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12系ばんえつ物語客車:快速「那須野物語」(回送)平成30年6月30日、新潟の12系ばんえつ物語客車を使用した快速「那須野物語」が運転されました。運転区間は大宮~黒磯間の下り片道のみで、帰路は回送となりました。牽引機は、黒磯方にEF8181、上野方にEF641051のプッシュプル運転でした。送り込みは前日のうちに実施され、大宮発の設定ですが尾久センターでの待機となり、運転日早朝にカマの準備がされたようです。大宮駅までの送り込みは尾久からそのままの出庫となり、地元を通ったようなのですが、尾久からの回送設定であることを知らなかったため、撮り逃してしまいました。上り回送の時間をキャッチすることができたため、夕方のみの撮影でした。平成30年6月30日 EF641051牽引 回9630レ 快速「那須野物語」号返却回送この時間ですと正面は潰れ、カマ番の判別すらできません。でも、客車メインなので。後部にはEF8181をぶら下げたままの帰区です。今回、客車には専用のステッカー式の方向幕が貼られたのですが、すっかり撮るのを忘れました。シャッターを切った直後に本線下りにカブられ、後ろ向きはこんな状態に。2枚目のEF8181を切った瞬間に画面に入ってきました。平成30年7月1日 EF641051牽引 回9729レ 12系ばんえつ物語車 返却回送そして、新潟への返却回送です。朝の通勤時間帯は大逆光となるので、後部の客車メインで撮りました。新潟へ行けばいつでも撮れる客車ですが、ここはやはり地元を走っているところに記録の意義があります。DD51牽引なんかも実現してほしいものです。
2024.06.30
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国鉄 オハ35系:オハフ332309国鉄オハ35系は、戦前から戦後にかけて製造された急行用客車です。それまで大型客車として製造されたスハ32系はボックスに小窓2つ1組が標準であったスタイルに対し、ボックスに1mの大窓とされたのが特徴で、これ以降の標準スタイルになりました。初期車は昭和14年に製造が始まり、屋根は絞りがある標準的なスタイル。※登場時の形式呼称は異なります。戦況の悪化により一時製造が中断され、終戦後に製造が再開されており、車体に絞りがあるタイプは、戦前型と戦後前期型が存在しました。※オハフ33は戦前型のみ。昭和58年10月5日 黒磯駅にて オハフ332309硬調プリントからのスキャンなので、下回りも潰れてしまっており、形式写真としては失格です。黒磯口の普通列車に連結されたオハフ33で、オハ61系の淘汰から進んでいったため、最終期はオハ35系の比率が高かったように思います。オハ35系の体質改善車もありましたが、ここの普通列車では旧型然とした茶色の車体が多く見られました。2515 TOMIX トミックス 国鉄客車 オハ35形 (戦後型・折妻・青色) Nゲージ 鉄道模型(ZN120834)2515 国鉄客車 オハ35形(戦後型・折妻・青色)(再販)[TOMIX]《発売済・在庫品》2516 国鉄客車 オハフ33形(戦後型・青色)(再販)[TOMIX]《発売済・在庫品》[鉄道模型]トミックス 【再生産】(Nゲージ) 2516 国鉄客車 オハフ33形(戦後型・青色)(1両)
2024.06.29
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国鉄 直流型電気機関車:EF6636EF66シリーズで、36号機です。JR貨物へ引き継がれ、永く活躍したカマです。平成27年4月25日 4083レ平成27年5月17日 4083レ平成27年7月5日 4083レ短い期間ですが、山手貨物線に設定されていた下り半トヨロンのスジにEF66運用がありました。短期間に3回も撮影できたのはこの36号機のみでした。36号機は、平成29年に廃車になっていたようですが、令和2年2月に解体されてしまったようです。
2024.06.28
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103系:仙石線東北地区では珍しい、直流区間となっている仙石線。かつては17m国電やモハ73系といった、首都圏で活躍していた旧型国電が走っていましたが、全国的な旧型国電の淘汰により、103系化されました。昭和55年 矢吹駅?にて 側線に留置されるウグイス103系昭和55年初頭、多分東北本線の矢吹駅だったという記憶です。逆光で見づらい写真で申し訳ありませんが・・・交流区間における103系の留置は、おそらく仙石線への異動待ちであるだろうという想像はつきました。側線には2編成が止まっており、両方ともクモハ103入りの4両編成。手前の編成は、3両目のサハだけスカイブルーとなっています。山手線ではクモハ103は使われていなかったと思いますので、おそらく、時期的にも横浜戦のATC区間乗り入れに伴う非ATC車の淘汰による押し出しと考えられます。ちなみに、仙石線で103系が使用されるようになったのは昭和54年頃からとなっているので、この時も置換え途上であったのではないかと思われます。平成15年9月19日 仙石線 下馬~多賀城間にて石巻線の貨物列車を撮影しがてら、仙石線経由で仙台に戻りました。当時、205系が導入され、103系は1編成か2編成くらいしか残っていなかったかもしれません。そんな中、あきらめかけた頃にやっと出会えたのがこの1枚です。1度は運用から撤退しながらも、2年ほどの休車期間を経て、復活したのも驚きでした。高架化工事により運用車が不足するための措置でしたが、工事終了後は余剰になり、2度目の撤退となりました。そして、それが東北地区における最後の103系となりました。『仙石線:73系アコモ改造車』
2024.06.27
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京王電鉄:デワ600※本記事は、2016-05-29に投稿したもので、当時の表現になっています。改めて思い出してみると、大手私鉄でも専用の試験車など事業用車を持つ会社というのは意外と少ないように思います。京王電鉄では古くから電動貨車を所有しており、5000系改造のデワを引き継いだ6000系改造のデワ600が所属していましたが、平成28年4月、後継の新車稼働によりとうとう廃車になってしまいました。当方にとっては縁のない路線ですので、まずお目に掛かれる機会はないのですが、たまたま現場仕事で移動中に出くわし、走行写真の撮影は叶わなかったものの、車庫に佇む姿を捉える機会がありました。※撮影は、平成24年4月19日、若葉台車庫にて。仕事に入る前、高架下を移動していると、ゆっくりとしたスピードで、ダブルパンタが通過していくのが見えました。走行音が4両編成だったので、間違いなくデワだと思い、線路の見える位置で折り返しを待機していたのですが、結局戻っては来ませんでした。そのまま入庫してしまったようです。仕事が終わった帰り、電車に乗らずに車庫の方へと行ってみました。すると、やはり休んでいました。近くへ寄ったものの障害物が多く、これでは記録になりません。ホームからは物凄く遠い位置ですが、このコンデジは画質はともかく720mmまで行けますので、なんとか撮ることができました。しかし、良く見るとここも障害物(斜めワイヤー)が・・・反対ホームへ移動して、ワイヤーはクリアできたんですけど、移動機がブラインドしています。これ以上はどうにもならないので諦めましたが、やはりチキを含めた全体像を撮りたかったですね。なかなかお目に掛かれる車両ではないので、仕事のついでに捉えることができたのはラッキーとしか言いようがありません。旧車を利用した事業用車と言うのは、大体は長生きするものですが、種車である6000系の僚友たちが居なくなってからまだそれほど時間も経っておらず、事業用車としては異例の寿命のように思います。同車は前後半分に分割され、トラックで陸送されて行きました。
