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以前紹介してたいたものにリンク先を追加し、新規公開にしました。アメリカ・メインランドとハワイで書いた物のお勧め紹介です。全てではありませんが、ハワイは特にたくさん書いており、ビーチもたくさん紹介しています。正月の暇つぶしになれば・・。他の1~4はこれからリンク付けます。今回アンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)は整理したのですが、モニュメント・バレー(Monument Valley)は取りやめをました。写真の程度があまり良く無かった事も一つですが・・。ところで今回カテゴリー分けをしようとして今更ですが気付いた事があります。グランド・キャニオン (Grand Canyon)は1919年に国立公園(National Park)に指定されているのですが、同じアリゾナの中にあって、国立公園に入っても良いのに入っていない場所が幾つかあるのです。それがモニュメント・バレー(Monument Valley)や、今回紹介するアンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)などです。国立公園に指定されていないので、おのずと旅行書から漏れてしまう。世間の認知度が低い理由がわかってきました。旅行書では「アメリカの国立公園」と言う本は出ていても、その他は入らない。あんなにすごいのになぜ認知度が低いか。それはそこがアメリカ・インディアンの居留地だから? のようです。(居留地の中は彼らの自治権内。)※ インディアン居留地(Indian reservation)については、今回紹介している「自然アート アンテロープ・キャニオン 2 (Indian)」(2009年9月に紹介)で少しふれています。お勧めブログ・・バックナンバー 5 (Navajo Nationとハワイのビーチ)Navajo Nation アンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)自然アート アンテロープ・キャニオン 1~2モニュメント・バレー(Monument Valley)ハワイのビーチいろいろ旅行の注意他アンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon) 渓谷内部Navajo NationNavajo Nationはナバホ族の土地です。アリゾナ州にはインディアン居留地(Indian reservation)の中でもアメリカ最大規模のリザベーションが存在。それがNavajo Nationです。居留地内は独立国家に近いです。もともとアンテロープ・キャニオンなどはナバホの方々の主要な収入源の一つ。今回調べて見たらNavajo Nationの中のNavajo Parks and Recreation部門でNavajo Nation内の公園管理がされている事がわかりました。以下、アリゾナのNavajo Nation内の主要観光場所です。 1. Antelope Canyon (Antelope Canyon Tribal Park ) 2. Antelope Point Marina (Antelope Point Marina and Facilities) 3. Bisti Badlands (the Bureau of Land Management) 4. Church Rock - Rock Formation (Red Rock Park) 5. Coal Mine Canyon (Cameron Visitor Center) 6. Dinosaur Tracks (The community members nearby provide oversight) 7. Four Corners Tribal Park (Navajo Parks and Recreation) 8. Little Colorado Gorge (Cameron Visitor Center) 9. Monument Valley (Monument Valley Navajo Tribal Park)10. Shiprock. (ナバホの神聖な山につき立ち入り禁止)11. Wheatfield Lake (ボートや漁業ライセンス Navajo Nation Fish and Wildlife)12. Window Rock (Navajo Nation Parks & Recreation)13. Zoo & Botanical Park (The Navajo Nation Zoo)※ カッコ内は管理セクター※ ピンクは日本のツアーが入っている所アンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)自然アート アンテロープ・キャニオン 1 2009年09月リンク 自然アート アンテロープキャニオン 1自然アート アンテロープ・キャニオン 2 (Indian) 2009年09月リンク 自然アート アンテロープ・キャニオン 2 (インディアン居留地)アンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)は水による浸食によって形成された狭い渓谷。スロット渓谷(the slot canyon)です。地層の中の砂岩や石灰岩が長い年月をかけて雨や風により浸食されて形成された岩の中の隙間。特にここは鉄砲水による急激な水流により削られた所。古代隆起した岩山はちょうど斜めに断層が入り、そのうちの砂岩の部分が削れたのでまるで渦を巻くようならせん状に見事に美しく削られてます。まるでアート。狭い渓谷の上部から差し込む光と赤い岩肌が幻想的な世界を造りだす。アンテロープキャニオンの裏出口古いので解像度が悪いし、朝明けの光量の問題で今一つの写真です。お勧めとは言えませんが、モニュメント・バレー(Monument Valley)どんな所かちらっと載せておきます。※ 今回モニュメントバレーは編集し直していません。Monument Valley モニュメントバレー 1 (ナバホ・ネイション) 2010年06月リンク モニュメントバレー 1 (ナバホ・ネイション)モニュメントバレー 2 (バレー・ドライブ) 2010年06月リンク モニュメントバレー 2 (バレー・ドライブ)モニュメントバレー 3 (聖地・・エネルギー・スポット) 2010年06リンク モニュメントバレー 3 (聖地・・エネルギー・スポット)モニュメント・バレー(Monument Valley)先カンブリア時代以前より度々起きた造山活動で海中に沈んだり、地上に飛び出したりと、複雑な断層を形成。もともとコロラド高原の一部であった台地は雨や風により、もろい地層の部分が削れて崩れ落ち、面白いオブジェを残している。メサ(mesas)とビュート(Butte)メサ(mesas)はちょっと大きな卓上台地。table hillとかtable mountainとも。ビュート(Butte)は直訳すると残丘。フランス語で小さな丘を意味するらしい。残丘 ビュート(Butte)写真下の岩山メサ(mesas)もやがて削れてビュート(Butte)となるのだろう。そして、いつかビュート(Butte)も崩れて無くなるだろう。きっとこんな感じ・・。コロラド高原の浸食であるが、コロラド川が浸食しているグランドキャニオン(Grand Canyon)の切り立つ渓谷も、最終形はモニュメント・バレー(Monument Valley)の形になるだろうと予想されているらしい。後、何千年先かもしれないが・・。なんか巨大な砂時計を想い起こしてしまった・・。ハワイのビーチいろいろ天国のビーチと呼ばれるラニカイ・ビーチ(Lanikai Beach)はAmerica's Top Beachesに殿堂入りしたお墨付きのビーチ。他にサーファーに人気のオアフ島ノースショア(North Shore)のサーフ・スポットビーチなどを集めました。夏なので海の写真でも見て癒やされて下さい。ラニカイ・ビーチ(Lanikai Beach) 2012年10月 America's Top Beachesのせてます。リンク 「天国の海」ラニカイ・ビーチ(Lanikai Beach)とAmerica's Top Beachesノースショア(North Shore)シリーズハワイ最新情報 Hawaii Now 13 ノースショア(North Shore)1 ハレイワ(Haleiwa) 2011年11月リンク ノースショア(North Shore)1 ハレイワ(Haleiwa)ハワイ最新情報 Hawaii Now 14 ノースショア(North Shore)2 マツモト・シェイブアイス 2011年11月リンク ノースショア(North Shore)2 ハレイワ(Haleiwa) マツモト・シェイブアイス※1と2はハワイ最新情報の形で紹介していました。ノースショア(North Shore) 3 (サーフ・ショップ)・・・ハレイワ 2011年11月 リンク ノースショア(North Shore) 3 (サーフ・ショップ)ノースショア(North Shore) 4 (ワイメア、ラニケア・ビーチ) 2011年12月リンク ノースショア(North Shore) 4 (ワイメア、ラニケア・ビーチ)ノースショア(North Shore) 5 (ププケア・ビーチ・パーク) 2011年12月リンク ノースショア(North Shore) 5 (ププケア・ビーチ・パーク)ノースショア(North Shore) 6 (エフカイ・ビーチパーク) 2011年12月リンク ノースショア(North Shore) 6 (エフカイ・ビーチパーク)ノースショア(North Shore) 7 (サンセット・ビーチ 1) 2011年12月リンク ノースショア(North Shore) 7 (サンセット・ビーチ)ノースショア(North Shore) 8 (サンセット・ビーチ 2) 2011年12月リンク ノースショア(North Shore) 8 (サンセット・ビーチ 2)ノースショア(North Shore) 9 (タートル・ベイ&カフク) 2011年12月リンク ノースショア(North Shore) 9 (タートル・ベイ&カフク)番外 ノースショアエフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park) 荒れた海 2013年02月リンク エフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park) 荒れた海サンセット・ビーチ・パーク(Sunset Beach Park) 2013年03月リンク サンセット・ビーチ・パーク(Sunset Beach Park) サーフィンの大会ASPワイキキ2013年1月 ここはどこでしょう? クイズ 解答編 1 ハイアットからのクヒオ・ビーチ・パークリンク クイズ 解答編 1 クヒオ・ビーチ・パーク(Kuhio Beach Park)2013年1月 ここはどこでしょう? クイズ 続編 魔法石 2013年02月リンク クイズ 続編 魔法石 クヒオ・ビーチ・パーク(Kuhio Beach Park)双胴型ヨット カタマラン(Catamaran) 2012年01月リンク 双胴型ヨット カタマラン(Catamaran)マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 1 (出航)2012年11月リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 1 (出航)マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 2 (ワイキキのホテル)2012年11月リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 2 (ワイキキのホテル)マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 3 (アクティブ)2012年12月リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 3 (アクティブ)マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 4 (ダイヤモンドヘッド)2012年12月リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 4 (ダイヤモンドヘッド)アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 1 パークの歴史 2013年04月リンク アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 1 (パークの歴史)アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 2 マジックアイランド(Magic Island) 2013年04月リンク アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 2 (ハワイを造った会社)アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 3 先端 2013年04月リンク アラモアナ・ビーチ・パーク(Ala Moana Beach Park) 3 (マジックアイランド先端)アラ・ワイ・ヨット・ハーバー(Ala Wai Yacht Harbor) 1 船での入国 2013年04月リンク アラ・ワイ・ヨット・ハーバー(Ala Wai Yacht Harbor) 1 (船での出入国)アラ・ワイ・ヨット・ハーバー(Ala Wai Yacht Harbor) 2 桟橋から 2013年05月リンク アラ・ワイ・ヨット・ハーバー(Ala Wai Yacht Harbor) 2 桟橋からパワースポット他 ハワイカエナ・ポイント(Kaena Point) 魂がジャンプする場所 2013年01月リンク カエナ・ポイント(Kaena Point) 魂がジャンプする場所マカプウ・ポイント(Makapu'u Point) 1 2013年01月リンク マカプウ・ポイント(Makapu'u Point) 1マカプウ・ポイント(Makapu'u Point) 2 (パワー・スポット?) 2013年01月リンク マカプウ・ポイント(Makapu'u Point) 2 (パワー・スポット?)マカプウ・トレイル(Makapu'u Trail) 2013年11月リンク マカプウ・トレイル(Makapu'u Trail) 1マカプウ・トレイル(Makapu'u Trail) 2 (マナナ湾・Manana Bay) 2013年11月リンク マカプウ・トレイル(Makapu'u Trail) 2 (マナナ湾・Manana Bay)ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 1 2013年12月リンク ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 1ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 2 2013年12月リンク ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 2ハワイは他にもいろいろありますが、ビーチ関係中心だけ集めました。旅行の注意他パスポートの残り期間・フランクフルト空港 2016年04月リンク パスポートの残り期間・フランクフルト空港海外旅行ネット予約の注意点 2013年03月リンク 海外旅行ネット予約の注意点クルーズ(Cruises) ブームの到来 2017年03月リンク クルーズ(Cruises) ブームの到来また何か思い出したらまとめて見ます。お勧めブログと言うほどでもないですが「お勧めブログ、・ バックナンバー」 編でした。
2020年12月26日
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Break Time(一休み)今回は休憩。写真は青の洞窟(Grotta Azzurra)です。未知の病原体、新型のコロナウイルスが地球規模で蔓延始めた今日この頃。WHOがやっと世界流行として新型コロナウイルスのパンデミック(pandemic)を認めたが、すでに遅い。五大陸に及んでいるではないか。最初に発祥した中国の武漢から当初は韓国、日本のアジア圏だけであったが、それは時差を持って欧州やアメリカ大陸に上陸。対岸の火事が今自分達に降りかかって大騒ぎとなっている。対策は各国政府まちまちであるが、トップに力のある国は対処も早い。こう言う緊急時はある程度独裁的なトップの方が事の進み方が迅速に行く。各関係機関に根回しなどしていたらいつまでたっても決まらないからね。ところで、こんなさなかに海外旅行に出かけていた人達が案外多いのに驚いた。自分は大丈夫だと思っているのか? 先週ハワイ州知事がハワイに来ないでほしいと訴えていたが、それ以降も一日1500人くらい来ていたらしい。(ハワイでは今日の渡航者数が毎日公表されている。)公立の公園やビーチは閉鎖された。ワイキキビーチでは警官がビーチから観光客を排除していたらしいが、警官がいなくなるとまた集まってくるとかで収拾が付かない。州政府はついに決断。ハワイ現地時間2020年3月26日より、ハワイ居住者と訪問者にハワイ州到着後14日間の自己隔離を命じる新たな緊急宣言を発表。この義務は、アメリカ合衆国内で初めての措置、26日から米国本土および海外からハワイへ到着する全ての人に適用されるそうだ。ハワイではまだ感染者が少ないからなおさらである。レストランでの飲食禁止は要請から命令に変わった。現地の人もほぼ外出禁止となって自宅待機。観光の島ハワイがここまでしているのである。ホテルはすでにたちいかない。下からリストラも始まっている。世界がそんな中、3月22日、スタッフ含めて一万人規模の「K-1」を開催している日本。大丈夫なのだろうか? 感染したら自己責任? それは違うだろう。貴方が感染したら回りの人全員が隔離などの迷惑を被るし、年寄りに感染させてその人が亡くなったら責任はとれるのか? 世の中の感染は、まさに自己中の人が広めているのだろうな・・と感じたニュースである。もしかしたら自分はすでに感染しているかもしれない。そんな体で行動するべき時なのに・・。さて、今回は映像で楽しめる所は無いかと探した結果、前に紹介したポンペイと同じくイタリアのカンパニア(Campania)州からソレント半島の先にあるカプリ島の青の洞窟(Grotta Azzurra)の写真にしました。キレイなので・・。前に紹介していた青の洞窟をまとめて再編した感じです。撮影は2007~9年。近大都市とは異なるのでほぼ街の景観は変わっていないかと思いますがお断りしておきます。カプリ島 青の洞窟(Grotta Azzurra)カプリ島(Isola di Capri)(Island of Capri)青の洞窟(Grotta Azzurra)(Blue Grotto)島の歴史はやはりフェニキア人の交易基地から始まっている。(BC1200年頃)その後、シチリアと同じようにBC8世紀頃にギリシャ人が入植。ポエニ戦争の頃か? 共和制ローマの終わり頃、島はローマの支配に変わったのだろう。帝政ローマ時代には初代皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~AD14年)(在位BC27年~AD14年)と、その後継者、第2代皇帝ティベリウス(Tiberius)(BC42年~AD37年)(在位AD14年~AD37年)は特にこの島を気に入り保養地として過ごしていた事が知られている。※ 別荘の遺構も残っているし、島はローマ時代に大きく整備されている。ナポリから南に約30km。船で1時間くらい。ソレントからは20分くらい。もともとはカプリ島もソレント半島(Sorrento Peninsula)の一部だった。奥に見えるのがソレント半島撮影はVilla San Michele、カプリ島の西部アナカプリ(Anacapr)側から。カプリ島一番の見物が青の洞窟(Grotta Azzurra)(Blue Grotto)と呼ばれる海の洞窟(sea cave)である。それを見るだけの為に世界中から多くの人達が毎日島に来訪する。もともと沈下して半島から孤立したカプリ(Capri) 島は西と東の山で区分されるように存在している。東西に6km、南北で3km程度の小さな島である。西地区にアナカプリ(Anacapr)の街。東地区にカブリ(Capri)の街が存在。海賊が多かったと言う事でそもそもフェニキア人らが高台に街を築いたのが始まりだ。アナカプリ(Anacapr)の街がある西にはsolaro山(標高589m)が控え山頂までリフトも出ている。ソラロ(solaro)山からの島の西側。アナカプリ(Anacapr)側はセレブの別荘地でもある。一方、カブリ(Capri)の街は東のSan Michele山(標高262m)とTuoro山(標高266m)の間にある。マリーナグランデからケーブルカーが出ている。ところで、島はほぼ絶壁でできているので港は北に大きな港(Marina Grande)と南に小さな港(Marina Piccola)の2つしかない。外洋から来る船は全て北のマリーナグランデ(Marina Grande)に入港するし、青の洞窟見学の船もマリーナグランデから出向する。※ 青の洞窟見学はアナカプリを抜けて車でのアクセスもある。下はマリーナグランデ(Marina Grande)見える高台がカブリ(Capri)の街見える山がソラロ(solaro)山青の洞窟に向かうボートカプリ島は石灰岩で形成された島。海岸の周囲の多くは断崖絶壁となっていて、海の荒波に浸食され、削られ、形成された洞窟が幾つもであると言う。青の洞窟もそのうちの一つ。先に紹介した島の地図で見てもらうとカプリの島の北西の角より北よりの崖下にある。島内の交通の便よりは海からのアクセスのが良く、また洞窟見学は陸路からの人よりも船からの人の方が優先されている。船溜まりが洞窟の前でおきています。洞窟は自然環境の中にあり、天気や風による波浪の影響を受けやすいが為、いつでも見学できる場所ではないのです。せっかく島に行ったのに見学できない事も多々あるのです。洞窟に入れる確立は3~4割くらい。たいていはナポリやソレントからの日帰りなので、今日見学できるとなればその日に各地から集結するからです因みに、今回の写真は数年の何回かの写真からセレクトしていますが、見学できなくて近くから場所だけ見に行ったケースもあります。季節いろいろです。洞窟は海からボートでしか入れないので、階段で借りている人も、他からクルーザーで来た人もまた、ここで小船に乗り換えます。利権問題や安全性の問題もあり、洞窟前のボートと契約しての入場です。小舟は3~4人乗りで、その順番待ちは長い時で1時間以上(トイレもありません。)天気が良くない日は人も少なく、それでも入れればましですが、回りの日照が洞窟内のカラーに関係してくるので、できれば晴天の日の方が好ましい。とは言え、下に紹介した写真は海が荒れて入れなかった時のパターンです。せっかく見学の為にカプリに行って入れなかった時のショックは大きいですね。潮の干潮時の高さ約1m。干潮時と海が穏やかな時にのみ安全にアクセスできるわけですが、カプリ島では地中海ならではのシロッコ(scirocco)と言うアフリカから地中海を越えて至来する強風などの影響が初夏に見られます。要するに洞窟の入口の海上部分が低いとボートも通過できないと言う事です。初代ローマ皇帝アウグストゥスが気に入り、別荘地として島全体と対岸の土地を購入したと言われアウグストゥス帝の時代にいろいろ整備されたらしいが、2代ローマ皇帝ティベリウスは特に気に入リ、この島に12の邸宅を建てたと言われている。その一つがアナカプリ地区の島の西側にあるヴィラ・ダメクータ(Villa Damecuta)で青の洞窟のすぐ上。どうも最近の調査で、当時は青の洞窟の内部へのアクセスルートが地上からあったと言われている。ティベリウスは洞窟の落盤で奇跡的に助かった事が他で書かれている事からもしかしたらそれがこの青の洞窟だったかもしれない。※ 皇帝の館ダメクータはポンペイのベスビオ火山の噴火で灰におおわれその後放置されたと言う。入り口は幅2m、干潮時の高さ約1mの入口は狭そうに見えるが、洞窟自体は水深約150m(490ft)あるらしい。下は砂底。洞窟内部の長さ60m、幅25m。 以前書いた事ですが、下手な船頭の場合客が岩に頭をぶつけて血を流す事も結構あるようで、そんな時は洞窟への進入はすぐに中止。「事故はあくまで自然条件のせいだ!」と言う事で、その日は中止をもって終了になるようです。そんな時、料金は? もちろんここまでの船代は徴収されます。また2011年には洞窟に入った時に客の首が折れると言う事件も発生しているそうです。基本、自然現象の事故なので責任は負わないスタンスを船頭達は取るようですが、さすがにこれは損害賠償請求で解決したようです。洞窟内からのゲート狭いアーチ型の入り口と、その海面下には約10倍の大きさの開口部があるらしい。青の洞窟の光はこのゲートからの2種類の光源によりなるようです。またそれは当然であるが外の太陽光の強さでも変わるでしょう。下はまた別の日の色。何とも形容しがたい瑠璃色です。洞窟内部は60m×25mの広大な空間が広がっています。海面がきれいな青に輝くのは、やはり陽光の良い夏場が最高だそうです。太陽の傾斜角もあるらしい。そして一般的には青い色が最も美しく鮮やかに輝くのは、正午前後の10~14時くらいだそうです。(ナポリからの日帰り観光客で、一番混み合う時間帯)何度か入っている人によれば、このような洞窟入口からの発光する海面の鮮やかさも、天気の微妙な日にはかなりトーンダウンするようです。入れるだけでラッキーなんですけど・・。全ては天気次第、神様の配慮次第ですね・・。日頃の行いか?下はフラッシュをたいていると思います。陽光は水中に開いた空間を通して差し込み、その光は下にある水の層から屈折反射して、水面下のみを照らす。光が水を通過して洞窟に入ると、赤の反射が除去され、青の光のみが洞窟に入るプリズムの原理。水面から洞窟全体が紺碧の光を帯びて、より美しく、青く、神秘的な幻想世界を創り上げているようです。また洞窟の水の中にある物体は、不思議にプラチナ色にきらめいている。これは例えばオールなどに付いた泡が原因のようです。泡は光を周囲の水とは異なる方法で屈折させると同時に、その光源が下から来ていると言う事も理由のようです。先にも触れたローマ皇帝のティベリウスは現役中のAD27年にカプリ島に移住。洞窟は皇帝ティベリウスのプライベート・プールとして利用されていたらしい。洞窟の奥には水のニンフの神殿があったらしいし、1976年の潜水調査で、水深2mの所に岩盤を掘削して出来た壇や半円形にけずられた壁などが見つかっているらしい。祭壇か?2009年に洞窟の底から7つの彫像が回収。前のと合わせて、ローマ時代には海の神ネプチューン( Neptune)の像を先頭にしたトリトン(Triton)の像の群れが洞窟の壁に立っていたと考えられている。さながら海の神殿を模した物だったのかもしれない。それはルートヴィヒ2世(Ludwig II) が造ったリンダーホフ・ヴィーナス・グロッテ(Linderhof Venus Grotto)ような物だった?青の洞窟を古代の栄光に戻す意味で復元が考えられているらしい。※ リンダーホフ・ヴィーナス・グロッテは「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で紹介。リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)ところで、潜水調査によりローマ時代より島が2m沈下していた事もわかったようです。※ 2009年7月 カプリ島の登山鉄道(フニクラーレ)など他にもカプリ島について紹介していますが、初期の為に写真の色が変わっています。できれば差し替え造り直したい所ですが・・。その為、敢えてリンク先は紹介しません。今回はコロナ騒動の特別編でした。当分海外旅行には行けないですからね
2020年03月25日
