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165系:急行「佐渡」急行「佐渡」は、準急列車からの格上げで誕生した急行列車。上野~新潟間の昼行を基本とし、夜行列車も設定されていました。新潟区(上沼垂区)の165系を使用していましたが、かなり特徴のある編成でした。サハシ連結時代は、クハ+モハ+クモハ+サロ+サロ+サハシ+サハ+クハ+モハ+クモハ+クハ+モハ+クモハの13両編成でした。昭和52年頃からサハシが外され12連に、さらにサロ1両の10連と衰退していきます。短編成に便利な165系を使用していましたが、新潟の編成は何故かクモハとクハの間にサロやサハを組み込むなど、分割不可能な珍妙な組成をしていたのが特徴でした。昭和54年頃 西川口~蕨間にて 下り 急行「佐渡」既にサハシの連結は無くなっていますが、グリーン車にはグリーン帯が入っており、長大な編成とも相まって、急行列車としての貫禄・美しさを保っていました。この後、直ぐに塗装合理化によるグリーン帯が廃止となってしまい、外観上も格落ち感が出てしまいましたね。昭和57年1月5日 八木原~群馬総社間にてこちらは24mmで創作的に撮った写真。見る人が見れば判るというようなものです。昭和57年11月13日 大宮駅にて 165系 下り「佐渡1号」クハ+モハ+クモハ+サロ+サロ+クハ+モハ+クモハ+サハ+クハ+モハ+クモハの12両編成となり、3連のユニットのそれぞれの間にサロやサハを挟むという極めてユニークな編成でした。急行「佐渡」は有名ではありましたが、ヘッドマークが無くなってからは脚光を浴びることも無く、地味に特急「とき」をサポートしていたような感じです。ですからあまり写真も残っていません。上越新幹線の上野開業にあたってその役目を終え、昭和60年3月に廃止されています。その後の夜行快速の「ムーンライトえちご」も、元を糺せば夜行「佐渡」の名残でしたが、既に消滅してしまっています。165系:急行「よねやま」(サハ164)183系幕張車:快速「ムーンライトえちご」485系:快速「ムーンライトえちご」
2025.05.31
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EF64・EF81牽引:「カシオペアクルーズ」JR東日本の豪華寝台客車として四半世紀にわたって活躍してきたE26系「カシオペア」がとうとう引退となるそうです。老朽化が理由となりますが、おそらく車両としての耐用年数はまだ大丈夫だと思われますので、内装の老朽による改修費と今後のリターンが合わなくなることが大きな理由と考えます。定期運用に入っていた時代からかなりのコマ数を撮影しており、いずれはご紹介していこうと思いますが、今回は定期時代末期から運転されていた「カシオペアクルーズ」の記録をまとめたいと思います。平成24年10月14日 東北応援特別ツアー「カシオペア・クルーズ」第1弾は、2012年10月12~14日に設定された同件名による企画列車でした。当時はまだ北海道への定期運用があるなかで、初めて日本海側へ入線するという企画。実際には東北豪雨の影響で迂回運転の実績がありますが・・・。往路は9011レ EF64-1051+EF81-95牽引ということでしたが、金曜朝発ということで仕事のため撮影することはできず、上りのみの撮影となりました。ヘッドマークが無いのが残念ですが、当時としてはヘッドマークのないカシオペア編成を捉える方が珍しい時代でした。第1弾のみ「カシオペア・クルーズ」と「・」が入る設定となっていたのも注目です。平成25年10月5日 EF641051+EF81133 9011レ「カシオペアクルーズforあきた」第2弾は同件名となり、上野7:55発、今回も上越越えの補機を兼ねてEF64が前頭に連結されました。土曜日発のため撮影には行きましたが、強い雨の降る荒天と生憎の天候でした。しかし、今回はEF641051にヘッドマークが掲げられたことに喜びました。その後長野行きの「カシオペア紀行」等でEF64牽引の機会が数多くありましたが、ヘッドマークが取り付けられたのはこの時のみと思われます。平成27年10月17日 EF641051+EF8197牽引「秋のカシオペアクルーズ」みちのく・道南紀行上野発時刻は7:30頃でアナウンスされていましたが、実際には7:51発となったようです。当然にしてEF64へのヘッドマーク取付を期待しましたが、何もありませんでした。3泊4日の行程で、上野から日本海へ抜けて函館へ。さらに東室蘭から迎えて鳴子温泉、最終帰路は松島発という、特急列車としてはレアな設定となっています。牽引機は、上越線の通過に考慮し、EF641051が登板となっています。また、次位にはEF8197を連結し、パンタグラフも全部上がっている状態で運転されました。平成28年6月4日 EF641030+EF8195 9011レ「カシオペアクルーズ 北海道・東北周遊3泊4日の旅」「カシオペア」の定期運転が廃止されましたが、「カシオペアクルーズ」として団体列車扱いで復活を果たしました。重連運転のためサイド気味に行きたいところですが、朝方仮眠を取っていたら目覚ましに気が付かずに寝坊。起きたら7:44でした。現地に直行するとメイン側いっぱい。人ごみ嫌いなので上から。上野7:50頃発となっていましたが、通過したのは9:17頃。ギャラリーはひたすら1時間以上も待たされました。平成28年10月10日 EF8197牽引 「カシオペアクルーズ」~秋の東北の旅~これまでの「カシオペアクルーズ」は往路に日本海側のコースが設定されていましたが、この時の設定は東北一周であり、EF64の登板はない例外的なスタイルとなりました。この年からは「カシオペア紀行」の設定も始まっており、なんだか中途半端な設定となっています。北海道新幹線開業に伴う渡道設定の難しさもあり、「カシオペア紀行」による東日本管内の様々な方面への企画が進むことになり、ここを最後に「カシオペアクルーズ」は設定されることが無くなりました。EF641000番台との重連運転は圧巻だっただけに、もうちょっと見たかったな、と思います。ヘッドマーク付きで。
2025.05.30
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飯田線:119系電車(登場当初)119系電車は、飯田線の80系や戦前型国電の置き換えを目的として、昭和57年~昭和58年にかけて製造された車両です。同時期に新性能化された大糸線や身延線は、当時量産されていた115系でスムーズに置き換えられましたが、地域ごとに旅客需要が大きく異なり、駅間が短く、さらには勾配が大きいという路線の特殊性から、これに即した車両を導入することになりました。ここで誕生したのが119系という新形式でした。短編成化が可能な1M方式、路線延長が長いため近郊型で便所付き、さらに駅間が短いため加速を重視したギア比、勾配抑速ブレーキなど、その特徴は他の車両に類のないものとなりました。各種機器については、当時廃車となった101系や、485系の部品も使われているということです。また、冬は寒冷となる地域のため耐寒構造が付加されていますが、降雪量はそれほどでもないため、耐雪構造は省略されいます。