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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年7月付け「ウランバートル徒然日記」(最終日)という題名の記事です。サマーハウスから再びウランバートルの都心に向かいました。私は今夜のパーティが一体何なのか全然知らなかったので道中教えてもらいました。友人のBさんは、元国営企業だったカシミヤ会社のG社の再建を社長としてやっていました。そして、見事再建をやってのけ、その成果はモンゴル国内でも話題になったほどです。Bさんはテレビにも出たりして、ちょっとした有名人になったようです。そのBさんは、今年の春に社長を辞めコンサルティング会社を立ち上げましたが、社外取締役としてG社との関係は今も続いています。そのG社が、ウランバートルの都心部に新しい店を出すというので、今晩パーティがあるというのです。G社は国営企業時代はパッとしなかったようですが、Bさんの改革のおかげで今ではモンゴルでも最もファッショナブルな企業の一つと目されているのです。車は市の中心部に着きました。先ほどまでの、ポーカーやバーベキューのパーティとは一転して、何やら華やかな雰囲気が漂ってきます。エレベータを降りて、すぐに出てきたコンパニオンのお姉さんの雰囲気が、既に今までのモンゴルっぽさとかなり違ってました。パーティ会場というのは特になく、ショップそのものが会場となっていました。会場は所狭しと、会話を楽しむ人たちでいっぱいでした。さすがにファッション系企業のパーティだけあって、モデルさんもたくさん来ていました。カメラを向けると、皆屈託なく笑顔を見せてくれました。日本でもモデルさんをたくさん知っているわけではないですが、時折六本木辺りでは見かけます。こちらのモデルさんは、モンゴル人ということもあって皆背が高いです。私なんかより優に高くて、180cm超の人が多かったような気がします。右の女性は、モンゴルでも有名なモデルさんだそうです。年齢が40を超えていると聞いた時には、確かにびっくりしました。歳を取らない女性は時々いるんですね。パーティでは、プロの歌手も二人やってきてミニコンサートも開かれました。この女性は「モンゴル人の95%は知っているでしょう」という有名な歌手だそうです。日本でもコンサートを開いたことがあるのだそうです。日本語も勉強したことあるとかで、かなり上手でした。とてもリラックスした素敵な方でした。パーティに来ていた人は、ビジネスパーソンもモデルさんも芸能人も皆、英語か日本語は話せすのには驚きました。英語はともかく日本語とは驚きです。日本留学経験者もかなりいました。日本のイメージは悪くないようで、安心しました。楽しかった最終日ももう10時過ぎです。さすがに空港に向かわなくてはなりません。長い1日でしたが、本当の1日はこれから始まるのかもしれません。人々が眠る時間に、飛行機に乗り込みました。午後11時20分発でした。(続く)
2015.01.31
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この中の一つがBさんのハウスです。 Bさんのハウスです。大きさは40-50平米でしょうか?1ベッドルームにリビング、そしてテラスルームがありました。ウランバートル近郊にしては珍しく緑がいっぱいでした。近郊の多くは草原ですので、なんだか日本の長野県辺りに来てる気になりました。動物や鳥もいます。ハウスの隣に住んでいるリスです。さすがにウランバートル市内には野生動物は見かけません。しばらくすると、イタリア人のRさんが奥さんと二人でやってきました。早速4人でカードを始めました。テラスルームは明るくて気持ち良かったです。ビールを飲みながらワイワイ話しながらやりました。ゲームはポーカーです。結構皆真剣に始めました。私はポーカーなんて10年ぶり?いやもっとやってないかも?いきなり始めても、ルールがよくわからないので、戸惑ってしまいました。ツーペアとフラッシュはどっちが強いの?スリーカードとストレートはどっちが強い?そんなルールを確認しながらやってましたが、どうも今までやったこともないやり方が続きます。イタリア人のRさんに聞きました。「ごめん、私はあまりポーカーのルールは知らないんですが、こういうカードの捨て方は初めてです。これはヨーロッパ式?あるいはイタリア式なんですか?」と聞くと笑いながら「モンゴル式だよ。私もモンゴルへ来るまでこんなルール知らなかったよ。」と笑ってました。楽しくやっていると、どこからともなく(というか、同じサマーハウスの近所の人たち)たくさんやってきました。皆女性で、どうも奥さん連中のようです。