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ツアーコンダクターの友人に寄れば、ここの所のテロの影響で日本人の海外旅行客が激減しているそうだ。それは欧州方面だけでは無いらしい。危ないからしょうがないけど・・。さて、前に告知していたデルフト紹介の前にハーグを少し紹介してからにしようと思う。オランダ周遊の旅行でもなかなか立ち寄る事が少ないハーグやデルフト。(ハーグとデルフトはとても近いがそもそも両者行っても日帰り程度のツアーが一般的。)3年前ハーグに3泊したのに悲劇があった。その時、マウリッツハイス(Mauritshuis)美術館自体が建物工事の為に2~3年の期間閉館中であったのだ。(行く前情報にそんなお知らせ無かったので、行って知って驚いた )マウリッツハイスの工事期間中はハーグの市立美術館で絵画を公開していると言うのでそちらに出かけたが目当てのフェルメールは無くてガッカリ。どうも目玉となる通常貸し出しの禁止されている名画は、美術館の工事期間中、世界中に貸し出されてドサ回りしている事が解った。(そう言えば前年日本にも来ていたような・・。)工事期間中にお金を集めるのが目的なのだろう。そんな情報一切なく、わざわざ美術館近くのホテルに宿泊。ハーグくんだりまで行ったこちらのショックはいかに・・であるしかも連日の信じられないドシャブリ続きに踏んだり蹴ったり そんなわけで長らく紹介するのも考え物であったが、苦肉の策で、最っと以前の写真を組み合わせて少しだけ紹介する事にしました 何しろガイドブックにもあまり資料が無いからね。デン・ハーグ(Den Haag) 1デン・ハーグ(Den Haag)ホフフェィファ(Hof vijver)の池デン・ハーグ(Den Haag)のデン(Den)はハーグに付いた定冠詞。町の名前はハーグ(Haag)?実は本当の名前はスフラーフェンハーヘ( 's-Gravenhage)「 伯爵の生け垣」の意だそうだ。つまりここは中世ネーデルラント(8~13世紀)を支配したホラント伯(graaf van Holland)の領地であり、現国会議事堂であるビネンホフ(Binnenhof)はその宮殿があった場所だったらしい。オランダ地図(まずはハーグの場所から)オランダ第三の都市、デン・ハーグ(Den Haag)は北海に面した街。デルフトはその下。16世紀にはネーデルランド連邦共和国ができるとハーグに連邦議会が置かれオランダ議会の中心地となった。元、宮殿のビネンホフ(Binnenhof)は今もオランダ議会の国会議事堂となっている。また、国連機関である国際司法裁判所が置かれている街である。それ故王侯貴族がこの街に集まり、オランダ王室4つの宮殿の一つハウステンボス宮殿(Paleis Huis ten Bosch)もここにあり、前ベアトリクス(Beatrix)女王が居城していた事でも知られる。デン・ハーグ(Den Haag)地図一部左上が北海赤い円が市の中心地ピンクの円がビネンホフ(Binnenhof)紫の円が国際司法裁判所である平和宮(Vredespaleis)デン・ハーグ(Den Haag)中心の地図右のオレンジがデン・ハーグ中央駅左の黄の円がデパートやショッピングアーケード、ブランド店などが集まる地区。赤い円がビネンホフ(Binnenhof)とマウリッツハイス(Mauritshuis)美術館とホフフェィファ(Hof vijver)の池。ビネンホフ(Binnenhof)入り口からホフフェィファ(Hof vijver)の池前の広場方面ハーグの主な交通は路面電車である。本数も割と多い。ホフフェィファ(Hof vijver)の池の前の広場。名前は特に書いていなかった。ホフフェィファ(Hof vijver)の池はビネンホフ(Binnenhof)の左手に長方形に造られている。ビネンホフ(Binnenhof)と池ビネンホフ(Binnenhof)は現在も国会議事堂として機能しているが、広大な敷地の中庭は生活道となっていて、通り抜けができるのだ。もちろん新議事堂の方などセキュリティはかなり厳しい。夜間閉まるかはチェックしていませんが扉自体が無かった気がする。ビネンホフ(Binnenhof)の中庭を抜け出た所。池のはずれにマウリッツハイス(Mauritshuis)美術館がある。最近行った時は、先に述べたように外観も修復中で、ホロが被っていた。だから写真はもっと昔の物。マウリッツハイス(Mauritshuis)美術館に行くのであれば、池の側からよりビネンホフ(Binnenhof)の中庭を抜けた方が早い。ここの目玉はもちろんヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer) (1632年~1675年)である。特に写真の幕にもある「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの娘)」はフェルメールの中でも一番人気かもしれない。ここはかつては写真撮影OKであったが現在は解らない。(行った時に代替えで作品公開されていた市立美術館は撮影禁止であった。)昔撮った写真はあるので、どこかで載せられれば紹介します。雨の時の広場から池普段、傘をささない国民性? のようだが、さすがに傘をさしている人もいた。ものすごいドシャブリで5月下旬であったが寒くてオーバーコートを着込んでいる人もいた。日本で言えばまだ冬の寒さ。ホフフェィファ(Hof vijver)の池には沢山の野鳥が生息している。四角い池は護岸がしっかり整備されて遊歩道になっているので人が多数通る道でもあるのにカモの親子が固まっていた。ものすごいドシヤ降りの中、身を寄せ合う小ガモ。そして周囲を警戒する親鳥夫婦。何でこんな人の通る場所に? 彼らは翌日もそこにいた。そこできっと卵を抱いて雛がかえったのであろう。要するにそこが巣なのだろう。それにしても夫婦で小ガモの世話をするなんてちょっと驚き。カモは交尾終わると関係が終わり、通常はメスだけで子育てすると思っていたが・・。中洲で子育てしなかった理由がわかった。中洲に住み着いて群れていたのはカモメであった。ハーグは北海に面している。少し内陸ではあるが遠くはない。日本でも上野の不忍池までカモメが飛来してカラスと縄張り争いしていると聞いたがここでもカモの居場所をカモメに占拠されたのかもしれない。カモメはカラスよりも強いらしいし・・。欄干に止まるカモメ全くここの鳥たちは人を恐れない。路面電車からの平和宮(Vredespaleis)雨が酷すぎて降りる気にもなれなかった。市立の美術館に行く途中に通過したのだ。下は以前撮影していた平和宮(Vredespaleis)1913年にアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)(1835年~1919年)の出資により建設された。NYのカーネギー・ホールで有名なカーネギーである。彼は後半生を慈善活動に献げたそうだ。ここは国際連合の主要な常設の国際司法機関である。皇太子妃雅子様の御父上 小和田恆(おわだ ひさし)(1932年~ )氏が、2009年から2012年までが日本人として初の所長としてハーグに着任された事で有名な所だ。次回、議事堂の見学コースに乗ったので、ビネンホフ(Binnenhof)内部を紹介します リンク デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)
2016年08月06日
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ザルツブルグの街で一番目立つのは旧市街、メンヒスベルクの丘(Monchsberg)に建つホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)です。このホーエンザルツブルク城は完全なる要塞です。しかし、前回まで紹介したヴァッハウ渓谷 (Wachau)の街とは全く異色の経歴で城塞は建築されました。通常は、防衛の為に城壁が築かれ、要塞化して街に発展。城塞は街の人々を守る為に活躍するものなのですが、ザルツブルグは他と異なり司教が個人的に敵から逃れる為に建設した要塞がルーツなのです。司教の敵とは誰でしょう?司教が裏切った司教区のオーナーである神聖ローマ皇帝。また司教の贅沢と課せられた重税に耐えかねたザルツブルグの農民と鉱夫たちです。(農民達の怒りは16世紀にピークに達します。)つまりザルツブルグの大司教は本来尊敬されるべき立場にありながら、正反対の人物で、この要塞を築いた・・と言う事です。ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)大司教の非難場所としての要塞メンヒスベルクの丘(Monchsberg)メンヒスベルクの近代美術館(Museum der Moderne Monchsberg)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)・・・・メンヒスベルクの近代美術館テラスから撮影場所とホーエンザルツブルク城はメンヒスベルクと言う同じ丘陵地にあります。ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)大司教の非難場所としての要塞前回紹介したように街の成り立ちは、ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 がこのあたりの布教の為にバイエルン王のきもいりでサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設したことに始まります。(696年)その後798年にはカール大帝の進言で大司教区に昇格。(この頃は平和だったのかもしれません。)10世紀になると教皇庁が勢力を強め管轄司教区の人事権で諸侯と対立が始まりました。これが叙任権闘争で、11世~12世紀にはローマ皇帝の支配権下でも教皇庁と対立が激化。当時のザルツブルグ大司教は教皇側に付き、この司教区を作ったバイエル王(神聖ローマ皇帝)を裏切りました。大司教はバイエルン王の報復を恐れてメンヒスベルクの丘に逃げ場所を作ったのが発端だったとされています。ホーエンザルツブルク城は1077年に最初の着工がされ、それから700年かけて増改築が行われています。最初はちょっとした建物から始まり、13世紀から15世紀には堡塁(ほうるい)が築かれ、同時に豪華な司教の邸宅も中に建設。砲弾はは1525年には攻めてきたザルツブルグの市民に向けられ、籠城を勝ち抜いた後も市民の再びの襲撃を恐れて城はより堅牢な要塞にされたのだそうです。(そんなに達の悪い司教が中世にはいた・・と言う事が信じられませが・・)旧市街とホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)ホーエンザルツブルク城眼下の旧市街A・・・ザンクト・ペーター教会墓地と岩窟カタコンベB・・・ザンクト・ペーター教会とザンクト・ペーター修道院C・・・コレーギエン教会(Kollegienkirche)D・・・大聖堂(Domkirche) 周りがレジデンツE・・・ザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)F・・・ザルツブルグ大学ザルツブルグ地図一部写真下の青い四角がメンヒスベルクの近代美術館テラス写真右のピンクがホーエンザルツブルク城メンヒスベルク近代美術館(Museum der Moderne Monchsberg)テラスから海抜507m※ 残念ながらここに上った時は雨でした。メンヒスベルク近代美術館にあるカフェ・レストラン・バー M32メンヒスベルク山の急斜面に2004年にオープン(月曜休館)今回美術館もレストランも入っていませんが、見晴らしのよいこのレストランは昼はビジネスマンなどで人気のようです。(テラス裏手には車が乗り入れられるルートがあるようです。)展望テラスと美術館行きのリフト乗り場入り口リフトの乗り口が非常に解りにくい。リフトのあるグシュテンガッセ通りの建物はメンヒスベルクの岩壁に張り付いて建っていて、一見普通のビル。リフトはこの奧、岩山の下に位置しています。写真下、リフトのチケット売り場。美術館に行かなくてもテラスだけ上れます。但しリフト代は有料(ザルツブルグ・カードが使用できます。)岩山の下の洞窟からリフトに乗れるのですが、ちょっと怖い感じです。何しろこの山は実は崩れ安く、17世紀には突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなったそうです。現在は定期検査して気をつけているそうですが・・。ホーエンザルツブルク城からのメンヒスベルクの丘(Monchsberg)・・西方面(近代美術館は丘陵右)遠方の山はドイツ国境にある山ホーエンザルツブルク城からの北西方面手前が旧市街地区で対岸が新市街地区対岸、新市街裏の丘陵はカプツィーナベルク(Kapuzinerberg)天気の関係で晴天、曇り、雨が入り交じった写真になり色合いが異なってしまいました (カメラの違いもあるけど・・。)つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)
2015年02月19日
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一年は早いものです。もう12月。初夏の旅行の報告が冬になってしまいましたが、今回はウイーンを離れて、夏のヴァッハウ渓谷ドナウ川クルーズから紹介です。(このクルーズは5月から10月初旬まで運行。)クルーズはウイーンより上流にあるメルク(Melk)まで行って乗船。途中デュルンシュタイン(Durnstein)で下船して観光して最後はクレムス(Krems)で下船して列車でウイーンに戻りました。風光明媚なヴァッハウ渓谷 (Wachau)はワインの産地でもあり、そのドナウ川両岸にはブドウ畑と古城が点在。クルーズの景観は2000年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。メルク(Melk)では崖の上に立つメルク修道院が目玉。デュルンシュタイン(Durnstein)ではイングランド王リチャード1世が幽閉されていた場所を探して山の城塞まで登ってしまいました。今回はイントロ。 全4回くらいになりそうです ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)列車でメルク(Melk)へメルク(Melk)の街メルク修道院(Stift Melk)ドナウ川はドイツ南部から始まり、現在は東欧諸国を10ヶ国ほど通過して黒海にそそぐ国際河川ですが、ローマ帝国時代、ドナウ川は侵入してくる蛮族(ゲルマン人)との攻防ラインだったそうです。そしてこの河川は内陸より黒海へ、そして地中海に出る事が出来たので古来より交易には欠かせない経済航路。中世に入ると帝国の国境は川を越えて広がって行きますが、やはり東は異教徒の領域。ドナウ川の沿岸には防衛の為の城塞がたくさん建てられたようです。半分廃墟になった城塞跡含めて古城がこのヴァッハウ渓谷 (Wachau)にはあちこち見られるのです。左下が上流通常乗船場所のメルクまではツアー・バスで行く方の方が多いと思いますが、個人旅行向けに列車での行き方を紹介。列車でメルク(Melk)へウィーン西駅からオーストリア連邦鉄道(OBB)のレールジェット(railjet)で出発。途中ポルテン中央駅(St.Polten Hbf)でローカル線に乗り換えメルク(Melk)駅まで列車で約1時間ほど。チケットは往復列車代とクルーズ船の乗船代。それにメルク修道院の入場圏付きのお得キップがあるのでネットで予約をしてから行くのがお勧め。(但し、クルーズの運行は5月から10月初旬までなのでキップもこの時期だけかも・・。)西駅の券売機or発券機下がお得チケット(上 列車往復チケット 中 クルーズ乗船チケット 下 メルク修道院観覧チケット)一人48ユーロ※ マシン以外に窓口で発券してもらえますが、1ユーロかかります。7:30発のレールジェット(railjet) Bregenz 行きポルテン中央駅(St.Polten Hbf)でローカル線のCity Shuttleに乗り換えポルテンから先、車窓は小麦畑 (写真撮影できるほど窓は綺麗 )メルク(Melk)駅オーストリアでの鉄道旅行はとても快適です日本とほとんど変わらなく清潔でサービスが行き届いているからです。これがドイツだとまあまあ・・になり、イギリス、フランスだと掃除は一日1回らしくゴミだらけ、窓もキズだらけでバッチイ感じ ※ レールジェット(railjet)については2014年8月「オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1・・2」で紹介しているから見てね。リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)ザルツブルグの所でQBBの発券機を紹介しています。リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)メルク(Melk)駅外観一応駅前ロータリーになっているが店は喫茶店1件のみ。何も無い。例えるなら私鉄のローカル駅。でもとても新しく綺麗でトイレもありましたメルク駅の正面からメルクの修道院が見える。一見近く見えるが実は谷があり、そこにメルクの街が広がっています。メルクの街に入るまで5分くらい。メルク(Melk)の市内とても綺麗な街ですこの当たりが街の広場らしいのだが、工事中で残念な状態 スラブ語でメルクとは「ゆるやかな川」を意味するそうだ。ローマ帝国の手が及ばなくなってからこの地に6世紀頃スラブ人やアヴァール(Avars)人がやってきたと言う。当時スラブ人はアヴァール王国の支配にあったそうだがアヴァール(Avars)人についてはよくわかっていない。中央アジアか、あるいは東ヨーロッパから渡来してきた新しい民族で、現在のハンガリー中心に遊牧国家を建設していたらしい。(彼らもゲルマン系かも・・。)もちろん宗教が異なるのでローマ帝国側からすると彼らは蛮族なのである。アヴァール(Avars)王国は804年頃にはドナウ川を征服してきたフランク王国のカール大帝に討伐されて滅亡。以来、ここはフランク王国の土地としてそこそこ重要ポイントになったようだ。メルクは修道院を中心に栄えた門前町と言うよりは城下町のような所。このあたりは修道院につながる路地がいくつかあるので観光客向けの土産物屋さんやカフェが建ちならんでいます。一番賑やかな通りです。パステルの色彩が可愛らしい。なんとなくアウトレット・モールにありそうな景観の建物が並ぶ・・修道院は小高い丘の上にある。こんな路地が幾つもあり道は修道院まで続く。次回メルク修道院からリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)他列車ICE インターシティエクスプレス(Intercity Express)リンク アウグスブルク 1 (Intercity Express)国際列車ユーロスター(Eurostar)リンク ユーロスター(Eurostar)ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)少し古いですが、スペインのレンフェ (RENFE)ですRENFE (Red Nacional de los Ferrocarriles Españoles)AVE (Alta Velocidad Española)リンク RENFE AVE (スペイン高速鉄道) 1リンク RENFE AVE (スペイン高速鉄道) 2
2014年12月08日
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前回に引き続き「最後の晩餐」見学の為の予約、支払い編ですが、チケットがとれにくい原因がわかったので説明しておきます。前編リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)チケットの予約は、基本、インターネットと電話の2通りです。しかし、予約の枠がそれぞれ違う事。加えて旅行社枠と言うのがあり、先に大口予約で押さえられているようです。(旅行社から買うと一人分だいたい30ユーロ位です)さらにEU圏の子供達には無料となっているので、学生の大口予約が入ってしまう場合もあるのかもしれません。実は今回、わずかの時間の間に仮予約していたものが他の方に取られてしまいました。その為に仮予約は解除され、会員登録のみしかできなかったのです。(先に会計した者の勝ち)予定の日付や時間が駄目な場合でも大口組のキャンセルで空きが出る可能性はギリギリまであるので何度もトライしてみるのが良いでしょう。(30ユーロと8ユーロでは違いすぎます)「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)さて、本筋の予約の続きです。重要なポイントは、この仮予約の有効期限が、認証が降りてから1時間しかないと言う事です。つまり認証されてから1時間以内に会計をしないと無効になってしまう・・と言うわけです。(メールが届いたら速やかに開いて会計画面にすすめ)「Vivaticket」から数分で送られてきたメール赤い→のアドレスをクリックすると先ほど仮予約していた「Vivaticket」のMy Cartの画面に飛ぶ。My Cartのはずなのにログイン画面が出てきた。(・_・?) ハテ?おそらく、登録している間に誰かに取られたもよう本来はMy Cartの画面から確認のチェックを入れると会計に進むはずです。駄目な時は再度、先ほど登録したIDでログインしなおして、日時から予約し直しです。今度は登録しているので早いですログインすると、前回と同じように月と日付の画面。そして空いている予約時間を選択すると下の画面になります。Seat Selection(座席数の選択)金額の所に人数を入れて、そのあと右下に出る画像認証文字列(CAPTCHA )の文字を入力。コンピューターと人間を区別するためのチューリングテストらしいが文字が難化しすぎて見分けが難しくなっている。(3回間違えるとOUT)Reservatopn Seat Assignation Summary座席予約の確認である。ADDで次の画面に進むとMy Cart画面が出る。しかし、注意書きが2つ出た。本来ならBのみで確認チェックするだけなのだが・・。Aの注意書きには、この予約した時間帯が有料ガイド付きの時間である事を告げでいた。追加料金の要求である。嫌なら時間を変更するしかない。尚、注意に気付かなくても次のページに進めないのでその時はガイド付きの時間帯の可能性があると考えてください。Aの注意書きにある黄色の円部、Click here をクリックすると下のようなガイド料金追加画面が出て来る。3.5ユーロは、日本語オーディオ・ガイドと同じ料金です。ここも右下に出る画像認証文字列(CAPTCHA )があるので入力。(嫌なら戻れば最初から・・になります。)支払い画面です上半分が詳細。下半分が支払い方法日本人の場合は、一般に一番下のCredit Cardsを選択クレジット・カードの情報入力画面Payment information・・・「Vivaticket」からの請求金額とIDなどBilling information・・・・・支払い情報 Card number(クレジット・カード番号) CVV2/CVC2/4DBC(クレジット・カードのセキュリティー・コード 裏にある下3ケタ) Expiration date(有効期限) Cardholder's name(カードに記載してある名前) Email for notification(通知用Eメール・アドレス) I agree to the treatment of data.(データ取り扱いに同意する)クレジット会社・・・VISA、Diners、Maestro、JCB、Master Card全て入力すると認証画面がでる。確認してPAY(支払い)をクリックすれば送信完了。「Vivaticket」からメールがすみやかに届きます。そのアドレスをクリックすると以下の画面が出ます。チケット予約完了「Vivaticket」からのPayment Receipt(支払い領収書) 2Pものの画面に変わる。この書類を印刷して当日持参。赤い星・・重要ポイントは、当日、予約時間の20分前に受け付けをしないと無効になる。・・・と言う事と、この2枚ものの領収書を印刷して持参する事。また、ID(日本人の場合はパスポート)を持参する事。・・・が、書かれています。チケット番号が記載されている。チケットの予約はこのような流れで誰でもできるはずです。行かれる方は出来れば早めに、駄目でも一度であきらめず、何度もトライして希望の日にちをゲットしてね※この予約の取り方は2014年8月1日時点で確認したものです。(支払い領収書の分は4月のもの)関係リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復
2014年08月01日
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前回、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の教会を特集しました。教会自体の見学に予約は入らないのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた食堂の壁画を見学する為に現在は予約が必要となっています。(昔はいらなかったが・・)その予約の仕方が非常に解りにくいので、少し紹介した方がいいのでは? と言うアドバイスがあり、簡単にネット予約の進み方を紹介する事にしました。本来行かない方には不必要な情報ですが、誰かの参考になれば・・と思います。「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)「最後の晩餐」見学の為の予約は、イタリアの大手チケット会社「Vivaticket」が独占販売しています。音楽関係など幅広く扱っている会社で、ここの会員登録をしてから予約をし、支払いをする・・と言う流れになっています。ちょうど日本の「チケット・ピア」で会員登録してコンサートを予約するのと同じような流れです。しかし、ここもピア同様に予約ソフトに問題があるようで、サクサクすんなり登録にいたらないのが現状です。何回もトライする事になると思います。尚、サイトはイタリア語と英語のみになっています。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂の壁画を見学する為のサイトhttp://www.vivaticket.it/index.php?nvpg[evento]&id_evento=298097&wms_op=cenacoloVinciano&change_language=1上のアドレスをクリックしてもらうとこの写真の画面に来るはずです。(イタリア語表示)画面左上に言語選択があるので英語をクリックすると画面は英語に変わります。最初に「Further Details」で表示されているのは(青い囲みの中)アクセスした日(現在)に予約できる日にちの詳細です。(画面は7月31日にアクセス)ここの説明が解りにくい書き方をしているのですが、7月の予約は4月8日から始まっていますよ。8月の予約は5月13日から・・9月の予約は6月11日から・・10月の予約は7月17日から・・規則性がないようですが、おそらく月の第2週目あたりに3ヶ月先の月の分の予約が始まる・・と言う事のようです。ですから7月31日現在で予約ができるのは、7月31日以降から10月の分までと言う事になります。もちろん早い物勝ちです。世界からアクセスが来るので望みの日時を押さえるのはAKB48のチケット並に厳しくなります。赤い→ BUY(買う)をクリックしてもらうと、下の画面になります。ここでは、8月のカレンダーが表示されています。次の月を見るときは右上の水色の→をクリック現在予約に空きのある日にちがオレンジで表示されています。例えば22日を選択してみると、右に時間割が出てきます。オレンジの所が空きのある時間となります。22日は、10:45と11:00しか空きが無い・・と言う事です。さらに時間をクリックすると何人分空いているかと言う事がわかります。赤く囲った所が空いている人数・・・13人の空きがあるようです。黄色の丸以下右がチケットの金額です。チケットの金額は一般の大人の場合、もし当日券があれば6.5ユーロですが、ネット予約の場合1.5ユーロの前売り手数料が加算されるので8ユーロとなります。尚、18-25歳の場合は当日券4.75ユーロに1.5ユーロ前売り手数料。18歳未満の場合は見学料は無料で前売り手数料の分1.5ユーロだけかかります。以下は、EU圏内に住んでいる人達の料金表です。当日券はほとんど無いので当てにしない方が良いです。しかし、どうしてもチケットのとれないままとりあえず行くのなら、18:15分が最終なので、16:00以降なら空きが出る可能性はあります。チケットを買っていても、当日時間20分前までに受け付けをしないと無効になるからです。青い囲みが注意のインフォメーションです。時間によってはイタリア語と英語のガイド付きのツアーとなり、ガイド料金が3.5ユーロ加算されるそうです。これについては、日時選択の所では解らないのです。会計の時に進まない時、ガイド料金の追加画面に入らないと決算できないようになっていて、その時にわかります。(英語やイタリア語のガイドが付く回に入ると、うるさいかもしれません。)因みに音声ガイドが5ヶ国ぐらい対応していて、日本語の音声ガイドを借りる事ができます(3.5ユーロ)。その予約もこのサイトでてきますが、当日借りる事も可能です。但し、音声ガイドを借りる時はパスポートと交換になります。(返却しない人がいるからでしょうか、返却した時にパスポートを返してもらえます。)会員ログイン画面 or 会員登録画面黄色の囲いが会員のログインiDを入れるところです。赤☆・・以下は会員登録の為の入力画面です。ACCESS DETAILS(アクセスの詳細)E-mail address (メールを受け取るアドレス)Username(本名でなくても愛称でもよい)Password (8ケタ以上のパスワード)Repeat password (パスワード再度入力)Consent (同意)・・プライバシーの同意Extended consent・・・ Vivaticketが他の商業目的でメールを送って来る事に同意するか?Newsletter・・・Vivaticketからの週間インフォメーションの発送SeatID・・・よく解らないが、SeatIDからのサービスを受けるか?DETAILS REQUIRED FOR PURCHASING(購入の為の詳細記入欄)Name(名)Surname(姓)Gender(性別) Secret(秘密)・Male(男性)・Female(女性)D.O.B.(生年月日)・・日/月/年の順(例えば11/07/90 ) or 右のカレンダーから選ぶPhone number(電話)Country(国)・・・・JapanProvince(県)・・・TokyoCity and Post Code (Aの欄に市区とCの欄に郵便番号)Address (Bの欄に町村と番地)Do you have the tax code (Codice Fiscale) for italian citizens?イタリアの市民のための税コード(Codice Fiscale)を持っていますか?Passport /Identity card (パスポートNo or IDカード)・・・日本人の場合はパスポートINVOICE DETAILS(送り状の詳細)Invoice heading (請求書は誰あてか?)・・・・Myself (same details as above) (自分) ・・・・A third person / address (第3者)Regulation (規約)・・規約を読んで同意する・・と言う事。赤い→Confirm(確認)クリック予約の詳細をあなた宛に送付しました。E-mail を確認してください。予約の仕方・・つづくリンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)