結果、外観的にはローカル線の旧型国電置換え用として既に誕生していた105系に似たスタイルとなりましたが、国電史上初となる車体すそ絞りのない近郊型電車の誕生となります。昭和58年1月10日 中部天竜電車区にて クモハ119-3その後、佐久間レールパークとなった場所です。飯田線から80系の撤退が始まった頃で、80系に代わって165系が入線し、さらに置き換えを進めるための119系の到着も始まりました。まだ営業運転には付いていないようで、ピッカピカのまま留置されています。昭和58年5月19日系 赤木~沢渡間にて80系が全面撤退し、戦前型の置き換えもかなり進んできました。活躍を始めた119系。導入当初はMc+Mc+Tcの3連を組んでおり、その後Mc+Tcの2連も誕生しています。新製時はもちろん非冷房車であり、準備工事も行われていませんでした。昭和58年6月6日こちらもMc+Mc+Tcの3連でした。旧型国電の終焉ということもあり、撮影場所に来てしまったので仕方なく撮った119系だけが記録写真となってしまいました。Mc+Tcの2連や、×2の4連の写真も撮っていなかったようです。スカイブルーに塩ビの白テープという出で立ちは、唐津線に導入された103系1500番台に通じるスタイルでした。しかし、この塩ビ製のテープが毟り取られるいたずらが相次ぎ、119系は一時期悲惨な姿となりました。そして、JRになった頃から、塗装は湘南色のコーポレートカラーとなり、さらに冷房化、個性が失われていきます。
2025.05.29
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キハ82系:特急「はまかぜ」特急「はまかぜ」は、福知山線経由の特急「まつかぜ」の補充列車として昭和47年に新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由で結ぶ特急列車として設定されました。運転当初からキハ82系を使用しており、食堂車も連結されていたようですが昭和50年3月改正で廃止、昭和57年の伯備線電化により余剰となったキハ181に変更され、永らくその運転形態を維持していました。昭和55年8月 東海道本線 山崎~神足間にて電化区間で撮影したキハ82系の「はまかぜ」です。この区間ですので送込み回送でしょうね。大阪や山陰には数回行きましたが、運転本数が少ないので、逢う機会が少なかった特急列車の一つです。平成22年、永らく使用されたキハ181系も運用を終了し、ここに一つの歴史を閉じることとなりましたが、特急「はまかぜ」は新型気動車に変わったあとも存続しており、誕生以来、変わらぬ歴史を貫く数少ない特急列車となっています。
2025.05.28
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国鉄 ED16形電気機関車(青梅線)過去ログにおいて『国鉄 ED16形電気機関車(南武線)』をご紹介いたしましたが、今回は青梅線内で撮影したED16牽引の貨物列車の写真をご紹介いたします。昭和56年10月20日 ED1613 二俣尾~軍畑昭和56年10月20日 昭和56年10月20日昭和56年10月20日昭和56年10月20日昭和56年10月20日 ED163昭和56年10月20日 ED163昭和56年10月20日 ED163昭和56年10月20日 ED165何故か3号機の多かった日でした。昭和56年10月20日 川井駅 俯瞰昭和58年3月20日 川井駅付近にてこちらは参考写真ですが、1年半の間を空けてに、同じ場所を訪れていました。やや角度が異なりますが、ほぼ同じ位置を走る貨物列車を捉えています。正面中央が川井駅になるのですが、駅前の荒れていた山は綺麗に整備され、植樹されているのが判ります。また、駅前にはペンションだかレストランのようなシャレた三角屋根の建物が出現し、この写真と比べるとローカルさにも変化してしまったようです。たった1年半なんですがね。昭和58年3月20日 ED165+タキ折り返し列車の撮影の際、途中駅で捉えたタンク貨物列車です。どこの駅で撮ったものか、全く記憶がありません。殆どが奥多摩工業の石灰石輸送の貨物列車である青梅線でも、このような貨物列車も設定されていたようです。飯田線を彷彿させるようなシーンですね。ED16の撮影としては、青梅線にはこの2回しか行っていませんでした。この次の週にも訪れていますが、ED16牽引貨物列車の写真は撮っていなかったようです。ED16が活躍していた青梅線でのシーン。生涯忘れられないものです。あとは「さよなら列車」を残すのみとなりました。
2025.05.27
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国鉄 チキ6000:チキ6132(佐久間レールパーク)前記事でチキ6000形をご紹介いたしましたが、もう一つチキ6000の写真がありました。かつて保存車両を集めて展示していた、飯田線中部天竜駅構内に設置された「佐久間レールパーク」。ここに操重車ソ180が保存されており、伴車としてチキ6132が手をつないで展示されていました。※撮影は、平成21年8月22日 佐久間レールパークにて。ソ180+チキ6132チキ6000などの平板貨車は、主にレール輸送に使用されていますが、その昔はバスなどの大型自動車の運搬などにも使用されており、自衛隊車両の運搬は花形運用と言っていも良いかもしれません。それ以外にも、工場からの大型部品等の運搬や、この操重車の伴車などにも使用されることがあり、これらの車両はボディが白く塗装されていることが多かったようです。特に、操重車はクレーンアームが長く、車両を吊り上げるために使用する大型の機材も必要となるため、車体長があるチキが必然となっていました。私も大宮操車場勤務時代はチキに良く添乗しました。写真手前に見えますが、チキはその使用目的からハンドブレーキが設置できないため側ブレーキとなっており(チキ6000は改造による)、添乗のための手すりは昇降式で下に落としてフラットにできるようになっています。添乗姿勢が非常に不安定になってしまうため、長い時間添乗すると非常に疲れる、あまり乗りたくない車両でした。※追記何度も添乗したことがあったチキですが、殆どは空車でした。一番印象が強かったのが、キャタピラ付きの車体にカバーの掛かったチキが1両でハンプ山から落ちてきたことがあります。夜間だったのでなんの重機だろうと思って良く見たら、どうも重機にしてはゴツイな、と思いました。それは戦車でした。砲身が外してあったので、暗さもあって気付きにくかったのでしょう。今のようにデジカメがあったら、間違いなく事務所に戻ってカメラを持ってきたと思います。ソ180を含めて鉄道遺産としては貴重な存在ですが、その大きさが災いとなってしまったか、リニア館に収蔵されることなく、佐久間レールパークの閉館と共に解体されてしまったようで、非常に残念です。
2025.05.26