2024.06.26
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165系・185系:急行「ゆけむり」「草津」上越新幹線が開業し昭和57年11月、それまで近距離の優等列車と言えば急行列車であり、温泉地を抱える上越・草津方面へは「ゆけむり」「草津」が設定されていました。「ゆけむり」の殆どの列車が併結運転を行っており、定期列車「草津」や「あかぎ」、又は「軽井沢」「伊香保」といった季節・臨時列車などと手を組んでいました。昭和54年頃 911M 急行「ゆけむり6号」「草津4号」列車番号が鮮明に写っており、列車名が解析できました。2列車併結の14連で、まだグリーン車の帯も鮮やかに付いています。ヘッドライトがシールドビームに改造されてしまっていますが、なんと、ヘッドマークステーが残っています。なんとも時代差のあるアンバランスな姿ですね。昭和57年 165系「草津」+185系「ゆけむり」残念ながら列車番号が不鮮明で解析できませんでした。185系200番台は、東北新幹線開業後におけるアクセス列車「新幹線リレー号」や、急行列車の特急格上げ列車である新特急への導入のため、昭和57年に登場しています。0番台は昭和56年に「踊り子」用として既に誕生しており、200番台は寒冷地仕様としたもので、新前橋電車区に集中配置されました。新特急やリレー号は東北新幹線大宮暫定開業後となるため、落成した185系200番台は順次急行運用に投入されることになります。落成ごとに営業運転に入ったため、出揃うまでは急行形の165系と共通運用となり、7両編成を併結する運用では、このように165系7連+185系7連という姿を良く見ることが出来ました。昭和57年 908M?これも同時期の写真です。185系が出揃ってくるに連れ、このように185系7連×2といった編成も良く見られるようになりました。写真は列車番号908Mと判別したのですが、よく考えれば下り線を走っていることから明らかな差し間違いです。モノクロで暗めなことから、曇天か夕方かも判別はつかず、ちょっと列車名が特定できませんでした。ちなみに、908Mは折り返し運転が無いようです。上越新幹線の大宮暫定開業により、185系がリレー号と新特急への運用固定となったため、暫定的に残った急行列車への充当は消滅してしまいました。そして、165系14連が、再び急行列車として復活を果たすことになります。
2024.06.25
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EF58牽引:81系お座敷列車(シナ座)お座敷列車の歴史は古く、旧型客車を改造したものが多く誕生しています。オハ60系客車を改造したものが多く存在し、金沢鉄道管理局に登場以来、静岡(沼津)、門司、長野、名古屋、大阪、東京南鉄道管理局にも配置されました。いずれも余剰となった冷房改造後のスロ62系を種車としています。過去ログ『スロ81系:お座敷客車』で81系お座敷列車のグリーン帯時代(沼津区及び門司区)をご紹介いたしましたが、今回は地元で撮影したシナ座こと品川客車区の81系お座敷列車の写真を集めてみました。昭和59年4月 与野駅にて EF58172牽引昭和60年1月 蕨駅にて EF5889牽引昭和60年1月 与野駅にて EF58122牽引昭和60年2月 与野駅にて EF58168牽引昭和60年3月 北浦和~浦和間にて EF58122牽引昭和61年2月12日 東鷲宮~栗橋間にて EF5889牽引昭和62年3月19日 両毛線にて EF5889牽引品川客車区のスロ81系は宮原区のものと同様に最後発となったため、グリーン帯が廃されブルトレ同様の2条帯となっていました。それほど撮影するつもりのあった車両ではありませんので、これだけ残っているのは当時EF58が終焉を迎えていたため、「EF58を撮るため」であったことによります。既に首都圏における電気暖房を必要とする旧型客車はシナ座のみとなっており、この客車のために数両のEF58が残されていたようなものでした。昭和60年6月20日 大沢~関根間にて スロ81系お座敷客車これだけ奥羽本線板谷峠での撮影です。先頭の機関車の写真を撮っていないので、おそらくはノーマークであったか、時間を読み間違えて先頭側を逸して後部を撮影したものじゃないかと思います。ピントが合っていないんだか、ブレてしまっているのか、とても残念な写真なのですが、あまり客車にスポットを当てた写真を撮っていなかったので、テールマークが写っている写真としては唯一のものとなってしまいました。品川区に12系改造のシナ座「江戸」が配置されたことによりお払い箱となった81系シナ座でしたが、当時の人気が高かったためか水戸客車区へ転属することになり、茶色にグリーン帯の装いも新たに余生を送ることになりました。
2024.06.24
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旧型国電:首都圏を走ったクモニ13その昔、首都圏の夕刊輸送と言えば鉄道輸送かな?という印象があります。総武線で最後まで残った新聞輸送とは異なり、おそらくはキヨスクで販売するものに限定されていたと思います。この輸送の立役者だったのがクモニ13。物心ついた頃に走っていた地元の茶色の旧型国電は昭和40年代半ばになくなってしまいましたが、この17m戦前型のクモニ13はその後も運転されて異彩を放っていました。ただ、14時台を走っていたと言うことから目撃はするものの、写真はあまり撮っていませんでしたね。当時としては当たり前過ぎた光景だったと言うことだったと思います。昭和52年頃 西川口~蕨間にて 夕刊輸送の荷物電車大変画像が悪い写真で申し訳ないのですが、私が一眼レフを買った初期の頃に撮ったものではないかと思われます。番号も字が滲んでしまって良く読み取れませんが、京浜東北線でよく見られた元34系のクモハ12から改造されたタイプで、鉄道コレクションのプロトタイプとなったものです。真夏に撮ったものなのでしょうか、殆どの窓は全開となっており、如何にも暑そうな感じです。京浜東北線にも冷房車が導入され始めた頃で、14時前後に設定されていたこのスジからすると、運転手、荷扱い手からしても一番過酷な運用だったのではないでしょうか。昭和51年 蕨~西川口間にて大井工場への配給列車です。先頭から、クモニ13+クモル23+クハ76+クモヤ90です。クハ76は間違いなく新前橋区の車両でしょうが、クモル23とクモニ13は品川電車区でしょうか。2つの運用・用途はまったく別物ですが、新聞輸送は京浜東北線以外でも実施されていることから、品川電車区(大井工場含む?)に集約され、共通で使用されていたのではないかと思われます。いつまで運転されていたのか、どのような運用になっていたのか、詳細な資料がないのが残念です。旧型国電 飯田線:クモニ13026
