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元日、稲荷大社・上賀茂神社そして下鴨神社から始めました京都物語も1か月毎日更新してきましたが、京都観光の案外知られざる見どころも、お客様のご質問に学んだ事でとても勉強になりました。その良さを皆様にもご紹介して少しでもお役に立てばと心得ています。どうぞ懲りずによろしくお願いします。常寂光寺は、日蓮宗で本堂を始め解放されず、信仰を旨としています。 紅葉の名所として有名です。昨年秋の写真です。 多宝塔 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】 (じょうじゃくこうじ)日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道左 男坂 右 女坂 本堂前【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 【歌仙祠】(かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2013.01.31
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1月も早もう過ぎようとしています。日の経つのがはやいです。役者として、常に健康管理のため、山荘内を散歩そして精神的にも持仏堂を建てて祈りは大河内伝次郎も日常から大切にしたようです。名演技の陰の努力でしょう。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂毎日参詣してお散歩山荘の入口 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】 映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 嵐山を借景 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の 起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2013.01.30
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正月から再び京都物語を再開しましたが、その都度そのときの環境で感じるものが違ってあるようです。本日より嵯峨野散策にご一緒しましょう。【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。 【源氏物語】第十帖【樫木の巻】(さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が、愛おしかった。その御息所(みやすどころ)が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て、強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。 【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。ここでも中国の良い面があります。この程共産党トップ書記長が【習近平氏】に代わりましたが、日本との外交政策は、如何成るのでしょうか? 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2013.01.29
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大相撲初場所も 日馬富士が横綱になって全勝で初めての優勝の栄冠を勝ち取りました。花を添える様に 安倍総理自らの表彰状を授与されました。そして猪瀬東京都知事も同席で観戦され場内の雰囲気は和やかなものがありました。平和でありたいです。世界文化遺産 清水寺は「北法相宗」奈良の宗派金閣寺・銀閣寺・龍安寺・そして天龍寺は何れも臨済宗(禅宗)あと12箇所あります。【天龍寺】臨済宗天龍寺派本山 世界文化遺産に登録 開基 夢窓疎石 五山第1位庭園 特別名勝・特別史跡(国宝第1号の庭園)世界文化遺産の御紹介も清水寺・金閣寺・銀閣寺・龍安寺そして天龍寺まだまだ観尽くせませんね。嵐山渡月橋から「美空ひばり館」の前を経て、天龍寺に着きます。 【足利尊氏】が南北朝の戦で、吉野で崩御された【後醍醐天皇】の菩提を弔うために、開山【夢窓疎石】を迎えて建立されました。この地は、元々後醍醐天皇のご幼少の頃の学問所で御霊の安らぎを考えての尊氏の配慮と想いが有ったものと考えられます。建設資金捻出のために、途絶えていました中国「元」との貿易を再開し【天龍寺船】を往来して経済や文化の輸入にも貢献しました。私たちの高齢の歴史観では、天皇に背いた逆賊の謀反者と教わり、神戸湊川神社では、「ああ・忠臣楠氏の墓」と「楠正成」を謳歌してまいりました。でも京都でのお寺の遺される事で、又の日に述べさせていただきます【等持院】は、尊氏一族「足利」の菩提寺で、「寺」と「院」では寺格が違い、尊氏の思い遣り、一歩引く謙虚さが、見えるように思えるのです。順路として「山門」から静かな敷地を歩み、心を静めます。1.【法堂】(はつとう)は選仏堂(座禅堂)ともいわれ、正面から覗きますと【釈迦・文殊・普賢三尊】と天井に【雲龍図】「加山又造画」が描かれています。 法堂 天井に龍の絵2.受付でパンフレットを見ますと表紙の庫裏の写真で、庫裏の実物を見上げながら、龍安寺でご説明させてもらった「懸魚」「蟇股」が大きく見られます。そして「三尊石」も在ります。 庫裏。三尊石3.【方丈】白砂と苔の境界線で、「心字」が画かれています。屋根瓦の端には「天龍寺」の文字が設けられています。 方丈4.【曹源池】 日本で最初の庭園形式に基づいて、夢窓疎石が作庭した素晴しい庭園で、嵐山愛宕山を借景して、更にスケールが大きく感じます。正面に枯山水「瀧」をそして「三尊石」日本最古の「石橋」周りに「鶴島」「亀島」そして「船石」と庭園の要素を採りいれています。 国宝第1号の曹源池5.「亀島」から道なりに進むと池にそそぐ「遣り水」(やりみず)が【曲水の宴】形式になっています。 亀島6.【多宝塔】 後醍醐天皇の尊像を安置、紫宸殿形式で、左近の紅梅・右近の白梅が備わり、 多宝塔その前庭の苔に包まれた小高い位置に後醍醐天皇の菩提塚が古びて立っています。 後醍醐天皇の菩提塚 足利尊氏は、敵であった後醍醐天皇のために菩提寺として、自分の菩提寺「等持院」より大きい敷地の文化的にも最高の庭園建設に努力しました。 天龍寺は、後醍醐天皇の幼少の頃の学問所でそこに安らかに憩われる為の計らいと考えられます。並の天下人としては為し得ない思い遣りが史跡として未だに遺されています。じょせいにんきあすから女性に人気No1の嵯峨野巡りを順次ご紹介します。
2013.01.28
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中国との危惧が、エスカレートしょうとする不安な時期に、今回公明党山口代表の中国訪問で、習近平共産党総書記との会談が実現し、安倍総理の親書もうけとってくれました。「互恵」のかたちでハイレベルの話し合いが望ましいと言う日中関係の改善に兆しがみえてきたようです。共産党の地元紙もやっと歓迎の記事となっているそうです。周恩来の碑 嵐峡の風景本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学され、その折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又、中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が、嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。最近でも、中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。明日は、国宝第1号の庭園のある天龍寺をご紹介します。
2013.01.27
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中国の習近平総書記と公明党山口代表が安倍総理の親書を手渡してハイレベルの話し合いの兆しがさしたようで良かったです。本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】 京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰川の堰き 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています。(グーグルで検索して見て下さい、写真も)中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。最近では、「温家宝首相」が訪れられました。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」(小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。 川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】です。 渡月橋の北詰に碑が建って今す。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性悲話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった【小督局】(こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により、眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。
2013.01.26
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梅一輪と歓びも束の間、再び寒波が押し寄せて来ました。今朝7時、アルジェリアで犠牲になられた邦人が、政府専用機で羽田空港に帰ってこられました。日本の地についてやっと安全を感じられたことでしょう。亡くなられた方のご冥福を祈ります。【三千院4】 「勝林院」では、殆ど訪問者無く、ゆつくり「阿弥陀さんの世界」と「声明の調べ」を満喫出来ると思います。正に民衆の為の宗派「浄土宗の発祥の地」とも考えられる聖地で有りました。外に出て直ぐ隣に、「宝泉院」が有ります。【宝泉院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園 門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林 【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。 【血天井】 が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園 宝泉院庭園 【実行院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】 「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】(らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。紅葉のころ又賑わうでしょう。雑踏の中でも静かな三千院の奥も愉しんでみて下さい。
