わたしのこだわりブログ(仮)

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2015年01月25日
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人質事件残念ですしょんぼり


ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)

リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)
第三 次十字軍(Third Crusade)
デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世

リチャード1世の像(ロンドン)
pict-リチャード1世 1.jpg
現在の国会議事堂であるウエストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の上院側、Old Palace Yardに像はあります。

リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)
リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)イングランド王(在位:1189年~1199年 )
父は、プランタジネット朝初代国王の ヘンリー2世(Henry II)で彼はその3男 として誕生。


以前テンプル教会を紹介した時に中世の騎士の事を書きましたが・・。
2013年9月「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」
そんな騎士道華やか成りし頃のイングランドでリチャード1世は誕生。
当時の慣習により(イングランドは全ての家督を継げるのは長子に限る)家から外れ、騎士としての訓練を受けたのだと推察

騎士は彼にとって最高の生き方だったのかもしれません。
長兄が亡くなり イングランド王位が彼に回ってきても、彼は自ら戦闘に出る 事を辞めなかった。
在位していた10年で国にいたのはわずか6か月
とか・・。彼は常に先陣を切る騎士王だったようです。


以前 テンプル教会で紹介した英雄的騎士、ウィリアム・マーシャルは、プランタジネット朝のヘンリー2世、若ヘンリー王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として重要(ちょうよう)された騎士であり政治家です。
彼はリチャード1世の時は遠征中の王に代り本国イングランドで政務を担っていた人ですが、彼は「王たる物が浅はかに敵を追うな。そう言う事は部下にさせろ」と言う旨の
苦言を提したと伝えられています。

それでも彼は聞く耳持たず、 第三次十字軍では一人奮闘してサラディンと戦い、そのサラディンから「彼は本物の騎士だ」と賞賛されるほど・ ・。
ウィリアム・マーシャルが心配した通り、彼の最後はフランス領のアキテーヌ公領シャリュでの戦いにおいて受けた矢の傷が元で戦死。若干42歳でした しょんぼり


街の裏手、デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)
pict-デュルンシュタイン 18.jpg
矢印が城跡。
pict-デュルンシュタイン 20.jpg
途中ブドウ畑を通過。この当たりまでは道も整備されてましたが、城跡まで上る道は結構険しい。
一応案内では20分でしたが、体力落ちている私はもうちょっとかかりました ぽっ
とにかく足場が悪い。雨の後だったら滑って危険です。
pict-デュルンシュタイン 19.jpg

眼下に見えるのは川上、メルク方面。pict-デュルンシュタイン 22.jpg

第三次十字軍( Third Crusade )(1189年~1192年)
1187年、サラディンの元で再びイスラムの手に落ちた エルサレムを奪還する為に教皇グレゴリウス3世の要請で立ち上がったのが、神聖ローマ、フランス、イングランド でした。

1189年、先発で進軍したのが神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世。しかし途中急死。
1国で派遣した十字軍部隊としては最大規模だっそうですが、1190年キリキアのセレウキアの街。サレフ川で溺死してしまいます。(現在のトルコ。シリフケの街はずれ現在のGoksu川。)
※  皇帝亡き後、臣下の多くは帰国。ドイツ隊としては少人数が統率者の定まらぬまま残った程度。

1190年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)は7月それぞれ出立してシチリアで合流。
(父王以来土地の問題で戦争関係にあったが、リチャードとフィリップはこの時点では仲良しだった。)


1191年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)、それに神聖ローマの残った兵隊でアッコンを陥落。(イングランドの艦隊の海上封鎖による兵糧攻めが勝因。)

星 リチャード幽閉事件の要因は、このアッコン陥落の時に起きた些細な出来事。
神聖ローマの残った兵隊の司令官であったオーストリア公レオポルト5世はフランスとイングランドに並べて図々しくも自身の旗を掲げ、それをリチャード側により撤去された。

その後怒ったオーストリア公レオポルト5世は帰国。
残ったフィリップ2世もその後意見の衝突が多くなり帰国。

残されたリチャード1世は一人で軍隊率いてサラディンと戦闘を繰り返す事になった。

しかし二人の間には何かしら信頼関係が出来たのだろう。
1192年、サラディンとの間で休戦協定が締結。エルサレムの奪還こそできなかったけれど再びキリスト教徒のエルサレム巡礼が再開。これをローマ教皇は高く評価した。

デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)ファースト・ステージから
pict-デュルンシュタイン 23.jpg
セカンド・ステージ入り口
pict-デュルンシュタイン 24.jpg
城は大きく3つのステージに・・。現在ファーストには何もない。
pict-デュルンシュタイン 25.jpg

デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世

ところが、 エルサレムからの帰国途中にリチャード1世は捕らえられ(1192年12月)、デュルンシュタイン (Durnstein)で幽閉された

捕らえたのはアッコンの一件でリチャード1世に恨みを持つレオポルト5世。(英雄を捕らえたのですから、後にレオポルド5世は教皇より破門。)

1194年2月神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身代金を払い解放されるまでリチャード1世はデュルンシュタインの城に閉じ込められていた・ ・と言う訳です。


pict-デュルンシュタイン 26.jpg

pict-デュルンシュタイン 27.jpg

もともとはメルクと同じく要塞が起源で、クーリンガーはオーストリアの高官。
pict-デュルンシュタイン 28.jpg
写真からは解りにくいですが、日差しが強すぎて真っ黒に焼けました。日焼け止め必要です。

pict-デュルンシュタイン 29.jpg

サード・ステージから撮影。
pict-デュルンシュタイン 30.jpg
絶景。絶景。風が凄いです。
pict-デュルンシュタイン 31.jpg

回でヴァッハウ渓谷終わり。
リンク ​ ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)






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Last updated  2020年11月07日 19時14分37秒
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