わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年07月07日
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カテゴリ: 歴史の旅

メディチ家の連絡通路、ヴァザーリの廻廊(1565年)を渡る

ピッティ宮からポンテ・ヴッキオを通り越し、さらにウフィツィを通り越してヴェッキオ宮殿までつないだ宙の渡り廊下です。全長1km程あります。
コジモ1世(1519年~1574年)が、メディチ家の専用の防衛を兼ねた渡り廊下を希望していた事と、彼の息子フランチェスコとオーストリア皇女ジョヴァンナの結婚式(1565年12月)に間に合わせる為に急ピッチ(たった5ヶ月)で仕上げたようです。(フランチェスコの住まいベッキオ宮とゴジモ1世の住まいを繋いだわけです。)
ヴァザーリの廻廊 9A
長いのでピッティ宮はやはり下で切れています。上の左端に下だけ見えているのが、ヴェッキオ宮です。
下は、ウフィッツィ美術館から撮影したヴェッキオ宮殿です。塔があるので宮殿には見えませんが・・。
ヴァザーリの廻廊 10B
ウフィッツィ美術館はコの字型をしており、撮影場所も美術館内です。下は、中庭部分。
3階右の翼の突き当たりが、ヴェッキオ宮に宙でつながっています。(ヴェッキオ宮の左側がシニョーリア広場です。)
下の右側がウフィッツィ美術館で左側がヴェッキオ宮殿です。シニョーリア広場側からの撮影です。
ヴァザーリの廻廊 3C
デパートの連絡橋のようですが、中世にこの技術と発想はすばらしいですね。かくして、本当の ヴァザーリの廻廊のスタートはここから始まります 。でも、特別観光客はウフィッツィ美術館の3階からスタートします。

ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)とジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)
「古き舘」は、アルノルフォ・ディ・カンビオによって1299年~1314年に建設。当初、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、後にメディチ家の居城となると部分的に改築されます。(現在フィレンツェ市庁舎)
依頼され、設計建築したのは、彼自身も画家であり、建築家のジョルジュ・ヴァザーリで、1550年~1565年の事だそうです。ジョルジュ・ヴァザーリは、「画家・彫刻家・建築家列伝」を著しており、美術史家の側面もあり有名です。
一連の改築工事にあたり、ヴァザーリは「多くの事件を目の当たりにしてきた基本的な外壁。」・・・・は、そのままの姿で残すべきと判断したようです。
コジモ1世とヴァザーリは、「ヴェッキオ宮は本来の姿、ただ一つ。」と、歴史的建造物の外観には手を入れず、改築は内装部のみで行われたようです。私達が今日見ているヴェッキオ宮殿は建築当時の1314年の姿のままなのです。

廻廊は、ヴェッキオ宮殿の3階エレオノーラの居室「緑の間」から始まり、ウフィッツィ宮殿の左翼(写真Bでは右翼)に沿って、アルノ川に面した美しい廻廊に繋がります。
美術館内の写真撮影が、今はできないので、美術館内の写真はありません。
ウフィッツィ宮は、1591年より部分的に美術館として公開されています。もともとメディチ家のコレクションを置いてあり、コジモ1世の息子(前出の)フランチェスコ1世が最上階に美術品を展示し始めた事に始まるようです。近代式の美術館としてはヨーロッパ最古のものの1つと言う事です。
窓辺には大理石の胸像がたくさん飾られていたと思います。(絵は陽に焼けるから。)

下は、ウフィッツィ美術館を出てアルノ川沿いに進む廻廊です。撮影場所は、ポンテ・ヴェッキオの上のヴァザーリの廻廊からです。
ヴァザーリの廻廊 2D
上の写真を向側から撮影したものが、前回載せたものですが、再び載せます。
下は、美術館の廊下側から撮影したものです。赤い瓦屋根の下が、アーチでささえられた廻廊です。アーチの下ではなく、通路は上です。四角いのは明かり取りの窓です。
ベッキオ橋 1E

前回も説明しましまたが、突然行って拝観する事はできません。かなり事前に拝観の申請して、許可をもらわないと、中に入れてもらえないので、注意して下さい。

下は、ヴァザーリの廻廊内部、恐らく・・多分・・写真D、Eの通路? あたり?
並んでいる絵画は、フィレンツェの画家達の肖像画です。
ヴァザーリの廻廊 4F
現在は近代風になっていて、ただの味気ない通路です。絵画は、メディチ家の所有だったものですが、ヴァザーリの頃から? 画家は、自分の肖像画をメディチ家に提出しなければならなかったそうです。ポピュラーな画家の肖像画は公開されていますが、微妙なラインの画家達の肖像画もだいたい揃っているようです。1966年のサイクロンの被害がどこまで出ているかわかりませんが・・。

そう言えば、ルーブル美術館のモナ・リザ偽物説ですが、ジョルジュ・ヴァザーリはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)のモナ・リザの実物を見ているのだそうです。それは、「ルーブルのモナ・リザとは別物だった。」と言う所からも疑惑が出ていると、何かの本で読みました。(芸術家列伝で触れていたのかな? )もし、そうなら何世紀か前からすり替えられていた可能性もありますね・・。

つづく・・。






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Last updated  2009年07月08日 03時08分36秒
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