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《染人百話》より《大和の文七》
文七は大和生まれで、後には湖東佐野発願寺の寺僕となって無我に御慈悲を喜んだ。いつも藁でたぶさを結び粗末な衣服を纏うていたが、時々人知れず嬉しい嬉しいと云って小躍りして御念仏していた。
○何時も慚愧して気の毒に思われるほど自己をせめた。御仏前へ拝礼の前後などは敷段や縁先でこつこつと音を立てて此奴めが此奴めがと云うて、且つ戒め且つ省みたと云う。そのため前額が誰が見ても松脂でも付着てあるかのように思われた。
○魚市場などの前を通る時には、恐ろしや々々私も生々世々の間には、この様な店晒になった事もあったろうにと。又新しく普請などしているのを見ると、嗚呼御気の毒々々と云って小走ったと云うことである。
○ある時、発願寺住職の傘供をして葬場へ行った。やがて「本願力に逢いぬれば」の御和讚の御調声があがると、朱傘は忽ち導師の頭を打って倒れた。あまりのありがたさに感極まった文七は、己忘れて合掌したまま、無我に御念仏申しているのであった。
○その当時、附近の種村本行寺の御簾中(西派本山より御入興)が病気にかかられ、かねてより文七の厚信を聞かれてある処から聞法がしたいと所望になった。文七はなかなか応じなかったが、後には仕方なく行くことになった。最初本堂に参詣して御尊前に一々懇ろに拝礼を遂げ、漸く庫裡に入ったが、今度は御内仏の拝礼が亦本堂のように極めて丁寧であった。さて漸くのことで待ちに待たれた病人の側近く座ったが、何時までたっても一言も云わない。ただ落涙しながら微言で御念仏申して居るばかりであった。しかし御内方は文七が先程から謙って厚く喜ばるる殊勝な態度を見聞されて、殊の外満足されたと云うことである。
○文七は小さな蜜柑箱に持仏を御安置して厚く御崇敬をしていた。ある時、文七の留守中に当時十一・二歳位の同寺の新発意が戯れに「文七はうそつきでぢごくゆき」と書きしたためて箱に張り付けて置いた。後帰ってきて之を見つけた文七は、驚くまいことか、声をあげて、いよいよこの偽つきの地獄行きの文七が、お淨土参りの一番客とは、やれやれうれしや有難やと、とめどなく、独り喜んだと云う。
○佐野に金田屋と云う大家があった。文七が独身で年老いていくのを気の毒に思うて、田地の二三反も与え、雇婆も世話しようとすすめたが、文七はやれ恐ろしや々々と辞退して承知しなかった。その後病気に罹ったが、病人を引き受けて世話がしたいとの望み手が互いに争うたと伝えられてある。今曰く。概して世間では老人や病人は人に疎まるるものであるが、文七に限っては年寄るほどいよいよ人に慕われ、病気になっても同行が引き合うなど、信徳ほど不思議なものはない。・
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