2024.06.23
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183・189系 H81編成:団体列車「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」平成25年6月22日、大宮総合車両センターH81編成を使用した団体列車「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」が運転されました。設定は「長野行き」となっていますが、「あずさ」は松本行きか大糸線乗り入れ運用が定番であるため、行程が長野までとなっていることから、あらかじめ「断り」を入れているように思います。H81編成は、平成25年3月のダイヤ改正前まで田町区所属となっていましたが、田町区の解消により大宮総合車両センターの配置(常駐)になっています。このため、今回の団体列車運転にあたり、我が地元を回送ながらも特急色の「あずさ」が走ることとなったわけです。そもそも、この手の団体列車で8両編成が使用されることは稀であり、同編成がこのようなリバイバル列車に起用されるのも大変珍しいことと思います。平成25年6月22日 H81編成 回9550M 「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」写真は、始発となる新宿駅までの送り込み回送となります。元田町区の車両には「あずさ」のヘッドマークが常備されていませんので、ステッカーによる表示となっています。オリジナル色時代はすべての車両に特急マークがありましたので、やはり違和感がありますが、これは止むを得ないでしょう。このH81編成はこの6月一杯で運用を外れる可能性が高いということで、最後のななむけ仕業となったようです。
2024.06.22
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岩手開発鉄道:キハ202・キハ301岩手開発鉄道は、盛駅を起点とする全長11.5kmの路線で、現在は貨物専用鉄道となっています。平成4年3月31日までは、旅客輸送も行っていました。同鉄道は私にとって全くなじみの無い地域・路線だったのですが、旅客営業の廃止とあわせて、当時でも貴重な車輌に着目し、北上線経由となった20系「おが」と併せて撮影に行って参りました。全く土地勘の無い場所ですし、旅客列車の本数も少ないため、撮影には多大な時間を要しました。しかし、ここまで来て帰ってしまうのは勿体無かったので、昼寝で時間を潰しつつ、夕方の1本を待ちました。※撮影は、全て平成3年9月22日です。盛駅留置線にて キハ202昭和43年に新潟鐵工所で製造されたオリジナルの気動車。全長12m。盛駅留置線にて キハ301夕張鉄道から昭和50年に譲り受けた車両。国鉄キハ07に似た車体を持つ大型車。既に休車状態となっており、運用から離脱していましたが、旅客営業廃止にあたり、最後は運用に復帰しました。長安寺~猪川にて貨物列車のダイヤが分らず、さらに旅客列車の本数も極端に少ないので、長時間かけた割には殆ど撮影することができませんでした。出来れば、キハ301が走行しているところを撮りたかった。
2024.06.21
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101系:中央総武緩行線総武中央緩行線と言えば、そのラインカラーはカナリアイエローが思い浮かびます。しかし、その起源は山手線であり、中央総武緩行線だけではなく、殆どの線区が茶色の73系などで占められていました。山手線のラインカラーであるカナリアイエローがあまり定着していないうちにウグイス色の103系に変わってしまい、中央総武緩行線のラインカラーとしての定着間が強いのかもしれません。以上3枚とも 昭和55年頃 錦糸町駅にてみんな同じような写真でスミマセン。複写したものではなくて、すべて違う電車です。この頃の黄色い101系は、冷房改造車が全く導入されておらず、全部が非冷房車の編成でした。ほとんどが7連+3連の10両編成です。そして、この写真を電子化するまで気が付かなかったのですが、1番目の写真の編成は、千葉方(編成の奥の方)が3連なのに対し、2番目と3番目の写真の編成は中野方(編成手前)が3連になっています。津田沼区と中野区で違ったのかもしれませんが、中央線や京浜東北線では分割編成でも組成が統一されているため、非常に違和感を覚えました。昭和56年12月頃 平井駅にて用事があって平井駅に行ったとき、急行列車の撮影のついでに撮った写真です。この頃になると、中央快速線から流れてきた103系の冷房改造車と、103系の最終新製車が入線してきており、101系の活躍の場が狭まっていました。正直なところ、私が中学生くらいまでは中央総武緩行線はすべて101系でしたので、希少な感じもしませんでしたし、写真を撮ろうという気持ちも全くありませんでした。中央快速線から101系が撤退を始めた頃、それなりに101系を意識するようになってはきて、やっと撮りに行ったという感じでした。101系の引退時期と高校時代が重なっており、モノクロ現像を自分でやっていたため、カラー写真が全然ありませんでした。
2024.06.20
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101系・103系:大阪環状線(昭和49年)平成31年、民営化から30余年が経過し、大阪環状線に残っていた元祖オレンジ色の国電もとうとう終焉を迎えてしまったようです。大阪は撮影でも馴染みがある場所に思っていますが、実は3回ほどしか行っていません。いずれもデジカメ時代ではないので、撮影は特急列車や旧型の電気機関車が中心で、普通列車など撮る余地はありませんでした。大阪で国鉄輸送の中心となる大阪環状線ですが、特に撮影してはいなかったのですが、偶然に写っていたものが2枚だけありました。撮影は、いずれも昭和49年8月、大阪駅にて101系 大阪環状線 外回り縦位置で撮影した写真から切り取りました。明るい時間における下り客車列車を撮影したものですが、画像が粗く、EF58はナンバーも判読できません。列車も何者か今となっては分かりませんが、この時間の下り列車だとすると、荷物列車の可能性が高いようです。環状2番線に停車しているのが大阪環状線外回りの101系で、当時の大阪環状線ではメインとなる形式でした。103系 大阪環状線 内回りこちらは581系特急「しおじ」を撮影したもので、ほんのちらっとですがオレンジ色の大阪環状線が写っています。数年前まで101系だとばかり思っていたのですが、読者からの指摘により、103系であることに気が付きました。当時の大阪圏の国電は、東海道緩行線がスカイブルーで103系となっており、大阪環状線や桜島線、関西本線も含めて101系ばかり。大阪環状線にわずかながら103系が配置されていたことを知ったのは、それほど前のことではありません。まさか、そんな稀少な103系の大阪環状線が自分の写真に写っているとは思いもよりませんでした。
