PR
Keyword Search
Calendar
Category
Shopping List
Comments
Free Space
《香樹院語録》より《二六〇。如来のまことに丸められたる信心》
それならば、その南無阿弥陀仏をば、いかがして信ずれば心の底の暗がはれ、疑いの病が治るぞというに自余の聖道門の教なれば、我と我が心を磨き顕わしてこの虚言偽りばかりの腹の中を、いかようにしても、かわらぬ所の実物にしあげねば、我れと信心をおこして仏の證を求むるとは云われぬ。それ故に、一世や二世で仏になる信心が、中々こりかたまるものに非ず。十信一万劫の間かかり給う也。生れかわり死にかわり、生々世々、難行苦行を勤めねば、我が信心は堅まらぬ左様にして信心がおこらせられた処で、初めて仏になる大菩提心がおこらせられた。それより修行し給う所が、三阿僧祇という永々の御苦労也。それ故、銘々なんぼ百年千年晝夜に身をこらしたとて、中々この胸に実の心は起らぬ也。 それはそのはづ也。世間の間で云う時は、親の子を思う実と、夫婦の恩愛の実と、これほど手づよきはなけれども、その親の実さえ、我が身の難儀になり、我が身のたたぬことになると、我が子も捨ててしまうと云うように、やぶれてしまう凡夫。いわんや夫婦の実も心に叶う間は実あれども、我心に叶わぬ事になると、怨み妬みの心を起す。世間眼前の知れた事さえ爾り。いわんや仏になりたいなどの念願、我々実の心のできよう道程なし。然る処、この法藏比丘が、我等虚仮不実の心を見抜き、千劫万劫、無量劫盡未来際かかりても、悪人女人の実の心を起して、仏になるなどはできぬことぞと、ながめたまいて、そこで、この我々の実心がなければ、仏の證は開かれぬ、浄土の往生遂ぐるという事はならぬ。我々には実の心は起されぬ。そこで助けようとすれば助からず、捨てようとなさるれば、己に諸仏にも見捨てられて、永く成仏の期のない銘々なれば、三界六道の迷、地獄は決定まぬがるる事はならぬ。又たまたま、人間天上の善を修して生るる事あれども、爪の上の土の如く、三悪道え堕つる者は大地の土の如く也。 かような我等が、三途の苦を眺め給いて、この三悪道の苦を抜いてやりたいと思召て、法蔵比丘の御苦労はなるべき事の思案に非ず。ならぬ事をどうしようどうしようと思案し給うが、五劫が間の御工夫。所詮悪人女人が、我が心の中からして実の心は起されまいによりて、身替りに弥陀が願行をつとめ、即ち実の心を成就してその成就した南無阿弥陀仏を與えて仏にしようと願い給いた、ここが法藏比丘の願心なり。 それ故、銘々決定し奉る信心というは、凡夫がたのむの、すがるのと、かりそめな心が信心とは思うべからず。かねて助けると、御成就の久遠劫来の如来の御実が聞其名号信心歓喜と、六字の謂れが聞き開かれた一念に與え給う実の心が、信心也と宣う。そこで『御文』の中に、「信心と云える二字をばまことの心とよめる也。まことの心というは、行者のわろき自力の心にては助からず。如来の他力のよき御心にて助かるが故に、まことの心也」と仰せらるるが、常々の他力の信心というがこのこと也。 口には、他力の信心と皆が云うては居れども、我が落ちつく胸はきまらずに居て、そして助けて貰う事ばかり如来の他力と思うて居る故、そこで助かることばかりが他力で、我が胸が回向の他力の信に非ざる故、そこで口に云う所と心の中と似合わぬ。これでよいやら、わるいやらと案じ労らう也。
《貞信尼物語》より《二十一、邪見も驕慢… 2026.10.11
《求法用心集》より《八 聞名信喜》(再掲) 2026.10.10
《求法用心集》より《四三 好人そで女》(… 2026.10.09