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583系仙台車:団体列車 リバイバル「はつかり」JR東日本に最後まで残った583系。晩年は秋田車となりましたが、仙台に居た時代に団体列車による「はつかり」としての企画列車が何度か設定されました。今回は「はつかり」として仕立てられた3本をまとめてご紹介いたします。平成21年3月20日 583系仙台車「〈はつかり〉〈おおとり〉で行く北海道への旅」という企画で設定された団体列車です。前後ともイラストマークでした。平成22年10月16日 583系仙台車前回から1年半後、またも「青森行き 特急『はつかり』の旅」という企画で団体列車が設定されました。この回は、前頭が文字マーク、後部がイラストマークとなり、変化が見られました。個人的にはやはり文字マークの方が好きですね。バックに写る石川正利商店も既になくなっている。平成23年12月3日 9011M 583系仙台車またさらに1年後、団体列車「583系特急はつかり青森行きの旅」が企画されました。この日はあいにくの雨。さらに結構ダイヤが乱れたようでした。この回は、前後ともイラストマークでの運転となりました。元々青森運転所に居た車両でしたが、仙台で極力原型に近い状態に整備した際、ヘッドマークなどは交換されてしまったようで、残念ながらオリジナルの「はつかり」マークは常備されなかったようです。やはりステッカーですと、どうしても違和感が出てしまいますね。まあ、そんな文句を言っても車両があってこそですが・・・。583系:特急「はつかり」その1583系:特急「はつかり」その2485系:特急「はつかり」583系:特急「ふるさと」
2025.10.17
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E257系:特急「かいじ」平成31年3月ダイヤ改正により、中央本線(中央東線)の特急列車がE353系に統一されることになり、E257系による定期特急列車が消滅しました。今回は、E257系で永らく運転されてきた特急「かいじ」についてまとめておきたいと思います。平成20年4月5日 東中野~中野間にて平成20年9月6日 西国分寺駅にて平成20年10月11日 鳥沢~猿橋間にて「かいじ183号」平成20年10月11日 初狩駅構内にて 「かいじ103号」平成20年10月11日 大月~初狩間にて 「かいじ107号」 平成20年10月11日 初狩~大月間にて 「かいじ188号」平成29年11月29日 日野駅にて 「かいじ110号」平成29年11月29日 日野~豊田間にて 「かいじ109号」そこそこの枚数は撮っていましたが、一連の遠征での写真が殆どで、これを除くとあまり遭遇率は高くなかったようです。ヘッドマークは先頭車の形状により大小ありますが、いずれも正面がちに撮らないと写りづらく、「かいじ」を主張する写真は殆どありませんでした。平成31年1月4日 東京駅にてこちらの写真、厳密には「中央ライナー」の送り込み回送のものとなりますが、東京駅到着時に「かいじ」のままやって来たため、貫通型の「かいじ」のヘッドマークをキレイに取り込むことが出来ました。この改正で定期列車からE257系は撤退となっていますが、しばらくは臨時列車としてこの姿が見られました。183系・189系:特急「あずさ」189系 M11編成(松本車):特急「あずさ」189系:臨時特急「あずさ銀嶺」183・189系 H81編成:団体列車「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」
2025.10.16
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国鉄旧型電機 EF15(東京機関区)EF15シリーズで、今回は東京機関区所属の後期型を中心に色々と。殆どが地元での写真ですが、どの所属のEF15よりも東京機関区所属車が多く残っていました。それだけ山手貨物線系の運用が多く設定されていたものと思われます。昭和57年6月 品川駅にて EF15153品川駅で偶然撮った153号機ですが、このカマは全ての窓がHゴム化されておらず、非常に美しいスタイルのまま残っていました。東京区生え抜きのカマだと思っていたのですが、意外と流転の人生を送っており、最後までこの姿を保っていたのは奇跡と言えるでしょう。153号機昭和32年 8月14日 川崎製 新製配置 新鶴見機関区昭和37年10月 1日 沼津機関区昭和39年 1月11日 広島機関区昭和54年 1月17日 東京機関区(借入れにより53.11.9より在籍)昭和58年11月11日 廃車昭和54年頃 蕨~南浦和間にて EF15157正面窓はもちろんですが、側窓も一切Hゴム化されておりません。もうちょっとサイドの判る写真だと良かったんですが、この角度だと返って側面に凸凹がないのが良く判別できます。