2024.06.19
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小田急電鉄 7000形LSE車:特急「はこね」(新塗装)※本記事は、2012-03-05に投稿したもので、当時の表現になっています。小田急電鉄7000形LSE車は、昭和55年、3000形SSE車を置き換える目的で誕生した、同社3代目となるロマンスカーです。洗練されたそのスタイルは、個人的には小田急電鉄の顔であったNSE車よりも好きでした。誕生から既に30年が経過。平成23年1月に4編成のうち1編成が廃車となりました。平成7年から平成9年に掛け、車両のリニューアル工事が実施されました。この際、既に誕生していた10000形HiSE車と同様のホワイトベースにワインレッドの塗装に改められました。これにはかなりガッカリしたものです。オリジナル塗装を1度も撮ったことがなかったからです。そしてまた転機が訪れます。平成19年、ロマンスカー50周年を記念し、4編成のうち1編成が復刻塗装としてよみがえります。オリジナルとは若干の相違がありますが、当時、撮影を全くしていなかったと私としては非常に喜んだものです。期間限定ということではありましたが、好評のうちに期間が延長され、現在に至っています。平成24年3月、他のHiSE、RSEが全廃になるとの情報の中で、先輩格であるLSEが残るのは皮肉と感じたものですが、ここで状況を覆すような発表がありました。それは、平成23年1月に廃車となった1編を除く3編成のうち、さらに1編成を廃車。ワインレッドトしても1編成のみとなった編成をオリジナル塗装化するということです。よって、10年強にわたって活躍したこのリニューアル塗装も、平成24年2月19日を最後に姿を消すこととなりました。平成20年1月5日 和泉多摩川駅にて平成20年1月26日 栢山~富水間にて 「はこね20号」平成20年1月26日 小田原駅にて 5000形とのすれ違い平成23年10月29日 登戸駅にて 「はこね11号」平成23年12月27日 参宮橋~南新宿間にて 「はこね2号」平成23年12月27日 南新宿~参宮橋間にて 「はこね15号」平成24年1月26日 南新宿~新宿間にて 「はこね2号」好きな塗装ではなかっただけに、あまり気合の入った撮り方になっていないのが残念なところです。それでも、フィルム時代にはまったく撮っていなかった形式だけに、押さえておいて良かった、という想いです。そして、最後に撮影のチャンスが訪れました。平成24年2月19日 開成~新松田間にて 「はこね6号」平成24年2月19日 渋沢~新松田間にて 「はこね19号」平成24年2月19日 新松田~渋沢間にて 「はこね20号」LSE旧塗装の最終日となった同日、撮影を組むことができました。
2024.06.18
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EF65501ほか牽引:快速「EL&SL奥利根」高崎のEL・DLが営業運転終了へD51498の車籍が復活したのは昭和63年12月、翌平成元年にはD51を使用した快速「SL奥利根」が運転されるようになりました。運転区間は上越線内の高崎~水上間となっていましたが、電気機関車の保存活動が活発な高崎区ではこの機関車たちを活用し、運転区間を上野~水上間として直通する快速「EL&SL奥利根」が運転されるようになりました。平成8年1月14日 EF5889+12系+EF6019のPP列車名がどうであったかは記憶にありませんが、上野~水上間を直通し、イベント色の高い臨時列車であったと記憶しています。その後の快速「EL&SL奥利根」の奔りとなった列車であったと思われます。ただし、これ以外にもEF551を使用して高崎でバトンタッチする列車もあったような気がしますが・・・。平成14年8月17日 EF6019牽引 くつろぎ塗装時代くつろぎ塗装時代のEF6019が牽引する快速「EL&SL奥利根」。結婚して板橋に8年間住み、蕨に舞い戻ってきてまだそれほど経っていない頃。架線柱の植替えをしている頃で、決して撮影に適したような場所ではありませんでした。平成19年10月7日 EF6019牽引 国鉄塗装復活国鉄シーン再現の風潮が全国的に流行しており、同機もこれにならって貨物標準色塗装となりました。平成20年5月5日 EF65501牽引この直前、全般検査を上がったばかりのPトップ。ピッカピカの状態での登板となり、ファンに感動を与えました。カッコ良さからその人気は不滅です。平成20年7月19日 EF65501牽引平成20年8月2日 EF6019牽引平成20年10月18日 EF641001牽引人気度合いからでしょうか、あまり登板の機会がないEF641001ですが、他の保存機温存のためか、登板の機会に恵まれました。PPの脇役が多い同機にとっては、滅多にあることのない表舞台に立ちました。平成20年10月25日 EF6019牽引平成20年11月2日 EF65501牽引平成20年11月3日 EF65501牽引平成20年8月2日 D51498牽引「SL奥利根」としての牽引機会も含め、同機の運転回数は数知れず。それでもオリジナルなスタイルの牽引が多く、快速「EL&SL奥利根」のヘッドマークを取り付けたのは非常に珍しいのではないでしょうか?この写真と同じ平成20年8月、高崎~水上間の運転となったSL列車については快速「SLみなかみ」の愛称となり、その後一時的にEL区間の運転が消滅しました。平成23年にEL運転が復活した際には快速「EL&SLみなかみ」として運転され、「EL&SL奥利根」の名称は消滅しています。
2024.06.17
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DD51牽引 旧型客車:快速「DL重連レトロみなかみ」高崎のEL・DLが営業運転終了へ「DL重連レトロみなかみ」は、関東ではなかなか見ることの出来ないDD51が、しかも重連で、さらに旧型客車を牽引と、話題性絶大な列車でした。当時としては単なるSL列車一辺倒から一歩はみ出した企画であり、これを撮らない訳にはいかんと思えるほど気合が入ったイベントだったのです。※撮影は、平成23年5月3日です。群馬総社~八木原間にてDD51842+DD51895が牽引する「DL重連レトロみなかみ」号。まずは無難な構図で。ヘッドマークは付いていません。この場所は20人くらいは居たようです。そして、渋川のバカ停を利用して追い越します。津久田~岩本間にて久し振りに来たので道を間違え、目的地に辿り着けず。比較的良いロケーションだったのですが、やや障害物があったり、編成が入らなかったり、痛し痒しでしょうか。しかも、引き過ぎて障害物衝突寸前の見られない構図になってしまいました。敷島~渋川間にて帰路は大正橋を狙ったのですが、黒山でした。50人は居たと思います。諦めて敷島方向へ。昔の記憶を頼りに、撮影地を探します。そして着いたのがここ、敷島~渋川のやや築堤。昔撮った場所とは違いますが、まあ、安直で無難といったところ。黄砂のお陰で非常に暗く、さらにポツポツと雨も降ってきました。渋川~八木原間にてお墓で撮ろうと思ったのですが、前にずかずかと邪魔者が2体乱入。仕方なく前へ出ると、菜の花畑発見。しかし、時間が無くなり、構図を選ぶ余裕が・・・何の脈略も無いような場所に居る邪魔者も居て、ポジションが決まりません。そうこうしているうちに来てしまいました。旧客を構図に入れようと粘っていたら、今度こそDDが電柱にぶつかってDDDになっちゃいました。(最初のDは電柱の意。)独身時代から結婚して初期くらいはしょっちゅう撮影に来ていましたが、20年近く来ない間にテツの様相が随分と変わってしまいました。クルマだらけで駐車スペースが無くなり、明らかなキャパオーバー。今で言うところのオーバーツーリズムですね。撮影地に集合するテツ達は巨大な三脚に脚立を持ち込み、まるでルール無用のクソ報道陣と同スタイル。どこに行っても昔には感じられなかった殺気にあふれ、とても同化する気にはなれず。その後、個人的には好きなC61が復活するも、こんな連中と写真を撮りたくないという気持ちになり、二度と訪れることは無くなりました。
