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【泉涌寺】 (せんにゅうじ)真言宗泉涌寺派總本山 御寺と書いて、 「みてら」 と称します。皇室に縁あり、 当初、弘法大師が草庵を建てられ、「法輪寺」とされました、 楊貴妃観音堂そして再び「山門」に戻り、広場の坂道を下った正面に、【仏殿】があり、高坐に「運慶作」と言われる「釈迦・阿弥陀・弥勒」の三尊が祀られています。天井の龍の絵と堂裏に画かれた「白衣観音菩薩」絵は、「狩野探幽」の作です。「涅槃図」も有名です。仏殿が坂下にそして仏殿にまつられた三尊像の高さと門をくぐる人間と同じ高さに仕組まれています。人仏一帯の精神です 【霊明殿】四条天皇を始め、歴代の天皇・皇后・親王のご位牌が奉納されています。 霊明殿 本坊霊明殿の奥には、別世界の様に、東山を背景にシーンと鎮まり返った雰囲気の御陵「十二帝陵」が有り、今回も両陛下が玉串の奉納を捧げられました。小鳥もさえずり自然の静けさは心が洗われます。御陵の入口 十二帝御陵東山が背景【舎利殿】(しゃりでん) 御釈迦さんの分骨を祀る舎利殿 【泉涌水屋形】 (せんにゅうすいやかた)今でも泉が涌いて居ます。泉涌水屋形 【清少納言の歌碑】屋形のそばに建てられています。皇室のお傍に仕えられて歌碑が遺されています。 清少納言の歌碑並んだ位置屋形のもみじ菊花展 明日は、泉涌寺の塔頭【雲龍院】に参ります。
2014.06.30
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京都 栂尾(とがのお) 高山寺 恋に疲れた 女が一人 大島紬(つむぎ)に つづれの帯が 影を落とした 石畳 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人【高山寺】 (栂尾高山寺) 真言宗 開基 明恵(みょうえ) 世界文化遺産に登録 急な坂道 高山寺 石水院の入口の門廊下伝いに暫し歩みますと、国宝【石水院】 (せきすいいん)があり、廊下には、影絵の様な形で 【蟇股】 (かえるまた)のシルエットがとても芸術的に美しいです。 国宝建物【石水院】此処が一番趣の深い写真と思います。観る人によって感動は違ってくるでしょうね。 たまたま思いに耽っておられる女性のかた身動きなしでした額には、 「日の出先ず高山寺を照らす」と漢文で書かれています。鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅額で寺名ともなりました。 床の間には、国宝【明恵上人の樹の上で座禅姿】の屏風が飾られています。 国宝の掛け軸です。明恵和尚さんが樹の上で瞑想されているお姿です。又、本間の横に、 国宝【鳥獣人物戯画】 全4巻の写しが置かれ、蛙と猿が人物的表現で戯れている図で、愉快に成ってきます。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の筆と言うことです。ガラスケースでしたが、何とか写せました 又本間に運慶作の可愛い「子犬の像」が何とも微笑ましくお客様を迎えています。仏師 運慶が彫ったという子犬です可愛いですね 外に出ると、日本最古の茶園が狭いですが、存在し「明恵上人」が「栄西禅師」から、中国から持ち帰った茶の種を贈られ。馬の歩む足跡に従って植えることを教えられました。「日本最古の茶園」 茶園の様子 宇治の「黄檗山万福寺」にも門前に有ります。 大杉の階段を登りつめました 開山堂(明恵上人)を祀っています一番奥に本堂【金堂】がひつそり建っていました。金堂前の急な石段石畳 高山寺の駐車場から更に国道を北に向かいますと清滝川にそって。北山杉の群れがずっと続きます。天皇陛下が皇太子の頃に妃殿下とご訪問された由緒ある林です。北山杉の群れ 国道に沿って続次回は泉涌寺です。
2014.06.29
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昨夜文英堂からおくられてきました本にわたしのブログの【方広寺の釣鐘】が採用され教科書は参考書が正当でした 謹んでお詫びします高校【これでわかる日本史B】に掲載されていました多くの方々の祝意のお言葉拝受し 光栄で感謝一杯です 夢のようで家宝として大切に残していきたいと思っています本当に有り難うございました 高雄三尾 高雄 槇尾(まきのお) 栂尾(とがのお)矢張り最終は世界文化遺産にしたいです。高山寺に写真を撮ることを目的で、もみじももそこそこでした。 帰途、空車のタクシーも通らず、次のJRバス停前で、小さいうどん屋さんで昼食、二組6人のお客さんが外人さんでした。店の地元のおばさんの勧めで高雄方面の最も早く紅葉するといわれる西明寺が直ぐ側だから是非にということで、既に弱い脚を使い切っているので、そろりと訪問してきました。此処もタクシー観光では通過地点ですので、初めての訪問となりました。 西明寺参道 入り口に架かる清滝川の橋【槇尾山西明寺】 真言宗大覚寺派江戸時代の再建には、徳川綱吉公の母君 桂昌院が寄贈したとされています。門前やはり此処も石段を登り、山中にお堂が建っていました。でも神護寺ほどではなくホッとしました。門前のもみじ門前では手箒てで常に掃除しておられました。本堂前の戸灯篭釣鐘1回百円・撞いて来ました。静かさが山に響きました。手を合わせて、目をつぶり暫し思いに耽っていました。虎の絵の屏風もみじの庭門前のもみじ清滝川指月橋から清滝川を渡る重い足も、心癒されました。京都にはまだまだ良いところが有りました。高雄三尾 高雄神護寺 槇尾西明寺 そして このあと明日は、 世界文化遺産・栂尾高山寺 をご紹介します。
2014.06.28
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昨日 文英堂さん から 本が届きました今年の2月ごろから 私のブログを見られて 一つの映像を掲載要望がありましたまさか自分の写真が載せられるとは夢にも思っていませんでしたそれが現実となって 載せられていました方広寺の釣鐘 国家安康 でした高校 これでわかる 日本史B 133ぺーじ でした素人の私の写真が教科書に 生まれて初めての 感動的体験を得ました 一生の宝であり 誇りに思います文英堂のスタッフの方に 心から敬意と感謝を捧げたいです 方広寺 国家安康の釣鐘 豊臣氏滅亡 と題されていました1614年 慶長19年 → 冬の陣 今から丁度400年前の出来事だったのですね戦の無い 天下に成ってほしいと 秀忠もその妻 江も 決意を高く持っていたようですその後の天下人騒動はなく 徳川も 大政奉還しました現在 近隣3か国が平穏では有りませんが抑止力でも 日本の平和を保ってほしいです高校生の方が この教科書を見て 平和への一歩だったことを気付いて頂く 写真として 見て戴ければ とても嬉しいです
2014.06.27
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昨日に引き続き、神護寺の聖域を巡ります。嵐山の保津川の支流清滝川の上流に此処たかお三尾があります。楼門を過ぎれば、平らな境内で、一安心しました。何といっても中心は、 【金堂】 で。 国宝の薬師如来像が祀られています。そして重要文化財の薬師さんのセット日光菩薩・月光菩薩(がっこう)十二神将そして四天王【持国・増長・広目・多門】天が揃ってみられます。金堂(本堂)国宝薬師如来像がまつられています。金堂前の石段は時代劇によく出て来ます。 金堂への石段紅葉が映えて居ました 登りつめた場所 石段の下時代劇でよくここのシーンが出てきます かわらけなげ2枚百円清滝川渓谷 清滝川渓谷かわらけ投げ みなさん楽しく試みておられます上手な人の場合は、長時間遠くへ飛行続けます下の川から此処まで登るのです。絶景 何れもかわらけなげ付近の情景ですかわらけ、買ってみるか記念にシャツター苔庭 たまたま 大師堂の特別公開 大師堂 長い石段を登りつめて、弘法大師さんの、護国のため建てられた聖域からの、渓谷に掛けての絶景は、みなさま満足気味でした。弘法大師さんは、神護寺より清滝川を下られて、化野の念仏寺を造り無縁さんを弔い、嵯峨大覚寺で嵯峨天皇と都造りを仏法精神で協力された足跡が伺えそうです。 清滝川 明日は槇尾西明寺(まきのをさいみょうじ)のもみじそして世界文化遺産高山寺で終わります。