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20系寝台客車:寝台急行「銀河」20系時代の急行「銀河」の2回目ですが、経歴のようなものは過去ログ『EF58牽引20系寝台客車:寝台急行「銀河」』でご紹介しておりますので今回は割愛させていただきます。今回は20系客車に絞って写真をご紹介いたします。昭和52年 東京駅にて 20系「銀河」登場初期の頃鉄道ファン誌では、「20系登場の頃は急行の文字のみであった」内容の解説がありましたが、この写真を見る限り、登場当初から暫くの間は、何のマークも掲出されていなかった筈です。のちに、20系による「天の川」や「新星」が登場して少し間をおいてから「急行」という文字が入るようになったと記憶しています。「銀河」では、これより若干早く「急行」文字が入るようになっていたかと思います。昭和52年頃 品川客車区にて ナハネフ22当時は未だ20系特急の「あさかぜ」「瀬戸」も残っていましたし、上野口では「北星」「北陸」もありましたから、20系自体は珍しくありませんでしたが、急行列車に使用される20系は「銀河」が唯一であり、それまで無地だったテールマークに「急行」の表示が入っただけでも画期的な出来事だったような気がします。昭和55年 品川客車区にて整備中の「銀河」で、ナハネフ22が推進で洗浄線へ移動、そして洗浄線に収まったカニ218の写真です。「銀河」のテールマークは白地→「急行」と短期間に変化し、夜行急行列車としては初めてのオリジナルイラストマークが誕生することになります。昭和55年8月 神足~山崎間にて 下り「銀河」山陰に遠征した際、立ち寄った有名撮影地での撮影です。ヘッドマークが付いていないという理由で機関車側を撮影していなかったようですが、先頭はもちろん、EF58です。勿体無い。展望室から顔を出しているテツがウザイ写真となってしまいました(笑)。「銀河」にイラストマークが入ったのを知ったのは、もしかしたらこちらの方が先だったかもしれません。昭和56年5月 田町駅にて品川客車区へ回送される「銀河」。20系の「銀河」の写真を撮ったのもこれが最後かもしれません。この後、14系化、さらに24系25型化され、他の急行列車を差し置いて一足早くグレードアップされていくことになります。
2025.05.25
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201系:中央快速線(量産直後)過去ログにおいて、中央快速線の201系についていくつかご紹介したところですが、いずれもJR化後に撮影したものばかりでした。201系は昭和54年に省エネ電車として試作車201系が走りだしますが、性能試験等を2年近く実施されたため、量産化されたのは昭和56年になります。いつも言っていますが、この時代は全国にネタが転がっており、首都圏の通勤電車など写真に撮る対象ではなかったため、地元の京浜東北線以外の通勤型電車の記録というのがあまり残っていません。201系についても撮影対象にはなっていませんでしたが、1枚だけまともに映っている写真がありました。昭和56年12月頃 新宿駅にて元々は急行「犬吠」を撮ったものですが、当時は量産化直後でまだ珍しかった201系がちょうど並んだため、201系を含めてのツーショットを撮ったものと思われます。登場間もない201系の前面下部にはレールを含む道床が反射して写っており、ピカピカであったことが窺えます。フィルムカメラ時代に201系中央線の写真は殆ど撮った記憶はなく、国鉄時代の201系も写っていたのはこの1枚だけのようです。
2025.05.24
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EF8181牽引:お召列車(国際科学技術博覧会)昭和60年、国際科学技術博覧会=つくば万博が開催され、国鉄時代の末期において、常磐線は大いに賑わいました。各地から使用できる車両が集められ、様々な注目列車が運転されましたが、目玉の一つとして、昭和天皇のご訪問に合わせてお召列車が運転されました。お召列車と言えば、直流区間ではクロ157を使用した157系又はその後の183系による編成、そして1号編成ではEF5861の牽引がセオリーですが、常磐線には交直区間が存在しますので、ここでお召指定機に抜擢されたのがEF8181でした。指定機として整備を受けるにあたり、今でも復活してその姿を保っているシルバーラインを施したお召塗装も、この運転が起源となっています。昭和60年4月26日 小田林~小山間にて EF8181牽引 お召列車機械焼きプリントからのスキャンのため、非常に硬調になってしまいました。局報から運転ダイヤをキャッチし、友人と出掛けました。水戸線の中でも有名撮影地らしく、100人以上が集まっていたのではないでしょうか?取材に来ていたらしく、レールマガジンの記事で、列車待ちで談笑している光景にバッチリ私が写ってしまいました。EF8181は、このお召塗装がしばらく存置されたものの、民営化後に赤一色に塗装されてお召塗装が消滅し、さらに星マークがプリントされて北斗星塗装となってしまいました。永らく北斗星塗装に混じってしまいましたが、同機だけは手すりなどを銀塗装にして差別化していたのはお召指定機としての思い入れの表れであり、元のお召塗装に戻って今でも現役で活躍する同機を見ると、この当時が思い出されます。
2025.05.23
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EF81141牽引:寝台特急「北陸」上野~金沢を結んでいた寝台特急「北陸」。北陸本線内は交流区間となりますので、昭和50年3月の誕生当初からEF81が牽引していました。ヘッドマークが付くようになってからは北陸から足が遠退いていましたので、EF81牽引の「北陸」は撮ったことがありませんでした。485系「雷鳥」が無くなる前にと、往復「北陸」乗車による強行軍を実施、その行き返りに写真を撮ることができました。※撮影は、平成20年4月22日、金沢駅にて。往きに乗車した「北陸」。長岡ではダウンしていたので分かりませんでしたが、牽引機はEF81141でした。復路の「北陸」も、行った車両が牽引機もろともそのまま折り返してくるんですね。夜行日帰りとなったので、ほんと、そのままの状態でした。乗った個室も同じ部屋。発車時間が迫ってくると、隣のホームに急行「能登」が入線してきます。終焉の頃は、このシーンを撮るためにたくさんのファンが集まったとのことでした。この時点では、この光景が過去のものになろうとは思っていませんでした。また、牽引機のEF81141も、令和7年5月に廃車となってしまいました。EF641000番台牽引:寝台特急「北陸」14系寝台客車:寝台特急「北陸」20系寝台客車:寝台特急「北陸」EF58・EF64牽引:急行「能登」(旧型客車時代)489系:急行「能登」
2025.05.22
