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ペドロ1世がイスラム・オタクだとは知らなかった・・。多分そう言う事なのだろう・・![]()
アンダルシア(Andalucía)州、州都
セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)
アルカサル(Alcazar)
ムデハル様式とペドロ1世
遡ればここは古代ローマ時代ユリウス・カエサルによって城塞が築かれた場所(アクロポリス)だったと言われています
。
それは 西ゴート王国の元でも変わらず、続くイスラム支配の元ではヴァイキングの襲撃も受け、より軍事的機能を高めた要所
となっていったようです。
(現在、城壁は一部しか残っていません。)
とは言え、 ここはムスリムの王子や高官の居城でもあり、レコンキスタ後はスペインを統治した王達の王城(アルカサルでもあった
のです。
上図右角下の(1)が入場の表門で獅子の門(Puerta del Leon)
図の紫の部分がペドロ王の宮殿で(5)の四角いのが乙女のパティオです。
何も書いてないですが、その上に庭園が広がっています。
レオンの門(Puerta del Leon)・・獅子の門とも書かれているが、レオンはレオン王国から由来。城壁は11世紀のイスラム時代の物。
紋章は、レオン王国紋章の獅子にカステーリャの王冠を戴き十字架を持たせた図
がタイルに焼かれている。
どうも前世紀に壁画からタイルに張り替えたらしい。
レオン王国は西ゴートの末裔が建国。1037年カスティーリャ王国のフェルナンド1世がレオン王国を併合してレオン・カステイーリャ王国となるが、1109年消滅。
レオンの中庭
モンテリアの中庭とペドロ1世の宮殿・・・これがムデハル様式である。
建築は1364年~1366年頃とされています。
確かに一見西洋建築なのに壁面の装飾は限りなくアラブです。
ムデハル様式の誕生
アルカサルの中心とも言えるこの宮殿は 1350年に王位に就いた、ペドロ1世の指示でイスラム教徒(ムデハル)の職人達をグラナダ王国のモハメッド5世から借り受けて建築された宮殿
なのです。
とは言え、完全なアラブ様式にはならず、 スペインで生まれたアラブ様式の宮殿は、ムデハルの手により造られたので、ムデハル様式と呼ばれる
ようになりました。
後々スペイン全土がカトリックに染まった時でも、イスラムから改宗してカトリックになった元ムデハル(モリスコ)の職人達により、その業は残され融合型のムデハル様式をあちこちに残す事になります。
ペドロ1世(Pedro 1)(1333年~1369年)
カスティーリャ王国の国王(在位 1350年~1366年、1367年~1369年)でレコンキスタに勝利した フェルナンド3世の曾孫
にあたる。
「残忍王」などとあだ名されるようですが、何よりも 彼は学問を好み特にアラブの学問には傾倒
していたと言います。
17歳で王位に就くと宮廷ではアラビア語を話させ 、自らアラブ風の衣装を着けていたとも言われるくらいアラブ好きだったようです。(今ならそれをアラブ・オタクと言う・・・。)
その 傾倒の本質はアラブの進んだ科学、建築、芸術の優秀さを知っていたからで、だからこそ、アラブの優秀な人材を招いて宮殿の建築にあたらせたのだ
と思われます。
かつてフェルナンド3世はセビーリャを陥落した後、征服したイスラム教徒をカトリック教徒と同様に扱いモスクもヒラルダの塔も一切の破壊を禁じたと言われています。
しかしそれは守られなかった・・。曾孫であるペドロ1世はアラブ人を使って工事をさせ、アラブの文化を珍重した事は、偶然にもフェルナンド3世の遺訓を守った事になります。
しかし、彼は不遇な少年時代を過ごしている事で性格に問題もあったようです。 短期、直情型の性格は善悪区別をすぐにつけて容赦なく厳しく裁く・・・。
例え貴族であってもそれは許さず 、「残虐王」とあだ名されるのは、そのむごい裁き方によってなのだと言われている。
ただし、庶民も貴族もなく公平に裁くし、 特に貴族の汚職は許さなかったので、庶民からは案外人気があったと言われ「正義王」と真逆の名で呼ばれもした
ようです。
彼は王権強化の為に有力貴族を除外して、下級貴族の文官やユダヤ人を登用したとも言われ、それらの 反感を買った貴族たちを見方に就けた異母兄のエンリケ2世と戦い破れて戦死しています。
この王権争いは、貴族の勝利と言われ、ペドロ1世を排除して御しやすいエンリケ2世にする為の戦いだったと言われています。
善か悪か・・・後世伝えられる残虐な行為が日常に行われていたのか・・・。作り話だったのか・・・。良い人か? と言うと微妙かも知れないが、庶民には良い王ではあったのかもしれない。負けた者は悪く言われるものである・・・。
ペドロ1世の宮殿左右に中庭を囲むようにシンメトリーにたてられたのは16世紀。
こちら側から宮殿に入る場合も。いずれにせよこの部分はムデハル様式ではない。
そして、以下写真もムデハル様式ではないのでお断りしておきます。
提督の間に続く廊下
タペストリーにはコロンブスが・・。
礼拝堂も付属
長くなったのでつづく
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