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「今日の午前は内閣官房長官への訪問です」との声でスタートしました。前日と同じように、政府庁舎へ入り、案内されるままザンダンシャタル官房長官と会いました。前日の大統領と同じように、私が英語のプレゼン資料を見せながら日本語で話し、それをUさんがモンゴル語に通訳をする、という形で進めました。すると、12―3分ほど私がプレゼンし続けていると、官房長官が資料をパタリと閉じ「実は、昨日のうちに資料を拝見し、勉強させていただいておりました。また今朝はK先生にも会い、田崎さんのことを教えてもらいました。」と言うではないですか。要するに、内容についてはもうわかっていますよ、ということです。そして基本的には私の考え方に賛成だというのです。その上で、官房長官のご意見も伺いました。結構、ざっくばらんに話してくれましたし、政府として困っていることも話されましたが、もちろんここでは書けません。ま、私の考えに賛成だからすぐにどうなるということではもちろん、ありませんけど。前日の大統領も今日の官房長官もモンゴルを良くしたいという気持ちの上では、同じ方向であるということはわかりました。ですが、だからと言って、何かが変わるわけではないので、こうした面談が何かにつながるのかどうか、私には全くわかりません。昨日、今日のところは、私とモンゴル政府関係者(大統領と官房房長官)が意見交換をしたという以外には何もありません。今後また会う機会もあるかもしれませんが、そうした話は今後はこうしたブログにも書きづらくはなるでしょうね。この日の夕方は「ダンシャリ」講演会でした。今回モンゴルにて再出版することになった私の本について、1月に来るときに講演をしてほしいと頼まれていました。私は気楽に、いいですよ、と答えていたのです。当然、経営者関係の方々が集まるものだと思っていました。が、わずか二日目に「マーケティング関係者の方々が聞きにきます。」と言われました。「マーケティング?いや、別に私はマーケティングの話をするつもりはりませんよ」と答えたのですが、聞きに来る人達はどうもそうではなかったようです。オーストラリア留学中のモンゴル人のEさんから「今日、マーケティング協会の人向けに講演するんですね。フェースブックに出てました!」とメールが来ました。どうもマーケティングの勉強のつもりのようです。ちょっと違うんだけどなー。会場はコーポレートホテルです。都心のではなく、ジャパンタウン方面にできた新しいコーポレートホテルです。行ってみると、会場で準備されていました。ですが・・・結論を先に言いますと、モンゴルのホテルはやはりひどい、の一言に尽きるということです。とてもじゃないけど、国際会議どころかまともな会場運営も全くできないレベルだということがよくわかりました。私がパソコンの準備をしていると、会の主催者から「あとはホテルの技術者が来てやります」とのことでした。準備と言っても、電源を入れて、プロジェクターの準備をするだけのことです。ですが、そんな簡単なことでも、技術者を待てと言われれば待つしかありません。で、コーポレートホテルのジャンパーを着たスタッフがやってきました。私はすぐに「このスタッフ、怪しい」と思いました。なぜなら、技術者どころか、電源コンセントの場所さえわからずに探しているのです。オーディオやプロジェクター機器がたくさんある中、コンセントの場所すらも知らないのです。いかにもこんな場所、初めてきましたって感じで。新しいホテルですから、当然プロジェクターも天井備え付けです。プロジェクターのコードを私のPCにどう差し込むのかもよくわかっていないのです。それでもなんとかセットしました。でも映りません。いろいろ調整してみますが、全くできません。もう開始時刻は過ぎていますが、全然映りません。別のパソコンでもやってみますが、それもだめ。遂には、コーポレートホテルのパソコンを持ち込みますが、それもだめ。要するに、何を使っても映らないのです。こんなの、普通なら会議室にプロジェクターが置いてあって、2-3分ですぐにやれるようなレベルの話です。このコーポレートホテルが、格好いいパンフレットで宣伝をしているのを知っていますが、こんな初歩の初歩レベルでも何もできないのを見ると、やっぱりモンゴルは数十年は遅れていると思ってしまいます。モンゴル人はこういうのを見ても「いいえ、モンゴルは大丈夫です。こんなのたまたたまです」んどと言いますが、会議をする人にとっては「たまたま」ではないのです。100%機能しなければ、それは「できない」と同じ意味だということをモンゴル人は知らないのです。結局、プロジェクターなしで講演会的にやりました。内容はマーケッター向けではないし、プロジェクターはないし、とても効果的な講演会だったとは思えませんが、なんとか終えました。それでも、なぜかその後展示即売会(?)的になっているのか、私の本を手にした人たちが並んで、即席サイン会となりました。私の本に関しては、モンゴルでの印税は全部放棄しているので、売れたからと言って何か入るわけではありませんが、一人でも多くの人に手に取っていただけるのはうれしいものです。こうした若いマーケッターから、一人でもモンゴルの新市場を切り開くような人が出てくることを祈っています。
