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獲られさうなものが獲られず、信じぜられさうなもおが信ぜられぬのは、まだ気が高いからぢや。
「驕慢の頂きには法水は止らず」ぢや。
気が高いとは、我は佛法者後世者気どりで、人よりはよけい心懸けてゐる、
よけい参る、よけい念佛する、人のする事はせぬ、人のせぬ事はする、
つまり我かしこしと思ふ気が高いにぢや。
一蓮院師が、「新治郎よ、私もお前も手があがらぬのう、手が上ると云ふは、
気の低うなる事ぢや」と仰せられた事。
また、等覚寺さんの、御気の低く、何時も衣も召さず、数珠も持たれず、
念佛の聲も人に聞こえなかつたこと。
また大和丘誓堅師が、自ら瑾をあらはして、態と人に嫌はれ、蔑められるやうにして
寺を出で、坊主でゐては信が得られぬからとて、自ら八兵衛となつて法を求められしこと。
また西大路光圓寺の娘某が、「気が高い」と香樹院師に云はれて、草津のある宿屋女中に
なつて法を求めた事など思ひあはさるゝ。
佛法で気の低いとは、殊勝振りせず、知つた顔せず、私ほどの阿呆はない、
愚ものはないと、心底から思ひ知つて、些も誇る気のないが気が低いと云ふものぢや。
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