2014年08月01日
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Break Time(一休み)またマレーシア航空に悲劇が・・。3月にインド洋の南で消息を絶ったマレーシア機の事はまだ皆の記憶に新しいですが、今度は撃墜されたとか・・。(。>_<。) なぜ? "(ノ_・、)" 17日、アムステルダム10:30発、マレーシア航空17便は自国のクアラルンプールに戻る為にウクライナ東部を飛行中に撃墜された。ちょうど私がミラノからフランクフルトに向けて飛んでいた頃だ こちらはフランクフルトで国際線に乗り換えて何も知らずに帰国の途についていた。そう言えば機内アナウンスで、どの航路で帰国するか日本語でも詳細にアナウンスされていたのがやけに印象的だった。欧州から東京へは一般に北欧上空を通過してロシア、中国を通り日本に戻るのだが、東南アジアの国々にはウクライナ上空を通過して南に下るようだ。扮装が始まってウクライナ上空を回避する航空機は確かに増えていたそうだが、撃墜10分後にもインドやシンガポールの飛行機が上空を飛んでいた・・と言うのだからゾッとする。国際紛争地とは言え、一般の旅客機を撃墜するとは信じがたい行為である。わざとなのか? 間違いだったのか? 真相は絶対解明されなければならない。283人の乗客と15人の乗員のご冥福をお祈りします (>人<*)さて今回は機内食をざっと公開。旅行の写真整理に時間がかかるので手抜きもあります f^^*) ポリポリルフトハンザ7月の機内食(ビジネス編)羽田発→ミュンヘン 離陸後羽田発→ミュンヘン 着陸前ミュンヘン発→ウイーン(チロル航空)ミラノ発→フランクフルトフランクフルト発→羽田 離陸後フランクフルト発→羽田 着陸前ビジネスの食事はペニンシュラ東京のシェフが手がけていると言うが・・。羽田発→ミュンヘン 離陸後離陸後のビジネス洋食コース(3種の前菜より選択)鶏のテリーヌ、マッシュルーム、レーズンレリッシュサラダ(ミックスリーフ、ピーマン、水菜、デトロイトサラダ、イエローチェリートマト)パンは選べてこれは美味しかったです。洋食の主菜牛頬肉のトマトグレーズ、リークガレット、トマトペペロナータテリーヌはそこそこおいしかったけど肝心の主菜のお肉は火が通り過ぎて駄目。何より主菜が来るまで間が開きすぎて食欲が萎えてしまった。外国の飛行機の場合、食事のサービスに間が開きすぎるのが難点。主菜がまずくなるのも、サービスが遅すぎて肉に火が通り過ぎてしまうからに違いない。(もしかしたら人出不足なのかもしれない。)いくらペニンシュラ東京のシェフが内容を考案しても、サービスの段階で台無しになってしまうのだ。これならちょっと高級な弁当を出してくれた方がはるかにおいしいかも・・。因みに、チャイナ航空では食べたらすぐに皿をさげて行く。とにかく早い。しかし、あまりに早くてそれもどうかと思うが・・。離陸後のビジネス和食コース穴子寿司、だし巻き玉子、南瓜、京芋昆布巻き、空豆、海老芝煮小鉢(蒸し蛸、キュゥリ、赤カブ、昆布、土佐酢)茶そば台の物牛肉すき焼き、ゴボウ、白菜、椎茸、焼きネギ、ご飯味噌汁(安いインスタント)、香の物2種チーズとデザートこれについては食べなかったので写真を撮りませんでした。ビールはいつもは飲まないが、ドイツ機なので白ビールを注文してみた Erdinger Weissbier -With Fine yeastとてもまろやかでフルーティーな味わい。女性向き。(帰りの便でも注文したが、帰りの便は冷えていないビールを出して来たのでまずかった。)ビールはそこそこ冷えていないと美味しくない機内のサービスのきめ細かさも日本からの便は最高だけど帰りの便はいつも最低。羽田発→ミュンヘン 着陸前着陸前、洋食(2種の前菜より選択)地中海風野菜、バルサミコ酢マリネハーブ風味鶏胸肉、菜の花?、ポテトコロッケ? ディジョンマスタード(メニューと中身が若干異なる)着陸前、和食袱紗玉子、鶏照り焼き、もろみキュゥリ、ゴボウのキンピラ鰆の幽庵焼き、里芋、南瓜、サヤエンドウ、ご飯味噌汁(安いインスタント)、香の物2種ミュンヘンで飛行機を降りた後に撮影。まもなく自分の荷物が運ばれるミュンヘン発→ウイーン(チロル航空)ビジネスのみの食事サービス。メニュー表は無いが左の主菜がローストビーフとサラダ。黄色いのはパプリカ右がデザート、カイザーシュマーレン(パンケーキとプラムのソース)冷たすぎて最低にまずかった。せめて暖かければデザートは美味しかったはずなのに・・。ミラノ発→フランクフルト(ルフトハンザ)冷え冷えの鶏肉とチーズ2種と一見焼きそばのようになったパスタデザートのベリー3種とカスタード、チョコレート付きお土産にドイツ人の好きなジエリーキャンディー飛行機型付きフランクフルト発→羽田 離陸後離陸後のビジネス洋食コース(3種の前菜より選択)車海老のカクテルとグリーンアスパラガス(アスパラガスたったの1本)季節のミックスサラダ、ハーブドレッシング主菜3種より選択 写真がピンボケでしたステーキ・エステルハージ、アンナボテトエステルハージとは?? どうもハンガリー料理に起源を持つグーラッシュ (goulash)の事らしいです。ハイドンを庇護したハンガリー貴族、エステルハージ家が考案した牛スネ肉と野菜の煮込み料理らしいのですが、オーストリアで食べたグーラッシュ (goulash)とはあまりに違うので気付きませんでした。離陸後のビジネス和食コース鶏挽肉入り卵焼き、蟹寿司、蛸寿司、椎茸の海老真丈、牛肉野菜巻き、山桃、甘酢ショウガ小鉢(鰻ざく)蕎麦台の物牛テンダーロイン朴葉味噌焼き、茄子の焼き浸し、人参、椎茸、グリーンアスパラガス、ご飯漬け物、吸い物サービスが遅いから、全て火が通り過ぎてどれもまずい。良い状態ならそこそこのはずなのに残念。チーズとデザートはいたたぎませんでした。フランクフルト発→羽田 着陸前着陸前、和食厚焼き玉子、からし明太子(得たいの知れない明太子?)、鶏つくね、ひじき炒め煮、キュウリの漬け物小鉢(絹ごし豆腐、ネギと生姜)台の物(鮭の西京焼き、高野豆腐、大根、筍、サヤエンドウ、ご飯)味噌汁(安いインスタント)フルーツ(グレープフルーツ2房と葡萄1粒)これはまずまず。鮭の西京焼きは一番おいしかった。全体に体裁は良いが、総じてまずかった。・・と言うよりサービスが遅くてメインまで居眠りするほど。因みに席は3番目。場所としては早いサービスになる。他社では、あらかじめ何を食べるか前もって聞いてくるのだが、其れが無い。だから後方の人達は選ぶほどなかったかもしれない。もしかしたら昔よりビジネスの座席を増やしすぎてサービスに手がまわっていないのかもしれない。それともたかがビジネスか?座席と荷物だけで良しとして、もともと食事に期待してはいけないのかもしれない。(同じビジネスでも昨年乗ったKLMはもっとサービスが良かったけどね・・。すてきなお土産もあったし・・。)次回、サンタ・マリア・デッレ・グラッィエ教会予定。
2014年07月20日
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ミラノに立ち寄った最大の目的。以前紹介した事もある高級食材屋さんの「イル・サルマイヨ(Il Salumaio)」の生ハムとモッツァツェーラ(水牛のチーズ)を食べたかったからです 実はその前日も行ったのですが、移転していて改めて出直しところが行ってみたら店は2年前に移転して総菜を縮小。レストランを150席くらいに拡大して様変わりしていました ガッカリε~(;@_@)総菜よりレストランを広くした方が儲かるからなのでしょう。場所がらモンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone) 通り中心に高級ブティックのならぶセレブな方々が集まる地域なので、レストランもちょっと高めですが、店そのものが潰れていなくてよかった・・とホッとしたところです。ところでミラノ観光と言えば世界3番目に大きいカテドラル、ミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano)とレオナルド・ダ・ヴィンチ製作の「最後の晩餐」の壁画です。昨日は壁画のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会((Chiesa di Santa Maria delle Grazie)に行ってきましたが、現在、壁画は保存の問題で1度に部屋に入れる人数の制限を始めました。つまり、見学したい場合は要予約で3ヶ月前に申し込みしなければならなくなりました。だからいきなり来てもほとんど当日券は無いので入るのはなかなか大変なのです。しかも入場券は転売をふせぐ為に予約の名前確認にIDを持って来いと書いてありました。時間もきっちりしていてかなりうるさいです。予約できてラッキー ヽ(*^。^*)ノ なのでした。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の写真は帰国してからの予定。今回はミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano)をチラッと紹介。欧州旅行 Now 4ミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano)ゴシック建築の壮大な大聖堂である。しかし、どこに行っても修復工事中。特にミラノは来年エキスポがあるらしくどこも工事。工事で写真が絵になりませんエキスポやるなら街の地図や標識くらい設置しろよ・・と言いたい。とにかくミラノは街にも駅にさえも地図がなく、どこの出口から出たらいいのかもわからない。外に出ても標識無いから方角がわからない。有名な見学場所や教会くらい「ここが出口」くらいの看板が欲しいのに何もない。人に聞くとたいてい間違いを教えられる。それは彼らも英語が話せないから、そもそも意味が判っているのか? もあるのだろうが、早く自分の前から去ってほしいから「あっちだよ」と適当に指を指すパターンもあるのだ。今日も美味しいと言うレストランを教えてもらったが、道々3人の人に聞いたが、結局たどり着けなかったし・・それに迷っていたり、観光客しているとスリに狙われるのでそれも気を付けなければならない。駅は特に危険。大聖堂前のドゥオーモ広場ドゥオーモ広場、聖堂まえより右手にヴィットリオ・エマヌエレ2世のガレリア(Galleria Vittorio Emanuele II)がある。ドゥオーモの外壁にはたくさんの彫像が張り付いている。さすが、ミラノの大聖堂。フライング・バットレス(flying buttress)も半端ない装飾です。大抵のゴシック教会のはシンプルな梁しかありません。ここはまさに火炎のパッド。しかしよく見ると花柄だったりいろいろ柄がありました。とにかくレースのようで美しい。と言うか近くで見るとかわいいのです。実はここは聖堂の屋根の上です。上まで登れるのです。階段とエレベーターの2つあり、もちろん値段は違う。それについては資料見てから後日です。後から大聖堂の美術館に行ってみました。外に飾られている彫像など今やほとんどがレプリカになっているようです。やはり大理石なので風雨で摩耗が激しいのでしょう。ところで、イタリア人は歩くのが速い。とにかくせっかちのようで、横断歩道でなくても信号が赤であろうと広い道路を平然と渡る。そして電車の閉まるのが非常に早い。人が挟まれようがかまわずバッシリと閉められる。今日もベビーカーを押して入った母の方が挟まれていた。母はすぐに電車内に入りこんだが、それとほぼ同時に電車は発車していた。何て恐ろしい・・では写真も多く撮ったのでよりよい写真を選びながらミラノ大聖堂も帰国して改めてやります。今日も朝から忙しい マタネ!(゜-^*)/~
2014年07月17日
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先ほどアウグスブルクから戻って来ました。行きの列車の途中からドシャ降りになり、アウグスブルクもまた悲劇雨の中の観光となりました。3時頃からやっと晴れたのですが、せっかくの鐘楼登頂も写真が微妙でした。ドイツに来てから朝はコートが必要な寒さです。7月と言うのにホテルでもベットにはフトンがのっています。服屋さんももう70パーセント・セールで寒いまま短い夏が終わってしまったようです。オーストリアではライン・クルーズで日焼けして真っ黒になったのにな・・。欧州旅行 Now 3今回も予告兼ねて・・。昨日のミュンヘンは、たまたまルートヴィヒ2世 (Ludwig II)三昧となりました。彼の生まれた城から墓場まで・・。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)今回は取り急ぎ、写真の吟味をしていないので逆光の写真ですみません m(_ _)m 宮殿には彼の生まれたお部屋がそのまま残されています。美貌の第4代バイエルン国王(在位1864年~1886年)ルートヴィヒ2世 (Ludwig II)( 1845年~1886年)はノイシュヴァンシュタイン城を造り、ワーグナーを庇護し、とにかくロマンティックな物が大好きな王様でした。メルヘン王・・などとも呼ばれるようですが、子供のメルヘンではなく、大人の知識人のセレブな嗜好を現実に造り上げてみせた人です。その為にどれだけのお金を使ったか・・。ニンフェンブルク宮殿には馬車の美術館があり、彼が彼の為に造り上げたそれは見事な馬車や馬具、ソリが何台も展示されていました。それも帰国してから紹介予定。ミヒャエル教会(Michaelskirche)こちらは彼の柩が収められている教会です。ルートヴィヒ2世 (Ludwig II)の柩1886年6月13日にシュタルンベルク湖で謎の死を遂げた彼は現在ミュンヘンにあるミヒャエル教会(Michaelskirche)の地下に眠っています。都心にあるけど興味のある方でないと割と行かない地味な教会です。これもまた帰国してからちゃんと載せます。今回はお墓に縁があるな・・と思いつついろいろなお墓をバシバシ撮影してきてしまいましたが、何気に撮影したもので、私も初見の珍しい物を見つけました。詳しくはまだわからないので、私も帰国してから調べてみるつもりです。レジデンツ博物館(Residenz Museum)部屋その物が、ものすごい分厚い壁の金庫になっている中のガラスケースの中に展示されていました。宝石のたくさんちりばめられた王冠はなぜおなじようなザブトンに乗っているのか?・・と思ってよく見たら、これはどなたかの頭蓋骨を覆うマスクのような物だったのです。つまり座布団の上に頭蓋骨が乗っている・・と言う写真です。この部屋は聖体顕示代などが多くおそらくどなたかの聖人のお骨などのおさめられた聖遺物の部屋だと思われます。残念ながら部屋にはドイツ語の説明もろくになかった。全般にドイツは外国人の旅行者にやさしくありません。観光案内も標識もほとんどなく、あっても英語さえない場合も・・。駅で電車に乗ってもどっち方面なのか方角がわかりにくい。ウロウロしていると怪しい人に狙われる率も高くなる。いろいろ気を付けなければならない事が多くて気付かれしています。では ヾ( ^ _ ^ )マタネー
2014年07月12日
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すでにNowどころか3つ目の滞在地に移動日となってしまいました毎晩疲れて食事をしたらバッタリで・・・(;^_^A取り急ぎ解答編から欧州旅行 Now 2この国で最も愛されている音楽家の像です。新王宮裏にある王宮庭園に彼の像がたっています。(ウイーン)ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)ついでにザルツブルクの彼の生家(現在滞在中の街です)ザルツブルクの街(ホーヘンザルツブルク城から)写真中央の大きな教会がモーツァルトが洗礼を受けた教会です。彼の功績はこの国の1ユーロ・コインの肖像にも使われています。おまけ・・以前「ユーロ(Euro) €」 の特集をした時に紹介したと思いますが、ユーロはお札は各国共通。しかし、コインのみはその国で勝手に鋳造できるので、絵柄でその国がわかるようになっています。右からオーストリア、イタリア、フランス、ドイツ、スペイン(尚コインの絵柄は記念硬貨など各国複数ある場合があります。)ついでに幻か?・・・とも言える普段は流通しない高額紙幣500ユーロを手に入れたので紹介しておきます。以前のお札シリーズ「ユーロ(Euro) € Part 2 100ユーロ札と20ユーロの札束と50ユーロの札束」の時に紹介できなかった分です。オーストリアと言えばハプスブルク家の女帝マリア・テレジアも外せません。ウィーン自然史博物館 (Naturhistorisches Museum Wien、NHMW))と美術史美術館(Kunsthistorisches Museum, Wien)の向かい合う公園の真ん中にあります。因みに前回紹介したブルク門の前です。マリーアントワネットの母としでも有名です。今回はマリア・テレジアの墓所であるカプチーナ教会(Kapuzinerkirche)も行って来たので帰国してから紹介します。マリアテレジアと夫で神聖ローマ皇帝になったフランツ1世は二人同じ柩に眠っている。二人一緒というのはなかなかめずらしい。ウイーンの新王宮(ブルク門から)新王宮ではハプスブルク家の武具が展示されています。どこかで紹介出来れば紹介しますが、多すぎて途中で写真撮るのも疲れてしまいましたそれに時代がハプスブルク家の時代に限られていたので、装飾性の高い中世後期の華やかな武具が多かったです。さて今回雨の間に間に撮影しています。特にザルツブルクに来てから夕方からヒドイ雨が降ってズブぬれになりました。どうも東欧域に大嵐が来ているらしいのです。昨日はとても寒くダウン着ている地元の人もいました。こちらもレインコートくらいは持参していたのですが、それにカーデガン程度ではとても寒かったです。昨日はローマもものすごく冷えたそうですし、ボンは嵐だったそうです。これから出発するミュンヘンの天気もかなり悪そうだと聞いているのできれいな写真が撮れるのか心配です。ではまた Ю(^▽^)
2014年07月10日
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出発してすでに1週間。実は今日移動日です もっと早くに載せたかったのですが、ネットのつながりが少し遅いのと、毎日精力的に移動しているので夜は疲れて へろ へろへろ~ (;@_@)ノパソコン見ながら居眠り o( _ _ )o...zzzzzZZなかなかパソコンなどしている暇がありませんでした。そんなわけで解説無しで近況写真から公開していきます。欧州旅行 Now 1すでに1週間経過していますが・・。例によって大気圏から空の写真なんとなく落ち着くので好きです。今回はほとんど山はなく、へいたんな丘陵地ばかりの所です。かつて東西ベルリンの真上を飛んだ時、畑の違いですでに国境がありました。整然としているのが旧西ドイツ。これはつまりこれはミュンヘン近郊の農地です。まずはミュンヘンでトランジットです。今年はルフトハンザで旅行。今年3月より羽田便が就航。初羽田発で出かけました。やはり成田より近くて少し楽です。ただ、サービスはかなり落ちた気がします。(機内食などまた改めて・・)ここから欧州(ユーロ圏)に入国。再び飛行機を乗り換えて次の目的地に。これで夜の8時です 明るいです。(昨年のベルギー、オランダほどでは無いけど・・。)国会議事堂前を走る市電。これは旧型車です。(味があって好きです。)音楽の殿堂です。(今回は内部ツアーにも参加したのでまた後日)さて、ここはどこでしょう
2014年07月07日
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Break Time(一休み)旅行も長くなると荷物が増えるので(重量が・・)洗濯を念頭に着替えを減らして出かけ、ブリュッセルに滞在中2度程コインランドリーに出かけました。厚手のトレーナー等、手洗いはともかく脱水が無理ですからね・・。そんな訳で今回はブリュッセルでのコインランドリー苦戦物語となっています。そして、その苦戦の中で見えたのが、日本の自販機の能力がいかにすぐれているか・・と言う事でした。ブリュッセルのコイン・ランドリー(苦戦物語)日本の自販機は世界一やっと見つけたコイン・ランドリーそもそもクリーニング店すら見つけられなかった。日本と異なり大きな看板は無いので見つけるのが大変。結局観光局で聞いて、グランプラスの近くで探したのですが、こちらではお店はどこも景観をそこなわないような造りになっているので前まで行かないと何屋かわからない店は結構多いです。。写真奧がシーツのアイロン機械です。シングル・シーツ分の幅は十分あります。奧の左が乾燥機でその前の台は洗濯物をたたんでいく人が利用。大型の一台は他のマシンの2倍のお値段。たぶん毛布などの大物用。そこそこ清潔に管理されているので使用に抵抗はありませんでした。しかし、問題は説明のほとんどがフランス語になっていた事。マシンの使い方がわからなくてかなり苦労しました。(もともと日本でコインランドリーに行った事もないし・・。)写真右の販売機はスナックに見えますが一回分の洗剤を売っている販売機。その左隣が両替機 ?1回用の洗剤はかなり分量が多いです。(日本の洗剤は進んでいるな・・と思った。)ウォッシュ用一袋1.10~1.30ユーロ。リンス0.5ユーロところでこのマシン何? 最初意味がわからなかった (・_・?) ハテ?Jeton 3.80ユーロとは?マシンの上の貼り紙は結構重要な説明だと言う事が後から解った 1段目がフランス語、2段目がオランダ語、3段目が英語の解説。悩んだ末に理解できたのは、ここのコインランドリーの洗濯機は直接現金では使用できないと言う事。洗濯機1回利用するのに1 Jetonが必要。 1 Jeton のコインが3.80ユーロする。つまり両替機はJetonコインを買う為の販売機だった。しかしここで賢くない販売機の問題が・・。このマシンはお札しか投入できず、しかも細かい融通の効かないバカ機だったのだ。1 Jetont 買うのに5ユーロ入れれば1 Jetont(1回分)のコインと残り1.20ユーロのおつりが出るが、5ユーロが無くて10ユーロ入れると2 Jetont(2回分)のコインと残り2.40ユーロのおつりが出てしまう。同じく20ユーロ入れれば3 Jetont(3回分)のコインと残り8.60ユーロのおつりが出るシステムなのだ。割引があるならまとめて買ってもいいが、まとめて買っても割引無いし、失うかもしれないコインを先に買っておく必要もない。そもそも20ユーロ入れても1 Jetontと16.20ユーロのおつりを出せる機械を置けよ・・と思った洗濯時間は50分くらい。30度から60度までの熱水を選択できるようになっている。尚、途中では開けられないので終わる頃に来れば良い。(遅れると盗難に遭うかも・・。)乾燥機にも問題があった・・。乾燥機には0.20ユーロと0.50ユーロのコイン投入口がある。つまり乾燥機は現金が直接使える。しかし、0.20ユーロと0.50ユーロ・コインしか使用できないのだ。乾燥時間は0.20ユーロで2分程度と0.50ユーロで5分程度だった気がする。当然そんな時間で乾くはずもなく、コインは大量投入しなければならず、コイン不足に陥るのである。しかも、ここにはコイン両替機は無い。半生で持ち帰る人がいたので不思議だったのだが、コインが足り無かったせいなのか?せめて1ユーロが入るマシンにすれば良いのにさ・・・・と思った ところで、乾燥機は3段階の温度が選べます。ドラムは大きいので15分から20分くらいでたいていは乾くでしょう。尚、洗濯機と異なり、乾燥機は途中で開けられるので付ききりでいないと洗濯物を盗まれる可能性があります。注意です。日本の自販機は世界一そもそも自販機の両替機・・・と言うもの自体欧州ではあまり見かけない。存在自体が希少なのである。日本ではあまりに当然にお札も小銭も使えるマシンがあるので、何かを買う為に両替する事などあり得ない。しかし、欧州の販売機は「お札を入れても一定の小銭しかおつりが出せない。」とか、2種の小銭だけ・・とか、酷いときは釣り銭が出ない。要するに機械のレベルが低いのである。洗濯機のコインにしても、20ユーロ入れても1 Jeton(3.80ユーロ)~5 Jeton(19ユーロ)まで選んで購入できるのが本来当たり前の事。しかし、こちらではどうも機械の能力低い故に釣り銭が出せないようなのだ。だから一定の釣り銭のみ可能なシステムになっているのだろう。(日本の松屋とかの販売機を見たら彼らは驚くに違いない。)釣り銭の問題でマシンが使用できえない事も多々あった。ゲントで市電のキップを買う時に釣り銭切れで機械が使えず仕方なく車掌からキップを購入。こちらでは車掌からキップを買うと高くなるシステムだ。(日本では定額と思いがちなものでも、買う場所により値段が変わる事は結構ある。)できれば販売機で購入したい。しかし、販売機はどこも問題が多すぎる。ブリュッセルで市電(半メトロ)のチケットを買った時の販売機も微妙な機械であった。みんながチケットを買えずに悩んでいた。それはまさか・・の「マシンがデシタルとアナログの混合でできていた」からだ。行く先の駅の名前を指で指してもピクリとも反応しない。駅の選択は画面横の丸い出っ張りを手でクルクル回して駅名の位置にハンドルを持って来ないと確定できないようになっていた。(あんな機械私も初めて見たが隣にいたインド人もベルギーの若者も誰も解ら無かったのだ・・。)海外に出てわかる日本の凄さは販売機にもあてはまった。日本の自販機は超スーパー・エリート君なのである。自販機業界の方、欧州にどんどん売り込みに行って見てはどうでしょう。市場は広いです。でも、釣り銭狙いで壊されたりマシンごと盗まれる確率は日本より多いだろうからそちらの対策が問題かな?