157号機昭和32年10月29日 日立製 新製配置 新鶴見機関区昭和34年 1月 7日 長岡第二機関区昭和37年 9月30日 沼津機関区昭和39年 5月13日 広島機関区昭和54年 5月22日 東京機関区昭和58年 8月 5日 廃車昭和55年頃 蕨~西川口間にて EF15180いずれも昭和55年頃に撮った15180号機2点です。180号機は偶然にも2枚撮っていました。180号機(他区貸し出しは多いので省略)昭和33年 9月30日 東芝製 吹田第二機関区昭和40年 9月 3日 広島機関区昭和53年10月 1日 東京機関区昭和58年 1月24日 廃車昭和57年7月頃 蕨駅にて EF15194蕨駅でまだ貨物の取り扱いが行われていた頃。東京機関区にいたのはわずか2年ちょっとだったんですね。194号機昭和33年11月10日 川崎製 新製配置 稲沢第二機関区昭和38年 9月24日 米原機関区昭和39年 8月27日 浜松機関区昭和40年 9月26日 新鶴見機関区昭和55年10月22日 東京機関区昭和58年 2月26日 甲府機関区昭和59年 6月 6日 廃車昭和55年7月頃 蕨~西川口間にて EF15195昭和56年5月頃 蕨~西川口間にて EF15195下記データをご覧いただくとお判りのように、非常に細々転々としております。この写真を撮った後、廃車を免れて身延線用として甲府に転属し、直ぐに八王子に来ています。おそらく、ED16の置換用だとは思いますが、また直ぐに貨物合理化による機関車の大量余剰の憂き目に遭い、あまり活躍する期間も無く廃車になってしまったことが伺えます。195号機昭和33年11月21日 川崎製 新製配置 稲沢第二機関区昭和38年 9月 1日 米原機関区昭和39年 9月 5日 浜松機関区昭和42年 5月20日 新鶴見機関区昭和48年 4月 1日 東京機関区昭和58年 3月15日 甲府機関区昭和58年--月--日 八王子機関区昭和59年 8月24日 廃車昭和5〇年? 蕨~西川口間にて EF15201撮影年が判りませんでした。自分で現像しているネガなので、高校生であった昭和54年後半から昭和57年くらいの間のものと思われます。EF15形機関車自体が202号機を最後に生産を終了しており、この201号機も最終型となります。201号機昭和33年 9月24日 日車・富士製 稲沢第二機関区昭和38年 9月 1日 米原機関区昭和39年 3月23日 広島機関区昭和54年 4月11日 東京機関区昭和59年 6月19日 廃車以下はナンバー不明のEF15ですが、添乗ステップが白く塗られていることから、東京機関区の所属と判明しているものです。昭和54年頃? 蕨~西川口間にて撮影時期が全く分からないコマ。多分、昭和54年頃とは思います。ブレてしまってサイドのナンバーも不鮮明ですが、形態やHゴムの白さから201号機のような気がします。昭和52年頃 蕨~西川口間にてこちらは、サイドがせっかくキレイに写っているのに、ピンボケで番号が不明になってしまったタイプ。プレート型の2ケタ番号車です。昭和52年頃 蕨~西川口間にて2ケタ番号車のようですが、朝日の逆光でサイドが潰れ、デッキが正面のナンバーに掛かって見えません。50番台っぽいです。EF15178(東京機関区)牽引:ワム80000 貨物列車
2025.10.15
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DD51牽引 貨物列車:八高線(その1)かつては八高線に多数のセメント列車が設定されており、重連仕業も多かったことから、高崎第一機関区には多数のDD51が配置されていました。比較的に近場なので、国鉄時代に数度撮影に行ったことがありました。昭和61年2月4日 重連単機昭和61年2月4日 重連セメント列車昭和61年2月4日 DD51811牽引 セメント列車昭和61年10月9日 DD51810牽引 セメント列車昭和61年10月9日 DD51811ほか重連牽引 セメント列車昭和61年10月9日 DD51815ほか重連牽引 セメント列車列車の重量換算によって重連牽引か単機牽引を分けていたようで、必ずしも重連ではありませんでした。昭和60年に列車掛の乗務が廃止になったと記憶していますが、この昭和61年時点においてはまだ車掌車(ヨ8000)が連結されているのを確認することができます。ここで撮影されたSGなしの800番台のDD51ですが、808~814号機が昭和45年6~7月に掛けて新製配置となっております。同年の2~3月に掛けてSG月の500番台である686~690号機も新製配置されていることから、この時期に一斉に無煙化が図られたものと思われます。このうち500番台のカマと814号機については、民営化を待たずに昭和62年2月に廃車となってしまい、わずか17年弱で命を落としています。また、ここで撮影された800番台は、814号機を除き民営化後もJR東日本に継承されましたが、平成10年から平成13年に掛けて役目を終えています。
2025.10.14