私たちがカードやってるのを見て「一緒に混ぜて」と入ってきました。テーブルに所狭しと座って、一層賑やかになりました。子どももやってきて、何が何だかわからないくらいににぎやかになりました。サマーハウスに来ている子供です。誰もが英語を話せるのには感心しました。Bさんによれば、大体ロシア語と英語は話せるんだそうです。イタリア人のRさんがいてくれたので、モンゴル語だけの会話にならずに私も参加できました。夕方6時近くになり、ポーカーが一段落すると今度は別の人(一緒にポーカーやってた奥さん)のハウスに移動し、バーベキューを始めました。ワイン片手にバーベキューです。うーん、これが途上国の姿なのか?確かにこの人たちは平均的なモンゴル人の生活ではないですが、かといって大金持ちでもないそうです。金持ちはもっと大きなサマーハウスに住んでいるそうで、こういう建売はミドルより少し上レベルが多いとのことです。いつもながら、一人当たりGDPと生活レベルがぴったり来ない国だなと感じました。このポーカーやバーベキューで感じたことは、なんとなくヨーロッパ人みたいだな、と思いました。もしこれが日本だったら・・・軽井沢辺りの別荘にロシア人の友達でも連れて行ったらどうなるでしょう?周りは奥様連中です。「いつ日本に来たの?」「何しに来たの?」「どんな仕事してるの?」「結婚してるの?」「日本は何回目?」「日本語できるの?」「年齢は?」など、質問の嵐がきそうです。でも、私は奥さん連中4-5人と数時間過ごしていましたが、誰もそんな質問しません。個人的な領域には全く立ち入ろうとしない雰囲気なのです。かといって無視しているわけではなく、とても気を使ってくれてました。ヨーロッパで経験した雰囲気に似てるなと思いましたね。Bさんが、市内で出なくてはならないパーティがあるのだそうです。バーベキューの途中でしたが、私たちは皆に挨拶して再びウランバートル市内へ向かいました。私に「2-3時間ほど街をぶらぶらしててもいいですが、よろしければ一緒にパーティ行きませんか?」と言ったので、行ってみることにしました。(完)
2015.01.30
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年7月付け「ウランバートル徒然日記」(サマーハウス)という題名の記事です。ウランバートルでの予定を全て終えた最終日、普通であればそのまま帰国なのですが、帰国便は深夜の11時20分!!ですので、それまで丸1日あります。アポイントの予備にと考えていましたが、全てスムースに行ったので完全に空いてしまいました。とはいえ、深夜には帰らねばなりません。なんとも中途半端になりました。友人のBさんが「サマーハウスに行ってみますか?去年、知り合いに勧められて買ったんです。」と提案してくれました。サマーハウス?夏の間だけ過ごす郊外の家だそうです。日本人のイメージする別荘とは少し違うようでした。どうもロシアの習慣というか文化のようです。普通我々が考える別荘というのは、夏でも冬でも山や海にある家で都会の喧騒と離れて休日を過ごすというイメージですが、サマーハウスというのは文字通り「夏の間に住む家」なんだそうです。ですから、そこから毎日仕事に通うのであまり遠いところでは不都合なのです。彼は昨年秋に買ったばかりなので、まだ住める状態ではないけれど、週末を過ごすくらいの設備はあるのだそうです。とにかく行ってみようということで、ウランバートルから南へ向かいました。過去3回来ている中で、ウランバートルから東、西、北方面は行ったことありましたが、南は初めてでした。市内の南の方は、ちょっと貧しそうな家やゲルが多くありました。多分、地方から来た人たちはまずはこの辺に住むのかと思いました。ですが車で30分ほどで、家々の景色は一転します。カラフルな屋根やヨーロッパっぽいおしゃれな家が増えてきます。なるほど、この辺からサマーハウスが始まるんだなと思いました。間もなく、Bさんの友人の家に車を停めました。敷地は広く、結構立派な家です。ここでは夏だけでなく、ずっと暮らしてるのだそうです。家の前でクラクションを鳴らすと、子供が出てきて門を開けてくれました。すると中からちょっと年配の男性が現れました。Bさんと親しいようで、「元気かー?」という感じで談笑を始めました。見るとモンゴル人には見えません。聞けば、イタリア人だそうです。カシミヤ関係の会社の経営をやっていたのですが、今は引退して家族と共にこの地へ引っ越して来たのだそうです。彼は10年以上もモンゴルに住んでいるのに「モンゴル語?いや、全然できない。仕事は英語、ワイフ(モンゴル人)とはイタリア語で話すから問題ないよ。」って言ってました。全然、郷に入っては郷に従えではないようです。食べ物も「モンゴル料理?いや、全然だめだね。