2014年01月29日
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写真の添付ができなくなり中断していた件ですが、原因がわかりました。Firefoxで書き込みした所、こちらは最新版にも対応していました。どうも楽天ブログではMicrosoft Internet Explorerに重きを置いていないようです。楽天ブログの推奨環境はExplorer 8 以上(※Internet Explorer 11 は動作確認中)Firefox 最新版先月末より自動更新されていたこちらの環境はInternet Explorer 11.0.2だったので対応していなかったようです。ちょっと信じられない感があります。あまりポピュラーではないFirefox の方が最新版に対応しているなんて・・ 写真はStarwood Hotels & Resorts ワイキキのsheraton Hotelのビーチサイド・プールから海側に新しくできたプールは水平線と一帯になっていてちょっと素敵。特に夕日は絶品かもしれない。
2013年12月12日
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アムステルダムで飛行機を乗り換え、最初に入ったのがロンドンでした。ありきたりのロンドンではつまらないので、やはり、行った気になれるように普通は紹介しない細部にこだわり紹介することにしました。ロンドン(London) 1 (テムズ川)1802年ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)ヒースロー空港周辺テムズ川(River Thames)とロンドン国際線利用者数では世界一にして、イギリス最大の空港がヒースロー空港(London Heathrow Airport)(LHR)です。その着陸直前の写真が下です。(機内から撮影したので色調調整しています)ちょっと驚く川と池?たぶん湿地帯を造成して農地や街があるのかも・・。ヒースロー(LHR)は一応グレーター・ロンドン(Greater London)の西端にあります。グレーター・ロンドンの総面積は1,572 km²と言うので、東京都(2,187km²)より小さいけど23区(621km²)よりは広い。ここも一応ロンドンなのです。ヒースロー空港(London Heathrow Airport)(LHR)確かに都心までは1時間。成田よりは近いけどずいぶん田舎です。グレーター・ロンドン(Greater London)グレーター・ロンドン(Greater London)は特別区で、公式にはイングランド9つの州の1つとされているようです。東京で言えば23区をさらに特別扱いしたようなところかな?ウィキメディア・コモンズから借りてきました。グレーター・ロンドン(Greater London)の回りを世界最長の環状道路と言われる「M25 motorway」と言う総延長117マイル (188 km)の環状高速道路が通っています。ヒースロー空港は使い勝手が悪い空港です。ターミナルをつなぐモノレールでもあればいいのに、増設に増設を繰り返しこんなに広いのにロンドン市内行きバスターミナルは1カ所のみ。どのターミナルからも遠くて乗り替えるだけでもどれだけ歩くか・・。テムズ川(River Thames)とロンドンところで上の湿地を見ながらガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦記(ガリア戦争の遠征記録 第4巻 BC55年) 第1次ブリタンニア遠征が思い浮かびました。かつてブリテン島はローマに支配されていた。ロンドンの語源と言われるケルト語で「沼地の砦」ロンディニウム(Londinium)はローマ人が最初に築いた砦だったと言われています。ロンディニウム(Londinium)・・・その意味は「渡るには幅が広すぎる川」それは「テムズ川」を指していた。これもウィキメディア・コモンズからです。実はもともと上流の川幅が狭い場所をテムズ川と呼び、下流の渡るには幅が広すぎる部分をプロワニダ (Plowonida) と呼んでいたらしい。テムズ川(River Thames)はロンドンを海とつなぐエスチュアリー(estuary)三角州だそうで、カエサルもすでにガリア戦記の中でテムズと呼んでいたらしいが、ローマ帝国支配下のBC43年、川が海の満潮時に潮が遡上して達した地点の川辺ににローマ軍は集落を形成。(現在は河口から90kmまで海水が遡上)プロワニダ (Plowonida)の川辺の街はロンディニウム(Londinium)と呼ばれるようになったようです。ロンドンの歴史はテムズ川無くして語れないのはそんな理由があるからなのでしょう。テムズ川 ロンドン・アイとウエストミンスター橋ロンドン・アイから見たウエストミンスター橋国会と時計塔(ビッグ・ベン)方面ロンドン・アイのカプセルの中から撮影\乗る前は晴天だったのに、長い順番待っていたら自分が乗ったときにいきなり曇り、頂上で雨に降られる・・と言う不幸が (Ω_Ω)ウエストミンスター橋の袂からクルーズ船が就航途中から晴れてきたのですが、天気がネコの目のようにくるくる変わり、写真に統一性がでません ・°°・(>_<)・°°・タワー・ブリッジ(Tower Bridge)訂正 タワー・ブリッジ(Tower Bridge)の上から下流方面を撮影(ガラス越しです)大英帝国が世界を制した18世紀、テムズ川は世界で最も交通量の多い河川になり、世界最大級の港湾になったそうです。しかし、繁栄の一方、19世紀、産業革命期のテムズ川は工場からの排水や屎尿が垂れ流しとなり、汚臭でテムズ川辺にある国会議事堂では議会も開けなくて移転する・・と言うひどさだったそうです。現在は下水は川には流れず下水管によりに海に廃棄されていると言う事です。Back numberロンドン(London) 1 (テムズ川)リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2)リンク ロンドン(London) 6 (バトラーズ・ワーフ)リンク ロンドン(London) 7 (シャッド・テムズのカフェレストラン)リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)リンク シティのパブ The Edgar Wallace リンク ケルト(Celt) のドラゴンリンク ロンドン(London) の地下鉄(Underground)リンク ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリアリンク 英国のEU離脱の失敗 ・ ウェストミンスター宮殿
2013年06月04日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました。今回で滝は終わりです。ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 4 (滝の行方)Knife-Edge Bridge前々回ザンベジ川の峡谷(Gorge)を紹介しましたが、実はこれら峡谷はかつてのビクトリア・フォールズの跡だそうです。パブリック・ドメインで登録されているNASAの航空地図から ザンベジ川と滝の空撮細くジグザクしているのが前々回に紹介した峡谷。滝部分(First Gorge)は水煙で白くなっている部分。数万年毎に移動していると思われる滝は、ただ浸食されて後ろに後退しているのではなく、別の滝を誕生させて大きく移動して後退。つまり前回紹介したような地質の関係で、川の底に新たなクラックが入り陥没。そこに新しい滝が生まれて川の流れは変わる・・と言うわけです。それ以前の滝まで水が運ばれなくなるのですから以前の滝は死に、やがてそこは地に埋まった島のように孤立した場所になって残る。実際現在の滝見学のFirst Gorge前のポイントもかつてはザンベジ川だった場所です。上のNASA空撮写真に記しをつけてみました。白・・・・・・・・・・現在の滝の水煙・・First Gorgeオレンジ・・・・一部峡谷を印してみました。 最初のオレンジはビクトリア橋のあるSecond Gorge これはかつての滝の場所と想定されています。レッド・・・・・・・川の中に記した新たなクラック 数万年内には滝になる可能性のある新たなクラックが入りかけた場所。滝は10万年近くかけてこのように移動してきたと考えられています。航空写真で観察するに、過去には今以上の滝が存在した事が考えられます。現在全長1.708kmの滝ですが、峡谷の長さを見れば3km越える場所もありますから・・。現在ビクトリアの滝は西のDevil`s Cataractの方に広がっているといいます。そこを拠点に北東方面に次の滝と峡谷ができる可能性はかなり高そうです。Knife-Edge Bridgeから右の水路がFirst Gorge写真はSecond Gorgeに回り込む形で少し角度を変えています。Second Gorgeの入り口目の前の不自然な川の流れとその壁面(左岩壁)は、まさにかつての滝が落ちていた場所だったように見えます。まさにここに岩壁(滝)が存在してそれはEastern Cataractにつながていたのでは?このあたりに深い水たまりがあると言いますが、昔滝壺であったらなら、納得です。対岸はジンバブエ国立公園のNo15(Danger Point)の見学ポイント1855年にリヴィングストンが発見して現在157年。その程度の年月で滝に変化は見えないでしょうが、いつか滝の動く時はクラックが突然開かれて一夜にして川の流れが変わる・・と言う事も考えられます。その時の滝も見てみたいものです。Knife-Edge BridgeからのSecond Gorgeバンジー・ジャンプをしていたヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)Second Gorgeこんな峡谷もかつて滝だったと思うと感慨深いものに見えて来ます。滝は必ずしも山から落ちて出来るわけではなく、地が割れて滝ができる事もあるのだ・・。ビクトリア・フォールズはそんな滝でしたね。back numberリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 1 (Devil`s Cataract)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 2 (Main Falls)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 3 (Zambian side)ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 4 (滝の行方)リンク 2012年8月 ここはどこ? クイズ 1 (バンジーの場所は?)リンク ヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)関連リンクリンク デイヴィッド・リビングストン サファリ・ロッジ(David Livingstone Safari Lodge)リンク ザンベジ川(Zambezi River)の渡し
2012年08月26日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました。滝の写真は水煙でボケているので、見えにくい物は見やすいように色調調整しています。特に滝は東西に横たわるので、メイン・ホールの撮影は逆光になりやすいのです。ところで今回はなぜ滝が出来たのか? を掘り下げて地質にせまってみました。ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 3 (Zambian side)洪水玄武岩(flood basalt)と頁岩(けつがん)カルー超層群(Karoo Supergroup)洪水玄武岩の影響・・・・カルー氷河期(Karoo Ice Age)山も谷も無い平原のどこに巨大な滝が存在するのか?リヴィングストンも最初は信じられなかったかもしれない。彼はザンベジ川を上流から下り滝の目前までたどり着いたようです。そして、現在も滝の真ん中に位置する彼の名を冠したリヴィングストン島(Livingstone Island)まで船でたどり着き上陸。彼は滝を「イギリスにあるどんなものとも比較できない美しさであり、ヨーロッパの人達は誰も眼にした事のない凄い物である。」・・と形容したそうです。確かにそれは凄かった。でもその歴史を見るともっと凄かったかもしれない。ザンビア共和国からのヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) このポイントは滝の右岸です。アフリカで4番目の長さを誇るザンベジ川(Zambezi River)はアフリカ南部からインド洋に注ぐ全長は2750kmの河川です。その河川の途中、大地が割れてできたクラックが巨大な滝を形成。今から10万年以上前には現在よりも大きな滝が存在していた事が解っています。(但し、この場所ではありません。)Eastern Cataract(101m)滝の落ちる岩盤を見ると一目なのですが、岩盤は頁岩(けつがん)となっています。下の写真は岩盤がよく見えますが、実はこれは上のEastern Cataractの水の無い時です。乾期が激しかった時の写真ですが、東はどんどん後退、西のDevil`s Cataractの方が滝の勢いが増しています。ここはいずれ(何万年か先?)滝ではなくなる場所なのです。洪水玄武岩(flood basalt)と頁岩(けつがん)この土地の・・と言うより、南部アフリカの岩盤はプレートテクトニクスにより古生代に起きた、パンゲア超大陸の形成と分裂。さらに西ゴンドワナ大陸の分離(アフリカ大陸と南米)が行われた大陸移動と言う、海嶺による活発なマグマ活動で生成された玄武岩の堆積層がベースになっているようです。年代的には古生代の石炭紀 3億5900万~2億9900万年前中生代のジュラ紀 1億9900万~1億4500万年前までの間?洪水玄武岩(flood basalt)流動性が良く薄く拡がる玄武岩質溶岩が何度も繰り返し重なり、やがて高大な台地や高原を形成。このあたりではさらに玄武岩だけでなく、その上に砂岩や泥岩が層状に堆積して頁岩(けつがん)を形成。(上の写真)頁岩(けつがん)水中に堆積した泥が元になっているので、生物化石も含まれているらしいが、これは南部アフリカの面積の3分の2を覆う規模。カルー超層群(Karoo Supergroup)と呼ばれている。カルー超層群(Karoo Supergroup)南アフリカからザンビア、ジンバブエ、マラウィに広がる超層群。後期石炭紀から前期ジュラ紀にかけての生成と言うのでほぼ3億年前~1.7億年前にできたと推定。洪水玄武岩の影響・・・・カルー氷河期(Karoo Ice Age)実はカルー氷河期(Karoo Ice Age)と言う時代が影響しています。洪水玄武岩の噴出は大量の火山ガスの噴出でもあり、太陽光線の遮断、そして寒冷化と言う当時の地球環境に多大な影響を与えた氷河期が起きています。3億6千万年前~2億6千万年前のほぼ石炭紀。玄武岩と言っても環境で成分も異なるそうです。ヴィクトリア・フォールズを形成したクラックは、重なる玄武岩の流出とその冷却時に形成されたジョイントが浸食されて出来たと考えられているのです。First Gorge(最初の渓谷)の東の端すなわちこれがビクトリア瀑布の東の端でもある。現在のザンベジ川は北から南に流れている。そしてビクトリア・ホールは完全に東西に走り、同じくFirst Gorgeも東西にのびる渓谷を形成している。果たしてザンベジ川がいつ出来たかは推定しがたいが、少なくとも230万年前から140万年前に生存していた人類の祖、ホモ・ハビリス(Homo habilis)の石器が滝近辺で出土している・・と言うから、その頃に川自体は存在していたかもしれない。そう言えばアフリカ大陸は人類の祖が誕生した場所でしたね あちらに渡らないとメイン・ホールの方が見えない。右がレイボー・ホールと水煙の凄いのがメイン・ホール左奧がジンバブエ側で見学した場所こちら側からしか見られない場所もある。Danger Pointはこちら側からの方がよく見える。First Gorge(右)から滝の水はこの水路に・・。ここは Second Gorgeの入り口である。つづくリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 4 (滝の行方)back numberリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 1 (Devil`s Cataract)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 2 (Main Falls)
2012年08月24日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました。ヴィクトリア・フォールズはなぜできたか? と言う問題を調べていたら、それらに触れた文献が見当たらず、手探りであれこれ読んでいたら、途方もない太古まで遡ってしまいました。結論はだんだん見えて来たところです。ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 2 (Main Falls)Main FallsHorseshoe Falls5つの滝(Five waterfalls)7つの渓谷(Seven Gorge)玄武岩で出来ているこの滝の最大落差108m。増水期である4月の水量は毎分62万立方メートル。その時の水煙は800mにもなり、50kmの遠方からも確認できると言う。写真はメイン・ホールを臨める場所から写真右に見える緑は対岸ではなく、滝の中央に位置するリビングスト・アイランド(Livingstone Island)またまたヴィクトリア・フォールズMAPで場所の確認から地図では川の真ん中に位置する島(Livingstone Island)の左がMain Fallsです。5つの滝(Five waterfalls)全長1.708kmの滝には、部分部分でそれぞ名称がついています。滝に向かって左から1. Devil`s Cataract(70m)2. Main Falls(93m)3. Horseshoe Falls(95m)4. Rainbow Falls(108m)5. Eastern Cataract(101m)7つの峡谷(Seven Gorge)ビクトリア・ホールを抜けたザンベジ川は玄武岩のクラックでできたジクザグしたいくつかの峡谷を抜けるのである。1. First Gorge(最初の渓谷)・・・滝そのものを形成するクレパスのような峡谷。2. Second Gorge(2.15km)・・滝からわずか250m。 クイズで紹介したバンジーの橋(ヴィクトリアフォールズ橋)の峡谷。3. Third Gorge(1.95km)4. Fourth Gorge(2.25km)5. Fifth Gorge(3.2km)6. Songwe Gorge(3.3km)7. Batoka Gorge(120km)・・Songwe Gorge以下の峡谷の総称切り立った玄武岩の岩壁は平均120m。これら゜峡谷はかつての滝の跡だと言う。 8. Main Falls (93m depth) メイン・ホール 落差93m水しぶきがひどくて写真は霞がち。カメラもズブ濡れ、何しろ傘も壊れる水しぶきなのです。だからここでは雨合羽が必需品。後の着替えも必要です。他の晴天の日の写真をひっぱってきました。月は同じ10月ですが、この年はたぶん乾期が長く続いていて水量が少ない年だったようです。13. Horseshoe Falls (95m depth) 馬蹄の滝 落差95mこれが First Gorge(最初の渓谷)写真左奧がメイン・ホール途中滝が途切れているのはLivingstone Islandがあるから。水が少ないですがこのあたりが馬蹄の滝。奧はレインボー・ホール。14.Rainbow Falls(108m depth)15.Danger Point、Eastern Cataract view (101m depth)ここから先はザンビア領内写真はバンジーの所で紹介したものです。下も前に紹介したものですが、2つめの峡谷、Second Gorge(2.15km)です。次回ザンビア側からのビクトリア・フォールズと生成の謎にせまりますリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 3 (Zambian side)back numberリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 1 (Devil`s Cataract)
2012年08月21日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました。滝と言えば、以前ナイアガラの滝を特集した事がありましたが、今回のヴィクトリア滝は比較にならない大きさです。ナイアガラ含め、今回のヴィクトリア滝とさらに大きいイグアスの滝は世界の三大瀑布と呼ばれていますが(日本だけ?)、ナイアガラのスケールは小さく、なぜナイアガラの滝が世界三大瀑布に入ったのかちょっと不思議です。以前ナイアガラを特集した時のバックナンバーです。よかったら参考に見てね 2009年06月「ナイアガラ・フォールズ(Niagara Falls) 1~4」リンク ナイアガラ・フォールズ 1 (瀑布の歴史)2009年06月「ナイアガラのレインボーブリッジ」リンク ナイアガラのレインボーブリッジ2009年10月「ナイアガラ川(Niagara River)国境越え 1~4」リンク ナイアガラ川の国境越 1 (カナダ出国)ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 1 (Devil`s Cataract)ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls)・モーシ・オワ・トゥーニャ(Mosi-oa-Tunya)悪魔の瀑布 (Devil`s Cataract)前回書いたように、ヴィクトリア・フォールズの世界遺産登録名を2つ載せておきました。そして滝幅はとても長いので見学のスポットは点在しています。せっかくなので何カ所か写真で紹介。今回写真は悪魔の瀑布 (Devil`s Cataract)からです。ジンバブエの国立公園からの滝マップ(地図)水しぶきでびしょ濡れになる滝なので、防水用にパウチされています。ヴィクトリア・フォールズは幅が1.708km。滝全体は一目で見られないので、対岸の遊歩道を歩きながら滝を見てまわる為の滝マップです。地図にはナンバーがあり、ぞれぞれの滝の名称が入っているのでお勧めです。因みに国立公園事務所には売店がなく、この地図は市内の売店で購入。それにしても滝のほとんどがジンバブエにあるように見えますが、国境は川のほぼ中央を走り、空撮で見ても実際は半々くらいのようです。前回のウイキペディアの空撮写真で再確認。橋が国境なので、左の陸地がジンバブエ側。地図はこちらのみです。ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls)の見学はジンバブエ側とザンビア側の双方から見られますが、ジンバブエ側の方がルートが作られているので見学しやすいようです。滝見学の注意ですが、見応えのあるのは水量の多い2~5月なのですが、その時は水しぶきで濃霧となり、ほとんど下から見る事ができません。水量は地味でも乾期の終わりくらいに行くのがベストかもしれませんね。滝見学のコースは川の左側。ジンバブエ側マップの1~3 悪魔の瀑布界隈から(空撮では残念ながら切れて悪魔の瀑布 (Devil`s Cataract)が写っていませんが・・。)1.Top of Devil`sCataract(悪魔の瀑布の頂)2.Devil`s Cataract view.3.Devil`s Cataract (70m deps)悪魔の瀑布 (Devil`s Cataract)と呼ばれるポイントと右が瀑布の島(Cataract Ialand)ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls)が見渡せる場所から写真奥がメイン・ホール左手前が悪魔の瀑布 (Devil`s Cataract)虹の綺麗に出ていた写真をひっぱって来たのですが・・。同月の写真ですが、年か違います。なのにこの年は水量が少なすぎるのか? 緑が少ないです。ザンベジ川(Zambezi River)の水量が周りの生態系に及ぼす影響は大きいです。ところでこのヴィクトリア・フォールズにはボツワナにある動物の楽園、チョベ国立公園を流れるチョベ川の水も含まれています。この少し上流カズングラ(Kazungula)でチョベ川が合流しているのです。チョベ国立公園は2009年11月に「ボツワナの動物 1~14」で紹介しているので良かったら見てね。メイン・ホールを臨むザンベジ川(Zambezi River)の橋ところでカズングラ(Kazungula)橋建設事業と言うのがジャイカ(JICA)の案件にあります。アフリカ各国を流れるザンベジ川には橋が少ないそうで、アフリカの交易を脅かしているそうです。ボツワナとザンビア国境地点であるカズングラに橋をかける為の出資を日本は考えていると言う事でODA(政府開発援助)が身近に感じられました。アパルトヘイトにより、遅れたアフリカ経済立て直しの為の大切な事業です。完成予定は2017年12月らしいですが、(現在はフェリーで往復)早くできればヴィクトリア大橋のように近隣住民も助かる事でしょう。ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) つづくリンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 2 (Main Falls)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 3 (Zambian side)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 4 (滝の行方)関連リンクリンク ザンベジ川(Zambezi River)の渡しリンク デイヴィッド・リビングストン サファリ・ロッジ(David Livingstone Safari Lodge)