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EF8177牽引 旧型客車:お召訓練運転昭和60年4月、昭和天皇がつくば万博へ行かれた際にお召列車が仕立てられました。これに先立ち、関連各所で入念な訓練が行われたわけですが、当時の局報でその情報をキャッチ、試運転を撮影することができました。昭和60年4月 北浦和~浦和間にて EF8177牽引 試運転列車撮影日の控えが無かったのですが、4月15日前後だと思われます。実際のお召指定機は81号機ですが、この日の訓練は77号機が運用に入りました。使用客車は、旧型車7両を組んでいます。当時の雑誌レポートには、お召列車1号編成(5両編成)と重量を合わせるため、旧型車を使用したと書いてありました。お召列車に連結される供奉車(電源車含む)は、一般車に比べて重量が大きいため、7両編成にして重量を合わせたようです。首都圏でも旧型客車の列車が昭和53~57年頃(常磐線は昭和60年頃)まで残っておりましたので、その活躍を近場で見ることができましたが、EF57、EF58、EF80形の牽引がほとんどであり、全国的にも羽越本線以外でEF81牽引の普通列車はお目に掛かることはできませんでした。そういった意味では、首都圏を走るEF81牽引の客車列車も貴重でした。EF8177号機は、昭和48年8月20日生まれの日立製。酒田機関区配置で羽越本線が活躍の舞台でしたが、EF80置き換え用として内郷区へ異動後、田端区へ所属を移しつつ常磐線を中心に運用されました。その後、長岡区へ活躍の舞台を移したところで廃車となりますが、平成17年3月16日付でJR貨物に売却され、平成22年3月31日付で廃車となっています。
2025.05.21
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カニ24510:マニアックな電源車以前『カニ24510:寝台特急「北斗星トマムスキー」』でご紹介したカニ24510。この車両、その時代を知っている方からすれば非常に違和感を抱く車両であることが想像できます。平成5年11月28日 大宮工場(大宮総合車両センター)にて カニ24510写真を撮った当時は、その違和感が何かが分かりませんでしたけど。その人気から電源車の予備車がイッパイイッパイだった時代、「カートレイン北海道」が新設されることになり、その際に増備された2両のうちの1両がこの510番。※運転開始当初は、借入れで対応していたそうです。その510がほぼ3年後に新車のように展示されていた経緯は不明ですが、もしかしたらこの時に貫通扉の埋め込みなど改修が行われて出場したタイミングだったのかな?と想像しました。カニ24510のマニアックさマニアックその1・・・特異な顔つきに変身!形式名は「カニ24」を名乗りますが、実際には24系25形100番台の増備に伴って不足する電源車として誕生したもので、荷物室の拡大により車体長が19.5mと、カニ24より長くなっており、さらに平妻貫通型という、「カニ25」としてもおかしくないようなスタイルとなっていました。そんな経緯で誕生したカニ24113を種車に改造を施行。この車両は100番台の特徴でもあった貫通扉を埋められて非貫通化されました。マニアックその2・・・なぜ白帯?北斗星用の車両は24系白帯や25形銀帯を剥がして金帯3本の設定となりましたが、何故かこの510は白帯となっています。多分、500番台で白帯車はこの車両だけではないでしょうか?マニアックその3・・・実は、姿を変えて生きています北海道人気のために新たに誕生した「カシオペア」編成ですが、1編成のみで予備車がないため、電源車の故障に備えて予備車を設定することになりました。その予備車になったカヤ27。カヤ27501は、実はこのカニ24510だったんです。随分と姿が変わってしまいましたが、あまり出番はないものの、唯一のブルートレイン族現役車となっています。
2025.05.20
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富士急行線1000形:1001編成(京王色)富士急行線(現富士山麓鉄道)において、永らく同線を席巻していた元京王電鉄の5000系ですが、JRから購入した205系への置き換えが始まって以来、その数を少しずつ減少させてきました。2024年、イベント仕様に改造されているマッターホルン業を除く一般車のうち、最後まで残っていた1000系1001編成が引退することになりました。同編成は、京王電鉄時代の塗装に復刻した姿で永らく活躍し、車両番号も現車の姿に復元するなど、大変貴重な姿で楽しませてくれました。富士急行線にはほんの数回しか行ったことがありませんが、同編成を少しだけ撮ってありましたので、ここでまとめにしておきたいと思います。※撮影は、平成21年3月28日です。一番撮りたかったこの編成は、この日は朝寝坊かお昼寝のようでした。その横を私の乗った「スーパーあずさ」を追いかけてきた団体列車が駆け抜けていきました。昭和を髣髴させる並びです。一向に動き出しそうもない同編成のヨコを、新鋭元205系が通過していきます。すべての撮影を終えて帰路に着いた列車で、途中駅で眠りから覚めた1001編成とすれ違いました。車内から動揺を見せないように無理やり撮った最後のコマです。同編成は、2024年12月15日で定期運用を終え、残る元京王車はマッターホルン号のみとなりました。
2025.05.19
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キハ58系:快速「エキスポライナー」昭和60年に開催された「国際科学技術博覧会」(つくば万博)開催に伴うアクセス輸送に設定された臨時列車シリーズ。今回は、キハ58系による快速「エキスポライナー」をご紹介いたします。※撮影は、昭和60年9月5日、万博中央~牛久間にて。上り 快速「エキスポライナー」常磐線に設定されていた急行「ときわ」「奥久慈」は、奇しくもつくば万博の開催直前である60・3ダイヤ改正で廃止され、常磐線から定期のDC急行が消えたました。しかし、キハ58系は転属・廃車されることなく、「エキスポライナー」にも活用されました。グリーン車のキロ28も連結されていましたが、料金不要で開放されたと記憶しています。401・403・415系:快速「エキスポライナー」EF80・EF81牽引 12系客車:快速「エキスポライナー」
2025.05.18
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旧型国電 身延線:クモハ60かなり昔にまとめた身延線のクモハ51系の中で、1枚だけロングシート車であるクモハ60の写真が混在しているとの指摘を受けました。その後の調査である程度その正体が判明いたしましたので、クモハ60としてご紹介いたします。昭和56年7月23日 撮影場所詳細不明腕木式信号機に加え、遮断機もない、当時としてはありふれた、今となっては懐かしい風景の駅ですが、どこで撮ったものか記憶がありません。身延線のロングシート車といえば、2扉超ロングシートのクハ47や珍車クモハ41800くらいしか思い浮かばず、当時最終期しか訪れていない身延線の車両たち資料もありませんでしたので、知識はそれほどなかったですかね。ご指摘があって調べてみるまで、身延線にこんな沢山のロングシート電動車のクモハ60が居たとは知りませんでした。撮り方を工夫しないと区別の付きづらい3扉車ですので、この写真がクモハ60であるということが判明したこと自体、私的にはより貴重な記録として整理することができました。
2025.05.17