2014.06.27
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嵯峨天皇の山上への御陵を偲びながら訪れ眼下に 清滝川も流れ その上流に神護寺が有ります 健脚の方は、高雄に来られれば、栂尾高山寺・槇尾西明寺そして高雄神護寺とセットでお参りされると意義が深いと思います。山岳仏教で山登りが厳しいです。本日は、将軍塚で、平安遷都を推挙した「和気清麻呂」の墓と京都の都の礎を「嵯峨天皇」と築きあげられ護国のために神護寺を建てられた弘法大師に偲び昨秋訪れたものを二回に亘って再録します。弘法大師は、山岳仏教として、北国・高雄にまで、布教の為寺院を創られました。 【神護寺】 【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高雄山 高雄は、京都では、「紅葉」の名所で、シーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いて、ひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として、「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高雄山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます。秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】 壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと、上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き、周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 高雄橋・ もみじと高雄橋 参道途中の茶屋息が苦しく、足が痛み出し、勇気の撤退をしょうとしましたが、ままよと再発進 参道の茶屋 参道から振り返った景色 休み休みして漸く神護寺楼門に辿りつきました 平安京の立役者・和気清麻呂公の霊廟 明王堂その側に日本三名鐘の鐘衝き堂があります銘が有名宇治平等院・形 滋賀・三井寺の音明日神護寺の続きを更新します。
2014.06.26
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今回は、大覚寺に関係ある嵯峨天皇の御陵が嵯峨野の小高き山上にあり一昨年登ってきました。直指庵から100m西に位置します。平安遷都された 桓武天皇 の皇子様です。ブログで観て頂きたい一念で、過去一度も訪問出来なかった難所にも参りました。【嵯峨天皇】陵に初めてあえぎ ながら も、極めてきました 【嵯峨天皇嵯峨山上御陵】 は山道を登ること、二百段、杖をついて登ってきました。再三申しあげますが、794年に桓武天皇によって、【平安遷都】が行われましたが、その皇子さん【嵯峨天皇】によっ過日て、大覚寺で弘法大師さんと共に、まことの都造りを成し遂げられました。今でも、小高き山上より、嵯峨野を通して、京の都を見守って居られるようです。嵯峨天皇御陵 参道入口 坂道 坂道はまだ続きます 坂道振り返ると嵯峨野 まだまだ目的地が見えません。やっと見えてきました とても清々しい感じです。 嵯峨山上陵と書かれています 帰途は獣道から しだがはえています。 裏山には、小倉山そして愛宕山が見えました。この愛宕山の頂上には愛宕神社があります。鳥瞰図 は見事な物でした小倉山を見下ろす、別の風景です。 漸く嵯峨野の景色にもどってきました。 山道にこんな林も麓にありました。達成感は、清々しい感じでした。然し杖突き持っては冒険で疲れ切りました。
2014.06.25
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大覚寺から北側200mのそぱに【直指庵】があります。 本日は昨年の秋に訪問した、もみじと女性の駆け込み寺とも云われる。こころの癒しの名所とも云えます。 【嵯峨野の飛び地】 愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有ります。NHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、 【津崎村岡】でした。【直指庵】 (じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山 入口【直指庵】石塔参道本堂の前庭本堂本堂奥庭への道 隠元禅師の高弟「開基独照性円」が草庵を結びました。 「直指人心見性成仏」 (じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)禅宗の悟りを示した言葉です。荒れ果てた「庵」を幕末の勤皇家、近衛家老女 「津崎村岡」 によって再興されました。 【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津崎の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて 、静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。 津村 村岡の墓所嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」としても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。観音さんの慈悲に託されて置かれているのかもしれません。 【想い出草】のノートを記帳する部屋 帰り道 帰り道 次回は、山の上にある嵯峨天皇陵にご案内します。「思
2014.06.24
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NHKのローカル放送で知り 出掛けてきました嵐山下流・桂川の松尾橋を挟んで 京都で最も古いと言われる松尾大社と対峙して こちらも1300年前 橘氏の祖 氏神として祀られました子授け安産の守護神そして醸造の祖神として 崇められています他の祭神を含め嵯峨天皇そして檀林皇后も 安産に あやかられ 仁明天皇 と共に 祭神として祀られています源氏物語の主人公 源融も皇子の一人でしたね正門 神楽殿 本殿 狛犬 狛犬 お百度石 神苑入り口 神苑 花菖蒲 神苑 石橋 睡蓮 睡蓮睡蓮の花は 枯れる姿を見せずに水面下に姿を消すといわれています 神苑 松尾山が見えます 睡蓮 紫陽花 紫陽花 紫陽花 紫陽花 紫陽花 花菖蒲池中亭茶室梅津の里 芦のまろやとして風雅な屋根の姿が素敵ですまたげ石 古い立札 本殿の側にまたげ石子宝の幸薄き者・夫婦打ち揃って参拝し祈祷の上この石をまたげば 子を授かることが出来ると言われその霊験が遠近に聞こえ 多くの参拝者があります美しい花にも 人間の優しいことばは 判るそうです花も生きものですから家内が 花壇に水を遣る時に 独り言を良く朽津さんで居ます何故って聞くと 人間の言葉が判って 息好い佳くそだってくれるからと庭師の方もこの広い神苑で 水やりにそしてお世話に大変でした声がけすると 楽しく花と語り合っていますと 労を愉しみに変えておられました 次回は直指庵に戻ります
2014.06.23