2024.06.16
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381系:特急「やくも」特急「やくも」で定期の国鉄型特急車両として最後の活躍をしていた381系。令和6年3月のダイヤ改正には間に合わなかったようですが、2024年6月15日(土)、最後の定期運転となったようです。私にとって特急「やくも」と言えばキサシ180食堂車を連結したキハ181系のイメージが今でも色濃く残っており、特に結婚してからはあまり西の地域へ撮影に行くことも無くなってしまったため、381系「やくも」には無縁となっていました。平成22年に人生で初めて四国に上陸した際、瀬戸大橋を渡るついでに高松~岡山を往復し、1枚だけ381系を撮影する機会はあったのですが・・・。平成22年7月25日 岡山駅にて帰路の高松空港からの飛行機の関係で、岡山の滞在時間は1時間半くらいでした。離れたホームから発車して行く「やくも」を偶然捉えましたが、ご覧の構図が精一杯。岡山へ到着して直ぐに出会ったようで、到着ホームから移動を始める前でした。当時の記録を見ると、「この日は伯備線のダイヤが乱れていたらしく、特急「やくも」も狙い撃ちしている余裕はなかった」となっていました。おそらく、次の到着を待つ間もなく、快速「マリンライナー」の座席を確保するため、並んで待つしかなかったのではないかと思います。あれから10年以上の時が過ぎ、やっと置換えとなりましたが、その後は撮影に行きたいと思っていた気持ちとは裏腹に、その機会を作ることは全くできなかったようです。キハ181系:特急「やくも」(その1)
2024.06.15
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国鉄旧型客車:高崎線 普通列車地元で鉄道写真を撮り始めた昭和48年頃~53・10改正くらいの時代、高崎線客車列車の記憶というのは殆どないのですが、時刻表によると昭和53年10月改正まで、上下2往復の客車列車が設定されていたようです。53・10以降は朝の下りと夜の上りの1往復になってしまいます。昭和50年頃 蕨~西川口 高崎線 上り普通列車 2322レ当時の記録は全くありませんので、編成と時間帯からの推測になります。EF58が牽引する客車列車で、次位からマニ37+オユ10(非冷房)と続き、10系客車ばかりが連なった編成です。今でも目玉列車が走ると賑わうことがある自転車橋。この区間の西側は線路に沿って幅2mくらいの水路があり、線路との間には柵もありませんでした。この写真では、それまでは設置されていなかった有刺鉄線の簡易な柵が設けられ、川にはドロが投げられているようです。沿線の道路に下水道が整備され、雨水の排水路としての機能が不要となったため、この後徐々に埋められていくことになります。そして埋め立てられた水路は拡幅の道路用地となり、現在の姿に変わりました。短命であった10系客車とともに、失われた過去の光景です。昭和53年頃 蕨~西川口間にて EF5886牽引 高崎線 2322レ上の写真と同じ列車のようですが、10系客車だらけだった客車は先輩の古い客車だらけになってしまいました。カマの次位にはマニ37とオユ10?が連なっており、昼間の郵便対応を行っていたようです。昭和57年8月 大宮駅 EF58175牽引 下り 2321レ大宮駅8番線に到着した高崎行きの客車普通列車。早朝に設定されていた下り普通列車で、115系化直前は12系に置き換えられてしまったようです。この列車、早朝に上野駅を発車しますが、次々と名前を変え、最終的にはその日のうちに信越本線経由で新潟駅まで到達していました。最後まで客車列車で残っていたのは、信越本線系統の郵便輸送を担っていたためと思われます。昭和53年10月以降は1往復だけ残っていた高崎線の客車列車ですが、上越新幹線大宮暫定開業の昭和57年11月改正で115系化されてしまいました。
2024.06.14
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小田急電鉄 梅ヶ丘駅:複々線化過渡期小田急電鉄は、平成30年3月17日にダイヤ改正を実施することが発表され、複々線化工事を行っていた代々木上原~梅ヶ丘がダイヤ改正に先行し、平成30年3月3日から複々線での運転を実施するという内容のプレスも同時に発表されました。この区間は現場回りの仕事をしているときやロマンスカーの撮影などで何度か行き来したことがありますが、それほど違和感なく通過する程度でした。ある時、現場が梅ヶ丘駅近くで、初めて同駅を利用したわけですが、たまたま最後部の車両に乗っていたため、時間調整を兼ねて何か来ないかとホーム端へ行きました。すると、バリケードがあって行けなくなっていました。線路を見ると、本線から分岐してホーム途中から接する違和感のある造りになっていたため、記録としてこの部分の写真を撮っていました。※撮影は、平成23年4月22日、小田急電鉄梅ヶ丘駅にて。ホーム端まで3両分近くありそうな距離のところをバリケードで遮られています。なぜこれほど余裕があるのか分かりませんが、今後編成が長くなることを想定しているのでしょか?色々と撮りたかったのですが、通勤時間の終わり頃でスカスカでした。東日本大震災直後でもあり、本数が削減されていたのかもしれません。後で知ったのですが、この梅ヶ丘駅から小田原寄りが複々線になっていたんですね。普通列車はここからホーム側へ入り、通過列車はそのまま直進して急行線を走るようです。過去の様子を当時のブログ記事から確認すると、被災地応援から帰ってきて2週間くらいしか経っておらず、精神的なショックもピークになっていた頃のようです。そんな状況の中でも、記録に残る写真を撮っておいて良かったと思います。 ----------------------------------その後、改正前最後と思われる小田急線への訪問で、さらに改正直前の様子を見ることができました。※撮影は、平成30年2月17日、梅ヶ丘駅にて。久し振りに着地した梅ヶ丘駅下りホームの新宿方は相変わらず柵で仕切られ、ホーム端へは行けないようになっており、以前と印象は変わっていません。ちなみに、帰り掛けに上り線を確認したところ、停車線から本線への合流はポイント切替と出発信号が連動しており、閉鎖中の外側線へレールも繋がっていることから、取り敢えず切替工事は軽易に行うことができそうに感じました。