2018.01.25
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大統領との面談を終え、次に向かったのは内閣のスタッフへのプレゼン会場です。12時過ぎに終え、次は1時ですから当然昼食ははなしです。私は食事なしには耐えられますが、この外部の寒さには閉口しました。通常は、次の場所へ移動するにはタクシーですが、「歩ける距離ですから」ということで歩き出しました。モンゴル人でも「ここまで寒いのは経験ないなあ」というほどの寒波到来中です。マイナス40℃にもなる巨大超低温冷凍庫(日本では家庭用冷凍庫はマイナス18℃、業務用でもマイナス24℃と「暖かい」のです)の中を歩いていると、鼻やのどが痛くなってきます。そんな中5分以上も歩くと、身体が寒さに拒否反応を示してくるのがわかります。この極寒の地で、強制労働をさせられた日本人のことを思うと、なんとも言えない気持ちになります。たどり着いたのは、以前K先生のオフィスがあったビルで私も何度も訪れたことがある場所です。私がモンゴルに住んでいた頃に首相直轄の国家戦略室というものができ、K先生はそこのトップをしていたのです。当時との違いは、入館方法です。当時は、外から直接入って階段上れば、Kさんの部屋でしたが、今は入館時から荷物チェックにパスポートチェックです。そういう時代だということです。最初は、その国家戦略室室長への挨拶です。そこで会ったのは、以前に会ったったことのあるBさんです。Bさんも私のことを覚えており「昨年のインベストモンゴリアで、席が隣でしたね?」と日本語で声をかけてくれました。その後、講演会場へ。会場には3-40名程度の各省庁からのスタッフが参加していました。聞けば、内閣府、外務省、経済相。。。など、各省のキーマンだそうです。全体では結構な人数の聴衆者ですが、途中の出入りが非常に多く、最初から最後まで通しで聞いたのは、その半分もいないでしょう。多分「空いてる時間にちょっと覗いてみよう」くらいなんだと思います。そういう人相手にストーリーを組み立ててプレゼンしても、なんの効果もありません。プロジェクターへの投影は英語版、私の手元には日本語版を置き、日本語で話しました。それをUさんがモンゴル語に通訳しながら進めます。プレゼンの内容はここで詳細は書きませんが、モンゴルが良い国になってほしいとの願いのある内容です。どの国も同じだと思いますが、役人というのは何事にも無表情、無関心な雰囲気があります。ですが、プレゼン後には興味を持ってくれるような発言もあったので、それはそれでいいかなと思っています。ここでのプレゼンは2時間ほどで終了しました。実は、今朝起きたときあまり食欲なかったので、前日の夜以降全く食事なしの状態でした。が、「では、これからテレビ局に参ります」と再び外を歩き出します。私も再びこの寒さの中を歩きだしました。が、やはりどうしても寒いです。確かに夏の元気な時なら、10分くらい構いませんが、身体が寒さを異常に拒否しようとしています。私はついに「タクシーで行きましょう!」と声を上げました。で、タクシー移動となりました。都心にあるこのテレビ局には何度か来ています。今後の打ち合わせを終えると「上の階へ行っていいですか?」と。早速Uさんによる私へのインタビューが始まりました。時間は15分程度で、明後日のニュース番組の中で流すんだそうです。多チャンネルのUBで、どれほどの人が私のインタビューを見るかはわかりませんが、多少なりとも「そういう見方もあるのか?」と感じてもらえればいいです。というわけで、長い長い一日の「仕事の時間」がようやく終わろうとしていました。結局、ほぼ24時間何も食べていない状態となりましたが、不思議と大して空腹感がわきません。むしろ、風邪による体調不良を感じてました。そのままUさんと二人で和食居酒屋Tへいきましたが、やはり一向に食欲がわきません。結局、今までTに来たどの時よりも少量しか頼まず、しかもそれすら食べるのがやっとというありさまで、そそくさとホテルに帰って寝ました。やはり今年のUBの寒さは異常です。
2018.01.24