2012年08月15日
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最新の「アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 」シリーズのリンク先をラストに載せました。Break Time(一休み)モンセラート(Montserrat)さて、「アントニオ・ガウディ カサ・ミラ」のPart2に行く前に是非紹介しておきたい写真があるのです。ガウディのファンであるなら聞いた事があるはずのモンセラート(Montserrat)。ここはスペイン、カタルーニャ州、バルセロナの近郊にある岩山で、現在はカタルーニャ州政府により自然公園に指定されている場所です。標高1235mの岩山の中腹には11世紀に建立されたベネディクト会系のサンタ・マリア・デ・モンセラート修道院があり、黒いマリアは有名です。古くよりスペインのマリア信仰の聖地として知られた場所なのですが、今回は山のほうのみの紹介です。赤色の礫などが集まってできた堆積岩の岩山は、そのノコギリのような形状から「ギザギザな山」と言う意味で「モンセラート(Montserrat)」と名が付けられたそうです。カサ・ミラ(Casa Milà)の呼称がラ・ペドレラ(La Pedrera)「石切場」と言う話は前回書きましたが、この山を見て逆にカサ・ミラを想起したのは私だけではないと思います。上と下の写真はサンタ・マリア・デ・モンセラート修道院です。この修道院はガウディがバルセロナで建築を学び建築設計事務所でアルバイトをしていた時(1873年~1877年)にその装飾にかかわった場所とされています。因みにガウディが手がけたのはロザリオの秘跡を表したモニュメントの第一秘跡「キリストの復活だそうです。現在秘跡のモニュメントは15。キリスト教徒はこれと、「ラ・モレネータ」と呼ばれる黒いマリアを見に行くのです。(何れサンタ・マリア・デ・モンセラート修道院を紹介する時に諸々写真が紹介できれば・・と思います)黒いマリア像が発見された、聖なる洞窟に行く為にはさらに登山鉄道(フニクラ)で登る。ガウディの研究で有名な芸術史家のG・R・コリンズ(George R. Collins)はカサ・ミラ(Casa Milà)を「人間の手によって建築された岩山」と評していますが、この場所はガウディ作品に多大な影響を与えた場所であるのは間違いありません。ガウディが自然を建築した建築家・・と言われる由縁の場所ですね。Back numberリンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線リンク ガウディ博物館 1 (グエル公園)リンク ガウディ博物館 2 (ラ・トーレ・ローザ・la Torre Rosa)リンク ガウディ博物館 3 (ガウディ家の人々)リンク ガウディ博物館 4 (ガウディの病気)リンク グエル公園(Parc Guell) 1 (2つのパビリオン)リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)リンク グエル公園(Parc Guell) 3 (大階段のタイル)リンク グエル公園(Parc Guell) 4 (列柱ホール)リンク グエル公園(Parc Guell) 5 (ギリシャ劇場)リンク グエル公園(Parc Guell) 6 (擁壁と柱廊)リンク グエル公園(Parc Guell) 7 (テクスチャーにこだわった柱廊と陸橋)リンク アントニオ・ガウディ カサ・ミラ 1 (外観)リンク アントニオ・ガウディ カサ・ミラ 2 (パティオ)リンク アントニオ・ガウディ カサ・ミラ 3 (屋上1)リンク アントニオ・ガウディ カサ・ミラ 4 (屋上2)リンク アントニオ・ガウディ カサ・ミラ 5 (屋根裏の梁)関連リンク コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho)リンク ガウディの椅子 モンセラート(Montserrat)
2012年05月06日
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恐ろしい事態ですどれだけの被害になるのか怖くて仕方がありません私のブログを読んでくださっていた方の中にも被災者or被害者になった方がいました。被害がどんどん判明して行く度にやるせない思いで胸がいっぱいです。どうか一人でも多くの方が生還される事を願っています。そして避難者の方がご家族に会える事を願っています。NHKで見ました。被害は避難所にいる方だけではないようです。まだ救済の入らない取り残された村もあるようです。さらに、被災地近辺のいわき市にも取り残されて高熱を出して、餓死しそうな赤ちゃんを抱える母がいるそうです。いわき市は原発の風評被害で物流が止まり、さらに医者や警察も逃げてしまったと書かれていました。ガソリンもなく他の街に逃げる事もできずに取り残されてしまったようです。いわき市からは救いの手は出ないようです。近隣の自治体の方が救済の手をさしのべてあげて下さい。とにかく誰よりも先にベビーや小さな子供を救ってあげて欲しいです。尚、米軍が80km待避した事で動揺が出ているようですがきちんと放射線を計って国が数値を出しているのですから、国の避難指示でカバーできているはずで、少なくとも大人は慌てる必要はないと思います。私たち人間はいつも太陽から放射線を浴びて生活している事を忘れないで下さい。Break Time こんな時に書く気にもなれず、落ち込んでいました。とりあえず写真だけのせます。モロッコ、ウァルサザートアフリカ大陸の北西端に位置するモロッコさらにモロッコでも南に近いマラケシュよりもさらに南東にウァルサザートは位置しています。アトラス山脈のふもとにあたるカスバ街道最大の街・・写真はその周辺です。1928年に街が出来て以来サハラへの前進基地として外人部隊が駐屯したところで、今もモロッコ軍の駐屯地になっているそうです。名産品は化石です。癒しか逃避か? に、なる写真を探してみました。避難所で苦しんでい方々がいるのに・・と思うと更新すべきか悩みましたが、和める写真があれば時々更新することにしました。
2011年03月18日
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南極大陸 スペシャル第3弾実は今回は緊急告知を兼ねています。昨日朝からバソコンが完全にネットにつながらなくなりました昨日から修復の為のデータのバックアップをとってインストゥールし直しをする準備をしているのですが、、メールの分のバックアップが未だ終わっていないのです。当然プログどころではないのですが・・・せめてお休み告知の為、バージョンの低いスペアのパソコンで今回も仮入力をしています。修復完了まであと2日くらいお休みするかも・・。画像の取り込みなど使いがってが悪く時間もかかるのですが、とりあえず6枚ばかり写真の取り込みはしました。写真は以前お話したフィルムで撮影してスライド用にしていた写真を保存の為にスキャナーで読み込んでいる南極大陸の写真です。スキャナーの為に画像の解像度にも限界があるのでいつものデジタルより画質はかなり劣りますが、珍しい写真なので公開第3回目となります。忙しいのでコメント入れられません南極大陸正確には左の角のように出た南極半島の部分が通常観光客の立ち寄る場所です。ツアーの時期は南半球が夏の1~2月くらい。(チャーター船のある時にツアーが出る。)アルゼンチンのウシュアイアから出港。一度の上陸は100人くらいまで。船の人数により違いますがこの時は3交代くらいだそうです。ゾデアックで10人くらいずつペンギンのいる島に上陸。実は鶏小屋のような臭いだそうです。鶏の楽園? 卵をねらう 敵は・・・ここでは人間より海鳥(カモメ)のようです。もしかしたらパソコン買い直しかも・・・
2010年09月27日
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最後の6頭も殺されてしまいましたが・・・。口蹄疫は偶蹄目がかかる病気。牛舎の近くの野山に生息しているシカをどうするのでしょう。ウイルスを媒体しているのはシカだったと思うのですが・・・。イエローストーン国立公園でもかつてその問題で大変だったようです。そう言えば、以前聞いたのですが、狂犬病対策で入国の動物検疫であずかり規制されるのは犬だけだそうです。猫も狂犬病にかかるのに・・・。オーストリア、ハルシュタット 3 (岩塩坑ツアーとソルトマン)オーストリア共和国(Republic of Austria)ザルツカンマーグート(Salzkammergut)地方ハルシュタット(Hallstatt)岩塩(rock salt)の坑道見学ツアーハルシュタットの塩は2億3000年前の原始の海で造られ、5000年前に発見。そして3000年程前、世界最古の塩の精製が始まったと現地の看板に書かれています。名付けて「原始の塩」は、昔から変わらず今もハルシユタットの特産品です。精製塩は美しくペイントされた容器に入れて売られています。要するに容器で値段が違うのです。ザルツカンマーグートの岩塩層は、太古に海が干上がってできた塩の層がアルプスの造山運動で巻き込まれるように圧縮されてできたようです。岩塩(rock salt)の坑道見学ツアー今回岩塩坑道の写真はありませんが、町外れにあるケーブルカーに乗った山頂の先にハルシュタットの岩塩の坑道を見学するツアーがあります。(ハルシュタット近郊にはBC6世紀に遡る世界最古の塩坑もあるそうです。)岩塩坑の坑道はいくつもあるようですが、現在ツアー公開されているのは1719年に開山された全長26kmの「皇后クリスティーナ坑」。採算のとれなくなって閉鎖されていた岩塩坑道を一部ツアーにしているようです。尚、トロッコに乗っての見学ツアーは麓のケーブルカーから所要時間3時間程かかるようです。水晶のような岩塩や、鉄分など不純物が多くて赤紫になっている岩塩は天然ミネラルが豊富なのはわかりますね。塩の運搬・・・地下の塩湖こうした岩塩のトンネルをトロッコに乗って進むと、地下には昔のなごりの塩湖が存在するそうです。適度な大きさにした岩塩で運ぶ場合もあるようですが、ここでは昔、岩塩の層に水を注入して濃い塩水にしてから、丸太をくり抜いたパイプによって麓まで塩水を流して運搬していたそうです。砂などの不純物は塩湖に沈殿するので合理的な方法のようです。ソルトマン(Salt man)ところで、1734年に村内の岩塩の坑道から塩漬け状態の人間の遺体が発見されたそうです。遺体は、残っていた衣類や道具から、落盤によって閉じ込められた先史時代の岩塩の鉱夫? だったと考えられハルシュタットの村内に埋葬されたと教会の記録にあったそうです。だとするなら、ソルトマンの遺骨は今、バインハウス(Beinhaus) にあるのかも・・・。いや、塩漬けなので腐っていないのかな? 衣類はハルシュタット文化遺産博物館に展示されているようです。前回書きませんでしたが、ここでは土葬で埋葬され、何年かして朽ちて骨だけになったお骨がバインハウス(Beinhaus)に収納されるのです。因みに納められる頭蓋骨には故人の名前や模様などの装飾も描かれるそうです。比較的綺麗な岩塩で、宝石形にカットされた女性受けを狙った商品も・・・。さて、今度は中世のなごりのある家湖畔に建つ家は石垣の上に乗っかっています。下の家は近年上物だけ新築されたようですね・・・微妙にモダン建築については語れませんが、土台が石で、しっかりしているので何百年も持つのでしょう。今回のような水害でも全然平気だし・・。中世の建物をレストランにしたようですね。やはり歴史のある国は凄いです。そんなに変わっていないように見えながら時間の重みがにじみ出てきているのが解りますね。書いていてつくづく思うのですが、ヨーロッパはエピソードが幾らでも出てくるのに、アメリカは歴史がないから語れる事がほとんど無いし、思いつかないのです。その違いでブログの内容も全然違っちゃうのです貴族の避暑地ならでは・・ハルシュタット湖畔の城湖畔の城・・・遠いので拡大したからあまりきれいではないですが・・・。ハルシュタット湖は、ゴーザウ湖と共に「ザルツカンマーグートの真珠」とうたわれる美しい湖だそうです。増水で湖上には出られませんが、湖畔のテラスは営業。ハルシュタット おわりますback numberリンク オーストリア、ハルシュタット 1 (世界遺産も水害)リンク オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩)
2010年07月17日
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お札シリーズの為の撮影をしていたので目が非常に疲れてしまったやっかいなのはお札が旧札から新札へと変わっている時ですそれ以上にやっかいだったのがユーロでした。その理由は近日公開してからね・・オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩)オーストリア共和国(Republic of Austria)ザルツカンマーグート(Salzkammergut)地方ハルシュタット(Hallstatt)塩の産地ハル(Hall)水害だけでは残念なので、塩の話とユネスコ世界遺産に登録された部分を少し紹介しておきます。(ダッハシュタインがありませんが・・)湖水地帯と共に古い町並みも売り。街の裏手の方に塩山があるといいますが、この見えている山には幹線道路となるトンネルが通っています。右の塔は街の中心マルクト広場にある教会。左はバインハウス((Beinhaus) ・・・街の納骨堂です。バインハウス(Beinhaus) この街は土地が少ないのでお墓がいっぱいになると古い順に掘り返してお骨だけバインハウスに納骨するのが慣習となっているそうです。もう一つ珍しいのがボート・ハウスです。昔から人や物の運搬に使われていたハルシュタットの船は底が平たい木造船なのだそうです。その船を収納するのが湖に張り出した木造のボート・ハウスです。今回増水のせいでかなり沈み混んでいるようですが・・・。マルクト広場(Markt)オレンジの建物はホテル。マルクト広場は、中世の都市には必ず存在した広場であり、マーケット(Market)、すなわち市場という意味を持つ広場です。昨年12月に「ザルツブルク 4 (マルクト広場) 」で紹介しているので詳しい解説はそちらを見てね。ホテル、レストランが広場を囲んで立っています。塩の産地ハル(Hall)「ザルツブルク」と言えば・・・。昨年12月、「ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街)」の所ですでに紹介していますが・・。ザルツは「塩」、ブルクは「砦」の意です。古来よりザルツブルクは近郊で採掘される塩の運搬と、その塩の積載量に応じた通行税を財源に成り上がった街だと紹介していましたが、その近郊の塩が採掘される場所がザルツカンマーグート地方であり、ハルシュタットの街はその一つです。実は「ハル(Hall)」も古代ギリシャ語から由来する「塩」の意だそうです。かつてケルト人がギリシャと塩の交易をしていた事からその言葉がケルト圏に入って塩の産地をハルと呼ぶようになったと言われています。ドイツ圏でハルが付く地名は岩塩が取れるか、塩水が湧いていたりする場所なのだそうです。「敵に塩を送る」と言う故事がありますが、塩は人間に必須の元素だと言う事を昔から人間は知っていたのですね「敵に塩を送る」・・・今川氏と北条氏の塩止めで苦しんでいた甲斐の武田信玄に塩を送ったのは上杉謙信です。ハルシュタットの街と塩・・・次回につづくリンク オーストリア、ハルシュタット 3 (岩塩坑ツアーとソルトマン)
2010年07月16日
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連日悪いニュースばかりが流れている昨今です今日は水害のニュースで「メロン農家で収穫まじかのメロンが泥水にひたって駄目になってしまった。」と聞きました。丹精込めて作った農作物の被害は、自然災害 故にぶつけどころのない農家の人の苦悩に同情します。その点で言うと宮崎県の口蹄疫問題、「宮崎の種牛を含める全頭、屠殺(とさつ)」には、もっと同情です。野菜はまた翌年に何とか再生に持ち込めるでしょうが、牛の場合は最低でも5年以上、種牛の場合は何十年も交配して作られて来ているのですから、関係者の苦悩はどうしようもなく苦しいものだと思います。今、「最後の種牛の屠殺(とさつ)」で国と宮崎は戦っていますが、確かに「最後の種牛の屠殺(とさつ)」となれば、宮崎の酪農は完全につぶれて今後立ち直る事はできないかもしれません。それ故、必死なのは見ていても解ります。今、宮崎は生死をかけて戦っているのです。「最後の種牛」は、「最後の砦」なのだと思います。それなのに国の対応はやはり役所仕事の延長にしか見えなくて非常に残念です。科学的な隔離措置などの配慮で残った牛が生き残れるような努力を今の日本ならできるはずなのに・・・。今回の一件は、何より大臣の能力も問われる問題かもしれません。さて、今回はオーストリアからです。実は水害は日本だけでなく、世界のあちこちで起きているようなのです。今月4日に撮影された写真から緊急紹介。オーストリア、ハルシュタット 1 (世界遺産も水害)オーストリア共和国(Republic of Austria)ザルツカンマーグート(Salzkammergut)地方ハルシュタット(Hallstatt)場所的にはザルツブルク州とオーバーエスターライヒ州にまたがっている。ハルシュタットの街は、オーストリア・アルプスの麓の風光明媚な湖水地帯です。この地方、ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は、ザルツは「塩」、カンマーグートは「御料地」を意味し、13世紀末よりハプスブルク家の塩の御料地だった場所だそうです。ホーフカンマー(宮廷財務局)の管轄地だった事からこう呼ばれるようになったそうです。町の外れには、古代ローマ以前にまで遡る岩塩坑があるそうです。濁った水が湖に流れ込みちょっと残念。この地方は平均標高が600mで温泉も出る事から王侯貴族の避暑地としても栄え、19世紀にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が毎夏ここで過ごしたと言います。上の写真の中央に小さく見えるのはお城です。「ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として、1997年にユネスコ世界遺産に登録もされています。しかし、素敵な景観も連日の雨で湖の水位が上がり船も運航停止。桟橋も浸水してもはや湖との境界が消えてます。駐車場も水浸し、湖畔の建物も水没。右の建物はスーパーマーケット通行禁止ではあるけれど無理に走行している車も結構いるようです。スーパーの前にたむろするのは若者。暇つぶしの見学?通行する車を見守る若者・・・実はここに商売があったのですエンジン・ストップした車を押してチップをもらっているようですたくましいな・・・。つづくリンク オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩)
2010年07月15日
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Break Time (一休み)1回で収まらなかったので今回もカンヌです。選挙の開票速報を見ながらの書き込みです。かつて2回程選挙活動のお手伝いをした事がありますが、選挙は直接応援に関わると、実はとても面白い(ハマル)ものなのです。お祭りに近い感覚かもしれません。「戦って勝つ」と言う同じ目標に向かうので「同士」と言う特殊な連帯感が生まれますし、自分も出馬した候補者のような気持ちになって選挙に参加しているからです。それだけに落選した時は候補者と同じくらい落ち込むのですが・・・。フランス、カンヌ(France Cannes) Part 2カンヌ国際映画祭の会場 パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ映画祭のない時期はコンベンションセンターとしていろいろイベントへの貸し出しをしています。(この建物の裏手の方にカジノも入っています。)カンヌ国際映画祭(Festival International du Film de Cannes)ベルリン国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭と併せて世界三大映画祭の一つに数えられています。1946年からフランス政府の主催により毎年5月に開催。最高賞(グランプリ)はパルム・ドール(Palme d'Or)と呼ばれる「黄金のシュロ」がモチーフ。過去の日本人受賞者1980年に黒澤明 監督の「影武者」1983年に今村昌平 監督の「楢山節考」1997年に今村昌平 監督の「うなぎ」2004年に「誰も知らない」で柳楽優弥 君が「カンヌ国際映画祭 男優賞」を受賞して話題になりましたね。ホール周辺の広場の石畳にはスターの手形がはめ込まれています。日本映画の巨匠 黒澤 明 監督の手形ハリウッド女優のシャロン・ストーン(Sharon Stone)の手形フランスの俳優 ジャンポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo)の手形国際映画祭の会場のあるカンヌの西には小高い丘(シュヴァリエ山)があり、このあたりは中世の建物が残る旧市街.ル・シュケ(Le Suquet)と旧港があります。5月下旬から9月にかけて日中25℃以下になる事はないと言う。ヨットハーバーもともとはカンヌは田舎の漁村。カンヌは19世紀に貴族の別荘などが建てられてからセレブの街として浮上してきましたが、映画祭以外取り立てて、特に観光するような所もありません。時間があれば、強いて船に乗ってサント・マルグリット島とサントノーラ島に観光に行くのがよいでしょう。レラン諸島(Iles de Lerains )・・・写真はありません。カンヌから船で15分くらいの所にサント・マルグリット島とサントノーラ島を含むレラン諸島があります。古代ローマの時代よりこちらの方が戦略的にも地中海の要所とされ、7世紀~10世紀にはサラセン人が支配し、近年イギリスとスペインも侵略地として攻撃してきた諸島です。(島行きの船は一日に7~8本この近くから定期船が出ているようです。)サント・マルグリット島(Ile Ste-Marguerite)レオナルド・ディカプリオ主演の「仮面の男」の鉄仮面が幽閉されていた島でルイ14世の命で建てられたらしい牢獄の城塞跡があり独房も公開されつつ今は海洋博物館に。東西3km南北0.95kmの城塞と緑の島。サントノーラ島(Ile St-Honorat)東西1.5km南北0.4km。4世紀にシトー派の修道院が建てられて発展。島には7つの教会とレラン大修道院が島の南にあり、さらにその先に海賊から修道僧を護る為に建てられた要塞修道院があるようです。巡礼者が昔から立ち寄る島だったとか・・。旧港丘の左に12世紀に砦として建設された建物を利用したカストル博物館があります。(カンヌ・プロヴァンス出身の画家の絵画などが展示。)右は16世紀~17世紀に建造されたノートルダム・デスペランス教会があります。マジェスティック・バリエール(Majestic Barriere)のプライベート・ビーチここはホテルのプライベート・ビーチ。椅子やパラソルが並べられたセレブの空間。かたや向側は一般の大衆ビーチ。ハワイのビーチとは何かが違う・・・。そう、アメリカでは個(例えペアでも個別に寝ている)でビーチに寝転ぶけどここでは友人同士、カップルがベッタリより沿っている所が違うのかもしれない。さて、もっと時間があるならここを拠点にニースやモナコ、マントンの美術館に足を運んでも良いかも・・。電車は本数あるので日帰り楽勝です。