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旧型国電 身延線:クモハ51系昭和56年まで戦前型旧型国電が運用されていた身延線ですが、その中でも大勢を占めていた電動車がクモハ51形でした。クモハ51のオリジナル車は扉間の窓が6枚のセミクロスシート車となりますが、オールロングシート車のクモハ41からのセミクロス化改造車(扉間窓が5枚)や、クロスシート2扉車からのドア増設改造車も存在し、身延線にはいずれの改造車も存在しています。また、身延線の電動車の特徴は、トンネル断面が低いところから、パンタグラフ部分が低屋根化されていることにあります。今回は、身延線で撮影した51系クモハ51及びクハ68の写真をご紹介いたします。昭和56年7月23日 鰍沢口駅にて関西型の丸型通風口の付いたクモハ51。2両目はクハ47(オリジナルか先頭化改造車)のようで、リベットの個数の差が良く判ります。昭和56年7月23日 鰍沢口~落居間にてこちらは貫通幌付きのクモハ51。前面窓はHゴム化されていません。昭和56年7月23日 富士駅にて旅の終着、富士駅にて撮影したクハ68。クハ68もクモハ51と同様に、ロングシートをクロスシート化したクハ55からの改造車が存在しました。初めて訪れた身延線でしたが、すでに身延線用の115系の導入が始まっており、旧国ファンとしては緊迫感が漂っていました。昭和56年8月21日 西富士宮駅にて2回目に訪れた身延線。モハ62系は継続して使用されましたが、戦前型の運用は激減していました。側線に留置されていた車両たちも、既に運用を離脱していたかもしれません。
2025.05.16
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14系欧風客車:「スーパーエクスプレスレインボー」公式試運転国鉄時代の末期、民営化を控え、国鉄各局では増収策の一環として様々なジョイフルトレインが誕生しました。特に新幹線の延伸開業に伴って余剰となってきた急行形12系・14系客車を改造した車両が多く誕生しています。それまでの団体用車両としてはお座敷列車が中心でしたが、趣向の高まりにより「旅を楽しめる」選択肢として、洋式の豪華客車(欧風客車)へとシフトしていった時代でもあります。東京北鉄道管理局としては、やっと12系改造のお座敷客車が導入された時代でしたが、民営化に向けた新たなコンセプトの基に、欧風客車を誕生させることになりました。それが、新型欧風客車(スーパーエクスプレスレインボー)です。種車はそれまで12系客車が中心となっていましたが、地方への転用が多くなったためか14系客車へとシフトしていったようです。スーパーエクスプレスレインボーも14系客車が主たる種車となっており、センターに連結されるイベントカーのみが12系客車となっています。まずは新型欧風客車完成記念オレンジカードから。発売は東京北鉄道管理局で、枚数限定だったと記憶しています。2枚組で、外観デザイン及びイベントカーの内装完成図。誕生まで非公開だったようで、オレンジカードの作成に当たっても実車の写真は使用されていません。この時点では名称の「スーパーエクスプレスレインボー」という言葉さえ決定されていなかったようです。こちらは昭和63年のさいたま博覧会開催の際に発行されたカードのようで、当時購入したものですがあまり記憶がありません。この時点でも実車写真が使用されていませんが、デザイン上の都合のような感じですね。昭和62年3月19日 栗橋~東鷲宮間にて EF8195牽引公開試運転で初めて公の場に姿を現した「スーパーエクスプレスレインボー」のフル編成。度肝を抜かれたのは客車ではなく、圧倒的に国鉄の姿を逸脱したデザインのEF8195でした。初めて遠くから見たカマは、「DF50が牽いてきたのか?」と思ってしまうほど想像を絶するデザインだったのが、今でも鮮明に覚えています。昭和62年3月19日 蓮田~東大宮間にて EF651019牽引そしてもう1本の撮影では、また印象の違う何かがやって来ました。それは青一辺倒で活躍してきたPFが、またなんとも奇抜な色でやって来たので、これにも度肝を抜かれました。こうして「スーパーエクスプレスレインボー」のお披露目運転を無事に記録することができました。1往復の試運転で、往路・復路のカマを取り替えて運転されたと記憶していたのですが、写真を見る限りでは2枚とも上り列車となっているので、それぞれのカマで1往復ずつ、2往復が運転されたようです。光線状態から2本ともそれほど長い時間が開いている感じがしないので、運転区間も短かったようですが、残念ながらその辺りの詳細な記録も記憶もなく、不明のままとなっています。EF7115牽引:14系欧風客車「スーパーエクスプレスレインボー」
2025.05.15
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京成バス:日野リエッセ(8041)今回は、京成バスからです。もう10年以上前になってしまいますが、外回りではバスの写真もできるだけ撮るようにはしていました。しかし、当時の訪問地区ではあまり京成バスに接する機会はありませんでした。今回ご紹介いたしますのは、金町のHさんからスキャナーをいただいた際、写真撮影の途中で京成バスので車庫があったため、敷地外から撮影したものです。平成20年1月6日 京成バス金町営業所にて 日野リエッセ 804123区内ではそれなりに通勤客を抱える路線が多いため、殆どは長尺なり短尺の大型バスが使用されていますが、周辺区辺りだとマイクロを使用している地域も少しはあるようです。需要の少ない路線や狭僻な場所では、コミュニティバスがその役割を持っている場合が多いですね。このような小型バスは、三菱エアロミディME~日野リエッセ~日野ポンチョと移り変わってきましたが、日野リエッセも2011年(平成23年)に製造が終了してしまったようで、当該京成バス8041も既に廃車されてしまったそうです。
2025.05.14
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EF65:寝台特急「あかつき」「あかつき」は、昭和40年10月ダイヤ改正で誕生した、新大阪~西鹿児島を結んだ寝台特急列車です。運転開始当初から20系客車を使用していました。大改正ごとに増発が行われ、西鹿児島行きのほか、長崎・佐世保行きも誕生しています。山陽新幹線が開業する50・3ダイヤ改正直前では、7往復もの「あかつき」が設定されており、北の「ゆうづる」と並んで寝台特急としては最多本数を誇りました。ただし、「あかつき」は全社寝台特急である一方、「ゆうづる」の1往復は全車指定席の列車が1往復存在したこと、「ゆうづる」が583系と混在だったのに対して「あかつき」は全列車が客車寝台であったといった違いがあります。「あかつき」では、登場時からの20系の他、14系・24系など新型車両が積極的に導入されると共に、B寝台の2段化を実現した24系25形や14系15形のような試験的な導入車両も投入されました。また、一部の列車は「彗星」と併結されており、柔軟かつ複雑な運用が組まれました。なお、併結場合はヘッドマークの取り付けが省略されていました。平成23年10月15日平成28年5月28日令和元年5月25日いずれも大宮公開で展示された車両に「あかつき」のヘッドマークを取り付けたものであり、組み合わせとしてはすべて架空のシチュエーションなのが残念です。寝台特急「あかつき」については、山陽新幹線開業前の昭和49年に大阪に行った際、リアルに撮影していた列車で、思い入れの強い列車です。実際に、EF58が牽引するヘッドマーク付きの「あかつき」を撮影していたのですが、某鉄道写真連盟のI会長に搾取されたものと思われるうちの1枚であり、ネガも紛失していることから失われた記録として非常に悔しい思いをしています。