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この週末は二ヶ月ぶりにジョージアへ行っていた。前月にも予定していたのだが、ブルルの実家や姉妹の風邪で延期になっていて、我が家にしては、久し振りだった。金曜日に新しく代えた診療所で診て貰い、次は女の子だと判ったのも、面と向かって伝えられた。ジョージアに居る間、いや、行く前から心配していた事は、もし彼らが無邪気に「日本の事を祈っているよ。」とか「ご家族が無事で良かったわねえ。」と、さらっと、「昨日の雨凄かったわねえ」みたいに済んだ事、今はめでたし的に言われて自分が即むすっとするのが見えるようであった事。神様が神様が神様が・・・と発言されたら、体から発火していただろうけれど、いつも通り「へらへらするのがわたしの強さ」と言い聞かせ乗り切った。実際は、「アメリカ人って罪深いわよね~日本の人はお水も無くて困ってるのに。」と言いつつ使い捨ての、しかも漏れたら汚れるので二枚重ねの紙皿やプラスチックのコップにフォーク類、皆が帰った後のコーラの残りや中途半端に余った食べ物、氷はゴミ行きなのを見て、阪神大震災の後、大阪梅田の三番街と言う地下街では川にお水がとくとくと流れていたのを見てなんだか違う世界へ来たような無力感に襲われたのを思い出した。「経験した人にしか、解らないんだから」と、解って居ても寒々しい風が心をよぎるのは避けられない。その代わり、滞在中も行き帰りの車中も、メディアに触れずにじっくり考える時間が有った。高速道路沿いの花水木や藤、そして特に桜を見たら花の奥がつんとして、泣きながら寝た振りをした。ティク・ナット・ハンは、苦しみや怒りを感じた時は自分でそれを丁寧に慈しむ事が大切だと言っている。そうなのかもしれない。普段、自分の怒りや悲しみは自分で分析して消化出来ても、恐れだけが出来ないと言うのは、それが自分の中で最大の苦しみだからなのかもしれない。先週までは気持ちの整理が全く付かずショック状態の中、情報を集めようと躍起で、そして自分がすがって行かれる言葉やヒントを探して、インターネットや自宅の本やら、活字中毒に輪を掛けて読み漁った。アランは「幸福論」で、当時最大の恐怖且つトラウマで有ったろう船の難破について書いている。本当にそれを経験した人は次々に起こる出来事に対処する決断を下すのに必死で、落ち着いて改めて思い出す時にこそ本当の恐怖が訪れると言うような内容だった。確かに、未曾有と言われた阪神大震災でも、未曾有と言う定義を塗り替えた東北関東大震災でも、落ち着いてからの虚無感や恐怖の記憶に加えて将来への恐怖が押しかかって来るのであろう。自分の生活には影響は皆無だったのに、過去のトラウマに苛まれて体調を崩し不眠になって、自分でもなんて自己中心的なんだろう、と呆れた。ツイターで、被災者の方が、「被災しなかった人は面白い事が有れば笑えば良いし、普通に生きて行けば良い」と言う趣旨の事を書いていらしたのを何かの記事で読んで、至極納得した。地震、津波、放射能と続く今回の災害と、全壊とか半壊とか言っていたレベルの阪神と比べるのも稚拙なのは承知で書くと、あの時全く関係ない日本のどこかで過去の経験を思い出して苦しんで居る人が居ると聴いたら、わたしは「自分のドラマの材料にこっちの被害を使ってくれるな!」などとは思わなかっただろうし、無事だった人の普通の生活を恨んだりだってしなかったであろう。地震から一週間程経つと、わたしがすぐ恐れていた通り遺体問題がニュースになっていた。フラッシュバックが脳裏から引き剥がせず、余りにも頭に浮かんで夢に見て、本当に思い出として覚えている光景とネットで見た津波と不眠が混ざって、津波なんて遭った事もないのにそんな夢を見る程、情けない有様だった。自分の生活に集中しようとすれば後に罪悪感が訪れ、地震の事が暗雲のように頭から離れないのならとことん考えようと集中して悪夢にうなされると今度は一人でこんな所で何をやっているんだ、と言う種類の罪悪感が押し寄せる。丁度地震の日、と言うか地震の事を知った日だからアメリカ東海岸時刻では3月12日に初めて胎動を感じた。それすら罪悪感。その後は赤ん坊に罪悪感。そうすると、阪神大震災の後、おにぎりでもお水でも有り難かったのに、暫くするとお汁物が食べたいなあと思ったり、コーヒーが飲みたい、お風呂に入りたい、と思い、そしてその後すぐ飲料水すら無い人だって居るのに、と、避難所へは行かずに済んだ自分に罪悪感を見出したりしていたのを思い出した。罪悪感とは不思議な物で、勿論罪を犯して罪悪感無しでは人間として欠陥が有るであろうが、罪は犯していないのに感じる分にはその範囲は有る意味無限大であるとも気付いた。