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E653系勝田車:団体列車「リバイバルあいづ号」団体ツアー列車「リバイバルあいづ号」が走りました。E653系 リバイバルあいづ号(ツアー)(2026年5月23日) - 鉄道コム※撮影は、令和8年5月23日です。E653系 K70編成 団体列車「1日限りの特別急行「リバイバルあいづ」」 リバイバルという位置づけから、まあこちらの編成が来るだろうことは予測できます。 ここからサイドが見えませんが、満員御礼であることは間違いないでしょう。 せっかくだから、リバイバル風ヘッドマークでも作っても良いのではないですかね。上野東京ラインに近接しているので、スピードはやや抑え気味のようでした。帰路は夜間なので、完全無視しました。485系(T18編成):特急「あいづ」485系(非貫通型編):特急「あいづ」 485系(ボンネット型クハ編):特急「あいづ」485系(クロ481):特急「あいづ」 485系(あかべぇ):臨時特急「あいづ」485系:特急「ビバあいづ」
2026.07.31
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DD1611:臨時快速「旧型客車八ヶ岳号」JR東日本で最後まで残っていたDD1611ですが、令和3年12月24日付で廃車になってしまったそうです。殆ど出会ったことのないDD16なのですが、過去に金町のHさんからご提供いただいた飯山線臨時列車の写真を再編集によりアーカイブさせていただくことにいたしました。平成28年7月30日、小海線の中込—小淵沢間にDD1611が高崎車両センターの旧型客車3両を牽引して臨時快速「旧型客車八ヶ岳号」が運転されました。先般ご紹介いたしました飯山線と同様に、DD16が旧型客車を牽引するということで、多くのファンで賑わったそうです。有効長や牽引定数の関係か、客車は3両のみとコンパクトです。しかも運転日は1日だけと、コスト度外視の設定ですね。DD1611牽引:「パノラマ八ヶ岳号」JR東日本 DD16303牽引:チキ工臨JR東日本 DD1611牽引:チキ工臨国鉄 ディーゼル機関車:DD1620(大宮工場)
2026.07.30
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485系(あかべぇ):臨時特急「あいづ」平成15年10月改正を以って、特急「ビバあいづ」は普通列車扱いの快速列車に格下げされ、「あいづライナー」となります。455系による快速列車との差別化を図るため、グリーン席も設けた485系による運転を続きました。上野口に姿を見せなくなって久しい「あいづ」ですが、会津ディスティネーションに絡め、平成17年以降の夏季輸送に臨時特急「あいづ」が運転されるようになりました。平成17年は、その後東武直通専用となった「日光」「きぬがわ」用の485系(改造前のヘッドマーク付き)が運用されましたが、同編成が「日光」「きぬがわ」に転用されたことに伴ない、後任となったいわゆる「あかべこ」編成を使用し運転されました。なお、「あかべこ」編成が上野発着の臨時特急に使用されている間は、磐越西線内の「あいづライナー」に仙台運転所の583系が充当されました。平成19年9月29日 西川口~蕨間にて平成20年7月19日 西川口~蕨間にて平成20年7月20日 西川口~蕨間にて485系(あかべぇ)は平成21年度まで続いたようですが、段々と先細りになり、485系そのものの廃車等により消滅してしまいました。485系(非貫通型編):特急「あいづ」485系(ボンネット型クハ編):特急「あいづ」485系(クロ481):特急「あいづ」485系(あかべぇ):臨時特急「あいづ」485系:特急「ビバあいづ」485系(T18編成):特急「あいづ」
2023.04.12
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キハ52系・キハ58系:小海線小海線といえば、鉄道の中でも最も標高の高いところを走る高原鉄道としてあまりにも有名です。観光地を控えながらも、自分的には「良く廃止対象にならなかったな。」と思う路線のひとつです。その昔、私が小学生の頃は、長野から篠ノ井・中央東線・小海線を経由して長野の戻る急行「すわ」と、反対廻りで長野から信越本線・小海線・中央東線を経由して長野に戻る急行「のべやま」という一風変わった列車が走っており、関心はあったのですが、あまり訪れる機会はありませんでした。そして、昭和60年に友人のクルマでドライブに行くものの写真は全く撮っておらず、翌年の8月にDD16牽引の「パノラマ八ヶ岳号」なるものが走ることになったため、改めて同線を訪れています。昭和61年8月 小海線にて両勾配のある同線だけに、2エンジン車のキハ58やキハ52が活躍していたようで、列車が来るたびに、両形式が混合で連結されていました。キハ58は冷房車が投入されているにも拘らず、電源を供給するキハ28が連結されていないために冷房が使用できないようで、窓全開で走っていましたね。まあ高原列車ですから、新鮮な空気をいっぱいに吸い込んで旅するのも良いことでしょう。小海線には、ハイブリッド車が走るなど明るい話題も出ています。写真のような「国鉄」の油臭いディーゼルが走っていたのも遠い過去の話になってしまいそうです。せっかく訪れた小海線でしたが、なぜかこの時の撮影記録が全く無く、何処で何日に撮影したのかも判らず、入場券すら購入していません。暑かったかどうかまでも思い出せない、忘れられてしまった記憶の中の風景となってしまいました。※金町のH様の情報により、この撮影区間が佐久広瀬~信濃川上間であることが判りました。情報ありがとうございました。
2023.07.20
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団体企画列車 「オリエント・エクスプレス '88」(オリエント急行)昭和63年、フジテレビ開局30周年及びJRグループ発足1周年の記念事業として、各国政府及び鉄道各社(者)の協力により、パリ→東京間でORIENT EXPRESS'88(オリエント急行)が運行されました。(プロジェクトの正式名称は"HITACHIカルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88")東京に到着後は、日本全国を巡る団体列車という大規模な企画となりました。新聞や報道でも大々的に取り上げられ、一大ブームになっていたような記憶もあります。地方まで出掛けて撮ることはもちろんしませんでしたが、関東に来たときは何が何でも撮ろうという意気込みはあったように思います。昭和63年11月14日 栗橋~東鷲宮間にて EF651017牽引外国の列車が日本中を走って話題となった「オリエント急行」。外国規格の大型車両が日本を走れるとは思っても見ませんでした。様々な苦労があったようです。昭和63年12月6日 倉賀野~新町間にて EF651030牽引線路規格が違うので、船下ろしに際してTR47台車に履き替え、連結器が違うために片側にバッファー連結器を付けた控車でサンドイッチし、かなり長い期間に亘って日本を走りました。昭和63年12月23日 西川口~蕨間にて D51498+EF5861牽引中でも一番の話題となったのがD51が牽引を果たした「オリエント急行」。D51498の復活記念運転で、上野~高崎間をEF5861の補機付で運転されました。このように、普段の運転ではトップスターである61号機も、このときばかりは脇役に回りました。D51は上野~大宮のわずかな区間のみの運用となりましたが、夕刻の運転でさらに区間が短かったことから、報道の煽りも手伝って、沿線は大変な人出となりました。昭和63年12月24日 撮影区間不詳 EF5861牽引翌日の返し運転です。「オリエント急行」を捉えた最後の写真となりました。
2023.11.14
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東武鉄道 8000系:秩父直通特急「みつみね」東武鉄道では8000系が貴重になってきたこの頃ですが、東上線で8000系が当たり前だった時代、秩父鉄道への乗り入れ特急が運転されていました。東武東上線から秩父鉄道への歴史は長く、西武鉄道や国鉄からも乗り入れがあり、休日ともなれば秩父鉄道は他社線からの乗り入れ列車で賑わいました。しかし、モーターリゼーションや観光客の減少などもあり、40年前から比べれば乗り入れ需要もかなり衰退してしまったようです。全然気にもしていなかったのですが、平成4年3月をもって乗り入れ運転が廃止されてしまったそうです。昭和63年5月5日 武州日野~白久間にて 東武8000系 特急「みつみね」秩父鉄道にC58が走るようになり、初めて撮影に訪れた際、構図合わせ中に偶然撮影したものです。今までただの乗り入れ列車としての認識しかなく、スキャニングもしないままだったのですが、今回アルバムから見つけ出してスキャニングしたところ、種別窓に「特急みつみね」のマークを見つけて驚きました。撮影してから25年間も気が付かなかったのです。これよりさらに前は特急「ちちぶ」が運転されており、過去ログ『東武鉄道8000系:秩父直通特急「ちちぶ」』でご紹介しています。形状は進化しながら、板状の立派なヘッドマークを取り付けて運転されていましたが、昭和62年から種別幕内に愛称が用意され、回転幕に変更になったようです。秩父鉄道の経営悪化、ワンマン化などが乗り入れ廃止に繋がったものと考えられますが、これから高齢化社会が進むと自家用車需要も衰退し、バスも運転手不足に陥っている状況を考えると、鉄道の乗り入れ需要がまた復活するのでは?などと考えてしまいます。
2024.04.29
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301系:東西線の乗り入れ車両国鉄301系電車は、営団地下鉄東西線用の電車として昭和41年に誕生しています。ベースは103系となりますが、国鉄としては初のアルミニウム合金車体となり、さらに通勤型としては初の空気バネ台車を採用しています。※撮影は、平成15年5月3日です。東京メトロ東西線 行徳駅にて東京メトロ東西線 原木中山駅にて昔から301系の存在は知っており、興味のあった車輌ではありましたが、通勤型の車輌の写真を撮る習慣が無く、また、地下鉄という撮影の難さもあって、全く撮る機会はありませんでした。しかし、301系の全廃のニュースが流れると、身近に走っていながら1枚の写真も撮っていない悔しさもあって、最後の最後に慌てて撮りに行った次第です。平成15年8月のさよなら運転を最後に全廃となっていますが、1両の先頭車のみ現在も大宮総合車両センターで保存されています。平成19年5月26日 大宮総合車両センターにて。
2023.05.19
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455系:急行「まつしま」急行「まつしま」は、上野~仙台間を結んでいた昼行急行列車です。ただし、季節列車として夜行が1往復設定されています。全線が電化区間となっておりますので、定期・季節列車ともに455系電車が使用されており、臨時列車については客車も使用されていたことがあります。上野~仙台間は比較的に平坦線区となるため、勾配抑速ブレーキを搭載しない451系や453系が使用され、付属編成となる「ざおう」「ばんだい」に455系・457系が優先された運用が組まれていたということです。昭和54年 蕨~西川口間にて 「まつしま2号」こちらは列車番号が入っており、「まつしま2号」であることが判明しました。最後部2両はモハのファンデリアルーバーがないことから、457系ユニットとみられます。また、判りづらいですが、サロにグリーン帯が入っています。昭和56年頃? 南浦和~蕨間にて列車番号が不明なのですが、確率的に「まつしま」ということで整理しておきます。もしかしたら「あづま」や「なすの」だったりするかもしれません。先頭のクハのタイフォンは開放型で、続くモハユニットは455系になっています。昭和56年 西川口~蕨間にて 急行「まつしま7号」蕨駅南側の歩道橋の上から撮った写真です。貨物列車も最後の悪あがきの頃であり、今のマンションが立っている場所は「住友セメント」の工場でした。2本の留置線と1本の荷役線があり、既に閑散とはしていますが、タキ1900などが出入りし、専用のスイッチャーも2台配置されていました。※どんづまりにタキ1900と思われる車両が1両、雪まみれになっています。現在、写真の足場として使っている場所は元々が水路となっており、現状はこれに沿って一方通行の道路となっています。雪が積もっているだけで、いつもの景色が素朴な風景に映ります。雪が降ったら撮影に行く。そんな物心がついたのもこれが最初かもしれません。昭和56年1月5日 白坂~豊原間にて 急行「まつしま6号・ばんだい4号」母親の実家に行く際に、途中下車して撮影したものです。東北新幹線の開業前年であり、田舎とは言えどテキトーに立っていれば特急・急行がバンバン走ってくる時代でした。時期が時期で、貨物列車の写真が1枚も撮れていないのは今から思うと残念でしたね。後方には巻き上げた雪が僅かながら煙状に写り込みました。東北急行の最後の隆盛でした。昭和57年 南浦和~蕨間にて 「まつしま2号」こちらは東北新幹線開業間際くらいの写真だと思います。こちらも列車番号から「まつしま2号」であることが判明いたしました。昭和57年6月22日 貝田~越河間にて 「まつしま1号」特急「やまびこ」の最期を撮るために東北へ遠征してきたときのもの。珍しく福島以遠で撮ったため、「ばんだい」を外した6両編成の「まつしま」を記録することが出来ました。先頭は開放型タイフォンで、モハのルーバー形状から451系か453系と思われます。急行「まつしま」は東北・上越新幹線の大宮暫定開業後も生き延びましたが、上野開業となる昭和60年3月のダイヤ改正を以って消滅しました。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売