やっぱりイタリアンが好きなんだ。ワイフはイタリア料理が上手だから問題ないよ。」だって。聞けば、モンゴルに居住しているイタリア人はたったの5人だそうです。もちろん、皆知り合いのようでした。昔、仕事で知り合ったフランス人を思い出しました。彼は、日本に12年近くもいたのに、日本語は全く駄目、食べるのもウエスタンばかり。どうも「国際的な仕事をしている」という人でも、全くその土地の言葉や食べ物に関心持たずに、マイペースでやる人もいるんだなーと思いました。日本人がNYで、味噌汁、おにぎり欲しがるのも、同じようなものなんだなと思いました。イタリア人のRさんには「これからサマーハウスに行くから、カードでもやらないか?」と誘いに行ったのです。「おー!面白い、その日本人も一緒か?後から行くよ。」とイタリア人らしく陽気に答えました。そこから10分ほど走ると、見えてきました。ここは銀行関係の人が分譲したハウスで、同じデザインの家が20戸ほどありました。いかにも建売って感じです。こんな感じのハウスです。かなりこじんまりしてました。(続く)
2015.01.29
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モンゴル最新ニュースというサイトに、モンゴル・うどんの製造者アギ社がラプシャーを日本で商標登録をしたとありました。日本でこのモンゴルうどんが受け入れられるかどうかはともかく、大きなチャレンジに拍手を送りたいと思います。まずは、登録おめでとうございます。日本とモンゴルとの間の商売の話は、ほとんどが日本からモンゴルへの進出や輸出に関わることだけに、日本市場への進出は本当に素晴らしいと思います。このパッケージを見た時「なんか、モンゴルで見たことあるな?メルクーリー?いや、エブリデイだったかな?」と思いました。確かに、日本語表示なのにモンゴルで作っているうどんとあった記憶があります。残念ながら、まだ食べたことはありませんが。写真を見ると、ざるうどんでしかも細く切った海苔が乗ってます。もうこれは完全に日本を意識したパッケージですね。そもそもモンゴルでは冷たいうどんなんて食べないし、海苔だって使いません。商標の写真を見ると、モンゴル語でラプシャーと書かれたトレードマークだけが登録されているように見えますが、ちゃんと「ラプシャー」という名前も登録されているのでしょうね。記事の解説によると、ラプシャーとはロシア語で麺という意味だそうです。私たちに馴染みのある言い方はゴェモンですよね。ラプシャー・ゴェモンを登録したかったようですが、それは麺麺という意味になります。こういうのはよくあることで、タイのメナム川のメナムは川という意味だそうです。だから、メナム川は川川です。日本ではラプシャー・ゴェモンでは全くわからないので、ラプシャー麺で登録したとか。ただ、パッケージを見る限りではモンゴルで見るモンゴルうどんとは全く関係ない日本風ざるうどんですから、これをどうアピールするかは難しいですね。つまり、この製品ではモンゴルうどんの文化は全く伝わらないでしょうから、単に「日本風のうどんですが、モンゴルの大地で育った小麦を使っています」という程度になってしまうのかな、と。どうせなら「このモンゴルうどんは、肉うどんに良く合います」とか、なんか特徴を訴えればいいのになと思いました。もう一つ気になったのは、このパッケージを見てもせっかく登録したラプシャーうどんの文字が見えないことです。大きく「モンゴルうどん」と書かれているだけです。ただでさえ、日本人には覚えにくいラプシャーうどんというネーミングが、パッケージには書かれてないとなると、なんだかもったいない気がします。おそらく「モンゴルうどん」では登録できないでしょうね。単に地名と一般名詞を組み合わせただけでは、確か商標として認められないんじゃなかったかな?ただ、特殊な字体やマークと一緒なら取れるそうです。東京バナナは実は「東京ばな奈」で登録しているとか、神戸プリンはマークと一体で登録しているそうです。となると、今回もラプシャーを強調したければ、モンゴルうどん+ラプシャーマークを合わせた形で商標登録すべきではなかったかと思います。ま、今回はそこまで頭が回らなかったんじゃないかと推察しますけど。ちなみに、今回の記事を読んでモンゴルうどんを検索してみたら、なんとびっくり一番最初に出てきたのはモンゴルうどんのレシピーではありませんか!そして実際に見たら、もっと驚いてしまいました・・・よくまあ、こんな「嘘」のレシピーを堂々と載せられるなと思いました。すいません、嘘って言い切ってしまっておしかりを受けそうです。もちろん、私が本物のモンゴルうどんのレシピーを知るはずもないのに、言い切ってしまったんですが。その理由は、スープにあります。