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クハ180:特急「とき」181系クハ180は、横軽通過用に連結器の開放装置を装備した車両で、クハ489-0番台車と同様に開放テコを常設していました。これは、補機となるEF63の双頭連結器にある自動連結器のナックルが固定式(一体)であるため、機関車側での開放作業が出来ないことによるものです。開放作業を特急列車側に求めたために出来上がったスタイルと言えるでしょう。運用は「あさま」用と言って良いと思いますが、同じ長野車の運用である「あずさ」にも使用されていました。しかし、協調運転が出来ないことから編成が8両までとされたため、輸送上のネックになっていました。その後、189系の誕生によって12連化が可能となり、これに合わせて昭和51年、早々に専業である「あさま」から撤退することになります。そして、任を解かれたクハ180は、181系唯一となる「とき」に使用されるようになりました。昭和52年頃 上野駅にて文字マーク時代の「とき」。やはりこの組み合わせが良いですね。昭和54年頃 蕨~西川口間にて53・10改正から約1年後、ボンネット型にもイラストマークが導入されました。古い181系には色合いと言い、似合いませんね。昭和54年頃 上野駅にて昭和56年頃 蕨駅にて昭和56年8月 南浦和~蕨間にて昭和56年8月 蕨~南浦和間にて撮影時期不明 蕨~西川口間にて写真を本格的に撮り始めた頃は、どうもこの車両があまり好きではなかったらしく、クハ180の写真が殆ど無い状態でした。したがって、文字マークのクハ180は上野駅で撮った1枚だけのようです。ロングスカート車への注目が強かった頃でしょう。その後、全国に先駆けてボンネット車へイラストマークが入るようになり、181系のイメージを損ねることとなってしまいました。この頃から特急列車の写真への写欲が薄らいでしまいましたが、それでも貴重となったクハ180は良く撮っていたようです。クハ180は全て100番台に該当する形式で単一ですが、何故か-5のタイフォンだけは開閉式のカバーが付いていました。
2025.10.13
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JR東日本 DE101705&DE101752令和7年10月9~10日にかけて、ぐんま車両センター(高崎車両センター)に所属していたDE101705とDE101752が、共にEF81140に牽かれて秋田へ向けて廃車回送されたそうです。今回は、DE10シリーズとしてDE101705号機とDE101752号機を2両まとめてご紹介したいと思います。平成20年8月22日 高崎駅にて DE101705「SLみなかみ」号に乗りに行った際、帰路にて撮影したもの。高崎駅に到着後、D51は直ぐに切り離され、DE10が牽引してセンターへと回送されます。茶色に塗り替えてからかなりの期間を在籍していましたが、同機に出会ったのはこのときのみでした。1705号機昭和49年 7月31日 川崎重工製 篠ノ井機関区新製配置昭和50年 1月 1日 東新潟機関区昭和50年 2月27日 北見機関区昭和60年 9月15日 東新潟機関区昭和61年10月 9日 高崎第一機関区~高崎運転所 塗装変更昭和62年 4月 1日 JR東日本へ継承 昭和62年10月以降、組織変更等により宇都宮運転所~高崎車両センター~ぐんま車両センター※北海道時代の旋回窓は、高崎第一機関区転入時に改造されたそうです。平成22年11月20日 尾久車両センターにて DE101752こちらは尾久公開で捉えた1752号機。このカマも上京が少なかったのか、捉えたのはこの時だけだったようです。1752号機昭和52年 9月20日 日本車輛製 盛岡機関区新製配置昭和53年10月29日 熊本機関区昭和58年~59年 宇都宮運転所昭和61年 3月12日 田端機関区昭和62年 4月 1日 JR東日本へ継承以降、組織変更等により宇都宮運転所~高崎車両センター~ぐんま車両センター※九州仕様の赤ナンバーは、平成16年1月に白ナンバーに変更されたそうです。
2025.10.12
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ED75牽引貨物列車:東北本線(国鉄~JR)平成30年1月2日、東北本線黒磯駅における交直流切替が地上方式から車上方式に切り替わりました。母親の田舎が南東北である私からすれば、毎年2~3度は通う東北本線で、黒磯駅と言えば関所のような存在でした。これは、普通列車の乗り換えばかりではなく、必ず停車する急行列車でも、通過となる特急列車にしても駅又は駅構内で受ける儀式であり、このことは幼少の頃から身体に叩き込まれてきたものでした。そんな黒磯駅でしたが、全国で一般的な駅間による車上切替方式へと移行され、車内灯が消え静寂を味わい、パンタの上げ下ろしと同時に電気が点灯してコンプレッサがフル回転して唸るような体験を味わうことができなくなってしまいました。今回は、ED75が牽引する貨物列車に及び黒磯駅に係るものとし、走行区間については東北本線全線としました。昭和58年10月5日 黒磯駅にて ED7583他重連牽引 上り貨物まずは国鉄時代。黒磯駅5番線脇の上り側線に停車中のED75重連牽引の貨物列車。当時だと、EF15かEF60、或いはEF65へのバトンタッチとなるシーンです。