どこから手に入れたか忘れましたが、オレンジカードが1枚ありました。山陽新幹線開業以前の関西対九州の寝台特急については、日豊本線方面が客車のみで「彗星」、鹿児島本線及び長崎・佐世保方面の客車が「あかつき」、西鹿児島行きの電車寝台が「きりしま」、熊本行き電車が「明星」、岡山発の鹿児島本線系が「月光」と、方面・車両で名称が付けられており、「あかつき」だけはやや複雑でしたが、その他は非常にすっきりと区別できました。山陽新幹線博多開業で「あかつき」は長崎・佐世保行き、鹿児島本線系は「明星」(電車寝台及び西鹿児島行き客車)に整理され、「明星」が7往復に成長しました。なお、西鹿児島行き寝台電車特急は「きりしま」→「なは」に変更されています。山陽本線特急の全盛時代に大阪に行っていながら、小学生には高額だった写真代を気にしてこれら寝台特急の写真をあまり撮っていませんでした。その中にはヘッドマーク付きのEF58を含む機関車や、20系寝台車も多く含まれており、年代的にやむを得ないこととは言え、記録に残せなかったことは50年以上経った今でも忘れることはできません。
2025.05.13
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205系前期車:武蔵野線(その1)103系淘汰のため、山手線などから集められた武蔵野線の205系。時代が流れ、玉突きによる209系500番代やE231系の次なる活躍の場として武蔵野線へ流入したことにより、103系を置き換えた205系も淘汰されてしまいました。今回は、編成番号が読めない写真を集めてみました。平成22年4月22日 府中本町駅にてこの光景も既に見納め。平成22年12月5日 新木場~塩見にて運河を渡る205系。左に見えるスカイツリーはまだまだ建築途中。平成24年2月11日 東浦和~東川口間にて寒い冬の朝。有名撮影地を往く205系。平成24年2月11日 新座~東所沢間にてワム80000終焉の頃。ここも自然一杯の場所。103系:武蔵野線武蔵野線:京葉線内快速運転101系1000番台:武蔵野線
2025.05.12
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武蔵野線:京葉線内快速運転武蔵野線は、その多くの列車が京葉線への直通運転を行っていますが、このうち東京行きはすべてが京葉線内を快速運転としていました。これは、京葉線が新木場までの暫定開業を開始した当時から続いていました。平成25年3月のダイヤ改正より、この直通運転の快速運転が解消されることになりました。それまでの記録として残っているものをまとめてみました。平成19年8月26日 葛西臨海公園駅にて M32平成20年5月3日 塩見駅にて M29平成20年11月22日 南流山駅にて M5平成22年12月5日 塩見駅にて M7平成22年12月5日 塩見駅にて M17平成23年1月18日 新秋津駅にて 209系 M73武蔵野線内はすべて各駅停車となりますが、方向幕は全線に渡り「快速」表示をしていました。平成21年10月24日 塩見駅にて M26外回りとは対象に、内回りの府中本町行きは、京葉線内だけが「快速」表示となり、武蔵野線内は行き先のみの表示としていました。平成14年5月12日 東浦和~東川口間にて 快速「むさしのドリーム」平成14年10月27日 葛西臨海公園駅にて 快速「むさしのドリーム」平成14年12月改正以前まで、京葉線内での停車駅が平日と土・休日で異なったため、休日の快速では「むさしのドリーム」という愛称が付けられ、方向幕も別に用意されていました。103系時代につきましては、過去ログ『103系:武蔵野線』でもご紹介しています。
2025.05.11
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209系:南武線平成27年度までにE233系への置き換えが実施された南武線ですが、209系が1編成のみ残存していました。青梅線で使用されていた6両1編成が改造を完了し、南武線へ転属することになったため、これに合わせて、最後に残った209系が引退となりました。平成22年5月18日 府中本町駅にて南武線も何回かは撮影に行ったことがありましたが、銀色になってからは全く無くなりました。現場回りの仕事で何度か乗車機会があり、205系は何枚か記録することができましたが、何故か209系には殆どお目に掛かってません。その中でも唯一撮影できるチャンスがあったのがこの写真でしたが、到着シーンを撮ろうとしたところ、武蔵野線の始発電車が引上げ線から動きだして並走。しかも、始発電車ですから動かない壁となってしまいました。とりあえず顔だけでもと記録しておいたのがこの写真ですが、結局これ以降現場の仕事はなくなり、記録するチャンスにも恵まれませんでした。205系0番台:南武線101系:南武線101系:南武線イベント列車「ドラえもん号」101系:南武線浜川崎支線205系1000番台:南武線浜川崎支線103系:南武線(最晩年)旧型国電 73系:南武線(立川駅)
2025.05.10
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205系:横浜線平成28年、横浜線で活躍していた205系が終焉を迎えました。昭和63年度に205系化が完了し、平成6年には山手線での実績を元に6扉車も導入されるようになりました。地元から遠いために乗る機会も写真を撮る機会も殆どなかったですが、いくつか記録が残っていました。平成18年8月5日 桜木町駅にてそれまで全く撮る機会のなかった205系横浜線。ポケモンスタンプラリーの際、初めて撮影したのは登場から間もなく20年を迎える頃となってしまいました。平成20年2月8日 新宿駅にて久し振りに撮ったのはなんと新宿駅。東京総合車両センターへの入場回送のようです。平成20年4月28日 橋本駅にて娘の水泳大会の際、横浜線を利用しました。平成20年9月6日 片倉駅にて「はまかいじ」を撮影に行った際のもの。平成21年2月28日 横浜~東神奈川間にて横浜線にヘッドマークが取り付けられるということで、珍しくそのために撮影に行きました。デジカメ修理のために数年振りにCanonF-1の登場となりましたが、やはりピンの合いが悪く、非常に勿体無いシーンでした。平成23年8月16日 地元にて 回8842M検査持ち分が変わったのか、大宮総合車両センターに入場するようになり、地元で時折見られるようになりました。平成26年7月4日 地元にて EF641032牽引 配9793レE233系の導入により海外譲渡されることになった横浜線205系は、毎週金曜日にEF64牽引で新潟まで配給回送されました。横浜線からの205系撤退により、その輸送力を遺憾なく発揮した6扉車サハ204も姿を消すことになりました。国鉄 103系:横浜線旧型国電 73系:横浜線
2025.05.09