2023.04.14
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京成電鉄:青電2100形・210形京成電鉄2100形は、制御車の2100形と中間電動車の210形で全く生い立ちが異なります。電動車は戦前、制御車は戦後生まれとその生い立ちがややこしいため、ここでの説明は省略させていただきます。昭和47年から更新工事が行われ、他の3000系列と同じようなオデコ2灯のスタイルとなります。長らく京成電鉄らしい青電塗装を堅持していましたが、昭和55年からファイアーオレンジ化されることになります。以下の写真は、偶然にも撮影していたものと、塗色変更の情報を得て青電を撮るためにわざわざ撮影に行ったときのものです。21072109いずれも昭和54年、京成津田沼~京成幕張間にて撮影したものです。この頃は私鉄にも興味ありませんでしたし、まして通勤型には全然興味が無かったと思います。ただ、何故かこの古臭い青電塗装には興味があったようで、幕張電車区での撮影のついでで撮ったと記憶しています。現在は京成幕張本郷駅ができた辺りではないかと思われます。国鉄千葉駅前駅にて 2102塗装変更の情報を得て撮影に行ったときの写真です。この頃は青電編成のことを良く知らなかったのですが、5編成しかいなかったようですね。出会う回数が少なく、この時もやっと出会ったにもかかわらず、300mmレンズを付けていたために障害物を避けての構図が決まらず、こんな写真しか撮れずにガッカリしたものです。京成津田沼駅 車庫にて 2105帰り掛けの車庫で青電を見つけました。奥には既にファイアーオレンジ化された3100形と思われる車両も停まっていて、3色揃い踏みが記録出来ました。この後、ファイアーオレンジに塗装が変更されたようですが、最後まで残った2102編成は昭和63年のさよなら運転に際し青電塗装に戻されそうで、この列車の運転を以って2100形・210形は全廃となっています。
2023.10.02
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583系:快速「エキスポライナー」昭和60年に開催された「国際科学技術博覧会」(つくば万博)開催に伴うアクセス輸送に設定された臨時列車シリーズ。今回は、583系による快速「エキスポライナー」をご紹介いたします。昭和60年5月頃 与野駅にて多分、仕事中か明番の時に撮影したものと思われます。影の状態から朝方のようで、武蔵野線の短絡線を通って土浦方面へと向かいます。昭和60年8月25日 神立~高浜間にて東北本線での撮影を終えた足で、そのまま万博関連の列車を撮影に行った際に捉えたもの。つくば万博では、会場周辺の宿泊施設が極端に少なかったため、20系や583系による「エキスポドリーム号」としてホテル代用列車が設定されました。さらには、583系の昼寝運用の活用として、大宮~水戸のアクセスにも利用されており、お盆輸送のピーク時には向日町電車区の583系も動員されてましたが、残念ながらこちらはGETできませんでした。また、デジカメのなかった当時では夜間撮影にも限界があり、用意された「エキスポドリーム」のヘッドマークが記録できなかったのも残念です。EF8113牽引 20系客車:快速「エキスポライナー」EF80・EF81牽引 12系客車:快速「エキスポライナー」キハ58系:快速「エキスポライナー」401・403・415系:快速「エキスポライナー」国際科学技術博覧会(つくば万博)関連きっぷ
2025.09.01
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キハ58系:急行「おが」「おが」は、上野~秋田間を奥羽本線経由で結んでいた急行列車です。東北の昼行急行は、奥羽本線の全線電化開業後も気動車急行として存置され、他の急行「いいで」「ざおう」や「出羽」とも複雑な共通運用を組んでいました。昭和52年1月 大宮駅にて 急行「おが1号」こちらはキハ28800番台を先頭にした秋田行き急行「おが1号」です。まだ国鉄の塗装合理化が始まる前でしたので、修学旅行指定の解除後、一般運用に共通使用されていた頃もしばらくは修学旅行色のままでした。昭和52年というと、運用から外れたEF57を追って宇都宮運転所へ何度か出掛けたことがありましたので、電車待ちで偶然撮ったものと思いますが、運が良いと先頭に修学旅行色を見ることが出来ました。新幹線などまったく想像も付かなかった時代で、広々とした空を見ることができました。昭和55年7月23日 蕨~南浦和間にて 秋田行「おが1号」ブレちゃってます・・・。既に塗装合理化後であり、グリーン車の帯は消え、修学旅行色も消滅しています。こちらは冷房準備車となった後期のキハ58と思われますが、東北急行はグリーン車を除き、晩年まで非冷房車で大勢あったことも特筆されます。昭和57年1月4日 豊原~白坂間にて 秋田行「おが1号」東北・上越新幹線開業に伴う57・11改正を迎える晩年の頃の写真です。東北の気動車も多少の冷房化が進んできたのか、先頭車のキハ58冷房車となっています。中間にも2両並んで冷房車が連結されていますが、1両はグリーン車でしょうね。下りの「おが1号」は上野発が7時過ぎでしたので、撮影の時間帯は良かったのですが、夜行群の到着が終わった後の上り通勤時間帯となっていたため、撮影する機会が非常に少なかったですね。ヘッドマークが付いていれば、格段に撮影回数も上がっていたと思います。昭和51年11月に奥羽本線全線が電化したにも拘わらず、昭和57年11月のダイヤ改正前日までディーゼルのまま走っていた、架線の下の気動車急行の代表格であった列車と言えると思います。
2022.05.22
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国鉄 キハ35系:キハ35900番台かつて、国鉄型気動車の中でも一際目立つ存在であるはずだったキハ35900番台という車両がありました。平成28年11月12日 碓氷峠鉄道文化むらにて キハ35901ラッキーにも保存されているトップナンバー車。地方都市の非電化区間用における通勤形気動車として、昭和36年に製造が開始されたキハ30系(キハ35系)。気動車としては初となる、両開き3ドアでオールロングシート。非電化路線におけるドアステップの必要性から、外吊りドアを装備する特殊な外観となっていました。同系の誕生から約1年後、ボディーをステンレス製とした900番台が登場します。国鉄気動車としては初となる銀色の気動車となりました。昭和52年1月頃 大宮駅にて キハ35910シルバーボディーの900番台は、キハ35形のみ10両が登場しています。新製時はすべてが木更津に配置され、房総地区で活躍していました。ステンレス製としたのは房総地区での運用における塩害対策ですが、濃霧も良く多く起こる地域であるために、銀色無塗装の車両には視認性の問題が生じました。そのため、前面には警戒色の赤帯を入れることになってしまいました。房総地区の電化により活躍の場を失った大部分のキハ30系は、新たな活躍の地へと散らばって行くことになります。そのうち、シルバーボディーの900番台は、高崎第一機関区へ全車が集中配置されることになり、八高線や川越線で活躍することとなります。写真は、大宮駅における川越線で撮影したもので、ラストナンバーの910となります。大宮機関区から出庫してきた銀色のキハ35を初めて目にし、慌ててホームを追っ掛けて行ったことが思い出されます。昭和59年7月27日 川越線 南古谷~指扇間にて数年は銀色に警戒色のまま運用されていましたが、昭和52年頃から実施された塗装合理化に際し、何故か塗装不要な900番台も他の鋼製車と同様に朱色4号に塗装されることになってしまいました。気動車王国でひと際目立つ存在であった900番台は、他の鋼製車の中にすっかり溶け込んでしまいましたが、ボディや屋根の肩部に残されたコルゲートと、強度確保のために長く造られたドアレールカバーにその存在の主張を残していました。埼京線の開業と同時に川越線が電化となり、昭和61年頃に半数の900番台が廃車となり、さらに八高南線の電化で殆どの車両が廃車となります。キハ35904のみが生き延び、茅ケ崎に配置されて相模線で最後の活躍をしていましたが、平成7年11月にその運命を終えたそうです。
2024.01.04
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185系OM03編成:特急「あかぎ」JRになって永らく変化に乏しかったOM車でしたが、平成22年秋に185系いじりが始まります。強化スカートへの変更と同じころ、なんと湘南色に化けて登場します。それも急行塗装ではなく、80系湘南色という意表を突く出で立ちで登場しました。平成22年10月9日の新宿発着「草津」でお披露目デビューを行いましたが、その数日前から一般運用にも充当されるようになりました。平成22年10月17日 「あかぎ4号」平成22年12月12日 「あかぎ6号」平成23年2月6日 「あかぎ4号」平成24年3月3日 「あかぎ4号」平成24年5月27日 「あかぎ6号」平成24年6月2日 「あかぎ4号」特急車両に無理やり施工した80系塗はどうしても無理があるように見えますが、これが165系塗装だったらどうでしょうかね?自分的にポイントだったのはサロのグリーン帯。これはなかなか良いなと思いました。185系OM車:特急「あかぎ」(その1)185系OM車:特急「あかぎ」(その2)
2024.09.04
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101系:京浜東北線鉄道ファン誌のNo561(2008年1月号)とNo562(2008年2月号)で、「京浜東北線を駆け抜けた車両たち」と題して京浜東北線に使用された車両や時代背景など詳細に記された記事が載っております。この記事をお読みになった方はお判りと思いますが、京浜東北線にも都合3編成の101系が運用されていたことがあります。私も詳細については知らないのですが、昭和45年12月2日から運用開始され、昭和53年10月、現在の武蔵野線(新松戸~西船橋)延長開業による列車本数増に必要な車両として捻出されるまで、8年弱の期間に亘り京浜東北線を走っていたとのことです。昭和51年頃 南浦和~浦和間にてネガが露出不足のため、コントラストの欠ける寝ぼけた写真になってしまいました。原版は6×6の「リコーフレックス」という2眼レフで撮影したものです。夕方らしい上にレンズシャッター式なので、写真もブレブレな感じです。当時、103系の写真など全く撮る気の無い頃でしたので、おそらく、101系が来たことが判って慌てて撮ったものではないかと思われます。昭和52年 赤羽駅にて旧高架の赤羽駅です。おそらく・・・赤羽駅で特急列車を撮影した帰り、家に帰ろうとホームへ来たものの赤羽止まりに遭遇。しかもそいつが101系だったものだからたまらない。駅員さんがサボを回し始めたので、せっかくだからレアな幕の時に撮ってやれ!なんてシチュエーションだったのでしょうね。ネガから見つかった唯一のカラー写真であり、構図は悪いですが私的には大変貴重な1枚です。昭和53年頃 蕨駅にてこちらは最晩年の頃の写真と思われます。当時は、鉄道雑誌をお小遣いで買える頃ではなかったので、101系がなくなることも察知出来なかった筈です。おそらく、蕨駅で特急列車の写真を撮っているときに偶然来た101系を収めたのだと思います。時代的に判断して、この後間もなく武蔵野線用に1000番台化改造され転出していったものと思われます。103系 京浜東北線:クモハ103103系 京浜東北線:クハ103「京浜東北線」HM103系 京浜東北線:オレンジ色「京浜東北線」HM付き103系 京浜東北線:クハ103 ATCタイプ209系500番台:京浜東北線
2024.09.15