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「今日は午後から講演会ですが、その前に午前中はバトトルガ大統領への表敬訪問になります」と言われました。日本にいたときから、日程にもよるが大統領か首相への表敬訪問があるかもしれない、と言われていました。とはいえ、スケジュール変更はよくあるお国柄ですから、たぶん実現はしないんだろうなと思っていましたが、どうやら本当の話のようです。午前10時前にスフバートルの政府庁舎に入りました。「ここは初めてですか?」と聞かれ、ごく自然に「いいえ、来たことあります」と答えましたが、果て、一体いつ来たんだろうか?と思ってしまいました。ですが、確かに内部は見覚えがありました。内部は通路は長く広いのですが、慣れていない人にとっては迷路ともいえるような構造にも見えました。歩いてる途中思いだしました。日本語を教えていた小学生の子供たちの社会見学で国会を見に来た時に、一緒に来たことがあったのでした。いよいよ、大統領の執務室へ。私は普段はほとんどネクタイ着用はせずジャケットだけですが、さすがに今回はスーツにネクタイで来ました。大統領はノーネクタイで、カジュアルないでたちでした。さすがに元サンボ(ソ連時代の格闘技)の世界チャンピオンだけあって、がっしりとした身体つきでした。大統領に会うためには、当然数々のセキュリティチェックを通されます。飛行機に乗るときのチェックのようなものですが、カメラも携帯電話も持ち込み禁止なので「一緒に記念写真でも撮ろうかな」なんて気楽に考えていた私のプランは、当然実現しませんでした。私と一緒に大統領の部屋を訪ねたのは、大統領と私と通訳をしてくれる私の友人であるメディアコーディネーターのUさん、そして政府側での今回の私の一連の行動の窓口をしてくれている内閣府のBさんです。ですが、私が大統領と向き合って話した時には、私たちに加えて大統領側のスタッフが4-5名いました。皆若いスタッフに見えました。私はそもそも表敬訪問と聞いていたので「サエンバエノー」と挨拶して、10分程度で終わるんだと思っていました。私はこの点をUさんに事前に聞いていましたが、Uさん自身も数日前まで「そもそも会談は実現するのか?」「会うのは大統領か首相か?」もまだはっきりしないように聞いていたくらいですから、この表敬訪問に一体何分時間取ってあるのか、わかりません。その場の雰囲気としては「日本から来たコンサルタントの意見を大統領が聞く」のような感じになってきたので、この日の午後講演する予定の資料(英文)を手渡し、私からプレゼンすることにしました。ただ、これを始めると、通訳経由ですから急いでも1時間はかかってしまいます。でも、そんな時間をもらえるのだろうか?中途半端に「はい、そこまででおしまい」と切り上げられるのは困るなと思いながら、とにかく始めました。大統領は真摯に聞いてくれ、大事なところは頷いて資料にも目を通していました。私の印象では、大統領はちゃんと相手の言葉を聞き、ほとんど反発、反論をせず、「まずは相手の言うことを聞こう」という態度に徹しているように見えました。正直言って、格闘技系出身のモンゴル人大統領ですから、もっと大迫力の議論を迫ってくるのかと思っていましたが、全く正反対で、むしろ「静かに聞き入る」という姿勢を感じました。私の話の中には当然、モンゴルの現状に対する批判的な内容や、政治家に取っても耳の痛い内容がたっぷり含まれているわけですが、一切の反論をせず静かに頷いていたのが、とても印象的でした。私の話は結局1時間以上も続きましたが、その間「そろそろ終わりにしようか?」という雰囲気は皆無でした。私の話が一通り済むと、今度は大統領がいろんな話をしました。中にはなるほどと思うのもあれば、やや荒唐無稽とはあ言い過ぎですが、さすがにそれは5年や10年では実現しないだろうというものもありました。ただ強く感じたのは、「モンゴルの将来のことを強く考えているのは間違いない」ということです。あの巨大チンギス像を作った人ですから、モンゴルへの観光誘致には特に関心を持っているように思えました。また大気汚染問題について「現在のUBを再開発によって全ゲルをアパート化するには40年以上かかる、とJICAに言われた」と言い、それなら遷都の方が早いのではないか、と言ってました。面白いのは「明日、官房長官と会ったら、OOのことをあなたから伝えてください」みたいな言い方が、何度かあったということです。私みたいな外国人に頼らずとも、呼びつけて申し渡せばいいのでしょうが、その辺の権力構造(大統領と首相)がわかりにくくなっているのは、外部から見てもそうですが、内部的にもそうなんだろうと感じました。結局、大統領との面談時間は2時間にも及びました。最後に「この国を良くするのによろしくお願いします」と言われました。私のような経営コンサルタントは、有名な企業経営者と会うことはあっても、政治家、特に一国のトップである大統領とさしで話すということはまずありませんので、いい経験になりました。
2018.01.23