2013.01.25
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学問の神様を祀る北野神社に梅一輪が咲いたと地元紙の春の知らせでした 一般民衆のために開かれたとする宗派浄土宗の発祥の基盤となった大原問答勝林院・大原問答【三千院3】 京都市内から、かなり遠い位置に「大原」は有りますので、観光時間の関係で急がれる方が多いのか、又ご存知ないのか、「三千院」の感動をそのままで、「御殿門」から、帰途に付かれる方が、殆どとお見受けします。 その証拠に、秋の紅葉シーズンでは、観光の人並みで混雑していましても、その奥に素晴しい寺院・御陵そして「音無しの滝」を訪問される方は、少なく、ゆったりと味わう事が出来ます。 熊谷直実が座って待機した石法然上人の弟子として護衛のため 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。 そして橋の渡った辺りを「鉈捨て籔」(なたすてやぶ)と言っています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】 天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 受付(殆ど不在)から石畳の道を経て、本堂に履物を脱いで堂内に、そしてボタンを押しますと、堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 京都観光の殆どの仏像は撮影禁止で、貴重な阿弥陀如来像です。親指と人差し指を交えて居られるのが阿弥陀さんです。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】 堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、「法然上人」がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、「証拠の阿弥陀」と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 堂内の裏には小さい緒仏像が、並んでいますがその中に「踏み出しの阿弥陀如来像」があります。人を正に救おうと左足を一歩踏み出す、救いの動的表現を採っていますそして「法然上人」の像も有ります。 殆ど貸切状態の様に、来訪される方は、まばらでゆっくりと、妙なる「声明」のお経を聞きつつ阿弥陀さんの世界に心を寄せて拝観できます。「三千院」の人込みが嘘の様です。次回も三千院の奥の様子をご案内しましょう。
2013.01.24
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一雨ごとに春がすこしづつ顔をそっとのぞかせてくれるのでしょう。風邪のはやりには、良きお湿りと思います。 本日は、建礼門院さんも慕われたとされる阿弥陀さま【往生極楽院】という 三千院の中心部分をご紹介します。【三千院2】拝観順序でご案内しています。8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。 本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。 向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。 瑠璃光の庭薬師如来のことを別名瑠璃光如来とも称します。10.【宸殿玉座】 三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。 瑠璃光とは、薬師如来の世界往生極楽は、阿弥陀如来の世界 玉座は、高貴な方が坐られる為に、「格天井」(ごうてんじょう)になっています。 正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。瑠璃光の庭 小さいお地蔵さん11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。 「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。往生極楽院内部は写真が撮れないのが残念です。12.【往生極楽院】 【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。 お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、わが愛しき子と平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。次回は、皆様が殆ど見向きもされずに、帰途につかれますが、三千院の奥に素晴らしい内容が潜んでいます。場所をご案内いたします。
2013.01.23
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アルゼリア人質事件 邦人7名死亡確認 何の罪なき方の犠牲はたまらなく悲しい結果となりました。正に痛恨の極みと申すべきでしょう。 平清盛の娘「徳子」は、幼くして高倉天皇の中宮(皇后)になられ、壇ノ浦では、幼き吾が子安徳天皇と入水するも、義経にご自分だけ、救い出され、京都の円山公園そばの「長楽寺」で身を整え往生極楽院の慈悲深き阿弥陀如来のお姿に、大原の里を選び「平家一門の菩提を弔う為、」忠実な侍女阿波内侍と優しい里人の支えで女の一生を遂げられました。大原は、歴史の哀れすら感じる場所ともいえましょう。 【三千院 1.】天台宗門跡寺 開基 最澄 【さいちょう】 (伝教大師)京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。 「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた 京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」 デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」 (あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら、日本人より関心が深く、 「よっぽど自信(地震)が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 穴太積(あのうづみ)の石垣桜の馬場 大原は、【声明】 (しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】 妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。 現在の比叡山延暦寺の総本山で「256世天台座主」になられた「半田孝淳(こうじゅん)座主」は「曼殊院門跡」でした。「三千院」の建物は、【往生極楽院】1143年建設を除き、明治以降にに修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。 三千院の正面の門 2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが、【香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。 坪庭5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。 聚碧園(しゅへきえん)7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。 以前は廊下伝いでした。明日に続きます。
2013.01.22
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本堂 境内 参道の門 本堂参道の坂道【寂光院】 (じゃくこういん)天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山 近代放火で焼失、現在新しく再建されました、本尊地蔵菩薩立像の向かって左に「建礼門院像」右には侍女の「阿波の内侍像」が安置されています。阿波内侍の姿は、「大原女」(おはらめ)のモデルとなったそうです。 建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。 村人達は、建礼門院を慰めようとして、畑で採れる野菜は勿論、「ちそ」栽培で「柴漬け」を発案、お食事の進むように、親しく付き合われたそうです。「京漬物・柴漬け」の発祥。 29歳の秋も深まるころ、「後白河法皇」が10人の侍女をお供に、お慰めに来られたと言う平家物語・謡曲で有名な「大原御幸」が当時を偲ばれます。 中宮・建礼門院の御陵 侍女・阿波内侍の眠る翠黛山ご主人を常に見守っている 御陵への坂道の参道 建礼門院は中宮(皇后)のため、院の東隣に御陵として、石段をかなり登ると辿り着けます。 阿波内侍の墓今回初めて辿り着け見つけました 翠黛山・墓地への階段参道謎の苔道の階段初めて訪問 阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置す「翠黛山」(すいたいさん)に階段を登った所で、ご主人を永久に見守りつつ眠って居られます。 千代の姫小松枯れてしまいました雪見灯篭 庭園 湧き水此処からは一般には入れなくなりました。特別公開となりました。庵室の跡の碑 奥に宝蔵庫積み上げられた石垣は当時の姿を語ってくれそうです。 「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。 未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです 建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。 この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。平清盛の娘として、幼くして高倉天皇の中宮として、迎えられながら栄枯盛衰平家滅亡でわが子安徳天皇を救うことも出来ませんでした。
2013.01.21
