一般車でもすれ違いが難しいので大型車どころか、自家用車でもこじんまりした車ばかりです。アナカプリまで15分くらいです。バスに数種の車種があり、珍しいミニバスを発見しました。なんとベンツのミニバスです。ちょっと嬉しい当たりのバスですね。車に詳しくないので型は判りません。メルセデスベンツ(Mercedes-Benz)は1886年にドイツの技術者、カール・ベンツによって創設された世界最古の自動車メーカです。カプリ島で市バスに導入された理由は何でしょうね・・。タクシー市バス乗り場の横にタクシーの乗り場もあります。どうやら上の写真も下の写真もオープンカーです。写真上はシートの上に日除け? タクシーのオープンカーなんて初めて見ました・・。またまたカワイイカラーリングですね。日除けもカワイイ、ミルキー・ブルー。なぜ ? オープンカーなのか ? オシャレだから ? いえいえ、ここの車は全て冷房無しなのです。だからとても車内は暑い。(hot ! hot !)バスも当然冷房無しですからたまりません。オープンカーにしたくなる理由解ります。でも日焼けしてしまうからちょっとね・・。アナカプリ(Anacapuri)カプリに続いて島、第2の街です。ソラーロ山の斜面、海抜275m付近にあります。岩の多い大地にあって、オリーブやブドウの畑が広がっています。緑の濃い土地で、優雅な邸宅(セレブの別邸)のある避暑地の中心となっています。アナカプリ近くの見所はサン・ミケーレ教会、サンミケーレ邸とソラーロ山の展望です。初代ローマ皇帝アウグストゥスが気に入り、別荘地として島全体と対岸の土地を購入したようです。アウグストゥス帝の時代にいろいろ整備されているようですが、彼自身は利用の機会があまりなかったのではないかと思われています。2代ローマ皇帝ティベリウスが在位中の26年からこの島で隠遁生活していた話は以前しましたが、彼はこの島に12の邸宅を建てたとも言われており、その一つがアナカプリに近い島の西側にあるダメクータ(Damecuta)です。(皇帝の館ダメクータはポンペイのベスビオ火山の噴火で灰におおわれその後放置されたとも言われています。)青の洞窟もアナカプリから陸路のアクセスは近いです。ダメクータから近いので、ティベリウス帝の毎日のお散歩コースだったかもしれません。フェニキア人の階段下は、写真がないので、参考の為にパンフレットをデジ撮りしました。本当に画像悪いですが、イメージしやすいので・・。当然ですが、海からアナカプリの街方面に続いています。当時の港は、マリーナ・グランテよりももう少し西だったようです。下は、最初に掲載した地図ですが、島の上の中程右の赤いヒトデ? から左に続く黄色の点がSCALA FENICIA(フェニキア人の階段)です。アナカプリの街は島の左(西)側中より少し上です。BC1200年頃渡来したフェニキア人が造ったといわれています。断崖絶壁に道を造るのは至難だったでしょう。BC800年頃この島の住人となったギリシャ人が石段に仕上げ、アウグストゥス帝の時代に改修されてロバの通れる道になったのではないか? と言うのが最近の学説だそうです。島に現在のような道ができたのは、1874年で、ダイナマイトで岩盤を爆破して今の道を作ったようです。それまでは、アナカプリの街はフェニキア人の石階段が唯一だったようです。元は800段の階段(今は500段程)があったそうです。登るのは大変な事だったでしょうが、もともとフェニキア人の軍事用、海軍基地ですし、トルコの海賊に襲撃された際には逆に防衛しやすかったと思われます。次回、ソラーロ山頂へ・・つづく。
2009年07月02日
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ベルーガがナポリの空港にいたそうで、貴重な映像をもらいました。ベルーガ(Beluga)エアバス・超大型貨物機 A300-600STエアバス社は航空機の開発のために国際的な規模で共同出資してできたエアバス・インダストリーを前身にした会社です。航空業界では「保守のボーイングに対して、新技術を積極的に導入するという姿勢から、革新のエアバス」と呼ばれ両社は比較されています。(ライバル)(エアバス社自体は政治的な理由により生産施設を所有せず、生産を協力各社に発注している形をとっていると言う会社です。)ベルーガは大型輸送機 、スーパーグッピー (Aero Spacelines Super Guppy)の後継機として、開発された機体だそうです。(特大サイズの貨物、大型ロケットエンジンや旅客機の主翼や胴体などを空輸するために製造された広胴貨物輸送機なので、一般の旅客機とは構造が別物です。)下はスーパーグッピー貨物室を開いて荷積みをしている所です。成田で時々みかけるカーゴ機ですね。国際貨物で大型の物を輸送するのには欠かせない形状です。スーパーグッピー はもともとボーイング社の飛行機がベースの輸送機です。ボーイング377の軍用タイプであるC-97輸送機をベースに、エアロスペース社が1960年代に(アポロ計画の)サターンロケットを空輸する為に改造されたと言う歴史を持ちます。1970年代になって、前出のエアバスインダストリー(エアバス)が自社機組み立ての為に、欧州各地に分散する生産拠点から、胴体や翼などの大型品を最終組立工場まで輸送するためにこのスーパーグッピー4機が使われたのだそうです。