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フイレンツェに行ったら、まず最初に訪ねてみたいのがこの丘の上の広場です。
ここからは、ほぼフィレンツェの全景が見渡せるからです。
丘の上にはミケランジェロ作・・と、行ってもブロンズのレプリカですが、 ダビデ像
が飾られていて、その為に ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)
と呼ばれています。
「ヴァザーリの廻廊 1」で紹介したように、コジモ1世とヴァザーリは、「ヴェッキオ宮殿は本来の姿、ただ一つ。」と、歴史的建造物の外観に手を入れなかったように、この街の整備計画においても、なるべく元の姿を残しながら、元の建築デザインに沿うように心がけて進められたようです。彼らの街作りの基本精神は、依頼脈々と受け継がれ、中世の街のたたずまいを今も存在させているのです。
今日私達がフィレンツエに来た時に感じる中世にタイムスリップしたような不思議な感覚は、統一されたかのように同じ古い赤レンガ色した街の屋根と、かび臭そうな石の壁から匂い立つこの街の独特の空気の香りのせいなのかもしれません。
下は、ミケランジェロ広場の丘から撮影したフィレンツェの街です。3枚のパノラマになっています。
左、ピッティ宮殿のあるボボリ庭園の森からポンテ・ヴェッキオまで。
ポンテ・ヴェッキオからヴェッキオ宮殿まで。
ヴェッキオ宮殿からこの街のシンボルであるドゥオーモと鐘楼までです。
たいがい紹介されるフィレンツェの写真はこの景色です。
写真は夏の青さで街がくっきり浮かんで綺麗です。冬の写真は、弱い日差しで街が少しぼやけて見えますが、より中世に戻った気にさせてくれます。それは、薄暗さが私の中世のイメージだからかもしれませんが・・。
BC8世紀にエトルリア人が開いた街だったと言う話しは、最初に触れましたが、彼らは、軍事と公衆衛生の立場から丘の上に街を造り、交易の為に一番渡りやすい所に橋を架けました。ボンテ・ヴェッキオです。
今日フィレンツェ、ピサ、シェーナを含む地域をトスカーナと呼ぶのは、ローマ人が浸入するまではエトルリア人の住む土地だった事から「エトルスキの土地」と呼ばれ、エトルスキの土地の事を「エトルスカ」と呼ぶのだそうですが、それが後世なまってトスカーナと呼ばれるようになったそうです。
BC3世紀にローマ人の勢力が増大してくるると、エトルスカもなし崩しにローマ化され、植民地にされてしまいます。BC59年、退役兵に報奨として土地を与えていたカエサルは、エトルスカも彼らに与え植民都市を造らせます、彼らは、アルノ川のボンテ・ヴェッキオ周辺に街を築いていったようです。(今は無いですが、円形闘技場の跡も道路の形として残っているそうです。)
西ローマ帝国が衰え、蛮族が浸入してくると、街は掠奪と破壊の時代を迎えます。「治安が回復すれば、舞い戻って来てはローマの廃屋の街の上に新たな街を再建する。」を繰り返し復興させて行ったようです。(それをうまく整理したのが、コジモ1世とヴァザーリですね。)
この街の名が「花咲く」、「繁栄」から来ていると言う話は「ポンテ・ヴェッキオ」の所で紹介したとおり、ローマの退役兵が繁栄を願って、花の女神フローラと言う意味でフロレンティア(Florentia)と名付けたのがフィレンツェ語源で、それが変化してフィレンツェ(Firenze)になったようですが、英語名のフローレンス(Florence)の方がローマ時代の元の名に近いようです。
昔からこの街は花の都だったのですね。
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