ダイヤ改正告知ヘッドマークを掲出した3000形 3468小田急では、通勤形すべての編成にダイヤ改正告知のヘッドマークが掲出されています。通過列車と振替ポイント辺りの写真を撮ってみると、なんとなく違和感がありました。タブレットから過去ログの写真を確認したところ、どうも軌道内に変化が現れています。始めは残雪か?と思ったのですが、土嚢状にパラストか砂を詰めたものに置き換えたようです。バラストで固着してあると、ツルハシなどで掻き出さないと線路を動かせませんが、袋状にしてあれば袋を持ち上げれば容易に撤去・移動ができますので、なるほどよく考えているなぁと感心してしまいました。これも夜間の短時間で作業を完成させるための完璧な段取りなんですね。ホームへ侵入する各停3000形 3963前回は気が付かなかったのですが、前の写真を撮ったときに、ホームの縁石が無いのに気が付きました。ホームの途中から線路が合流するため、車体の接触防止の関係で縁石が未施工になっていたんですね。前回の訪問ではアングル的に写っていなかったので分からなかったようです。各駅停車の編成が8両のままであれば、現状のままでも支障がないことになりますが、将来的に10両編成に増強することになれば、この部分もいずれはきちんと施工されることになるでしょう。
2024.06.13
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京王電鉄 6000系:競馬場線※本記事は、2011-11-25に投稿したもので、当時の表現になっています。京王帝都電鉄で、名車5000系の跡を継いで誕生した20m級の通勤型電車6000系。4扉両開きは国鉄も含め大都市通勤型の標準スタイルであり、京王電鉄においてもかなり速いペースで置き換えられていったと記憶しています。しかし、5000系と比較してあまり魅力を感じないスタイルであったため、全く写真を撮ったこともありませんでした。そんな6000系でしたが、いよいよ置き換えが間近となり、現場回りの際に偶然にも運用確率の高い競馬場線の接続駅である東府中駅を利用する機会に恵まれたため、雨の中を撮影してきました。※撮影は、平成22年4月22日、東府中駅及び競馬場正門前までの区間にて。この日はラッキーにも復活塗装編成でした。最後の頃はさよならヘッドマークをつけての運転となっていましたが、残念ながら撮りに行く機会はありませんでした。
2024.06.12
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国鉄 旧型荷物車:マニ372020国鉄マニ37形荷物客車は、マニ36にパレット積載機能を追加した車両です。マニ36等の荷物車は殆どが茶色塗装でしたが、マニ37は青色塗装だったために大変目立つ存在でした。後年の急行列車には近代化された青い客車が優先して使用されていたため、塗装も編成に馴染むように青色にされたものと思われます。地元の夜行列車でも急行「越前」に常時連結されていました。急行「津軽」にも連結されていたという記録を良く目にしますが、何故か私が撮影した「津軽」はマニ36ばかりでした。昭和60年7月7日 東大宮操車場にて マニ372020団体企画列車(ミステリー列車)に乗り、東大宮操車場での撮影会の際に撮影したものです。荷物車を併結した夜行急行も新幹線の開業により次々と消滅。荷物輸送も廃止となり、既に運用から離脱し、廃車待ちになっていた車両だと思います。地元でも日常的に見られた形式のため、あまり個々の車両に着目して記録することはありませんでした。そんなこともあって、形式写真風に撮影したマニ37はこの1枚だけでした。形式消滅から30年以上が過ぎ、この時代になってKATOからマニ37が発売されました。単品ではこの写真と同じ形態のマニ372018で発売されたようですが、急行「妙高」セットではなんとマニ372020が製品化されていたようです。つい最近になって初めて知りました。
2024.06.11
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国鉄 外房線:大網駅前(昭和51年)あまり遠出をしたことが無かった小学生時代。たまたま同級生と訪れたことのある千葉方面で、たまたま大網駅を訪れたことがあります。真新しい駅とは対照的に、駅前に何もない風景は、武蔵野線の開業当初と似たような雰囲気がありました。大網駅がスイッチバックであった旧駅から移転して来たことを知ったのは、この写真を撮ってから随分と後のことでした。昭和51年2月15日 大網駅 上りホームから写真は上りホームから南側を撮影したものです。ま~~~~~~ったく、何もありません。その後も何度か通ったことはありますが、風景を良く見たことが無いので、どんな風に変わったでしょうか?
2024.06.10
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ED78牽引:12系お座敷客車「オク座」私がまだ教習所に通っていた頃、既に運転免許を持っていた高校時代の同級生たちと奥羽本線板谷峠に遠征しました。既に東北新幹線が開業していましたが、客車列車が残っていたこともあり、本数が少ないとはいえ注目の路線でした。他にも撮影した50系客車列車がありますが、今回は撮影当日に運転された尾久客車区所属の12系お座敷客車(通称オク座)の写真をご紹介いたします。昭和60年6月19日 奥羽本線にて ED78牽引 12系お座敷客車(オク座)ED78が牽引する12系お座敷客車で、上の写真が下り列車、下の写真が上り列車です。確か山形を往復して来たと記憶しています、これだけ遠目に俯瞰撮影していますので、残念ながら番号までは判りません。当時は景色重視で撮影していたので、このようなアングルの写真が多く見られます。今でこそ絶滅寸前の客車ですが、昭和末期は激減したといいつつも、ジョイフルトレインのみならず、まだまだ地域によっては客車列車がありました。国土地理院の地図を頼りに現地まで行っていますが、私が運転していた訳ではないので、どの辺りの区間か不明ですが、線形からおそらくは板谷~関根間ではないかと思われます。EF651049牽引 12系オク座:団体列車「与野市民号」蕨駅発 12系お座敷列車:「蕨市民号」
2024.06.09
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183系:特急「あやめ」「あやめ」は、昭和50年3月10日、成田線成田以東の全線電化により誕生した特急列車です。それまで、成田線の優等列車は急行「水郷」が気動車で運転されており、特急「あやめ」の誕生とともに電車化(153系・165系)されています。誕生当初から東京~鹿島神宮を結んでおり、4往復の設定となっていました。昭和57年11月のダイヤ改正からは、ペア設定されていた急行「鹿島」が廃止となり、格上げを合わせて1往復が増発、両国発着・新宿発着の列車が発生しています。昭和51年 錦糸町駅にておそらく、私が初めて撮影した特急「あやめ」。ポケットカメラで画像が悪かったため、モノクロ化しています。当初から「さざなみ」「わかしお」と共通の183系9連を使用していました。昭和52年 東京駅にて東京地下ホームにて、「わかしお」(手前)と並ぶ「あやめ」(奥)。当時はまだストロボが高価な機材であったため、地下駅のような暗いところで写真を撮ることは稀でした。一眼レフに変わり、スローシャッターの知識が付いてきた頃だと思います。昭和55年 佐倉駅にて53・10改正後ですので、ヘッドマークがイラスト化されています。本数が少なかったので、あまり写真を撮る機会がなく、たったコレだけでした。元々それほど需要のある線区ではなく、快速列車も走っており、とにかく乗車率の悪い特急列車でした。これは急行「鹿島」や「水郷」も例外ではありません。その後、鹿島線内の普通列車化、編成の短縮、さらには本数の削減と、衰退の一途です。183系1000番台の導入、E257系導入や派生名称の特急列車もあったりしましたが、定期としては平成27年3月ダイヤ改正により廃止となりました。