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平家物語冒頭 祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。 沙羅の花を愛でる会 如何でしたか 一昨日 妙心寺の塔頭40寺院の内 公開されている庭園を2か所初めて訪れて来ました 庭園のみ鑑賞してみてください 大心院 足利に仕えた 細川政元 が建てたと言われます 阿吽庭 阿吽庭白砂と苔と5色の岩を配し昇竜を表現した枯山水の庭園中根金作氏作庭 方丈庭園石組み異なった敷石群 方丈庭園 達磨大師掛け軸 桂春院 此処も初訪問しました 江戸時代の作庭 花頭窓 花頭窓からの坪庭 清浄の庭紀州の瀧石そして白砂の渓流は 心身の塵垢を洗い浄める 方丈南庭 真如の庭つつじの大刈り紅葉のころも見ごたえがあるでしょうね飛び石は七五三に置かれ十五夜満月を表現 襖絵 金碧松 三日月 狩野山雪画 侘びの庭茶室への誘い内路地 侘びの庭茶室に通じる 外路地庭【梅軒門】により 外路地と内路地に分かれる小堀遠州の高弟 玉淵坊作庭妙心寺と大徳寺は共に臨済宗ですが 派が相違して妙心寺派は 禅修行を最もとして 茶道香道等は修行の妨げとなるとして茶室は 隠れて造られていました今までに塔頭として 退蔵院を紹介してきましたそして外塔頭としては 有名な龍安寺があります京都の今 明日は 梅の宮神社をご紹介します
2014.06.22
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毎年 この時期になりますと 非公開寺院の妙心寺塔頭東林院で6月15日より30にちまで 恒例のように【沙羅を愛でる会】が 開催されています昨日思い切って 行ってきました 沙羅双樹の樹と苔の丘に散った花丘に落ちた花は重みで同じ上向きに落ち着きます夏椿とも言われ 椿の花もそのようです和尚さんの法話に恵まれました 沙羅双樹は、お釈迦さんが 亡くなるときにいつせいに花が開きその死を悲しんだと言われ 涅槃図にも沙羅の樹がえがかれています【一日花】とも謂れ 朝咲くと夕べには散るという はかなさを人の世の常ならないことを 表現しています「平家物語」にも 「奢れる平家久しからず 沙羅双樹のごとし」とも比喩しています人間の生命にはいつかは 限りが来ます今日一日のことは 大切に 悔いの残らないようにしておきたいです 観光バスの団体さんも次から次へ 沙羅双樹の花 鑑賞しつつおうすを頂くお菓子で出来た沙羅の庭丘を造っています玄関入り口のお地蔵さん 沙羅双樹の寺 門
2014.06.21
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サッカーも 世界の壁が高いですね日本選手も健闘しましたが 引き分けに終わりました 京都の「今」もとのお声も罹りましたので 本日梅雨の晴れ間に気掛かりな 「沙羅を愛でる会」 東林院に取材に行ってきました 和尚さんの法話に聴き入る人々 妙心寺塔頭寺院ですが その後 公開していました 【大心院】 【桂春院】の庭園にも 足を伸ばしましたその前に 昨夜 NHK 地方放送で 【梅の宮神社】の花菖蒲・水蓮そして紫陽花の花の紹介があり そこにも行ってきました追々と 近い日に更新したいですが本日 多くのアクセスそしてコメントの方々にお返事できなかったことをお詫びします
2014.06.20
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朝早く ワールドンップ 日本対ギリシャが始まりました日本中で熱烈に応援しています 良い結果が出ます様に 大覚寺は京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 さがごりゅう 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 明智門 【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」(徳川家光の妹)の旧殿を移築されたものです。 宸殿家光の妹 東福門院さんが御所で使われたたてものを移築前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇が祀られて居ます。御影堂左 嵯峨天皇 右 弘法大師京の都造りに貢献されました御影堂から 勅使門を眺める舞楽を舞う台 【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。 名月や池を巡りて 夜もすがら松尾芭蕉嵯峨・大沢の池で詠まれたとされています。 池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。 次回は直指庵に参ります。
2014.06.20
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京都 らんざん 大覚寺大原三千院 と共に、歌われています。 【大覚寺】 真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 【桓武天皇の皇子】山号 嵯山 現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています。「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(遍く照らす太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」が、ひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。 「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう) この状況で、作詞家 永六輔は、「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌 「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」 大澤の池 池の一番奥に【名古曽の瀧跡】がありました。此処は時間もかかりますので、今回ブログ取材のためこの歳になって初めての訪問で感慨ふかいものがありました。 瀧の鑓水の流れの跡大澤の池に注ぎます。 瀧の水が池に注ぐ場所背景の山は、嵐山です。遍照山が大澤の池に映っています。遍く照らす即ち仏の慈悲この池に写す手法は龍安寺・金閣寺そして銀閣寺でも見られます。そして千円札にも富士山の富士五湖が採り上げています。観音堂納経堂 お茶屋からの大沢の池お茶室のもみじ境内の入り口付近遍照山(へんしょうやま)を池に映す景色 神仏混合から お寺の境内には 神社の祠がありますロケによくてできます。写経されたものを収めている塔です池を巡ります池の向かい側の景色です池を巡ります 赤い橋が 見えてきましたこの奥に 名古曽の蹟があります とても奥で 引き返しました紅葉 青い 空と池小さい池赤い橋と向かい岸もみじ 点在次回は、大覚寺の内部をご紹介します。
2014.06.19
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本日は久しぶりに雨が降るという天気予報でした空はどんよりと 涼しさすら覚える京都です 本日は、紅葉の名所として穴場的存在の【宝筐院】の紅葉ご覧下さい。嵯峨釈迦堂の東南に隣接して建てられています。 【宝筺院】 (ほうきょういん)楠木 正行 (くすのき まさつら) 父 楠木 正成足利 義詮 (あしかが よしあきら) 両菩提所 父 足利 尊氏 表門入口入り口付近 菊の花も境内一円 紅葉 隠れた名所本堂前もみじの絨毯本堂内の正行と僧侶の絵本堂から 庭園展望本堂からの眺め庭園散策家紋 左 二引きの足利家 右 菊水 楠木家左 第二代足利義詮の墓 右楠木正行の首塚初代足利尊氏は 後醍醐天皇の菩提のため 天竜寺を親子二代で 敵であった方の 人は憎まぬ史跡が伺われます。三代足利義満の場合は我が子の憎しみに会いました。次男を寵愛したためと言われています。こどもは常に親を見て育つようです。庭園を鑑賞山茶花も まけずに白い山茶花も ありますよもみじの絨毯と 木漏れ日以前には、それほど紅葉していない様子を御紹介しています。今回は、もみじの絨毯を味わってきました。車夫の方の 観光が多く やはり穴場として 多くの車夫の方々のご案内が多かったです。車夫の方は、とても 礼儀正しくって、 関係のない老人にも 「こんにちわ」と笑顔で 挨拶が徹底しています。 観光関係として とても大切なことと気持ちよくしました。次回は、大覚寺嵯峨御所へ参ります。