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今日はクライアント先へ行った後、都心に出るのは時間がかかるので、ゴビファクトリーに併設されているミラージュでランチしました。ここはケンピンスキーの和食店のシェフSさんが運営責任者としてやっている店です。ビジネスパートナーのBさんに「ミラージュでよろしいですか?」と聞かれたとき、一瞬考えてしまいました。というのは、今晩そのSさんと会う予定があったからです。ま、店も違うし、ミラージュはそもそも行ったことがなかったので、入りました。店内のスペースは大きいです。よく言えばスペーシーでゆったりした空間ですが、別な見方をすれば、倉庫の中にイスとテーブルを置いたような、ちょっと「ガラーン」とした雰囲気です。高級レストランという雰囲気ではありません。というのは、以前からここにミラージュというレストランができたのは知っていましたが、なぜか私は勝手にここをフランス料理店だと思い込んでいたのです。実際には、お手軽和食とモンゴル料理をミックスしたようなメニューが並んでました。ツイバン(モンゴル式焼うどん)にしようかと思っていたら、Bさんが「ここで一番気に入っているのは、鍋焼きうどんとホーショールのセットです」と勧めてくれました。ちょうどその時に今晩会う予定のシェフのSさんが通りかかりました。ここはSさんが運営しているので偶然というほどの話ではないでしょうが、市内に何店舗も運営しているので、まさかここで会うとは思っていませんでした。そのSさんも「ここでの一番人気はこのセットです」と勧めたので、結局それにしました。というわけで、モンゴルに来て3回目のランチでさくらベーカリーに続いて二度目の鍋焼うどんです。モンゴルでの鍋焼うどん人気は、明らかに日本よりは上でしょう。で、夜は予定通りSさんと食事しました。お店は「Little sheep」という店です。私は行ったことありませんでしたが、「小肥羊」というブランド名で、日本で17店舗も展開しているそうです。ですが、日本の店の場合、ちょっと不思議な現象があります。ネットで検索すると、なぜか食べログなどの情報には載っていないのです。2006年に日本上陸ですから、当然載っているはずです。なぜなんでしょうかね?モンゴルのお店はほんの先週オープンしたばかりのようです。店に入るとすぐにあの火鍋の独特の香辛料の香りがします。もともとほとんど香辛料を使わないモンゴル人にはちょっときついかもしれません。聞けば、このチェーンは中国を中心に世界中で1000店舗を超える規模になり、羊肉の世界消費量を大きく増やしたと言われています。また羊肉の調達に対しても厳格な基準を設けて、モンゴル国内で調達しているとのことです。ここではラム肉も扱っていますが、従来はモンゴルではほとんど見ることはありません。ある場合は、高級レストランでニュージーランド産ラムがある程度です。というのは、伝統的にモンゴルでは仔羊を殺していけないとされてきたからです。当然、羊供給者(=遊牧民)からの抵抗はあったでしょうか、安定的に大量購入してくれるとあればそんことも言ってられないのでしょう。キルギスから帰ってきたばかりの大企業駐在員のFさんによれば、キルギスの肉はおいしかったそうです。それはちゃんと血抜きをしているからです。モンゴル人は肉のことになるとどうしても自国最高という意識が抜けないので改善する気が薄く、国際市場では低い競争力しかないように見えます。で、リトルシープの味は?悪くはないですが、私にはブル(シンガポール系のしゃぶしゃぶ屋さん)の方がいいかなと思いました。一番の違いは、ブルは日本のしゃぶしゃぶのように、ポン酢やゴマダレをつけて食べるのですが、リトルシープはスープの味だけで、何かにつけるということはありません。その分、相当スープの味を濃くしないといけないということなのでしょう。でも、この内モンゴル出身の創始者オーナーは素晴らしいと思いました。内モンゴルの遊牧民らへの経済発展の大きな力となったことでしょう。私はこれがアメリカを含めた外国でこんなに人気が出るのなら、札幌の「ジンギスカン鍋」も世界に向けて展開できたんじゃないかと思うのです。ちんみにのジンギスカン料理は、モンゴルとは一切関係なくニュージーランドからの羊肉輸入権利を持つ商社が仕掛けた料理です。本当は、写真をお見せしたいところですが、なぜかパソコン上で写真が開かなくんってしまいました。モンゴルへ来てからパソコンの状態が悪いのです。キーボードまで一部壊れているので、このブログを書くのにも普段の倍以上の時間がかかっています。寒いし、パソコンは不調だし、残る日々を乗り切れるか少し不安です。
2018.01.22
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今日のランチはモンゴル行く前から打ち合わせの予定を入れていましたが、例によってモンゴル式のドタキャンです。モンゴル式というのは、1、非常に頻繁に起こる。躊躇せず、ドタキャンする。2、相手への思いやりは一切感じないやり方で、自己中心的考えでしかない。という意味です。日本だって、やむにやまれぬドタキャンはあるでしょうが、普通は「できるだけドタキャンをしないように注意する」というのが前提です。ですが、モンゴルの場合はそうではありません。ドタキャンの後、相手が日本人だと少しは「申し訳ない」という振りはしますが、そもそもそうならないように努力することは一切ありません。相手への思いやりというのは、こういうことです。