阪神大震災以来、心の準備の無い時に脳に飛び込んで来たらパニックになってしまう物達、青いビニールシート、チンするご飯、自衛隊、遠くの町の消防車や救急車、大量の紙皿、ずらっと並んだポット、お水の要らないシャンプー、箱積みの女性用衛生用品、ダンボール箱を切って立てたついたて、給水車、炊き出し、ガスの匂い、各種ヘリコプターの音、どれだけ遠くからどれだけ苦労して来たか競い合うボランティアの若者・・・。それらの其々が、今避難所の皆さんに必要とされて居るのであろう。冬服の、阪神大震災の後の神戸っ子が自分達では自虐的に「被災者ルック」と呼んでいたウエストポーチやリュックの人の長蛇そっくりで、但し雪の中での写真を見た時は、本当に心が痛んだ。失意の胸へは/だれも踏み入ってはならない/自身が悩み苦しんだという/よほどの特権を持たずしては――と言うエミリー・ディッキンソンの詩が朝日新聞の天声人語で紹介されていた。地震の事なら何でも解ると自分で思っては居ない。悲劇の度合いと比べる事自体が間違っているのも解っている。しかし、自分がホームシックの時にアメリカ人の友達に「あー解るわ~それ!だってわたしも親友の一人がニューヨークに引っ越して凄く寂しいもん。」と言われて、それは一寸違うんですけど、だって時差も無いし、なんて思った気持ちを思い出す。気持ちが解るように言われて腹が立つ気持ちは当然だ。それでも阪神の経験者が沢山立ち上がってメディアに訴えるのは、善意からだ。わたしが震災で何かを学んだとすれば、人の善意や優しさを理解する強さを得た事だろうか。だろうか、と言うのは、16年経ってティク・ナット・ハンなどを読んで、やっとそう言えるからである。朝日新聞では他に、「伝えたいー阪神から」と言うコーナーが有って、物資を送る際の現実的なアドバイスや西宮出身で阪神大震災の時には海外に居たと言う沢松直子さんが、わたしには当時は海外の兵庫県民の事など思い付きもしなかったのに今でこそ解る恐怖を、阪神を経験して東京で今回の地震を感じた藤原紀香さんが、死が頭をよぎったと言う経験等を其々紹介していて、16年の年月の長さを思うと共に、改めて阪神の傷跡の深さと大きさ、人生の色んな過程で経験した様々な人の震災体験の多様さに驚いた。同じく西宮つながりでは、市会議員のこの人の事を、政治的にも個人的にもわたしは全く知らないがブログのこの記事には大変共感を覚えた。他には日本の友達がアメリカに居て何も出来なくて歯痒がっているわたしに送ってくれたこんな「トモダチ作戦」ビデオでは、米軍の活躍が見られる。それから、これらは英語だが、地震直後はABCニュースのダイアン・ソイヤーのこのレポートがFacebookで飛び交った。三月十一日付けの60Minutesでは津波の恐ろしさをアメリカに伝えていた。わたしは家でテレビを見ないし日本語と英語しかニュースが解る程理解出来ないので情報は偏るが、世界が日本の心配をしているのは、解る。アメリカでは今までは外国人の少ない地域に住んでいたから、生まれて初めて出会った、若しくは唯一知っている日本人がわたしだけと言うような人が多く、それはそれで最初は国旗を背負ったようなプレッシャーが有ったが、今回はもう忘れかけていたような元同僚や昔のシャーロットやミシガンの知人・友人、ブルルの知り合いも沢山わたしと面識が無くても気にかけて電話やメッセージをくれた。若しかしたらわたしが東北の出身で、里帰り中で死亡していたかもしれないのに、そんな、何と言って声を掛けたら良いのか分からない知らせの可能性を覚悟して連絡をくれた、そんなみんなの気持ちが嬉しかった。最後に、中々上手く書きまとめられないが、わたしが阪神大震災を経験して多分一生その光景を脳裏から拭い切れないのは、当時のわたしと今のわたしがへなちょこだからである。今回の震災、津波、避難生活、または他のトラウマを抱えた人が必ず一生引きずるとは限らない。被災地でまさかこのブログを見て下さっている方も居られないだろうし、おこがましくメッセージをする気も無いが、大きな傷跡が残っても、時間が掛かっても、傷は必ずいつか癒えます、と、聴いてくれる人みんなに言いたいし、自分にも自分の子供にも、しっかり言い聞かせたいと思う。
March 29, 2011
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ブル乃助が今朝は幼稚園に薄手のジャケットを着て行きたいと言うので普段は朝からネットを見ないのだけれど三寒四温な昨今なので気温をチェックしようとしたら、東北地方太平洋沖地震の報道が目に飛び込んで来た。詳しく見る時間は無かったので、そのまま車でブル乃助を送って、帰りにスーパーにお買い物に寄って帰って来てほっとして改めて記事を読んだら少し過呼吸気味になった。本当に、こんなに離れていて少しの揺れも感じなかったのに、文章を読むだけでこんなに動揺する傷の深さを癒せない弱い自分が嫌になる。海のあちらでは観測史上最大の被害が起こっているのに、こんな所で女々しくドキドキしている自分は、なんて自己中心的なんだろうと思う。