わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年05月29日
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カテゴリ: 歴史の旅



古代ローマの歴史から
(古代ローマの歴史は、政治体制別に三期に分けて考えると判りやすいと思います。)

古代ローマ(Roma antiqua)は、もともとイタリア半島中部あたりの多部族からなる都市国家から始まったと言われています。 BC753年 に初代ローマ王ロムルスが現イタリア、ローマのテヴェレ川域の七つの丘の上に街を築いたといいます。(最初に集落を構えたのはパラテイーノの丘)当初は 王政ローマ時代 として、王国は第7代目の王が追放されるまでの BC509年 まで続きます。(王はエトルリアに逃げたそうです。)

BC509年 の王政打倒から、 BC27年 の帝政の開始までの期間を 共和制ローマ時代 と呼び、2名の執政官がローマの政治を司ることになります。(元老院、政務官、民会の三者によって成り立っていたとする考えが一般的であるとされる。)
この時期のローマは、イタリア中部の一都市国家から、地中海の全域に属州を持つ帝国へと成長。戦いの時代である。(ポエニ戦争は第1次から大3次まで行われる。)

BC272年、南イタリアのギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一。
BC264年(第1次ポエニ戦争)カルタゴとの百年以上に渡る戦争へ突入してシチリア島を獲得(最初の属州に)。
BC218(第2次ポエニ戦争)では、当初カルタゴの将軍ハンニバルに敗れるもののカルタゴに勝利し、カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海を制覇。
BC146年カルタゴの脅威がなくなるとイタリア半島外へ勢力を拡大。コリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを征服しバルカン半島に進出。
BC149年~BC146年(第3次ポエニ戦争)3年間の攻囲戦で、カルタゴの町は完全に破壊消滅。残されたカルタゴの全領土はローマに併合。(カルタゴの全住民は戦死か奴隷になる。)
文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのギリシア芸術をもたらします。

BC27年 からローマ帝国が東西に分裂した 395年 までが 帝政ローマ時代 と呼ばれ、最後のローマ皇帝はテオドシウス1世である。
(ローマ帝国の滅亡と言う観点から見れば、西ローマ帝国が滅亡した 476年 とする説もある。)
ポエニ戦争の前後から、イタリア半島では貧富の格差は拡大。元老院や民会では汚職や暴力が横行。(内乱の一世紀)武力を用いて政争の解決を図るようになる等民政も荒廃。その中大頭してきたガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が終身独裁官に就任し、元老院中心の共和政は崩壊へ・・。BC44年、カエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、勝利したオクタヴィアヌスがBC27年に元老院よりアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を受けてより帝政ローマの時代は始まった。

下は初代ロムルス王が開いたローマ発祥の地、現在のフォロ・ロマーノ遺跡とその周辺図を参考の為にup。
フォロ・ロマーノ周辺地図
地図の中心地、パラテイーノの丘が初代ロムルス王が最初に城を築いた丘です。左上の緑の部分が最初に神殿を築いたとされるカンピドリーノの丘です。地図には見えないですが、左にテヴェレ川が流れており、右の端には円形競技場のコロッセオがありますが、これは(BC72~)ローマとしては新しいものです。
パラティーノの丘の上側にフォロ・ロマーノの遺跡があります。もとは6つの丘の間の盆地で、神殿が数多く建てられた跡が発掘されて現在公開されている。(開拓されるまでは墓地だったようだ。)

下が古代ローマ遺跡のフォロ・ロマーノです。カンピドリーノの丘の上にある市庁舎から撮影。
フォロ・ロマーノ 2
フォロ・ロマーノは、東西約300m、南北約100mに渡って存在する古代ローマの中心部(フォルム・ロマヌム)の遺跡である。東西南北に、それぞれ「妹の梁の門」、「呪われた門」、「ローマ門」、「ヤヌス門」と呼ばれる古い四つの門があったとされ、都市としてのローマの最初の輪郭であったと考えられるそうだ。
BC575年ほぼ沼地だったこの地を下水道工事して水抜きをし、利用できる土地に変えて以来ローマ帝国がテトラルキア(4人の統治)を採用する293年まで国家の政治・経済の中心地となった場所である。(今はボロボロだが、最高の文化水準の帝国の中心地がここだったわけである。)
左3本の柱がサトゥルヌスの神殿跡、中心8本の柱がヴェスパシアヌスの神殿跡。神殿の間に見える門が、セプティミウス・セヴェルスの凱旋門だ。(これはとんでもない皇帝で、完成時にはすでにお飾りだったようだ。跡を継いだ息子がカラカラ浴場の建築者である。)

古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォルム(広場)が置かれていたが、このフォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォルムであるそうだ。
フォロ・ロマーノ 1
上写真中右がジュリアのバシリカはBC46年カエサル(ジュリアス・シーザー)によって建設が始められた裁判所である。
左、凱旋門右奥(神殿柱の間に見えるグリーンのあたり)にエミリアのバシリカ(BC179年)は遺跡の中で最古のもので、410年までは「世界で最も壮麗な建物」(by大プリニウス)であったが、ゴート族により焼かれ、ルネッサンス期に略奪されて破壊。金融の商取引所があったらしい。
写真右奥の三本の柱がヴェスタの円形神殿で、かまどの神を祭っていて共和国の安全を守る共和国の守護神である。

今このように荒廃しているのはローマ帝国が東西に分裂し、首都がラヴェンナに移されると異民族の略奪にされ、又西ローマ帝国滅亡後は忘れ去られて土砂の下に埋もれてしまったからだそうです。

下は先ほどと反対側のコロッセオの上から撮影。
フォロ・ロマーノ 3
左奥の緑の部分がパラティーノの丘(ロムルス王が最初に城を気づいた丘)共和制時代は名門貴族や有力者達の豪邸or宮殿が建ち並んだそうだ。(現在の遺跡は帝政時代の物)
写真中央が考古学博物館とサン・フランチェスカ・ロマーナ教会である。

フォロ・ロマーノが現在の輪郭になったのは、カエサル(ジュリアス・シーザー)による西側の大改装の結果である。その計画は彼の暗殺によって、初代ローマ皇帝アウグストゥスへと引き継がれる。現在の遺跡はほとんどがその計画の後に建設されたものとなっている。






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Last updated  2009年06月05日 18時28分48秒
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