2014.06.18
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梅雨時と言う時期に雨が降りません 嵯峨野巡りも終わりました。嵐山に向けて帰途にあります。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】 (せいりょうじ) 【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん この一帯は「源氏物語」に登場する 「源融」 (みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な 【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】 (インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。 【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。 「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】 (あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】 (うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。 駅を見ると旅情がかり立たれますね。
2014.06.17
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サッカーのワールドシリーズ初戦は逆転され残念でした 嵯峨野は祈りの道として、相応しく、天台宗の僧侶で仏師で国宝級の仏像を修理指導をされていました。「西村公朝和尚さん」 (こうちょう)が有志で羅漢さんを信徒の彫られた石像が奉納されています。奈良そして京都観光で最も知りたい 【仏像】の知識はこの方のお話や本で解かり易く教えていただきました。一生感謝しています。そしてご冥福を祈ります。 【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕山山上にある、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。明智光秀が、愛宕詣でで、おみくじを何回か引いているうちに「吉」と出て「敵は本能寺にあり」と兵士を京に引き返らせたことで有名です。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】 として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社(あたご)参詣の古くからの茶店 更に道を進めてまいりますと、自動車道と交わる所に、「愛宕寺」が有ります。【愛宕念仏寺】 【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。京都市内で一番高い「愛宕山」頂上にあります。 故西村公朝(にしむらこうちょう)和尚さんの寺です。ご生前中「祈りの造形」と題して、NHKの3ヶ月に亘る講義から、仏像の基本的な観方を興味深く教えて頂き、京都観光奈良も含めとても参考に成りました。「国宝の審査委員でもあり仏像修理」の担当出来る「仏師」でもありました。 現在も本屋で、仏像に就いての「公朝」さんの本が見つかれば、京都・奈良の仏像鑑賞にとても役立つと確信します。仁王門【仁王門】の側に「三宝の松」が一本有ります。「将軍塚」の「三鈷の松」(さんこのまつ)と同じく何か宝物が得られるのでしょうか? 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】 (らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼音色が違い妙なる鐘の音が聞かれます境内 釣鐘は音色が変わり 共和音が聖域を感じさせます。本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 【本堂】空也上人の弟子の「千観内供像」が有ります。 現代の自動車道は、過去電車が通って居りました。「愛宕寺」の側から「トンネル」があり、越した所まで、通じていました。何故なら、「愛宕山」山上の「愛宕神社参詣」の登り口に至る為でした今は廃線となり、自動車で、【清滝橋】即ち登山登り口まで行けます。先に述べましたとおり「明智光秀」も愛宕詣でで,神託を得たとして、「敵は本能寺にあり」と丹波行きを返して都に攻め入ったとも言われています。火の神様です。 「清滝」の渓谷の清流は、とても景観で静けさを感じさせます。紅葉の景勝地でも有ります。 嵯峨野巡りは、如何でしたか?皆様のご来訪数が伸びて、やはり関心の深さに感謝しています。一度は日本にこんな素晴しい心琴をもたらす、文化の象徴とも言える場所へのご来訪をお待ちしています。次回は、嵯峨の釈迦堂に戻ります。
2014.06.16
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サッカーノワールドカップ ブラジル大会緒戦コートジボワールとの競技がNHKtで今朝放映されるようです 昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるアクセス倍の関心を 多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝の気持ちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で 【今東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】 (あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました無縁の遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】 (湛慶作) が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】 (さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界をこの世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを 【蓮台野】 と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。金閣寺の側あたりです。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2014.06.15
