わたしのこだわりブログ(仮)

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2014年04月01日
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識字率は出版物の発行に比例する。

良質な紙と古来から印刷術のあった日本の中世は、仮名草子や浮世草子が発行され、それらがすでにベストセラーとなるほど市民に売れて読まれていたと言うのだから驚く。
つまり、日本の識字率は江戸時代にはかなり高くなっていた・・と言う事だ。

案外知られていないが、活版印刷は実は東洋よりシルクロードに乗って欧州に伝えられた技術だそうだ。
6~7世紀にはすでに中国で陶器の版による印刷が行われていた事が確認されているし、金属の版も見つかっている。(法隆寺には、770年頃に印刷された書物が保管されていると言う。)

子供の頃はグーテンベルク(Gutenberg)の活版印刷(1439年頃)が世界初・・のように習った記憶があるがそれよりずっと前にアジアでは印刷により大量の書物が流通していた。
日本においては中世現代とほとんど変わらない読み物が庶民の娯楽にまで発展していたのだから自然と識字率も高くなったのかもしれない。

因みに中世以来の教会の美しいステンドグラスは、聖書の逸話を絵にして庶民に知ってもらう目的があった。それも識字率が関係している。グーテンベルクが聖書を大量印刷しても、まだ読める者が少なかったのだ。

今回はマルクト広場に続いて・・のブルグ(Burg)広場の紹介です。
ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)

ブルグ(Burg)広場
旧(前)古文書館(Voormalige Civiele Griffie)
旧(前)自由ブルージュ館(Voormalige Landhuis van het Brugse Vrije)
自由都市ブルージュ(van het Brugse Vrije)

ブルグ広場は、ほぼマルクト広場の隣でしたが、今回は魚市場(Vismarkt)から橋を渡って・・のコースで紹介しようと思います。スマイル

運河沿いの魚市場、現在も朝市やフリーマーケットに使用?
pict-魚市場 1.jpg
かつては北海から新鮮な魚が運河直で水揚げされる場所だったのだろう。

魚市場(Vismarkt)の前、運河脇に立つ建物の向こう側がブルグ広場である。
pict-魚市場 6.jpg

pict-魚市場 5.jpg
建物左の向こうが市庁舎になり、右の1608年と刻まれた建物の向こうが旧古文書館になっている。

因みに建物に打ち込まれている鉄は飾りではなく、本来は楔(くさび)として打たれている。
要するに建物の膨張などで離れるのを押さえている実用の止めなのだ。

前にも紹介したが、ベルギーは極めて地図の少ない国であり、あっても解りにくいものばかり。その上隣の建物が全てひっついているので、どこまでが境界なのか非常にわかりにくい。

ゲートの向こうがブルグ(Burg)広場
pict-魚市場 4.jpg

運河を渡る。この下は観光船のルートだ。
pict-魚市場 2.jpg

この橋から前回紹介したデュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)も見える。
10メートル程度の距離にあるのだ。
pict-魚市場 3.jpg

Blinde-Ezelstr(ブリンデ・エーデル)の小路
pict-公文書館 1.jpg

ゲートと言うよりはふさがれた建物の下をくぐり抜ける形で広場に通じている。
pict-公文書館 2.jpg
塔は市役所のもの。

ゲート自体は旧古文書館で 頭頂の像はカール5世
pict-公文書館 3.jpg
そもそも  旧古文書館はカール5世の栄誉を称え、1534年~37年頃(資料でまちまち)に建設されたとされる。

ブルグ広場(南東)
旧古文書館(Oude Civiele Griffie) あるいは 前古文書館(Voormalige Civiele Griffie)
注 市の広報では「Oude」ではなく「Voormalige」が使われている。
pict-公文書館 4.jpg

市の広報によればルネッサンス様式らしい。建築当初の時代で言えば確かにルネッサン様式の時代に入るようだが、修復を繰り返し現在の外観は、グラン・プラスのギルドハウス同様17~18世紀に建てられた単純にダッチ&フレミッシュ(Dutch&Flemish)オランダ、フランドル風の建物。

内部には1528年に記念に造られた「カール5世の暖炉」がある。(写真は無し)

正義の剣と天秤を持つ女神像(Lady Justice)
pict-公文書館 5.jpg
左に見切れているのは十戒の石版を持つモーセの像。
おそらくこれらの像は裁判所として使用されていた頃の名残ではないか?

左隣(広場東)には旧自由ブルージュ館があるのだが、建築期は異なるが途中合体されて使用されていたようだ。

旧自由ブルージュ館(Voormalige Landhuis van het Brugse Vrije)
pict-ブルグ広場 5.jpg
建築期は2期に別れるらしい。(1520年~1525年)(1722年~1727年)
最初、自由都市ブルージュの評議員室と会議室が造られ、判事室としても利用。

旧古文書館同様18世紀から1970年まで裁判所として使用されていた。
1988年からは市の行政センターとなっている。
写真では戸口が閉っているが、門の中には観光のインフォメーションとトイレがあった。

自由都市ブルージュ(van het Brugse Vrije)
中世、「神聖ローマ皇帝に直属する。」と言うお墨付きを得、上納金を治める事により独立自治を認められた街が存在 した。
それが「 自由都市」とか、「帝国自由都市」 と呼ばれる街の形態である。

本来街は領主直轄とか、司教直轄の管理下にあり、兵役などの義務もあったのだが、フランク王国では諸々の事情で統制がうまくいかず、分裂。その後帝国内の諸侯は自立の道を歩む。
そう言う意味ではこの頃(フランク王国分裂後)が中世都市の大発展期にあたるそうだ。

最初に紹介したように ブルージュ(Brugge)はフランク王国分割後に誕生したフランドル伯爵領にある
司教直轄地で無かった事もラッキーだったのだろう。
(司教座よりは一般領主の元の方が街が発展しているようだ。)

ブルージュは、 とりあえずフランドル伯爵領と言う独立国に等しかった わけである。だから街の外に自由に出る事が出来て 商人の街として発展できたし、冨を蓄える事ができたのである。

そしてブールジュの街は、とりあえずフランク王国の君主であり、神聖ローマ皇帝のカール5世を讃えた。
(先に紹介した「旧古文書館はカール5世の栄誉を称え・・。」の意味はそう言うパフォーマンスである。)

自由都市では、街の法律や財産管理など、街を代表する評議員の会議によって決定された
自由ブルージュ館は街の自治をになう評議会の集会所であり、立法、司法も行われた場所だったわけである 。(だからそのまま後に裁判所になり行政は市役所に移されたのたろう。)


帝国自由都市については、2009年12月「ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市) 」城塞都市と帝国自由都市の中で紹介した事があります。

旧古文書館の扉の上の紋章
pict-公文書館 6.jpg
自由都市ブルージュの紋章(現在のブルージュの紋章には王冠が付いていない。)
たぶん中の盾は神聖ローマ皇帝をあらわしているのだろう。熊が解らないしょんぼり

ブルグ広場つづく
リンク ​ ブルージュ(Brugge) 6 (ブルグ広場 2 市庁舎)






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Last updated  2020年09月24日 22時17分14秒
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