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京都観光で、主たる場所が、足利家と夢想国師に関連することに、リンクして関連してきますと、世界文化遺産も多く評価されていることが興味深く感じました。。 南禅寺は、臨済宗禅宗の【京都五山の上】でした。【京都五山第1位】は世界文化遺産の天龍寺でした。ご紹介済み。【京都五山第2位】は世界文化遺産の金閣寺・銀閣寺を外塔頭とした本山は【相国寺】なのです。足利尊氏は、良き協力者【夢想国師】に恵まれその基礎が宗教としても現在に評価されて遺産となつています。【法堂】の「鳴き龍」は龍の絵の特定の場所で 手を叩くと、「るるるん」と龍が反応するように反響がありました。 【相国寺】(しょうこくじ)臨済宗相国寺派大本山 開基 夢窓疎石京都御所の北側に位置し、あの有名な【金閣寺】と【銀閣寺】の【本山】で有る事は、意外と知られていません。同志社キャンパスの北側に拡がる、広大な敷地内にあります。足利義満が、室町幕府として、【花の御所】とも称した、北西にあります。 法堂 「鳴き龍」 外人さんも関心有名なのは【法堂】(はっとう)で、天井には「狩野光信筆」の【龍の絵】が画かれ、「下から手を叩くと」共鳴音が、響く所から「鳴き龍」と言われています。【承天閣美術館】(しょうてんかく)禅の総合美術館で、寺宝が展示されます。近代的な豪華な美術館です。【開山塔】開山 夢窓国師を安置する。前庭 開山塔の「龍淵水の庭 【大光明寺】(塔頭)(たっちゅう)普賢菩薩の霊場、現在相国寺の管長有馬和尚の住寺。 足利義尚の墓があるそうで、 大光明寺 【塔頭】寧ろ、西南の墓地には、父の【足利義政】と「群鶏図」で有名な、【伊藤若冲】(いとうじゃくちゅう)の墓が並んで、眠っているのが、印象に深く、残ります。 左から【藤原定家】 南中【足利義政】 右【伊藤若冲】 の墓「宗旦きつね」の祠」千宗旦がお茶席を留守にしている間に、狐が宗丹に、身を化けてお茶を立てた。という微笑ましいエピソードを祠に残しています。宗旦稲荷 【花の御所跡】同志社キャンパス内にあり、当時の立派な「敷石」が窓越しに、観られるように構えています。足利義満が建てたものです。 【足利義満】の墓が相国寺にあるはずが、未だなぞとなっています。一休さんと頓知比べする様子でしたが、自らを唐の国主に「日本の国王」となのるほどに、次男を寵愛し過ぎた為とか、長男より忌み嫌われた節があつたようです。 【大文字】の位置。 お盆の送り火に、「大」の字がともされますが、一説に京都御所に向かって、とあり、杯(さかずき)に酒を酌み、揺れる「大」の字を写して飲んだと、風流な光景ですが、銀閣寺の上にある「大文字」は、やや北西に向き、大本山「相国寺」を正面に「金閣寺」の「左大文字」と対向の位置に、有る事を、意識された方は、殆ど少ないと思います。 室町時代の栄華そして悲劇、歴史上の真実は判りませんが、関連して考えるとき、奥深さを覚えます。 こうして、観光も、一箇所を部分的で見るよりも、関連して、総合的に観ていくと、興味が沸くのではないでしょうか。 又、各宗派を知って、観ることも意識的に見方が深くなると思います。ガイドブックには、見る所を網羅していますが、観光の順路・見所・所在位置は、個人で行動される方にとつては、至難な業と思います、京都に住む友人から、「夫婦で、昨年清水寺に行ったが、舞台を観ただけで、今回のを見て、もう一度、確かめて観光してみたい」と励ましのメール戴きました。この方の為にも、可能な限り、進めて行きたいです。
2013.01.20
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龍安寺の広い境内は京都観光で基礎的内容の濃い大きなお寺ですが妙心寺をその本山とする臨済宗の外塔頭でした。 妙心寺境内・七堂伽藍突き当りが龍の見られる本坊受付【妙心寺】(みょうしんじ)臨済宗妙心寺派総本山 開基 関山慧玄(かんざんえげん)JR「花園駅」の近くにあります。「妙心寺」の境内に【七堂伽藍】(がらん)と47院の内塔頭(うちたつちゅう)が存在する、大規模のお寺です。 殆どが拝観謝絶で開放されていません。 三門 外塔頭の代表格が【龍安寺】で本堂の名札に全国の外塔頭の寺院数千を数えるほどに掲げて有りました。 法堂このお堂の中に、壮大な狩野探幽の龍が天井に描かれ説明が入ります。 お客様に感動を与えたのが、【本坊前】の【法堂】(はっとう)天井に描かれた【龍の絵】でした。【狩野探幽法眼】(かのたんゆうほうげん)二条城二の丸の豪華松を画いた画家です、絵師として「法眼」の位を貰ったほどの素晴しい画家だったのですね。見る位置により【昇り竜】になったり【降り龍】にも観られる豪華さは、他に比類無きものと思われます。是非一度訪問してみて下さい。堂内では親切にお寺さんより説明が有ります。禅宗では、龍を絵描く寺院が多いです。龍は雲を呼び雨を齎すと言います。 先ず「本坊受付」にて20分置き時間制で案内されます。其の後「明智風呂」にも案内されます。本坊で待機中に、本堂の名札を見上げられる事と、内陣には「釈迦三尊」が祀られ前庭は、「方丈庭園」に成っています。 内塔頭・退蔵院入口の門 【退蔵院】(たいぞういん)唯一常時観光出来る塔頭です。寺宝 如拙(にょせつ)筆 【国宝】【瓢鮎図】(ひょうねんず)室町時代の水墨画です。「瓢鮎図」瓢箪(ひょうたん)と鯰(なまず)の絵が書かれていて、禅問答の答えが幾つか書かれています。人を信仰へと導くにも、鯰のようにのらりくらりと一筋縄にはつかめません。理屈っぽい人間を指します。そこで禅問答となり、如何にして、鯰を瓢箪に入れられるかの解答のようです。方丈の襖絵 画家狩野元信の庭 元信の庭【方丈庭園】(本堂)室町時代の「狩野元信」作の庭園で築山の滝から蓬莱島を経て石橋に流れると言う趣向で、絵描きが作庭するのは、極めて珍しさが感じられます。 陽の庭 陰の庭 【余香苑】(よこうえん)近代の庭園で「中根金作」の設計で造園されました。入り口に「陰・陽」の庭そして奥へ滝から大量の水が流れその水音が静けさを象徴するようで、とても親しみやすく、そして広々と自然の姿で鑑賞出来ます。【水琴窟】(すいきんくつ)土中に「かめ」が埋められ。手水鉢から柄杓で、水を静かに流すと「かめ」水音が反響して、妙なる音が聞える仕組みに成っています。是非お試しになってください。 一番奥からの景観 水琴窟 【東林院】【沙羅を愛でる会】と沙羅双樹(夏椿)の咲く頃(6月15日から末日予定)精進料理(阿じろ料理)を賞味しながら、苔の丘に落ちる花を愛でる催しが有ります。沙羅の大樹から朝開花、夕べには散る、儚さを平家物語で語っています。【涅槃】(ねはん)お釈迦さんが入ときに、周りに「沙羅双樹」の樹が有ったそうです。今年も6月15日~7月1日 9時30分~16時お抹茶付き 1,580円精進料理付きは5,570円 電話 075-463-1334 妙心寺・東林院(とうりんいん)
2013.01.19
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今朝の京都も氷点下の気温で、冷え込みます。龍安寺の石庭を見て、大抵の方は、元、来た同じ景色の道をオーム返しに、いそいそと帰途に付かれる片がほとんどですが、池を巡りて帰りは違った道をたどりますと、新緑または紅葉のトンネル伝いにそして素晴らしい、池面に写った美しい光景を観る事が出来ます。 鏡容池に写された衣笠山私のブロクの張り紙もその意味で採用しました。【龍安寺4.】 表玄関から、石段を降りて、来られた道を戻らず、更に西へと秋には、紅葉のトンネルを、春には桜の園を観る事が出来ます。時間が無くって戻る人が多いですが、素晴しい風景を、見損じて勿体無いです。 新緑・もみじの帰り道 【藤棚】の手前に、湯豆腐の食事処が有ります。店内の入り口から、少し入った所に、【猪脅し】(ししおどし)が見られます。本家は比叡山の麓に位置する、【詩仙堂】の庭園内で見られます。 しし脅ししし脅しを庭園とする湯豆腐の食事処 本題に入りまして、その藤棚周辺から、大きな池に目を遣って見てください。何となく眺めるだけでも、心の洗われる感動を覚えられる事でしょう。弁天島を望む鏡容池 池の名称は、【鏡容池】(きょうようち)そして背後に【衣笠山】(きぬがさやま)が、そして池の水面に、くっきりと衣笠山を映し出しています。この鑑賞方法は、外人の方も良く心得て、シャツターを切っておられます。心して観ないと、見損なう風景です。 金閣寺も同じで、池に写し出された金閣を見損なう方が多いです。 日本の漢字は良く出来ていまして、見えると観る 聞えると聴くを分けて表現しています。やはり観光は、後者の心構えで、訪れられると、数倍楽しくなるようです。 私なりに、私のお客様に説明していますと、周りから少しでも聴こうとして、お客さま以外の方から質問までされる有様に戸惑います。 鏡と付く池が、京都に三箇所有ります。 此処龍安寺の【鏡容池】・金閣寺の【鏡湖池】そして、銀閣寺の【錦鏡池】で、鏡に映し出した姿を作庭者は、望んだのでしょう。 そして、【衣笠山】の名称の由来は、仁和寺から眺められた、【宇多上皇】が夏の暑い季節に「朕はあの山の雪景色を観たい」と、所望され、山上の樹木に白衣(しろきぬ)を一面に被せて、雪景色を再現されたそうで、扇子を扇ぎながら、冷気を味わい満足されたそうで、その後、何時しか衣笠山と呼ばれるようになったそうです。 借景として、金閣寺そして等持院も採り入れていましたが、等持院の場合は、立命館大學の学舎によって、完全に遮られてしまいました。時代の推移を感じます。 外人の方は、弁天島に架かった。円形の橋が池に映し出されている部分も撮っておられ、共感を覚えました。 しばし、池を巡り、【水分石】(みくまりいし)の立て札が立っていました。庭園の要素の一つで、池全体を眺めますと、鶴島(弁天島)そして亀島もありました。 池を後にして、駐車場へ何とも余韻を多く残しつつ。 いかがでしたでしょうか?龍安寺は、観光に何かと深い要素が含まれていました。次回は本山ってどんなとこ。妙心寺をご紹介します。
2013.01.18
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人は、思いようによって、なぜ自分だけ不幸なのだろうと不平・不満を考え悲観的にるよりも、人間欲に満たされることはなく、現在努力して生活が得られていることを感謝することにより、楽しく前向きに夢を抱いて生きていける生甲斐を感じたいものです。【龍安寺3.】 【知足の蹲】 (ちそくのつくばい) 懸魚 蟇股 【蔵六の茶室】前庭に本物の【知足の蹲踞】があります。興味ある方は、売店のおばさんにそっと頼んでみてください。別途志納金で見せてもらったことがあります。 本堂の方丈の前庭と後庭で、同じ意義深い教えを学ぶ事が出来ます。【知足の蹲】が回廊の東北角に、有りました、手水鉢で、這い蹲って、手を洗う所から、つくばいというのでしょうね。【蹲踞】(そんきよ)(つくばい)大相撲でのお相撲さんが土俵上で、仕切るときに、おこなつていますね。真ん中四角の水を入れた区画の、上部に【吾】(われ)右側に【唯】(ただ)下部に【足】(たるを)左に【知】(知る)水戸の黄門さんが発案されたつくばいで、「吾、唯、足るを知る」と読めます。立て札には、茶道の精神と称されていました【知足の蹲踞】 そしてその横に、 「知足の者は、賎しくと雖も、富めり」 ちそくのものは、いやしといえども、とめり 「不知足の者は、富めりと雖も賎しい」 ふちそくのものは、とめりといえどもいやしい これで充分です。足ること知った人は、外見貧しそうに見えても、心は満足で豊かな人といえましょう。 足らんたらんと、まだあれも欲しいむ是もほしいと、愚痴を言っている人は、外見、金持ちの様で、実は、不平不満だらけの心の貧しい人といえますね。 人目、貧しそうなおばあさん、笑顔で、お陰さまで元気に生かしてもらって、ありがいことや、此れで充分と幸せそうです。 