今日は12時から一緒にランチを兼ねた打ち合わせ(仕事上の打ち合わせです)をすることになっていました。普通は当日午前10時くらいには場所についての連絡が入りますが、そうではありませんでしたの、こちらから連絡しました。すると、すぐに「後で連絡します」と返ってきました。通常、「後で」というのは、「今手が離せないから、後で」という意味にとります。もし、そうではないなら、今の事情を説明して「30分遅くなる」とか言います。もちろん、ここでの「通常」というのは日本のことであり、モンゴルのことではないのは当然です。が、相手は日本留学経験者で、そういう約束は基本的には守る人でした。ですが、事情の説明もなければ、遅れる時間も言いません。要するに「待ってればいいじゃないか。俺には俺の予定がるんだから、何時間でもそこで待っていろ!」という意味です。案の定、1時間以上も何の連絡もありません。また連絡すると「すいません」だけです。これから更に相手を待たせるのか、それとも目途が立っているのか、すら言いません。「すいません」はだけでは全く意味がありません。これはモンゴル人によくあるパターンで「すべての行動は自分中心であって、相手がそれに合わせればいい」という考え方です。私は、相手が普通のモンゴル人なら「約束を気にしないのはモンゴル人の習慣」だとわかっていますが、あの友人までもがそうなっていることには、残念ながらショックを受けました。モンゴルでは「モンゴル人になる」という言葉があります。日本やアメリカへ留学して、最低限の常識やマナーを身に着けた人も、モンゴルに帰ってくると次第に「モンゴル人っぽくなる」という意味です。そういう意味では、今回の彼も「完全にモンゴル人になった」と言えます。最終的には、午後4時ごろに結局キャンセルされました。相手のことを考えているなら、午前11時にキャンセルすればいいのですが、そこは自己中のモンゴル人ですから、そんな気を遣うことはありません。できるだけ延ばして、相手がどうなろうと知ったことではありません。モンゴルのことを良く知らない方は「いいじゃないか、そんな程度のことでグダグダ目くじら立てるなよ」と思われるでしょうが、そういうレベルでないほどに、そうした約束破りがこの国の習慣になっているのです。それが、国際レベルの話になると「確かに我が国はお金を借りたが、ちゃんと返すとは言ってない」などという政府の態度につながるのです。あるいは「確かに約束はしたが、約束を守るとは言ってない」というもの、常套手段です。というわけで、一人でランチに出かけました。外は昨日に比べても随分寒いです。そしてついに喉がやられてしまいました。冷たい空気を吸い込むたびに、のどに痛みを感じたのでヤバいなと思いましたが、ホテルに帰ってからも風邪みたいな症状になってしまいました。風邪薬のルルを飲んだら、一層風邪を引いた気分になっています。明日から始まる1週間、無事に乗り越えられるのか、まだわかりません。
2018.01.21
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モンゴルに来ています。 成田のチェックインカウンターでは、ほぼ並ばずに手続きできたので「今日は空いているんですか?」と聞いたら、そんなことはないと言われました。実際、乗り込んでみると60-70%くらいは埋まっていました。 搭乗口で並んでいると、後ろからフランス語の会話が。40代くらいの5人グループの西洋人がいました。見た感じはビジネスっぽい感じではありませんが、この時期観光でもないだろうと思っていました。 搭乗手続き開始が遅れ、並んでいるその人たちと目が合ったので「あなたたちは、ここからモンゴルへ行くのですか?」(考えてみれば当たり前の質問ですが、ヨーロッパ人ならベルリンかモスクワ経由だろうと思ったのです) そしてわかったことは、なんとこの人たちはニューカレドニアからの観光客なんだそうです。南半球の太平洋に浮かぶこの国は確かにフランス語圏です。 私が「モンゴルは寒いんですよ、とっても。」というと、ニコニコして「それはいいね」と喜んでました。モンゴル初訪問とのこと。 もちろん目的地は「煙の街」ウランバートルではなく、どこかの田舎と言っていました。ゲルに泊まるのを楽しみにしている様子でしたが、果たしてこの時期もゲルキャンプはやっているのか? 普通はモンゴルのゲルキャンプは10月には閉鎖されます。私は以前、フブスグル湖で行われる氷祭りに行ってみたくて旅行会社に調べてもらいましたが、観光用のゲルは全部閉鎖していると聞きました。 「本当の田舎」は、どこもゲルキャンプは閉鎖だと思いますので、私の予想ではテレルジあたりに行くのではないかと思いました。実際、この時期でも週末などにテレルジへ遊びに行くUB市民はいますから。 それにしても、10月でもゲルで寝るのは、深夜や明け方の「ストーブの火付け」がないと凍えるほどですから、この時期だと1時間ごとでも寒いんじゃないでしょうか? あるいは、本当のゲルじゃなく、ハーンリゾートあたりの快適なゲルホテルなのかもしれません。