本来なら出発待機は直流機が連結されていますが、到着してすぐに撮影したものかもしれません。83号機は、民営化直前の昭和62年2月6日付で廃車となっています。昭和58年10月5日 黒磯駅にて ED7578これも同日に黒磯駅で撮影した78号機。おそらく、上の写真の側線のさらに隣の留置線で留置中の78号機と思われます。本来、交流機の留置場所は仙台寄りにあり、ここに交流機を留置しているところはあまり見たことが無いような気がします。所属札が「長」になっており、当時の長町機関区所属を表しているのも懐かしい。78号機も、民営化直前の昭和62年2月6日付で廃車となっています。昭和59年10月14日 矢吹~泉崎間にて ED7516他重連牽引 高速貨物列車59・2の貨物大合理化後に撮影したものですが、先頭は若番の16号機であり、運良く即廃車を免れたカマでしょうか?後に連なるはコキ50000を中心とした高速貨物列車で、車掌車連結廃止前ということもあり、コキフ50000が連結されています。16号機も、民営化直前の昭和62年2月7日付で廃車となっています。昭和59年10月14日 矢吹~泉崎間にて ED75704牽引 ワム貨物列車こちらも同日に撮影したもの。本来なら奥羽本線や羽越本線でしか見ることのできなかった700番台が牽引しています。59・2大合理化で初期車を大量に整理したため、車齢の若い700番台も広域で異動したようです。後まで写っていないので詳細は分かりませんが、ワム80000ばかり組成されていますので、紙輸送の列車かもしれません。704号機は、JR貨物に継承され、平成8年3月29日付で廃車となっています。昭和62年8月 撮影場所不詳(多分渋民辺り) ED75143他重連牽引 コンテナ列車こちらはJR化間もない頃に撮影した写真で、かなり北部になります。列車は短編成ながら重連牽引となっており、先頭の143号機にはJRマークが貼ってあります。殆どのカマはJR移行時にステッカーが貼られたと思っていたのですが、次位の機関車(カマ番不明)には貼られていないようです。編成の中間にはコキフ50000が連結されていますが、既に一部の長距離列車?を除いて列車掛の乗務は廃止されており、しばらくの間はコキ代用として使用されていたようです。平成2年7月1日 高久~黒磯間にて ED75143牽引 コンテナ貨物列車さらに南下して高久駅に近いところ。今の輸送と同じようなスタイルですが、この列車にはまだコキフが連結されているようです。長距離の直行コンテナ列車では、少しの間だけ車掌業務が残っていたような話を聞いたことがあります。143号機は、JR貨物に継承され、平成20年4月1日付で廃車となっています。平成2年7月1日 矢吹~泉崎間にて ED75120牽引 車扱い貨物列車再び南部地域での撮影。ワムとタンク車が連結された短編成の車扱い貨物列車のようです。JR化直後はまだ車扱いの特殊なタンク車を使用した列車が多数設定されていましたが、徐々にトラック輸送への切替が進み、今では石油類やごく一部を除いて殆どが廃止又はコンテナ輸送へと切り替えられてしまいました。120号機は、JR貨物に継承され、平成12年8月2日付で廃車となっています。平成23年7月8日 須賀川~安積永盛間にて ED751029牽引 コンテナ貨物列車こちらは今と全く同じようなスタイルのコンテナ列車です。1000番台を使用していますが既にP型の役割は終わっていますので、一般型と700番台は共通であったと思います。それでもまだEH500は製造数が少なく、ED75が主力の時代でした。1029号機は、JR貨物に継承され、平成18年3月30日付で廃車となっています。EH500が台頭するまでは殆どの列車が黒磯駅で機関車交換を行い、EH500へ完全に移行された後もEH500の走行距離を抑えるため交換作業を残していました。しかし、津軽海峡線における運用をEH800に移行したことによりその調整も解除され、EH500のスルー運転化が可能に。今回の切替方式の移行もこのことによって実現できたものと思われます。
2025.10.11
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銚子電鉄 デハ1000形:デハ1001銚子電鉄デハ1000形は、元営団地下鉄銀座線で使用されていた車両です。1994年(平成6年)に入線し、平成27年1月にデハ1002が運用を終えて除籍されましたが、残っていたもう1両のデハ1001が平成28年2月28日の運転をもって運用を終えました。同車が銚子電鉄に導入されてから1度しか訪問しておらず、当時の旧型ばかり着目し、1000形はあまり撮っていませんでした。天気も悪くて写欲が湧きませんでしたが、復路に1区間のみ乗る機会がありました。撮影は、平成20年5月3日、外川駅にて。外川駅に停車中のデハ1001。当時は桃太郎電鉄の塗装となっていました。経営状況の厳しい同鉄道が、ハドソンの援助を受けて実現した。楽しいラッピングですが、オリジナルの良さが全く無くなり、鉄道ファンとしてはあまり魅力を感じません。車内もとにかく桃太郎電鉄一色と言ったところ。このような車両に乗っても落ち着かないですが、もし支援がなかったかなり荒廃したまま運用されていた可能性もあります。この時は2連運用となっており、デハ702と手を組んでいました。同じ鉄道の電車ながら連結器が統一されておらず、中間連結器によって連結され、さらには総括制御が出来ないため、2名の運転手による協調運転となっていました。平成24年8月からは銀座線使用時と同じカラーとなって活躍していましたが、車内は桃太郎電鉄のままであったようです。日立電鉄の廃止以降、銀座線用車両の活躍する最後の路線でしたが、伊予鉄道からの譲渡車に後進を譲り、引退となりました。デハ1001は、昭和の杜博物館で保存されているそうです。
