わたしのこだわりブログ(仮)

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2010年01月02日
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正月ネタ「ここはどこ? シリーズ」の1作目の回答編です。
予定より時間がかかってしまいました。

ドイツ、バイエルン地方、ロマンティック街道のフィナーレにして超目玉の城がここです。
Locator map OAL in Germany.svg
アルプス北麓アンマー山地、2つの湖に挟まれた岩山の上方に建つ「お伽の国の城」はノイシュヴァンシュタイン城です。
2夜目に紹介したホーエン・シュヴァンガウ城のリニューアル前の城の名が、実はシュヴァンシュタイン城でした。(マクシミリアン2世が完成後に名を変えたので・・・。)
ノイシュヴァンシュタイン城 14

ノイシュヴアーンシュタイン(Neuschwanstein)城
ノイ(Neu・New・新)
シュヴァーン(Schwan・Swan・スワン・白鳥・)
シュタイン(Stein・石)

一般に 新白鳥城と言われているこの城は「狂った王」と呼ばれた第4代バイエルン国王(在位1864~1886年)のルードヴッヒ(Ludwig)2世の築城 でした。

ルードヴッヒ(Ludwig)2世(1845年8月25日~1886年6月13日)
18歳でバイエルンの王に就き、最初はわからないながらも王の仕事にたいして前向きだったようですが、当時の ドイツの政治情勢の激変(統一ドイツ王国の建国)で彼は変わります。

23あった君主国でもトップにいたバイエルン王国ですが、 プロイセンの宰相ビスマルクにだまされた形でバイエルンはプロイセンの属国に落とされ、統一ドイツの中でので彼の仕事は無くなります。
彼は自国での王としての仕事からも遠ざかり、王としての結婚も取りやめ、趣味の世界に没頭して行く事になります。

特に15歳の時に観た歌劇「ローエングリーン」でリヒャルト・ワーグナーに心酔し彼に巨額の融資をし続けた事は有名です。
(バイロイト祝祭劇場の建設費、運営費のおおかたを王が出していたようです。)

音楽家としてのリヒャルト・ワーグナーは素晴らしいと評価されるようですが、実は彼そのものの評価は最低です。
革命家のリーダーとして逮捕状が出ていた時もあり、ミュンヘンの人達からは「凶悪で危険な革命家」と考えられ嫌われ、トーマス・マンは「いかがわしい」と嫌悪し、大嘘つきで非常に性質の悪い人間だったからです。

王が彼に与えたお金は「悪党が税金をかっさらっていった」ように思われていたようで、 王とワーグナーとの付き合いは王の評価を落とす事だったのです。

冬のマリーエン橋
マリーエン橋 1
最初の写真のようにポピュラーな城の写真は実はこの渓谷にかかるマリーエン橋からの撮影です。(雪のある時は危険なのでマリーエン橋からの城の写真がありませ。)

逆に城から橋を撮影したものですがちょっと解像度が悪くてすみません。
マリーエン橋 2
ペラート渓谷に最初に木造の橋を架けたのはマクシミリアン2世です。1866年鉄橋に。
城は、こんな所に造られたと言う事です。

秋の写真ですが下方から城を撮影。城門の反対側です。写真右手側がマリーエン橋のある方向。
ノイシュヴァンシュタイン城 18

写真右手が城門です。完成予定図では90mの天守閣が建つはずでした。
ノイシュヴァンシュタイン城 15
身長191cmの美形の王は女性達のあこがれだったようですが、彼は女性を受け入れられなかったようです。

王の病気
結婚を解消した21歳の時から壮大な夢の城の建設に入り、湯水のように税金を使い身の破滅を招くまで長くはかかりません。

1886年には負債総額が2600万マルクに達しています。それは当時の王室歳入の2倍半の額だそうで、すでに破産状態 だったと言う事です。
バイエルンの閣僚達が王の無駄遣いを止める策を練るのも当然でした。(因みに白鳥城は当時620万マルク)

ルッツ首相は、「国王は重い精神病にかかっておられるので統治不能」と内外に宣言。
1886年6月12日、不意打ちで王は身柄を拘束されてシュタルンベルク湖畔の鉄格子がはめられて監視が立つベルク城で軟禁
されるのです。
(フォン・グッテン博士主席とする医師団の鑑定書は今でも論議とされるようです。)

移送された翌日の夜、1886年6月13日
王は散歩に出たまま、精神科医フォン・グッテン博士と共に湖で謎の死を遂げます。

女性で唯一仲の良かったオーストリアのエリーザベート皇后は「彼は精神病ではなく、夢を観ていただけ」と言ったと言うのが真実だったと私も思います。王には金銭感覚がなかっただけでしょう。

城門を入って城を見た所。
ノイシュヴァンシュタイン城 16

写真下の中庭に天守閣が?
ノイシュヴァンシュタイン城 17

城内は撮影禁止なのでパンフから撮影・・王の・・ルードヴィヒ2世の寝室です。
ノイシュヴァンシュタイン城 21
壁にえがかれているのは「トリスタンとイゾルデ」の物語。
わざとゴシックに制作させた家具を配置。

孤独な王は豪華な寝室を好んだそうです。
中世もどきのこの城の特徴は本物の中世の城とは異なって、部屋に絵画を直接描いての内装が多い事かも・・。

もっとも実用の王の居城とは言い難い城です。
この城の基本プランを造ったのは建築家ではなく宮廷劇場の舞台装置家のヤングです。 王は幾つかの城の見学にも行き、図面も取り寄せたり、何人もの建築家、芸術家などからもプランを出させたようですが、最終的には全て王の思うプランで実行されたようです。

しかし、17年の歳月をかけて住んだのは102日間と言われています。

ノイシュヴァンシュタイン城 19
秋の森の中の城もムードがありますね。

ノイシュヴァンシュタイン城 20
新緑の城も素敵です。

死の謎
ルードヴッヒ2世の死は、医師を殺害(道連れ?)しての自殺とも・・・医師の首は絞められた跡があり、王は無傷。
しかし、 発表では王は溺死ではなく病死として葬儀 。(カトリックの王に自殺は認められない)
実際は何があったのか? 未だ不明なのだそうです。
ちょっとダイアナ妃の事故を思い浮かべる暗殺のにおいもするような・・・・。

ノイシュヴアーンシュタイン(Neuschwanstein)城  おわり






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Last updated  2010年01月03日 05時22分24秒
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