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特大貨物輸送貨車:シキ801マイクロエースから特大輸送貨車シキ801がリニューアル発売されます。初回生産がされた時、同じくシキ600と同時に発売されましたが、懐具合の都合でシキ600のみしか購入しておらず、その後も物欲が無くなってシキ801は再生産時にも購入しませんでした。ここ数年で貯金も溜まり、使う先もなくなったので、今回は予約してあります。到着を楽しみにしています。今回は、このシキ801の実物写真をご紹介します。シキ801は、昭和49年の製造、現在は日本通運が所有しています。平成23年8月20日 配8592レ平成24年12月15日 配8592レ大型変圧器の輸送は大体において平日が多く、残念ながら積荷有りは撮ったことがありません。以前は地元に配給スジが設定されており、土曜日の配給で回送されることが多く、今までで2度のチャンスに恵まれました。しかし、そのスジも数年前の改正から上下とも武蔵野線経由となってしまい、出会う機会もなくなってしまいました。
2024.07.11
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EF65牽引 コキ10000系:「北海ライナー」今でこそスタイリッシュな機関車が長大編成を牽いて高速で走る貨物列車に魅力を感じるファンは多いと思いますが、私が小中学生の頃は貨物列車と言えば黒い地味な貨車を古い茶色の機関車がモタモタと牽いて走る印象しかなく、それほど興味の対象ではありませんでした。そんな時代においても、唯一憧れの存在であったのが、青いコキ10000系の貨車を長く連ねて高速で走る北海道行の高速貨物「北海ライナー」でした。特に、「北海ライナー」は特急列車の牽引に優先的に充てられていたEF65PFが限定運用されていたのも、格好良さを感じた大きな理由であったと思います。この「北海ライナー」、地元では午後の良い時間帯に上下列車が走っていたため、目撃することも良くありました。昭和52年頃 EF651001牽引 上り「北海ライナー」当時は牽引機の情報など全くありませんので、何か別のものを撮影中に偶然捉えたものだと思います。今のようにデジタルで確認することは出来ませんから、写真で仕上がって来るまで牽引機のナンバーを確認することは殆どできません。当時もさぞかし喜んでいたと思います。それにしても、大動脈の主要列車でありながらコンテナが1個も載っていないというのは奇跡的な光景であったと思います。昭和52年頃 EF651001牽引 下り「北海ライナー」一方、こちらは下り列車です。同じような空色なので、もしかしたら同日なのかもしれません。前の写真とは対照的で、コンテナがほぼ満載のように見えます。昭和54年頃 蕨~南浦和間にて EF651017牽引 下り「北海ライナー」1017号機が牽引する下り「北海ライナー」です。昭和57年頃 蕨~南浦和間にて EF651028牽引 下り「北海ライナー」もう1枚見つかったので追加します。(2025.03.25)見える範囲では満載ですね。コキ10000系では、空気バネ台車等の使用により多くのエアを供給する必要があることから、東北本線ではPF形やED751000番台による牽引が固定されていました。現在は貨物列車は殆どがコンテナ列車となり、100km/hを超えて走るのが当たり前ですが、当時はコキ10000系だからこその芸当であり、子供心にもその速さ・長さには特急列車にも負けないくらいの魅力を感じていました。それが当たり前となり、そんなスピード感のある貨物列車しか残らなくなってしまう時代が来るとは、50年前には想像もつきませんでした。
2025.01.22
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EF58牽引 荷物列車:東海道・山陽編(その1)かつては日本全国に走っていた荷物列車。道路網の整備によりその需要は自動車にとって代わり、国鉄時代の昭和60年くらいにごく少数の特例を除き廃止されてしまいました。ブログの引っ越しですべてがクリアになってしまいましたので、一からの再編集ということで、今回はEF58が牽引する荷物列車をアーカイブしていこうと思います。撮影枚数がそれなりにあることから、時系列順に3部作になります。まずは昭和50年代前半分から。昭和52年頃 品川駅にて 荷35レ EF5846+EF581牽引品川駅横で出発を待つEF58重連による荷物列車。15両編成で重量換算も最大であったため、重連が組まれていたそうで、当時はかなり有名な列車であったようです。昭和52年3月30日 名古屋駅にて EF5860牽引友人の田舎に招待され、中学時代の鉄友たちと347Mで名古屋へ行きました。食べ盛りですから腹がすき過ぎ、ホームのきしめん店でまっていると、ぬるいけれぞ良ければと開店前から食べさせてもらいました。すると、当時も東京ではなかなか見ることのできなかった茶ガマの60号機が牽引する荷物列車が到着したため、急いで食べて東京寄りから大阪よりまでホームをダッシュし撮影したものです。昭和53年8月5日 根府川にて EF58100牽引これも友人たちと初めて東海道で撮った走行写真デビューの時。当時は中古の一眼レフでしたが広角レンズしかもっておらず、残念な写真が多い。昭和54年5月 品川駅にて 荷37レ? EF58164牽引単機なのでおそらくの列車番号です。影の状態から夕方頃の写真と思われます。昭和54年5月 品川駅にて EF58167牽引編成が明らかに違うので、撮影時間帯も異なると思われます。総武快速線が品川駅まで到達し、貨物線もずれているようで、これは初めて総武快速線(現横須賀線)ホームから撮影したようです。昭和54年12月 浜川崎駅にて EF5836牽引鶴見線・南武線浜川崎支線の写真を撮りに行ったとき、偶然に通り掛かった荷物列車の写真を撮ったもの。当時は既に7枚窓の特徴的な36号機の存在を知っていたと記憶しており、気付いて慌てて撮影した思い出の写真です。こうして年次で並べてみると、昭和53年くらいまでは茶色のマニ36やマニ60を中心に組成しており、そこに少量の郵便車や銀色のマニ40やワキ8000を組み込んでいる感じですが、マニ50の量産と共に、徐々に置き換わっている様子がわかります。(その2につづく)
2022.03.31
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EF62牽引:急行「越前」令和6年3月16日、北陸新幹線が延伸開業され、東京~福井間が1本で繋がりました。東京から北陸へ行く場合、富山・金沢へは信越本線~北陸本線経由が一般的でしたが、福井は微妙な位置にあり、距離的には信越本線経由が微妙に近いものの、時間的には東海道新幹線~北陸本線経由が有利でした。北陸新幹線など影も形もなかった時代、唯一福井へ直通する夜行急行がありました。「越前」は、上野から信越本線経由で福井まで運転された、北陸急行の中では1番距離の長い夜行急行でした。編成は、荷物車、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車自由席で、普通車指定席は連結されていません。途中直江津まではEF62が牽引しています。「越前」は夜行列車でしたが、上野着が7:05と比較的ゆっくり到着するため、冬期においても上野口での撮影が可能な列車でした。特徴としては、私の知る限り近代化更新後の旧型客車で統一されており、荷物車もパレット積み対応のマニ37(青)で、EF62の前面警戒色以外すべて青で統一されていたイメージがあります。昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて EF6223牽引 上り「越前」昭和57年5月頃 浦和~南浦和間にて EF6222牽引 上り「越前」昭和57年11月13日 上野駅にて EF6237牽引 上り「越前」到着昭和57年11月14日 大宮駅にて 上り「越前」到着この区間において、定期列車でEF62を見るとことが出来たのがこの「越前」と夜行急行「妙高」のみでしたが、「妙高」は駅撮りも出来ないほど早朝の到着時間であったため、実質的に写真に撮ることが出来たのはこの「越前」だけでした。「越前」は上野~福井間を信越本線経由で設定されていましたが、昭和57年11月の上越新幹線開業時に上越線経由であった「能登」の廃止により、運転区間を金沢で打ち切りされた挙句に愛称まで乗っ取られてしまうことになります。やはり、福井県に入らない列車名に「越前」を使用することは出来なかったのでしょう。この上り「越前」は、臨時運用のカマの送り込みスジとして使用されていたそうで、EF62同士やEF58との重連運用が生じることが多かったそうです。しかし、当時はそのような情報を知る由もなく、私は一度も見ることができませんでした。EF58・EF64牽引:急行「能登」(旧型客車時代)489系:急行「能登」
2024.03.17
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キハ20系:キハ52156(国鉄時代)キハ52形気動車は、キハ20系に属する両運型の単車で、キハ20の1エンジンに対し、2エンジンを搭載した強馬力型の気動車です。昭和50年代前半、旧型の10系気動車を置き換えるためにキハ40系列が新製されるようになると、さらに新旧交代は20系気動車にまで及ぶようになってきました。キハ22が多かった北海道では交代が緩やかでしたが、本州や九州ではかなりのスピードで世代交代が行われ、1エンジンのキハ20、25、キハユニ26はあっという間に淘汰されてしまった感がありました。一方、2エンジンで誕生したキハ52は、両運型で強馬力であったためか使い勝手が良かったようで重宝され、最後の車両は平成23年まで長きにわたって活躍しました。昭和57年8月8日 富山駅にて キハ52156?富山港線の撮影の際、側線に停まっていたキハ52を何気に撮影していたものです。当時は既にかなりの20系気動車が廃車になってきていましたので、希少性に気が付いていたと思います。しかし、この首都圏色は好きではありませんでした。スキャニング画像を大きくして確認したところ、どうも車番が156に見えます。当時、富山機関区の所属であり、高山本線やその支線に使用されていたようです。そしてなんとこの156号は、JR化後も西日本に残り、さらに冷房化の上最後まで大糸線に残っていた車両なんですね。これには驚きました。大糸線に残った冷房化後の同車に出会ったことは残念ながらありませんが、さらに驚くことに糸魚川で保存されているということです。個人的にはあまり記録の残っていないキハ52ですが、保存車の原形時代の記録できていて嬉しく思います。
2025.06.15
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209系1000番台:常磐緩行線※本記事は、2018-09-21に投稿したもので、当時の表現になっています。常磐緩行線と東京メトロ千代田線を走る209系1000番台。平成30年10月13日を最後に常磐緩行線・千代田線から撤退することになり、9月下旬よりさようならヘッドマークの取り付けを行っているという情報が入ってきました。209系1000番台は、信号装置の変更に伴う増発により不足する編成を増備するため、平成11年12月ダイヤ改正より10両編成2本のみが導入されました。当時から207系900番台とともに編成数の少ないレア車種として活躍してきましたが、その存在は地味でした。今般、中央快速線へのグリーン車導入に伴う不足車両を充足すると思われる転属ということで、常磐緩行線・千代田線からの撤退となり、先に大宮総合車両センターに入場していたマト81編成では既にオレンジ色の帯を装備した209系1000番台の情報も上がっているようです。平成19年7月30日 北小金駅にて マト82編成ポケモンスタンプラリーで移動の際、新松戸から乗ったのがこの編成でした。平成20年8月9日 新松戸駅にて マト82編成撮影会に行く途中に撮影したマト82編成。この時もこれに乗って移動しています。車内の形式表示も撮っていました。何故か末尾の「2」だけ新しく浮いている感じ?平成20年9月22日 松戸駅にて マト82編成平成20年9月22日 亀有駅にて マト82編成常磐緩行線内におけるEast-i検測を追っ掛けた際に撮影したもの。平成21年12月5日 松戸~金町間にて マト81編成これは207系900番代のさよなら運転撮影の際にキャッチしたもの。入庫回送のようです。平成24年11月20日 金町駅にて マト81編成現場回りの際、時間調整中に撮影したもの。レア種は既にこの209系1000番代のみとなっていました。平成30年2月17日 代々木上原駅にて マト82編成久し振りに撮った209系1000番台。小田急線への撮影に行った際、ちょうどやって来ました。JR車の小田急線内乗り入れが始まりましたが、209系1000番台には乗り入れ改造を施行しなかったため、乗り入れ禁止となりました。これを示す「E」が認識標として正面貫通扉窓下部に貼付されました。レア種の割に乗車機会があり、撮影枚数も比較的にありました。しかし、全てついでに撮影したものばかりで気合いは入っていません。転出先となる中央快速線では、E233系オンリーの中にかなりのレア感を醸し出すことになりますが、期間は数年間に限定され、使用後は転出先もおそらくはなくなってしまうでしょうから、その時点で引退・廃車の運命になると思われます。209系1000番台:中央快速線
2025.06.23
