わたしのこだわりブログ(仮)

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2010年04月29日
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しょんぼり

ルーヴル美術館 7 (宮殿小史)

フランス(France)パリ(paris)
セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 7
ルーヴル宮殿建築小史
カペー朝のフィリップ2世(在位1180年~1223年)が城塞を築き、ヴァロワ朝のシャルル5世(在位1364年~1380年)が王宮に改築
しかし、しばらくルーヴルは王宮として使用されずロワールの諸城が王宮になっていたと言います。
ルーヴルが王宮として甦るのはイギリスとの100年戦争が集結してフランスに王権が戻った時 からです。

ヴァロワ朝のアングレーム家1代目の王 フランソワ1世(在位1515年~1547年)はパリの街を舗装してルーヴルの改修にも着手
建築家ピエール・レスコーは32年働き、息子 アンリ2世(在位1547年~1559年)の代にかけてフランスの伝統とイタリア美学を統一したルネッサンス様式の宮殿建築を計画
それはアンリ2世の妃で、イタリアから嫁いだ カトリーヌ・ド・メディシスの元で完成 したようです。

写真下と左のピンクの部分がカトリーヌ・ド・メディシスの建築部分で現在の宮殿では一番古い部分?
ルーヴル宮殿 63
写真左の テュイルリー宮殿は1563年に建築され、それに繋げる形で宮殿はナポレオンの代まで拡張されていきます が、残念にも1871年、パリ・コミューン鎮圧の最中に消失。

ピンク カトリーヌ・ド・メディシスの建築部分・・・以下
黄    アンリ4世 (在位1589年~1610年)
薄紫  ルイ13世 (在位1610年~1643年)
濃紫  ルイ14世 (在位1643年~1715年)
赤    ナポレオン1世 (在位1804年~1814年、1815年)
ブルー ナポレオン3世 (在位1852年~1870年)

カトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)
父はフィレンツェのウルビーノ公爵ロレンツォ2世・デ・メディチ(1492年 - 1519年)。
アンリ2世の死後は3人の息子の摂政として30年にわたり政治の表舞台にたち政治手腕を発揮
イタリアから嫁いだ彼女はマキャベリの君主論を読んでいたのではないか? と言われているらしいが、芸術の感性もあったのだろう。
彼女の計画で今のルーヴルは存在している・・と言っても過言ではない。

アンリ4世(1553年~1610年)
「パリを制するものはフランスを制す」と言う言葉通りパリを都とすべく都市計画を実行。
交通と道路、上下水道、公共衛生の問題を改善し、カトリーヌ・ド・メディシスの始めた廻廊を完成させて2階にし、花の館を建設。(その部分を撮影した写真はありません。)
王の建築の理念は「明晰と秩序」 だったとか・・。

ピラミッドのある東のシュリー翼
ルーヴル宮殿 7
中央時計から右が一部カトリーヌ・ド・メディシスの建築部分で左がルイ13世の増築部分。17世紀

ルイ13世(1601年~1643年)
ルイ13世の治世から絶対王政国家に移行。
王宮は豪華で貴族の邸館を越えるものでなければならない・・と中庭の部分を4倍に拡張。
建築士はジャック・ルメルシェを起用。時計台もルメルシェ設計で、「シュリーの館」と呼ばれたらしい。

ピラミッドのある北のリシュリュー翼はナポレオン3世時代に増改築された部分。
ルーヴル宮殿 1

ルイ14世(1638年~1715年)
すでに不況期に入っていたと言いますが、 ルーヴルの改修工事を継続。しかし、途中でベルサイユに心を移してルーヴルにはあまり力をいれていません
建築家はベルサイユも手掛けているル・ヴォーを採用し他にクロード・ペロ、イタリアのベルニーニを雇用。
ル・ヴォーとロード・ペロは、レスコーの設計を追ってルイ13世の中庭の大部分を建設し、宮殿正面玄関を東に添えて、 シュリー翼の大規模工事 行っています。(正面の写真がありません)
同時に起用したイタリアの建築家で彫刻家で画家のベルニーニについては諸々問題があったようです。(今回は触れません。)

ナポレオン3世のリシュリュー翼はずれまで。
ルーヴル宮殿 2

ルイ16世の治世、フランス革命が勃発。1789年国民議会はベルサイユ宮殿から王の身柄をパリに移転
後に放火で(1871年)焼け落ちる テュイルリー宮殿はルイ16世とナポレオンに縁のある宮殿 でした。

1791年、国民議会は王室の没収(国有化)した収集品をルーヴルに集めて中央美術博物館設立を決定

見えている部分は全てナポレオン3世時代のもの。
ルーヴル宮殿 3
撮影場所がカトリーヌ・ド・メディシスの建築部分である。

ナポレオン1世(1769年~1821年)
フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立してフランス第一帝政の皇帝に・。
ナポレオンがイタリア遠征から凱旋すると持ち帰った美術品がルーヴルに収蔵

ナポレオンが執政になると テュイルリー宮殿に住み着いています。

左からナポレオン3世部分、ナポレオン1世、さらにナポレオン3世部分
ルーヴル宮殿 4
その敷地は広大過ぎます。

ナポレオン3世(1808年~1873年)
ナポレオン1世の甥で、フランス第二帝政の皇帝。彼は パリの街の都市整備に力を入れた事で知られていますが、一番大きくルーヴルを増築した人 でしょう。

セーヌ寄りのカトリーヌ・ド・メディシス依頼の廻廊に平行してリヴォリ通りに廻廊を造り、廻廊内部にシンメトリーに3棟の建物を加えて建設。この工事に5年費やして1857年完成。建築家はヴィスコンティとルフュエル。

左の角の館はルイ13世時代の残りで右に続く部分は前がナポレオン3世の増築部分。
ルーヴル宮殿 6
後ろがナポレオン1世時代の建物。
前にあるのはカルーゼル広場とカルーゼル凱旋門。
ルーヴル宮殿 5
「carrousel」 は、馬場馬術の意味 でルイ14世が馬場馬術を行わせて観覧したことに由来するそうです。

カルーゼル広場とカルーゼル凱旋門
ナポレオンの戦勝を記念して1806年~1808年にテュイルリー宮殿の門として建設 。エトワール凱旋門と建設年も一緒でサイズも同じくらいだそうですが、こちらを知らない人は多いはず。

ここではフランス革命の時にブルボン王家に雇われていたスイス傭兵たち700人近くが虐殺されたそうです号泣その歴史は悲劇です。
スイス傭兵については、5月「バチカンのスイスガード(衛兵)」と「 ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防」にて紹介していますが、是非読んでほしいです。

今回はなんだかウダウダとした内容になってしまいました・・しょんぼり
リンク ​ ルーヴル美術館 8 (天井の装飾) 






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Last updated  2020年11月14日 16時49分01秒
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