金縁のメガネ掛けた、一見貴婦人のお金持ち、隣は外車を買ったわ、あの人はダイアモンドの指輪何カラットかしら、あれも欲しい、これも欲しいは心満たされず、却って貧しい人といえましょう。 表の石庭の様に、13~14見えてて、腹八分目で健康をたもてそうです。 黄門さんが、【大日本史】編纂に当たり、資料を龍安寺から提供を受けたお礼に置かれたものだそうです。 実は、ここに飾られた物は、イミテーションで、本物は、東向かいに見える【蔵六の茶室】の前に、本物が据え付けて有ります。燈籠の下部に見え隠れしています。非公開ですが、売店の係りの人に頼んで特別志納金で見せてもらった事があります。 此処龍安寺を拝観するだけで、寺社の見所の、基本と申しましょうか、他でも、共通した形式の現し方が、伺えそうです。【枯山水】然り【方丈庭園】【龍】そして、これから述べます【懸魚】(げぎょ)【蟇股】(かえるまた)は、日本全国の寺社で観られる建築様式の一部に飾り取り付けられています。 龍安寺の売店の東側、陳列棚に、建て替えた昔の物品を並べ【名札】に上記の名前が、紹介されていました。その位置は何処に、実は庫裏を出た所で、建物の上部を見上げましたら、屋根の交差の軒に、【懸魚】がありました。正に魚の頭が下がってぶら下がっているようでした。そしてその下部に【蟇股】が見かけられました。蝦蟇(がまがえる)が構えているように見えます。そこでお客様にクイズを出してみました「双方の共通点は何でしょうか?」とお聞きすると「水」と答えられました。「ピンポン」正解です。建物で最も恐ろしいのは、「火災」です。従って魔除けの意味に於いても、守護の意味に於いても、装飾の意味に於いてもと、採用されて居るようです。知恩院の左甚五郎の忘れ傘然りでした。 そして屋根の先に丸い円の中に三つ巴があしらって居ます。三つ巴は、雲を表現していますね。更に民家でも屋根の形は波を表現「甍(いらか)の波と・・」 更に庫裏から西へ少し歩を運べば、本玄関(国宝)があり、其処の蟇股の中には、尻尾の多い、浦島太郎が乗った様な【亀】が他にも【龍】が刻まれていました。 日光東照宮の有名な【眠り猫】も蟇股の中に存在していますよね。各地で試してみてください。 こうして、解かり易く観光して行きますと、興味は倍増するのではないでしょうか。ご来訪の切は、是非探し求めてみて下さい。
2013.01.17
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まだ、地面の凍結で困っておられる地区があるのですね。お客様とご案内しながらも、何回も訪問しますと、お客様からも学びそして疑問にも答えていきますと、人生としての、偉大な教訓が秘められていることが、判りました。観光の深さを感じる龍安寺です。【龍安寺2.】 世界文化遺産 【石庭】 臨済宗 (禅宗) 左 仏の世界【三尊石】 5石右奥 鯨 2石 作庭者の名が刻まれています。エリザベス女王にまで、ご紹介したと言う【石庭】世界的にも写真に映し出され、謎解きが深まります。 一言で、言えば現実には、15個の石が設置されていることは事実です。でも廊下の見る位置によって、15個が数えられないミステリーです。 修学旅行生など、予備知識で得て居るので、真剣に数を数えている風景をよく見ます。 長方形の横長の正面及び西側廊下から右側は、【油土塀】で、前庭を引き立てるような、落ち着いた感じを受けます。石の配置として庭前方左側2石は【鯨】右方向に塩を吹いて前進しています。この石の裏側に作庭者思われる、阿波の徳島【小太郎】【清?二郎】の名が刻まれています。右奥2石が亀右方向へ手前 水鳥3石 羽2石の右側の小さい石が見え隠れします左 虎の子渡し3石 子の1石が見え隠れします。 前方右隅の二石は【亀】 廊下沿いの手前右側三石は【水鳥】この三石の右端の石が左側の廊下では隠れています。 そして中国伝来の【虎の子渡し】の三石これも虎の子の一石が隠れます。 そして仏の世界の五石の内の真ん中【三尊石】の左側の石が、右側廊下から見えません。石は一見無造作に置かれているようですが、石をなぞらえて一字を描くと【心】の字が描けます。 心の目で見て下さいと言う意味でしょうか。 隠れた心で鑑賞して下さいと。夫々動物たちが、大海を泳ぎ、大きく右回りに、仏の世界へと、進む姿が描かれているようです。 鯨2石 亀2石 水鳥3石 虎の親子3石 仏の世界5石 計15石1石見る位置で欠けます。石庭全景 そして、【15】と言う数字は、中国では、満ちた数、完成した数、真理の数といわれているそうです。だから【十五夜満月】と言うでしょう。とバスガイドさんが説明されると、一同"どぅ"と感歎の声が、沸き起こりました。因みに 15歳・元服。七五三の祝い三三九度の杯何れも合計すると15になります。お祝い事の完成です。 足利・徳川も奇しくも15代で幕を閉じています。何故か自民党宮沢政権も15代で中断。不思議な数です。 意義としては、真実は15の石が有りますが、人間の目では、欠けた13~14しか見えない、知恩院の置き瓦と同じように、謙虚さを問うて居るのかもしれません。白砂は白川砂で、枯山水の庭園として、水がなくっても、水・池・海を表現 石は山や島を表そうとしています。石に苔が備わり風情を増しています。 白砂を海と考えれば、石群は、島の様に、 白砂を雲として見れば、石群は、山の峯とも見られます。 禅僧は、更に瞑想によりもっと深い意義を感じられているやに思われます。さて皆様はどの様に観賞されることでしょうか。 土塀に囲まれた小さい秘境のようにも思われます。 ブロ友からは、宇宙観を覚えるとの感想も戴きました。感謝。 廊下を右に回りますと、苔庭で樹木の根が龍がうごめいて見えるところから、【雲龍の庭】と称され、特別拝観の時は、その奥に龍安寺の創設者、応仁の乱の東軍の将、【細川勝元】の御廟の建物があります。 更に裏側に、これまた表の思想そのままの徳川光圀公の【知足の蹲】があります。次回にご一緒に味わって見たいです。
2013.01.16
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連休最終日 爆弾低気圧の悪戯で 大雪に見舞わられ 交通麻痺も起こりました。 折角の成人式の美しい晴れ着がきがかりでした。 此処も室町時代の応仁の乱に関係する細川勝元が創建した寺院で非公開ですが、【細川勝元廟】があり像が祀られています。 【龍安寺1.】 (りょうあんじ)臨済宗妙心寺派 妙心寺の外塔頭の一寺。 【世界文化遺産】 金閣寺・銀閣寺と同じ 臨済宗(禅宗)ですが、本山が違います。石庭 早速、世界文化遺産の龍安寺(りょうあんじ)にご一緒しましょう。 お客様から、良く聞かれるのは、「京と都に余り滞在時間がないのですが、運転手さんの、ここ一番のお寺を紹介して欲しい」その時「往時、英国のエリザベス女王が西本願寺へはその祖父さんが訪れられ、僧侶とテニスをされたから、御意志で来られました。 京都に来られ、せめて一個寺でも、ご紹介しょうと京都観光局が推挙したのが。【龍安寺】でした。いわゆる「ロックガーデン【石庭】」でした。外国でも話題に成り、旅行案内にも紹介されているのでしょう、外人の観光客が多く見かけられます。」「それならその龍安寺を案内して下さい」此処1個寺だけでも意義深いです。 参道入口石庭に向かう道すがら、広大な池を左手に、そして離れ島に橋が架かり、渡ると【弁天さん】の祠が有ります。弁才天は、水を司る神様で、他にも金閣寺でも見かけます。鏡容池弁天さんの祠左手に手水鉢があります。牛若丸・弁慶の旧五条大橋の橋桁です。横になって手水鉢になっている旧五条大橋 そしてさらに、進むと両側に菱形に竹で編んだ【龍安寺垣根】と風情がとても落ち着いて、歓迎してくれています。シャツターチャスですね。庫裏(くり)に入る前にこの龍安寺垣根に囲まれた石段は絵になります。美しい菱形の龍安寺垣 庫裏に入りますと正面に【韋駄天】(いだてん)が祀られて居ます。禅宗では、多いです庫裏の守護神で。足が速く、お釈迦さんの骨が盗まれたとき、一途に捉えたというエピソードがあります。 玄関口に韋駄天さんを祀るいよいよ【石庭】です。 石庭は、禅宗の本堂とも言われる、【方丈】(ほうじょう)の前に廊下を越して拡がる、方丈庭園として存在します。 方丈とは、仏壇を前にして、一丈四方の位置に坐られる最高位の僧侶のことを【方丈さん】と称されています。ここ龍安寺本堂の前額に【方丈】と書かれた額が飾られています。本尊に対して一礼したいです。 そして内部を見渡すと、襖に昇り龍と降り龍の絵が描かれています。龍は雲を呼び雨をもたらす意義もあるそうで、禅宗は各地で、存在します。 方丈庭園を前にして、僧侶は廊下で座禅を組み、瞑想に耽られるそうです。 従って、石庭の真の意義を解明出来ませんが、皆さんが「なるほど」と思わせる解釈が、種々為されます。私なりに過去何回かお客様と訪れるごとに、お寺さんの昔のスピーカーによる説明とか、バスガイドさんの説明を横で聴かせてもらって、会得した幾つかの内容をご参考に、披露したいと思います。「なるほど」と皆様もご一緒に瞑想してみて下さい。何も知らないより、ご興味が沸くと思いますし教訓にも成ります。 次回有名な石庭の解釈についてご案内したいと思います。
2013.01.15
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京都は朝から久しぶりに冷たい雨が降っています。第31回 皇后杯 全国女子駅伝は 大会新記録で【神奈川】が優勝26年ぶりという快挙を成し遂げました。「チームの同僚が築いたタスキーを無駄にできない一念で」アンカーの歯を食いしばっての力走でした。 八代足利将軍義政は、政治を 忌とみ 詩歌に興ずるため将軍職 を譲ることで、京都の不幸な出来事応仁の乱がおこりました。その戦が終わった頃に、財政苦しい中、銀閣寺が建てられました銀閣寺の全景が眺められます。手前が「吉田山」遥か奥が「愛宕山」真ん中が「双ケ丘」仁和寺【銀閣寺2.】【洗月泉】の瀧の側から、山道が始まります。その坂を見て、登るのを諦めて平坦な帰路に向かわれる人が、多いです。思い切って登ってみましょう。苦労した甲斐が、待っています 苔の庭 坂を登り詰めた所に、石組みの崖が、眼前に広がります。ある人は、「何だ瓦礫の山崩れの様だ」とガッカリする人も有りますが、枯れ山水の瀧石組み瀧石の麓 実は、「枯山水の瀧」を敢えて作成されたもので、「西芳寺の庭園」にも、存在している貴重な石組みとして、観察して欲しいのです。側には義政が茶の水を汲んだとされる、「お茶の井」が存在しています。 近年、開発された順路として、更に平坦な山道を辿りますと、先ほど観た、銀閣寺庭園を眼下に全景を観る事が出来ます。その他前方に、「三高校歌」で有名な、「くれないもゆる・・・」の吉田山が眼下に眺められ、京都市街の一部の景観も眺められます。吉田山の向こうが、京都大學が広がります。苔の庭 大文字は、この位置の真上となり、如意が嶽と称し、同様の眺望とも考えられます。 道なりに、下山、真正面に、「錦鏡池」に映し出された「銀閣」が見所で、 【銀閣】(観音殿)国宝屋根には「宝形造・?葺(こけらぶき)」金銅製の【鳳凰】(ほうおう)が輝き、上層を「潮音閣」観音坐像が祀られ、下層「心空殿」千躰の地蔵尊が祀られて居ます。 此処も、禅宗のお寺の雰囲気として、掃き清められ、訪れる人への癒しともなるでしょう。【応仁の乱】1467~1477 京の都で、最も悲劇は、一女性から発端。11年間の戦火で殆どの文化財と言える物が、焼失してしまいました。数少ない、社寺に対して、「応仁の乱を免れた」と添え書きしています。足利家の奥様は、代々「日野家」(伏見区醍醐の南部日野)から選ばれています。義政の正室「日野富子」に男子が死産。義政は政治を嫌い、文化的方面に興味を持ち、将軍職を実弟「義視」(よしみ)に譲ると約束した、矢先に、男子「義尚」誕生。富子は、黙っておられずわが子を次期将軍にと、 実弟「義視」は「細川勝元」そして、「富子の押す義尚」「山名宗全」との戦が、11年間続きました。勝敗の尽きぬままに、双方の将が、夫々病死。幕は閉じました。結果義政は、義尚(よしひさ)に九代目将軍職をゆずりました。義政【観音殿】起工式 1489 義尚25歳戦死(近江の国で先陣として)その霊を弔う為に、大文字を設置(詳細不明・一説に拠れば)・義尚の初盆1490不思議と同じ年の7月 父義政55歳逝去。歴史は悲しいことも、物語っています。