その為、「全てのエアバス機はボーイングの翼によって届けられた」と皮肉られたようで、それもベルーガ開発の要因になったかもしれませんが、機体の老朽化により維持費が増大したのが本当の理由です。Airbus A300-600ST Super Transporter Beluga (ベルーガA300-600ST )ナポリのカポディキーノ空港で撮影。5機しかないので見られるのはラッキー。頭の数字は通番ですかね? 2001年1月に就航した5号機は、チャーター専用機だそうです。カワイイ形状とホワイトのボディから、通称ベルーガ(白イルカ)の愛称で呼ばれています。1991年より開発がスタートし、1995年より就航。5機が生産され、全機がエアバス社の関連企業SATIC (Special Aircraft Transport International Company) により運航されているそうです。貨物室は与圧無しで、直径7.26m長さ約37mの収容スペースが確保。上方に開く貨物扉が胴体前部の上部にあり、前方下の操縦席は、グッピーと異なり動かない。(その席を含む機首部分は貨物の出し入れの障害にならないように低い位置に移されている。)垂直安定性確保のために、垂直尾翼前方にフィンが追加されているほか、水平尾翼翼端に垂直安定板が増設されている。(ウキペディア参考)下は、ウキペディアでパブリックドメインに登録されて使用許可のある画像を参考の為に縮小して掲載させてもらいました。前頭部の開き方がベルーガと異なります。それにしてもダイナミック!!エアバス製コンポーネントの輸送(通常の任務)以外のカーゴとしても、エアバス外のアウトサイズ貨物の輸送にもチャーターされることがあり、1999年にはドラクロワの絵画「民衆を導く自由の女神を輸送するため成田に来た事もあるそうです。 2006年5月には国際宇宙ステーションヨーロッパ実験棟(コロンバス)のケネディ宇宙センターへの移送にも利用されたそうです。チャーターの特別フライトでなければ日本に来ることはないので、どこかで見られたら本当にラッキーですね。
2009年06月29日
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Break Time (一休み)ロンドンの2階建てバス(ダブルデッカー)ロンドン名物と言えば、先に思いうかべるのがこの2階建ての赤いバス。現在ロンドンを走っているバスは6500台以上、1日当たりの運行ルート総数は約700本。バス停の数に至っては、17000ヶ所以上だそうです。バスの運行時間は路線によって異なり午前6時頃~午後11時頃の場合もあれば、24時間営業の路線もあるそうです。ルートマスター(Routemaster)の愛称で呼ばれるこのバスは、路面電車とトロリーバスに代わる交通手段として、ロンドンの街に登場して以来、世界からの注目を浴び続けたバスです。座席定員は64人(1階 28人+2階 36人) 全長 8.4m、幅 2.4m、高さ 4.4m。でも、実はこのバスは2005年に路線バスとしては現役引退しています。現在はロンドン市内の観光名所を巡る観光路線でのみ運行しています。下は、屋根の開いた車両。イギリスのアソシエーテッド・エクイップメント社が1959年より製造。1968年までに2876台が製造され、2760台がロンドン市内で運行したそうです。(ウキペディアより) ルートマスターは後部より乗車して、車掌にお金を払うシステムです。1970年代になると車掌を乗せなければならないルートマスターでは不経済となり、また、排出ガス規制の強化もあり、旧型のルートマスターに代わり、ワンマンバスが製造され運行を始めます。1990年代にロンドン市バスの分割・民営化ではルートマスターの車両は引き継がれるものの、やはり老朽化と身体障害者の為のバリアフリー化施策の問題もあり、ついに2005年引退に追い込まれました。当分は観光用として走っているので今のうちに乗って下さい。下は、新式のダブルデッカーですが、日本の観光バスと同じように見えて味気ないですね、1829年最初のロンドンバスは二頭立ての馬車だったそうです。バスとして、低料金で人を乗せる為に利益優先で、気づけば屋根にまで人を乗せて運行していたようです。一部のお客は、御者の席を踏み台に屋根によじ登ってしがみついていた。と言います。が、当然振り落とされる者も現れます。そこで、車体後部に螺旋の階段を取り付け、屋根を囲い、ベンチを取り付けたのが、ダブルデッカーの起源だそうです。このアイディアはイギリス人に好まれ、屋根の上の野外席は満員になったと言われています。その馬車の形体がエンジン車に代わっても引き継がれ、ダブルデッカーのロンドンバスが誕生します。それにしても、ロンドンのバスはなぜ赤いのか? と聞いても答えられる人がいません。ひょっとして初のロンドンバス(二頭立ての馬車)が赤かったのかな? と憶測してしまいます・・。理由が判ったらお知らせしますね。
2009年06月08日