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此処2・3日5月ごろの爽やかな日か゜続いています妙心寺塔頭東林院で今年も15日~30日まで「沙羅を愛でる会」で特別公開されるようです。 嵯峨野巡りも大詰めとなってきました。昨年の秋に訪問した写真です。もみじの頃となります。【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が そして【源氏物語】「野々宮神社」の悲恋。此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に 【瀬戸内晴美】 即ち【寂聴】 さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。【源氏物語】の編集も此処で執筆されました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】 天台宗 山号 曼荼羅山 (まんだらやま)寂庵の命名は、作家で天台宗の僧侶 【今東光師匠】でした。 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される 「鳥居型」 が有名です。佛教的行事に、鳥居も珍しいですが、【愛宕神社の一の鳥居】があるとしても五山に採用されたのでしょう。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。貴重な体験談 (観光ご案内して) ある母娘のお客様を嵯峨野巡りをご案内していました。 娘さんとの子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と訪問を拒まれました。晴美さんの過去の女性像を考えてのことでしょう。中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、手当てと言うでしょう、温かい母さんの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙をボロボロ流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、感謝を込めて 「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。仏にこの日の導きに感謝を一緒にされる寂聴さんの心根が尊く感じました。そして一緒に記念写真を「ハイポーズ」と寂聴さんが二本指を差し出し言われてにこやかな写真がお客様の手に残りました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。東北にも一寺を設け、東奔西走、人の心を癒されておられます。女性のみのお話会が月に一度あるそうですが、申し込み予約が殺到しているようです。私たちは本当に恵まれたと尊い体験をさせていただきました。今でも良き思い出として残っています。嫌いと心を閉じるのでなく話せば道は開く母性の手は温かく我が子の痛みを和らげる次回は、無縁仏の供養塔が祀られる【化野の念仏寺】(あだしの)に参ります。
2014.06.14
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祇王さんは、自分が清盛に推奨した仏御前のために屋敷を去る時に、仏御前のために襖に詠まれた「萌出も、枯るるも同じ野辺の草・・・」とかきのこして後にしました。昨日も、Googleで検索しましたが、あの有名人の平清盛の墓は、判然としては存在が確定していないようです。哀れででもあり、此処祇王寺の清盛の供養塔【五輪塔】は重要な遺跡として改めて、祇王さんの優しさ偉大さを感じました。平家物語と嵯峨野は深い関係の、遺跡でもあります。 人間関係がままならなかつたのですね。【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】 と「建礼門院」に仕えた侍女 【横笛】 の悲恋の舞台となった場所でも有ります。時代祭にも横笛が隊列に加わった写真をご紹介しました。 語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の 【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は寂庵を訪れたいです。
2014.06.13
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嵯峨野巡りの中心祇王寺 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂苔がとても美しいです京都は湿地帯ですので苔庭が多く歴史を感じさせます。入口萱葺の門孟宗竹の竹林苔庭手水鉢 800年前を偲びましょう。 「平清盛」 の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし) 「祇王」 にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」(いまようのうた)七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃悲劇の母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」春に草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、秋には枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして時が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。此処が祇王の追いやられても、優しい心遣いでした。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。その後、暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。障子に書かれた祇王の真意が理解出来たからでしょう。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。此処が、誰も出来ない祇王の超人的な愛で嵯峨野を訪れる人のこころの糧そして救いともなり、とても人気があります。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓右は平清盛の供養塔 貴重な遺跡の存在で五輪塔 地水火風空宇宙の元素表現他の地に清盛の墓並びに菩提の遺跡の存在が見当たりません。 仏午前は、加賀に帰って亡くなられたそうです。 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2014.06.12
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昨日は湿度も異常に高く 体調維持が苦しかったですお互いに大事にしたいものです 嵯峨野巡り5. 【二尊院】 天台宗山門派 開基 円仁(慈覚大師) 山号 小倉山 嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」 と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」 貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。【厭離庵】 (えんりあん) 臨済宗天龍寺派 日頃非公開百人一首を藤原定家が編纂した場所とも言われています。「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。期日 11月1日~12月上旬 9時~16時 志納金 500円 入口玄関庭園への門居間定家塚本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉藤原定家が筆を洗ったとされます懸崖上の茶室 時雨亭茶室への路地 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」とも言われています。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。 次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。【嵯峨野の中心的訪問地】と心得ます。誰しも心の打たれるところ存じます。
2014.06.11
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蒸し暑い いきぐるしい梅雨時の季節を迎えています皆様体調管理に 大事に為さって下さい 本日は、貧しさの中でも芭蕉の十大弟子のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む【落柿舎】 (らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 田園風景 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地もまんざらではないと、未だにひそかに眠っているようです。 次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2014.06.10