2010年07月11日
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長くなっているイエローストーン国立公園。ガイザーばかりで少し飽きてしまいました。で、今回は少し気晴らしに海に行ってみました。季節もちょうど今時分Break Time (一休み)フランス、カンヌ(France Cannes)クロワゼット海岸(Plage de la Croisette)フランス南東部の、地中海に面するコート・ダジュール(紺碧海岸)にある高級リゾート地。意外にもリゾート地となったのは19世紀初頭からだそうです。現在は毎年5月のカンヌ国際映画祭の開催地として有名ですね。海岸線の目抜き通りはラ・クロワゼット通り著名人や映画俳優が宿泊する高級ホテルや高級レストラン、ブティックが並ぶんでいる。ホテル前はプライベート・ビーチでその他は一般海水浴場に。インターコンチネンタル・カールトン・カンヌ(InterContinental Carlton Cannes)1964年以来行われているカンヌ映画祭に出席するのセレブの常宿だそうです。1954年には、ケーリー・グランドとグレース・ケリーの出演した「泥棒成金」(To Catch a Thief)(1955年公開)の舞台に。この時モナコの皇太子に見初められてグレース・ケリーはモナコの皇太子妃になるのです。以降数々の映画でこのホテルは使われた絵になるホテルなのです。最上階に7つの特別スイートがありショーン・コネリー、ソフィー・マルソー、ソフィア・ローレン、アラン・ドロンなどの著名映画スターの名前が付いていると言う。ハワイとは雰囲気が違う。ちょっと日本人には馴染みにくいかも・・・。会場はハーバーにとても近い。ホテル マジェスティック・バリエール(Majestic Barriere)カールトン、マルティネーズと並ぶカンヌを代表する大型デラックスホテル。創業は1920年代頃(はっきりしたデータがない)。80%の部屋が海に面したエレガントなホテルはカンヌ国際映画祭の会場のすぐ近くなので俳優さんや映画関係者も宿泊。ホテル・マジェスティック・バリエールの水上カフェ海から船でカフェに来る人も・・。やっぱりセレブの街・・・。カンヌ国際映画祭の会場は後編につづく
2010年07月10日
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姪の進学説明会に出席して、今の子達は自分達の頃よりいろいろ大変なのだ・・とつくづく実感。進学自体は、子供の数も減少していて、「自己推薦」なんて制度もあるので、選ばなければどこかには必ず入れて、とりあえず卒業する事は昔よりも楽なようです。ただ、就職難の時代ですから、卒業した後に就職出来ずに仕方なく、資格を取りに再び専門学校に行く子も多いといい、最近は、先の就職先をすでに逆算して、学校や学部から選ぶ傾向が高くなってきているのだそうです。私の姪も選択授業取得の関係で、すでに中学時代にある程度職業を決めて授業を選んでいたので、希望の学部の受験資格は確保できましたが、本当に村上龍さんの「13歳のハローワーク」は現実のものになってきている・・と実感です。とは言え、「13歳のハローワーク」の本は職業紹介だけです。子供達は職業の種類を知るだけで、子供のなりたい職業に就く為に今から何をすべきか・・は大人がアドパイスしてあげないと足らないのです。何がしたいか解らない子達には、とりあえず何にでも転がれるようにまんべんなく選択肢を残しておかないと・・年齢が上がる毎に職業の選択肢も減るのですから・・。アメリカ合衆国アリゾナ州グランドキャニオン(Grand Canyon)国立公園サウスリム・イースト、ウオッチタワーサウス・リムとノース・リムグランドキャニオンはコロラド川を隔てて渓谷ができてているので、北の縁をノース・リム(North Rim)、南側をサウス・リム(South Rim)に分けられ、観光客の9割が訪れるのがサウス・リムの方なのだそうです。サウス・リム中心はロッジ、レストラン、キャンプ場等の施設のあるヴィレッジ。リム(縁)に沿って幾つものビュー・ポイントが設けられています。グランドキャニオンのスケールを見るなら幾つものポイントで絶景を見るのが好ましいようです。(今回は天気が悪くテンション低め良い写真を撮るなら余裕がないと駄目ですね。)ノース・リムは、今回入っていませんが・・。標高は南より300m~600m程高くまさしく高原の気候のようです。当然南よりも寒く、冬は積雪が多いので、10月下旬から5月中旬まではアクセスできないのだそうです。サウス・リム・ウエストのホピ・ポイント(Hopi Point)日没ポイントとして外せない場所だそうですが・・・天気が悪くて日没も微妙サウス・リム・イーストのマザー・ポイント翌日も天気が悪くて日の出も微妙サウス・リム・イーストのデザート・ビューとウオッチタワーデザート・ビュー(Desert View Point)イーストの最も端のポイントには、先住民のインディアンの見張り塔が復元されています。ウオッチ・タワー(Watch tower)グランドキャニオンでは多くのインディアンの遺跡が発見されていると言いますが、ウオッチタワーは、そんな先住民の建築様式を模して円柱の見張り塔(Watch tower)を鉄筋とグランドキャニオンの岩を使って1932年に復元して建てられたものだそうです。塔の横に売店も付いています。塔の上は展望台です。先住民の壁画とそれらしい家具があり、本当に使用していたのかと思ってました・・。ウオッチ・タワーの上からのビュー上空からの写真もあると素敵なのですが、こんな場所ですから気流がとても悪いのだそうです。以前上空のセスナ観光がありましたが、墜落して中止になってしまいました。乗っていたのが日本人だったのでさらに義兄の友人だったそうで今回は写真はたくさんあったのに、使える写真がほとんどなくて残念・・また写真が手に入ったら改めて・・・。グランドキャニオンおわり
2010年06月11日
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残念なお知らせです実はグランドキャニオンの写真ですが、天気が悪くて綺麗に撮影できていません。遠くが霞んでいるのですそんなわけで今回は少しがまんして下さい。今回は2回くらいで終わらせて、別の国立公園にさっさ・・と行く事にします。グランドキャニオン 1 (グランドサークル)アメリカ合衆国アリゾナ州グランドキャニオン(Grand Canyon)国立公園例によって地図で所在から入ります。ラスベガスの周りは、大自然の宝庫で、世界的に有名な観光名所が点在しています。グランドサークル(Grand Circle)地球の歩き方よりレイクパウエル中心に半径230kmの圏内に8つの国立公園と16の国定公園、そしてナバホ族とホピ族の広大な居留区が収まっています。上から見るとコロラド高原に亀裂が走ったかのように地が裂けています。コロラド川の浸食作用によってグランドキャニオンは地中深く削られてできた大渓谷です。グランドキャニオン(Grand Canyon)国立公園アリゾナ州の西北を流れるコロラド川沿いにある渓谷です。渓谷は氷河時代の末期から浸食が進み、コロラド高原は現在も少しずつ削られています。全長約450km、幅1.6km~29km、深さ1.6km。この大峡谷の最後は少し前に紹介したモニュメントバレー(Monument Valley)の形になるだろうと予想されているそうです。1979年には世界遺産に登録コロラド高原自体の標高は1500mから3350mと言われていますが、グランドキャニオンあたりでは平均標高2200m。北壁は南壁より260mほど高いようです。グランドキニオン、ビュー・ポイント地図 ↑ You are here地図のポイント右にブライト・エンジェル・ロッジがあります。丸太と石で造られたホテルです。各ツアーの出発地になっている所で、昼食に立ち寄るツアーが多いです。なぜなら・・・実はブライト・エンジエル・ロッジは絶景ポイントにあるからです。岩山の上にあるのがロッジかつてはスペイン領であったこの土地の発見は、コンキスタドールの命を受けて金鉱脈を探していたドン・ロペス・デ・カルデナス(Don Lopes de Cardenas)によって1540年に発見されました。ロッジのやまから左に・・・・。曇っているし、夕刻だし・・残念な天気です。写真を綺麗に撮りたい時は、季節もポイントになるようです。Kolb Stidioビュー・ポイントは何ヶ所かあります。渓谷の下を覗いた景色つづく
2010年06月10日
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車の車種を調べていたら時間をくってしまった結局一台わからなかった・・・。HISTORIC US 66 2 (古き良き50'sと60's)セリグマン(Seligman)、「Route 66」の街映画、ドラマ、CMに使われたルート6650's(フィフティーズ)や60's(シックスティーズ)悲しみの時代 60's~70'sインターステート(州間高速道路) アリゾナ I-40 の途中の街、セリグマン(Seligman)からHistoric Route 66に・・。セリグマンのディルガディーロ兄弟の「ルート66」復活のコンセプトは1950年~1960年代のイメージのようです。ルート66を商標にする看板が沢山ならぶ旧街道です。映画、ドラマ、CMに使われたルート661962年代に日本で放映されていたのがドラマ映画の「ルート 66」。私は見ていませんが、多分それを見ていた人達には思い出の? あこがれの? 作品のようです。シカゴからカリフォルニアのサンタモニカまで結ぶ「ル-ト66」を、二人の若者がスポーツカーで旅する青春スト-リーらしいです。きっとディルガディーロ兄弟がその世代なのかも・・。確かに、最後まで残っていたこの地の人にとって、「ルート66」への思いは、そのまま古き良きアメリカと重なるのかも。音楽では「ルート66」と言うジャズのスタンダード曲があります。1946年にボビー・トゥループが作詞作曲の作品で、歌詞に、沿線各地の地名が登場するそうです。最近の映画ではアニメ映画「Cars」も「ルート 66」を主題にした作品なのだそうです。1966年シポレー・インパラ(Chevrolet Impala)街には50's(フィフティーズ)や60's(シックスティーズ)の懐かしいアメ車やアメリカン・グラフティー(American Graffti)の人形があちこち飾られています。飾り方が何となくアメリカっぽい50's(フィフティーズ)や60's(シックスティーズ)1950年代が50's(フィフティーズ)の時代。文字通り60's(シックスティーズ)は1960年代。オールディーズ(Oldies) 1950年代~1960年代にアメリカやイギリスヒットしたポップ・ミュージックを総じて呼ぶ。元はコンピレーション・アルバムがリリースされて50'sと60'sの音楽がリバイバルされたのが要因で再び脚光を浴びた、「よき時代」の音楽。アメリカン・グラフティー(American Graffti)1973年に公開されたジョージ・ルーカス監督制作の映画で、設定は1960年代。当時の誰もが経験した高校生時代がテーマの青春映画らしい。悲しみの時代 60's~70's50'sと60'sが「Oldies but Goodies(古いけど良い時代・・)」と言うがなぜか?1965年頃からアメリカは北ベトナムとの戦争に本格的に巻き込まれて行く。アメリカに長く暗い影を落としたのがベトナム戦争です。※ ベトナムの共産化を抑止する為にアメリカとフランスは南側に付き、実質、北側に付いたソビエトとの代理戦争です。ジョン・F・ケネディーが大統領に就いてから軍は増強。大量の兵器と大量の兵士(アメリカの若者)がベトナムに送り込まれ、しかも戦争は長期化、泥沼化していく。それは1975年のサイゴン陥落まで続いた。アメリカの正式な参入を1965年頃としても10年の歳月。多くの若者の命が奪われ、後遺症も残った。現地もそうであるが、アメリカ国民が大きな犠牲を払った。この戦争の期間、夫や息子を戦地にとられた家族の悲しみ。楽しい事も直に楽しめなかった暗い60's~70's。アメリカ国民は疲弊しきっていた。ベトナム戦争以前、しかも第2次大戦バブルわいて華やいだ「50'sと60's」。誰もが「あの頃に戻りたい。」古き良き時代であった。と懐古したのもうなずける。皮肉な事に、この悲劇の戦争は、同じアメリカ兵として共に闘い、連帯した事により黒人と白人の兵士達との絆を産んだ。これは少なからず人種間にあった確執を埋めたと言う。雨の日は取り込むのかな?前回ちらっと載せたディルガディーロ兄弟の兄、エンジェル・ディルガディーロさんの理髪店兼ショップ右が入り口も奥が理髪店理髪店内は各国から来た人達の名刺や垣根が貼り付けられて・・・・商売してるの? 状態。どうも、ここも「ルート66」のドラマ撮影に使われたらしいのだ・・・。HISTORIC US 66 おわりBack numberリンク HISTORIC US 66 1次回やっとグランドキャニオンですリンク グランドキャニオン 1 (グランドサークル)
2010年06月09日
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昨日は寝る時間なく1日動いたのでダウンでした。15時間も寝てしまったBreak Time (一休み)HISTORIC US 66 1州間高速道路ガス・ステーション(給油所)ラスベガスからグランドギャニオンまでノン・ストップで4時間30分。給油とトイレ休憩です。ラスベガすからグランド・キャニオンに行く途中、ちょっとノスタルジックな観光名所? がありました。今はもう存在しない「ルート66 (国道66号線)」を偲ぶものです。HISTORIC US 66昔のルート66のコース・・ウキペディアより全長3755km(2347マイル)シカゴからカリフォルニアのサンタモニカまで結んでいた。アメリカ合衆国中西部、南西部の8州を通る「ルート66 (国道66号線)」は1926年に連邦最初の国道として創設され1985年まで59年間アメリカ経済の大動脈として貢献した国道でした。映画、ドラマ、音楽と、アメリカのポップ・カルチャーにも度々取り上げられた「ルート66」はアメリカと言えば、「ルート66」が浮かぶ? くらい知れた名前で、廃線となった後も宗教的に生き続けた道路です。ルート66の廃線1956年、第34代大統領アイゼンハワーの連邦補助高速道路法の調印により州間高速道路が次々配備され、1984年、最後にアリゾナの部分が州間高速道路40号線に置換されて翌年、惜しまれながら国道66号線は完全に消滅。ルート66の復活と言っても歴史的な保存復活ですが・・。ルート66に関係する企業や商品もあり、もちろん地元の大反対もありながらも、時代の流れで廃線になったものの、頑張ったおじさん達がいたそうです。1990年、アリゾナ州とミズーリ州でルート66協会(Route 66 Association)が発足。ディルガディーロ兄弟の兄、エンジェル・ディルガディーロさんアリゾナ州、セリグマン(Seligman)の町はアリゾナのI-40が出来て廃線になったルート66が最後まで残っていた街。ディルガディーロ兄弟が中心になって、Route 66の復活の活動をして国の史跡に指定してもらい街も復活。セリグマンの町はHistoric Route 66の誕生の地に・・。エンジェル・ディルガディーロさんの店つづくリンク HISTORIC US 66 2 (古き良き50'sと60's)
2010年06月08日
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リンク先追加しましたモニュメントバレー 3 (聖地・・エネルギー・スポット)アメリカ合衆国アリゾナ州、ユタ州モニュメントバレー・ナバホ・トライバル・パーク(Monument Valley Navajo Tribal Park)聖地・・エネルギー・スポット・・ボルテックスよくよく考えるとかなり危険な場所のようです。アメリカ・インディアンインディアンと言っても、米国内にいるいる人だけでも、500あまりの部族が存在するそうで、実は多種多様な民族の集まりなのだそうです。(一口に「インディアン」とくくるのは大きな間違いと言う事です。)彼らファースト・アメリカン(最初にアメリカに来た民族)は最初にどこの部族出身かを聞くと言います。それは彼らにとって民族のアイデンティティー(民族の中にある独自の本質)が何よりも重要視されているからなのでしょう。ナバホ居留区で再現されている昔の彼らの住まい。こんな住居では冬の寒波はかなりこたえたようです。19世紀初頭までは、白人達と対等の位置にいたはずなのに、現在彼らは居留地と言う特別の土地に追いやられています。(良い土地は白人に取られて悪い土地だけが彼らに与えられたのです。ナバホは観光収入が見込めるだけラッキー。)以前も紹介していますが、「インディアン・テリトリー」とか「インディアン自治区」、今は「リザベーション(reservation)」と呼ばれています。ナバホ居留区はアリゾナ、ユタ、ニュー・メキシコの3州にまたがる広大な居留地ですが、居留地は西部の州(ミシシッピー以西)に多く、東部には少ないのだそうです。(東部にいた部族はオクラホマに追いやられたからオクラホマに集中)アーバン・インディアン(Urban Indian)最近は居留区の住民以上いると言われるのが、「アーバン・インディアン」と呼ばれる都会居住者のインディアンです。第二次大戦後、共和党政権が居留地に対する「保護とりやめの打ち切り政策」をした為に、多くの人々が居留地から都会に移住した事によるようで、さらに近年もめぼしい産業もない居留地からの脱出組みが増えているからのようです。(サウスダコタ州にある居留地は、全米一貧しくて、失業率9割と言う。)白人からはあきらかに差別されているのが現状です。紀元前百年頃にはアリゾナ州にも大規模な潅漑農業を営む農耕定着民族が村落を作っていたと言います。インディアン発の食物彼らアメリカ・インディアンの最大の功績は、すぐれた農耕技術による農作物の品種改良だそうです。「新世界発見」以降世界中にもたらされたインディアン発の食物はトウモロコシを筆頭にカカオ、豆類、カボチャ、落花生、馬鈴薯、薩摩芋、メロン、トマト、ズッキーニ、セロリ、チリ・ペッパー、七面鳥、牡蛎、タバコ、ゴム等多数、多岐にわたるそうです。ところで、コロンブスの新世界到着以降、世界人口が突如増えているそうです。それはインディアンらの農作物が欧州にもたらされた事により欧州の食糧事情が良くなった事にも起因しているようです。(食料品種が増えて、飢餓が減ったらしい。)どんどん崩れ去る岩山・・あと数年でここも平原に変るでしょう。彼方に見えるテーブルマウンテンはメサになり、やがてはあのようなビュート(残丘)になって消えて行く・・その過程最後の姿です。「風前の灯火」・・・山、最後の姿は何とも感慨深いものがあります・・。信仰・・グレイト・スピリット(Great spirit)平原部族のインディアンの社会では、人間の力を越えた超自然の中に見えない何者かの意志が存在し、それが自分の運命を支配するものと信じられたそうです。白人の言葉でそれは「グレイト・スピリット」と呼ばれているようですが、ハワイアンの「マナ」と近いような気がします。ハワイアンの「マナ」は、信心の強さやそれを持つ人物の純粋さで性格や効果が変わると言われていますが、インディアンの「グレイト・スピリット」は運不運も含めてその意志を素直に受け入れる謙虚さが求められたようです。夢の探求成人の儀式に相当するのが、「夢の探求」と呼ばれる、いわゆる荒野の苦行があります。前述した超自然の意志から授けてもらうスピリットの一つで、最初の夢の探求では自分の祈りの象徴となるものを授けてもらう為の夢を見に行くのだそうです。そして、夢のお告げはメディシン・マン(巫女)に謎解きしてもらって、それを解明するのだそうです。ボルテックス(エネルギー・スポット)近年は流行しているパワー・スポットはスビリットを受けやすい場所なのでしょう。「ボルテックス」と呼ばれるエネルギースポットは、実際、電磁場の渦がある場所だそうです。(そこをインディアンは感じとる事ができたようです。)同じアリゾナのセドナ(モニュメントバレーより少し南)にはそうしたエネルギースポットが20数カ所あると言われています。安室ちゃんが行った所で、観光でもにわかに人気の場所ですが、ここ、モニュメント・バレーもパワー・スポットが存在するようです。聖なる土地・・と言うのはそう言う意味の場所なのでしょう。角度を変えて見ると神殿の跡か何かの宗教儀式の跡のように見えますね。ここもパワー・スポットかもしれません。前に紹介したアンテロープ・キャニオンの神秘さもそうですが、モニュメントバレーも、その全てがパワースポットのような気さえする興味深い場所です。モニュメントバレー おわりback numberリンク モニュメントバレー 1 (ナバホ・ネイション) リンク モニュメントバレー 2 (バレー・ドライブ)モニュメントバレー 3 (聖地・・エネルギー・スポット)
2010年06月03日
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リンク先追加しました撮影した写真が少ないのも困るけれど、多すぎるのもまた大変なのです。直感で一次審査、二次審査して選択してさらに絞り込むのですが、今回のモニュメントバレーの一次審査だけでも2時間はかかってしまいましたマウスを操作する右肩が気持ち悪くてたまりません・・・・モニュメントバレー 2 (バレー・ドライブ)アメリカ合衆国アリゾナ州、ユタ州モニュメントバレー・ナバホ・トライバル・パーク(Monument Valley Navajo Tribal Park)バレー・ドライブ2億7千万年位前の地層が現われたものが風化、浸食によって形成された岩山は、記念碑(モニュメント)が並んでいるように見える事からモニュメント・バレーと呼ばれるようになったようです。バレー内は全長17マイル(27km)の未舗装道路が敷かれているようですが、風化で崩れて途絶えている道もあるようです。ナバホ族のツアーでは一般車の立ち入り禁止区域も入り、幾つかの、ビュー・ポイントをまわってくれます。(注・・砂ぼこりが酷い)ロッキー山脈から流れる川は、鉄分を大量に含んでいたそうです。それが下流地域に沈泥となって堆積。堆積層は鉄分の酸化が急速に進んでピンクっぽい赤い色の台地になったらしいです。要するに酸化鉄か? 四駆のパワーで、道なき道を走るのってワイルドですね(砂でジャリジャリになるけど・・)それにしても、昔は馬や馬車で、ここをポコポコと走っていたのですから旅も大変だった事でしょう。今はグランドキャニオンからここまで車で3時間くらいで、ラスベガスからの日帰りツアーもあるようですよジョン・ウェインの西部劇の世界が、ほぼそのまま残っています。と言っても私も子供の頃テレビで見た程度の知識ですが・・。ジョン・フォード・ポイントからジョン・フォード(John Ford)(1894年~1973年)1930年代~1960年代でアメリカを代表する映画監督のジョン・フォードは西部劇「駅馬車」を1938年にこのモニュメントバレーで撮影。以来、モニュメント・バレーを好んで映画の撮影で使ったようですが、中でもこのポイントからのビュー(眺め)は特にお気に入りだったそうで、それ故「ジョン・フォード・ポイント」と呼ばれています。冬は寒さが厳しく、夏は猛暑の上、不便なこの土地での撮影は厳しいものだったようです。彼は寒波で苦境にいたナバホの人達をスタッフとして雇い、前回紹介したハリー・グールディング夫妻の「グールディング・ロッジ」を毎回本部とし、度重なる撮影でナバホ族との信頼や絆は深まっていったと言います。ジョン・フォード・ポイントの位置も、見える断崖もかなり削れています。昔はもっと前に出ていた事でしょう。このあたりはナバホ族の同行がないとはいれない地帯です。馬に乗ってジョン・ウェインを真似ているおじさんは、現地ナバホ族の方です。馬に乗ったり、おじさんと一緒に写真を撮る場合は、有料です。以前紹介したアルプスのセントバナード犬をや、エジプトのラクダと同じようにその場所にいてほしい動物がここにもいましたねナバホ・トライバル・パーク内のツアー車です。ここは海抜約1670mくらいの高原。メサ(Mesa)やビュート(残丘)の高さは300mくらい。メサの崩れたものがビュートですがが、この高原はもともとメサの高さまで丘陵があったのでしょう。どんどん崩れて砂になって消えています。下に見えるビュートは、実は奥に連なっています。後方に尾根のように続いています。つづくリンク モニュメントバレー 3 (聖地・・エネルギー・スポット)リンク モニュメントバレー 1 (ナバホ・ネイション)