香港や台湾の人が北海道の雪を見たさに訪日客が急増したように、モンゴルのこの寒さも、一ひねりすれば観光化できるのではないかと思いました。 街を歩きました。為替が弱くなってから1年以上経っています。モンゴルは、鉛筆も大根も石鹸も、なんでも輸入に頼っていますから、トゥグルグ安は物価を直撃します。 いつものようにさくらベーカリーの鍋焼きうどんを頂きました。昨年は「為替きついですけどなんとか1万トゥグルグ以下は守りたい、と言っていた鍋焼きうどんの価格もついに12,000トゥグルグとなっていました。 なんせ食材のほぼ全てが輸入品なので、仕方のないところです。もちろん、味は相変わらずおいしかったです。 MAXモールに新しい店ができていました。4000トゥグルグと大きく出ているので、例の100円ショップ的200円ショップかなと思って見てみました。 従来の4000トゥグルグショップより店はきれいで、とてもおしゃれな雰囲気です。客層も、ほとんどが女性でした。品ぞろえは化粧品からバッグなどまでターゲットは若い女性のようです。 ここの特徴は、4000トゥグルグに限らず、8000トゥグルグや18000トゥグルグなど、均一価格になっていなということです。でも、そんなことは気にせずに、かわいい商品を選んでいるお客さんが結構いました。 更に、ウランバートルデパートの地下にある3500トゥグルグショップ(Japan store)を見てきました。多くの店が3500では立ちいかなくなり4000(または3999)に値上げしている中、3500で踏ん張っています。 場所柄ということもあるでしょうが、店が広くてきれいです。街中にある多くのこの手の店は「安く売っているんだから、内装もそれなり」という感じなのに、ここは違います。明るくきれいで、商品説明のためのPOPもちゃんと作っています。 店員も例の「超やる気のない態度」ではなく、はつらつと働いています。ここでの印象は、お客さんが多いことはもちろんですが、一人当たりの買う量の多さに感心しました。 カートに(カートが通れる通路です)にいっぱい、10個、20個?いやいや50個、100個という感じで買っています。こちらは先ほどの店とは違い、比較的高齢の方、場所柄富裕層とみられる人たちです。 上記2つの店に共通しているのは、従来のような「入口からわかりにくい、いかにもコスト削減している店舗です」という感じではなく、明るく洗練された店舗だということです。 為替が弱含みでも、モンゴル人の「日本品質」への期待は変わっていないか、ますます増えているように思いました。商品のほとんどはもちろん「Made in China」ですが、日本企業の管理下の商品だということの安心感が強いのでしょう。 明日から寒くなるとのこと。マイナス40度は目前のようです。
2018.01.20
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お正月から、モンゴル人の友人が来日しています。モンゴルへ出張する時にはいつも会っている人なので、「久しぶり!」というほどではありませんが、滞在中二度ほど会って食事したりしました。最初は、彼の親戚夫妻らと一緒でした。その夫妻の奥さんの方は日本に住んでいた経験もあり、彼らと会った渋谷の街のことは私よりも知っているほどでした。私は初めて会ったつもりでしたが「ああ、あなたは知ってますよ。モンゴルで見ましたよ。」だそうで、正直、こちらとしては覚えていませんでしたが、悪い印象ではなかったとのことで安心しました。奥さんたち女性陣は買い物ということで、友人とその旦那さんと3人でお寿司屋さんに行きました。いつも思いますが、最近のモンゴル人は寿司のネタに関しては何の心配も不要で、イカでもエビでも何の問題もなく食べます。エビというのは、海老ですが蝦とも書きます。この影響ではないでしょうが、サムホルホイと言います。サムは櫛(髪の毛をとくくし)ホルホイは虫という意味ですから、まあ、くしのような虫ってことなのでしょうか?それもあって、今まで多くのモンゴル人がエビを食べたがらないのは見てきました。頭ではわかっても「虫は食べることができない」からでしょう。でも、最近はそんなこと全然気にしない人が増えてきたのも事実です。大丈夫かと聞くと「日本人がおいしく食べるものは、なんでも食べるよ」と言います。もう一つモンゴル人の多くが苦手なのが、肉です。正確に言うと、赤みが残る牛肉です。モンゴル人は歴史的にずっと肉を食べてきましたが、「少しでも赤い肉はダメ」という教えが染みついています。ですので、焼肉屋さんでも「柔らかくて食べごろである」ちょっと赤みが残るくらいのも、躊躇する場合が多いです。焼肉の場合はそのまま焼けばウエルダンになるのでいいのですが、ステーキの場合はちょっと困ります。日本式でもフレンチでも、良さそうなレストランではステーキには赤みが残っています。和牛なら大丈夫と言っても、やはり一切口にしないモンゴル人もいます。