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7月も終わっていきます 酷暑で凌ぐことが大変です くれく゜れも皆さんお大事に為さって下さい【青蓮院】 (しょうれんいん) 天台宗 開基 最澄 山号 なし天台宗五門跡寺の一つとして、【粟田御所】とも云われる、格式の高い寺院です。 玉座「天明の大火」で御所も焼失した時に、「後桜町天皇」は此処を「仮御所」とされ、その玉座の間も残されています。 樹齢八百年目楠木一昨年親鸞聖人八百回年忌が行われました。門前には樹齢800年の楠木が、迎えてくれます。5本の筋塀を見ながら800年前とは、平清盛の時代とわせ考えられます。 親鸞上人童形像 (9歳) 歌碑 「明日有りと 思う心の仇桜 夜半(よわ)に 嵐の 吹かぬものかわ」たまたま父上3歳時、母上5歳時に亡くし世の無情を感じられ、出家を覚悟されたとき、司式の和尚さんに「明日得度式をしょうか」と問われた時に、「本日お願いします」といって歌詞を手渡されたとか。美しく咲き誇る桜の花でも、明日のことは判らないとして、僅か9歳で得度式を決意されたようです。 宸殿前の左近(さこん)の梅・右近(うこん)の橘 100代後小松天皇後は左近の桜ま宸殿前庭 本堂の西部屋には、「浜松の襖絵」が、東部屋には、【青不動三尊】【国宝模写】の掛け軸が、掛けてありました。【日本三不動】園城寺(おんじょうじ)(滋賀・三井寺)黄不動・高野山明王院の赤不動が有ります。黄は、人間の皮膚の色、赤は動脈そして、青は静脈、を表わすとか。 「一文字の手水鉢」更に廊下伝いに、【一文字手水鉢】一の字が長く彫られた手水鉢が、目立ちました。そして 庭園
2014.07.31
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朝からの続きです 平安神宮の社殿の裏に素晴らしい庭園が拡がります【小川治兵衛】明治の造園家で、【白虎池】から【蒼龍池】ここでは、有名な【三条大橋の石の橋桁】が池の中をよぎることが出来ます。 蒼龍池龍の蛇腹石白虎池白虎池 【栖鳳池】(すほういけ)には【橋殿】が架かり、中央屋根に【鳳凰】が模っており池に写す姿は素晴しいです。四季折々に咲く花を愛でることが出来ます。 【橋殿】鳳凰がかざられています 栖鳳池の水面 結婚式場の建物が見えます。「栖鳳池」の側に、神宮の結婚式場があり、和服姿の新婦の姿をよく見られます。あの有名な「石川さゆり」も此処で挙式されました。こうした、優雅な場所で皆様に祝福されて、幸せで満ち溢れることでしょう。桜・かきつばた・紅葉何れの時期も心和みます。 時代祭りは、毎年10月22日に京都三大祭りとして行なわれます。794年延暦13年10月22日は、「平安京」の誕生日でもあります。7月31日月末は 青蓮院門跡寺に参ります
2014.07.30
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昨日は土用の丑うなぎを召し上がられましたか だんだん貴重な食品に成りました暑さ対策に 皆さんご健康に ご留意願います 京都の都を定められた桓武天皇と終わりの孝明天皇をお祭りした平安神宮は意外と新しく、明治の文化黎明の、遷都1100年記念で建てられました。筑後120年程度です。そして、平安神宮の拝殿で拝まれてそのまま帰ってしまう方が殆どです。その側に素晴らしい庭園の存在をご存じなくて惜しまれます。 【平安神宮】 祭神 桓武天皇(京の都を制定された天皇)・ 孝明天皇(京の都の最後の天皇)【平安遷都1,100年を記念】として建てられました。 朱塗りの大鳥居が京都市美術館の前に立ち、小学生6人が手を繋いで繋がるほどです。 大鳥居 正面に【応天門】がカラフルな姿で建っています。中国の「長安」に模して造られた物のようです。 応天門 中に入りますと、正面に【大極殿】向かって右に【左近の桜】楼閣として【蒼龍楼】が向かって左に【右近の橘】楼閣として【白虎楼】がこれまた、カラフルに建てられています。紫宸殿を模した本殿左近の桜右近の橘白虎楼門を潜ったところに「手水」が有りますが、「手水鉢」にも同じく「蒼龍」「白虎」の姿が彫られています。四神相応として東・西・南・北は、青・白・赤・黒となり、夫々「蒼龍」「白虎」「朱雀」「玄武」からの配置と思われます。白砂を踏みつつ拝殿まで実に優雅で明るく広々として、雄大な気持ちに成れます。外国人の観光客もとても多いです。 社殿で礼拝した後、案外其のままでお帰りになる方が多いです。社殿の裏にとても素晴しい池を伴う大きな庭園が三部に分かれて、待って居ます。穴場的存在です。 拝殿の西側に【庭園入り口】があります。 入口から入ったところに、【チンチン電車2号】が置かれていました。琵琶湖疏水で日本で初の発電所が開発され、此処岡崎公園では万国博覧会が催しされ、電車が走りました。 日本初のチンチン電車前振れと言って、電車の前には車夫が「あぶない・あぶない電車が通る」手を振って走ったそうで、警告の「チンチン」は電車からでのどかでした【小川治兵衛】明治の造園家で、【白虎池】から【蒼龍池】ここでは、有名な【三条大橋の石の橋桁】が池の中をよぎることが出来ます。 続きが有ります
2014.07.30
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文字制限のため朝に続きます 【永観堂の七不思議】. 抜け雀 火除け阿弥陀 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。「臥龍の廊下」廊下は、龍涙を流される観音菩薩像。.本尊「見返り阿弥陀如来像」 境内の池楼閣への階段 一番奥に阿弥陀堂があります。 多宝塔 多宝塔からの京都の街 永観堂境内展望 【みかえり阿弥陀と永観律師】 広い寺院の境内で高所の奥に「阿弥陀堂」があり、そのみかえり阿弥陀像の前に、お寺さんの手書きで素晴しい,ことばが書かれていました。 このみかえり阿弥陀如来のお姿勢を現代に問うならば 「遅れる者たちを待つ姿勢」 「自らの位置をかえりみる姿勢」 「愛や情けをかける姿勢」 「思い遣り深く周囲をみつめる姿勢」 「衆生とともに正しく前へ進むリーダーの把握のふりむき 真正面から おびただしい人びとのことを案じて 横を みかえる事には しばられない姿勢」 これがこの仏さまの み心ではないでしょうか。と 春の陽気で水鳥が 境内にある永観堂幼稚園児のために思い遣り次回は平安神宮に参ります
2014.07.29
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大河ドラマ軍師黒田官兵衛今回「中国大返し」の陰に春日局の父 斎藤利三も光秀の家老として仕え参戦捉えられて京都六条河原で斬首 友人海北友松によって真如堂に葬られました 後に何故か家康が春日局の気性を見込んで孫の家光の乳母にまで推奨しました 春日局も 江の供養塔まで近くに建てています法然上人の足跡を本日までたどってきました。ここも800回大遠忌の植樹がうえられています、 三門前のみかへり阿弥陀如来石塔 境内広場 観光堂内玄関 パックに多宝塔(開山の御廟所)【永観堂】 浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都 法然上人八百回遠忌 内庭 勅使門の市松模様の砂紋 龍が巻き付く唐灯篭 四百年前のもの 臥龍廊下 多宝塔通路に繋がる。 仏像は撮影禁止のため、イメージとしてボスターで 【見返り阿弥陀】 全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。
2014.07.29
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字に制限有 朝に続きます涅槃の庭 ねはん背景大文字如意ケ嶽 涅槃の庭の別庭に近代感覚の石庭【涅槃の庭】 (ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶(マヤ)夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。 春日局の桜【春日局の桜】 本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 境内に去来の寺がありました。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。 ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)何れも、最近アップしました関連のお寺が当時から数え歌として民衆の人々に親しまれた寺院であることが、伺えそうです。次回はわらべうたに従い永観堂そして南禅寺へ向かいます
2014.07.28
