わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年07月10日
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カテゴリ: 偉人・画家・聖人



ミケランジェロ作のダビデ像(David)は、最初フィレンツェのシニョーリア広場のヴェッキオ宮殿の前にありました。
下は、ベッキオ宮殿です。メディチ家の居城であった時代もありました。下の右端に注目。
ヴェッキオ宮殿
かすかに像が見えます。
ダビデ 4
ここが、元の本家のダビデ像があった正位置です。
ダビデ 5
1873年ダヴィデ像は、外にあると損傷を受けやすい(酸性雨とか・・年月の摩耗)ので、保存の為にフィレンツェに美術学校の美術館であるアカデミア美術館(Galleria dell Accademia)に移設。
下の写真はアカデミアの本物の大理石のダビデですが、私の写真ではありません。
アカデミアのダビデ
1501年~1504年に制作。大理石で身の丈5.17m。

ダビデが裸なのは、当初サウルが自分の着ていた甲冑をダビデに着せたのですが、着慣れない甲冑と動きのとれない事に戸惑い、「それらを脱ぎ捨てた。」と聖書に記されていたからだそうです。

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni) (1475年~1564年)ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人と多くの肩書きをもちますが、本人は、「私は彫刻家である。」と言い続けたそうです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティと共にルネサンスの三大巨匠と呼ばれます。名前はミカエル(Michael)+ 天使(angelo)の意。

ミケランジェロは、当時トスカーナ地方のカプレーゼで行政官をしていた家に生まれます。父は任期を終えフィレンツェに戻ると、生まれて数週間のミケランジェロをセッティニャーノ近郊の乳母の元に彼を預けたのだそうです。
セッティニャーノは石切場が多く、乳母の父も夫も石工であった事が、彼の人生が決まる環境となりました。
「私は、乳母の乳といっしょに、彫刻を作るのに使う鉄槌やノミも吸い取ったのだ。」と後にジョークを飛ばしていたそうです。

芸術の道に進んだのは彼自身の希望で、(親は彼を文法学校に通わせていた。)
13歳(1488年)の時にフィレンツェで一番成功していたドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし1年で頭角を現します。当時メディチ家の庭園にあったロレンツォ・ディ・メディチ(1449年~1492年)の新しい彫刻家の為の学校で学ぶチャンスを得ますが、才能のあった彼は学友の嫉妬心からいじめにあっていました。弱い者いじめの若い彫刻家ピエトロ・トリジャーノに顔面を殴打され、鼻の骨を砕かれています。ミケランジェロはこの事件と傷で、「生涯(心理的な)傷跡を残した。」と思われると、彼の親友のジョルジュ・ヴァザーリ(ヴァザーリの廻廊の建築家にして、「画家・彫刻家・建築家列伝」の著者)が記しているそうです。容姿に劣等感を持ち、さらに気難しい性格になった事は間違いないようです。

ところで、 ロレンツォ・ディ・メディチ(1449年~1492年) はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣し、フィレンツェのルネサンス美術をイタリア中に広めています。これは特異なロレンツォの外交政策の一端といわれますが、彼の代にメディチ家は最盛時(黄金時代)を迎え、盛期ルネサンスと重なります。
芸術を愛したロレンツォが43歳の若さで病死し、息子のピエロ(1472年~1503年) が20歳の若さで家督を継ぎますが、もともと人望に乏しく、ロレンツォが「愚か者」と評した長男です。ロレンツォ亡き後のフィレンツェは衰退し始めます。
同時に、芸術に興味のないピエロはミケランジェロに強い失望を与えました。

この頃の不安なフィレンツェに不穏な事件がもう一つあります。サヴォナローラの登場です。サヴォナローラの事は別の機会にとりあげますが、彼の耳鳴りする説法により、ミケランジェロは仕事を辞めてフィレンツェから逃れて行きました。

つづく






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Last updated  2009年07月11日 02時17分59秒
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