それよりも困るのはローストビーフでしょう。ステーキの場合は、ウエルダンを強調すれば、おいしさと引き換えにはなりますが十分焼くことはできますが、ローストビーフは出来上がっているのでそうはいきません。というか、赤みを残したまま熱を通すのがプロの腕なわけで、これを全部焼いてしまってはもうローストビーフとは言えないでしょう。そういう習慣の違いはありますが、年々、エビも肉の赤身も大丈夫なモンゴル人も増えているのも事実です。親戚夫婦の旦那さんの方が面白い質問をしました。モンゴル人男性はやはり日本へ来ると車をよく観察しています。初めてくるモンゴル人にとっては、「日本人は金持ちだと聞いていたが、なんでショボい車しかないのか?」と聞く場合があります。その意図は簡単で、ランクルが少ないからです。モンゴルでは高級車=ランドクルーザーまたはレクサスLX(ランクルのレクサス版)だからです。そうしたモンゴル人からすると、ベンツのSクラスも平べったいフェラーリも高級車じゃないわけです。その旦那さんの質問はこうでした。「モンゴルではランクルが何と言っても一番いい車だ。ヒュンダイの新車よりもトヨタの10年落ちの中古車の方が良いのは誰でも知っている。」「日本を見て不思議なのは、なぜこんなに道路が整備されているのに、ランクルのような頑丈で高性能な車を作れるのだ?オーバースペックではないか?もちろん、モンゴルではあの性能が必要だが。」と。私は「実はランクル200は日本やアメリカではほとんど売れていないんですよ。実際によく売れているのは、中東やアフリカなど、道路が整備されていない国です。トヨタはそうした国で通用する車を作っているのです。日本のことはほとんど考えていないでしょうね。」というと、「なるほど、自国向けの延長ではないんだ」としきりに感心していました。私の友人の方は、久しぶりの同窓会に出ると言って、その後仙台に行きました。東北大学出身のモンゴル人は意外と多いようです。本ブログの読者の仙台ざらあさんも、仙台の留学生とはよく交流があるようです。東京へ戻ってから感想を聞いたら「やっぱり同窓会はいいですね。」と言ってました。ホテルでパーティやって、その後二次会を居酒屋で・・・と、日本式同窓会を満喫したようです。彼は同窓会目的で仙台へ行ったのですが、タイミングよく仙台でモンゴルと関係するビジネスのネタ的打ち合わせに2件も出ていたとのことです。共に、今後どうなるかはわからないような話ですが、地方都市とモンゴルのつながりができるのはいいことだと思います。今年は何回モンゴルへ出張することになるかはわかりませんが、モンゴルからもこうして定期的に友人らがやってきますので、交流を深めていけたらいいなと思っています。
2018.01.09
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今月1月下旬(または2月?)から私の本がモンゴルで再版されることになりました。5年前にモンゴルで翻訳出版された「ビジネスパーソンのための断捨離思考のすすめ」という本の再版です。現地からの「この本の内容は、5年前よりもむしろ今のモンゴルにふさわしい」という声を反映して、再出版が決まりました。再版にあたって、モンゴル版向けに新たに20ページ分ほど「モンゴル版再出版にあたって」「モンゴル社会への警告」「モンゴル企業への処方箋」の3章を書き起こしました。ちなみに、前回は日本モンゴル国交樹立40周年事業に認定され、そのマークがつきましたが、今回は偶然にもその5年後ということで、45周年事業に認定されたんだそうです。まあ、こんなマークがつくだけなんですけどね。一応、日本大使館の許可は取ったと聞きました。モンゴル語版のみですので、現地在住のモンゴル人の方、ご興味あれば手に取ってみてください。いつから書店に並ぶのかは不明ですが。
2018.01.07
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司馬遷は武帝の逆鱗に触れ、なんと「宮刑」の処されたのです。宮刑?女性アナウンサーも言いにくそうでしたが、要するに去勢するということです。紀元前ですから、もちろん麻酔もないでしょうし、衛生管理もないでしょう。場合によっては大量出血で死ぬ可能性もあったでしょう。どこをどのくらい切り落としたんだろうと邪推しながら、その辛さを考えてしまいました。司馬遷はその恥辱で自害も考えたようですが、結局、このことをきっかけに史記を書く決意をしたようです。当時も今も、中国の歴史書はその時どきの権力者にすり寄って書かれていますが、こうした経緯もあって司馬遷は「歴史を正しく、客観的に書く」と決めました。そして書き上げたのがなんと130巻!文字にして52万字余り、繰り返しますが、日本は文字はもちろんありませんし、米を作ることに精いっぱいだった時代です。当時の他の史書は当然のことながら、敵国匈奴の悪口を書いていました。野蛮人だの、教養や文化がないなど。ですが、司馬遷は違いました。