2013.01.14
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本日は、京都で恒例の 第31回 皇后杯 全国女子駅伝が12時30分から始まります。金閣寺も銀閣寺の前もコースに入っています。 金閣寺も銀閣寺も臨済宗です。本山は相国寺でその塔頭的存在に なります。室町時代の足利家が建てた京都の名所で訪れる人が多いです。銀閣寺に大文字があり、金閣寺にはその陰として左大文字があります。その中間点に相国寺があり、大文字は、御所の方向から斜めにみられます。金閣寺・銀閣寺は世界文化遺産に指定されています。 銀閣やはり錦鏡池に写された姿も美しいです。金閣寺が観光スポットとすれば、銀閣寺も世界文化遺産として、関係は、足利三代将軍義満と孫の八代将軍義政との間柄になります。【銀閣】は国宝で、煌きはありませんが、歴史は感じます。金閣が太陽とすれば、銀閣は月を愛でるという、優雅さを感じます。銀閣寺の裏山が如意嶽で、【大文字】の送り火が、有名です。民家の玄関の軒先に、燃え残った薪を飾り、無病息災のお守りとして現場から拾ってきて飾っています。軒先に、送り火の燃え残りの薪を飾って息災を祈っています。 【銀閣寺1.】(慈照寺)臨済宗相国寺派 世界文化遺産に登録【慈照】(じしょう)は、八代将軍足利義政の戒名から名付けられています。開祖が【夢窓疎石】(むそうそせき)で造園にも、著名な僧でもありました。嵐山の「天龍寺」・西芳寺(苔寺)そして南禅院 等、此処銀閣寺は、義政が「西芳寺(苔寺)」に模して、作庭しているのが、特徴です。 みやげ物の賑やかな、参道を経て、慈照寺の門を潜りますと、背の高い潅木に包まれた、【洗心の道】を歩みます。娑婆から禅の世界へ招かれた落ち着きを取り戻します、 洗心の道受付を終えて、 受付二番目の門を潜りますと、こじんまりした、「五葉の松」と白砂で築かれた庭園が観られ、本坊の五葉の松 正面の「花頭窓」(かとうまど)越しに、本庭園の姿が、垣間見られます。 いよいよ庭園入り口に差し掛かったときに、発する言葉が「何だ、これは」とがっかりの表情が有り、金閣寺からの期待感からか、感歎の声は、余り聞かれませんでした。銀箔が張られたものでなく、古い二層の「銀閣」が佇んでいました。修学旅行生では、その印象が多かったようです。然し、関東の生徒さんが、「銀閣は、歴史を感じる」と評価してくれました。嬉しかったです。その通り、銀閣は、【国宝】に指定されています。本堂の前からの【銀砂灘】(ぎんしゃだん)は、白河砂で、向月台となっています。銀砂灘中国の西湖(さいこ)に模して造られました。夜に月の光で白砂が煌く姿が浮かびます。 中国に良い印象を壊して欲しくはありません。向月台本堂前から銀閣は、シャツターチャンスです。本堂【東求堂】(とうぐどう)【国宝】義政の持仏堂。西芳寺には、「西求堂」義政の木像を安置しています。東求堂しばらく歩を進めますと、二つの池が有り、手前の池には、鶴島を現し、道から【三尊石】が見られ、その側に、立て札で、「大内石」としるされていました。何の関心もなく、殆どの人は見向きもせず、通り過ぎますが、これには、「いじめ」の深い意味が潜んでいました。義満が各首領に、その地の名石を命じた時に、和泉・紀伊を治めていた大内石「大内義弘」は、「将軍に捧げるは、武力であって、優雅な、庭園如き贈り物は如何なものか?」と拒否した所、義満より冷遇を受けたそうです。従って、此処、義政には、一番に贈ったとされる「名石」です。 もう一方の池には、銀閣を水面に写す「錦鏡池」には、亀島が構えています。洗月泉【洗月泉】(せんげつせん)・【月待山】瀧があり、月待山からの月を写して、月を洗うの意味です。 "我が庵(いお)は 月待山の麓にて かたふく空の 影惜しぞ思う"義政の詠んだ詩です。次回は、丘に登った素敵な景色を引き続きご紹介します。
2013.01.13
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昨夜の「アテルイ伝」 嫌な戦いと 人格の差別の歴史をみてしまいました。でもどんな人物かを知るためには避けて通れないドラマであり、戦争の悲劇の戒めともとれました。清らかな川のほとり、静かな自然の森に囲まれ 時には馬などの放牧でその土地に平和な環境でも、中央権力の手が伸びて平和が脅かされた。奈良時代の歴史上の出来事です。中国の嫌がらせが、日本の平和を脅かせていることに ふと 感じました。 タクシー乗務の頃、遠距離でお客さまをお送りするときには、帰り道を覚える為に、時にはポイントとして、後ろ向きの景色又は目標物を覚えて京都へ帰ったものです。 前ばかりに自然行過ぎますが、時には振り返ってみる景色の素晴らしさも、人生見落としがちと悔いが残ります。金閣寺垣根 【金閣寺2.】 美しい金閣を中心に、池泉回遊式庭園として、本来は池の周りを巡れるように造られていますが、半周は入れません。 庭園は【特別名勝・特別史跡】(国宝級)に指定されていますが、金閣は、昭和25年7月25日未明に、学僧の放火により焼失しました。"三島由紀夫著作"の「金閣炎上」が有名です。従って国宝ではありません。龍門の瀧 池を後にして、道なりに進みますと、【龍門瀑】(りゅうもんばく)の瀧が見られます。鯉魚石(りぎょせき)が、瀧に今や登らんとして、斜めに構えています。鯉が瀧を登ると、龍と化す。中国の故事で有名です。安民沢の池 更に坂を登り詰めますと、【安民沢】(あんみんたく)が在り、池の中央に「白蛇塚」が島に立っています。白蛇は、弁天さんの化身で、水神ともいわれています。この池の手前に背の低い竹垣で、これを【金閣寺垣】となづけられています。夕佳亭茶室南天の床柱が有名難を転じて福をもたらす。 【夕佳亭茶室】(せっかてい)金閣も此処からの眺めも佳しとされています。床の間に「南天の床柱」(難を転じて福となす)が、「萩の違い棚」が有名です。 茶室より3個目の石は、大切にされています。【見回り石】この石の上にお客さまに立ってもらって右回りに360度廻ってもらいます。色々見逃す貴いものを発見します。 茶室前の飛び石に、丸い大き目の石が有り、「見回り石」と称します。その場所に立って、一周すると、銀閣寺を建てたね八代将軍「義政」が寄贈したと言われる、「富士型の手水鉢」があり、更に見返ると、金閣が美しく、そして更に廻ると、安民沢が、眺められます。 人間、前ばかりの景色に捉われず、たまに後ろを振り返ってみると、素晴しい、ものが見られるもので、「反省」の心構えも、時には必要では、と私のお客様に説明していましたら、横から、紳士風の方が、「その話貰った」と声掛けられ、添えて云われるには、「明日の会社の訓示に、使わして貰う」ということでした。とても恐縮しました。でも、関心持って聞き耳をされる紳士にも感心しました。雨だれの軒下に、炭が一面に敷き詰められています。雨だれの音が侘しく聞かれる工夫です。茶室の雨だれの下に敷き詰めた「木炭」は、雨だれのしぶきが飛ばないで工夫と、静かな音の楽しめるように設けて有りました。岩不動堂【石不動堂】(いわふどうどう)弘法大師作といわれます。 足利義満は、天下人として、その栄華を極めますが、37歳で4代義持に、将軍職を譲り、享年51歳 戒名「鹿苑院太上法皇」として、何故か墓は未だ見つからず、長男義持は、金閣のみを残し父に関係する建物を全て焼き尽くしたともいわれています。家族崩壊は恐ろしいです。 戒名の位牌が、嵐山の「臨川寺」にあるだけで、足利氏菩提寺は、「等持院」にあります。親子の仲関係が(子供達兄弟の弟への偏愛)もたらしたとのことです。次回は、「銀閣寺」をご一緒しましょう。表街道から【左大文字】が直ぐ側にあります。
2013.01.12
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昨日ご紹介しました、清水寺の境内にアテルイ・モレの顕彰碑に関係する 蝦夷(えみしKBS)の豪族アテルイ伝が今夜20時からNHKBS3で 毎週4回シリーズで放映されます。どんな人物であったかが 判りそうです。清水寺としては、坂の上田村麻呂が 蝦夷征伐に派遣され都に連れ戻し助命を嘆願するも 公家たちに反対され処刑されました。その供養と名誉を讃え 平安遷都1200年祭(1994年)に顕彰碑が建てられました。関心のある方は是非ご参考にご鑑賞願います。坂本冬美も出演。活花で飾られた アテルイ・モレの顕彰碑本日も、5週間ぶりに、国立病院の検査診察を受けて来ました。6時30分出て15時帰宅でした。闘病とはいえ みなさまの絆が とても力強く励みになっています。心から感謝いたします。
2013.01.11
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日本の仏教は、京都では、弘法大師さんの真言宗そして伝教大師さんの天台宗から始まり、真言宗は真言宗○ ○派と別れ天台宗からは比叡山延暦寺で修行僧がそれぞれの経典の玄義で独立した宗派を開きました。此処金閣寺はそのひとつで【臨済宗相国寺派】でいわゆる【禅宗】といわれています。私のブログも今後臨済宗の枯山水庭園など多くをご紹介してまいります。 池に映る金閣【金閣寺1.】(鹿苑寺)(ろくおんじ)臨済宗相国寺派・世界文化遺産鹿苑は、三代将軍・足利義満の戒名から、名付けられました。 "好き・好き・好き・好き・愛してる。一休さん"頓智問答で有名な相手の将軍足利義満が建てた、禅寺です。何故将軍と対等に話せたのでしょうか、実は、一休さんのお父上は、第100代・後小松天皇で、側室とは言え、皇子さまでした。寺社奉行でも、「一休殿」と敬称で漫画でも、一休さんと呼んでますねちなみに、一休さんの墓所は、京田辺市「一休寺【酬恩庵】(しゅうおんあん)境内」に宮内庁の御陵があります。入口の門 門には禅宗の五戒が書かれていました。 京都観光では、清水寺に次いで、観光のお客様が多いです。禅寺で共通に感ぜられることは、修行僧のご苦労か、塵一つ無く清浄で有る事に感心させられます。従って訪問する者も、心洗われます。拝観券飼う本堂と庫裏 雑音の街から、境内に入ると、洗心の道を辿り、拝観券を買って、入り口の門をくぐり、暫し、建仁寺垣根のたたずむ通路を曲がった途端に、燦然とした金閣が目の前に現れます。殆どの人が、思わず歓声を口にされます。そして池の側に立ち寄り、記念写真を金閣をバツクに撮影されています。池に映る金閣 そこで、見所は、金閣そのものも、さることながら、池に映し出された、素晴しい光景を見逃さないで、下さい。作者も【鏡湖池】(きょうこち)と称しています。鏡に映す姿も是非観て下さい。義満が盆栽で植えたと言う【陸舟の松】西向きに向いています。 暫し、歩を進めますと、右手に、本堂が垣根越しに見られ、(非公開)そして更に進みますと、皆様左手の金閣だけに、見とれられ、見損じられるのが、右手に、「五葉の松」であしらった、【陸州の松】が【帆を揚げた宝船】の様に見えます。 義満が盆栽から育った物といわれています。船は、西向きで、極楽浄土を、この金閣寺庭園に、なぞらえているようです。「池泉回遊式庭園」で、池に浮かぶ、島・名石そして松は、各地諸大名から寄贈させたものです。金閣の正面には、鶴島・亀島そして葦原島(日本列島を表現)の中央に【三尊石】が構えています。鶴島の左方に醜い石がありますが、豊臣秀吉の名石狩から、逃れた、中国から採り入れた「九山八海石」(くせんはっかいせき)の名石が、観られ、葦原島の先に船頭が船を漕ぐよう、「細川石」が見られます。金閣には、一般に入れませんが、此処からも衣笠山が、池に映し出されるそうです。 金閣の初層は、「寝殿造り」公家 二層は、武家風造り、そして三層は、「仏殿造り」金箔は、仏殿造りと、武家風造りに施され、寝殿は、真下で構えて、金箔は貼られていませんね。義満の意図が計られます。(仏と武士の下に公家) 調和としては、芸術的にも美しいです。他に、「畠山石」「赤松石」が見られます。 金閣の裏側から見た鏡湖池次回は、金閣寺の奥を道順にご紹介します。