2025.10.10
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国鉄 直流型電気機関車:EF6635EF66シリーズで、35号機です。平成22年5月18日 西国分寺駅にて現場仕事のお昼の移動途中、空いた時間を利用して西国分寺駅に寄った時のものです。列車ダイヤを全く知らなかったのですが、着いてすぐに接近放送が入り「ラッキー」。と思ったのも束の間、無情にも手前番線に接近放送が・・・完全にカブられてしまいました。でも、反対から現れたEF66が見えます・・・隠れません。なんと、手前の列車は長大編成ながらも、コンテナが1個も載っていなかったのです。だから、フツーにEF66の牽引するタンカー列車が撮れてしまいました。この列車が来ることも、このスジがEF66であることも、タンカー列車であることも、カブられることも、手前の列車がカラだったことも、すべての偶然が重なった不思議な絵になりました。35号機は、2013年度に除籍になったそうです。
2025.10.09
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国鉄 153系:東海道本線 普通列車過去ログで153系を使用した急行列車をいくつもご紹介しておりますが、今回は東海道本線で急行「伊豆」の間合いで使用されていた普通列車運用の写真をいくつかご紹介したいと思います。昭和52年初頭 平塚駅にて一眼レフを買って初めて撮ったフィルムからの写真です。雪と153系の唯一の組み合わせとなってしまいました。こちらは10連の普通列車ですね。昭和56年9月 品川駅にて 下り普通列車この年から、自らの存在を脅かすことになる185系特急形電車が登場しました。153系は185系の登場と共に徐々に置換えが始まったため、普段はあまり撮ることのなかった153系も撮ることが多くなったような気がします。しかし、東海道の153系は普通列車との共通運用が多かったため、写真を撮っても急行か普通かすら判らない存在でもあったため、このような角度でサボが写っていないと判断が付きませんでした。昭和56年9月28日 保土ヶ谷~戸塚間にてまだ東戸塚駅の開業前でしたかね。急行だと思っていましたが、拡大して見たら、どうも普通列車のサボのようです。東京口の153系は、113系普通列車との編成を合わせるため、10+5の編成、4・5号車へのグリーン車連結と、完全に同一の編成となっていました。もちろん、10両編成も15両編成もありましたが、2ドアゆえに混雑時の対応では遅れの原因ともなり、185系の導入と共に徐々に普通列車の運用から外れていきました。一方、東海道線西部では、宮原電車区に配置されていた新快速用を含む153系の老朽化に伴い117系に置き換えとなり、急行「鷲羽」の廃止と合わせて153系が無配置となります。ここから状態の比較的に良かった車両を大垣電車区等に異動させることにより、中京地区で使用されていた155系・159系を淘汰の上、冷房化の促進を図りました。この異動には新快速色の153系も含まれていたため、特に名古屋~米原間を中心とする運用には、同色を混結した普通列車が日常的に運用されていたようです。昭和55年8月 大垣駅にて 普通列車に転用された153系「新快速」色ヘッドマークがつかないのは残念ですし、混色でない整った編成は無かったようです。また、このときの旅程で大阪に立ち寄ったとき、急行「比叡」の中間にクハ153低窓の「新快速」色を連結していたのを見ました。先頭だったら良かったのですが。昭和55年8月 木曽川~岐阜間にて新快速色を最後部に連結した大垣区の153系普通列車です。もしかしたら、上の写真と同じ編成かもしれません。8両編成ですが、3両は非冷房のままの車両となっていますので、残り期間を考えると、冷房化されないまま廃車になったものと思われます。昭和58年4月16日 西小坂井駅 側線にて クハ153501高窓車のトップナンバーである501号です。既に廃車前提の休車として留置されており、非冷房のモハユニットや、155系も手を携えて最期の時を待っていました。昭和57年11月改正でかなりの範囲で急行列車が整理されたため、165系や169系に大量の余剰が生じました。このうち、神領電車区や大垣電車区に165系を移動させることにより、残存していた非冷房の急行形を一掃したようです。この時点で冷房改造車であった153系も殆どが運用をなくし、生涯を終えました。それは、飯田線における80系全廃と時を同じくしており、新性能車としては比較的短い命だったことを窺わせました。153系:新快速153系:急行「比叡」153系:修学旅行列車 急行「こまどり」165系:東海道本線 普通列車113系:東海道本線 普通列車JR東日本 211系:東海道本線(東京口)E217系:東海道本線 普通列車
