わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年12月15日
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オーストリア共和国(Republic of Austria)
ザルツブルク(Salzburg)
ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)
城ではなく、もともと 防衛のために建築された要塞 です。

ザルツブルクの大司教が自らの身を守る為に建築。
ザルツブルク 6
要塞の建築は1077年に始まり、その後700年間持続的に拡張、増築がおこなわれた為に種々の時代の建築様式が混在、複合 した建造物になっています。

歴代の大司教により増改築がくり返され、17世紀後半には、ほぼ現在の姿になっていたようです。

要塞の建築
神聖ローマ 皇帝 ハインリヒ4世 と教皇 グレゴリウス7世 の間に起こった聖職叙任権闘争 が発端。

もともと古来より
(土地を与えられて教区の布教をする為に選任されているのですから・・。)

当然 ここの大司教 、ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世(1060~1088) はバイエルン公側の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世側に就くのが筋 なのですが、自らの地位向上の為に 教皇側に鞍替え・・。
(バイエルン公は飼い犬に手を噛まれたと言う事になります。)

結果、ハインリヒ4世と教皇は和解し、立場の悪くなった 司教がバイエルンからの報復攻撃を恐れて要塞の建築を計画。(大司教ゲプハルトは亡命)

要塞建築(1077年~)は、後任の大司教らによって後に完成し、後に再び役に立つことに・・。

要塞は丘の上に立っています。
昔は馬とかロバで登ったのでしょうが、今はケーブルカーも設置されています。
ザルツブルク 7
大聖堂右のカピテル広場から、2~3分です。

ザルツブルク 8
一番高い場所(ホーアー・シュトゥック)の標高は508m。

ザルツブルク 9

要塞の変遷・・・それは大司教の俗物化
当初は、礼拝堂を塀で囲んだだけのシンプルな設計だったようです。

歴代の 大司教は増築をすすめ 、特に大司教の政務に民衆が不満を持ち始めた15世紀、レオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(1495~1519)は 襲われた場合を想定して、要塞の中に居住空間も完備。 (かなり贅沢に。)
資金は金鉱山の収益を要塞建築に充当していたようです。(工夫の不満)

1525年についに農民と工夫の反乱が勃発
ホーエンザルツブルク900年の中で最大の危機だったそうですが、それでも 要塞は難攻不落を実証
マティアス・ラング・フォン・バレンブルクは、 反乱首謀者を処刑し、要塞に市民の攻撃を阻止する為の攻撃用の陣地、 堡塁(ほうるい) を建築してパワーアップ。小銃で市民を狙ったそうです。
神に仕えるべき者が・・・それも大司教がそこまで俗物化していたなんて・・・ひどい時代です怒ってる
歴史はだありますが、割愛させてもらいます。

要塞見取り図
ザルツブルク 13
赤い所が要塞見学コースのスタートで、その後ろに要塞レストランがあるようです。
2番は、博物館とカフェになっています。
写真左上のコーナーが大武器庫。

ブルク博物館ではマヨルカ焼の後期ゴシック様式の豪華なストーブや武器、魔女狩りが盛んだった時期の拷問具なども展示。
ザルツブル 10

15世紀までは大司教の住居として使用され、それ以後は兵舎または牢獄として利用されたそうですが、確かに要塞内部は囲われた街中のようです。
教会もあります。
ザルツブル 11

ゲオルク稜堡(りょうほ)
いままでのザルツブルクの街はここから撮影。ベストスポットです・・でも昔は・・・・。
ザルツブルク  12
稜堡(りょうほ)
ホーエンザルツブルク要塞は、 大砲を主要防御武器として設計した要塞 のようで、 多数の大砲が互いに死角を補い合うよう設計。 (16~18世紀の工法で、日本の五稜郭がそれにあたるそうです。)

要塞の丘の裏側方向の景色です。かなり住宅街が広がっているのに驚かされます。
確かに川のほとりだけでは街が小さいすぎますよね。これが現実・・・ザルツブルクの裏側を見た気分。
ザルツブルク 14

街はつづく






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Last updated  2009年12月16日 16時30分20秒
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