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大河ドラマも「中国大返し」の天下か゜変わった各武将の生き方が夫々伺えるような感じでした久し振りに小雨が降り 気温も8度も下がりました体調管理が難しいです京都大学に最も近い観光寺院の【真如堂】です。旧三校の校歌 くれないもゆる に出てくる「吉田山」に位置します。金戒光明寺に隣接し、奥に存在する「会津藩の殉死の墓地」を通り抜けますと、「三井家の墓地」から真如堂に通じています。 法然上人さんが、比叡山からの辿られた寺院関係を続けています。 応仁の乱を免れた阿弥陀如来さんを祀る 三重塔【真如堂】 (しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」 (旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、 【頷ずき弥陀】 (うなづき)と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、 「修行者の本尊に成って下さい」 と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」 と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。 向井去来の歌碑法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。 涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。嵯峨野落柿舎にも小さい墓がありましね。【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清涼寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来 左端が大文字です。8月16日送り火が灯されます。 涅槃の庭 ねはん背景大文字如意ケ嶽文字制限のため 続きがあります
2014.07.28
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【金戒光明寺】【黒谷さん】の朝の続きですブログ更新の字数に制限有り 2回に亘りました日本三文殊の三重塔知恵がさずかりますように 京都守護職 会津藩主 松平容保 (まつだいら・かたもり) 本陣の旧跡孝明天皇 崩御の直前 容保に守護職を全うするように頼むと仰せられ容保も感涙して、会津に帰ることを 思いとどまります 時の流れは 徳川家が 朝敵扱いで 会津藩もその立場に成りました 殉難された藩士また婦人の方が此処 くろ谷の 墓地で 埋葬されています会津藩墓地の守護の 【西雲院】 会津藩が鳥羽伏見の戦いで 賊軍の汚名を受け殉難した戦死者及び婦人の遺体が路上に放置されており容保に恩義を感じていた200余名が 迫害も恐れず収容し近くの寺院で荼毘に付し 回向供養したとあり黒谷会津藩殉死の墓地を弔い守ったとのことです会津藩墓地参道会津藩殉難者墓地鳥羽伏見の戦いの 殉難者墓地故郷 会津に帰れなくって京都で葬られた墓地会津藩墓地の由来がかかげてあります御霊の安らかにあれと 手を合わせるばかりです次回は、真如堂に参ります。此処でも春日局が父の菩提のために桜の木を植えた後裔があります
2014.07.27
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昨日の京都は38.3度の酷暑でした竜谷大平安が甲子園への栄冠を勝ち取りました【金戒光明寺】 浄土宗 通称 【くろ谷さん】法然上人さん43歳の年 比叡山の修行を終えて この地で 念仏をされた時紫雲が全山にたなびき 光明があたりを照らしたとありここを念仏道場の最初の地と定められました御影堂 少し前まで現存していた 熊谷直実の 鎧掛けの松名木も 松くい虫の被害で昨年10月枯れて撤去されたとのことです現在 三尊石だけで 跡形もなくなってしまいました残念です庭園の もみじは 僅かになってしまいました 阿弥陀堂 【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、 「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。 山門 【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額 が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教え を始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん) 中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。徳川秀忠の妻 【江】 (ごう) の供養塔 初めてです春日局が家光を巡っての 確執がありましたが江 の遺髪を治めて弔ったと言われます春日局の思い遣りが伝わりそうです江 の墓地は東京に 仲良く 夫婦並んで ねむっています港区 芝公園 道上寺 浄土宗 東京タワーのそば
2014.07.27
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列島酷暑 京都36.3度 京田辺37.9度 たまたま昨日は安楽寺のかぼちゃ供養の催しがある日でした非公開寺院でも公開されました【霊艦寺】 門跡尼寺で、谷御所とも云われています。特別拝観のときしか内部は観られません。本堂・書院・居間が佇み立石を多く使った石組みで、池泉回遊式庭園はこじんまりしても心和みます。【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 4月5日の桜結婚式の後哲学の道 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。京都大学教授哲学者 西田幾多郎博士が 何時も考えもって散歩されたところから誰言うと無く その名が付けられたそうです。東天王町にある 【岡崎神社】 にも狛犬に変わり「兎」が居ました。 岡崎神社 狛犬の「うさぎ」 場所は京都御所の西側には、猪の狛犬が有ります。 護王神社 祭神 和気清麻呂九州大隅に流された時、野原の周囲から火攻めに会った時に、千頭の猪が火を踏みつけて消したとのいわれで、猪を狛犬として奉じています。次回は金戒光明寺に参ります
2014.07.26
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朝の更新の続きです一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。 女官 鈴虫・松虫の五輪石塔 五輪石塔に至る 小さい門 後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】 (1107年) 仏道の僧でありながら罪とされました。 心無い権勢は出来ません、それから14年後に【承久の変】 (1221年)鎌倉幕府を打倒されるはずが失敗後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡島へ天皇が配流され土御門上皇は自ら土佐で過ごされました。天皇が配流なんて、私の時代には教わりませんでした。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 仏足石【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。帰路からみた表門 4月5日の哲学の道の桜次回は哲学の道周辺の神社を見て 黒谷の方向に参ります
2014.07.25
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連日35度の猛暑が突きます銀閣寺から法然院そして安楽寺沿いに哲学の道があります。 法然院の側にやはり念仏修行の安楽寺があります。(非公開)キリスト教への弾圧だけでなく、解かり易く一般民衆にも会得出来る法然上人・親鸞上人の説かれた宗教に法難の歴史がありました。安楽寺山門の前に掲げた「京都市の立札」です。 安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配竜流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市 入口の門 本堂 本堂の背景庭園 千両 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。後に続きます
2014.07.25