2024.06.08
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EF65501&EF641001牽引:臨時快速「レトロ横濱」2009年6月1日~8月31日に掛け、横浜・神奈川デスティネーションキャンペーンが実施されました。各種イベントや臨時列車が設定され、横浜界隈は盛り上がりました。私の住む地域にはまったく関係のない話ですが、出不精な生活の中で盛り上がったのは、臨時快速「レトロ横濱」の送り込み・返却回送が地元を通ったことです。回送では期待どおりヘッドマークを付けたままの状態となり、労せずしてその姿を捉えることが出来ました。平成21年6月7日 EF65501牽引 臨時快速「レトロ横濱」返却回送EF65牽引の旧型客車は違和感がありますが、やはりヘッドマークを付けたP型のデザインは秀逸ですね。この日の旧客は4両編成。平成21年6月27日 EF65501牽引 臨時快速「レトロ横濱」送込み回送今回の「レトロ横濱」は、EF65501+旧客7両+EF641001と、旧客編成としては最大を組んでいます。そして、戦前型のスハフ32と注目のオハニ36は敢えて中間に組むという凝った編成となっていました。平成21年6月28日 EF641001牽引 臨時快速「レトロ横濱」返却回送翌日の返却回送はあいにくの雨。暗いので正面がちに望遠でスピードを押さえたのですが、やはり先頭はブレてしまいました。でも、EF64の車体が茶色いお陰で雨の様子が良く映りましたね。最後部のEF65501の近くは、屋根に跳ねた雨の水しぶきが霧のように映ってくれました。
2024.06.07
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東武鉄道 クエ7001:凹型救援車私が高校生の頃、同級生の友人の影響もあって、何度か東武線の撮影に行ったことがあります。その内容は特急中心ではなく、どちらかと言えば最後の活躍をしていた7300系や7800系といった吊り掛け式の旧型電車でした。5700系元特急車も大変好きでしたね。一度だけ北春日部検車区を訪れたことがあるのですが、その際、国鉄で言うところのクモルみたいなのを見つけました。昭和56年6月6日 春日部電車区にて 留置中のクエ7001親ブログで記事にした際は形式等一切が判らなかったのですが、画像を拡大してみたらなんとか大雑把にも形式番号が読むことができ、資料を探しましたらズバリ当たるものが見つかりました。配給車だととばかり思っていたのですが、実は外見とは裏腹に救援車ということです。写真を撮った当時から、無蓋部分にシートが掛けっ放しなので変だとは思っていたのですが、ここには大きな機材が積んであるんでしょうね。言われれば納得というところ。写真では手前にクルマが沢山停まっていて判らないのですが、センターの床下には線路が何本もぶら下げてあります。この部分が見えていれば、もう少し早く察していたかもしれません。同車は、この写真を撮影後もしばらく残っていましたが、昭和61年3月に廃車となってしまったようです。
2024.06.06
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東京メトロ 02系:丸ノ内線丸ノ内線の代名詞であった500形が引退したのが平成7~8年に掛けて。ここに後継車として誕生したのが02系で、銀座線の01系に似たスタイルの銀色赤帯に変わりました。昔は地上露出の少ない地下鉄の写真など撮る気力もなく、旧型時代の銀座線や丸ノ内線の写真は一度も撮ったことはありませんでした。しかし、平成22年を過ぎた頃、車体更新を受けた02系が登場し、外観もちょっと変わってしまうということで、現場回りの際に少しだけ撮影したことがありました。平成22年5月25日 四ツ谷駅にてまだ更新車は殆どなかったようです。平成23年11月24日 南阿佐ヶ谷駅にてその後、全く撮影する機会が無く、この時に初めて更新車を捉えました。いずれは撮るチャンスがあるだろうと思っていましたが、現場の仕事が無くなって撮影の機会もなく。そして新車が導入されるようになり、更新はどうした?と思いましたが、なんと大人の事情で更新を中断、新車投入となったそうで・・・。あまり進捗しているようには思いませんでしたが、2023年中に残り1編成まで減り、絶滅寸前に至っているそうです。最近、運用から離脱していた最後の編成が運用に復活し話題になったもの、このような状況になっていることを初めて知りました。
2024.06.05
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京浜急行電鉄:梅屋敷駅(高架切替え過渡期)普段の生活では全く縁のない京浜急行電鉄ですが、外回りの仕事で何回か利用する機会がありました。誰かのブログを見て、駅からはみ出て停車する普通列車を見て興味が湧いた駅が梅屋敷駅であり、そのすぐ後に偶然にも同駅を利用する機会に恵まれました。※撮影は、平成23年7月8日、梅屋敷駅にて。京浜急行電鉄では、環8の踏切解消をメインとした京急蒲田駅の前後を高架化する工事が長年にわたり行われていました。同時に、羽田線の国道15号線の踏切も解消となります。この高架化は駅間の短い梅屋敷駅側も同時に行われており、高架完成によって実質的に品川~六郷土手の都内区間がすべて高架化されたことになります。※品川~北品川間が取り残された感がありますが・・・。高架化工事前の梅屋敷駅というのは全く記憶にないのですが、同駅は前後に踏切があるため、ホームの延伸ができなかったようです。私が同駅を訪れた時は、上り線が高架に切り替わっており、下り線のみが取り残された状態でした。下り線が完成した高架下を通っているため非常に撮影がしづらかったですね。先頭の2両がホームからはみ出ており、停車中は踏切を塞いでしまいます。ホームに掛かっている車両はドアが開いている状態ですが、ホームから外れる車両はドアを閉めたままにしており、転落防止措置が取られています。こちらは帰路、上り線を利用します。高架化前の駅舎から上り線ホームへ入り、さらに高架ホームへと階段で上ります。初めは「広いホームだなぁ」と思ったのですが、直ぐに異変に気が付きました。私が立っている位置は明らかに下り線路上であり、仮設の蓋掛けによって本来のホームとは反対側から乗車するようになっていました。おそらくは、反対側のホームへ上る階段側に改札が設けられないからでしょう。高架完成後はこの蓋が外され、フツーの駅の姿となりました。本当に偶然ではありましたが、切替過渡期の貴重な記録を残すことが出来ました。