匈奴には我々とは違うが、立派な遊牧文化があり、国家組織もあってきちんと運営されていると。更には、武帝の失政についても書いたと言われています。(その後、修正・削除された?)また司馬遷は、王朝の歴史だけでなく、人物に焦点を当てて描き出していました。歴史は結局のところ、人を通じて作られるしかない、ということなんだと思います。つまり、司馬遷は単なる歴史家だというだけでなく、偏見を取り除きながら客観的な歴史・人物像を残そうとした人だったのです。歴史家としての矜持を持っていたのです。話はここで終わりません。司馬遷の故郷には立派な生家が保存されて今に伝えられています。なぜか?中国共産党が観光用に建てたわけではないようです。司馬遷没後の1300年後、フビライが大元ウルスの皇帝になったとき、この司馬遷の功績を讃えて生家を整備させたのです。モンゴル人はフンヌ(匈奴)をモンゴル人の祖先と考えています。その匈奴の歴史を正確に残してくれた司馬遷を讃えたのです。この一連のストーリーを知って、司馬遼太郎が単に「有名な歴史家の名前を拝借した」というわけではないことを理解しました。時の権力や周囲の声に惑わされずに、しかも視点が権力者側からでなく、民(たみ)の側からの歴史を書こうとした姿勢を引き継ごうとしたんだと思いました。司馬遷=匈奴=モンゴル=司馬遼太郎という、名前だけではない、もう一つのつながりが浮かんできて、ちょっと嬉しかったです。(完)
2018.01.03
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またしてもテレビ番組を見ての感想です。BSで中国古代史の特集を続けてやってたので、それを見ていました。ちなみに、全部再放送でした。当然中国側の視点からの構成となりますが、やはり古代から遊牧民族との接触はかなり多かったと言えます。その中でも司馬遷についての内容が興味深かったです。司馬遷は紀元前1-2世紀頃の歴史家で、その著書「史記」は大変有名です。かつ、司馬遼太郎のペンネームにもその名が使われるほどの人です。ですが、正直言って、あまりその人のことは良く知りませんでした。今回、少しだけ知ることができたので、ちょっと書いてみようと思ったわけです。司馬遷は漢の時代の人です。最初の漢なので、前漢とも呼ばれまが、この前漢は「項羽と劉邦」で有名な劉邦が作った国です。司馬遷はその七代目の武帝に仕えていました。今となっては、「漢字」「漢人(中華民族という架空の民族ではなく、元々の中国の中心的民族)」「漢化政策」など、イメージ的には中国のオリジナルを表す言葉である漢はこの時の王朝の名前です。以来、2000年以上にも渡って中国そのものを表す漢字となりましたが、その起源は意外なものだと知りました。劉邦は秦の天下の時の小国「楚」の役人時代、地方の閑職に飛ばされていました。その場所が、長江(揚子江)の支流である漢水にある「漢中」という地方でした。閑職になるような場所ですから、決して国としても文化的にも中心地ではなかったのです。この時の名前を国の名前に使ったのが起源だそうです。そして、劉邦の統一後、前漢、後漢、西漢などと名前は変えつつも、漢の時代が400年も続いたので、その後中国そのものを表す文字になったのです。司馬遷は、元々歴史や天文を司る家に生まれたそうです。幼少より、様々な歴史書を学んだとあり、20歳前後の時は現在の江蘇省、安徽省、浙江省、湖南省、江西省などの東南を回り、更には北へ向かい山東省、河南省、そしてその後は西域まで足を延ばしたとのことです。中国は日本の25倍の国土を持ちます。それから考えても、これらの軌跡の距離は日本一周どころじゃないんじゃないかと思える長さです。しかもこれは紀元前2世紀ごろの話です。日本はまだ弥生時代で、やっと米を作ることが出たような時代です。卑弥呼は紀元後ですから、それよりも300-400年も前のことです。その時代に「歴史書を読む」「史跡を訪ねて旅をする」などということができた中国の歴史の深さには、改めて凄みを感じましたね。古事記や日本書紀ができたのは、その900年後くらいですから、「歴史書を読んで勉強する」などという行為が日本でできたのは、中国の1000年後という計算になります。いやー、確かにどう見ても当時の日本は東アジアの後進国だったのは間違いないでしょう。司馬遷はその旅の後、22歳ころに武帝に仕えました。その頃、漢は北の遊牧国家「匈奴(フンヌ)」と国境を接し、争っていました。当時の軍人・李陵が匈奴の捕虜になったことを武帝が責め立てたとき、誰も逆らえない雰囲気の中、司馬遷だけが「漢軍5千人、匈奴3万人の中、李陵は頑張った」とただ一人弁護したのです。普通の英雄伝だと「さすが、誰も皇帝に物言えない中、司馬遷は言うべきことを言いきった」となり、その後の出世物語になりそうなところですが、この時代はそんな簡単な話ではないということです。(続く)
2018.01.02
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