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それは、社会全体を見渡す視野。。。視野は、心の眼と言い換えてもいいかもしれない。社会を見渡す視野は、大志と言い換えてもいい。そして、自分の信じていることを同じように信じている人を信じて、任せきる器。方針について、リーダーチームで、意見を出し合い、トップが、決断を下す。実行チームに方針を伝える。実行チームを信じて任せる。口を出さずに、現場を俯瞰して見守る。実行チームのトップをリーダーチームのミーティングに招き、そのフィードバックに耳を傾ける。全責任を背負う。次の方針を決める。これの繰り返し。たった、それだけのこと。
2015.03.30
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ちょうど、4年前、私の人生を、私自身の手で変える。。。そのきっかけを創ってくれた長女が、クラーク賞を受賞しました。周囲の方々のご尽力とご理解の下、彼女が選ばれたことに、感謝します。大学院へ進学とのことですが、周りに、多くの貢献をし、その上で、多くの協力者と共に、大志を抱いて、この先の人生を歩んでいく人と、なりますように。4年前を思い出します。当時、私は、父から、27歳の時に引き継いだ会社を経営していました。経営能力がなく、自分の給料を9万8千円にしても、まだ、赤字が続き、このままでは、家族の生活も、ままならない。そんなところまで来ていました。それでも、なお、私は、人の役に立っているつもりでいました。自分の給料を9万8千円にしてでも、従業員の皆さんには、20万、30万、40万と払っていましたから。ところが、長女が、北海道大学に合格した時のことです。。。彼女のアパート代を払ってやれない自分に出遭いました。結局、寄宿舎生活ということになりましたが、寄宿舎は費用が少なくて済むので、申請書が必要でした。申請書の、申請理由に、『父親の会社がままならず、金がない。』と、娘が書いて、私のところに持ってきました。保護者印を押すところがあったからです。そのとき、はじめて、気づきました。私は、周りに迷惑をかけて生きているのだ。。。と。このときの思い。。。これが、22年。。。父の代から数えれば、52年続いた会社を閉める勇気と、なりました。経営者ですから、失業保険は、ありません。49歳で、主たる収入源のなくなる恐怖。それを振り切る勇気を彼女が与えてくれました。今、まだ、所得税も払う身分でもなく、『目指せ、納税(義務を負うほどの所得)』ですが、当時の貯金持ち出し状態からすれば、少しは、マシ(笑)会社を閉じる、その時。。。出逢って28年(今は、32年となりました)の妻は、どんなときも、私を支えてくれました。当時、高校一年だった次女は、『生まれた時から、当たり前のようにあった会社も、車も、 み~んな、なくなっちゃうけれど、私は平気だよ。 おとうさんと、おかあさんを信じているから。』と、言ってくれました。長女も、北海道で、なにも、とりみだすことなく、『あっ、そう。』ありがたかったな。。。彼女たちのためにも、豊かになる姿を見せなければ。と思い、やってきました。そして、長女よ。また、勇気をもらったよ。53歳、父も、大志を抱いて生き続けるよ。つくづく、思う。親はなくとも、子は育つ。
2015.03.21
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自由・公正・いたわり。私は、この3つを大切にして生きてきた。自分にも、相手にも、社会にも、この3つは、公平に与え続けてきたつもり。もちろん、我が子たちにも。3歳までは、『大好き、大好き』と口に出して言い、ギュッとハグすることだけを日課としてきた。10歳までに手を放せるように、少しずつ、少しずつ、手を放してきた。子どもからの質問に対し、『子どもだまし』は使わないと決め、大人でも納得できる答えを子どもの知っている言葉に替えた。放任主義は採用しなかったが、目いっぱいの自由を与えた。既存概念がないので言葉が見つからないが、これを『信任主義』とでも呼べば、適当かとも思う。おかげさまで、ふたりの娘は、それぞれの道を歩んでいる。今、22と19。ふたりとも学生だが、もう、すっかり、一人前だ。そして、思う。同じ理念、同じ方針で教育し、同じ姿勢と態度で接してきたけれど。。。まったく、正反対の性格の『おふたり』となった。(笑)教育の結果とは、不思議なものだ。まっ。。。親として、今、笑っていられるのだから、すべて、よし。とするのが、よいのだろう。
2015.03.18
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