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本日祇園祭後祭の山鉾巡行が行われます49年ぶりの後祭りの復活そして 10基の内 唯一の鉾が大船鉾で150年ぶりの復活となり 関心が寄せられています気温連日35度 法難の続く世の中に有って 大衆のための信仰への糧となられました此処暫く【法然上人さん】の威徳を偲んで、更新してみます。 銀閣寺から岡崎・円山そして清水寺に亘っての足跡が遺されています。特に清水寺では、釈迦堂と並んで阿弥陀堂があり、その場所で法然上人が念仏道場として初めて開かれたとされて上人像も祀られています。現在平成大修理中です。【法然院】 浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。明日安楽寺ご紹介します。 参道 此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。 境内 境内 境内 萱葺の内から撮った門 椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。 昨年の哲学の道の桜
2014.07.24
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慶長7年、徳川家康は、信徒の結集に畏れ、本願寺に土地を与え東西に勢いを分けたことから東西の本願寺があります。国宝が無いので世界文化遺産には登録されていません。 東本願寺御影堂 (ごえいどう)親鸞聖人を祀り千畳敷の畳は日本一祈りと法話を聞く所京都タワーを望む右東本願寺勅使門左、イチョウの樹本願寺の火災の時に、水を吹きだして消火に役立ったとの謂れ。京都駅前が近いです本願寺前の噴水イチョウの樹御影堂廊下堂内入り口 堂内撮影禁止千畳敷の一部を龍の手水京都タワーと伽藍 JR 京都駅 JR京都駅正面駅構内の吹き抜け改札口入場した改札口1番線 2番線に電車右手の建物が 新幹線乗降の場所。京都駅のご紹介で、旅情を楽しんで下さい。
2014.07.23
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【西本願寺】浄土真宗本願寺派本山 世界文化遺産に登録朝に続きます 国宝 唐門常時、観られる国宝【唐門】(からもん)は、西本願寺の南通用門の側にあり、 西本願寺の境内にある龍谷大学 大谷学舎 黄石公の馬上 張良が沓(くつ)をおし戴く 中国の故事が、表裏で物語っています。良く観ると馬上の白髭を生やした師匠 【黄石公】(こう せきこう)の沓(くつ)が片方脱げて有りません。その左側に跪いて、沓を捧げ持つ人物が観られます。【張良】その人でした。 黄石公が兵法の教示を願う張良を試す為に、幾たびか、沓を投げ飛ばし、それを、堪えて沓を捧げたと。結果黄石公から太公望の兵書を授けられたそうで、後に天下統一を果たしたと云います。 瀧の水で汚れた耳を洗っている 下流で牛に水を飲ませるのを汚れた水として、手綱を引きとめてのまさないように 滝が流れ一人の人物【許由】(きょゆう)が耳を洗っています。側に川流れに牛を連れた【巣父】(そうほ)が立っています。 許由は、中国の神話上の穏者で、当時の皇帝【堯帝】(ぎょうてい)が許由に帝位を譲ろうとしました。許由は思いも掛けない誘惑と大層心を乱す言葉を聞いたと汚れた耳を洗って清めています。一方その事を知った巣父も汚れた川の水を牛に飲ませまいと手綱を引き挙げている姿が観られます此の故事はお寺さんの守衛さんもご存じなかったですそしてほとんどの方が 美しいとだけで 素通りされるのでもったいなと思いました昔の中国人は 素晴らしい思想を持っていたのですね
2014.07.22
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昨日近畿・東海が梅雨明け宣言しました連日33度以上の 予報に成っています大河ドラマ軍師黒田官兵衛が面白くなってきました戦国時代と寺院を辿りますと 先に織田信長によって【石山本願寺】(大坂城の当り)逆らうとして焼き討ちに会いました豊臣秀吉は本願寺を庇護して 西本願寺が建ちました国宝飛雲閣は 秀吉の建てた【聚楽第】(じゅらくだい) から移築二条城の北にあって 関白と奉じた甥の豊臣秀次に住まいさせましたが謀反として全て焼き討ちしてしまいました 文化財として惜しまれます西本願寺 浄土真宗 世界文化遺産 阿弥陀堂 御影堂 (ごえいどう)親鸞聖人を祀り、祈りと法話が行われます 国宝飛雲閣と国宝書院の特別拝観がされました。私としても一生で2回目の鑑賞ができました。 国宝が多く存在するので、世界文化遺産に西本願寺は、登録されました。 大徳寺の芳春院の呑湖閣も合わせると京の四閣とも、非公開です。 飛雲閣 池面に映されています。 水鳥が泳ぐ 飛雲閣への庭園 特別名所(国宝) 虎渓の庭 国宝 能舞台 日本最古のものと言われます。 この続きとして 伏見城から移築してきた 唐門をご紹介します10,000字のため
2014.07.22
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鐘楼-【知恩院の除夜の鐘】大晦日と言いますと、テレビでも表題のシーンが放映される事が多いですね。108つの煩悩を振り払う、僧侶十数人掛かりで、撞かれます。【重さ70トン】 御影堂(みえいどう)大瓦の頂上の真ん中に瓦が三枚ほどくくられてあります 何故?建物は未完成のままで永久に人も控えめにとの僧侶のお話しでした。 【知恩院】 (ちおいん)は、浄土宗の総本山とされ、法然上人が開祖で、一般大衆でも難しいお経を唱えなくっても、ただ 【南無阿弥陀仏】 と唱えるだけで阿弥陀さまの世界【西国極楽浄土】 に召されるということで、日本全国信者さんが大勢信仰を持って居られます。 御影堂(みえいどう)は法然上人が祀られ、大きい建物です。何でも、 【左甚五郎】 の作と言われています。 長い竹の棒で位置を説明します。 有名な 【忘れ傘】 が正面向かって右側の軒下に見上げるとひなびて居ますが、見られます。実は忘れたのでなく、木製の建物として、最も恐ろしいのは、【火災】です。それに対応して、水に関係する【傘】を置いたのでしょうね。 屋根の頂上の中央に【瓦三枚】が縛られて置かれています。和尚さんのお話では、作者は半永久的に残したい意味で、「この建物はまだ未完成ですよ」の意図と考えられます。人間も慢心しないで未だまだ足らない事が多々あります謙虚さを説かれていました。寺社では、隠れた為になる教訓が気付かない所に有るようですね。 西側に阿弥陀如来の祀る阿弥陀堂があります。 更に奥に行きますと、廊下が【鴬張り】になっています。そして更に進みますと、大柄杓(ひしゃく)が手の届かない、梁(はり)に掛けられ、【シャクに触るな】につながります。又、柄杓は、多くの人を救いとるの意。 あまり上手に画けて、【抜け雀】【三方正面真向の猫】観る者が位置を変えても、親子の猫の目がこちらを見ている。日本一大きい三門 一度は観られると良い豪華な【三門】は日本一大きいとされています。その上層部には、建築の責任者寺社奉行【五味金右衛門夫婦】の【白木の棺】と像が置かれています。予算超過でその責めを採り自刃。三門は、徳川二代将軍秀忠公によって建てられ、楼上には、お釈迦さんが、祀られて居ます。 三門から御影堂まで、急な石段【男坂】となだらかな【女坂】があります。七不思議のひとつ【瓜生石】 二条城に通ずるミステリ地下道の出入り口される【瓜生石】この石の上に祇園の牛頭(ごず)天皇が降り大石から瓜が実った。 以上を【知恩院の七不思議】とされています。知恩院は、徳川のお城でも有ったようです。 御殿の東北には、東照宮があり、家康・秀忠を祀って居ます。庭薗も観られます。 知恩院境内の最も聖なる地法然上人御廟所石段を登りつめた場所 御影堂の東に急な石段を登り詰めますと、【勢至堂】(せいし)即ち法然上人のご幼名でありそして、【御廟】が有ります。その勢至堂の裏側即ち北側に、NHK大河ドラマ天地人で話題となった、徳川家康の孫、豊臣秀頼に嫁がされた【千姫の墓】 があり、後に【東福門院】京都の市街が、美しく見渡せます。千姫の墓千姫も。父秀忠公と静かに京都を見守ってくれていましょう。 東照宮への庭園 御影堂の東側から勢至堂・御廟への石段登り口次回は、法然上人を慕って【法然院】に参ります。
2014.07.21