2013.01.11
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本日は、「十日えびす」 商売繁盛・家運隆昌 関西でも参詣者が多いです。七福神の中で唯一の 日本出身の神様として親しまれています。清水寺縁起を含め6回にわたる 内容の深い 皆様に親しまれる観光地で、 見どころ如何でしたでしょうか。【清水寺5.】 清水寺の名の由来となった【音羽の瀧】 ここも。人気があり、水を救って呑まれる人の列は、堪えません。27. 【音羽の瀧】 数千年来、音羽の山中から湧き出る清水です。【日本十大名水の筆頭】と称せられ、【清水寺】の名が付けられました。バ(スガイドサン達は、観光客に興味を持たせる為三本の瀧を分けて説明されていますが、お寺では、水の出所が1箇所で、水垢離の行をされる為に三箇所に分けています。と迷惑そうでした敢えて、聞く所では、向かって左から、若い人には、1.ロマン2.智恵3.健康年長者には、1.家内安全2.商売繁盛3.不老・長寿で、真剣に取り組んで居られる姿をよく見掛けます。28.【舞台下から見上げる】奥の院も含み、139本の柱が、崖に架かっています。過去幾人かの人が、実際に飛び降りたことはあるそうです。生死の程は判りません。29.【舌切り茶屋】(近藤)後述しますが、西郷隆盛の居場所を突き詰められ、(近藤正慎)が舌を噛み切って自害。その忠臣の子孫のために現代にも遺されています。 舌切茶屋拷問にも耐え舌を切って西郷隆盛達勤皇の士を護った為その子孫に境内で茶屋を営むことを与えられました。30.【忠僕茶屋】同じく、(忠僕・重助)が、近藤氏に仕えていました。 忠僕茶屋同じく近藤正慎に仕えた忠僕重助の子孫にも茶屋が与えられました。31. 【アテルイ・モレの顕彰碑】 坂田田村麻呂の蝦夷征伐の際連れてこられました。平安遷都1200年を記念に清水寺に建てられました。(NHKドラマ 1月11日(金)20時 4回シリーズ放映)坂上田村麻呂は制裁をかばったのですが、お上は訊き入れませんでした。東北の英雄「アテルイ・モエ」の碑32.【念彼観音力の石碑】故大西良慶和尚の筆観世音を念ずればね観音の妙智力によって、世間の苦を救い給うと、和尚さんは、説かれていました。 観音力の碑 清水寺境内に多くの姿の変えられた観音さんが祀られています33.【岸駒の虎の石碑】(がんく)32.と同じ広場に在ります。虎の目は三方から見ても、正面に向ってきます。(七不思議の一つ) 絵師岸句の描いた八方睨みの虎 成就院最後に、特別公開ですが、【成就院の庭園】故大西良慶和尚さんが、109才まて゜、音羽の水で、長寿を全うされた住寺です。一名【月の庭】とも称せられ、とても静かで趣の深い庭園です 清水寺の着た法相宗寺務所左の高い建物に、仏足石が飾られ吹き抜けの二階から妙なる音楽の雰囲気で散華を撒きます。うまくお釈迦さんの足の絵の上に乗っかりますと一斉に歓声がわきおこりました。ご利益ありと。前もって予約されて訪問されことが肝要です。最も感動的なのは、清水寺北法相宗の寺務所【大講堂】です。講堂の屋内では、高い場所から、底に大きい【仏足石】が画かれています。(西村公朝和尚画)妙なる音律と共に、「散華」を撒くと、別世界に、誘われます。この体験は、私の場合会社の外商から、依頼しました。皆様も、予約で、寺務所に問い合わされて見られてはと、存じます。 勤皇の士を護った「近藤正慎」ならびに勤皇の僧「月照・信海僧」歌碑が立っています。成就院から、清水寺の拝観受付に向かう途中に、先に記しました、勤王の師【月照・信海和尚】に使えた、【近藤正慎】と【忠僕重助】の石碑が建っています。西郷隆盛と成就院で蜜会されていたと伝えられています。 忠僕「重助」の碑上位の人たちの枠から離れた場所で仕えています。 「清水寺」何回参詣しても、尽きぬ想い出を残してくれます。次回は、金閣寺に参ります。
2013.01.10
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仕事始めから、普通の生活環境になりつつあります。酒に酔って サウナで お二人の男性が亡くなりました。入浴も、気温の温度差が大きいと心臓をやられる方が多いです気を付けたいものです。【清水寺4.】 明治時代になって、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で多くの価値ある仏像が、消されましたが、その後、神仏一体の形式が採られ、此処清水寺でも、お寺の境内に、神社・祠が存在します。鎮守の神様と一体に存在します。 地主神社 恋占いではしゃぐ若い人に人気18. 【地主神社】 (じしゅじんじゃ)若い人に人気が有ります。大国主命を祭神としています。 恋占いの石神前の広場に、恋占ないの石が両サイドに設置され、一方の石に触った後、両目を瞑り、もう一方の石に辿り付き、振れることが、出来れば、その人の想いを寄せる恋が実る、と言うことで、皆真剣にアタックしているようです。若し誘導を受けて、達成すれば、その人の援助も必要とのこと。拝殿天井に龍の絵が画かれています。狩野元信筆です。地主桜も歌に読まれ、有名です。19. 【西国三十三所観音霊場第16番札所・納経所】地主神社の石段を降りた、直ぐ左側(東側) 西国観音霊場三十三箇所霊場の納経所 善男・善女が掛け軸とか納経帳に真剣辿り着いた歓びで受けておられます。20.【釈迦堂】釈迦三尊が祀られて居ます。釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩21.【百体地蔵尊】愛児を亡くした人がここに詣でると、亡き児によく似ている地蔵尊があるといわれ、その冥福を祈られます。22.【阿弥陀堂】法然上人が、最初の常行念仏を始められた場所。23. 【奥の院】 阿弥陀堂の直ぐ南隣にあります。国宝の本堂と同年代に建立されました。本堂の仏像のミニ形式で、観音菩薩及び二十八部衆及び風神・雷神が祀られて居ます。此処奥の院の舞台から、本堂の茅葺(かやぶき)の屋根を含め、写真の絶好のシャツターチャンスです。 此処からの写真が素晴らしいです外陣の絵馬を良く観られますと、過日、記しました、行叡居士が延鎮さんに霊木を授けている図が描かれています。24.【濡れて観音】奥の院の裏側に居られ。常に観音さんが、濡れて立って居られます。医者から見離された病も癒されると言う、信仰があり、折鶴などお礼の印が廻りに掛けられています。 不思議とこの観音さんは乾くことなく常に濡れて居られます。皆様が水を絶やさず掛けられることもありますが、25路】奥の院より、南へ約5分ほど歩かれた所に23..絵馬の実際有っ.【変形四交差た場所。石像群が有ります日記、(清水寺縁起でご紹介) 延鎮和尚と行叡居士の会われた場所にお地蔵さんが祀られ由来の立札が立っていますが、皆様殆どにも留めず気通過。26. 【子安の塔】三重の搭が建っています。ここからの清水寺全景のパノラマは、最高の絶景です。現在塔は残念ながら大修理中です。清水寺全景ここがとても素晴らしい眺望です。27.【泰産寺】(たいさんじ)お産が安らかにの意。「今年の漢字」で有名な【森清範管長】の住持のお寺でもあります。 子安の塔の側に位置します。子安の塔 改造中もう少しで完成次回は、【音羽の瀧】から、ご案内したいと思います。
2013.01.09
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昨日から、仕事始めの方がおおかったですね。正月気分を払拭されていざ本番へ。京都・祇園の歌街でも 舞子さんたちの「始業式」の行事が艶やかにとりおこなれました。 【清水寺3.】 現在は、【五条大橋】は五条通りに有り、橋の西側緑地帯に、【牛若丸と弁慶】の石像が飾られていますが、「京の五条の橋の上、牛若丸と弁慶が・・・」の橋は、鴨川の一つ北に架かった【松原橋】が、当時の橋とされ、松原通りを、東へ行くと、「清水道」となります。以下昨日の続きです。昨日の4.【鐘楼】と坂上田村麻呂が射止めた雌鹿の供養塔【鹿間塚の塔】 鐘楼 清水寺縁起・鐘楼の側に鹿間塚の供養塔が大切に安置されています。 9.【参拝券受付】京都市内で最も拝観料が安いです。10.【轟門】本堂への入り口の門です。門前に手水鉢が有り、龍があしらって有ります。 龍の手水鉢11.【仏足石】(ぶっそくせき)廊下伝いに、北の庭に外れた所に、見掛けられます。お釈迦さんの歩かれた、足跡で、盛んに手に触って、お願い事している方を見掛けます。扁平足にご注意。お釈迦さんは、全てに平等に慈悲を与えられる意。12.【弁慶の杖と下駄】13.【弁慶の爪跡】 本堂の周りに、深くえぐられた筋が残されています。実は、信者の【お百度詣で】で、籤を堂の周りに沿って、筋が370年もすると、深く刻まれて出来たものだそうです。(七不思議) 是非お堂の周りをご覧下さい。 建物の傷では有りません、お百度巡りで竹棒をこすった370年経過の信仰の証です。14.【大黒天】15.【清水の舞台】 皆様の一番観光の楽しまれる景色が一望出来る場所です。139本の柱に支えられ、釘は使われていません。京都市街が美しく広大に眺望されます。思わず飛び降りたくなる心境も、何事も一大決心する時、「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と表現されます。京の商人は、「ええい、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、まけときまひょう」と掛け声するようです。舞台では、舞楽も有ったようで、両側に楽器を鳴らす人の坐る場所も兼ね備えています。京都市街の景観もさるものながら、紅葉の景色も素晴しいです。向かい正面に「子安の塔」が構えていますが、現在工事中で、幕が張られて残念です。その背後に、東山三十六峰の一つ【阿弥陀ケ峰】が見られます。【豊国廟太閤坦】(ほうこくびょう・たいこうだいら)山の頂に、豊臣秀吉が遺言により、「京の都が見下ろせる位置に葬れ」と言うことで、眠っています。 向かいの山の頂に「豊臣秀吉の墓」がある阿弥陀が峰です。手前が子安の塔です。擬宝珠には寛永拾年建之の銘が彫られています。家光の再興の年です。1633年(33箇所札所16番)と覚えます。16.【本堂】 先に述べましたように、内陣に入って拝んで下さい。【土足禁止】 は、靴や履物のままでは入れませんの意で皆様は入堂禁止と思われて、真っ暗な内陣は見えないままで 面から参拝されて居られます。ここまで来られて 惜しまれます。観音さんの眷属の風神雷神そして二十八部衆の仏像も観られます。付け加えて、観音菩薩の両側に、厨子が二つ有ります。一つは【地蔵菩薩】一つは【毘沙門天】が祀られて居ます。坂上田村麻呂が蝦夷征討(えみしせいとう)の際に、苦戦したため、延鎮上人が、戦勝祈願をされたことで、未だに祀られているそうです。 たまたま本堂に達したとき、その周りの観光客に「土足禁止」とかかれていますが、靴を脱げば本堂内に入れて中の仏さまたちがしっかり拝め、大きい鐘を撞くことも出来ますよ。と声掛けしましたら、写真のように「ほんと」と喜んで鐘を撞く順番を待っておられました。あの有名な清水寺で、大きい鐘をゴーンと鳴らした後の余韻を頭を垂れて両手を合わせ聴き入るひとときは、参拝に来た佳き想い出ににきっとなられると思います。最近になってお堂の中に大日如来像が震災地復興祈願として祀られる様になりました。陸前高田流木松で彫られた 大日如来像地主神社・奥の院そして音羽の瀧にっていては,次回に記します。