2025.10.08
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「北斗星」用客車:スシ24500(JR東日本)今回は、寝台特急「北斗星」の食堂車として使用されたスシ24500番台です。形式写真と言えるほどキチンと撮ったものはありません。こんな車両があったという気持ちのみの資料です。「北斗星」誕生当時、まだ東海道スジ等で食堂車を連結した寝台特急は何本も残っていましたが、分割民営化後にJR東日本に継承されたオシ24は限られており、「北斗星」の運転開始に伴って必要となる食堂車は、新たに製作することなく余剰車として保留となっていたサシ481及びサシ489からの改造車で賄うことになりました。平成22年11月20日 スシ24505 尾久セ平成24年2月5日 スシ24505平成24年6月3日 スシ2450?平成25年3月24日 スシ2450? 回9501レ珍しく試運転編成に組み込まれ、さらに最後部という変わったポジションに連結されました。平成25年11月24日 スシ24507平成25年12月8日 スシ24507平成26年3月9日 スシ24504 尾久セ平成26年11月3日 スシ24507平成26年11月15日 スシ24×2 尾久セ尾久車両センター公開時、珍しく2両連結された状態で留置されていました。平成27年1月12日 スシ24504平成27年2月7日 スシ25506平成21年11月26日 唯一撮っていた上野駅での積み込み風景。こうした光景をもっと撮っておけば良かった。平成27年8月23日 上り「北斗星」最終列車 スシ24506最後は506号でした。電車特急の食堂車として活躍した期間は20年を下回り、改造により「北斗星」として活躍した期間は27年を超えます。ブルトレとして誕生したどの食堂車たちよりも長生きすることとなり、何より一番驚いていたのは、天寿を全うした彼らたちだったと思います。
2025.10.07
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上田交通:5000系長野県上田駅と別所温泉を結び、丸窓電車が話題となった上田交通。直流750V電化で旧型の小型車両による運転となっていましたが、昭和61年10月1日に1500Vへの昇圧。これに伴い、東急電鉄で余剰となっていた5000系を譲り受け、上田交通5000系として2両×4編成が運用されるようになりました。平成元年11月1日 上田交通別所線 下之郷~中塩田間にて当時の愛車、トヨタスプリンター1500SRと一緒に記念写真。5000系はローカル私鉄の近代化に貢献しましたが、非冷房車であったことから7年弱しか活躍することができず、後進で同じく東急電鉄から譲り受けた7200系によって全車が置換えられました。
2025.10.06
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JR東日本 DE101649DE10シリーズで、今回はDE101649号機をご紹介したいと思います。昔はどこにでも居たDEには写欲が湧かず、特に国鉄時代にはあまり撮ることはありませんでした。1649号機は東北地区に根を下ろしていたカマであり、撮る機会もなかったはずでしたが、1度だけSL撮影の際に撮ったものがありました。平成13年7月8日 安積永盛~須賀川間にて 送り込み回送2001年夏臨でD51498牽引の12系客車による「SLうつくしま未来博号」が設定されました。それまでのSL列車は郡山~会津若松間であり、須賀川始発となるSL列車が珍しい。平成13年に「美しま福島未来博」が開催され、このイベントに合わせて設定されたらしいです。詳細な記録を取っていなかったので調べたところ、前年同時期にも設定されたようで、2年連続の運転となったようです。須賀川は母親の実家に行くときの拠点駅であったため、地方駅では断トツに利用回数の多かった駅でした。そんな思い入れもあったため、磐越西線内の撮影に行く前に東北線内で迎えました。郡山~須賀川間はDEによるPP送り込み回送が行われ、これを務めていたのが1649号機でした。1649号機は、川崎重工製で昭和48年12月16日落成。新庄機関区(→新庄運転区)に配置され、そのまま民営化に際してJR東日本に継承され永く活躍しました。平成12年12月2日に磐越東線営業所(郡山総合車両センター)に異動となり、客車列車が大削減される中も生き残りました。誕生から50余年、令和7年10月1日、とうとうその役目を終え、秋田送りとなってしまったようです。国鉄に入社した時は「新しいカマ」であり撮影の対象にすらしていなかったDE10も、東日本では残りわずかとなってしまいました。