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岡山県の幼児誘拐が 本人の無事と犯人の逮捕で良かったです徳川家康の亡くなった日は 元和2年4月27日(太陰暦) 1616年6月1日何でも鯛の天ぷらに食中毒してその後75歳でなくなったとか。たまたまその前の年1615年6月に大阪夏の陣で豊臣勢力を滅亡させた直ぐ後でした。豊臣秀吉 醍醐の花見行列4月の後慶長3年8月18日(1598年)62歳にして伏見城でなくなっています。両者とも当時としては天寿を全うしたともいえます。朝廷より 神号を賜る豊臣秀吉 豊国大明神徳川家康 東照宮大権現織田信長 建勲 【二条城3.】大広間を過ぎますと、更に奥に、【黒書院】と【白書院】があります。【黒書院】は、奥御殿で、将軍と親しい諸藩の大名の内輪の対面所です。特に紀伊・尾張・水戸の「御三家」で、「大政奉還」の審議は、この部屋で行なわれたといわれています。注目すべき襖絵は、「狩野探幽」の弟「狩野尚信20歳」の桜の絵が、描かれ、兄の豪壮に対して、とても和やかな、優しい 落ち着きを感じさせる襖絵です。【白書院】いわゆる、【大奥】で、将軍を囲み、将軍にお茶を運ぶ「女官」控える「局」と控える「女官」が、人形で表しています。襖絵は、狩野兄弟のお師匠「狩野興以」の「山水画」です。此処より、折り返し、牡丹の間・ソテツの間そして、二条城から手渡される、パンフレットに「鷹」の図がありますが、大広間の裏「四の間」に豪快な「老松にとまる鷹」の絵に、目を輝かせてくれます。この部屋の左方の欄間には、牡丹、往路大広間の三の間がその裏側になり、同じ欄間に「孔雀」が彫られている事に、ご注目下さい。厚さ35cmkの幅で、異なった「彫刻」がなされています。老中の間そして最後に「勅使の間」を見て、下足した場所に戻ります。部屋数33室・畳数800畳余り有るそうです。 とても広くって、第一段階ここから時間がないので、引き上げるが多いです。 特別名勝史跡【国宝】・二の丸庭園更に、玄関の出て、右手に「庭園入り口」があり、【二条城二の丸庭園】(特別名勝・国宝並み)小堀州遠作庭。豪壮な石が並び、瀧が流れ、石橋・鶴島・亀島と配置良く、庭園の「要素」を備えています。 庭園入り口を入って、直ぐ右手に、先ほど巡った「二の丸御殿廊下」の軒下をのぞいてみますと、「鴬張りの仕組み」が見えます。本丸への門 内濠 本丸此処で、引き返す方も有ります。堀の橋を渡りますと第三段、【本丸御殿】天明の大火で、焼失、現在は京都御所に在った、旧桂の宮御殿を移築されました。庭園は明治時代に作庭、精洋風に作られています。 天守閣があった跡地【天守閣跡】天明の大火の直前、落雷で焼失しました。現在平坦な空き地に、なっています。帰路。【清流園】江戸時代に「角倉了以屋敷」から建物の一部と庭石800個を譲り受け全国から名石300個と集め、「和風庭園」と「洋風庭園」を作庭。茶室もあり、大茶会とか、国賓の接待所に利用されました。土蔵。収納庫(米蔵)そして台所・御清所には、人形が有り、「お毒見役」も、見られます。 清流園四季に季節の花が彩り、時間にゆとりがあれば、広域に散策を 楽しめる市民の憩いの場所でもあります。国宝二の丸庭園の桜二条城の苑内明日は 徳川の都の第二の城形式の 知恩院に参ります
2014.07.20
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暑い日が続きます 梅雨空けも もう間なのでしょうかご体調にくれぐれご留意願います国宝・二の丸御殿は、二条城訪問で最も貴重な見所です。旅で時間の忙しい人は、此処だけを観て帰る人が多いです。時代劇・特に徳川幕府のお城の御殿の雰囲気と襖絵の絵画は美術館を訪れた感激を覚えます。全て写真撮影禁止で残念です。 国宝・二の丸御殿の玄関 【二条城2.】 お城の中って、どんな構造に成っているのでしょう。下級武士から、殿様まで、そして「大奥」と、テレビで紹介されますが、実際に目の前に、見せてくれますのが、ここ【国宝・二の丸御殿】です。玄関には、龍安寺で、ご紹介した【懸魚】(げぎょ)が、目立ちます。下足を脱いで、スリッパに履き替えます。順次各部屋ごとに、説明付のボタンが、設置されています。短いですからね利用されると面白く見られます。【二の丸御殿】(国宝)桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。•1. 【車寄】(くるまよせ)・遠侍に付けられた御殿の玄関です。 欄間を見上げますと鶴・牡丹・鳳凰が見られます。聚楽第 の遺稿といわれています。豪華ですね。•2. 【遠侍】(とおさむらい)・柳の間・若松の間・勅使の間 お城に参上した大名や外来客の控え室と成っています。 柳の間・若松の間・襖の絵により名付けられました。 共に「目付役」が、来殿者の受付をする所で、来殿者の 心を和らげる雰囲気があります。 虎の間・三部屋に分かれています。大名の控え室で、 虎と豹の絵が描かれています。説明では、当時生きた 現物を見たことがないので。虎を雄・豹を雌との構想で、 微笑ましいです。城の威厳。武将の厳しさを表現したので しょう。何れも【狩野派】の絵とされています。3.【廊下は鶯張り】知恩院でも、紹介させてもらいましたが、皆様 が廊下を歩かれると、「きゅつ・きゅっ」と音がします。「忍びの 者が、潜入してきても直ぐわかる仕掛けとも言われています。 後ほど、庭園に出られたときに、建物の廊下の下部を覗きますと、 仕掛けが解かります。4.【式台】式台の間・老中の間。老中の間 老中と参上した大名と挨拶を交わした場所 【狩野探幽25歳】豪華な老松が襖(ふすま)に描かれています。 「切手」に登場しました。 東入り口の杉の戸の【八方睨みの獅子】何処から見ても正面を 向きます。5.【大広間】 「一の間・二の間」将軍と緒大名との対面所。最も大切な場所 です。人形がずらりと並んでいます。将軍は、小姓と、上座に 控え、「武者隠しの部屋」も控え、「桃山時代」の「武家風書院造り」 典型をなします。違い棚・付書院、天井は二重折り上げ格天井 (ごうてんじょう)この部屋で、【大政奉還の儀】が行なわれました。265年間の徳川幕府でした。明日は国宝二の丸庭園他を写真付きでご紹介します
2014.07.19
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京都には、徳川に関係する遺跡が多いです。昨日の金地院に東照宮が建てられているように徳川家康には、側近の僧として金地院崇伝そして南光坊天海がいました。家康75歳で亡くなった後、神として祀るため贈り名に「明神」は先に秀吉が付けているので【権現】(菩薩の世を救う仮の姿)ときまったそうです。 御所の近くに徳川幕府は朝廷との交渉しやすく二条城を築城し伏見城は廃城となりました。徳川幕府は15代続き現代に至るまで、文化財は世界文化遺産の評価を得られるほどに脚光を浴びています。 本日は、修学旅行生では、欠かせぬ二条城です。【二条城1.】 世界文化遺産登録 修学旅行生が、近年タクシー観光を各社利用される学校が増えて来ました。一見贅沢の様ですが、安内による【見所】貴重な時間の有効性、迷わずに目的地が、多く観られます。そして何より大切な事は、【安全管理】父兄の方が一番我が子の安全を心配。要所に先生方が、待機して生徒さんたちに、安堵感を与え、微笑ましい光景が、見られます。二条城の外周 二条城の周囲は、2km(京都御苑は4km)ジョギングされる方を多く見かけます。それだけに、観光コースも三通り1.二の丸御殿の内部だけ見て帰られる2.二の丸御殿と池を廻って帰る。3.本丸庭園も観られる方、でしょうか。 二条城のあらまし•1. 徳川家康が、上洛の際の宿所として、1603年造営•2. 徳川家康と豊臣秀頼との、二条城会見がここで行なわれました。•3. 家光の時、後水尾天皇をお迎えすることで、外堀の西半分を拡大し、城郭として、盛大な宴が、模様されました。後水尾天皇の中宮が、家光の実の妹で【和子】(まさこ)後の【東福門院】で尚更に盛大にお迎えの設備が整いました。•4. 家光以降は、将軍の上洛もなく、幕末14代家茂の上洛が有りました。•5. 1750年落雷で、天守閣焼失。1788年天明の大火で、建物一部焼失しました。•6. 1867年(慶応3年)15代将軍徳川慶喜の【大政奉還の儀】が二の丸御殿大広間で行なわれました。•7. 1884年徳川幕府の終幕で、宮内庁の所管となり、二条離宮と改称されました。現在は、京都市管轄となりました。•8. 【国宝・二の丸御殿】•9. 【特別名勝・二の丸庭園】小堀遠州作庭 順路•1. 駐車場前の受付。•2. 東大手門(重要文化財) 暴れん坊将軍によく出てきます。東大手門 •3. .番所 江戸から毎年2組(1組50人)が、4月に交代で派遣されます。裃姿(かみしもすがた)が上役の人形です。坐姿は、番士の人形です。•4. 土塀に5本の筋が見かけられます。【筋塀】と称し、門跡寺院等寺格を表すと申しますが、京都では殆ど5本です。寧ろ「飾り」と思えます。 国宝唐門•5. 【唐門】二の丸御殿の正門。西本願寺の唐門と同じく、「伏見城」から移築されたとの伝えです。良く観ますと「雲龍」「竹に虎」「牡丹に唐獅子」等豪華で鮮やかで、盛んにシャツターを切って居られます。 国宝・二の丸御殿•6. 二の丸御殿の入り口前庭、プロの写真家が記念写真をと待機しています。 他でも、シャツターチャンスと考えてよいでしょう。次回は、御殿内へ。
2014.07.18
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祇園祭 昨夜の宵山には 35.4度の暑いい日34万人の人出でした 昨年より7万人増えたそうです本日は鉾の巡行の日です 南禅寺は、鎌倉中期に禅宗として、建てられましたが、 応仁の乱または火災で焼失してしまいました。庭園は有る程度遺されました。徳川時代に再興された南禅寺そして塔頭が現代のこされています。本日の金地院(こんちいん)は徳川家康と懇意にあった崇伝和尚が庭師、小堀遠州に庭園を造りました。 【金地院】 東照宮への道 鳥居が立っています。 南禅寺の塔頭の一つで、「三門」の前の「中門」の外に位置します。徳川家康に仕えた「崇伝」が京の地に【東照宮】を造営し、今に残っています。 苔庭 参道 本殿入口 東照宮本殿 本堂の前には、枯山水の「鶴・亀の庭」として大きい岩が横たわっています。東照宮に対して吉慶を象徴した【祝儀の庭】とされ、「小堀遠州」 作と云われています。二条城の庭園も同じくです。 鶴・亀の庭枯山水庭園 方丈庭園「八窓席の茶室」は遠州好み「三畳台目」の茶席で名席とされています。私の京都観光周期も4月末で一区切りとなります。世界文化遺産の寺が残されていますので順次ご紹介します。明日は二条城です。二条城にも小堀遠州が特別名所史跡国宝級の庭園を作庭しています
