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《香樹院語録》より《二六一。助からぬと驚く者は助かる也》
盗人が藏の壁を切り破りて、金を懐の中におさめ、やれ嬉しやと思うけれども、見付けらるると首切らるるにちがいなき故、破ったところでにこにこと寝て居る盗人はない。また追剥などが人を殺し金を取りて、その殺した所にいつまでも休んでは居られまい。罪を罪と知れば逃げねばならぬ。それを何とも思わず、ぐづぐづして居れば縄かけらるる。よって、うろついては居られぬ也。 銘々罪造りて何とも思わぬは、何故なれば因果の道理を知らぬが故也。それ故極楽参りは、如来の慈悲で唯参らるるように思い、参りたい心なき故、徒に暮して月日を送るはこれ常の人の習じゃぞと、蓮如上人はしかり給う。これが即ち邪見の姿。銘々罪持ちながら何とも思わぬは、邪見なる故、うかうかと暮す也。もしや邪見が破れて、このままで地獄の火の坑え沈まねばならぬと聞いたならば、願わずには居られぬ。聞かせる事ならぬとあればとて、聞かずに居られようか。それ故邪見我慢がやぶれて、仏になりたい心になりたならばたとい火の中分けてなりとも、聞けと宣う如来の教誡也。 ?慢と云うは、少しばかりわかると、これでこちらはよいと、呑み込みあきらめるが?慢也。これにも、いろいろあれども、我心得顔は?慢也。この?慢は愚な者よりも、僧分や頭同行に多くある也。実の法が信ぜられぬ故、そこで邪見?慢の者は信ずること難しとありて、十悪五逆の罪人でも、助ける弥陀の本願なれば、罪はいかほど深くとも、煩悩悪業はあらうとも、苦にせぬけれども、?慢邪見では、この名号の謂れが聞かれぬとある。善知識の御教化に打ちたたかれて聴聞して見れば、初めて如来の御慈悲の御苦労は、人の為に非ず、この私を助けん為に、五劫の御思惟、兆載永劫の御修行じゃと聞かれて見れば、南無とたのむものを助けると仰せらるるも、よその衆生を助けるとあるにあらず、此の私を助けたいの南無阿弥陀仏と、いよいよ六字の謂れが聞かるるは、己が力に非ず。聞其名号信心歓喜と仰せらるる、如来の御慈悲が聞かれて見れば、ああ嬉しや、地獄より行き方のなき者が、たのむ一念にお助けとは、ありがたいと信心の得られたは、邪見が破ぶれ、?慢がつぶれた故也。 よくきけば如来の御苦労御成就の南無阿弥陀仏のおいわれが、行き届いた信心ゆえ、信心の体が直ちに南無阿弥陀仏、信心とて六字の外なし。やれうれしや、今までどうしたならば、実の信になるであらうと、手前からきめておったゆえ疑いは晴れなんだ。まるまる南無阿弥陀仏の回向で助かる也。
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