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すっきりしない梅雨空が続き蒸し暑いですこの写真は秋に撮りました 常寂光寺は、日蓮宗で本堂を始め解放されず、信仰を旨としています。仏像の存在すら判りません。「南無妙法蓮華経」のお軸が懸っているとも考えられます。 紅葉の名所として有名です。昨年秋の写真です。 多宝塔 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】 (じょうじゃくこうじ) 日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道左 男坂 (急坂) 右 女坂 (なだらかな坂)私は女坂を利用しました 本堂前【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 京都市街の西北の位置に有ります 【歌仙祠】 (かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】 嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2014.06.09
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昨日は、ゲートボール大会の途中にゲリラ的集中豪雨に暫し遭遇 たちまちグラウンドは川のようになりました被害はなかったですが 自然の猛威に 報道されていることを実感しました もちろん中止となりました 過っての名優大河内伝次郎が、此処嵯峨野の景勝地に我精進のために別荘を建て現在一般に公開されています。 自分の別荘と思って、お大臣気分で、満喫してみてください。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂 先ず信心から毎日参詣してお散歩山荘の入口 左側右は常寂光寺方面へ 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】 映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 嵐山を借景は見事 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2014.06.08
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【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に 【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、 「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 1021年に記述された[源氏物語]に戻ります。 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。 【源氏物語】第十帖【樫木の巻】 (さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が愛おしかった。その御息所(みやすどころ)が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。源融は、ほんの近い【嵯峨釈迦堂・清凉寺】に住まいしていました。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】 のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。ここでも中国の良い面があります。昔の中国人は偉かった。でもこの程共産党トップ書記長が【習近平氏】に代わりましたが、日本との外交政策は、如何成るのでしょうか?互恵の政策が立てばよろしいが、支配の傾向がみられます。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2014.06.07
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朝に嵐山近郷をご紹介しました。矢張り関心を持たれアクセス数が増えました。そこで書ききれないので追記してみます。中国人にも景勝地を謳歌してくれています。現代も斯くあってほしい希望を持ちます。 今後の政局はどのように展開するのでしょうね。特に中国の日本に対する動向は気懸かりなものです。周恩来さんが、日本に学ぶため来日された友好の時期もありました。 周恩来の碑 嵐峡の風景本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学され、その折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又、中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が、嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。 中国にも山紫水明の美しい景観が多く存在します。故郷を偲ばれての、嵐山の雨の美しい景色に感動されての碑文と考えられます。 明日から嵯峨野巡りをします。800年の昔平家物語そして源氏物語の哀話が静かに偲ばれます。
2014.06.06
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世界文化遺産西芳寺の幽玄の苔 如何でしたか西求堂(さいぐどう) 西即ち 阿弥陀の世界 極楽浄土を求める東求堂(銀閣寺) 東即ち 薬師如来の世界 瑠璃光浄土を求める 本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰川の堰き 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」 が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。過っては、「温家宝首相」が訪れられました。今は冷え切っています。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」 (小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。 川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】 渡月橋の北詰に碑が建って今す。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性悲話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった 【小督局】 (こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。
2014.06.06