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EF81牽引:寝台特急「鳥海」長らく上野~秋田間の夜行急行として活躍していた「鳥海」ですが、昭和57年11月、上越新幹線の大宮暫定開業により廃止となってしまいました。同時に、急行「鳥海」と同じ区間・経由で寝台特急「出羽」が誕生しています。「出羽」は、それまで気動車急行として東北・奥羽・陸羽西線経由で上野~酒田間を結んでおり、経由の変更・行先の延長のような記述も見られますが、経由区間からもまったく別物でした。一方で、上越新幹線の大宮暫定開業という性格上、秋田方面へは大宮・新潟の2回乗換えと不便が生じるため、青森直通であった「いなほ」は名称を「鳥海」に改めて存続することになり、ここに初めて電車特急「鳥海」が誕生することになります。昭和60年3月、東北・上越新幹線が上野まで開業し、都心新幹線網が確立することになると、乗換え不便対策として残した「鳥海」も廃止されることになります。それでも臨時特急として暫く残ることになり、多客期には485系「鳥海」の活躍を見ることができました。そしてまた転換期が訪れます。奥羽本線の山形新幹線開業に向けた改軌工事により、同線を経由する「あけぼの」が福島~山形間を走行することができなくなってしまったため、陸羽東線経由に変更となります。さらに同線は単線運転であるため、夜間に複数の「あけぼの」を交錯させることが困難なことから、1往復を上越・羽越線経由に変更することになりました。ここに寝台特急「鳥海」が誕生することになりました。平成4年8月18日 奥羽本線 八郎潟~鯉川間にて寝台特急として改めて誕生した夜行列車「鳥海」は、上野~新津間をEF641000番台、長岡~青森間をEF81が牽引することになり、奇しくもその後の「あけぼの」と全く同じ運行形態だったわけですね。写真の編成は、ローズピンク時代のひさし付きEF81が牽引し、カヤ24を含むオール24系寝台で、ブルトレ末期には見ることのできない、大変美しい編成でした。この当時は、「あけぼの」や「出羽」でもこのような美しい編成を見ることができましたね。新幹線の需用定着により夜行列車の需用も低迷し、平成5年12月をもって寝台特急「出羽」は「鳥海」に統合される形で廃止となり、さらに、秋田新幹線工事で行き場を失った「あけぼの」が「鳥海」のスジを奪う形になり、「鳥海」の名称は消滅することとなりました。EF81138牽引 24系寝台客車:団体列車「鳥海」
2025.08.18
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DD51原色:寝台特急「カシオペア」(展示車)令和7年、とうとう引退となってしまった「カシオペア」。定期「カシオペア」時代。函館~札幌間の牽引機は、平成11年の運転開始以来、一貫してDD51型が重連で牽引にあたりました。「北斗星」は運転開始初期にDD51型原色が牽引しましたが、直ぐに北斗星色に塗り替えられてしまったため、後発の「カシオペア」の牽引は北斗星色のみとなっています。したがって、原色のDD51に「カシオペア」のヘッドマークが付くのはイベントに限られました。平成22年11月20日 DD51888平成24年11月10日 DD51842いずれも「尾久ふれあい鉄道フェスティバル」における展示です。DD51は高崎のものですから、当然にして「カシオペア」を牽く機会はありません。考えてみれば、私が最後に北海道へ行ったのが平成5年ですから、まだ「カシオペア」という列車自体が存在していません。よって、DD51牽引の「カシオペア」は実物さえ見たことが無い訳です。鉄道誌などで見慣れてしまったため、新鮮さの感じられないDD51牽引「カシオペア」ですが、終わってみればこの架空の姿しか記録に残っていないというのも非常に残念です。
2025.10.29
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24系寝台客車:マニ24500番台寝台特急「北斗星」用の客車シリーズで、今回はマニ24500番台です。オハネフ24500番台と同様に、「北斗星3・4号」の定期化に合わせて不足する電源車確保のため、なんと異形式であるマニ50に電源セットを搭載するという荒業で誕生したのがマニ24500番台です。種車が普通の荷物車であったため、寝台車両とは大きく断面が異なるのが特徴で、外観の大幅な違いから屋根にキセを載せて合わせるという、これまた荒業を使っています。ちなみに、発電セットの搬出入のために屋根を開口してあり、あの大袈裟な屋根板はカバーを兼ねているそうです。JR東日本・北海道で各1両ずつを改造し、東日本が501(←マニ502048)、北海道が502(←マニ502070)となっています。種車がマニ50であることから、24系の中では車体長が一番長い電源車となっていました。平成20年1月14日 EF8198牽引 「北斗星2号」まだデジカメを購入したばかりの頃で、ネガやポジも使用しており、これはリバーサルフィルムで撮影したものです。この時点で「北斗星」は2往復体制に縮小されており、既に501は廃車になっていました。平成20年2月10日 EF8178牽引 「北斗星2号」こちらも上りの2号で、機関車の次位がマニ24502となっています。2往復時代晩年でしたが、特にこれらの車両に着目していなかったので、こんな形でしか記録することが出来ていませんでした。デジカメを便利に使っている現在であればもう少ししっかり撮っていたかもしれませんが、当時持っていたデジカメではまだ信用が持てなかったこともあり、地元での撮影も消極的でした。ブルトレでは、14系⇔24系間の異形式改造は多くありましたが、完全な異形式からの改造では20系時代初期のマヤ20くらいしか記憶になく、平成の時代になって同じような改造車が誕生するとは思ってもみませんでした。
2026.02.12
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キハ813(交通科学館時代)日本初の特急形気動車として登場したキハ80系。先頭車は、先に登場した151系特急形電車に通ずるデザインのボンネット形のキハ81として、6両が誕生しています。東北特急「はつかり」に使用され、電化やキハ181系の登場により「つばさ」「いなほ」へと活躍の場を移します。「いなほ」の時代は間合い運用で「ひたち」にも使用されました。羽越本線の全線電化により東北地方から撤退することになり、紀勢本線の「くろしお」が最期の活躍の場となりました。そして、紀勢本線の新宮電化においてキハ81は全廃となり、解体を免れた1両が交通科学館に保存されていました。平成14年3月31日 交通科学館にて キハ81-3 交通科学館にて義従姉妹の結婚式で奈良にお呼ばれした帰路、大阪に一泊し初めて交通科学館を訪問しました。1度だけキハ81「くろしお」を撮るチャンスがあったのですが、その日に限って両先頭ともキハ82であったため、結局は記録に残すことができず。昭和47年頃に地元で良く見ていた「いなほ」以来の再会でした。ヘッドマークが本物じゃないのでちょっとカッコ悪いですね。鉄道科学館では屋外展示なので劣化の進みが早く、この後屋根が設置されたようです。そして、平成26年から京都鉄道博物館に展示されています。キハ82系:特急「くろしお」国鉄 381系:特急「くろしお」
2022.05.29
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455系:急行「あづま」「あづま」は、上野~福島間を結んでいた急行列車です。東北本線の急行列車は行先によって名称を使い分けていましたが、「あづま」の夜行列車については、福島から各駅停車となり、仙台まで足を伸ばしています。急行列車区間としては、上野~福島間を結んでいた急行列車と言って良いでしょう。急行「あづま」は下りが夜発夜着の1号と、夜行列車の3号となっており、上りも4号が夜行列車であることから、撮影可能時間帯の列車としては、上りの「2号」だけとなります。その分、大変撮影しにくい列車であったといえます。また、途中の郡山~上野間は、会津若松からの急行「ばんだい2号」を併結していました。昭和57年1月4日 白坂~豊原間にて 急行「あづま2号」「ばんだい2号」フィルムスキャナをもらってからは大きく画像を観察することができるようになり、列車番号札の表示されていた時代の列車は判別が可能となりました。この写真の列車番号を当時の時刻表で確認したところ、上りの「あづま2号」「ばんだい2号」」であることが判明したと言う訳です。福島にED71を撮りに行った時にも夜行利用したことのある列車でしたので、東北本線の急行の中でも一番地味な列車ではありましたが、思い出深い列車名でもありました。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売
2023.03.12
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国鉄貨車 ホキ2200形:ホッパー貨車ホキ2200形貨車は、国鉄時代の昭和41年に登場した粉粒体農産物を輸送するために登場した貨車です。ホキ2200の登場により、それまで穀物等の原材料輸送は袋詰めで行われていたようですが、効率性からバラ積みできるようになりました。積荷の比重が軽いことから建築限界をいっぱいに利用した卵型の断面となり、ホッパー内の温度上昇を防止するために塗装をクリーム色に、さらに遮熱板を取り付けた独特のスタイルとなっていました。主にビール用の大麦輸送などに使用され、その汎用性から全国各地で見ることができました。また、黒やとび色で占められる貨物列車の中でも、クリーム色の車体が大変良いアクセントとなっていました。ホキ2200は、KATOの中でもかなり昔に製品化されており、古参の貨車となっています。我が家の在庫には2種類のナンバーがあり、商品番号・ケース形状・インサートは全く同一ですが、左側がオホキ13008、右側がホキ12580となっています。現在の同社HPの見本がホキ12580であることから、左のオホキ13008が再生産前の車両であると思われます。台枠・手すりの色調は同一ですが、ホッパー本体の色味が違っており、以前の車両は色が抜けた感じで台枠その他の色調とズレがあります。ホキ2200に関しては車両延長が大きいため、「オホキ」の表記が正しいものであり、12580はエラー品となります。HPの見本もそのままであり、20年以上もこのエラーのまま放置されているのも酷いですね。昨今、この手のエラーに厳しい消費者ですが、この点について騒ぎになっていないのは不思議な気がします。ハンプから散転されるホキ2200私が居た大宮操車場おいても、見ない日は無いと言うくらいメジャーな貨車でした。1両単位で運用されているものもあれば、3~7両程度を従えているものなど、模型運転ではどのような組成でもバリエーションに違和感はありません。昭和56年3月13日 新得~落合間にて操車場ではバラバラに分解され再組成されますので、どんな編成に仕立ててもOKです。昭和60年8月25日 栗橋~古河間にて昭和60年10月頃 蓮田~東大宮間にて59・2貨物大合理化後は、ほぼ専用貨物のような編成になったようですので、こんなのも良いかもしれません。ここでちょっと豆知識・・・ホキ2200って、動き出すと鈴のような音が聞こえるのって知ってますか?ホキ2200は、TR211(←初期車はTR207から改造)というコロ軸受けの性能の良い台車を履いていました。貨車はその目的から、ドアやアオリ戸などの可動部分が多く、走行すると何かしら音を発します。ガタガタと。しかし、ホキ2200に関しては、人が歩くくらいのスピードでは、まったくと言って良いくらい、音がしないのです。その代わり、ゆっくり動き出すと「シャリ~~~~ン・・・・・シャリ~~~~・・・・」と聞こえてくるのです。ソリの鈴の音がゆっくりとなる感じをイメージしてください。このことに関しては、ネットで調べるも触れているものが見つかりません。なので想像になってしまいますが・・・台車性能が良く、しかもガタつく構造がないので、無音のまま低速で転動してしまっても気づきづらい。このことは、激突や脱線、死傷事故にも繋がり兼ねないため、車軸に何らかの音の出る装置を添架している。ということではないかと思います。確かに、夜の入れ替えでは他の番線の入れ替えが終わったとたん、静寂になります。この「シャリ~~~~ン・・・・・シャリ~~~~ン・・・・・」の音を頼りに仕事をしていたシーンは何回もありました。通常の運転速度だとこの音は聞こえなくなります。周りの貨車の音に掻き消されてか、遠心力がかかって鳴らなくなってしまう、と言った理由だと思います。まあ、今となっては検証のしようもありません。模型でも再現してみたいギミックですが、さすがに1/150の世界では無理でしょう。ともかく、模型で貨物列車を再現するなら、是非活用していただきたい貨車です。ちなみに、同類の私有貨車でホキ9800という貨車も結構見掛けました。キリンビールだったと思いますが、少し角張っていて、台車も古いタイプのものでした。鈴の音も聞こえなかったと思います。
2023.08.21