2025.10.05
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平成30年 品川駅線路切換工事関連:京浜東北線※本記事は、2019-11-16に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年6月17日、品川駅の線路切換工事に伴う区間運休が実施され、上野東京ライン及び京浜東北線で行先変更が発生しました。このうち、地元を通る上野東京ラインでは、上野行き以外の東海道本線直通列車は東京行きに変更され、また、京浜東北線では上野~品川間が運休とされたため、南行電車が東十条行き又は上野行きになるという、非日常的な行先に変更されての運転となりました。E233系 東十条行 8603B京浜東北線は10:40までの行先が変更となるため、どの南行電車を撮ってもOK。最初の1枚は構図を失敗しましたが、行先表示の写りが良かったのでトリミングして完成品としてみました。E233系 上野行 8661A最初に目の前を通過した電車が上野行きで、東十条行き→上野行きと続いてきたので、どうも交互に行先を変えているようです。E231系 上野東京ライン 東京行上野東京ラインの東京行きも目的の1つで、いきなり来た233系を撮ったのですが、残念ながら上野行き。その次は残念ながらE231系でした。その次もE231系・・・E233系 東十条行 8605A東十条行きをもう1枚狙ってみましたが、残念ながら表示が切り替わらず・・・蕨駅 改札案内表示停車中の上野東京ラインを撮影するため、赤羽駅まで移動することにしました。次の電車は上野行き。E233系 上野行 8605Bこれに乗って移動開始。こんな事態に結構なお客さんが乗っています。上野行き 車内表示行先が小さく、次の停車駅が表示されますが、発車した直後だけ行先が大きく表示されます。赤羽駅 ホーム案内表示上野東京ライン狙いで赤羽駅に下車したものの、来た列車はなんと「熱海行」。上野東京ラインは7:40までが行先変更となっており、この撮影時点で既に変更終了時間に到達してしまったようです。東十条行 車内表示次に来た南行電車はお隣の東十条行き。ネタ取りのため乗ってみます。表示を撮影したのですが、終点になると行先表示が出なくなってしまうんですね。知りませんでした。昔は南行最終電車が東十条行きだったのですが、多分、赤羽駅の高架化辺りの改正で赤羽行きに変わってしまったようで、現在は存在しません。東十条では当然に中線に到着。もう40年以上も京浜東北線を利用していますが、大宮方から中線に入ったのは人生初です。赤羽駅でも工事による行先変更を放送していましたが、今の人たちってほんっとに人の話を聞いていないんですね。試合系の若者団体を含め大量の乗客が乗り込み、東十条駅で降ろされて疑問を呟いたり文句言ったり。呆れます。そんなこんなで、東十条駅南行ホームは朝のラッシュ帯でも見たことの無いような大混雑となりました。西日暮里駅 ホーム案内表示この後の想像がついたので西日暮里駅で下車し、ここで最後の撮影。ここでは乗換客も少なく、休日の朝らしいひっそり状態でした。東十条行きがなくなってしまうため、上野行きが10分に1本となります。E233系 上野行 8711A進入は「京浜東北線」にやられました。しかも1/320秒で文字切れ。E233系 上野行 8703A今度は成功したと思ったものの、拡大したらブレてました・・・朝早くから起きていたので、この辺で撮影を終わって地元に戻ります。E233系 上野行 8807AE233系 東十条行 8861A帰路の車内でチェックしていましたら、東十条行きの写真が少なかったようなので、蕨駅にて延長して撮影しておきました。E233系 東十条行 8813A郵便局のATMに寄って、さらにダメ押しで。この後もまた実施されるんですかね?まあ、良い記録になりました。上野行きの処理について、私の予想では田町まで山手線の線路を走らせ、折り返して戻ってくると踏んでいたのですが、それだったらもうちょっと先まで客扱いができる筈。しかし、実際に上野行きに乗ってみたところ、そのまま外側線を走行しました。情報によると、上野駅の鶯谷寄り引上線を使用して折り返しを実施したらしいです。中線への引上げ、出線はいずれも山手線を横切ることになるので、滅多に使用されることはありません。とても珍しい作業になった訳で、これを確認に行かなかったことをちょっと後悔しました。
2025.10.04
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E231系:みどりの山手線(伊右衛門)前回の50thヘッドマーク付の後、広告ラッピングが施されました。その第1弾が「伊右衛門」です。運転期間は、平成25年2月18日から3月17日の4週間で、ADトレインと合わせて設定されています。平成25年3月10日 日暮里駅付近にてダイヤ改正前、日暮里駅で写真を撮っているときに偶然通り掛かったもの。狙っていたわけではないのでしょーもないアングルなのはご愛嬌です。お茶なので緑色を利用してイメージそのまま行けるという発想でしょうが、当時のコメントとしても「個人的には、何だかそういう発想そのものが下品に見えてしまうんですけど。」といった内容が残されています。「せっかくの50周年はどこへ?」とも。