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413系 青色:北陸本線時代北陸新幹線の開業延伸に伴い、直江津~金沢間の在来線は経営分離されました。その際、車両の一部はそのまま第3セクターに譲渡され、特にあいの風とやま鉄道では413系が使用されていました。これらの413系は、青1色といわゆる新北陸色が計5編成譲渡され、このうち最後まで残っていた新北陸色編成が2022年3月ダイヤ改正で離脱し、この5月5日にラストランを行ったそうです。過去ログ413系 新北陸色:北陸本線時代で既にご紹介済みですが、今回は塗装合理化により青一色になった413系をご紹介したいと思います。平成27年1月23日 生地~黒部間にて 544M平成27年1月23日 水橋駅にて 543M平成27年1月23日 クモハ413-2平成27年1月24日 小杉~越中大門間にて 459M平成27年1月25日 水橋~東富山間にて 540M平成27年1月25日 東富山間~水橋にて ???M平成27年1月25日 水橋~東富山間にて 542M平成27年1月25日 水橋~東富山間にて 544M合理化とは言え、なんか変な色ですね。この塗装合理化はここだけに留まっておらず、黄色とか赤とか緑とか、本当に嫌なことをしてくれました。結局はオリジナルに復刻したりとか、目標が分かりません。譲渡された413系も新鋭521系に置き換えられ、既に形式消滅となっています。
2025.05.08
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西武鉄道:4000系(パンタグラフ換装前)西武鉄道秩父線及び秩父鉄道への乗り入れ用として製造された4000系電車。101系の機器を流用し、2ドアクロスシートの車体を新造して載せた、西武鉄道唯一の形態となっており、車体色もライオンズカラーと他の車両とは全く違った雰囲気を持った車両です。西武秩父線で主に運用されており、一部は秩父鉄道に乗り入れ、長瀞や三峰口へ直通運転を行う運行形態も、登場時から継続しています。休日には、池袋から長瀞・三峰口行きとして都心からの直通運転を行っていましたが、令和2年3月のダイヤ改正において運用を飯能で分割されることになり、都心からの直通運転が消滅してしまいました。『西武鉄道 4000系:池袋発 快速急行 長瀞・三峰口行き』我が地元からすれば便の良い場所では無いため、殆ど縁のない形式。都心の走行シーンを記録するため初めて撮影したのが最期のこの時だけでしたが、過去の撮影の中で、1度だけ撮った写真が見つかりました。※撮影は、平成2年4月30日、武州日野~白久間にて。西武鉄道 4000系 快速急行 三峰口行き「SLパレオエクスプレス」をセッティングしているときに撮影したものです。昭和63年12月に運用を開始した4000系ですので、撮影時点ではまだ登場1年半ほどしか経っていません。ワンマン対応化や転落防止幌の取付けなどの改造が施行されていますが、特に外観から大きく変わったのがパンタグラフの換装でしょうか?平成16~19年にかけてシングルアーム化されましたが、登場当初は大型のひし形パンタグラフを2基搭載していました。この写真を撮ってから30余年。都心直通が消滅してしまったのもホームドア設置という時代の趨勢で仕方のないことですが、後継車の話も全く出ていませんので、もうしばらくは現状維持となりそうです。
2025.05.07
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国鉄 直流型電気機関車:EF6623EF66シリーズで、23号機です。平成22年5月2日 留置中のEF6623 黒磯駅にてGWに東北本線の貨物列車を撮りに行ったのですが、ことごとく運休となり、アタマに来て黒磯で留置中のカマを撮りました。EF66と言えば、我々の時代は東海道・山陽本線専用のカマであり、東北本線や高崎線、さらには山手貨物線すら走ることはあり得ませんでした。時代が変わり、黒磯駅の留置線にEF66が大挙して留置されている様は、とても我々の世代には信じがたいことでした。車体更新を経てクーラーの設置や飾り帯撤去、塗装の変更などで、かなり印象が変わってしまいました。昭和58年5月15日 瀬野~八本松間にてこちらが東海道・山陽黄金期のEF6623牽引貨物列車です。59・2貨物大合理化の直前で、まだ緩急車も廃止になっていませんし、写真ではワム80000ばかりですが、黒屋根貨車も削減されていなかった頃です。逆カーブのために長大編成に見えませんが、日本一の大動脈を行く重量貨物列車は迫力がありました。コンテナや鮮魚列車と言った高速貨物ももちろんEF66の魅力ですが、重厚な凸凹編成も圧巻でした。23号機は、2011年2月27日付けで除籍になったそうです。
2025.05.06
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茨城交通 茨城交通 キハ22形:キハ222過去ログ『茨城交通 キハ22形:キハ221』に続き、元羽幌炭礦鉄道からやってきたキハ222です。キハ221と同じく、留萠鉄道の廃止に際し、昭和44年に茨城交通にやってきました。羽幌炭礦鉄道キハ22形は、昭和37年にに製造され、昭和45年の廃止により茨城交通へ譲渡されました。運転席側に旋回窓を装備した最後の車両で、やはり最終期に塗装変更が実施され、スカ色となっていました。ただし、キハ11のような国鉄旧気動車標準色ではなく、クリームとブルーのいわゆるスカ色でした。平成18年4月30日 阿字ヶ浦駅にて平成18年4月30日 平成18年4月30日 金上~中根間にて平成18年4月30日 金上~中根間にて平成18年5月4日 金上~中根間にて平成18年5月4日 金上~中根間にて平成18年5月4日 那珂湊~中根間にて平成24年にエンジン故障を起こしてからは修理が終わるまで運用に就かず、修繕後に復活を果たしたものの、平成27年2月22日の営業運転をもって離脱し、そのまま廃車となってしまったということです。未確認ですが、現在も阿字ヶ浦駅にキハ2005と共に保存されているようです。2回の撮影機会しかなかった割に、コマ数が多く残っていました。
2025.05.05
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583系:急行「きたぐに」昭和43年10月、それまで大阪~青森間を結んでいた急行「日本海」が20系使用による特急寝台列車「日本海」として運転開始となるに当たり、急行列車としても残存し「きたぐに」として名乗るようになったことから、夜行急行「きたぐに」の名が定着します。運転距離が1000kmを超える長距離夜行列車ですが、寝台車両の連結区間は大阪~新潟間のみであり、新潟~青森間は実質昼行急行列車としての性格を持っていました。運転開始当初はもちろん旧型客車で構成されており、A寝台車、B寝台車のほか、普通車に全区間通しとなるグリーン車も連結されていました。昭和48年、普通座席車は12系客車にグレードアップされ、全国の夜行定期急行で、新型客車化としてはもっとも早かったものと記憶しています。こういった場合、その後のグレードアップされた事例をみると、必然的にグリーン車の連結が廃止になってしまうことが通例となっていますが、急行「きたぐに」に限ってはまだ早い時代であったためか、グリーン車の方が旧型客車と言う逆転した立場で連結が続いており、この措置は昭和53年10月のグリーン車連結廃止まで続きました。12系は昭和57年11月の改正をもって14系化されています。私も実は富山港線の撮影から飯田線の撮影に移動する際、1度だけ14系時代の急行「きたぐに」に富山~米原間を乗車したことがあります。