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185系:特急「水上」上野~水上間の優等列車の歴史を見ると、それまで準急であった「奥利根」が昭和41年に急行列車に格上げ、昭和43年に急行「ゆけむり」に名称が変更されています。昭和57年11月、上越新幹線が大宮暫定開業となり、185系を使用した列車が新特急「谷川」として運転を始め、急行「ゆけむり」は上越新幹線上野開業となる昭和60年3月に全て新特急「谷川」に吸収されます。JR化後もしばらくはこのまま推移しますが、平成9年、上越新幹線に「たにがわ」として名称を譲ることになり、新特急「水上」という愛称が誕生することになります。さらに平成14年、新特急の種別廃止により、特急「水上」となりました。平成20年8月22日 水上駅構内にて 特急「水上5号」こうした列車はそれまで殆ど撮ったことがなかったですが、デジカメを購入したことで撮る機会が増えました。平成22年1月16日 特急「水上1号」「水上」は、臨時を除き全て「草津」と併結運転となっており、上野口の特急列車としてはもっとも長い14連での運転となっていました。※以前は単独の編成があった模様。平成22年1月23日 特急「水上2号」・「草津2号」この頃からスカートの形状が変更された車両が登場します。あまり興味を持っていませんでしたが、旧スカート形状としては最後に撮影した「水上」です。平成22年9月26日 特急「水上2号」・「草津2号」185系に湘南色の塗装変更車が誕生し、「水上」にも充当されるようになります。この頃になると、旧スカート装備車は姿を消したようです。平成22年10月3日 特急「水上4号」・「草津4号」こちらも湘南色を含んだ編成です。次のダイヤ改正で「水上」の臨時化が発表されたため、結構撮りに行っていたようです。平成22年12月11日 特急「水上1号」・「草津1号」平成22年12月改正において、乗車率が良くないことを理由として、土休のみ運転する臨時列車に格下げされました。しかし、ここ地元では運行形態は全く同じで、土休のみ「水上」が表示され、平日は「草津」を表示して新前橋まで併結される14連は変わりませんでした。平成23年2月6日 特急「水上3号」・「草津3号」OMの185系は、冬場になると連結器にカバーがかけられるのが特徴です。平成24年2月、その利用の悪さから土休運転もなくなり、多客期のみの運転となります。これに合わせて「草津」との併結運転も解消され、14連の姿を見ることも出来なくなってしまいました。651系:臨時特急「水上」185系:新特急「谷川」
2023.12.29
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国鉄 50系客車:スユニ50(山陰本線)国鉄50系に属する郵便・荷物合造客車であるスユニ50。老朽化した旧型合造客車のスユニ60などの置換えを目的とし、昭和53~58年に掛けて80両が製造されました。本州用の0番台と北海道用の500番台があり、0番台は電気暖房対応の2000番台としています。登場時、殆どが地方幹線のローカル運用などに使用されていたため、地元で見ることはまずありませんでした。地方での客車列車の撮影などにも良く出掛けましたが、本線運用では旧型荷物車も現役であり、マニ50やオユなどの使用が多く、合造車であるスユニ50は滅多にお目に掛かることはありませんでした。平成59年2月12日 出雲市駅?にて宿が見つからずに益田駅で駅寝し、始発列車で出雲市駅へ。その際にホームに停車していた上り普通客車列車を撮影したものと記憶しています。早朝の山陰はことのほか寒く、DD51に牽引される旧型客車4両と、最後部に連結されたスユニ50からは蒸気暖房のスチームが立ち上っていました。当時は珍しい光景でもなんでもなかったのですが、東日本では殆どが電気暖房対応となっており、このようなスチームを吐き出す姿をなかなか見ることがありませんので、思わずシャッターを切りました。そのような偶然で記録されたスユニ50形客車で、これ以外には形式的に撮影したものはありません。この約2年後の昭和61年、荷物列車が全廃となったためにこれら荷物客車はお役御免となり、最短ではわずか3年で生涯を終えた車両がいたことになります。KATOから夜行普通列車「山陰」が発売となるようです。9両セットで2.5万円とはかなり高価な設定となっており、鉄道模型のインフレ化が止まりません。個人的にはこの「山陰」にも1.5往復乗車経験があり、そのうちの初めて乗車した時は旧客による編成となっていました。正しくこのセットの編成ですね。乗車経験もあって、趣味的にも欲しいところではあるんですが、高額であること、脳内鉄道では蒸気暖房編成が不要なことから見送ろうと思っています。しかし、今回のラインナップの中でもスユニ50が単品発売になることから、こちらだけは押さえておこうと思っています。5141 スユニ50[KATO]《05月予約》5141 KATO カトー スユニ50 Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5141 スユニ50単品だと送料が掛かるので、工夫が必要です。また、セットの中でオハフ45100番台が製品化されるのですが、こちらは電気暖房仕様の2000番台となるため、欲しいラインナップとなっています。ただ、編成単位は不要なので、こちらはASSYで揃えようかと考えています。まだ楽天では予約情報が引っかからないので情報が入ったらご紹介しようと思います。送料無料◆10-1879 KATO カトー 夜行鈍行「山陰」 9両セット Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】10-1879 夜行鈍行「山陰」 9両セット[KATO]【送料無料】《05月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1879 夜行鈍行「山陰」 9両セットスユニ50とセット販売もあるようで、全部揃えたいならこちらがお得なようです。送料無料◆セット販売 10-1879/5141 KATO カトー 夜行鈍行「山陰」 9両セット+スユニ50 Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】
2024.01.07
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営団地下鉄・東京メトロ:東西線 5000系帝都高速度交通営団(営団地下鉄)5000系は、東西線開業に向けた昭和39年に3連6本が製造されています。東西線は、当初の開業区間が高田馬場~九段下間であり、検車区も飯田橋と全線が地下区間であったため、地上から開口してクレーンで車体を下ろして搬入すると言う手段が取られたことは有名です。5000系の殆どは東西線用として製造されましたが、一部が千代田線用6000系の製造前に導入されています。千代田線でも50両ほどが使用されていましたが、昭和56年に東西線増強用として千代田線から転属となり、北綾瀬支線用を残して全てが東西線用となっています。5000系には製造年次によってアルミ車とステンレス車が存在します。当初は統一が図られていましたが、編成増強の際に混結されるようになり、コルゲートのないアルミ車とコルゲートのあるステンレス車で不統一な編成が存在しました。平成15年5月3日 原木中山駅にて平成15年5月3日 行徳駅にていずれも東西線の301系・103系の写真を押さえに行った際についでに撮影したものです。5000系は直ぐになくなるような感じはしなかったのですが、既に05系が登場して久しくなっていましたので、増備のペース次第ではあまり先が長くないなと思ってました。案の定、それからは東西線の写真を撮る機会もなくなり、いつの間にか同車も消えてしまってました。昭和56年頃 高円寺駅にて 東西線乗入れ車 5000系営団地下鉄時代の5000系です。この時代では、地下鉄車輛である以上、まだ冷房装置も搭載されていません。併走する103系冷改車の特別快速も懐かしいですね。昭和では当たり前の日常シーンでした。5000系の最終運行は、平成19年3月17日だったそうです。
2024.02.28
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103系(スカイブルー):青梅線前記事で青梅線の103系をご紹介いたしましたが、ここに1枚だけレアな写真があります。青梅線では、73系やクモハ40形による運転が行われていたようで、既に101系で統一されていた中央快速線とは別体の運用になっていました。このうち、青梅直通の快速のみ101系が使用されていました。首都圏における新性能化の過程の中で、昭和51年頃から103系の転入が行われ始めたそうで、これには京浜東北線のATC化準備で余剰となるスカイブルーのクモハを含む4両編成が続々と導入されたみたいでした。中央快速線でさえ103系が導入されていない時代でした。昭和53年2月19日 青梅駅にて スカイブルーの青梅線この時代は記念切符を積極的に収集しており、近場で発売されると分かったときは、わざわざ買いに行きました。この日は青梅マラソンの開催を記念した入場券が発売されることを知り、これを買いに行って初めて青梅線を訪れた訳ですが、乗る電車・留置されている電車の殆どがスカイブルー一色であることに大変驚きました。まだ中学生でしたので、京浜東北線・山手線のATC化などという高度な知識は持ち合わせておらず、何故このような事態になっているのか訳が分からなかったのですが、高校生になって色々な情報がアタマに入るようになり、やっとこの時の状況が理解できるようになりました。くやしいのは、この写真を撮ったときには72系が運用が残っていたようで、この翌月にさよなら運転があったということ。今となっては何の興味もないマラソンの記念切符などどうでも良く、旧型国電の記録を漏らしてしまったことに悔いが残ります。
2024.04.11
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JR東日本 チ1000永らくレール輸送に活躍していたチ1000形貨車。国鉄時代の昭和32年から37年に掛けて200両が改造により誕生しており、残存車は50年を超える長寿車両です。しかし、ここに来てJR東日本にもキヤが導入され、その活躍も終息となってしまいました。特に、チ1000形にはゾロ目のチ1111が存在し、何度か目撃したことがあるものの結局捕獲することができず、悔しい思いをしていました。しかし、ここに来て朗報というか、今回の廃車に当たり小湊鉄道へ譲渡されたという情報が入っています。いずれご対面できる日が来るかもしれません。チ1179チ1057いずれも平成22年2月20日、大宮操車場に留置されていたレール運搬車両の遊車を撮影したものです。チ1000形は主にレール運搬用の遊車としてチ+チキ+チで編成されることが多かったと思いますが、国鉄時代は工場配給車代用に指定されていたものもあり、車輪を載せた車両を良く見かけました。大宮操車場勤務時代は、配給車代用やチキとは関係なく単車の空車に良く添乗したことがありました。チキ同様、落とし込み式の手すりとなっているため体勢が厳しく、添乗するのには嫌な相手でした。あまりにも地味過ぎて、撮影する機会も殆どありませんでした。わき役としてNゲージでも揃えておきたい車両ですが、車体が薄っぺらだけにウエイトの処理も難しく、スケールモデルとしての製品化はちょっと厳しいでしょうかね。
2025.01.27
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国鉄 ワキ8000系貨車:ワサフ8800ワキ8000系列は、パレット輸送用に製造されたワキ10000系列を基本とする構造で、荷貨物兼用車として製造された車両です。台車は高速型のTR203を履いていましたが、電磁弁を用いない CL 方式(応荷重増圧装置付)自動ブレーキとしたため、最高速度は95km/hだったそうです。中間車のワキ8000は、貨車記号を有しながらも、専ら荷物列車に連結されて使用されることが殆どであり、緩急車を設備するワサフ8000も同様となっていました。昭和50年3月10日、寝台急行「北星」が20系による寝台特急に格上げされると、それまでマニ36等で行っていた仙台地区の新聞輸送をそのまま寝台特急「北星」に引き継ぐことになり、20系に連結させる車両として専用形式とも言えるワサフ8800~8802が製造されました。これは、20系客車に旧型客車を連結させると20系客車のブレーキ性能を害してしまうためであり、また、それまでのワキ8000系列においても元空気溜管と電磁指令ブレーキ回路のための制御信号線を付加する必要があったことから、専用車を用意する必要があったためとなっています。外観はそれまでのワサフ8000と大差が無いようですが、性能が大幅に違うことから番台区分をし、外観も20系と同様に青色とした非常に特徴を持つ車両となっていました。昭和50年夏頃 ワサフ8800を連結した寝台特急「北星」(再掲)昭和50年3月改正で誕生した20系寝台特急「北星」は、運転開始当初よりワサフ8800を連結して新聞輸送を担いましたが、当時建設真っ只中の東北縦貫自動車道が昭和50年11月に仙台地区まで延伸開業したことによりトラック輸送に切り替えられ、僅か8か月でその使命を終えることになってしまいました。その後、用途を失ってしまったワサフ8800は、本来の使命である20系寝台客車と併結される機会もなく、他のワキ8000系列と同様に、主に東北地区の荷物列車に使用されていたようです。EF58の運用が終焉となる頃、地元などでも荷物列車の写真を撮る機会が非常に多かったですが、残念ながらその後のワサフ8800を撮影した記憶も目撃した記憶もありませんでした。昭和60年3月26日 東大宮~蓮田間にて 回9101レ荷物列車の運転が終焉を迎える頃の写真。EF5889が牽引する12系転属車の回送列車です。おそらく、一関~青森方面の旧型客車を淘汰するための代替車送り込み回送ではないかと。全てがオハフ13のようです。そして、機関車次位に連結されているのがワサフ8800です。被写体が遠くて車番までは残念ながら判別できません。久し振りに会ったワサフ8800に感動してしまいましたが、この移動が何を意味するかは今もって良く分かりません。もしかしたら、ただの控車だったかもしれません。特異な経緯で誕生したワサフ8800ですが、本来の活躍はあまりにも短く、その割には非常にインパクトが強い車両でした。※マイクロエースのインプレッションをアップしています。 → マイクロエース ワサフ8802タイプ 入線