2010年06月02日
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今回は久しぶりにアメリカ大陸に行こうと思います。昨年9月に「自然アート アンテロープキャニオン」でアメリカ合衆国のアリゾナ州にあるナバホ居留区(ナバホ・ネイション)を紹介していますが、今回もそのナバホ居留区からです。モニュメントバレー 1 (ナバホ・ネイション)アメリカ合衆国アリゾナ州、ユタ州モニュメントバレー・ナバホ・トライバル・パーク(Monument Valley Navajo Tribal Park)以前も(「アンテロープキャニオン 2」)紹介したように、ナバホ居留区は、アメリカ政府が認めた「インディアン」の部族に与えられたリザベーション(保留地)です。リンク 自然アート アンテロープキャニオン 1リンク 自然アート アンテロープ・キャニオン 2 (インディアン居留地)それ故に、モニュメントバレーは、国立公園ではありません。独立国家に近い強い自治権を持つ先住民族のナバホの人々が、管理、運営するナバホの人々の公園なのです。アメリカはやはり広大です。先の景色が霞んでいます。この岩山を越えると見えてくる浸食台地のオブジェ。「グールディング・ロッジ」はハリー・グールディング夫妻がナバホ族からわけてもらった土地に1928年に建てたロッジだそうです。そして夫妻は、映画のロケ地として招致し、世界にこの地を紹介したようです。古くは西部劇ムービーのスター、ジョン・ウェィンの「駅馬車」「黄色いリボン」「荒野の決闘」「アパッチ砦」。マイケル・J・フォックスの「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」ハリソン・フォードの「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」など、象徴的な土地だけにいろいろと使われているようです。「ハリー・グールディング夫妻のTrading Post」はここで撮影された映画のポスターなどが展示。ここで乗ってきた車を降りて、ナバホ族のツアーに乗り込みます。(四駆)彼らでないと、立ち入れない区域があるのです。(彼らの土地なので・・。)境界線のように見えますが、ガード・フェンスのようです。ナバホ居留区での観光ビジネスはナバホの人々の収入源なので、かってに四駆で侵入されないようにしているようです。赤茶けた大地にオブジェのような形をした岩山が、ポツンポツンとまるでそこに置いたかのようにそびえています。ビュート(残丘)・・残り方はさまざま・・・。もとは台地が浸食されて、テーブル状に残ったメサ(Mesa)と呼ばれる台地があり、さらにそれが浸食されてビュート(残丘)と呼ばれる孤立丘を創り出しています。ビュート(残丘)もともとコロラド高原の一部であったこの地は、先カンブリア時代以前に遡る造山運動や時代で異なる堆積層を持ち、加えて周期的に熱帯の海中に水没したりして形成されたようです。簡単に言うと、台地の堆積の地層の質が、かなり異なる為に、浸食されやすい部分と残る部分ができたようです。今にも崩れ去る台地が生々しく見られます。このような特殊な浸食は、差別浸食と呼ばれるようです。土が赤いのは鉄分です。つづくリンク モニュメントバレー 2 (バレー・ドライブ)リンク モニュメントバレー 3 (聖地・・エネルギー・スポット)
2010年06月01日
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訂正・・噴煙の火山はキラウエア火山の火口でした。母の体調がわるくて実家にもどっていたので遅くなりましたあまり寝ないで出かけたので、睡魔が・・・今日は簡単に・・ここはどこでしょう? クイズ(5月20日)の答え答えは、アメリカ合衆国のハワイ州、ハワイ島です。コーヒー農園はドトール・コーヒーのハワイ島の農園です。ドトールの園内は植物園のようにたくさんの植物が自生し、野生の七面鳥がカッポしている農園で、希望すれば営業時間に入園して見学させてもらう事ができるようです。前回のジェード・バインもこの農園内で撮影。ハワイ島ハワイ諸島の中で、一番大きな島なので、ローカル(地元)ではビッグ・アイランド(Big Island)と呼ばれています。下からハワイ島、マウイ島、モロカイ島、オアフ島、カウアイ島。最初の写真はこの島東岸の街、ヒロの近く。ガスが出ている山は火山で、この島は現在も活動中の火山を含めて5つの火山で構成されています。マウナ・ロア(活火山)、キラウエア(活火山)、マウナ・ケア(休火山)、フアラライ(休火山)、コハラ(死火山)、ウキペディアの図がわかりやすかったので、借りてきました。(パブリック・ドメイン)マウナ・ケア山頂の天文台マウナ・ケアの標高は4205m。天文台は4100m付近に合計12基。高い標高と孤立と立地は、地球上で天文学の地上観測に適した場所として世界各国の天文学研究機関が第一級の天文台と望遠鏡を集合。マウナ・ケアは、約4500年前に最後に噴火していて、現在休火山。訂正 キラウエア火山最近活動が活発化外輪クレーター(火口)の中にクレーター(火口)があり、さらに煙の元の火口がある。キラウエア火山のクレーター沿いは循環道路(クレーター・リム・ドライブ)となっていて従来は一周できたけれど、現在は噴煙の為に半分閉鎖されているようです。火の女神ペレ(Pele)炎、稲妻、ダンス、暴力などを司る女神は、美しく情熱的で嫉妬深い。ハワイ島キラウエア火山のハレマウマウ火口に住むという。「あまりにも美しく、出会う男をすべて魅了」「あまりにも身勝手で、思い通りにならないとすぐに火山の怒りを爆発」つづく
2010年05月21日
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訂正 撮影日は19日だそうです。(写真の送付日の時間と勘違いしました。)ただ今ルーヴル美術館の編集中ですが、アイルランドのダブリンの空港から、帰れなくなって困っている人から「やけっぱちの今日の写真」が送られてきたので、差し込みで紹介です閑散とした空港アイルランド(Ireland)共和国ダブリン(Dublin)アイルランドは爆発しているアイスランドにとても近い国です。欧州の地図から紹介です。この地図の範囲が、ほぼ今回の航空規制の全域です。アイスランドは以前ヴァィキングの所でも紹介しましたが、アイルランドやノルウェーから移民がたくさん渡っています。この地図表記だと少し遠くみえますが、北極を中心にみるととても近いのです。外の天気は全然変わらないのに空港から飛行機は一機も飛べないそうです。他の空港は動き出したのに・・。日本へのダイレクトは無いので、一度ロンドンのヒースローに飛んでから帰国になります。この島から出る為の飛行機予約と次はロンドンからの予約を2重にとらなければならないで、なかなか大変のようです。でも物価は安いので、ホテル代はロンドンの待機組よりマシなのだそうです。アイルランド、ダブリンの空港から現地時間4月19日午後の写真だそうです。昼間なのにがらがら・・なぜなら全便キャンセルだからです。Departures(出発便) の欄は全てキャンセルキャンセルキャンセル船で島を出ても結局ロンドンなどの主要空港まではさらに陸路の移動になるのでお金もかかるし、鉄道も混み混みのようです。確かに、無駄にあがいて体力とお金を浪費するくらいなら・・じっと待った方が良いかもしれない・・。でも近いので、再び爆発したらいつまでもこの島にとどまらなくてはならない・・・。ここが判断の微妙な点のようです。ところで、アイルランドと言う国は変わった国で、島の下4分の3はアイルランド共和国ですが、上方の残りはイギリスなのです。かつては全てイギリスでしたが1922年 アイルランド自由国が成立して下方は、イギリスの自治領となります。この時、北部アルスター地方の6州(北アイルランド)はイギリスに留まったのです。1938年イギリスが独立を承認。1949年 イギリス連邦を脱退。よく聞こえて来るアイルランド紛争はここに原因があります。紛争さえなければいたってのどかな国のようです。天災だから仕方が無いのですが、旅行に行く時は、やはり多めにお金を用意しておかないと怖いですね・・。いつ何があるかわからない・・・危機管理です皆さん、早く家に帰れるといいですね。
2010年04月21日
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モンマルトル 3 (風車とカフェとキャバレー)フランス(France)、パリ(paris)セーヌ川右岸18区 モンマルトル(Montmartre)モンマルトルのムーラン(風車)ムーラン・ド・ラ・ギャレット(Moulin de la Gallette)・・・ギャレットの風車キャバレー(Cabaret)とカフェ(Cafe)の違いカフェとキヤパレームーラン・ルージュ(Moulin Rouge)モンマルトルのムーラン(風車)モンマルトルは、パリと言っても中心のシテ島(0地点)からみれば郊外になり、18世紀中頃でも田園風景が残る田舎だったと言います。ブドウ畑と丘の上にはたくさんの風車が回っていたようです。その名残が一基、丘の上に建っています。ムーラン・ド・ラ・ギャレット(Moulin de la Gallette)・・・ギャレットの風車天気が悪くて写真が微妙ですが・・・・。19世紀半ばまで粉をひいていたようで、「通称粉ひき小屋」と言われ、そこには庶民的なカフェがあり賑わっていた。ルノワールの名作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」がそのカフェである。この間(3月)「オルセー美術館 1 (パリ万博とオルセー) 」で紹介。ムーラン・ド・ラ・ギャレット 1876年オーギュスト・ルノワール( Pierre-Augustê Renoir)(1841年~1919年)最初、そこではガレットを焼いて売っていたようです。それを買いにに来る人が次第に増えて、ワインなども出すようになると、郊外の散歩場所として、今度はそこにピクニックにやって来る人が増えた。そうこうするうちに、「通称粉ひき小屋」はさらに進化。庶民のダンスホールとなり、キャバレーとなり、次第に大規模な経営に変わり、金持ちの遊び場となったようです。ギャレットorガレット(Gallette)ムーランのガレットについては、そば粉のガレットか小麦のガレットかは不明。そば粉のガレットはクレープに近く、中身にハム、ソーセージ、卵、チーズor魚介といった総菜を加えた軽食のような物である。一方、小麦のガレットはマフィンの生地で焼いたクッキーのようなものだ。キャバレー(Cabaret)とカフェ(Cafe)の違い今のキャバレーと今のカフェとは全く別物だったようです。カフェ(Cafe)パリの最初のコーヒーを出すカフェは1672年にパスカルと言うアルメニア人の出した店らしい。おそらくトルコ・コーヒーに近い物であったようだ。最初は物珍しさで人は来たようですが、じきにつぶれてしまったらしい。パスカルの店でギャルソンをしていたプロコピオが1675年「メゾン・ド・カフェ」を開店。そして1686年「カフェ・プロコップ」を開店。それがパリでの本格的な近代カフェにつながる。この店はナポレオンも常連だったらしい。それまでカフェを名乗る店は、実はたくさんあったようですが、逢い引き場所で、2階にお泊まり所のある怪しい存在だったようです。因みに、1789年のフランス革命直前でさえ700件のカフェがあったと言います。キャバレー(Cabaret)もとは「小部屋or「屋台」を意味する、キャバレー(Cabaret)は、中世の頃からあり、酒と軽食を出す粗末な店がそう呼ばれていて、狭く、薄暗く、猥雑な場所で、男達が酒を飲んで騒いだり、賭け事をしたりする場所、だったようです。(カフェより歴史は古い。)怪しい女の出入りはあったものの、ホステスがいたわけではなく、詩人や作家が議論を交わし、そこで作品書いたり・・大作家もたくさん生んでいる。(17世紀以前には家以外で寄り集まれる場所はこうした店しかなかったから・・らしい。)カフェの繁盛18世紀になってカフェが現れると、キャバレーにとって変わり、仲間の寄り集まり所として作家や画家達の御用達になります。そこで従来あったキャバレーが流行の先端の「カフェ」に看板を変えます。何が違うか? ただコーヒーをメニューに加えただけだそうです。プロコピオのようなきちんとしたカフェがある一方たいていは、キャパレーとカフェの区別もなく、ただうさんくさい場所として相変わらず存在し認識されていたようです。カフェに通うのは身持ちの悪い貴族で、好ましい事ではないとされながらも、先端的な人達は流行の先端のカフェにあこがれ、自宅にカフェを作ってサロンとする人もいたようです。テアトル広場とその周辺はカフェが多いサクレクール寺院からテアトル広場への通り前出最初からカフェだった店とキャバレーからカフェになった店があるようですし、他にもサロン・ドゥ・テと呼ばれる日本の喫茶店のような店や、ビヤホールのようなブラッスリーをカフェとしている店もあります。いずれにせよカウンターがあり、酒やコーヒーをだし、外に開かれた店であればカフェに入るようです。カフェは店のカウンターでの立ち飲みと着席では値段が違う。もちろん着座は値段が高いのだ。店のスタイルはいろいろ。椅子も色々。寒いからまだあまり外で座る人は少ない。テアトル広場入り口画家の卵が集うテアトル広場はもともとそんなに広くはないが、広場のど真ん中にカフェが鎮座していている。テントはカフェである。もうひとつのムーラン(Moulin)風車ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)モンマルトルにはもう一つ有名な風車があります。クリシー通りにあるムーラン・ルージュはそのまま赤い風車の意味ですが、1889年に建てられたフレンチカンカンで有名なダンスホールです。大規模型のレストラン・シアターで、これは多分キャバレーに分類。今ももちろん営業していますが、昔はパリのツアーにたいてい観覧が入っていました。(日本語の公式ページが現在出ています。)ロートレックのポスターで有名です。1891年、ムーラン・ルージュがポスター政策をロートレックに依頼。これに成功してロートレックはポスター芸術の世界で大成するのです。美術書から写真を持ってきました。アンリ・ド・トゥールズ・ロートレック(1864年~1901年)彼の油絵の絵画のほとんどはアメリカに渡っているようです。つづくリンク モンマルトル 4 (テルトル広場とモンマルトルの芸術家)
2010年04月12日
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どこに行くか迷ってしまった・・・ヴァチカンはちょっと事情があるので、もう少し先にしましまた。で、今回は写真が微妙ではありますが、パリのモンマルトルの丘にしました。モンマルトル 1 (聖人と丘)フランス(France)、パリ(paris)セーヌ川右岸18区 モンマルトル(Montmartre)写真奥に見えるのがモンマルトルの丘のサクレクール寺院海抜130m、パリで最も高い丘はマルチールの山(Mont des Martyrs)・・「殉教者の山」と呼ばれ、それが転じてモンマルトルと呼ばれるようになったそうです。殉教者は聖ドニ。キリスト教徒の迫害が激しくなった3世紀後半にパリで初代司教を努めた聖人です。聖ドニについては、昨年10月「ノートル・ダム寺院 3 (サン・ドニと12使徒像と聖堂のピエタ) 」の所で紹介しています。リンク ノートル・ダム寺院 3 (サン・ドニと12使徒像と聖堂のピエタ)斬首された自分の首を持ってモンマルトルの丘を越へ、現在のサン・ドニ聖堂まで歩いた伝説の聖人です。ノートル・ダム寺院の門の彫刻に聖ドニが連なっています。丘へのアプローチはいろいろあります。大小階段は坂より多いかも。いずれもきつい坂か階段で、ケーブル・カーやバスもあります。最近はこんな乗り物も出ているようです。(2年前にはなかった・・。)この乗り物、最近フランスの観光地に導入されてきているようです。ミニの路線バスも出ています。サクレクール寺院足下のヴィレット公園からケーブル・カーもあります。つづくリンク モンマルトル 2 (サクレ・クール寺院)
2010年04月10日
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チュニジア(Tunisia)共和国オアシス(Oasis)タメルザ峡谷(Gorges de Tamerza)ミデス(Mides)バルコニー・オアシスチュニジアとアルジェリアの国境以前にも紹介しましたが、タメルザ峡谷はアルジェリアとの国境にあります。国境とは言え、ここは監視塔だけのようです。ミデスは国境の所にある村です。何よりも驚くのはその場所です。タメルザ峡谷・・・峡谷は渓谷よりももっと深く刻まれたものです。グランド・キャニオンは大峡谷ですが、ここもなかなかのものです。このタメルザ峡谷はアルジェリアまで繋がっているそうです。それ故、アルジェリアで大雨が降れば、少し時差を置いて、こちらが大洪水になるのだそうです。バルコニー・オアシスこの写真は最初に紹介したものですが、四輪駆動でないと上れない道を上った渓谷の岩山に村はあります。岩山の上ですが、水源があるのでナツメヤシの木も生えています。こう言うのがバルコニー・オアシスと言うものらしいです。さらに驚くのはこの旧村も水害の被害にあっていると言います。現在も一部住民が住み着いて暮らしているようですが、どこから水が? しかも、地盤が多少傾いてるような・・・。おばさんはまっすぐ立っているので、やはり向こうが傾いている・・・間違い無い。ここだけ見ると普通の村ですけど・・・。えぐれ具合から見ると、かなりの水量の水が通った形跡が・・・。地層がむき出しになった峡谷は昔は海の中だったと言います。地殻変動により隆起した岩壁は断層がはっきりくっきり見えます。水による浸食だけでなく、風化による浸食も多少あるのでしょうね。自然の力による造形です。凄いな・・・と言うか、感動ですね。人が作る事のできない壮大なアートです。チュニジアの南部の砂漠は、たびたび映画の撮影に使われると言います。インディ・ジョーンズの「レイダース・失われたアーク」の撮影もチュニジアの砂漠だったようです。このミデスは、「イングリッシュ・ペイシェント」で撮影に使われ、それ以来山岳オアシスのタメルザ峡谷が知られて観光客が増えたのだそうです。残念ながら私は見ていませんが、1996年の作品で砂漠を舞台にしたミステリー・ロマンス? とにかく映像が、幻想的でロマンティックで、砂漠のロマンをかき立てるものなのだそうです。砂漠のオアシスはこれでおわりますが、観光列車レザー・ルージュの紹介を何か挟みながら少しだけする予定です。今しておかないと今後チャンスがないと思うので・・・。明日はお出かけで遅くなるので、夜中過ぎに出せるかな・・・。
2010年04月05日
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砂漠のオアシス 4 (タメルザのオアシス)チュニジア(Tunisia)共和国オアシス(Oasis)タメルザ峡谷(Gorges de Tamerza)タメルザ(Tamerza)のオアシスグランド・カイカド(大滝)タメルザ峡谷にあるタメルザの村も大洪水に見舞われて(1969年)廃墟になった家の跡が見られます。確かに山からの水でグダグタにされた土地・・・かも・・・。旧タメルザ村写真右は、廃墟の一部をホテルの庭の一部にしているようです。塀の上には無数のキャンドルが置かれていて、夜は点灯し、ムードを盛り上げる演出に・・。タメルザのビュー・ポイントである滝の写真をサクサク紹介します。荒野の中と言う事を考えると、これもオアシスなのです。グランド・カイカド(大滝)そんなに大きくはないけど、こちらにしてはかなり貴重で、立派な滝(オアシス)なのでしょう。(日本人にはそれほど珍しい景色ではありませんが・・・。)写真だけでもマイナスイオンを感じられるようです。上の写真をズームしたら寝転がっている人が・・・。奥からも水がしみ出ています。カエルがいるなんで、この国にしては凄いのでは?ちょっと水が濁ってますね。今の滝の撮影場所の後ろ側は、落石注意の峡谷です。滝から落ちた水による小川。大きな転がる石は左側の岩肌からの落石物です。今回は語る所もないのでこんなところで・・。次回はミデスです。リンク 砂漠のオアシス 5 (ミデス)
2010年04月04日
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砂漠のオアシス 3 (シェビカのオアシス)チュニジア(Tunisia)共和国オアシス(Oasis)タメルザ峡谷(Gorges de Tamerza)とシェビカ(Chebika)のオアシス前回に引き続きシェビカ村のオアシスの水源の写真を紹介しますが、その前にチュニジアの水の事情について・・・。水の事情金持ちはミネラルウォーターを買って飲んでいます。当然、観光客も当然ミネラルウォーターを買わないとお腹を壊します。水道は、アトラス山脈の東端の湧き水群から引水して、汚染の少ない地下水と混ぜて使っている町が多いようですが、地下水の多くは塩分濃度が極めて高く、そのままでは使えない。(海水より濃い場合も)古代ローマの時代、彼らが水道橋を造って安全な飲料を供給していたと言うのが、今考えると凄い事だ。6月に「古代ローマ水道 5 (チュニジア編)」でローマ時代に引いたハドリアヌス水道の「ザグーアンの水道橋」を紹介しています。それはまだも部使用されている。リンク 古代ローマ水道 5 (チュニジア・ザグーアン)つまり、この国では日本と違って、その水道水、あまり飲用向きではないのです。※ たいていの国で水を安全に飲める国は少ないです。日本はある意味特殊な方。市街地のアパートの住民は水道水を飲用しているようですが、中流階級以上の一戸建て住宅には、地下タンクが設置され、雨期に貯めた雨水を飲用にして、水道水は洗濯用程度に使用。実は、その雨水もまた危険な水で、いくら濾過しても公害規制のないチュニジアでは自動車の排気ガスや工場排煙による大気汚染が酷く、当然雨水もかなり汚染されているのだそうです。だから住宅の雨水タンクも一工夫されて、初期の汚染された水を捨てるような仕組み等もついているようです。(化学物質は濾過できない)とは言え、その水道すら引けない(飲めない)人達は塩分濃度の高い井戸水(浅井戸)を飲むしかない。それはこの国で一番危険な水。この国の土地は、砂地の為、水の染み込みが早く、排水も地中に消えるので、それ故、下水道や汚水処理場がほとんど無い(造る必要はないと考えられてきた)からなのです。そんな訳で砂地のこの国の場合、下水は砂だけで濾過しているだけだから井戸にはいろんな汚水が入り込んでいる事になるわけです。オアシスがこの国では貴重な場所なのも納得です。では、綺麗な? オアシスの水源に・・・シェビカ(Chebika)のオアシス岩山の狭間に水源の池が見えました。山麓から流れる小川ナツメヤシの木々が密集。結構豊富に水がわき出ています。山の上に羊? のオブジェ? 荒れた岩山とナツメヤシの対比が、生と死を象徴しているかのようです。極端すぎて不思議な光景です。山岳オアシス、シェビカはおわりますが、次はタメルザです。リンク 砂漠のオアシス 4 (タメルザのオアシス)
2010年04月03日