2014.07.17
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京都は祇園祭の宵山で 賑わっています気温34度 熱中症が気懸かりです今年から 古に戻って 山鉾巡行が 先の祭と後の祭り 日を分けて行われます どんな形になるのか 見ものです石川五右衛門で有名な「ああ絶景かな・絶景かな」のセリフをのこしたという南禅寺三門のすぐそばに天授庵の庭園が三門の上からも眺められます。 本日は、南禅寺開祖の【大明国師無関善門禅師】をお祀りする開山塔で枯山水と池泉回遊式庭園と東庭と南庭に分かれた趣の深い庭園で三門の上からも垣間見ることが出来ます。【天授庵】 南禅寺の塔頭庫裏の入口 南庭への入口石畳が菱形で龍の蛇腹正門からの道も苔に満ちた石畳 此処の見所 正面が正門 苔庭南庭に通ずる書院 竹林も見えます 池泉回遊式庭園作者不明でも、南北朝時代の様相が伺われます。本日は写真だけで観察してみてください。800年の 遺された 平和な景色が 私たちの時代に壊したくないです。明日も南禅寺の境内にある塔頭に参ります。昨年秋の紅葉「行こう京都へ」の題材になった場所です。
2014.07.16
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ブログ名:京都観光をご案内し・・・.総アクセス数:190043 アクセス(平均 114 アクセス/日).開設日数:1665日(開設日:2009/12/23).日記記入率:95.9% おかげさまで昨夜 アクセス数 190,000 達成していました夢の中での出来ごとになりましたこれも一重に皆様方の 温かい応援の賜物と 心より感謝申し上げます今後ともよろしくお願いいたします 南禅寺2】 南禅寺境内にある塔頭 天龍寺の庭園を造られた 夢想国師の作庭従って歴史が古いです。【南禅院】開基 無関普門 寺でなく 院です 南禅寺の境内で、【水路閣】レンガ造りのアーチ形を潜り石段を少し登った所に有ります。 入ったところの 庭園同じく「水路閣」を更に登り詰めますと、疎水の勢い良く流れる水路を眺める事が出来ます。 水路閣の上 水路閣コノアーチの右際に南禅院が佇んています 奥の庭園 こじんまりした庭園ですが【夢窓疎石】の作庭で、庭の要素は、瀧を始め揃って存在しています。南禅寺の発祥の地で、徳川綱吉の母に当たる「桂昌院」の寄進により再建されました。奥の庭園 紅葉の時期も素晴しい景色を見せてくれます。次回も南禅寺の塔頭をご紹介します。
2014.07.15
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大河ドラマ軍師黒田官兵衛 【本能寺の変】織田信長も 志半ばで 濃姫と共に壮烈な最後でした歴史は此の時大きく変わりました場所は京都市役所の南隣に墓と共にあります本来は 二条城の近くでしたが 豊臣秀吉の洛中護衛のため 寺のかずかずを寺町通りに南北に集め見張りをしやすくしましたそのため現在地に主君に関係するも墓地並びに建物を移動させました 計り知れませんた織田信長の墓本能寺 ホテルオオクラ本能寺の筋向いにあります 京都市役所も付近にあります。アクセス数190,000にあと40 今夜はんになりそうです わくわくしています
2014.07.14
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大河ドラマ「本能寺の変」は見応えありました 歴史の大転換期の一瞬でした戦国武将の菩提寺大徳寺を後にして足利義満の定めた、京都五山の上位は 【南禅寺】でした。 五山の上位 南禅寺第一位 天龍寺第二位 相国寺第三位 建仁寺第四位 東福寺第五位 万寿禅寺 三門 三門から参道 【南禅寺】 臨済宗南禅寺派大本山 開基 無関普門 山号 瑞龍山 。【三門】は義賊「石川五右衛門」の楼上よりの「ああ絶景かな絶景かな」と歌舞伎で有名に成った【楼門五三の桐】(さんもんごさんのきり)の一場面です。傾斜の急角度の梯子を伝って楼上に登りますと、その光景が体験できます 法堂三門より参道の正面に【法堂】(はっとう)が有り正面に「釈迦三尊」が天井には、龍が画かれています。 水路閣 【水路閣】 (すいろかく) 京都をイメージした明治の名所ですレンガ造りでヨーロッバ風のロマンチックな風情を感じます。 水路閣の上、疎水の流れ その上には「哲学の道」へと京都唯一の坂に逆らって北に向かって流されています【疎水】の分流が流れています。 田辺朔郎博士像 【琵琶湖疏水】 明治2年工部大学(東大)卒業論文に【田辺朔郎】(たなべさくろう)が運河により滋賀から京都への物資の運送に便を成し、そのうえ「蹴上の地」で傾斜を利用して「水力発電」を計画。日本で電車弟1号を発車させました。その論文を採り上げた京都府初代知事【北垣国道】 (きたがきくにみち)の英断で、苦難と財力の超過で完成。そのため知事を誹謗して「こんどきたがきは、ごくどうもの」と名前でなじったそうです。現代【水】に恵まれ、疎水の周りには、桜並木が何処も彩り、人の心の潤いに大いに寄与しています。銅像は「蹴上」に田辺工学博士が、平安神宮の西の方に「北垣知事」が今も見守ってくれています。 【本坊】履物を脱ぐ場所に、 【脚下照顧】(きゃくかしょうこ)禅宗の教えで、履物を揃えて置く様な心掛けで、禅寺を鑑賞するとよりよく、理解出来る意味で書かれていました。確かに以前も何回か記していますように、禅宗の寺院では、修行僧の行事か、「塵一つ落ちていません」 清浄感を味わうことが出来ます。 方丈庭園 【方丈庭園】「小堀遠州作」と言われる、枯山水の立派な白川砂で覆われた広い庭園に縁に坐って鑑賞、片隅の岩の配置は、【虎の子渡し】 を象徴するように、豪華なものです。襖絵は、狩野派の親子三代「狩野元信」「狩野永徳」そして「狩野探幽」の立派な絵が観られます。特に「探幽」絵の「水飲みの虎」は、有名です。何故か「三尊石」を象った石群があちこちの庭に見られます。明日は塔頭に参ります
2014.07.14
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いよいよ 今夜の大河ドラマは 「本能寺の変」が放映されます 徳川家康には、日光東照宮という、豪華な祀られた場所がありますが織田信長の祀られた此処建勲神社は、人知れず密かに建っています。 枯山水の庭園と茶室に恵まれた大徳寺を出ますと近くに織田信長を祀る 【建勲神社】 があります。 建勲神社 (けんくんじんじゃ)または(たけいさおじんじゃ)入り口の鳥居平地から石段を可也登っていきます。偉い人は高いところを好むののでしょうか。 石段の参道 参道 幾つか屈折した石段の最上部やっと石段の参道を登りつめました。本殿が見えてきました。 本殿で静まり返っています 本殿からは、京都の都が見下ろせる位置に鎮座まします。本殿前からの写真です、彼方に大文字山がみえます。本殿の境内は広くその奥に隣接した、市民の広場が開けます【船岡山】 と称します。昨日ご紹介しました大徳寺塔頭の弧蓬庵(こほうあん)は寺院の庭園の借景として、船岡山を小堀遠州は採り入れています。頂上ではこのラジオで朝のラジオ体操がおこなわれています。 頂上広場頂上からは、京都市街並びに御室嵯峨方面の北山連峰が見えます。 京都市街 御室・嵯峨北山連峰 一番奥が愛宕山船岡山を西に降りますと、金閣寺が直ぐ側です。賑わいの陰にひっそりと佇んでいます。船岡山は中国の風水によりますと、京の都の基点になり、二条城側の神泉苑に風水の瑞線が繋がっていると言う、神聖な山とも言い伝えられています。都の西北に織田信長の神社が、そして明治維新以降に建てられた豊臣秀吉の豊国神社が東南に斜線で繋がっているのも偶然でしょうか。平安遷都で、都造りにも、中国の易を大切に、【四神相応】【風水】を基盤に、厄害呪い等を避けるべく、大切に扱いました。船岡山は、風水の霊地として存在価値があります。四神 百虎(東) 西龍(西) 朱雀(南) 玄武(北)亀・黒現在の【千本通】゛風水の道で、都が出来たときの大内裏から朱雀大路(100m幅)が広がっていました。
2014.07.13