2025.09.13
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東武鉄道 8000系:亀戸線(標準塗装)過去ログにおいて、東武亀戸線で運用されていた8000系のリバイバル塗装についてご紹介して参りましたが、2025年7月を最後に、8000系が運用から撤退していたそうで、ちょうど再就職先での怒りが爆発していた頃と重なっていたこともあってか、まったく見落としていたようです。東武鉄道 8000系:8568F復刻塗装 東武鉄道 8000系:8575編成(復刻塗装)東武鉄道 8000系:8577編成(復刻塗装)東武亀戸線はほぼ用事が無い場所なのですが、仕事現場があったり、たまたま防災訓練の施設見学があったりと、亀戸線そのものの用事ではなくても近くなのでついでに撮影できたことがありました。リバイバル編成はリンク先をご覧いただくとして、一般塗装で残っていた8000系をご紹介し、東武亀戸線の締めにしたいと思います。平成24年6月22日 亀戸水神~亀戸間にて 8565Fこの日は現場仕事。最寄りは亀戸水神ですが、亀戸駅から歩いても行ける場所なので利用はせず。待ち合わせ時間前に撮影を考えていたのですが、京浜東北線が20分近くも遅れてしまい、撮影できるような時間は無し。しかも雨。線路伝いに移動中にちょうど踏切がなったので1枚だけ。平成24年6月22日 亀戸駅にて 8565F&8567Fお昼に次の現場に移動。一服がてら駅を覗きましたら、2編成が並んで停まっていました。こんなシーンを撮るのも初めてでした。平成24年6月26日 曳舟付近にて 8575F平成24年6月26日 曳舟付近にて 8565Fわずか4日後、今度は曳舟駅利用の現場でした。待ち合わせ時間の30分前に着いたので、駅周辺をブラブラしていましたら、偶然にもスカイツリーが見える場所を発見。しかも手前の線路は8000系しか通らない亀戸線ですから、これ以上ないシチュエーションでした。平成29年10月1日 亀戸水神~東あずま間にて 8570Fこのときは、8000系リバイバル塗装のコンプを目指し、大師線~亀戸線の撮影に訪問した際のもの。「撮影」するために訪れた唯一の機会でした。リバイバル編成ばかり狙っていたので、ついででは撮影していた筈ですが、一般塗装は本当に少なかったですね。現在は10000系・10030系のワンマン対応車で運用されているようですが、これらも一時的な運用になるというウワサもあるようなので、近いうちのまた訪問しても良いかな?と考えています。
2026.07.14
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183・189系:臨時特急「新宿わかしお」特急「わかしお」は、東京地下駅の開業と同時に運転が開始され、房総特急の専用形式である183系0番代が使用されてきましたが、老朽化及び陳腐化により、E255系やE257系の導入により平成17年を最後に世代交代となりました。房総から撤退した特急色ですが、波動用の183系・189系が臨時列車として房総に運用されることもあったようで、私も1度だけちょこっと撮影に出たことがありました。※撮影は、平成20年9月6日です。新宿駅にて 臨時特急「新宿わかしお」いくつかの臨時列車の撮影を掛け持ちしていたので、とりあえず保険で駅撮りです。結婚後、しばらくは駅撮りなどという手法での記録をすることはなかったので、このように駅を駆けずり回るような撮影も高校卒業直後以来のような気がします。久し振りにじっくり撮った国鉄色は、クハ189-1トップナンバーでした。千駄ヶ谷駅にて 臨時特急「新宿わかしお」限りある時間を有効に利用するため、撮影してすぐ逃げられるようにと選んだ場所。各停が後を追っ掛けてくることは分かっていましたが、嫌な予感が当たり、後続の緩行線と並走してきました。なんとか顔が撮れただけでもよかった。その後も「新宿わかしお」などは運転されましたが、183系・189系の運用が縮小され、さらに房総特急の縮減でE257系運用に余裕が出来たためか、国鉄色が使われることはなくなってしまいました。E257系 わかしお・さざなみ50周年ラッピング車両
2022.07.16
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旧型国電 飯田線:32系・42系 クハ47クハ47形は、戦前を代表する近郊型電車で、2扉クロスシートを設備した車両です。2扉間に小窓がズラリと並ぶ壮観さが私好みです。クハ47は大きく分けると3つのグループがあります。1つは、モハ32系制御車として誕生したタイプ。クハ47自体は20m車両なんですが、相棒となる電動車はモハ32(後のクモハ14)で17mの車両です。このクハ47が20m級電車の始祖となります。この部類が0番代となっています。同時に製造されたサロ45、サハ48も勿論20m級です。電動車であるモハ32だけが17mであったのは、モーターを積んだ分、車体重量が重く、剛性に影響があったため(つまり、車体が重さでそってしまう)と言われています。2つ目は、モハ32系サハ48に運転台取付改造を施した50番台。製造の経緯は0番代と同様です。3つ目は、モハ42系20m車を相方とする貫通型で、誕生当初はクハ58を名乗っていたタイプ。その後100番台となっていました。飯田線においては、旧型国電が終焉となる頃までこの3種類が揃っていたことは特筆です。今回は私が撮影したクハ47のうち、飯田線で撮影したものをご紹介いたします。昭和58年4月19日 伊那松島機関区にて クハ470090クハ47の基本番台は、元32系(17m車:後のクモハ14)に属する系列の制御車で、省型初の20m級の電車です。当時の技術ではまだ車体の歪みを抑える技術が乏しく、モーターの付いていない軽い制御車及び中間付随車で初めて20m級を可能としたものです。横須賀線で使用されました。※ただし、011は嘘っぱちの車両なのでご注意。外観はまるで42系のようですが、この車両は32系に属する車両です。私が知っている頃は常にクモハ53008と手を組んでおり、最後となるさよなら列車まで運用された、昭和1ケタ生まれのつわものでした。昭和58年8月6日 伊那松島機関区にて クハ47069クハ47の050番台は、横須賀線の新性能化による地方転出の際、不足する制御車を補うため、中間付随車のサハ48に運転台を取り付けたものです。この手法は今でも行われています。写真は飯田線における最期の最期、旧型国電のラストランです。クハ47069は、飯田線の最後を飾るさよなら列車にも使われました。昭和58年2月23日 伊那松島機関区にて クハ47104こちらは42系の流れをくむ元クハ58を名乗っていた100番台です。細かい話ですが、クハ47100番代の中でも、便所横の窓の有無により、2つの形態が存在しますが、100~114の偶数車で構成される車両の中でも、104だけは便所横の窓を全部埋めてしまった異端車になります。昭和58年1月11日 中部天竜駅? クハ47104走行中の電車の中からで定かではないのですが、風景から中部天竜駅を出発したところだと思います。本当は便所側を撮っていれば良かったのですが、残念ながら当時はそこまで詳細な知識もなく、また、走行写真を多く撮っていたので、あまり形式の細かいところまでの分析写真は撮っていませんんでした。
2022.12.10
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キハ82系:特急「オホーツク」2023年ダイヤ改正において、特急「オホーツク」からキハ183系が撤退し、キハ283系化されるそうです。これにて、最後まで残っていたキハ183系も全廃されるようです。特急「オホーツク」は、元々準急列車として登場した名称ですが、昭和47年10月の改正から札幌~網走間を走るキハ82系特急として誕生しています。北海道では、本州からの接続により函館起点の特急列車が整備されておりましたが、この「オホーツク」の誕生により、初めて函館に乗り入れない特急列車が設定されたことになります。また、北海道ではアイヌ語に由来する駅名や地域名が多いため、これらを使用した急行列車は多く存在しましたが、ロシア語を使用した列車としては唯一のものとなっています。私がキハ82系の「オホーツク」を捉えるタイミングとしては、高校時代にたった2回のチャンスでした。よって、枚数は少ないですし、駅撮りシーンばかりとなりますが、昔の札幌駅と合わせて光景を楽しんでもらえたらと思います。昭和55年3月 札幌駅にて初めて出逢った「オホーツク」。当時は日本で唯一のカタカナ特急でしたので、憧れも強かったです。有効時間帯としては下り朝発の1本だけでしたから、絶対に逃すことはできない存在でした。昭和56年3月 札幌駅にて翌年にまたまた札幌駅で捉えた写真。1枚目と殆ど変わらない光景。地平駅時代の風景も懐かしいです。昭和56年3月 新旭川~東旭川間にて「オホーツク」で唯一走行写真を捉えたものです。札幌駅での出発時間が比較的早いため、非常に撮りづらい列車でした。多分、旭川駅で駅寝したときだと思います。写真は、偶然にもキロ(グリーン車)を2両連結した珍しい編成です。昭和56年3月 旭川駅にて「オホーツク」が撮りづらかったのは、上り列車の時間設定の問題が大きかったですね。写真は旭川駅での上り列車ですが、真っ暗で殆ど見えない状態でした。その後、急行「大雪」の撤退が進むに連れ特急「オホーツク」は増発され、石北本線での重要な交通手段となっています。キハ82系時代の最後の頃はヘッドマークがイラスト化されたようですが、その頃は就職して道央まで足を伸ばす時間がなくなってしまい、残念ながら記録することはできませんでした。昭和57年、「オホーツク」からキハ82系が撤退し、新鋭キハ183系へと引き継がれることになります。
2022.12.25
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キハ56+キハ22:急行「大雪」石北本線といえば、当時日本で唯一のカタカナ特急「オホーツク」と長躯函館~網走間を往復していた「おおとり」が花形であった訳ですが、両列車とも1往復のみの設定で、庶民としてはやはり急行「大雪」がメジャーな優等列車であったと思います。昭和55年の時刻表を見ると、1日5往復の「大雪」が設定されており、4往復が昼行のディーゼル、1往復が寝台車を連結した夜行急行でした。テツとしては昼間のディーゼル急行よりも夜行列車を多用した、と言いますか、夜行しか乗ったことがない方も多いのではないでしょうか?急行「大雪」は、その多彩な運用面からも大変興味深い列車です。1往復は釧網本線経由で釧路~網走~旭川~札幌を走破し、下りでは名寄本線の興部行き、さらに驚くことは、上りの名寄発~名寄本線~遠軽~札幌なんてとんでもないコースを走破する列車もありました。さすがに好んで乗るような列車ではありませんが、ちょうど9時間も掛かるこの列車は通しで乗る人なんてまず居なかったのではないでしょうか。昭和56年3月 遠軽駅にて 急行「大雪4号」右側のキハ56とキハ27の2両編成を組んだ急行ですが、あまりにもショボイ編成ですので、『うさぴょんのマル鉄回顧録』でアップしたときは急行「天都」かもしれない、としていました。しかし、昭和56年の時刻表を確認したところ、この時点で既に急行「天都」は廃止されていました。そこでさらに時刻表を追ったところ、渚滑線の乗りつぶしから遠軽へ戻ってくるのが9:40。特急「おおとり」と特急「オホーツク」が10:50を前後として交換が行われるのでこれを撮影。駅へ戻ってから列車に乗ろうとすると、網走方面、旭川方面とも12時を過ぎるまで列車が無い。網走発の558Dが遠軽12:11着。折り返し12:42の網走行き559D。名寄発の1623Dが12:02着、そのまま12:38に旭川行き514D「大雪4号」となります。そのときの私の行動と時刻表上の時間の相関がピタリと一致しました。つまり、写真で言うところの左側が558D~559D、右側が急行「大雪4号」。さらに、昼行の急行「大雪」はほとんどがグリーン車連結であるのに対し、この旭川行き「大雪4号」のみグリーン車は連結されていません。以上のことから、全ての状況が一致し、写真のローカルな急行列車が「大雪4号」であることが判明いたしました。ヘッドマークの無い気動車急行と言うのは、私的には撮影対象外だった筈ですが、北海道と雪景色、極寒の風景は、普通の気動車ですら魅力的に感じさせてしまうんですね。ですので、本州ではあまり撮影実績の無い一般型車両たちも、沢山記録に残すことができたのだと思います。