夜中の移動となりますが、宿代を浮かした上で、飯田線に早い時間に到達すると言う目的には大変便利なものでした。昭和57年11月のダイヤ改正において、昼行区間となる新潟~青森間は、系統分割の上、特急「いなほ」に格上げされ、急行「きたぐに」の運転区間は大阪~新潟間の夜行区間のみとなります。昭和60年3月改正では長く客車列車として運転されてきた急行「きたぐに」は、余剰車両の583系を充当すると言うサプライズとなり、奇しくも583系の使用期間は客車時代を凌ぐことになるとは予想もしませんでした。運転区間やその時間から撮影に行く機会も無く、唯一撮影できたのが下の1コマです。平成23年5月4日 信越本線 茨目~安田間にてGWにクルマで久々にロングランしてきました。クルマで遠出していたのは殆どが20代までであり、この歳になってロングラン+野宿はけっこう堪えました。それでも、それほど遠くではない割りに、まして乗ったことがありながら1度も撮影できなかった急行「きたぐに」を捉えることができ、本当に良かったです。定期運転廃止後も臨時列車として残存しましたが、平成25年春臨からは掲載されなくなり、事実上の廃止となりました。
2025.05.04
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583系仙台車:舞浜臨※本記事は、2017-02-20に投稿したもので、当時の表現になっています。最後の583系として動態保存的に残されてきた、秋田車両センターの583系6連がとうとう引退すると発表されました。多分、私が鉄道に興味を示して初めて好きになった車両が、この583系でした。昭和43年から50年近くにわたって活躍してきた583系も、いよいよ最後となってしまいます。同編成が仙台に所属した時代、仙台地区からディズニーランドへの団体列車がよく設定されていました。過去ログにおいて『583系:団体列車「スターライトライナー」』として企画名付きの列車をご紹介したことがありますが、通常は特に名称の無いものが設定されていました。平成20年5月3日 京葉線 潮見駅にて運転区間は仙台~舞浜ですが、折り返しの関係で舞浜で降車後、東京駅での折り返しとなっていました。回送列車となり、比較的に早く折り返してくるため、上下とも撮影することが可能でした。また、平成27年まで運転されていた秋田セ所属のもう1編成の583系と同じ運転日になることも多々あり、近い時間で2本の583系を捉えることもできました。平成20年5月3日 武蔵野線 西船橋駅にて同日、撮影会の後の打ち上げの帰り、帰宅のために武蔵野線ホームに上がると、偶然にも戻りの583系に出会いました。フィルム時代だと撮影は難しかったですが、デジタルになってからはこのようなシーンでも記録に残すことができるようになりました。平成21年5月23日 東大宮操車場にてたまたまこちらに撮影に行った際、やはり仙台車と秋田車が同時に運転された日で、回送されてい来た583系を2本とも捉えることができました。同編成は、青森運転所からの転属を前に徹底的な修繕が実施され、登場時に限りなく近い外観を再現し、6両編成に短縮の上N-1+N-2編成として仙台電車区に配置されました。以来、対東京や磐越西線「あいづ」への代走などで活躍しましたが、485系の転入と秋田運転所の583系老朽化に伴い、平成23年8月に秋田へと転属しました。583系:団体列車「スターライトライナー」583系秋田車(初代):団体列車「わくわくドリーム」583系秋田車(2代目):団体列車「わくわくドリーム」583系:急行「シュプール上越」583系:急行「シュプール蔵王」583系:団体列車「ゲレンデ蔵王」
2025.05.03
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JR東日本 701系:東北本線(黒磯~新白河)前記事に関連し、同じく交直切替方式の変更に伴い黒磯~白河間の運用から撤退した701系をまとめたいと思います。こちらも719系と同様ですが、同じ日に撮影したものしかありませんでした。※撮影は、平成22年5月2日、東北本線 豊原~白坂間にて。後部が見えませんが、黒磯発福島行きの4連だったと思います。撮影場所を探していたときに踏切が鳴ってしまい、慌てて撮影したもの。昭和時代は有名撮影区間であり、ある程度の獣道があったと思うんですが、誰も訪れなくなったか、線路内への立ち入りが厳しくなってしまったためか、撮影場所へ辿り着く道が見つかりませんでした。2両編成には厳しいスケールの鉄橋のため、サクラを入れて撮ってみました。年にもよると思いますが、この年はGWでサクラが満開でした。クルマでの野宿をしましたが、暖房なしには耐えられない寒さでした。27年振りくらいに訪れた白坂駅構内の踏切から撮った写真です。草が伸び放題で、昔のようには撮れなくなっていました。いずれも貨物列車の撮影のために行ったものですが、10時間くらい粘って、撮れたのはたった2本だけ。貨物列車は9割以上が運休という悲惨な日で(当時はGWに貨物列車が止まってしまうことを意識していなかった)、719系や701系の写真を撮りに行ったような感じになってしまいました。東北地区では既に鋼製車の交流・交直流の残存車はなくなってしまい、この701系や719系は一番古い車両となってしまいましたので、車齢はそれほどではありませんが、世代交代の対象になってしまいました。
2025.05.02
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JR東日本 719系:東北本線(黒磯~新白河)黒磯駅における交直流切替方式の変更により、東北本線黒磯口に運用されていた交流電車が運用できなくなりました。平成29年3月14日のダイヤ改正から実施されたもので、それまで駅構内で行われていた地上切替方式が、駅間における車上切替方式となっています。このため、黒磯駅構内がすべて直流電化となりました。これに伴い、黒磯から、新たな運用の切替点となる新白河間の運用が分断され、交直直通列車が消滅。この区間は新たに増備されたE531系及びキハ110系によるアクセスとなりました。そして、従来から運用されていた701系と719系は離脱を余儀なくされました。今回は、1度だけ撮影したことのある、この区間を走る719系を記録として残します。※撮影は、平成22年5月2日、東北本線 豊原~白坂間にて。山間を飛び出してきた719系。211系と同じような姿をし、しかし、1M方式を採用した2両編成できめ細かい運用に対応しています。有名撮影地の橋梁を渡る719系編成。それは2連×4という朝のみの長編成でした。何でも、同系は最大8両編成しか組めないらしいので、この列車が最長編成となります。朝の通勤通学を担う普通列車が朝日に照らされ、都会の郡山を目指します。客車時代には当たり前であった長編成は、455系、715系といった電車化により短編成が当たり前となってしまいました。越境する区間は何処も輸送量が少なく、この区間の行く末が気になります。また、719系(改造700番台を除く)は、2020年5月を最後に除籍となってしまったそうです。
2025.05.01
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