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偶然大徳寺塔頭では、初めての公開とも云える二ヶ所をたまたま訪問することができました。金毛閣の直ぐ側に建てられている興臨院に先ずまいりましょう。【興臨院】石川県能登の戦国大名 畠山義総 の戒名からの命名で畠山家の菩提寺です。火災に逢いその後加賀の前田利家により再興以後前田家の菩提寺でもあります。興臨院唐門は室町時代のものムラサキシキブ方丈庭園蓬莱山方丈裏の庭園 もみじ みつけました茶室【黄梅院】 織田信長公28歳のころその父君 織田信秀の追善菩提のため当時の羽柴秀吉により小庵を造営しました。 開祖の僧の出身地中国黄梅県破頭山により寺名がつけられました。従って日本の禅寺で一番古いとされています。秀吉は、庭園として千利休に命じ【直忠庭】を遺しています。三尊石を中心に広々とした苔の庭でした。後に信長公が本能寺の変で急逝するや、庵では、小さいとして【総見院】 を建て大徳寺焼香も盛大に催しました。後に、毛利元就の子小早川隆影が普請奉行となって、両親元就夫婦の墓も信秀と共にあります。庵を院に改めました。寺格として 寺・院・庵・坊・軒黄梅院の入れ口玄関前の苔庭参道間口は小さいので小さい寺院と思いました女性群写真撮って居ます。もみじがありました茶室直中庭回廊があって向かいまで廻ります。広さを感じます。恐らく織田信長の菩提寺総見院と同じ広さ枯山水の一部破頭庭の方丈枯山水三尊石と一直線の砂の紋単純的ですが中国の景勝地そして厳しさの伝統を忍ばせます大徳寺の時代を偲ぶに相応しい訪問でした。明日は、織田信長の祀る 建勲神社に参ります。
2014.07.12
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只今から国立病院へ血液検査で出かけます 大徳寺は非公開寺院が殆どですが今回主役ともいえる千利休の菩提寺を特別公開で訪れました。 聚光院の門聚光院の玄関千利休の墓京都に住みそして観光に何回か大徳寺を訪れましたが、86歳にして初めて、念願の千利休さんのお墓詣でが実現しました。【聚光院】 (じゅこういん)織田信長が眠る、【総見院】の東隣に位置します。【方丈の襖絵】狩野永徳画 4箇所 国宝指定真珠庵 特別公開 一休さんの寺左参道は、【大仙院】です真珠庵の入口受付の女の方に尋ねましたが、此処も庭園全て撮影禁止でお寺さんが決めておられるのでとのことでどうもとで、諦めました。七五三の庭園が有名で、一休さんが僧侶として務められたお寺でもあります。大仙院前のもみじです大徳寺境内を西へ出たところに今宮神社が゛ありました。【狐篷庵】です。 【狐篷】とは、中国でよく見かける、苫の屋根で作った舟をいみします。映像は、Google画像 狐篷庵で見られます。 狐篷庵境内狐篷庵玄関狐篷庵大徳寺への参道 大徳寺境内より、飛び地になったやはり塔頭の【狐篷庵】が今宮神社の参道を越えたところに位置します。此処も非公開で、特別に予約して、見せていただいても、撮影は全て禁止で、とても残念です。 大徳寺は、戦国時代の各武将家の菩提寺が集結しています。でも此処には、豊臣も徳川もありません。【狐篷庵】 (こほうあん)非公開 (中国風景に出てきます、苫の帆かけ小船)「小堀遠州」が故郷「近江八景」を庭園に作庭。「船岡山」を借景に採り入れています。茶室 【忘筌】 (ぼうせん)中国の諺に「得魚忘筌・得兎忘蹄」 (とくぎょぼうせん・とくどぼうてい)があり、其の中から名付けられたようです。説明では茶人の心得といわれました。魚や、兎を手にすると、人は、お世話になった魚や兎捕獲の器に感謝する事を忘れてしまう。戒めとも考えられます。功成れば師の恩を忘れてしまいがちの戒めでしょうか。中国の漢詩は、随所に、ことば短くして至言を伝えます。中国の歴史に、何故中国の人たちは、誇りを持てないのでしょうか、次回大徳寺最終回を更新します。
2014.07.11
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大型台風は各地で猛威をふるい 被害をもたらしています既に昨年からスーパーコンピューターで予測されていたようです充分に皆さんお気を付け下さい昨日 夫婦に成って61回を迎えました86歳と84歳です終戦後8年経過しての波瀾万丈でした 老いて尚ブログを通じてすこしでも京都の様子を愉しんで戴くことが世の中への貢献と支えにしています 皆さんに感謝しています戦国時代が最も歴史で様変わりのある時代でした。織田信長 鳴かぬなら 殺してしまえホトトギス 豊臣秀吉 鳴かぬなら 鳴かせてみせようホトトギス 徳川家康 鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス臨済宗(禅宗)の寺院は、京都に世界文化遺産17箇所の内、 金閣寺・銀閣寺・天龍寺・龍安寺・西芳寺と5箇所含まれるほどに、文化的に高く評価されている傾向にあります。大徳寺シリーズも今回まで、此処だけでも心が和みます。大徳寺では、多くの塔頭が有りますが、特別公開以外には4箇所の常時拝観できる塔頭(たつちゅう)が有ります。【大仙院】【高桐院】【瑞峰院】そして【竜源院】です。【大徳寺4.】【竜源院】 大徳寺塔頭能登の畠山氏、豊後の大友氏、周防の大内氏が建立しました。 参道本堂は、室町時代最古の応仁の乱以前に建てられた禅宗方丈建築で 本堂庭園は土塀を背景にした飾り気のない枯山水の竜吟庭と苔庭と一枝坦(いっしたん)そして小さい壷庭があります。 竜吟庭 苔庭 一枝坦の庭園 壷庭 部屋には豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝える碁盤があります。 秀吉と家康が対戦したという豪華な碁盤臨済宗禅宗の寺院では、龍の絵画を大切に表現しています。庭園の清掃は行き届き、観る人の心に清浄感を与えます。次回は、今回初めて、特別公開した塔頭で、【黄梅院】撮影禁止撮影は遠慮してくださいとされていました。
2014.07.10
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大型台風8号が沖縄を荒らし 九州に接近人が立っていることが出来ないほどの暴風の勢いを示していました又北海道では 震度5弱の昨年2月以来の大きな揺れがあり余震とされています皆さん充分に怪我の無いようにご留意願いますキリスト教禁令の中での大友宗麟の菩提寺をご紹介します。 枯山水の庭園で、荒波をあしらった表現は珍しく印象に深く残ります。私の最も好きな枯山水です。 【瑞峰院】 (ずいほういん)公開。キリシタン大名【大友宗麟】(おおともそうりん)が菩提寺として建てました。豊後の戦国武将大分出身霊名 ドン・フランシスコ瑞峯院は禅宗の戒名から名付けられています。 枯山水の庭園でも 怒涛逆巻く 砂紋の激しさは 類例がありません禁令下のキリスト教 そして戦国時代を象徴しているようです玄関入り口 禅宗の入り口に【韋駄天】が祀られ守護されています。 坪庭庭園の一箇所に、十字架の庭がわかり易く、鑑賞出来ます。 十字架の庭石組みが斜めに十字架と組まれていますが隠れた形で信仰を保っています。何と云っても【方丈庭園】は、枯山水で、荒波が岬に。怒涛の如く押し寄せる風景に、砂をするどく、深めに形作っています。外に類例が無い、豪壮な姿を表現しています。 方丈庭園・枯山水の怒涛逆巻く豪壮な砂の彫り方は他に類例ありません。信仰を貫く精神が垣間見られて、私の最も好みの枯山水です。茶室で国宝は3箇所その一つ、大山崎に有る【待庵】(たいあん)のモデルが新装なり、特別に申し込まれましたならば観られると思います。【聚光院】 (じゅこういん)非公開 千利休・三千家の墓有り菩提寺。 【龍光院】 黒田長政が父官兵衛(如水)の菩提のために建てました。 大河ドラマ 黒田官兵衛の菩提寺に国宝茶室もあったのですね。非公開寺院長政もキリシタン大名で、官兵衛も洗礼名シメオン 如水の別名も旧約聖書から採り入れたもの 日本国宝三茶室 【蜜庵】 (みつたん)が有ります。 外に愛知県犬山市 【如庵】 (じょあん) そして京都府大山崎の 【待庵】 (たいあん)です。 【三玄院】 非公開 石田三成の墓があります。【芳春院】非公開 前田利家夫人芳春院の創建です。【呑湖閣】(どんこかく)小堀遠州作といわれ、前田家は、上洛の際「琵琶湖」に関係有り、金閣・銀閣・飛雲閣(西本願寺)と京都の四閣にあたります。特別拝観時観られます。 塔頭が外にもあり、何れも織田信長・豊臣秀吉に関係した武将達の菩提寺で、「茶室」もあり、京都では、【大徳寺】 を 一名 【茶面】 (ちゃづら)とも云われています。明日に続きます。
2014.07.09