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かつては黒いテントに住み、ラクダや羊の為に牧草地を追い求めて遊牧していた彼らですが、今は主要都市以外のチュニジア人も、内陸のステップに定住して、家畜を飼って自給自足できる程度の農業をして暮らしている者がほとんどなのだそうです。チュニジア近代化の波は遊牧民の生活を着実に変えているようです。砂漠のオアシス 2 (タメルザ峡谷とシェビカ)チュニジア(Tunisia)共和国オアシス(Oasis)タメルザ峡谷(Gorges de Tamerza)とシェビカ(Chebika)オアシスは、乾燥地域において、淡水の水の湧き出ている所を指して言います。淡水の水がある場所には必然的に人や動物が集まるので、そこは必ず要所になります。特に隊商にとっては、そこは給水と食料調達の場となるので絶対です。ですから、隊商の休憩地となる位置のオアシスは、政治的、軍事的な要所にまで発展する場合もあるのだそうです。国境に近いタメルザ峡谷にはベルベル人住むオアシス村が3つあります。観光ではこれらのオアシスを見学に行くわけですが、実はこれらの場所は希有な事に大洪水に見舞われて(1969年)、廃村になったオアシス村なのです。村は別の場所に移動して再建されていますが、砂漠に洪水なんて・・・何だかノアの箱船を思いおこさせますね。(洪水とされているが、山からの鉄砲水なのでは? と思うが・・)シェビカ村はタメルザの峡谷から流れるオアシスの水からなっています。手前のナツメヤシの森はオアシスから流れた水によってできたのです。シェビカ(Chebika)村ここは、映画「インディージョーンズ」の撮影にも使われているそうです。右側が廃墟。山の泉から自然に流れた小川は、夏場は干上がる涸れ川です。アラビア語では、そうした涸れ川をワジ(Wadi)と呼びます。しかし、必ずしも川は自然にできたのではなく、水路を人工で造って、潅漑用にしているようです。だからオアシスの水の影響による森が長く伸びているのでしょう。山側から撮影手前は先程も紹介したように、1969年に洪水で水没して捨てられた村の跡です。現在は、村は写真右、オアシスの最突端に開けています。水源はいずこ?村の裏手にはタメルザの峡谷を有する岩山が連なる。峡谷の見学とオアシスの水源散策に歩いています。ベルベル人の家の所で一度紹介しましたが、砂漠は3つのタイプに分類されています。レグ・・・・小石の砂漠エルグ・・砂の砂漠ハマダ・・岩の砂漠このタメルザの山々は、まさしくハマダなのでしょう。山の狭間に水の伝わる経路を発見この峡谷の山に水が染み込んでいて、流れて出て来るのでしょう。(要するに地下水脈があると言う事ですね。)タメルザはどうもかなり造山活動で隆起した岩山のようなので、断層が縦になっている所があります。きっとそんな所から漏れ出しているのかも・・。山に抱かれるように隠れているナツメヤシを発見 水源は近い水を求める旅人は「やった!! 水があるぞ!!!」ときっと喜んだ事でしょう。次回シェビカの水源です。リンク 砂漠のオアシス 3 (シェビカのオアシス)
2010年04月02日
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さて、チュニジアを離れる前にせっかくだから砂漠のオアシスも紹介です。でもそこを紹介するならレザー・ルージュ(赤いトカゲ)も紹介しなければならないのですが、まずオアシスから。砂漠のオアシスをイメージする時、私たちのオアシス感は「砂漠の中にポッコリ浮かぶヤシの木と小さな池」かもしれない。実際、そんなオアシスはめったにあるものではない。確かに泉式は存在するが、砂漠にそこだけ水が噴水のように湧くわけもない・・。では水源はどこだ? 水源がなければオアシスはできない。冷静に考えれば道理にかなった水源の場所は山間の谷間など場所は限られる事になる。実際、オアシス(Oasis)は水辺全般を指すワードで、川の周りの肥沃地帯もオアシス地帯と呼ぶらしい。砂漠のオアシス 1 (予告)チュニジア(Tunisia)共和国オアシス(Oasis) ただいま編集中チュニジアの中南部は、サハラ砂漠の入り口である。では南部は全て砂漠か? と思うかもしれないが、そうでもない。砂漠やステップがまだらに点在していたりする。そこそこ雨も降るだろうし、夏には枯れるが、川もある。大きな街もいくつかある。そもそも街は水源のある所にできるのだから・・・。チュニジア地図赤がトズール(Tozeur)県チュニジア中西部の地図アルジェリアとの国境にあるタメルザ渓谷に3つのオアシス村がある。山岳オアシスのミデス、タメルザ、シェビカの村々である。これからセレクトです。リンク 砂漠のオアシス 2 (タメルザ峡谷とシェビカ)
2010年04月02日
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思い出した2月にロンダの所で、番外編としてイベリア半島の植民都市のフェニキアを取り上げてました。「スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)」フェニキア人のカルタゴフェニキア人のイベリア進出とギリシャと古代ローマ帝国カルタゴとギリシャと古代ローマ帝国ローマ配下のカルタゴ全く同じ写真は使っていませんが、説明上かぶっているのは確かにありました。チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)チュニジア共和国(Tunisiaシディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)街並保護区世界で最も古いカフェカフェ・デ・ナット(Cafe des Nuttes)ポエニ戦争戦争賠償金とカルタゴの滅亡街並保護区世界初、村の「景観保護の政令」が1915年導入され、無秩序な建築物の建設が禁じられ、街の色も白と青色を基調とするように統一されたようです。鮮やかな白い壁に青い扉や窓、アンダルシア風の窓の飾り格子の美しさは地中海に白壁の街は多々あれど、インパクトが違います。また、ドアにビスでデザイン(装飾)されている唐草(アラベスク)の入れ墨のような模様もここにしかない「美しい特徴」の1つです。これがチュニジアン・ブルー(Tunisian Blue)です。デザインはいろいろ。世界で最も古いカフェ カフェ・デ・ナット(Cafe des Nuttes)著名な作家(シャトーブリアン、アンドレ・ジッド)や芸術家が好んで訪れたと言うカフェは、もちろんテーブル席もあるけれど、中はアラブ式。カフェ・デ・ナットはゴザを意味するらしく、店内は少し高めの位置に座敷・・・ゴザが敷かれている。創業がいつか解らないが、250年ほど前? とか・・。水タバコも吸えて、ミント・ティーがお奨めちょっと海の家を思い起こす造り・・・グリーンの膳にお茶が出される。カフェから撮影ポエニ戦争の戦争賠償金とカルタゴの滅亡日露戦争の時に敗戦国日本は賠償金を払う代わりに、「樺太南部の割譲」を認めたと言う・・。戦争賠償金とは、戦争で負った損害の賠償を敗戦国が戦勝国に支払わうものであり、金銭のみならず、領土などもその対象になっている。その戦争賠償金の慣習? は、古くはカルタゴで行われている。カルタゴが第2次ポエニ戦争でローマに負けた時だ。※ ローマ人はカルタゴの事をラテン語でポエニと呼んでいた。それはラテン語でフェニキア人をさした言葉だからだ。ポエニ戦争は、地中海の覇権を賭けたフエニキア人と帝政ローマの闘い。紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度会戦している。1度目はカルタゴの勝利と思われたがアエガテス諸島沖の海戦で逆転負けした。2度目目はハンニバルによるローマ進行でローマを果敢に攻めたが敗戦。そして戦いの後に不利な講話条約による賠償金が課せられた。海外領土(シチリア島、サルデーニャ島、ヒスパニア)没収、さらに毎年200タレント銀貨の賠償金(返済期間50年)を課せられている。カルタゴはハンニバルの元、恐ろしい勢いで復興して高額な戦争賠償金をそれを10年一括返済したそうだ。しかし、逆にそのカルタゴの回復力に恐怖を抱いたローマは、カルタゴを滅ぼす事を決めたと言われている。3度目の敗戦でローマ帝国に滅ぼされ、最後のフェニキア都市も消えた。(歴史にもし・・は意味がないが・・。)もし、カルタゴが律儀に素早く返済していなければ、属国のままでも生き延びていたかも知れなかった?BC149年「カルタゴが条約を破った」と、ローマ側はいちゃ文つけて第3次ポエニ戦争をおこす。カルタゴは玉砕覚悟で応戦したが、3年に及ぶ包囲戦の結果BC146年に滅亡した。※ 6日の市街戦の後、カルタゴの街に火を付けられてカルタゴは17日間燃え続けて街は灰の山になったと言う。灰になったカルタゴの街が再建されるのは100年後のBC46年(カエサルの時代に計画)ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝の時(実行)です。だから街にはフェニキア、カルタゴ時代以前の遺跡はほとんどない。ローマ時代の華々しさも今は「夢の跡」であるが、繁栄していたカルタゴの街はきっと今よりも、もっと美しかったに違いない・・・。実に惜しい事だ。ピュルサの丘にあるカルタゴ博物館所蔵ローマ時代以前に見えるけど・・・。カルタゴ海岸、シティ・ブ・サイド おわりますが、チュニジアの砂漠地帯について書いています。リンク 砂漠のオアシス 1(予告)リンク 砂漠のオアシス 2 (タメルザ峡谷とシェビカ)リンク 砂漠のオアシス 3 (シェビカのオアシス)リンク 砂漠のオアシス 4 (タメルザのオアシス)リンク 砂漠のオアシス 5 (ミデス)リンク チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 1リンク チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 2 (ぶらり途中下車)リンク チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 3 (リン鉱山)
2010年04月01日
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以前どこかの回でちょっと紹介したと思うがどこだったか・・・。とりあえず改めて・・・。チュニジアでもっとも美しいと言われるシディ・ブ・サイドの色を紹介。その前にカルタゴを一望カルタゴ、ピュルサの丘から古い軍港方向カルタゴ時代の港湾は近未来的な作りであったようですが、今はラグーンとなり、高級別荘地になっています。その近くトフェには古代ローマ時代の大浴場もあります。カルタゴの現実的な方面です。街は確かに白いけど何となく味気ない建物だらけ。そして向こうにはビル群も・・。チュニジアン・ブルー 1 カルタゴ(Carthage)チュニジア(Tunisia)共和国シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)古代貿易都市カルタゴ首都のチュニスとは「白」と言う意味で、その名の通り街は白い建物一色です。そのチュニスから北東に17km行った所カルタゴの街があり、シディ・ブ・サイドはそのカルタゴ海岸沿い、カルタゴとチュニス湾を見下ろす高台にあります。古代ローマ時代には灯台が設置されていたと言いますし、アラブ(ムラービト朝)時代にも要塞として見張り塔もあった場所です。昔から高台の要地だった場所です。17世紀以降、チュニジアのブルジョワ階級が好んで住みついたようで、シディ・ブ・サイドの名は1893年に付いた名ですが、シディが聖人に付けられる称号で、スーフィー教団の聖者アブ・サイドから付けられたと考えられるようです。シディ・ブ・サイドにあるカフェ・シディ・シャバーン断崖の上にある絶景カフェ(喫茶店)です。古代の貿易大国カルタゴそもそもカルタゴは紀元前9世紀頃レバノンを拠点にしていたフェニキア人が地中海貿易の足場に開拓した植民都市です。商業中心の都市国家はここを拠点に資源である銀、すず、鉄、象牙、さんご、めのう、蜜、オイル、羊毛、敷物から食料、衣服、装飾品と幅広く各地から買い集めて取引を行い、その貿易資金により、地中海各地に植民都市をたくさん築いた事で知られています。技術面でも品質でもすぐれていたフェニキアの品は今で言うブランド品だったようで、商売敵のギリシャ人までもが贈答品にはフェニキアの品をセレクトしていた・・と言われるほど群を抜いていたようです。紀元前8世紀に本家のフェニキアが滅びると、交易の中心に位置するカルテタゴが、植民都市のリーダーとして直接しきる事になります。路地は、ブルーの建具を除くと欧州側の地中海沿岸の街に似ている気がします。シディ・ブ・サイド 一番の高級レストラン オウ・ボン・ビュー・トンチュニジアン・フレンチの創作料理店で、著名人も来るレストラン。シディ・ブ・サイドの住宅、特に建具は、アラブ建築、アンダルシア建築の組み合わされた独特のデザインです。この建具は、ムデハル様式のようですが・・・。スペインで生まれたアラブ様式の宮殿は、ムデハルの手により造られたので、ムデハル様式と呼ばれるのですが・・・。)ムデハル様式については、「セビーリャのアルカサル 2 (ペドロ1世)」で書いてます。ところでカルタゴの驚異的な海軍力は、ギリシャ人でさえ恐れた大西洋にも乗りだし、ひょっとするとアメリカ大陸まで到達していたのではないか? と言われているそうです。つづく
2010年04月01日
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Break Time (一休み)今回は北アフリカより攻め込んで、アンダルシアを支配したベルベル人をちょっと紹介して終わりです。いわゆる番外編ですが・・。西ゴート王国を倒して建国したイスラム王朝はベルベル人の王朝でした。ベルベル人の定義は北アフリカに昔から住む、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々で、主に遊牧民です。ベルベル人は、いくつかの部族にわかれており、中でも有名なのが、トゥアレグ族です。トゥアレグ族は青いターバンと民族衣装を着る事から青の部族と呼ばれています。写真はトゥアレグではないようです。(観光用ですし・・)以前も紹介したように、北アフリカに住むベルベル人を指してムーア人(Moors)orモーロ人呼ぶのですが、グラナダ王国が陥落(1492年)すると、アラブ系も一緒くたにイスラム教徒として扱われるので、改宗したものはモリスコと呼ばれ、改宗しない者はマグレブ(北アフリカ)に追放されたのです。現在東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布。写真はチュニジアです。近いうちに住居も紹介します。今日は限界
2010年03月19日
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どこに行こうか迷走してましたとりあえず、「どこでしょう? クイズ」で始めますヒント 1さて、今回はフランス歌劇の代表作として世界的に人気があるジョルジュ・ビゼーの作曲の「オペラ」(opera)、カルメン(Carmen) の舞台となる街を紹介。前のロンダの時に少し触れましたがカルメンにそそのかされたドン・ホセはここにいられなくなってロンダに身を隠しています。写真はカルメンではなくただのフラメンコです。カルメンはジプシーorヒターノでしてた。フラメンコはロマ系のジプシー達の踊りに由来すると言われています。ヒント 2大西洋からグアダルキビール川を遡上して街につけます。海に隣接はしていませんが、船舶が出入りできるので一応、港湾都市です。イスラム時代の見張り塔・・黄金の塔ヒント 3イスラムの下で特に発展しますが、レコンキスタ以降はカステーリャ王国の主要都市として発展。カセドラル市役所です。よくある名前ですが、広場の名はスペイン広場です。陶製の欄干が素敵です。この地方は焼き物で有名です。ヒント 4ここも闘牛のメッカです。道路隔てて前に闘牛士の像が・・。なんだか交通整理をしているように見えますね。夜中に続きがupできるかな・・・・何だか嫌なニュースを聞いて酷くムカツいています育児放棄の親に厳罰を要求したいです。ただ昨日公判の、麻薬で捕まった大沢さんには少し同情します。彼は自分以外は誰も傷つけていないのに懲役は厳しいのでは? 麻薬を吸っていた人達の脳はスカスカでもとに戻る事はないそうです。十分自分を傷つけているのですから、社会が彼に罰を与える必要はもうない気がするのです。それより、いじめで自殺に追い込んだ人達や、虐待の親に対してはきつい判決を求めたいですね。最近は裁判官が人道主義に走りすぎていて道理にあっていない判決が多い気がします。そもそも過去の判例をなかなか越える裁決ができない事にも問題がある気がします。裁判員制度は期待できるのかな?皆の持つ良識が問われる問題ですね。
2010年03月04日
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特に史跡も無かったのですが、白い街の小道が面白いのでプエブラ・ブランカ(Puebla Blanca)「白い街」の1つとして紹介しました。映像散策と言う所で今回は終わりにします。スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州マラガ(Málaga)県ミハス(Mijas)斜面にある白い街の小道は迷路に近い。レストランやバー、小物店なども何気にある。もともと漁師町だったのに高級リゾート地となってしまったので観光客が多い。だからお店も観光客向けの店が多いようです。とは言え、物価は観光地だからと言って特に高い訳ではないようです。街中は地元民の住居でその周辺の山間には別荘地が多い。彼らもミハスの街にある市場に買い物に来ることもあるだろうが、コスタ・デル・ソルの沿岸のフェンヒローラの街やマラガの街に言ってしまうのだろうな・・。日中歩いているのはショート・タイム・ステイの観光客ばかり。白の清潔感もあるれれど、ゴミは落ちていないし本当に綺麗である。ロバ・タクシーの糞も落ちていないのでロバの小道への乗り入れは禁止なのかもしれない。この道は車も登るのか・・・。すぐ目と鼻の先には高層ビルと高級ホテルが控えている。都会の喧噪から少し離れた落ち着いた街は一息つくには良いかもしれない明日は早くから外出なので無理ができない・・。しかも、まだ次回作思案中・・決まれば夜中に予告編だけ出しておきます
2010年02月24日
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スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州マラガ(Málaga)県ミハス(Mijas)ミハスの闘牛場と裏路地ミハスの闘牛場闘牛場各闘牛場は開催回数とその規模や収容人数によって1~3級闘牛場と格付けがされているようです。(ここはかなり規模が小さいようなので、3級くらいかもしれません。)通常闘牛は祭りのシーズンに限られた見せ物だったようで、公式闘牛シーズンは3月のバレンシアの火祭りから始まり10月のくサラゴサのピラール祭までが時期とさけていたようです。例外的に観光客の集客等の為にマドリッドとバルセロナの闘牛場では毎週日曜日開催の闘牛を行ってきたようです。(観光客は主にこれを見に行っていたわけです。)ところが・・・。2000年代に入り、動物愛護団体からの批判が相次ぎ、国営放送の闘牛放送も無くなり、自粛傾向から人気は一気に落ちて観光客も激減したのかもしれません。闘牛場の閉鎖も相次いでいると言います。闘牛はスペインだけではありませんが(ポルトガル、フランス、ラテンアメリカも・・)スペインの闘牛は「牛を完全に殺すまでやる。」と言う、ちょっと残酷な物だから確かに批判は来るだろうな・・・かつてスペイン全土における常設闘牛場は、500を越えていたようですが今はどれくらいか不明。闘牛のポスター良く見ればポスターは数年前の物。最近ここでもやっていないのだろうか・・・。とは言え・・闘牛場の維持、管理費か? 入場料を払えばいつでも中を見せてくれるそうです。(入ってないけど・・。)左がチケット売り場でポスターの隣がグッズ売りのお店。いつもオープンしてるようです。公営なのかも知れません。さて、別の白い所を・・・。ビルへン・デラ・ペニャ広場ちょっとテーマパークの中の一角みたいですね。奥の路地階段を上に上ると・・白い道の人気スポット、サン・セヴァスティアン通りに向かうサン・セヴァスティアン通り実は同じような坂道の路地がが多い。見分けは石畳のデザインかもつづく
2010年02月23日
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前々からアルハンブラ宮殿を紹介しようと考えていたのだが・・・やはり難しい・・・いろいろ検討した結果、やはりまだプランが練れないので取りやめにした(中身が多すぎて歴史も重すぎて、どう手を入れていいか解らない・・)でも、アルハンブラのあるグラナダを含むアンダルシア地方はスペイン南部で、イスラム支配の歴史が長かった経緯から独自の文化を育んだ街が多いので面白い。メインはまだ無理であるが、周りの小さい街からコツコツ行こうかと考えましたスペイン(Espana)ピレネー山脈の南側に広がる地域をイベリアと呼んだのは古代ギリシャ人のようである。彼らは半島先の住民を「イベレ」と呼び、イベリア半島の名はそこから来ている。アンダルシア(Andalucía)州マラガ(Málaga)県ミハス(Mijas)アンダルシア州はスペイン南部、西にポルトガル(左端のベージュ)、南には地中海、ジブラルタル海峡と大西洋に面した県である。アンダルシア州には、8つの県があり、マラガは中央下のベージュ色アンダルシアと言えば、グラナダのアルハンブラ宮殿、コルドバのメスキータ、メディナ・アサーラ、セビリャの黄金の塔、ヒラルダの塔等の有名な見所が多いのだが、今回は地中海沿岸マラガ県の中のミハスと言う小さな町を紹介。マラガ(Málaga)アンダルシア州の地中海沿岸部をコスタ・デルソル(大洋海岸)と呼ぶそうです。中心となるマラガ県のマラガはBC1000年頃フェニキア人によって建設された港町「マラカ」(Malaka)が始まりで、北アフリカとを結ぶ通商の重要な土地として長らく、非常に繁栄したのだそうです。重要拠点マラガの支配者はその後幾多変わり・・・8世紀にイベリア半島はイスラム教徒に征服され、アンダルシアもナスル朝グラナダ王国(1238年~1492年)が支配。そんなイスラム人の王国がキリスト教勢力に奪還(レコンキスタ)されるのは1492年のグラナダ陥落で、それに先立つマラガの陥落がグラナダの陥落の間接誘因になったのは間違いないでしょう。マラガは北アフリカとグラナダ王国のアルハンプラ宮殿を結ぶ動脈上にあったわけです。ミハスは地図のど真ん中から少し右下(海に近い小さな街)ミハス(Mijas)地中海に面した人気リゾート地コスタ・デル・ソル(大洋海岸)にあるフェンヒローラの街の後方、山の斜面に広がるミハスは白壁の家々が集まった美しい景観の街なのです。フェンヒローラの街からは9km。車で20分。海が見渡せる一等地なので沿岸と同様リゾート地として地価も高いと言う。上の写真の道をミハスに向かう写真が下。前方の山の斜面がミハスの街。町の周りはプール付きの家が多い・・・つまり高級住宅街地か、別荘地。プエブラ・ブランカ(Puebla Blanca)「白い街」アンダルシアの南部には白壁の家々が寄り集まった町や村が多い。その中でもマラガの左右にある町、ミハスとトロックスはコスタ・デルソルの中でも人気のリゾートで知られ、カサレスは古城をいただく丘の斜面に盛り上がるようにならび、モンテフリオも絶壁と急斜面の山に並ぶ。一説には強い陽光を避ける為に毎年街中で白く塗るのだと言う・・。以前サントリーニかどこかでも同じ問題にぶち当たった。地中海沿岸はギリシャの島々やイタリアのアマルフィもカブリ島も白い建物が並んでいた。白色の顔料の素材が石灰岩であり、漆喰の原料でもあると言う所に着目して、古来より材料が豊富だった事によるのかも知れない。因みに大理石は白色の結晶質石灰岩である。本当に白だと陽光を避けて温度は下がるのだろうか? かえって反射してまぶしいぞ・・と、思うのだが・・・。馬車タクシーバスは町の郊外へ、町の中は馬かロバのタクシーが一般的。最も馬車は観光客だけかも・・。ロバ・タクシーは次回紹介。町の中は全てが白い。清潔感は確かにあるかも・・。次回以降に解説。つづく毎日悩んで、結局無駄になった時間が惜しい・・・いつかアルハンブラに挑戦
2010年02月22日
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