PR
Keyword Search
Category
Freepage List
オーストリア共和国(Republic of Austria)ウィーン(Wien)
シェーンブルン宮殿(Schloss Schonbrunn)の庭園 宮殿庭園
狩猟場だったここに、その美しい泉があったからのようです。
シェーンブルン宮殿見取り図の一部(宮殿部分は地図の下方)
実際はこの2倍以上まだ敷地がありNo5のグロリエッテが庭園のほぼ中心に)位置しています。
庭園は宮殿の裏庭になるのですが、こうしてみると宮殿がシェーンブルンの玄関のようです。
宮殿建物・・・庭園側から
敢えて比べてみないと中庭側と裏庭側が解りにくい。強いて違いは、建物の上に中庭側には時計が付いていて、こちらには ハプスブルク家の紋章、「双頭の鷲
」が飾られています。
宮殿建物から庭を見た所
この写真で写っているのは庭園のほんの20分の1くらい?
遠くに見えるグロリエッテが庭園の中心なので、あの丘の向こうにも庭園が広がっています。
総面積は1.7km²。
宮殿からあの丘までゆっくり歩いて30分。宮殿内の見学だけで時間を取られるので、たいていは噴水で折り返しです。(私もここは、宮殿内しか記憶に残っていません。)
庭園付属の動物園と日本庭園
写真にはありませんが、この写真の右手方面に 日本庭園と動物園
が付属しています。
動物園は1752年にフランツ1世(マリアテレジアの夫)が始めたもので、世界最古の動物園
なのだそうです。(今も800種の動物がいると言う。)
日本庭園は実は、1996年に発見されて修復されたものだそうです。
なぜなら庭園はフランツ1世が日本訪問からの帰国後に庭師に造営させたものだったそうですが、庭が荒廃した後に誰も日本庭園とは気付かなかったそうです。
発見後、1998年に日本からプロの庭師を招いて枯山水の日本庭園を作り直したようです。
動物園も日本庭園も今は写真がありませんが、入手できたら紹介しますね。
エピソード
先にも紹介したように、マリア・テレジアが愛して家族と過ごした宮殿ですが、この宮殿で 幼いモーツァルトがマリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの11女であるマリア・アントーニアにプロポーズしたのは有名な逸話
です。
「ボクのお嫁さんにしてあげるよ。」・・と言ったとか・・・。
マリア・アントーニアが後の、フランス国王ルイ16世の王妃となるマリー・アントワネットです。
カメラで距離感が随分違うものです
(2台使用しています。)
この宮殿にはナポレオンも居城していました。
ナポレオンのウィーン進攻・・・ウルムの戦いとアウステルリッツの戦い
1805年10月、ウルムの戦い
でナポレオン率いるフランス軍がオーストリア軍を破ってウィーンを占領。 12月に首都ウィーンに入城して
シェーンブルン宮殿に滞在
しています。
その後この 宮殿を出発したナポレオンは、アウステルリッツに向かい3人の皇帝が会戦した・・と言う三帝会戦・・アウステルリッツの戦いにも勝利
しているのです。
それはナポレオン率いるフランス軍が、オーストリア・ロシア連合軍を破った戦いです。
1809年5月には2度目のウィーン進攻
をした時にも滞在しているので、 彼の使用した居室が、現在ナポレオンの部屋として公開
されています。
庭園の中心にあるネブチューンの噴水。
グロリエッテ(Gloriette)

本来あの丘には宮殿が建設される予定でした。
財源が足りなくて中に浮いていたこの丘に マリアテレジアは1775年にプロシアとの戦いの戦勝記念(1757年の)と戦没者の慰霊を兼ねたパヴィリオンを建設。
グロリエッテ(Gloriette)は、 フェルデナント・ホーエンベルクの設計
。
建物は当時流行の新古典様式のローマ風
。
啓蒙期の新古典主義
当時は啓蒙思想期。 啓蒙主義は進歩主義的であると同時に回帰的
。
特に自然回帰で 文化的には古代ギリシャやローマの古典主義を見直した時期
に入ります。建設でももちろんローマやギリシャの古典古代を美化する思想が流行した新古典様式の時代だったのです。
ネプチューンの噴水越しのグロリエッテ
現在カフェになっていると言うグロリエッテですが、そこまで言っていないのでこれが限界。写真がありません。残念です。
Back number
リンク シェーンブルン宮殿・庭園 1 (宮殿中庭)
リンク シェーンブルン宮殿・庭園 3 (ネプチューンの泉とフランス式庭園)
アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 … 2024年03月03日
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí) 1 高… 2024年01月22日
ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日 2023年10月08日