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【大仙院】 塔頭で公開している中で最も大きく、見所も多いです。入り口の隣に一休禅師の住持された【真珠庵】が有ります。非公開で特別公開の時は、七五三の石組みの庭園などが観られます。入り口で、ブログ取材のため写真をと尋ねましたが、庭園すら撮影禁止で皆様にはご紹介で残念です。 大仙院 臨済宗(禅宗)の寺院を訪問するときに、掃除の行き届いている姿に、驚き且つ気持ちよく拝観が出来ることに、幸せを感じます。禅宗では、座禅を主としますが、日常の「作務」(さむ)として特に掃除する事を大切にされます。 「大仙院」の入り口を入ると、お釈迦さんに関係する樹が植わっています。一つは「菩提樹」で、お釈迦さんが、こ樹の下でよくお説教なさったそうで、他の一つは「沙羅双樹」で、お釈迦さんが、亡くなられたときに回りに有った樹とされています。「涅槃図」(ねはんず)に良く出てきます。更に門をくぐると、十二支に因んだ石が、各方向に並べて有ります。庫裏の入り口に【何妨】(かほう)の額が掛っていました。禅宗では来訪者は、どなたでもさまたげないの意味だそうです。 受付を済ますと、直ぐに【庭園】に遭遇します。【特別名勝・史跡】ですから国宝級です。院内庭園も含め撮影禁止でみなさまにご紹介できず残念です。渡り廊下の【花頭窓】から【透渡殿】(すいわたどの)が庭園の中心にあり、それを通して、枯山水の絵が美しく、瀧の滔々と流れる姿を想像させます。そして下流には、船石が有り、何れは、【方丈庭園】の白川砂で広がる、大海へとそそぐ形式を採っています。 庭園の中程の茶室は、過って「豊臣秀吉」と「千利休」が対峙した場所で、当時何を語り合ったのか、考えさせられます。「鶴島」「亀島」そして「石橋」もあり。庭園の要素を全て整っています。 方丈の北側には、【拾雲軒】(しょううんけん)が有り。「沢庵禅師」の書院で、「宮本武蔵」とも対面したことでしょう。 【方丈】(本堂)は【国宝】で、襖絵 【四季花鳥の図】狩野元信筆 【四季耕作の図】狩野之信筆 【四季山水の図】相阿弥 筆広々した方丈庭園も、座して暫し眺めますと、心が静まります。右奥に【沙羅双樹】が配置されています。芳春院【芳春院】 加賀前田家の菩提寺 非公開【呑湖閣】(どんこかく)加賀藩から琵琶湖を眺めながら都へ上洛するために付けられたようです。金閣・銀閣・西本願寺の飛雲閣と呑湖閣で 京の四閣と呼ばれています。 わが国の歴史では、「踏み絵」等でキリスト教徒への、弾圧が厳しく公には信仰を保てなかった中で、此処大徳寺の塔頭で2箇所公に信仰を守っこうた人物の菩提寺が有ります。一つは【高桐院】 (こうとういん)【細川ガラシャ夫人】です。公開しています。明智光秀の娘で、千利休の七哲の一人細川忠興の正室【玉】でした。石田三成の「人質政策」に反抗して死を選ぶ際に、キリスト教徒は、自殺は禁じられていますので、家臣の刃で亡くなりました。【欠灯篭】 豊臣秀吉の名石狩りをさけるためと、銘に「無双」と印し完全を忌(い)む公自身が一部を欠いたそうです。茶室【松向軒】(しょうこうけん)は、黒壁で質素に造られています。高桐院の入り口参道・玄関庭園細川忠興とガラシャ夫人の墓所今は、安らかに憩われておられることでしょう明日も大徳寺の塔頭を続けます。
2014.07.08
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昨夜の大河ドラマ 軍師黒田官兵衛で 遂に堪忍の緒が切れて明智光秀の「敵は本能寺にあり」となりました愛宕神社のおみくじは 何度いひても 凶 でした信長は世界を目指し 我が息子 信忠に後を命じていましたにも拘らずあるじの織田信長の葬儀も、シメヤカに営なまず。自己誇示のための全国の諸将に号令して、総見院の前でいわゆる【大焼香】をしました。功績と捉えればこの大徳寺には最も大切に菩提寺が有ってしかるべしで、その上心の師匠千利休をも切腹に追いやりました。石田三成の菩提寺すら有りながら、秀吉の菩提寺は有りません。大焼香の前には、その横暴さに僧侶の中で秀吉暗殺計画もあったそうでその師匠によって未然に防止されたほどで、当時の世情が察せられそうです。豊臣秀吉と千利休、大仙院でお茶をかわしたとされる部屋が ありました。美しい枯山水の庭園を眺めながら、然し秀吉には自分より秀でる者をも疎みました。利休の弟子が「金毛閣」の二階に師匠を崇める木像を安置、その門を秀吉に潜らしたと難癖を付け怒って切腹を命じてしまいました。利休のことなら、誤ってくれるだろうと信じての 戯言、でも理は通らずお前が頭さえ下げてくれればそれで済む事じゃ。頼む」と事の重大さを知りましたが、利休は切腹を選びました。 1582年豊臣秀吉は、全国大名に対しての威信を保つ為、主人「織田信長」 の葬儀を 「総見院」 で執り行いました。いわゆる 【大徳寺焼香】 として、歴史に残されています。たまたま、特別公開に恵まれ写真が撮れました。日頃は、非公開寺院のため、中には入れません。総見院 入り口の門本堂茶室茶室織田信長一家の墓中央織田信長長男信忠 そして向かって左端には濃姫も 千利休と茶道にも関係あり、利休の墓は、 「聚光院」 にあり、各塔頭には、夫々「茶室」が設けています。豊臣秀吉に関係する緒大名が競って塔頭を建てました。「石田三成」も有ります。石田三成の墓所400余年前戦国時代の歴史的出来事が 各菩提寺の存在で語られているようにその足跡の何かと判じさせてくれているようです
2014.07.07
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禅宗・臨済宗大徳寺派の本山に参ります。戦国時代の将者の菩提寺になっています。何故か豊臣秀吉の名は有りません。 【大徳寺】 済宗大徳寺 開基 宗峰妙超 (大燈国師) 山号 龍宝山紫野大徳寺と言う、広い境内の中に21の塔頭 (たっちゅう)が有ります。殆どが一般公開されていませんが、4箇所は、常に公開されていますので、序々に訪れたいです。 先ず本坊からまいりましょう。「大燈国師」により、創建され、位も臨済宗として「五山」の上位に有りましたが、三代足利義満により、十刹(じゅうさつ)の内9位に寺格を下げられた為、辞しました。現代「南禅寺」が「五山」の上位にされたままです。応仁の乱で、焼土化し衰退しましたが、一休宗純により、難波堺の豪商の支持で再建されました。一休さんの庵は、「大仙院」の隣に「真珠庵」として今も残されています。千利休と茶道にも関係あり、利休の墓は、 「聚光院」 にあり、各塔頭には、夫々「茶室」が設けています。豊臣秀吉に関係する緒大名が競って塔頭を建てました。【大徳寺の七堂伽藍】 (ひちどうがらん)【勅使門】 御所の陽明門を後に下賜されました。桃山時代の遺構です。 勅使門 【三門・金毛閣】 (きんもうかく)初め初層のみの唐様の三門の上に「利休」の弟子たちが上層の【金毛閣】を建て増し、「利休像」を置きました。そして秀吉をその門をくぐらしたことから、秀吉の 逆鱗に触れ、遂に切腹の原因の一つと成りました。秀吉は、自分より秀でる者は難癖をつけても押さえつけたいとして敢えてと承知で三門を潜りました。切腹を命ずれば利休もきっと命乞いすると踏みました然し、利休は泰然として切腹を選びました。秀吉は慌てて「頼むから頭だけ下げてくれればすむことじゃ」利休に懇願するも時遅く、素晴らしい側近の味方を失いました。 金毛閣【仏殿】(本堂) 本尊 釈迦如来 狩野元信の図があります。 仏殿の釈迦如来本尊【法堂】(はっとう)法要を営む。狩野探幽の龍の図があります。 法堂【浴室】昔、和尚さんが入浴された場所。浴室【経蔵】(きょうぞう)天平時代から、南北朝時代の写経が納められています。経蔵【鐘楼】(しょうろう)この鐘の合図で、現在も一山の和尚さんたちの諸行事に、出頭されます。【大徳寺本坊】 (非公開)【唐門】 本坊に据え付けられています。「聚楽第」(関白豊臣秀勝の御殿)の遺構とされています。本坊が非公開でも、外から観られます。獅子・松・孔雀・滝に鯉。見渡している内に日が暮れると言うところから、【日暮門】とも言われています。 七堂伽藍の参道順次、大徳寺境内にある、塔頭をご紹介してまいります。
2014.07.06
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涅槃図東福寺 猫が描かれていることで話題 Google 画像で検索されますとみられますお釈迦さんは旧暦2月15日に亡くなられたとされ この時期にその遺徳を偲ぶために 【涅槃会】 が各地で行われます。写真が撮れないのですが、左下に矢印で ネコ とひょうじされています過日ご紹介しましたように、十二干支及び涅槃図からは一般に猫は参加していません。お釈迦さんが、中毒で倒れられ、天から麻耶婦人(母)が薬袋を投薬されましたが沙羅双樹の枝にひっかかり ネズミ君がそれを採りにのぼろうとしたとき猫君が阻んでお釈迦さんに間に合わなかった画像は画僧【明兆】の作 仕上げに絵具が足りず近くにある絵具谷から絵具を加えてきてくれたので 明兆が画きくわえたと伝えられています。猫君神妙にかまえていますでもよかったね 東福寺の本山の境内には塔頭寺院があり、夫々見所が有ります。本坊だけ観て、訪れない方が殆どです。 退耕庵 (たいこうあん)塔頭 北門の近くに有ります。小野小町作と伝える高さ2mの【玉章地蔵】(たまずさ)(文)と「小町100歳」像が有ります。伏見区醍醐の「小野の随心院」にも有ります。後日ご紹介します。 玄関までの路 入口の門 入った右側に お地蔵さんがあります。 岸信介基総理大臣の植樹 岸家の菩提寺【霊雲院】 (れいうんいん)塔頭 重森三玲作枯山水庭園。【臥雲の庭】(がうん)と 【九山八海の庭】 (くせんはっかい)金閣寺にも「九山八海の名石」(中国より取り寄せた)が有りました。凹凸に飛んだ又美しい庭園です。九山八海は、 「須弥山」 (しゅみせん)の形を現しています。これを須弥檀と言います仏の世界でお寺に行きますと仏像を祀っているお逗子とか祭壇があります。。 九山八海石塔 九山八海石塔 霊雲の庭龍吟庵にも黒い雲の表現としてありましたね。 庭園 六地蔵尊六道の担当 【地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天】入口に新しいお地蔵さんが歓迎してくださいました。次回は大徳寺に参ります