まずは鶏がらスープ。モンゴルでは鶏は伝統的な食べ物ではなく、スープに使うことはありません。が、百歩譲って、肉のスープということにしましょう。次に入れるのがなんと干しエビです。は?干しエビ?エビはモンゴルでは「虫の一種」と見られ、その名も虫の何とかというほどで、伝統的にはそれを食する人はまずいません。そもそも海のものである干しエビは料理には使いません。更に、更に驚いたのが、ぬぁんとナンプラーです。私がこのレシピーの名前がモンゴルうどんでは「嘘」と言い切った決定的要因が、このナンプラーです。そうです、魚醤です。タイではナンプラーと呼ばれ、ベトナムではニュックマムと呼ばれる、あれです。そんなのがモンゴルうどんに入ってるわけないじゃないですか!私はこの方のレシピーを否定しているのではありません。きっとおいしいのでしょう。でも、なんで鶏がらスープ+干しエビ+ナンプラーがモンゴルうどんになるのか、さっぱりわかりません。ホント、この製作者に聞いてみたいですね。とにもかくにも、このモンゴルうどん(ラプシャー麺)が日本市場で成功することを祈っています。
2015.01.28
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この後、モンゴルのもっと生活部分を見てみたくて、いろいろ試してみました。「銀行口座って簡単に作れるの?」と友人のBさんに聞くと「多分、すぐできるんじゃないですか?」と言われました。以前、Bさんがモンゴルの預金金利は15%だと聞いてびっくりした覚えがあります。本来は、「金利が高い国はその分貨幣価値が落ちて結局は金利の高い部分と為替の下落部分が相殺されて同じになってしまう」という金利平価説なる考え方で考えると、それほど魅力的ではないはずです。ですが、6年前に来た時から、対円レートは大して変わってないような気がしたので、お得なのかなーとも思ってみたりです。結局、銀行口座は試しに作りましたが、預け入れは1000円分程度だけのお試し預金でした。ちなみに連絡先は友人のBさんにしてます。彼がいなければ、とても開設は無理だったでしょうね。とあるマンションのリビングです。郊外のゲルとは違って、ウランバートル市内の生活はあまり日本とは変わらないようですね。この日は、この後スーパー見学したり、銀行行ったり、不動産会社の人と話したり、かなり生活に密着した部分について見聞きしました。どこへ行っても感じたのが、「生活水準は低くないな」ということです。多分、一人当たりGDPというのは遊牧民も含めた平均値でしかなく、遊牧民は自給自足が多いのでデータとしては出てこないからなのだろうと思いました。ですが、インフラはさすがに貧弱だなと思いました。市内であるにもかかわらず、道路は凸凹、歩道は歩きにくい、少しでも雨が降ると水はけが悪いなど、楽しく散歩する気になれません。あと、緑が少ないです。草原にできた都市なので仕方ないかもしれませんが、なんとなく殺伐とした雰囲気を感じてしまいます。 友人のBさんがこの春に設立した会社のオフィスがあるビルです。小さなビルにオフィスがあるというのは、ヨーロッパによくあるパターンで、ちょっと似てるなと思いました。街の雰囲気は、アジアというよりは東欧に近いような気がしました。これもソ連時代の影響でしょうが、街全体が「明るく活動的という雰囲気」は伝わってきません。夕方になると、ヨーロッパの如くオープンパブのようなものがいくつも出て、多くの人がビールを楽しんでいました。お店での西洋人比率は結構高く、3-4組に1組はヨーロッパ人という感じです。モンゴル人は、ビジネスっぽい男性かおしゃべり好きなOL風というのは、日本と同じです。外国からのビジネスマンの中では、韓国人が一番多いように思えました。ですから、焼肉屋さんも結構あり、カラオケ屋も韓国語の歌が中心だと聞きました。ちょっと疲れたので、足裏マッサージに行ったのですが、やはりそこも韓国人の経営のようでした。ベトナムの足裏マッサージと比べてどうか?1に笑顔、2に力でしょうか?ベトナムをはじめとする東南アジアでは、大体愛想が良くにこにこしている人が多いですが、モンゴルではあまり愛想を振りまいてはくれません。黙々と足を揉むだけです。但し、パワーはすごいです。小柄な女性のどこにそんな力らがあるのかと思うほどです。一緒に行ったBさんは「モンゴルのマッサージは手加減を知らないのかなあ?」と嘆いてました。凝りがひどい私には、結構気持ち良かったですけど。ちなみに料金は1700円くらいと、あんまり安くはなかったです。中国なら400円、タイでも1000円以下でしょう。ベトナムは日本人向けは15ドルだから同じくらいだったかな?ですが、客は日本人や韓国人ではなく、地元の人、特に女性が多かったように思います。24時間ミニスーパー(コンビニみたいなもの)もあり、生活様式はどんどん先進国的になっていくような気がしました。小さな24時間スーパーの店内です。中央に黄色い「ラーマ」のマーガリンが見えます。欧州系であるユニリバーは、モンゴルへもしっかり進出しています。日系の食品はほとんど見ません。外国の食品は、中国、韓国そしてヨーロッパが多いです。日本食はちょっと足りないかも。(完)
