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ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)
(1475年~1564年)
下は、 バチカンのサン・ピエトロ寺院
の正面部分です。
建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年に起工。1514年にブラマンテが死ぬと、大聖堂の主任建築家はラファエロとなったそうです。
1546年にはミケランジェロも主任建築家となっています。かつてドナト・ブラマンテとはライバルでした。
教皇達は、自分の栄光の為にミケランジェロを働かせる事を望んだと言われています。
サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑
1513年、教皇ユリウス2世が、ミケランジェロに自分の墓碑を依頼したまま他界。1505年より約束されていた大がかりな墓碑の建築をミケランジェロは手がけるに手がけられず40年引きずり、悩ませられたそうです。1547年に完成された教皇ユリウス2世の廟堂は縮小されてサン・ピエトロの中に制作。ミケランジェロの作で「モーセ」像は有名です。
下は 、サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑の一部の
モーセ像です
。当初40体の彫刻を作るはずが、忙しすぎて自分で3体しか制作できなかったようです。
メディチ家礼拝堂新廟
メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男で駄目ピエロの弟)が教皇に即位。彼により、ミケランジェロはフィレンツェに戻り、サン・ロレンッオ教会の外観の設計など、メディチ家の仕事をするように言われます。図書館や メディチ家礼拝堂の
新聖器室などを建設。1520~1533年に作られたメディチ家礼拝堂の新廟には、 ロレンツォ2世の「暁と黄昏」とジュリアーノの「昼と夜」
のすばらしいミケランジェロ制作のの墓碑があります。
下は、ウルビーノ公ロレンツォ2世の墓碑の部分。(以前とりあげています。)
石を彫ったとは思えない素晴らしい作品です。電動ドリルもない時代にミケランジェロはどうしてこうも細やかに、まるで粘土でも彫るかのようにできるのか? 天才以上に本当に神の業です。一体彫るのにどれだけかかるのか・・。
法王レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたクレメンス7世が、教皇に即位した頃は不安定な国際情勢の中で、イタリアを巡るフランスと神聖ローマ帝国との戦闘の最中でした。マルティン・ルターによる宗教改革運動もあってクレメンスはサンタンジェロ城に幽閉、市内では殺戮、破壊、略奪、等の惨劇が繰り広げられていたそうです。
ミケランジェロもそんな時代に翻弄され、フイレンツェの共和制を守って奮戦した為、メディチ家による処刑は免がれず、市内に隠れて不明(1975年にサン・ロレンッオ教会が隠れ場所だった事が判明)でしたが、墓所の建設と引き換えに赦免され、メディチ家礼拝堂の完成がなされます。
ミケランジェロは、同士を裏切った罪にさいなまれ、また、彼の熱愛した「共和制の祖国フィレンツェ」の崩壊に絶望しローマに移ってから2度とフィレンツェに戻る事はなかったといいます。
システィナ礼拝堂の祭壇壁画、「最後の審判」
ローマに戻ると教皇クレメンス7世からシステイナ礼拝堂の祭壇壁画を依頼され、続く教皇パウルス3世もこの仕事の継続を望んだ為、(1536年~1541年)
完成させます。
巨大なフレスコ画による祭壇画は、ミケランジェロ自身が精神的な苦悩をした恐ろしいビジョンで描かれていると言われています。
助手の手を借りずに一人で仕上げたと言われる壁画は、足場から落ちて大怪我したときも医師の手助けさえ拒否した程だったそうです。
下の正面がシスティナ礼拝堂のフレスコ画、「最後の審判」です。、(1536年~1541年)
ラテン語、賛美歌「ディエス・イラエ(神の怒り)と、ミケランジェロが暗記したダンテの「地獄編(小説)から大きなインスピレーションを得たとされ、畏敬の念を起こさせる大画面の構成になっています。
1981年から1994年までに修復作業が行われ、ススで汚れていた壁画・天井画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇りました。(驚く程鮮やかで意外にポップな色で驚きました。
古い美術書の写真
は殆ど洗浄前の薄暗いものです。)
最後の審判の紹介は別にやります。目的があるので・・。
1544年と1545年の2度に渡って死を覚悟するほどの病気にかかります。明らかに 教皇たちの過大な製作依頼が彼の体力を弱めていったようです。
教皇パウルス3世はミケランジェロをサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家にし、その後3人の教皇のもと生涯続くことになり、存命中には完成しなかったそうです。
1564年2月18日88才で亡くなります。
ミケランジェロは敬虔なるカトリック教徒だったそうです。しかし、隠遁者で、内向的で憂鬱質であり、情緒的に激情する事もあったと言うので、恐らくうつ病の気があったのではないかと思います。節度ある生活を送っていたとされますが、召使が長く続く事がなかったそうです。
また、彼は他の芸術家とは比べられないほど男性の裸体に興味を示し、夢中になっていたとまで言われ、ホモ・セクシャルだったとされていました。確かに、システィナ礼拝堂の巫女のモデルは、女性ではなく男性であったとされていて「そうなのかな?」と思う部分もありますが、彼は己のもつ芸術性にこだわりのある芸術家ですから、必要であれば男性の裸像に興味を示すこと自体は別に不思議ではないのでは? と私は思います。(筋肉フェチだったかも?)
彼は単におく手で女性に接触がない職業だけに不器用だったのではないか? (顔のコンプレックスもあるし・・)
彼の人生の後半に現れたペスカラ侯爵未亡人のヴィットリア・コロンナとの精神的な友情? は老いて静かに神と人生を語り合う相手として大切な存在だったのだと思います。もし、彼が10年若ければ結婚もあったのではないか? (出会いは61才)
13才より好きで芸術の道に入り、自由に発想し、自分のこだわりが発揮できた時が彼の一番の幸せな時? と考えると大好きな祖国フィレンツェのダビデの像を制作していた時だったのでは? と思います。喜んで、奮発して特大サイズでダビデを彫ったのかな? と思ったりします。
ミケランジェロは終わります・・・。
でも・・やはり・・一枚紹介しておきます。先に「最後の審判」番外編です。
右の脱皮した後のような皮がミケランジェロです。何を表して描いたのか? 「すでに気持ちはここにない? 」 or「自分は救われるべき人間ではない? 皮くらいで? 」
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