それでも、想像力の貧困さ故に文章だと耐えられるが目から入る画像や映像を観てしまうと脳の深い所へ入り過ぎて駄目になりそうでネットでも映像だけは見られない。出張中のブルルから電話が有って、声を聞いたら泣いてしまった。彼は(アメリカの)テレビ報道で映像も数字も知っているようだったが、わたしがどこまで知っているかを気遣って、ただ、わたしの家族の無事だけを訊いた。兵庫県南部は大丈夫でしょ、と言いながら、自分でこんな会話をしているのが信じられない。神様なんて居る訳無い。思わず願う祈り以外、神に祈るのは時間の無駄だ、と、クリスチャンの彼に突っかかりたいくらい、怒りを伴った悲しみに言葉が出ない。流石に彼はわたしの神経を逆撫でするような事は言わなかったし、わたしも逆鱗を自分で撫で付ける理性だけはなんとか有った。「祈っている暇が有ったら義捐金送って下さい!」と言ってしまいそうなので今はすぐに神様の話をする姑から電話の無い事を、それこそ、祈っている。この湧き出る猛々しさはどこから来るのか?全ての怒りの根底には悲しみが有る、と読んだ事が有るが、そうなのか?阪神大震災を一緒に経験して、わたしの経験の全てを知ってくれている人と結婚して、本当に良かった。電話が掛かって来るまでは平気だったのに、泣いて泣いて、今は頭が痛い。前回のうきうきした日記以来暫く書けなかったのは、丁度あの後直ぐに、風邪を引いて、それから行った検診で行ったグルコース検査の結果の電話が有り、血糖値が220だったので即妊娠糖尿病と診断され、栄養士さんの指導を受けるよう指示されたのだ。栄養士さんは女性で、日本の中学校で習うような栄養学を懇々と説明され、常識的知識をいかにも意外でしょと言わんばかりに繰り返され、そんじょそこらのアメリカ人と一緒にするなと言いたいのを堪え、聞いて居た。糖尿だなんて、急に肥満だと言われたのと同じくらい屈辱的に受け止めたし、この色んな物が急に食べたくなる時期に、折角風邪が治って精を付けましょうと言う時に、体重だってまだ1キロしか増えていないし、つわり以来甘い物も欲しくないし、薄味好みだし、前例も遺伝的要素も無いのになんで・・・?と、納得するまでに時間が掛かった。落ち込むわたしに「何かの間違いだろう」なんて言うブルルと認めたくない気持ちはわたしにも有ったが出来るだけ従順に言われた通りにしようとしていたわたしは衝突もしたし、普通は二度検査するらしいと聞いて、もう一度検査して貰おうか、とも話し合った。(血糖値が200以上の場合は二次検査をしない場合も有るとその後ネットで知った。)が、その日に栄養士さんから頂いた朝いち、毎食二時間後に血糖値を計る機械で指先をぷちっと針で刺し記録を始めて見ると、やはりご飯や麺類を食べた後は数値が異常に高い。認めるなら早い方が楽、とばかりに、母子の健康の為に今は食生活を改善しているが、栄養士さんの提案に則ると、一日三食以外に三度のスナックが有り、普通の糖尿と違い、妊婦の場合はカフェインも水銀も駄目、塩分も控えなくてはいけないのでお茶やまぐろは禁止、ソース類も要注意なので、高脂肪、高たんぱくはオッケーとばかりにやたら卵やお肉が頻出する。お陰で本当は一ヶ月で一キロ増やして行く予定だったのに、一週間で1キロ太った。何も食べられる物が無い!と、食いしん坊のわたしは欝気味だったのに。やはりアメリカの一日2000カロリーのダイエットではわたしには多過ぎるようだ。ネットで調べてみたら、アメリカは妊娠糖尿の基準が厳しいらしいが、日本では診断されたら入院して食事療法を施す事も有り得るらしい。妊娠糖尿は必ずしも生活習慣病ではなく、遺伝が無くても高齢出産では起こり易いそうだ。妊娠の間だけだと侮っていると、その後も立派な成人病として復活するので注意が必要らしい。アメリカのネットの掲示板でも、「Why me?」と怒っていたけれど受け入れて治療に専念して元気な赤ちゃんを産んだと言う話も多かったので少し元気付けられた。運動も良いようなので、暖かくなったしまたウォーキングを始めようと思う。治療に便利なように、加えて兼ねてよりミシガンの産婦人科に比べて大きくて個人的ケアを感じられない初めから35歳以上で妊娠するのが悪いみたいな口調で糖尿その他の説明も不十分で連絡も付き難かった隣の市の診療所からこの際この町の診療所に変更する事にした。去年の春原因不明の蕁麻疹に二ヶ月程悩まされた時もそうだったが、ストレスを溜めないようにする事が今はストレスになっている。妊娠五ヶ月の今、もし胎児が女の子だったら、もう次の世代への卵子を作っているそうだ。人間も、草花や桜や虫や鳥のように、自由な意思で生きていると思っていても本当は生かされているだけの小さな存在なのかもしれないと思う。
March 11, 2011
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