2014.07.05
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龍は昔から農耕民族にとっては雲を呼び慈雨をもたらすとされていましたが昨日の長崎をはじめ50年来の記録的豪雨と異常気象の被害をうけられましたお見舞い申し上げます人間が地球環境を変えているとも言われます【芬陀院】 (ぶんだいん) 東福寺の塔頭 雪舟寺とも参道洗心の道ともいわれます暫し心を浄めて寺院内を訪問 雪舟庭園【鶴亀の庭】 雪舟は少年時代備中(岡山)の【宝福寺】ですごしました。東福寺の末寺法縁あって東福寺に起居していました。たまたま絵描きだけでなく庭園も作庭していました。ある日亀島を造ったところ住職が夜半にそっと窓を開けると、亀が動き出したので、驚いて雪舟に知らせましたら「重石をつけましょう」と石を載せることでとどまったそうです。今も石が乗っかっています。此の話を聞いた、後陽成天皇第九皇子【一条家第十四代の恵観】が雪舟にお願いして、【鶴亀の庭園】を作庭されました。 鶴亀の庭 曲玉の手水鉢と崩家形灯篭 茶関白 一条恵観公好みの茶室が鶴亀の庭の奥にありました。 真ん丸い悟りの窓 四角張った迷いの窓 外側から 関白 一条恵観公の【図南亭】 表玄関 雪舟の逸話幼少のころ小僧として悪戯して、和尚さんから叱られお堂の柱に括り付けられて、お仕置きを受けました。哀しくって泣き仕切る内に涙が床に流れ、何時しか足先で床にネズミ君の絵を描いていました、すると画かれたはずのネズミ君が動き出したというエピソードは有名です。此処でも重い動く亀石に石を置くほどに。明日も塔頭3.を更新します。
2014.07.04
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臨済宗 禅寺では 特に龍がよくあしらわれます寺の名にもよく出て来ます法堂(はっとう)では 天井に龍の絵がその他襖絵にも 龍が画かれています龍は雲を呼び 雨をもたらすと言い伝えられます特に 龍は仏法の護持する護神とも言われ仏の慈雨をもたらす意味でも大切にあつかわれるのでしょう それにしても 修行のためとはいえ 何処も掃除が徹底し清浄感の清々しい 禅寺の共通した 雰囲気に 心鎮まります本日より、平常に戻り、禅宗の枯山水庭園シリーズを掲載したいと思います。東福寺の塔頭で日頃は、非公開寺院ですが、昨年の秋に特別公開されました。【龍吟庵】 (りょうぎんあん) は、 東福寺第三世住持 大明国師の墓所が有り、室町時代 足利義満の揮毫の 龍吟庵の額縁を拝する 日本で最古の国宝の方丈が 遺されており 書院造り・寝殿造りとして 貴重な建物が拝観することが出来ました。足利義満の定めた禅宗寺院五山南禅寺 五山の上位一位 天龍寺 二位 相国寺 三位 建仁寺 四位 東福寺 五位万寿寺何の理由で順位を定めたかさだかではありません。大徳寺派そして妙心寺派は、誘いを断ったそうです。 通天橋と同じ渓谷洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた偃月橋(えんげつきょう) 方丈庭園 枯山水 竹垣は 龍を呼ぶ 稲妻模様 西側庭園 龍の庭龍が海中から黒雲を得て昇天する姿竹垣は稲妻模様重森三玲 作庭龍の庭黒い雲を表現開山堂 東側の庭園 不離の庭長方形の赤砂はめずらしいです長石を臥せ その前後に白黒の二石を配し幼少のころ狼に襲われそうになられたとき国師の身を二頭の犬が守ったという故事により配されましたやはり竹垣には 稲妻模様国宝 寝殿造りの方丈額縁は正面から写すことは禁じられました方丈の額縁は五山設定の足利義満のが書いたとされます・ 熊笹 表門 重要文化財奥に寝殿造りの屋根がみえますもみじの美しさも少し見えました明日も東福寺の塔頭を巡ります。紅葉狩りは愉しまれますが本坊の庭園そして塔頭の素敵な庭園は殆ど訪れられません。勿体ないと思います。
2014.07.03
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本日は【半夏生】第3位の建仁寺の塔頭に見られます京都の禅宗には各派がありますが、今回は南禅寺を五山の上位とする第4位東福寺にまいります。 【東福寺】 臨済宗東福寺派総本山 開基 聖一国師 山号 慧日山「東福寺」をはじめ塔頭が、存在します。「紅葉」の時期には、京都駅にも近いことからか、立錐の余地も無いほどに、人出が殺到します。 足利義満の決めた、禅宗の五山の第四番目に当たります。大きさを誇張するように、寺名も奈良の東大寺と興福寺から、一字ずつ採って名付けられたそうです。【七堂伽藍】(しちどうがらん)形式を採り、【伽藍面】(がらんづら)ともいわれています。 三門【三門】【国宝】禅寺としては、日本一古く大きいとのことです。扁額には【名雲閣】(みょううんかく)と書かれ、足利義持公の筆跡です。三門の上に登りますと、正面に釈迦如来像・十六羅漢像は定朝作と云われています。特別拝観で内部は拝観出来ます。 法堂【法堂】(はっとう)釈迦如来が祀られ、天井の龍の画は、【堂本印象】作です。時節(3月14日~16日)に【涅槃図】が、拝観できますが、此処も【猫】が神妙に構えて画かれている事で話題と成っています。何故なら「お釈迦さま」が亡くなる前に中毒の病で、空から「摩耶夫人」(まやふじん)母上が薬袋を投げられたところ【投薬の語源】【沙羅の小枝】(さら)に袋がひっかかり、【ねずみ】が木に登り取りに行こうとしたとき、猫が阻み、お釈迦さまのもとに間に合わなかったとのことで、十二支からも外され、功を得て、ねずみから始まる事に。 市松模様の庭園【本坊】方丈の西と北庭には、苔で【市松模様】で飾られ、芸術を感じさせられます。庭園は「重森三玲」(しげもりみれい)作です。塔頭寺院の【龍吟庵】も【霊雲院】の枯山水も同じ人の策定です。 方丈庭園 通天橋【通天橋】(つうてんきょう)この周辺が、「紅葉」で最も楽しめるところです。渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)のもみじは、最高に美しいです。【開山堂】【普門院】開基聖一国師の入定の地で、ちょっとした庭園が広がります。通天橋のもみじ明日から、東福寺の塔頭をご紹介します、
2014.07.02
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「夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るとも、よに逢坂の関はゆるさじ」 清少納言(966~1027)夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人を騙そうとしてもこの逢坂の関(男女が夜に成って過ごす)は決して許しませんよ。中国の故事函谷関のようには、鶏の鳴き声を部下にさせて、関守をだまして、関を開門させた逸話。清少納言は66代一条天皇の時、中宮定子(ていし)に仕えましたが、定子が24歳の若さで亡くなり宮仕えをやめました。そして晩年は定子の墓「鳥戸野陵」の近く、つまりこの辺り「東山月輪」で余生を送ったそうです 泉涌寺には、幾度か訪問してきましたが、ついぞ時間的余裕もなく同じ境内に塔頭として、京都らしい素晴らしい庭園のある寺院を初めて訪問しました。そして感動受けました。【雲龍院】 真言宗泉涌寺派広い庭園を囲んで赤い毛氈がひかれた畳部屋からの眺め悟りの窓 迷いの窓 障子越しに紅葉鑑賞悟りの部屋から庭園拝観清浄の間から紅葉鑑賞この和服姿の方は殆ど動かれず 観想の世界へ 掃除の行き届いた美しい庭園大輪の間 大石良雄の額 (大輪の間)伯父様が来迎院の住職で此処にもよく来られた 霊明殿 霊明殿前提燈籠の下菊花のご紋徳川慶喜が寄進した燈籠本堂薬師如来・日光菩薩・月光菩薩が祀られています障子4枚に夫々ガラス窓を配し しきしの景色を部屋から味わう梅・燈籠・楓・松と4枚違った眺めを間接的に観る仕組み玄関に真言宗ですが、龍の絵が皆様を迎えてくれました東福寺そして清水寺の大勢の観光客に押されることなく、静かにそしてお部屋の仕組みで間接的に紅葉を鑑賞をゆっくりたのしめました。足腰の悪い人のために部屋からも腰かける小さい座椅子が用意されお寺さんの心遣いが籠っていて嬉しかったです。次回は京都五山第4位の東福寺にまいります。
2014.07.01
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