2022.12.29
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キハ56系:急行「狩勝」「狩勝」は、札幌圏から釧路方面を根室本線で結ぶ急行列車でした。昭和55年当時ですが、急行「狩勝」はDCが3往復、客車夜行が1往復設定されていました。このうちDC急行は、札幌~釧路間を基本とし、下り夜と上り朝が帯広発着です。釧路発着の1・6号は富良野駅にて富良野線直通の普通列車を釧路間で併結しています。また、上り4号のみは根室~札幌を直通としていました。これは、急行「ニセコ」の上り1本が根室~函館に設定されていた頃からの名残で、札幌にて系統が分割されて「狩勝」となったものです。当時はまだ石勝線が完成していない時代ですので、根室本線への列車は全て滝川経由となっていました。特急「おおぞら」も3往復しか設定がありませんでしたので、夜行含めて4往復設定されていた急行「狩勝」は、全ての列車にグリーン車も連結された、重要な幹線優等列車でした。昭和56年3月 根室本線 落合~新得間にてこちらはネガプリントからのスキャニング画像です。残念ながらブレてしまっていますが、キハ56形の213番ですね。キハ56系はキハ58系の北海道版で、外観は窓が1周り小さいのが特徴です。また、グリーン車のキロ26はキロ28形のような2連の大窓ではなく、さらに1周り小さい1席1個の窓が特徴となっており、キハを含めて全て2重窓となっています。キハ56形200番代は最終増備車で、パノラミックウィンドウにスカート付きが特徴です。さらに、写真では判りませんが、冷房準備工事車でクーラー搭載予定箇所にフタがしてありました。※最終的には、廃車となるまで冷房化されることはありませんでした。昭和56年3月 根室本線 落合~新得間にて上の写真と同じ区間ですが、新得側からやや落合寄りの第1ターンとなる橋梁です。こちらは番号が不明ですが、初期型のキハ56を先頭とする「狩勝」。全てが小窓で判り難いのですが、前から5両目のフレームギリギリに写っているのがキロ26形グリーン車です。昭和56年3月 「狩勝」の愛称サボなんでこんなサボの写真をリバーサルフィルムで撮っていたのか疑問だったのですが、よくよく考えて見ると車体色がクリームと赤のツートンではありませんので、どう見てもキハ22に取り付けられたサボと言うことですね。「狩勝」には基本的にキハ22は使用されていなかったと思いますので、おそらく富良野線からの直通併結車両を目撃した際に撮影したのではないかと思われます。昭和56年3月11日 函館本線 白石~厚別間にて同区間を撮影場所を探しながら歩いていた際に撮影したものです。コレは列車を撮るために待っていたのではなく、前を歩いていた親子が大変絵になるスタイルだったのと、そこに偶然この列車が通り掛かったので思わずシャッターを切ったことを憶えています。なお、この写真、もしかしたら急行「大雪」かもしれないことをお含みおきください。※編成的には「狩勝」で間違いないと思いますが・・・。急行「狩勝」は、ご多聞に洩れず特急化の波に飲まれ、尚且つ石勝線の開業と言う一大プロジェクトのアオリもあって全て特急「おおぞら」に吸収・格上げされて消滅いたしました。辛うじて根室本線の快速として「狩勝」の名前が残っていましたが、そこには急行時代の優等列車としての面影は残っていませんでした。オハネフ12形:夜行急行「狩勝」(旧型客車時代)
2023.03.27
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455系:急行「いわて」急行「いわて」は、昭和31年11月のダイヤ改正で上野~盛岡を常磐線経由で結ぶ急行列車として誕生しています。昭和33年10月改正で東北本線経由に、さらに昭和40年10月改正から電車化され、その地位を確立しました。昭和56年1月5日 豊原~白坂間にて 急行「いわて1号・ばんだい5号」東北新幹線開業まで運転されていた下り急行「いわて1号」です。当時、「いわて」は東北本線経由の盛岡行き急行として、1日2往復設定されていました。1往復は夜行急行となっていましたので、写真を撮るにしても1往復のみのチャンスとなります。昼発となる「いわて1号」は、上野駅を13:06に特急「つばさ3号」の続行として出発となっています。白坂駅付近では14:40過ぎくらいの通過となりますから、比較的遅い時間に撮影していたようです。昭和57年11月13日 上野駅にて 急行「いわて」あまりサボの写真を撮る習慣がなかったのですが、廃止を前にした緊迫感もあり、記念に撮っていたようです。この写真を撮った翌日、上越新幹線の大宮暫定開業と同時のダイヤ改正により、急行「いわて」は東北新幹線にその役目を譲って廃止されました。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売
2023.04.13
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キハ56系 キハ27:函館本線 普通列車北海道の急行と言えばキハ56系。キハ58系に先駆けて、北海道用に導入された2重窓を持つ急行形車両です。ローカルシーンではキハ22も急行列車として使用されていましたが、本線系の基本はキハ56系で結構な長さの編成で走っていました。そんな急行形のキハ56系も、急行列車の運用が縮小するにつれ、本線系の普通列車で運用されるシーンが多く見られました。昭和58年9月7日 大沼公園~赤井川間にて キハ27ほか4連函館運転所の気動車は北海道特有の正面ナンバーが無く、区別が付き難いのがイタイです。急行列車が次々と廃止になると、行き場を無くしたキハ56系は普通列車に使用されるようになります。元々キハ22もデッキ付きの2ドアクロスシート車ですから、グレード的にはあまり気にならなかったですね。車内の静粛さやキレイさは格段に違いますけど。この頃になるとキハ22もキハ40系の導入により廃車が加速し、キハ56系のローカル転用と地方交通線の廃止で急激に世代交代が進んだようでした。キハ27+キハ40:快速「マリンライナー」
2024.05.08
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103系:中央総武緩行線(オレンジ色)中央線の201系化で捻出された103系が大量に中央・総武緩行線にやってきました。中央快速線は、古参101系よりも103系の方が早く撤退してしまった異例の路線です。おそらく、101系の冷改車を多数抱えていたので、非冷房車を中心に廃車するとともに、中央・総武緩行線の103系化(=冷房化)を優先させ、南武線への101系冷改車転属を目論んだためにタイムラグが生じたのでしょう。そんなことで、一時期、中央快速線の象徴であるオレンジバーミリオンの103系が大量に総武・中央緩行線に流れ込んできたのでした。昭和55年頃 総武本線 平井駅付近にて見づらいですが、オレンジの車体の前面に「中央・総武 各駅停車」と書かれております。これは、中央快速線と並行していることとあわせ、早朝・深夜は中央快速線の電車が緩行線を各駅停車で走る時間帯があるため、誤乗防止のための配慮でしょう。通常、正面ステッカーは白色のものが多いですが、このケースではさらに中央総武緩行線を主張するような黄色地ステッカーとしてあるのも特徴です。
2024.07.24
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国際興業バス:いすゞキュービック(超低床ワンステップ車)国際興業バスのいすゞキュービックで、レア車種であった超低床ステップ車です。私が調べた範囲だけの検証となってしまいますが、間違っていたらすみません。国際興業では、前記事でご紹介いたしましたキュービックノンステップ車が導入される前に、ステップ車の超低床型というものが存在しました。形式名の如く、ノンステップ車のように出入り口がフラットにはなっていませんが、従来のステップ車に比較して床面が低くなり、その分、ステップの段差も大幅に低くなっているという特徴があります。足の上がりにくいお年寄りには優しい造りです。この超低床型の車両は、9901~9903のわずか3台のみしか導入されなかったようで、同車では大変な希少種でした。9901は志村営業所の配置で、私が板橋区に住んでいた時に導入され、通勤でリアルに乗ったことが何度もありました。新車でバネのへたりがないこと、エンジンの回転もスムーズで、非常に乗り心地が良かった記憶があります。一方、9902と9903の2台は西浦和営業所に居たようです。この3台ですが、何故か9901はツーステップ、9902と9903はワンステップだったようです。※撮影は、いずれも平成20年5月18日、南浦和駅西口にて。浦和駅の高架化工事の際に代行輸送が実施され、その招集を受けた車両の中に9902が居ました。西浦和営業所の所属でした。9900番代の特徴は、中ドアがグライドスライドドアになっていることで、国際興業バスのキュービックの中でも希少な形態です。こちらは公式側からです。ノンステップ車では前扉にグライドスライドドアを使用している車両が多くありますが、この車両の前扉はマジックドアのようです。9902は94年式ですが、その後ノンステップ車が97か98年頃から本格導入されていますので、中型のいすゞジャーニーの導入との兼ね合いがあったためか、導入が少数にとどまってしまったようです。この付近でこのような代行はしばらくは行われることはないでしょうから、大変貴重なシーンとなりました。また、生活で実乗経験のある9901の写真を撮影していなかったのは非常に残念です。※追記第1稿として作成した頃は「超低床」の表現があったのですが、現在のほかの方の投稿を見たところ、同車前面に表示されているように「リフト付低床バス」となっているようなので、この点について補記させていただきます。国際興業バス:いすゞキュービック(ステップ車)国際興業バス:いすゞジャーニー
2026.07.29
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旧型国電 牽引車:クモヤ90102+381系先般、『旧型国電 牽引車:クモヤ90』で首都圏のクモヤ90形牽引車をご紹介いたしました。クモヤ90は登場(改造)当初こそバリエーションの無い車両でしたが、その地方に合った仕様に再改造が施されるようになると、2灯化したもの、2パンタ化されたもの、低屋根化されたものなど、大変多くのバリエーションに発展しています。首都圏では殆ど差異が見られず、その点においてはあまり興味深いところはありませんでした。そんなクモヤ90ですが、最終増備されたものについては、クモヤ145並みの車体を新製し、載せ変えたものが存在しました。当時、このような改造は、廃車期にあった101系を利用したものが多く存在し、牽引車の性格上、何故この時代に旧型国電を使用したのか、いささか疑問を感じます。ただ、当時の時代背景として、まだ旧型国電が全廃されていたわけではありませんので、新性能車ですと旧型国電を牽引することが出来なくなることから、あえて旧型国電から改造したのではないかと推測されます。この末期の改造車には100番代及び200番代の区分が与えられますが、101号のみが0番代と同様の車体で、102号以降の番号が新製車体となっています。そんな100番代に1度だけ遭遇したことがあります。飯田線の旧型国電の撮影を終え、浜松へ向かう前に豊橋駅でチョット駅撮りをしていたとき、思わぬ珍編成がやって参りました。昭和58年6月28日 豊橋駅にて クモヤ90102+381系偶然来たとなっては放っておくわけには行きませんので、短い編成に追いつくように、ホームを走って撮ってきました。なんとも「珍」な編成です。381系は、その特殊な性能から他の系列と手をつないで走ることはありませんので、このような編成は工場の入出場ならではのシーンと言いえるでしょう。また、このアコモ改造の「クモヤ90100番台」も初めて見ましたので、大変感激いたしました。同車の消息を調べましたところ、終始「神領電車区」から離れることなく、平成13年6月29日付けで廃車になったということです。
2022.04.29