2025.10.03
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国鉄旧型電機 EF1545(八王子機関区)EF15シリーズ、今回は八王子機関区所属の45号機です。昭和54年頃? 撮影場所不明当時は駅撮りのスナップの記録を取っていないので、全くもって不明な写真です。別編集した際、東京機関区の所属で上野駅で撮影したものとばかり思っていたのですが、同機は東京機関区に所属した経緯は認められず、上野駅に居る可能性はないと判断しました。では何処で撮影したのか?私が良く駅撮りをした記憶だとすると品川駅か東京駅となりますが、ここでも同機が貨物列車をホームまで引いてくる可能性はありません。だとすれば、新宿駅か八王子駅くらいしか該当駅は無いのですが、新宿や八王子と言うのは撮影で訪れたのがほんの数回で、まったく記憶に甦ってきません。何でこんなドアップで撮っているのかと言えば、この頃はFD300mmを手持ちで振り回していて、何でもかんでも望遠で撮っていたんです。かなり無理がありますし、ブレちゃってます。周りの状況が判ら無い分、分析するのが難しい記録となってしまいました。45号機昭和26年12月26日 川崎車両製 沼津機関区昭和55年 3月35日 廃車 八王子機関区
2025.10.02
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485系:特急「いなほ」(非貫通型)「いなほ」は、上野~秋田を上越・羽越本線経由で結んでいた特急列車です。誕生当初は羽越本線に非電化区間が残っていたため、「つばさ」のキハ181系化により押し出しとなったキハ81系が使用されていました。昭和47年に羽越本線が全線電化となり、これに合わせて青森運転所の485系が使用されるようになります。また、上野~青森間を結ぶ1往復が増発され、2往復体制となりました。今回は、485系300番台、1000番台、1500番台非貫通型の写真を並べます。昭和51年 大宮駅にてオートハーフでの写真なのでブレてしまっています。まだ駅撮り写真も駆け出しの頃、良い写真があまり残っていません。昭和52年頃 上野駅にて一眼レフを手に入れた頃で、やや構図に安定感が出てきました。17番線と18番線の間には大きな荷役ホームがありました。私的には、一番昭和の上野駅らしいシーンだとおもいます。昭和54年頃 蕨~南浦和間にて53・10改正からイラストマーク化されました。このころから自分で現像するようになったため、モノクロ写真が多くなります。昭和55年頃 川口駅にて趣味誌に掲載する写真の撮影を依頼され、苦し紛れで沢山撮りました。しかし、結果はみんなボツ。確かにこんな映りじゃ・・・。昭和56年頃 蕨~西川口間にて編成がキレイに整っていることから、秋田区の1000番台ではないかと思われます。当時は1日2往復の「いなほ」が設定され、秋田行きは秋田車、青森行きは青森所の編成が運用され、秋田区は食堂車を除き全て1000番台に統一されていました。昭和56年5月 蕨~南浦和間にてまたまたこちらは南浦和間ですが、カラーで撮っています。併走する京浜東北線のスカイブルーも今となっては懐かしいですね。昭和56年5月 西川口~蕨間にて昭和57年1月 西川口~蕨間にてまた全く同じような構図ですが、撮影した日がかなり違うようです。上の写真はイマイチ判別が利きませんが、下の写真は後部の方にAU12(キノコ型クーラー)を積んだユニットが連結されていますので、青森所の300番台のようです。昭和57年6月 赤羽駅にて高架化前の赤羽駅大宮方の跨線橋から撮った写真。当時は京浜東北線だけが土盛り高架で、ホームの切れた直ぐのところに大踏切がありました。このホームは傾斜が付いて踏み切りにすり合わせしてあり、3・4番線ホームの名物であったミルクスタンドに運ぶ牛乳をリヤカーいっぱいに積載して上り下りしていたものです。昭和57年11月6日 上越線 湯檜曽~水上間にて1週間後に上越新幹線の開業、さらには「いなほ」の上越区間の廃止を目前にした日に撮影に行きました。あまり良く憶えていないのですが、非常に天気が悪かったようで、大変写りの悪い写真になってしまいました。昭和61年9月9日 奥羽本線 鷹ノ巣に近いところ(多分)新幹線アクセス特急転身後の姿です。前後にクハ481-1500番台を連結した編成。この頃の運用は良く分かりませんが、新潟・秋田・青森の車両が入り乱れて運用されていたのではないかと思います。JRになってからは、「つばさ」にも1500番台が運用されていましたので、どの時点で何処に1500番台が居たのか良く分かりません。485系:特急「いなほ」(貫通型)485系:特急「鳥海」
2025.10.01
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