2013.01.08
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本日は、 七草粥の 小正月行事でしたね。健康で明るく楽しく 一年を過ごすことができますようにと。清水寺観光は、最も多くおとずれられますが、時間制限と見どころをご存じないと、清水の舞台からの眺めの 素晴らしさだけで満喫して帰られる方が殆どと思います。惜しまれます。 。【清水寺2.】 清水寺の参詣は、お姫様と一寸法師の鬼退治のおとぎ話にまでに登場し、多くの方々が、訪れられます。時間の急ぐ方、じっくり見所を観光したい方も居られます。その方のご都合で、主だった所、または詳しく時間を掛けてご案内する方に分かれます。二日間は、貴重な場所の紹介と、お寺の由来を記してまいりました。本日は一般の観方と特別の見所に就いて、ご一緒しましょう。 観光バスの大広場の駐車場の、登り詰めた辻に、【七味屋】さんがあります。その角から、三年坂(産寧坂)(さんねいざか)が始まります、石段だけでも、一服の絵に成ります。「お産が安らかに済ませるようにの願いをこめて」 三年坂【産寧坂】 左の建物「七味屋」この坂で産婦の方が転ぶと良からぬことが起こるとして、石段の中腹に魔よけの瓢箪を売っている店があります。注意して上り下りして下さいと。 商店街を通り抜けますと、広い石段に突き当たります。正面に【仁王門】があり、その前には、珍しく二体両方とも、口を空けた狛犬が立っています。「ようこそ」と歓迎してくれていそうです。広い石段で団体さんが記念写真を撮られています。正面【仁王門】狛犬が珍しく両方とも口を開けて歓迎 問題は、石段を登らないで、下の広場から、向かって左方を見て下さい、小さい祠が有り、如意輪観音像が見かけられ、その横には、地蔵菩薩が、手には赤ちゃんをだっこして居られます。 善光寺 中央「如意輪観音菩薩」左に幼子を抱っこされた「地蔵菩薩」如意(にょい)とは 意の如く 願い事の意向に適うて下さるの意味そして有名なのは、祠の外に、 1.【首振り地蔵】が安置されています。舞妓さんが、ご贔屓(ひいき)の人の住まれる方角に首を回し、お願い事をされたと言う事で、どなたでも地蔵さんの首を方角に回す事が出来ます。修学旅行生に教えますと、キャツキャとはしやぎ 方向を確かめて手を合わせて願い事していました。有名な首振り地蔵2.【馬留め】石段の左側に有ります。今で言う駐車場。馬を繋ぐ柱の1本の金具が、違った角度になって居る。(七不思議)3.【仁王門】一名【赤門】とも呼ばれています。両サイドの桟の端を拳骨で叩くと、奥の桟の端で、もう一人の人が耳を添えると「こつこつ」と音が聞こえると言う、370年経つと、えぐられている事に驚きです。(七不思議) 380年の人間の叩くことでへこんでいます4.【鐘楼】の北側に、坂上田村麻呂が射止めた、雌鹿の供養として、【鹿間塚】の燈篭があります。5.【爪観音の燈籠】【隋求堂】(ずいくどう)の前に存在します。平家の家臣、悪兵衛影清(あくひょうえかげきよ)が爪で観音像を彫って燈籠内に納めたと言われます。 景清の爪観音の治めたと灯篭6.【隋求堂】(ずいくどう)【隋求観音菩薩】が祀られています。その人の望まれる求めに随って、何でも適えて下さる観音さんです。 何でも求めに応じて願い事をかなえられる観音さん7.【三重の搭】徳川家光の再興。わが国最大の三重の搭。大日如来を祀っています。子安の塔から眺めると、一段と極めて存在します。 大日如来を祀る【三重塔】8.【開山堂】坂上田村麻呂夫妻・延鎮上人・行叡居士像が安置。 開祖坂上田村麻呂を祀る【田村堂】延鎮和尚・行叡居士そして田村麻呂夫人も一緒に祀られています。秘仏 参拝受付から次回でご紹介しましょう。清水寺は、何回参詣しても、新発見があり、見所の夢が含まれて居ます。
2013.01.07
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世界文化遺産のトップにかかげましたが、「写真があると」とのご指摘もありましたので、順次写真挿入で再度掲載します。 【清水寺1.】北法相宗(きたほっそうしゅう)大本山(奈良の宗派) 世界文化遺産【音羽山・北観音寺】 京都観光に訪れられる、ベスト1.が此処清水寺です。世界的にも有名で、外人の観光客が多いです。そして修学旅行生の生徒さん達も、必ずと言ってよいほど、訪れられます。何が魅力なのでしょうか?多分【清水の舞台】に有ると思います。 清水の舞台から京都市外眺望地主神社の【恋占いの石】も生徒さんは、はしゃいで居られます。 恋占いの石【音羽の瀧】日本名水の筆頭にあるところから、【清水寺】と称せられるようになったそうです。名称の由来 音羽の瀧 でも、殆どの方が、最も大切な場所を見損じて、ただ廻ってきたと言う、勿体無い箇所が2箇所ありますね。皆様にだけ、ご紹介しましょう。 一つは、清水の舞台に在る。本堂です。内陣を覗いて、参拝される方が、殆どです。内陣の入り口に【土足禁止】の立て札が置かれています。入場禁止と、勘違いするのでしょう。靴等土足を脱げば、内陣に入れるのです。但し靴は各自持って入って下さいね。そして内陣の奥には、本尊は秘仏ですが、【お前立ち像】として、両手を頭の上まで、挙げられた。【清水型観音菩薩】が奉じられ、何とその周りに、観音さんの眷属である【二十八部衆】及び【風神・雷神】が観られるのです。外からは、その存在すら、判らずに9割の観光客は、通り過ぎられます。そしてお客様が一番歓ばれた事が、観音さんに願い事されるときに、【大きい鐘と大きい叩く棒】で、座して、一礼した後、ご自分で、鐘を叩かれます。鐘の音の余韻を聞きつつ手を暫し、合わせて、此処有名な、清水寺で、体験された事。とても感動したと。とても大きい鐘の余音は、生涯良い想い出になりました。と、礼状をよく戴きます。今年の年賀状にも、山形の方が20年ほど前のこと懐かしいと 添え書きありました。 大きい鐘を撞くと清水寺に詣でた感動を覚えます 本堂の内陣に素足なら入れます陸前高田 流木松 で作られた 大日如来常に東日本の復興を切に祈願しています。 本堂には、太い檜柱が何本か有ります。その太さは、原木の1/4で、建築では真ん中の芯部は弱いので、避けています。だから原木の太さが4倍と想像できます。現在日本には、無く台湾あたりから輸入されています。 清水寺に観音さんを 拝もうとすれば、内陣に入って そのお前立の仏像(本尊さんは秘仏のため)を見つめることで、実感を深くすることが出来ます。 殆どの人は 外の見えないところから手を合わせて過ごされます。 今一つは、奥の院から5分ほど歩くだけで、変形四交差路 に出ます。殆どの人は、宝物を失って、迂回して、音羽の瀧の方に向かわれます、多分人間の本能がそうさせるのでしょう。此処を【子安の塔】への道標に従い。僅か二十歩山道を登る事で清水舞台全景の眺望の出来る【子安の塔】から 、【清水寺の全景】の眺望の開ける絶景の場所に至るのです。外人さんは素直ですが、その交差点で、日本人の連れに言葉を掛けても、無視されます。素直で有りません。外人さん「ベリーワンダフル」そして「ありがと」と。 【子安の塔】は是非ご訪問して見て下さい。清水寺で一番景色の美しい場所でしょう。NHK京都放送の気象通報のバックの景色は、この場所で、日毎に京都の良さを味わっています。
2013.01.06
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寒い京都の夜明けです。正月帰省の長男も昨日東京へと仕事に戻りました。再び老夫婦二人の普段の生活に戻りました。 京都観光と言えば、清水寺が群を抜いて人気が有ります。清水の舞台がその注目となるからでしょうか。そこで本日の清水寺の縁起を理解しているともつとその見所の意義が生きてくると思います。清水寺を一口でいえば、 【安産の祈祷寺】【三年坂】(産寧坂しもいいます)・【子安の塔】の配置からも頷けます。 清水寺 延鎮と行叡居士と出遭った場所 (奥の院)【清水寺の縁起】794年平安遷都される前のこと。昔々、奈良は高市郡の【小島寺】にとても足の速い、小僧さんが仏に仕えていました。名を 【延鎮】(えんちん)と称しました。或る日 【夢のお告げ】 があり、むしょうに足はある方向に向かってとまりませんでした。何と、未だ京の都も制定されていない、少し前に、東山の山麓で、足が止まりました。不思議や、延鎮の前に、杖を突いた白髪の仙人が現れました。【行叡居士】(ぎょうえこじ)と言う方で、庵を設けて、修行されていました。【行叡居士】は、【延鎮小僧】さんに 「この霊木で観音さんを彫り、祀って護りなさい」 と伝えて、姿を消されました。8年がかりで、彫った観音さんを、山中で、祠を建てて護りました。或る日、鹿狩りで、「雌鹿を射止めた」 【坂上田村麻呂】(さかのうえたむらまろ)と、ばったり出くわしました。 延鎮は、「何故そんな殺生するのか?」と問いただすと「妻が腹ぐみ、雌鹿の生き血を飲むと安産する」との迷信に、延鎮は、戒め「私の彫ったこの観音さんに祈る事によりきっとお恵みが有ると」と説得。事の理をわきまえた田村麻呂は、雌鹿を鄭重にこの地に葬り、妻と一緒に観音さんを日参されました。日も満ちて、【玉のような男の子】が誕生しました。大喜びで、貧しい、祠を素晴しい大きい御堂を田村麻呂は寄進しました。この噂は、村中に広がり、われもわれもと参詣する人が増え、御堂前は、混雑しました。そこで、岩間に懸崖を造り、出来上がったのが、現在の 【清水の舞台】 と成りました。 【清水寺は安産の祈祷寺】 が本来の姿で衆派も奈良の 【北法相宗】 (きたほつそうしゅう) とされています。 京都一観光客が多いにも拘らず、写真の場所に歩を止める方は、皆無に等しいことが残念で成りません。立札にも説明が載せてありますが、忙しくって、目にも触れられません。清水の舞台の入口には、 【開山堂・田村堂】がありますが、非公開もあって、目にとまりません。坂上田村麻呂夫妻・延鎮和尚・行叡居士の像が祀られています。次回、拝観順に4回シリーズで見所をご紹介したいと思っています。三年坂 (産寧坂ともいわれます)准抵観音さんの左に 赤ちゃんをだっこしたお地蔵さん最近に復活完成間近の【子安の塔】