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451・453系:急行「つくばね」古く辿るとキリが無いので省略いたしますが、昭和43年10月のダイヤ改正において、電車急行としての「つくばね」が誕生しています。急行「つくばね」は、上野から東北本線を経由し、小山の手前の「間々田駅」から水戸線へ短絡する貨物線を通り水戸線へ乗り入れ、結城・下館・友部を経由して常磐線「勝田駅」まで運転されていました。途中の結城までは急行ですが、水戸線内~勝田までは普通列車となっていました。(電車化当初は、下館まで急行運転をしていたようです。)水戸線は交流電化区間のため、使用車両は451系又は453系です。東北本線の黒磯以遠へ行く急行はすべて451系~457系で運転されているため、特に注目する車両には見えないのですが、当列車は勝田電車区の車両を使用していたため、東北本線の日暮里~岩沼間では唯一見られた編成でした。また、最大の特徴は、当時、大宮を出て最初の急行停車駅である「小山」に到達する前に水戸線へ短絡してしまい、代わりに「間々田」に停車しました。間々田駅の歴史の中でも、急行列車が定期で停車したのは「つくばね」だけでしょう。昭和60年1月5日 栗橋~東鷲宮間にて 上り急行「つくばね」「小山駅」を経由しなかった理由としては2つ考えられます。1つは、小山駅の東北本線と水戸線のホームの間に貨物ヤードがあり、転線に時間が掛かかり過ぎるため、直通列車としての時間的利点を優先した。2つ目は、小山駅を経由するとスイッチバックになるため、勝田電車区又は上野駅時点で列車の向きが変わってしまう。といったところでしょうか。おそらく、後者の理由の方が大きいと思います。「つくばね」は、東北新幹線上野開業を迎えた昭和60年3月に廃止となったため、写真は最末期の頃のものとなります。ヘッドライトのシールドビーム化など魅力も半減していましたが、7両という仙台電車区所属車とは一味違った編成が、勝田電車区の急行「つくばね」であることを主張しています。水戸線結城駅→100kmの急行券・自由席グリーン券です。「つくばね」の名称は一切見当たりませんが、実際問題として水戸線には「つくばね」以外のグリーン車を連結した列車はありませんので、「専用」であったと言えます。※臨時列車でお座敷(グリーン車扱い)使用の列車は運転されたと思いますが、原則指定席だと思われますので、ここでは「専用」という表現をいたします。発行駅は水戸線岩瀬駅であり、水戸線内は普通列車の種別ですので、当然岩瀬駅から乗車することができますが、急行区間は結城駅からとなるため、表示も結城→となります。ここでひとつの疑問が湧くのですが、「つくばね」は普通列車区間においても「普通列車用グリーン車」として営業しており、普通列車の区間においてグリーン車に乗車するとなれば、当然「普通列車用グリーン券」を購入しなければなりません。しかし、例えば「下館」から「大宮」まで通しでグリーン車の乗車する場合、全行程で100kmに満たない場合でも「下館」から「結城」までの「普通列車用グリーン券」を購入しなければならないのでしょうか?優等列車用のグリーン券であれば、普通列車のグリーン席に座っていても問題の無いような気がしますが・・・。読者様からの情報により、このような場合はそのまま普通列車グリーン車に乗車できる特例規定があるそうです。国鉄時代に与野駅で1年半ほど勤務しましたが、意外とこのグリーン券は着札があり、短区間で高額ながら需要があったようです。
2022.06.14
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建築限界測定車 オヤ31形:オヤ3132建築限界測定車(通称:オイラン車)は、車体の外周に取り付けられた矢羽を立てて本線を走行させ、列車に接触する危険のあるものが無いかをチェックするための試験車です。昔は同形式の車両が全国に居たわけですが、その種車が戦前型ばかりである関係もあり、JR化を前後として、殆どの車両が姿を消しています。昭和62年12月13日 函館駅にて オヤ3132青函連絡船や道南の写真を撮りに行った際に、函館駅で偶然に出くわしたものです。過去ご紹介のものはいずれも展示のため、矢羽根は畳まれた状態ですが、この車両に関しては検測中の状態のため、すべての矢羽根が立った貴重な記録として残せました。オヤ3132は、連合軍簡易食堂車(部隊料理車)のスシ33 105から改造された車両で、なんと平成30年(2018年)まで現役だったそうです。
2022.08.01
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名古屋鉄道 モ811:荷物電車国鉄飯田線では、途中まで名鉄と線路をそれぞれ所有し、複線として共同使用していることは昔から有名な話。旧型国電の末期、飯田線には何回も訪れているにもかかわらず、名鉄には興味が無くて、パノラマカーなど一切写真を撮っていませんでした。今となっては後悔が一番大きい思い出のある場所です。そんな中、1枚だけですが、当時の名鉄電車を撮った写真がありました。昭和58年4月16日 豊橋駅にて 名鉄モ811荷物電車&クモニ83100番台普通ならクモニ83のみを撮影するところですが、あまりにも旧態然とした名鉄電車が一緒に並んでいましたので、何回か訪れた中でも大変珍しいシーンに感動し、荷物電車同士の並びとして撮影したものです。モ811は、昭和10年、名岐鉄道時代に製造された特急車両ということです。誕生当初はデボ800形と呼ばれたらしいですが、名鉄との合併後にモ800形に改称されました。このモ811については、飯田線の戦前型が淘汰された昭和58年はおろか、平成8年4月まで活躍していたということなので、動態保存的主旨とは言え、大変立派なものだと思います。さらに、廃車後も旧塗装に復元の上、日車豊川工場で静態保存されていると言うことです。
2022.08.18
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EF65PF重連牽引:臨時特急「あけぼの52号」返却回送毎年、大混雑を極めている年末年始やお盆の帰省ラッシュ。新幹線網が出来上がる以前は、さばききれない昼間を避けた夜行列車による大量輸送が行われており、高校時代は上野駅での乗客整理のアルバイトに精を出したものです。車両が少なくなる増発時は、普段は団体列車や予備で待機している車両をかき集めて臨時夜行列車仕立てており、14系座席車のみの”運ぶだけ”を目的とした夜行特急列車もありました。今回はそんなシーンを1枚。昭和60年1月5日 栗橋~古河間にて 回6105レ 年末年始輸送でUターン客を東京へ運ぶために設定された「あけぼの52号」。下り客は見込めないので、上野到着後小休止の後に回送で秋田に戻ります。設定された回6105レは急行スジで、福島からは列車番号が変わってしまいますが、東北本線内は臨時急行「まつしま」や団体列車で使われるスジです。当時、与野駅に勤務していた私は局報を自由に見ることが出来ましたので、EF65が重連になることも当然分かっていて出撃した次第です。この頃は、既に東北新幹線も開業し、定期客車列車も少なくなっていましたので、臨時と言えども客車列車を重連で牽くことは極めて稀でした。したがって、大変注目した訳です。残念ながら下り列車でしたので、光線状況が良くなかったのですが、それでも14系座席車10両を従えて牽くEF651000番台の重連は非常に貫禄がありました。昔からの「あけぼの」など定期特急でも重連が見られることはまずありませんでしたから。
2023.01.02
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101系:中央快速線国鉄初の新性能通勤電車として誕生した101系電車。初投入となった路線は中央快速線であり、それまで茶色一色と言えた通勤電車に鮮やかなカラーを採用したのもオレンジバーミリオンが最初です。あまり写真は撮っていませんでしたが、中央快速線の101系時代の写真をご紹介いたします。昭和51年6月6日? 東京駅1番線にて 中央線「特別快速」101系といえば中央線、中央線といえば特別快速ですね。新性能車で「特別快速」という速い列車が注目を集めた時代もありました。101系オンリーだった中央線快速でしたが、山手線や京浜東北線の103系冷房車投入に遅れをとってはいけないため冷房改造が施工されるようになり、特に「特別快速」に重点を置いて運用を組むほど重要視されていました。言わば、首都圏を、そして、全国を代表する国電区間であったわけです。写真は、現在の東京駅の3番線にあたる、当時の1番線です。ポケットカメラでネガにかなり傷が付いてしまったので、画像を修復して掲載しています。昭和54年頃 東京駅にて 101系800番台で編成された快速電車東京駅で折り返し待機中の101系中央快速線です。低屋根の800番台編成で、行先もレアな青梅行きです。現在、このホームは山手線内回りの列車が使用しており、中央快速線はさらに1段高いところへ上がってしまい、雰囲気もかなり違ってしまいますね。昭和55年10月頃 神田駅にて クモハ100-805ほかで編成された快速電車中央線快速の101系は、古くから臨時で相模湖や大月方面への乗り入れを行っていました。トンネル断面の小さい中央本線では、乗り入れる車両は181系を除いて低屋根構造の800番台を使用しました。これは70系・73系の「山ゲタ」時代から続いています。低屋根構造の新性能4扉車は101系の他に例が無く、大変注目を集める存在でありました。昭和56年9月頃? 武蔵小金井電車区にて過去に1度だけ武蔵小金井電車区を訪問したことがあります。101系だらけの電車区内。カラーでないのが残念です。和56年9月28日 保土ヶ谷~戸塚間にて 101系 回送「あまぎ」とかを撮りに行って偶然捉えた写真です。モノクロですが、色の濃さからしてオレンジバーミリオンですね。101系晩年期で、廃車が急ピッチに進んでいた頃だと思います。写真は7両編成で、かなり傷んでいるところから察して、大船工場への廃車回送ではないかと思われます。当時、首都圏における機関車の解体は大宮工場、電車の解体は大船工場と相場が決まっていました。153系の時は東急車輛とかでも解体作業が行われたようですが。中央快速線では昭和54年に201系試作車が誕生し、将来的に全車両を201系化することになっていました。そのため、冷房化に関しては101系改造ではなく、103系を配置することになりましたが、他の路線においても冷房化が急務であったため、103系の方が重点的に転出し、後輩の103系より101系の方が長く活躍しました。
2023.01.11
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485系(ボンネット型クハ編):特急「あいづ」磐越西線(郡山口)における特急列車は、昭和40年誕生のキハ82系「会津やまばと」を起源とします。昭和43年10月1日、「やまばと」から会津編成を独立、電車化(483系化)され、特急「あいづ」が誕生します。昭和57年11月改正まで一貫して仙台運転所の車両が使用されていましたが、東北・上越新幹線の開業により秋田運転所へ運用を移管。さらに、平成5年11月に伝統ある上野発着の特急あいづ」は廃止されました。昭和54年 西川口~蕨間にて昭和54年 蕨~西川口間にて特急「あいづ」は、磐越西線内の有効長の関係により、最大で9両編成とされていました。サシを連結したことにより、MT比の関係から上野方にはクロ481が使用されていたのが特徴で、会津若松方はクハ481のボンネット型が多用されていました。この9両編成は、長らく特急「ひたち」と共通運用でした。485系(非貫通型編):特急「あいづ」485系(ボンネット型クハ編):特急「あいづ」485系(クロ481):特急「あいづ」485系(あかべぇ):臨時特急「あいづ」485系:特急「ビバあいづ」485系(T18編成):特急「あいづ」
2023.01.19
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キハ82系:特急「北海」特急「北海」は、函館~旭川を結ぶ本州連絡の気動車特急として誕生しています。特急「おおぞら1号」とともに函館駅で青函連絡船の第1便を受け継ぎ、北海道の特急としては唯一函館本線山線経由で旭川まで走破していました。また、多客期には網走まで延長運転されたこともありました。晩年は札幌~旭川間が電車化により廃止となり、晩年は急行の格上げで2往復体制となっていました。昭和56年3月 滝川駅にて 旭川まで運転されていた頃の特急「北海」を電化区間の滝川駅で捉えたものです。史上でも唯一となる、函館本線(函館~俱知安~旭川間)を走破する特急でした。※ちなみに、急行では「宗谷」(函館~俱知安~稚内間)がありました。昭和56年3月19日 張碓~銭函間にて北海道の特急としては、山線であると同時に、唯一日本海に面した場所を走ります。昭和56年3月 撮影場所不明何処で撮ったかわかりません。特急停車駅ですが閑散としています。おそらくですが、深川駅ではないかと思います。昭和58年9月6日 小沢~倶知安間にて 特急「北海1号」「北海」自体が晩年の頃です。このときは、キハ183系の「北海」と1往復づつの計2往復が運転されていました。キハ82系の頃としても晩年になります。北海道旅行が航空機にシフトしていく時代になり、残念ながら北海道の特急の中でもいち早く消滅してしまいました。
2023.01.26
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