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前回写真を見てもらって、ベネチアは水の上にある街だと言う事が解ってもらえたと思います。そして、今回は水の都の消防車ならぬ消防船を紹介。さらにベネチアの街の裏路地を紹介します。下が消防船です。そう見えないけど・・。消防署です。あのポールをつたって降りて来て船に乗り込むのでしょうか?船の車庫はかなりあります。船が小さいから沢山必要なのでしょう。だいたい消せるのか疑問ではありますが・・。なぜ船か? ベネチアの街には車が入れないからです。自転車も禁止です。だって走れる所がないですから。さらに、なぜ船が小さいか? 大運河以外の水路は恐ろしく狭いからです。下は路地? の写真です。狭いだけでなく、こんな低い橋が無数にあります。右の建物はレストラン入り口でしょうか?おそらく別の入り口もあると思いますが、風流ですね。船で乗り付けるのも・・。迷子になってきます。そして、ここで火が出て消せるのでしょうか? 石造りだから外見は残るのかな? 気づいたでしょうか、どの家もたいてい運河に向いて玄関があります。消防隊の皆さん場所探せるのでしょうか? 到着前に燃え尽きそう。でも、水だけはふんだんにありますね。ただ水はあまり綺麗ではありません。一部下水垂れ流しの所があるようです。昼のゴンドラでは気づきにくいですが、夜のゴンドラでは匂いが解るそうです。もちろん表に歩く路地もありますが、細く、くねくね入り組んで、水路より迷子になります。建物が皆似てるし、方向感覚が狂ってくるからです。でもとても面白い街です。はまります。観光客は日帰りが多いですが、やはりゆっくり泊まって堪能してほしいですね。
2009年04月27日
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入手しました。オーストラリアのシドニー市の消防自動車ですが・・。ん? はしごがない? 上に小さいのは一応あるみたいですが、本当に消防車なのでしょうか?日本と同じ赤ですが、親近感はないですね。CITY OF STDNEY COMMANDER と書いてありました。これは司令塔となる車だったのかな? シャッターの向こうはどうなっているのか????消防の歴史を調べようと思ったが資料がない。日本について少しわかった事だけ・・・。慶安3年(1650)、幕府は4,000石以上の旗本2人を火消役に任命。これが定火消と称する幕府直轄の火消組織のはじめかも。旗本の下にはそれぞれ与力・同心が付属し、臥煙(がえん)と称する火消人足が働く。最初2組で発足し、明暦の大火後(1658)に4組に増設。(定員は512人?)1組平均128人の大部隊である。この火消屋敷は現在の消防署に相当し、江戸城周辺の麹町、御茶の水、佐内坂、飯田町に配置され、江戸城防備が任務であったとされる。(消防火災博物館より)とかく江戸は火事が多かった。特に11月から5月の冬場。「関東のからっ風」と言う言葉があるが、冬に強い山越えの季節風が吹き、東京はとても乾燥する。そのせいだからなのか? 歴史を見ても大火と呼ばれる大型の火事は本当に多い。(江戸時代260年の中で大火は90件位あるらしい)今もそうだが、住宅やビルが密集していた事、そして何より燃えやすい木造建築で、日本の家屋はできている。今のような消防車のない時代、隣が燃えればドミノ倒しのごとく燃えていったのもわかるが・・。以前読んだ本でヨーロッパのある街(どこか忘れた)で大火が発生し、街そのものが全滅したそうだ。それを教訓に街は燃えない石造りの素材を選び家を建築。そして、最後の一つの石が教会に積み上げられるまで30年以上の年月を要したという。家は欲しいが、急がば回れで、十分考え時間をかけても二度と火事をおこすまいと言う考えの表れだ。素晴らしいと思った。それに引きかえ、日本人はとことん甘いなと思う。「燃えたらまた建てればいいさ。」的考えなのか? 単純なのか? 学習能力が低いのか? 消防士さんまかせにしないで少し自衛しなければいけないですね。2月にオーストラリアで大きな山火事があった。火事は放火で(2人逮捕)、181人の人が亡くなっていると言う。(動物はもっとだ!)最後まで自分の家を守るために防衛していて逃げ遅れた人達がほとんどだ。日本ならまず先に避難させられるが、国柄? 自分の家は自分で守れ! と言う考え方が根底にあるのか、いづれにしろ思うところの多い火事であった。 亡くなられた方のご冥福を祈ります。追記: 「火事と喧嘩は江戸の華」と言う言葉があるが、江戸っ子は野次馬根性が強い。(決して冷やかしではない)火事のサイレンが鳴ると家の家族は全員外に出て、どこの方面が火事か探す。火の手が見えようものなら弟は自転車でとんでいった(小学生の頃)。サイレンが鳴っているうちは夜中でも寝られない家族だった。
2009年04月24日
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昔、救急車を見て「冷凍車がサイレン鳴らして走っている。」と言って大笑いされたことがあるが、これまた日本と異なるのが消防車だ。色は黄色。「黄色が一番目立つ色だから。」だそうだ。 確かに・・! (ダイゴかよ!) 因みに、ここはホノルル動物園近くの消防署。所変わればいろいろですね。
2009年04月15日
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