2024.06.04
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211系:総武本線・成田線211系は、国鉄時代の昭和60年に誕生した近郊型電車です。それまで試験的なものを除いては鋼製車一色であった国鉄で、205系とともに本格的に導入を始めた、ステンレス時代のはしりとも言える立役者です。導入は、東海道本線(0番台及び2000番台)と東北・高崎線(1000番台及び3000番台)でしたが、平成19年3月、113系置き換え用として高崎地区の211系を房総地区に転用することになりました。転用にあたっては大幅な改造はされず、半自動ドアも生かされており、一部のクモハは2パンタ化されています。増設されたパンタグラフは201系の発生品が使用され、ひし形パンタとガチャパンになっていました。ちなみに、房総地区へ転用された211系は、既にLED化されていた前頭行き先表示を幕式に復元して使用されました。平成21年1月3日 成田線 佐倉駅にて クモハ211-3046平成21年1月3日 佐倉~物井間にて平成20年5月3日 総武本線 千葉駅にて 501編成平成20年5月3日 総武本線 物井~佐倉間にて積極的に撮りたい車両とは思っていなかったので、見たり乗ったりした割にはこんなもんしか撮っていませんでした。まだ転用が始まって間もない頃で、113系の運用が多かったこともあります。転用から間もなくして、京浜東北線の209系がE233系に置き換えとなり、あっさり廃車になるかと思われた209系が次々と房総地区へ転用され、まだ5年そこそこしか使用されていない211系は、また新たな活躍先へ旅立っていくことになりました。
2024.06.03
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伊豆急行電鉄:2100系 リゾート21伊豆急行電鉄2100系は、昭和60年7月に営業を開始した、当時の同社の目玉列車。それまでハワイアンブルーを基調とした100系・1000系を使用していましたが、100系の更新に当たってそれまでの方針を転換、ある意味、今までの常識を覆す普通列車用電車が誕生しました。当然、当時もかなり話題になっていました。伊豆にはそれほど訪れる機会は多くありませんでしたが、何とか撮れた車両もありましたのでご紹介いたします。平成8年10月27日 伊東駅付近にて 4次車バンパーの部分にちゃんと「Resort21EX」と書いてありますし、運転席・展望窓にピラーが無いので、明らかに4次車だと判別できます。現在は、2代目「黒船号」となっておりますので、今となっては誕生時の貴重な姿となります。平成8年10月27日 伊東駅付近にて 3次車バンパーの「Resort21」は同じ表記ですが、位置が微妙に違います。下の車輌は現在のようにスッキリとしたスカートですが、上の車輌はスカートの左右に一対の通風孔があります。晩年の姿は何れもスッキリとしたスカートになっており、スカート周りが改造(取替え?)されてしまったようです。運転台のパネルが運転席と助士席にまたがった一体型であること、戸袋窓が後方の客室窓側に寄っていることから3次車のようです。平成8年10月27日 伊東駅付近にて 1次車全面手すりの数の違い及び最大の特徴となる連結器カバーを擁するのは1次車です。写真ではオリジナル塗装ですが、その後初代「黒船号」となり、平成18年3月をもって廃車となっています。平成20年3月9日 網代駅にて 2次車これは唯一撮っていて2次車のようですね。平成21年5月末をもって引退となっています。バンパー部に「Resort21」の表示が無いのが気になります。平成20年3月9日 伊豆多賀~網代間にて 4次車 2代目黒船電車同日、ラッキーにも黒船電車を見ることができました。平成20年12月20日 熱海駅にて 3次車現存するリゾート21としては最古参になりますが、1・2次車が100系の部品を流用したのに対し、3次車からは完全新製車となっていますので、もうちょっと長持ちが期待できます。平成23年に100系風塗装にリニューアルされてしまい、このオリジナル塗装は消滅してしまいました。伊豆急行電鉄:100系電車
2024.06.02
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東武鉄道 6050系:快速・区間快速東武鉄道(伊勢崎線・日光線・鬼怒川線)で長らく運転されてきた無料速達列車である「快速」列車が、平成29年4月ダイヤ改正で消滅しました。通勤・通学が主たる輸送目的の私鉄の中においても、観光路線としての役割も高い東武鉄道では、他の私鉄では通勤車が共通使用されているのとは違い、専用車両とも言える2ドアクロスシート車が使用されていました。なお、0番台が東武、100番台が野岩鉄道、200番台が会津鉄道の所属となっています。前身の6000系電車から続く新性能車時代の快速列車も、50余年の歴史に幕を下ろすことになりました。平成22年8月26日 曳舟駅にて平成に入ってから東武鉄道の写真は2度ほど撮ったことがあるように記憶していますが、6050系は1度も撮ったことがありませんでした。これはデジカメを買ってから現場回りの仕事に持ち歩くようになり、初めて6050系を撮ったシーン。そびえるスカイツリーは未だ建設中で、展望台の辺りまでしか出来ていない。平成23年8月14日 業平橋~浅草間にてこれも現場回りで早めに現着し、スカイツリーの撮影をしていたときのもの。完成したように見えてしまいますが、展望台上に未だクレーンが1機残っています。平成24年5月5日 新古河~栗橋間にて 6174ほか6連 快速42レダブルパンタ車を3組組成した編成。その後ダブルパンタ車を期待しましたが、何故か相性が悪く、結局この1カットのみとなってしまいました。平成24年8月1日 新越谷駅にて 快速 61103ほか現場回りの乗り継ぎの際に撮影できたもの。平成27年5月6日 栗橋~新古河間にて 6252ほか 快速37レ平成27年5月6日 栗橋~新古河間にて 61102ほか 区間快速46レ平成29年3月12日 東武動物公園~杉戸高野台間にて 6159ほか 区間快速平成29年3月12日 東武動物公園~杉戸高野台間にて 6160ほか 区間快速平成29年3月12日 松原団地駅にて 6151ほか 区間快速平成29年3月25日 春日部駅にて 6259ほか 区間快速平成29年3月25日 春日部駅にて 6176ほか 区間快速平成29年3月25日 越谷駅にて 6163ほか 区間快速快速・区間快速廃止の情報を得て、ありがちな最後の悪あがき的撮影になりました。浅草口からの運用が撤退となり、一部の車両が余剰廃車になると共に、運用区間が南栗橋~日光・鬼怒川・会津方面へと短縮されました。さらに、系統分割された南栗橋以北に20000系改造の車両が転入したことで運用が激減し、2023年現在では会津鉄道所属の2編成4両とスカイツリートレイン634型のみとなってしまったそうです。東武鉄道 6000系・5700系:快速急行「だいや」
2024.06.01
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