2013.01.05
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正月も四日目となりますと、街も平常にもどりつつあります。故郷からの帰路の渋滞が 名残惜しそうです。 東京スカイツリーは、634mだそうで、大相撲の観覧席634円を発売したら、5分で完売したそうです。 京都タワーは、130mで、建設当時お東さん(東本願寺)が寺院の側に近代的な目だった建物建設に猛反対されたそうですが、頭の智慧を働かせて、京都は社寺が多いから、京都の玄関口にロウソクを一本献灯しては、の意見で納得,当時の京都市の人口130万人あわせ、建設の運びになりました。 因みに京都のお寺の数は、「嘘八百の倍」1600ケ寺あるとされています。 理由は、権力闘争をさけるために、尼さんを始め長男を残して 出家させ 一寺を与えたとからとも言われています。 京都物語の初めに、京都盆地の成り立ちを知っていただきましょう。 第三紀末の瀬戸内海陥没運動によつて生じた京都は地溝盆地となり南北40km・東西12kmと細長い湖として、今から100万年前の洪積世まで京都盆地の大部分は、一面の水に覆われ、大阪湾に広く連なった湖水でした。琵琶湖を挟む比叡山は島でした。水が引く内に、鴨川・桂川そして宇治川によって、土砂が推積され次第に盆地となりました。北部にある鞍馬山でも、貝の化石が掘り出され、鞍馬寺の博物館に展示されています。鞍馬山の麓の貴船神社には、玉依姫が【黄船】に乗って難波(大阪)から、北上されたとして、模った岩が境内に飾られています。 京都は夏は蒸し暑く、冬は底冷えします。いわゆる湿地帯で原因は、湖底の名残に【伏流水】が網羅されて地下水として流れています。 戦後まで、結核患者が多く、私もそのひとりでした。アスハルトを敷く事と治療方法が優れ現代はほとんどありません。然し、源頼朝とか徳川家康は、京都には「六波羅探題」方や「二条城」で朝廷を監視しつつも健康的な「鎌倉」「江戸」に幕府を置き、出先の武将は戦に強くっても「労咳」(ろうがい)(結核のこと)から避けるため交代で護ったようです。祇園祭は、梅雨の川の氾濫で疫病が流行その厄払いが、鐘・笛で音頭をとって、疫病退散の祈りの行事となりました。 一方「名水」から茶道・京料理・着物の友禅そして伏見では酒の醸造に最適となっています。 京都タワーのうしろの山 比叡山・東山三十六峰 左の方向 愛宕山 小倉山 この京都の街にどんな物語が潜んでいるのでしょうか。お楽しみに。
2013.01.04
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正月三が日は、穏やかな天候にめぐまれました。箱根駅伝も 若人の 険しい坂道と区間長距離の 忍耐のドラマを感動させてくれます。葵祭りの上賀茂神社と下鴨神社が共に世界文化遺産に登録されています。国宝の建物があるからでしょう。歴史を感じる神社で、勅祭とされ、勅使の使わされる伝統行事でもあります。 【下鴨神社・賀茂御祖神社】(かもみおやじんじゃ)世界文化遺産に登録本殿【東本殿】【国宝】祭神【玉依姫命】(たまよりひめのみこと)娘 【西本殿】【国宝】祭神【賀茂建角身命】(かもたてつのみのみこと)玉依姫の父 京都の街を高台から眺めますと、京都御苑と賀茂川と高野川とがY字型に挟まれたところにこんもりした森が目立ちます。 糺の森【糺の森】(ただすのもり)と称して、参道がとても自然界の様に親しまれます。隣接地に「家庭裁判所」があります。神様の時代でも「糺された事」があったのでしょうか?今一つ川の「三角州」の事を「只洲」とも言うそうです。 さざれ石【さざれ石】 国歌「君が代」に歌われています。【連理の榊】2本の榊の木が上部で1本に繋がる不思議な木が【相生社】の横に見られます。 参道鳥居 楼門 神楽殿 御手洗社 【御手洗社】(みたらししゃ)葵祭りの前に【斉王代】(さいおうだい)が【禊の儀】(みそぎのぎ)をされます。また土用の日には【足つけの儀】が行われ、無病息災を祈ります。常には水が流れていないのですが、土用が近付きますと、自然に水泡がこんこんと湧きでるところから、その形から【御手洗団子】(みたらしだんご)の発祥の地としたそうです。 立秋の前夜【矢取り神事】が行われます。お判りの様に、上賀茂と下鴨は(かも)の字を変えています。上賀茂の祭神は、「天神の子」として、雷即ち農耕の神様の様で、「賀茂別雷命」そして下鴨神社の祭神は、母上「玉依姫命」と「祖父の賀茂建角身命」と言われています。賀茂建角身命は、【松尾大社】の祭神でもあります。 5月15日の葵祭りには、京都御苑から下鴨神社経由、上賀茂神社へと行列が、その年の未婚の 斎王代の輿【斎王代】が選ばれ、のどかに牛車の輿に乗られて進まれます。 頭に葵の葉を装う【葵の葉】が象徴しています、雨乞いの祭りでもあり、何れ梅雨季を迎えることに成ります。【玉依姫丹塗りの矢】の伝承玉依姫が「瀬見の小川」で川遊びされていたときに、「丹塗りの矢」(にぬりのや)が川上から流れてきました。貴重な品として、持ち帰られ、床に就かれるとき、床の側に置かれたそうです。その後、孕(はら)まれて立派な「男の子」を産まれました。「別雷の神」です。男、不用で神の子誕生とされているようです。キリストのマリアさまからこの世に神の子として遣わされたように。【賀茂建角身命】 玉依姫の父にあたります。農耕を広め民生の安定に努められました。「五穀豊穣」「古事記」「日本書紀」には、「金鵄八咫烏」(きんしやたのからす)として神武天皇に使え、御功績が多く「導きの神」とも崇められ、厄除け・学問・旅行・方除け祈願に訪れる参詣者も多いです。私たちタクシーの乗務員の為にも、交通安全を祈願したいです。【加茂族】山背(山城)の古代氏族で、朝鮮からの渡来人とされています。賀茂と地名にも成りました。太秦の「秦族」も渡来人の一族です。京都の丹後は、日本海に面し朝鮮に近く、琵琶湖又は、山越えで、京都に移り住んだとも考えられます。とても博学多識、努力家で「治山・治水・農耕・絹織物」等、現在の京都の有り方に貢献されたものと、改めて敬意を表したいです。
2013.01.03
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正月三が日の初詣でも、各地で 参拝する方が今年も多かったようです。皆様、良いお正月を迎えられたこと お慶び申し上げます。下鴨神社が【賀茂御祖】(みおや)即ちお母さんで上賀茂神社はそのやんちゃ息子【賀茂別雷神】(わけいかづちのかみ)の関係にあります。 【賀茂川】 京都バス終点「岩屋橋」から更に山道を遠く辿りますと、【金光峰寺・志明院】(雲が畑)修験道の修練場で「岩不動尊」が祀られて居ます。岩から染み出る、一滴の水が源流となり、「賀茂川」が人々の心の憩いを与える景観を観られます。時季により、「ユリカモメ」が渡り鳥として、遠くシベリアから飛来し、賀茂川で群れ遊んでいます。とても人懐きで、平和を感じます。夜になると、比叡の山を群れで超え琵琶湖にて、憩うそうです。京都の街で、最も景勝を楽しめる通りでもあり、「大文字」も見られ、タクシーで走るときも、出来るだけ、賀茂街道を通るように心掛けました。春には、「桜並木」で誰しも感動されます。 その賀茂川の上流に、「上賀茂神社」がそして下流に「下鴨神社」が鎮座まします。「加茂族」と言う先祖が築いた北方の、静かな住宅街でも有ります。 大原を源流とする、高野川と合流する地点を「出町」と称し「今出川橋」から下流を「鴨川」と字が変わります。何れ淀川にそして大阪湾に至ります。 上賀茂神社 国宝本殿 【上賀茂神社・賀茂別雷神社】 (かもわけいかづち)世界文化遺産に登録祭神(賀茂別雷神)下鴨神社に祀る「玉依姫」の御子【本殿・権殿】【国宝】本殿の前には、「山城一の宮神社」と表示してありました。 母君 玉依り姫を祀る 片岡社本殿の楼門を出た直ぐの側に【片岡社】がありました。玉依姫を祭神として祀られています。 神楽殿【神楽殿】の前には【立砂】が白川砂で三角錐が飾られていました。何でも真上に松葉が差され神様が光臨されるそうで、清めの砂ともいわれています。 神楽殿の前に 立砂神社の後ろの小山は、【神山】として神聖な山で、人の立ち入らない山とされています。【御神徳】欽明(きんめい)天皇の時、雨は降らず作物実らず大飢饉でありました。天皇が勅して占われたそうで、人心が大変乱れているその祟りと言うことで、本殿でお詫びの祭祀行なわれたところ、「護国豊穣・天下泰平」となったと日本書紀に記されているそうです。「雷の神」の由縁でしょう。【葵祭り】この「欽明天皇」の起源により、毎年5月15日【京都三大祭り】として、全国から大勢の方が、観に来られます。 くらべうまの行事が行われる境内【行事】【競馬】(くらべうま)【烏相撲】【八咫烏】(やたのからす)神武天皇が東征の時「加茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が先導した際に、天皇の弓の先に止まったとされています。当時の「加茂族」を「烏族」ともいわれています。 【百人一首】 風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊ぎ(みそぎ)ぞ 夏のしるしなりけり 藤原家隆 楢(なら)の小川 【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒 ごとに橋が架かって母屋に入ります、神主さん・神道の方の屋敷が並んでいます。京都の風物詩とも観られます。明日は、下鴨神社にまいります。 賀茂と鴨の字がかえられています。
2013.01.02
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新年明けましておめでとうございます。皆様もご家族揃って ご健勝で新年を迎えられ何より慶ばしいことです。本然もロしくお願いいたします。初詣の参拝者は、東京明治神宮とききますが、京都では 日本ベスト10にははいるでしょう 伏見稲荷大社が 最も多いです。経済復興も願い、大阪の方が多いです。伏見の代表は【伏見稲荷大社】に尽きます。 全国初詣でも10の指に加わるほどで、商売の神様として、参拝する自家用車の殆どが大阪ナンバーでひしめいています。参道入口参道背景が稲荷山楼門 就学旅行生記念写真お使いの狐楼門の裏手本殿前の建物本殿奥の院への千本鳥居鳥居のトンネル鳥居を奉納する数の多さに圧倒されます奥の院のおもかる石外人さんにも人気 両手で持ち上げておられるおもかる石灯篭の前で願い事を祈念して石灯篭の空輪(頭)を持ち上げそのときに感じる重さが自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い重ければ叶わないとする試し石で一般には「おもかる石」で親しまれています。
2013.01.01
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