わたしのこだわりブログ(仮)

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2014年06月13日
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13世紀に北西ヨーロッパ中心にちょっと変わった姉妹団ソロリティ(sorority)ができた

ソロリティ(sorority)とは、以前フリーメイソンの所で紹介したが、兄弟団フラタニティに対する女性版である。
つまり女 性だけの集団のコミュニティーがフランドル、ブラバント、リエージュ、バーゼルなどに続々できはじめ中世、社会現象になったコミュニティー である。

それら集団は宗教的でありながら公式の教会に組していなかった為に異端として宗教的迫害をも受けた事もある。
そんな 彼女らのコミュニティー・ハウスのうち、現存するフランドル地方の13件が1998年ユネスコ世界文化遺産として登録 された。
それが ベギン ホフ(Begijnhof) である。

日本ではペギンホフ(Begijnhof)をペギン会修道院と訳されているので、前回はガイドブックに習って「ベギン会修道院」として紹介しましたが、 本来、ここは修道院とは全くの別物
それ故、ここの本質を完全に見落としてしまっている気がします ぽっ

ブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof)

ベギンホフ(Begijnhof)ができた訳
ブルージュ・べギンホフ (Begijnhof van Brugge)
創設者フランドル女伯マルグリット2世

pict-ペギン会 10.jpg
ミュージアムはこの運河沿いの左の建物。
ベギン・ホフは中世には運河で囲われていて 、日中は外部からの出入りもできたようだが、夕方になるとスカートをはいていない者(男)は退出をうながされたと言う。

下は戸口をくぐった所にある十字架
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ベギン会は近年(1937年)ベネディクト会派の女子修道院に変わっている。
門をくぐった目の前に広がる広大な中庭とそれを囲む建物。現在の建物は17世紀以降のもの。
pict-ペギン会 17.jpg
ベギンホフ(Begijnhof)は外周に住居や教会が建ち中央部は広い林の中庭になっている
ホフ(hof)とはそもそもこんな「中庭」を指す言葉らしい。
pict-ペギン会 20.jpg
ベギンホフ(Begijnhof)は、一つの建物ではない。だから中は一つの街のよう。
pict-ペギン会 18.jpg
建物にはそれぞれに戸口がついていて、通番がかかれている。
ある意味、 ここは寄宿学校の寮と同一なのである
pict-ペギン会 19.jpg

pict-ペギン会 22.jpg

ベギンホフ(Begijnhof)ができた訳
この特殊なコミュニティーを修道院で片付けてしまうわけにはいかない。
おそらく全てのベギンホフ(Begijnhof)設立には、それぞれの歴史があると思うが、最初の設立目的は一つだったはず。

例えば戦による問題である。
第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年
十字軍については、かつて特集した事があるが、 中世、欧州の最大イベントが十字軍の遠 征である
聖地奪還の為、名誉の為、一旗あげて財をなしたかった者、もろもろの理由の為に 聖地には戦士含め、多くの男達がでかけて行った。

さて、その中でどれだけの者が元気に戻って来れただろう。
20万人の十字軍一団が出立して、聖地にたどりついた者はわずか1%と言う時もあったと言う。

つまり大けがして戻って来る者もいただろうが、 大抵は夫を失ったり、婚約者を失ったり家族を失って生計もままならなくなった女性が圧倒的に増えだした時代なのだ

くだらない貞操帯を妻にはかせて出かけた男の話などあるが、そんな事より、 残された女性がどう生きて行ったか・・と言うのがペギンホフ(Begijnhof)設立の根底にある。

当時ペギンホフ(Begijnhof)がたくさん造られたのはその地域が戦争により多くの男を失った・・と同時に未亡人が増えた・・と言う社会現象によるものなのである。

No1 にあるミュージアム 下はキッチン
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ここに暮らす女性達の生活を公開しているが、これは割と近年のもの。
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とても興味深いレンジ台である。薪か石炭か? で熱する電熱式の台のようである。
お湯に、アイロンもそこで熱していたようである。

リビング
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寝室
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中庭
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ブルージュ・べギンホフ (Begijnhof van Brugge)
ブルージュのベギン会の設立は1245年

これはブルージュを統治する フランドル伯ボードゥアン9世(1172年~ 1205年)がかかわった第4次十字軍(1202年~1204年)に大きく関係 して来る。
フランドルで一気に多くの未亡人が生まれたのがこの後である
女性達は自衛の為、生計を立てる為に共に寄り添い、生活を始めた

最初は病人の看病の為に集められ 聖ヨハネ病院(Sint-Janshospitaal)に手伝いに行く。などの奉仕から始まった集まりもあったが、女性の多くは昼間、フランドル特産の織物工場に出稼ぎに行った ようだ。

ベギン会数百年の歴史において、当初と違った目的の集まりに変化している歴史もあるが、 最初は確かに困窮した寡婦を救う為に フランドル伯ボードゥアン9世こと、初代ラテン帝国の皇帝ボードゥアン1世(1172年~ 1205年)の娘 マルグリット(Marguerite)が正式に創設 したようだ。

ベギン(Begijn)とは、オランダ語で「救貧」と言う意味があるらしい

ここでは 一見すると修道院のような規律の生活をしていたが、かの女らは修道女ではなく、いつでも結婚してここを出て行く事ができたし、財産を持つ事ができた

後にここはフランス王フィリップの直轄地になる。あくまで宗教法人では無かったので、特定の宗派、教会が無く、後々新興宗教と勘違いされる事になる。

過程においては、あえて良家の子女も結婚までここに入り生活する・・と言う時代もあったようだ。
何にせよ、女性の社会進出とともにベギン会は衰退したと言う。

創設者フランドル女伯マルグリット2世
マルグリット2世 Marguerite II,1202年6月2日 - 1280年2月10日)
フランドル女伯 (在位:1244年 - 1247年、1251年 - 1278年)
エノー女伯 (在位:1244年 - 1246年、1257年 - 1280年)

マルグリット(Marguerite)の事をフランドル伯爵夫人と解釈している間違いが多いが、 彼女は伯爵夫人ではなく、 彼女自身がフランドル女伯マルグリット2世(Marguerite II)(1202年~1280年)であり、エノー女伯として在位 しています。

フランドル伯ボードゥアンにはジャンヌとマルグリットの女の子二人しかいなかったようで、最初姉のジャンヌがフランドル伯とエノー伯を継承。後にジャンヌが子の無いまま亡くなると彼女がフランドル、エノーを相続。

ペギンホフ(Begijnhof)1245年設立は彼女が最初に女伯になって手がけた仕事なのかもしれない。
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1584年に教会は全焼。1700年頃にバロック様式で建てられたもののようだ。
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中央の祭壇にはベギンホフ(Begijnhof)の守護聖人聖女エリザベスが描かれている。

ペギンホフのバックナンバー
リンク ​ ブルージュ(Brugge) 12 (ペギン会修道院と愛の湖)

ブルージュつづき
リンク ​ ブルージュ(Brugge) 14 (ヤン・ファン・エイク広場界隈の運河)






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Last updated  2020年09月25日 01時20分19秒
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