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連日の猛暑も嘘のように 涼しい降雨前の曇り空でした近畿地区も梅雨にはいりましたお寺さんも梅雨時の苔の姿が最適とされていました2か月前から予約して 昨日参拝許可を戴きました西芳寺 苔寺 臨済宗 世界文化遺産千三百年前 聖徳太子の御創業で行基が開山六百五十年前 夢想国師が 中興しました天龍寺の庭園と同じく特別名勝史跡 (国宝)に指定されています足利義政は 銀閣寺の庭園を 西方寺に 模して作庭しています 上段は 枯山水下段は 池泉回遊式庭園 午後1時受付を待つ人 西求堂 本堂 銀閣寺は 東求堂此処で僧侶3名と般若心経と写経新緑に包まれた本堂前受付へ堂内写真禁止廊下に椅子席があり心地よい風を受けながら写経本堂前の蓮池 本堂の後方に三重塔禅宗では珍しく恐らく聖徳太子に関連してでしょうか観音堂前の新緑 百二十種類の苔 苔と木立 少庵堂 茶室 千利休の次男 湘南亭 茶室 夢想国師建てた後少庵が再興した茶室 黄金池 心字の池 朝日ヶ島 土橋 潭北亭○ □ の窓池に映る新緑 夕日ヶ島 鎮守堂 夢想国師を祀ったお堂 指東庵(しとうあん) 指東庵の横に有名な枯山水の瀧の岩組銀閣寺にもすえつけられました 指東庵の前方に設けられて須弥岩組総門ブログ始めて 写真を漸く取材して来ました世界文化遺産の西方寺の模様でした
2014.06.05
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新緑の目に美しく映える 本日 曇り空で 雨は帰宅して降り始めました苔寺は梅雨のころが一番に見ごろと言う事でした約100名の方々が 参拝にお見えになり本堂 西求堂で 般若心経 3回 僧侶3名と唱和 写経も済ませてお庭を拝見の形で 写真を撮って来ました 詳細は 明日に 其の1枚をご紹介します 背景が嵐山 天龍寺を紹介しています 新緑の本日の嵐山 嵐山の入口
2014.06.04
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庭園部門で特別名勝で、お寺さんの立札によれば国宝第1号とされています。 庭園の基礎的要素を初めて夢想国師によって天龍寺に造園されました。瀧 蓬莱山 石橋 鶴島 亀島 舟石曼殊院では、枯山水で表現構成小堀遠州により表現しています。池を巡りて人間の一生を祈願したものと思えます。国宝第一号(特別名勝)の曽源池 世界文化遺産 清水寺は「北法相宗」奈良の宗派金閣寺・銀閣寺・龍安寺・そして天龍寺は何れも臨済宗(禅宗)何れも足利家あと世界文化遺産が12箇所あります。【天龍寺】 臨済宗天龍寺派本山 世界文化遺産に登録 開基 夢窓疎石 五山第1位庭園 特別名勝(国宝第1号の庭園)世界文化遺産の御紹介も清水寺・金閣寺・銀閣寺・龍安寺そして天龍寺まだまだ観尽くせませんね。嵐山渡月橋から「美空ひばり館」の前を経て、天龍寺に着きます。 【足利尊氏】が南北朝の戦で、吉野で崩御された【後醍醐天皇】の菩提を弔うために、開山【夢窓疎石】を迎えて建立されました。この地は、元々後醍醐天皇のご幼少の頃の学問所で御霊の安らぎを考えての尊氏の配慮と想いが有ったものと考えられます。建設資金捻出のために、途絶えていました中国「元」との貿易を再開し【天龍寺船】を往来して経済や文化の輸入にも貢献しました。私たちの高齢の歴史観では、天皇に背いた逆賊の謀反者と教わり、神戸湊川神社では、「ああ・忠臣楠氏の墓」と「楠正成」を謳歌してまいりました。でも京都でのお寺の遺される事で、過日に述べさせていただきました【等持院】は、尊氏一族「足利」の菩提寺で、「寺」と「院」では寺格が違い、尊氏の思い遣り、一歩引く謙虚さが、見えるように思えるのです。順路として「山門」から静かな敷地を歩み、心を静めます。1.【法堂】(はつとう)は選仏堂(座禅堂)ともいわれ、正面から覗きますと【釈迦・文殊・普賢三尊】と天井に【雲龍図】「加山又造画」が描かれています。 法堂 天井に龍の絵2.受付でパンフレットを見ますと表紙の庫裏の写真で、庫裏の実物を見上げながら、龍安寺でご説明させてもらった「懸魚」「蟇股」が大きく見られます。そして「三尊石」も在ります。 庫裏。三尊石3.【方丈】白砂と苔の境界線で、「心字」が画かれています。屋根瓦の端には「天龍寺」の文字が設けられています。 方丈4.【曹源池】 日本で最初の庭園形式に基づいて、夢窓疎石が作庭した素晴しい庭園で、嵐山愛宕山を借景して、更にスケールが大きく感じます。正面に枯山水「瀧」をそして「三尊石」日本最古の「石橋」周りに「鶴島」「亀島」そして「船石」と庭園の要素を採りいれています。嵐山を借景 愛宕山を借景寺のバンフレットの写真の写された情景 国宝第1号の曹源池5.「亀島」から道なりに進むと池にそそぐ「遣り水」(やりみず)が【曲水の宴】形式になっています。 亀島6.【多宝塔】 後醍醐天皇の尊像を安置、紫宸殿形式で、左近の紅梅・右近の白梅が備わり、 多宝塔紫宸殿造りで左近の紅梅そして右近の白梅が配されています。その前庭の苔に包まれた小高い位置に後醍醐天皇の菩提塚が古びて立っています。 後醍醐天皇の菩提塚春には枝垂れ桜が美しく飾ります。 足利尊氏の並の天下人としては為し得ない思い遣りが史跡として未だに遺されています。女性に人気があります。苔寺も、世界文化遺産で夢想国師の作庭です。本日取材に行って参ります。雨のようです
2014.06.04
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四国は梅雨入りしました 近畿もあすあたりでしょう明日の苔寺訪問は雨のようです 雨の苔もいいかもしれませんねその前に 建仁寺の追記を更新してみます この時季のみ、特別公開される、【建仁寺】臨済宗建仁寺派の塔頭【両足院】半夏生(はんげしょう)庭園一杯に白く葉っぱに化粧しているように見える姿は皆様を楽しませました。一昨年の取材です 半夏生季節語で言えば 夏至(6月21日)から数えて11日目の7月2日~7月7日まで5日間を半夏生といわれています。 「チュウ(夏至)は、はずせ、ハンゲは待つな」ということわざの通り、田植えは、半夏生の前にやることが好ましいとされています。 両足院の玄関 例によって、龍の蛇腹型の石畳半夏生の庭 庭園を取り巻く建物 庭園一杯に半夏生 建物の向かいの丘から 茶室 茶室でお茶のお手前 正に幽玄の境地に酔って居ます。
2014.06.03
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昨日も34度の猛暑日でした ピークは過ぎ 明日から4日日間雨模様の予報です苔寺参拝の予約の4日も雨の苔の風景となることでしょう 八坂神社の境内を出ますと、【祇園】の街です。舞妓さんの踊る、祇園歌舞練場に隣接して、雰囲気は、一転して清楚に掃除の行き届いた、禅寺 臨済宗【建仁寺】に至ります。足利義満の決めた 京都五山の第三位に格付けされています。国宝・風神・雷神と天井の龍が有名で、そして庭園が美しいです。風神・雷神は観音さんに仕える二十八部衆の両側に位置して祀られることが多いです。 風神・雷神図 国宝の模写 【建仁寺】 臨済宗建仁寺派大本山 開山 明庵栄西 開基 源頼家 山号 東山 京都最古の禅寺で、鎌倉時代建仁2年(1202) 二代将軍源頼家(よりいえ)の庇護のもとに建立。年号を採って【建仁寺】とされました。朝廷政治から、武家政治に変わったころでもあります。 栄西(ようさい)禅師は、中国より、お茶の種を持ち帰り、高山寺で初めて栽培、喫茶の茶祖です。【建仁寺の学問面】(がくもんづら)秀でた禅僧排出されたことから。 禅問答の掛け軸○ △ □ の字は 江戸中期に書かれたそうです。 唐子の襖絵中国では安産を願って描いたとされます。兎の襖絵 風神・雷神の襖絵 【方丈】「大雄苑」の名の枯山水庭園が広がります。花頭窓(かとうまど)からの方丈庭園 本尊は、十一面観音菩薩 【徳川秀忠・江】の娘 和子姫(まさこ) 後水尾天皇の中宮。【東福門院】寄贈三尊石の庭園【潮音庭】四方正面の三尊石 四季折々に苔も美しい。 【茶席・東洋坊】茶室の西側に有名な「建仁寺垣」が観られます。法堂天井に双龍が描かれ云います高台寺は建仁寺派今回双龍を採り入れました。 天井・双龍絵ほかの寺院では めったと写せない天井龍です。【法堂】(はつとう) 釈迦如来と脇侍に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)尊者が祀られ、天井に平成14年画かれた【双龍】小泉淳作筆が観られます。(あうん)の口をした2匹の龍が描かれ、阿形の手には玉を掴んでいます。禅寺では、龍を飾っていますが、龍は仏法守護として、また水の神として、雲を呼び、仏法の教えの慈法雨を降らせるとしています。【風神・雷神図】【国宝】(俵屋宗達絵)は、江戸時代。見事で有名です。現物は、京都博物館に保存。 十六羅漢像【陶製一六羅漢像】明治から大正にかけて作成 龍の襖絵【雲龍図】海北友松(かいほうゆうしょう)襖絵春日局の父君の友人 橋本関雪の襖絵 昭和15年大修理で60面描かれました。 祇園花見小路歌舞練場の側に、建仁寺が広い伽藍で、静寂の境内に臨みます。【両足院】【半夏生】塔頭のひとつで6月特別公開されます・建仁寺・塔頭【両足院】半夏生京都観光寺院として、堂内は全て、写真撮影禁止とされていますが、驚きと感動を覚えました【建仁寺】は全て写真撮影可ということでした。皆様にご紹介出来て嬉しいです。次回は 京都五山 1位の 天龍寺へそしてその次に 西芳寺の取材の苔庭をご紹介の予定です天龍寺も西芳寺の庭園も 夢想国師の作庭として貴重です。
2014.06.03
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八坂神社円山公園の側に、八坂神社があります。 祇園にある八坂神社は、祇園祭で有名です。祭神は素戔鳴男尊 (スサノオノミコト)祇園の中心にある八坂神社疫神社 祭神 蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)門を潜った位置にあります。祇園祭の際、撒かれる「粽(ちまき)」に蘇民将来の護符が付いています。 【立札の説明】むかし、祖神(おやがみ)が諸国を巡って、日の暮れに宿を請うたところ巨旦将来(こたんしょうらい)は、富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれど、粟穀で座をしいて、粟の粥で手厚くもてなしたので「われはハヤスサノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて 「蘇民将来の子孫なり」 とえば災厄から免れると約束され、巨旦将来の子孫は皆堪えてしまいましたが蘇民将来の子孫は、今に栄えています。 本殿 【平清盛の出生悲話】 平家物語 【祇園女御の巻】NHK大河ドラマ【平清盛】完了しました。。その主人公の出生秘話が、此処京都八坂神社の境内にありますが、殆どの人がその存在と縁起を知らないままに燈籠が建っています。平忠盛は、一介の北面武士でしたが、冷静に思慮の深さで社僧の命を落とさずに救った手柄が、歴史を変えました。 平忠盛燈篭 位置が判り易い様に本殿の側燈篭の裏側から写して見ました。殆どの人は、関心なく、素通りされています。 【忠盛燈籠】 (ただもりとうろう) 八坂神社境内に、面白い伝説がありますので、ご紹介してみます。本殿の東の方に、「円山公園」から八坂神社の境内に入った場所に建っています。【白河法皇】が【平忠盛】を伴って【祇園女御】 (ぎおんにょうご)を尋ねて、祇園社に来られたときに、雨の中怪しげな光を伴う妖怪を目の当たりにされました。「白河法皇」は「忠盛」に命じて、「射止めよ」と次の忠盛の仕草が、歴史を作りました。生け捕りにして、正体を確かめたのです。やはり正体は、祇園の社僧が、燈籠に火を灯すために、蓑笠からもローソクの火で光っていました。沈着冷静な、忠盛により、尊い命は救われました。よってこの地に、忠盛を讃えて、八坂神社の境内に飾られています。お話に続きが有ります。白河法皇は、即命令に応じず、叱るべきところ、社僧を誤ってあやめる事がなくってすみ、その功を讃え、褒美をとらせようとして、既に、法皇により、腹ぐんだ祇園女御の子が男子であれば授けようと結果男の子でした。それが何と 【平清盛】 として、平家棟梁に成りました。祇園女御の妹の子との説もあります。今回のドラマでは、清盛の生母は、「もののけ」がついて呪われているとして、白河法皇と忠盛の面前で、お付きの者数人で槍に突かれて亡くなる悲惨な場面から始まり、心痛めます。権力者は、強がりのようで、妖怪変化、もののけには、弱かったようですね。清盛は、優しい生母には恵まれて居なかったようです。そして血を分けた父は忠盛では無かったようです。「祇園精舎の鐘の音 奢れる平家久しからず」何か因果がありそうです。【白河法皇】 は権力者で、この世で適わないものは、ひとつとして無い。その有名な言葉が京に残っています。白河法皇でも、思うようにならなかったもの。鴨川の水双六の賽の目比叡の山法師でした。それほど恐れられた権威者のようでした。そして権力者ほど、物の怪などに恐れをなし終始臆病で懐疑心が高まり、心の休まることが無かったのでしょう。白河天皇御陵は、京都南インターを降りて、城南宮の南当時、鳥羽離宮を建てられていた跡地に鳥羽天皇と隣接して眠って居られます。何時の世も権力者の横暴は、目に余るものを覚えます。次回は【建仁寺】に参ります。
2014.06.02
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京都は36度と猛暑日になりました 群馬では36.3度でも ゲートボール京都市連合の大会は 熱中症を注意しながらも 無事終えることが出来ました選手の方々は 異口同音に 「バテタ」の一言でした好きなことには皆さん強く元気で 逞しく 覚えました 明日は八坂神社から 禅宗寺 建仁寺に参りますねねさんの高台寺の本山で 龍が描かれています高台寺にも 臥龍廊が有りましね。 双龍天井図
2014.06.01
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今日から6月に入りました、京都は連日33度と猛暑が続いています。入梅も遅いようです。6月4日の 苔寺の 参拝予約も近づいて来ました曇りの予測です 本日は、清水寺から三年坂維新の道ねねの道そして円山公園までの散策についてご紹介してみます。京都らしい風情の味わえる散策道でもあります。 法観寺【八坂の塔】五重塔別の角度から 三年坂写真の手前を左に曲がったところから二年坂・一年坂 【台所坂】の長い石段を降りますと、 「ねねの道」に至ります。降りたところに、 【円徳院】が有ります。襖絵は、長谷川等伯作と云われています、小さな庭園が楽しめます。院内に「三面大黒天」という珍しい像が祀られて居ます。ねねさんも時折寝泊まりされたとか。円徳院庭園【霊山観音像】 「高台寺」の南隣接して、大きい観音像がコンクリートで戦後造られました。 霊山観音 維新の道 維新の道「ねねの道」の南端から、東に掛けて「維新の道」が急な坂道として登りますと、 京都霊山護国神社北側に【京都霊山護国神社】があります。戦争で戦士された英霊が祀られて居ます。観音像は、更に目だって大きく、航空機でも存在が判るほどです。幕末の頃に「招魂社」として建てられ、維新の頃の亡くなった550柱の墓があり、 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓特に「坂本龍馬・中岡慎太郎そして、木戸孝允」の墓は、有名です。 龍馬たちは京都の都を見守っているようです。 高台から京都の街が見おろせます。霊山は「りょうぜん」と読んでいます。 ねねの道素人・舞妓姿に変身して楽しむ方も多いです。 石塀小路 大雲院・祇園閣 大雲院は、浄土宗で、本能寺の変でなくなった織田信長・長男信忠の天皇勅命による菩提寺で、墓地には、碑が立っています。そして盗賊「石川五右衛門」の墓があり、墓石があちこちあやかりたいとして欠けているそうです。因みに戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」 贈り名に 10字と多いこと 寺格の院を配するなど、従来高位の人、社会に著しく貢献した人に、贈られるもので、正に当時の義賊と賞賛されたことが伺えます。非公開寺院ですが、予め申し込まれると拝観可能のようです。円山公園、音楽堂の前に佇んでいます。 円山公園円山公園の再び坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像明日は、八坂神社から建仁寺へ参ります。
2014.06.01
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