2015.01.26
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年6月付け「ウランバートル徒然日記」(大学と生活)という題名の記事です。 着いた翌日、モンゴル国立大学の経済学部長さんと会いました。会う前に、ちょっとモンゴルの教育事情を調べてみました。まず、驚いたのは大学進学率の高さです。正確な数字はよくわかりませんが、50%は優に超えているようです。女性に限ると、70%くらいというデータもあります。大学の数も多く、なんと170もあるんだそうです!!新潟県と同じような人口で、大学数が10倍というのは確かにすごいです。しかも留学に出る比率がこれまた高い。これはソ連社会主義時代から続いているそうで、ソ連の援助でソ連や東欧各国へ留学させていたそうです。私の友人のBさんは日本留学、彼のお父さんはモスクワ、お母さんはドイツ、妹さんはベルギー、弟さんはドイツへ留学したそうです。実際、この地で会う人の多くが留学経験をしているのに驚きました。言葉も英語、ロシア語は皆話せる感じで、日本語もかなり勉強の対象になってるなと感じました。私が日本人とわかると、レストランの店員さんも日本語で話しかけてきました。日本語は英語の次に人気外国語のようで、今ではロシア語はかなりマイナーになってしまってるようです。非常に親日的な雰囲気の国です。モンゴル国立大学は12学部から成り立っていますが、この校舎は経済学部のものです。学部長さんにいろいろ話を聞きました。日本への留学経験もあるということで、日本語はペラペラ。日本語を話せるとは思ってなかったので、ちょっとびっくりです。博士課程は慶応大学で学んだそうです。モンゴルの東大といわれるところですから法学部が強いんだろうなと思いましたが、モンゴルでは法学部より経済学部の方が人気もあり、学内での発言力が強いのだそうです。実際、12も学部があるのに、学生の3分の1が経済学部だとも言ってました。私が「法学部に魅力がないのは、まだ法律が十分に機能してないからではないですか?」と聞くと、苦笑いされていました。モンゴルは、幹部クラスのビジネスマンが皆若いのに驚きます。でも、よく考えるとそれも当然で、民主化したのが1992年であり、それまでの国有企業は民営化され、経営者も交代しています。現在多くの分野で活躍している新興財閥はここ10-15年で急成長したところばかりです。50歳代以降は、旧社会主義の中での国有企業経営しか知りませんから、結果として世代交代が早まったのでしょう。日本でいえば、明治維新みたいなもので、いつまでも江戸時代から抜けれないシニア層はどんどん淘汰されていったのでしょう。この学部長さんもなんと37歳で学部長に就任したそうです。東大がどうなっているかは全然知りませんが、37歳では教授にもなれず、せいぜい準教授か講師なのではないでしょうか?ですから、考え方もオープンで視野も広いです。彼は笑いながら「昔ながらの社会主義の延長みたいな老教授はまだいますよ。定年までは辞めさせるわけにもいきませんからね。でも、意思決定は新しい考え方でやっているので、大きな障害にはなりません。」と言ってました。この学部長は人望もあるそうで、最近行われた学長選挙では第1位に選ばれたそうです。ですが、モンゴル国立大学の学長は政治家の任命らしく「さあ、どうなるかわかりませんね。私は面倒なことはやりたくないんですけど。」と言ってました。聞いてると、日銀総裁人事みたいに、政治のおもちゃにされる可能性もあるんだなと感じました。(続く)
2015.01.25
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ちょっと中古車屋さんを覘いてみました。そこにはアメリカ専用車がたくさん並んでました。左2台はトヨタのアメリカ専用の大型SUVセコイアです。右はフォルクスワーゲンのトゥアレグです。SUVが中心ですが、乗用車も売ってました。手前右からベンツのSUV・ML、レクサスLS、BMWX5、ランクル、レクサスLXと続きます。レクサスの一番高いセダン(セルシオの後継車)はかなり市内で走っているのを見かけました。金持ちには、市内はレクサスLS、郊外へはレンジローバーと乗り分けるのが人気だそうです。SUVにとってモンゴルの厳しい道路環境は、シティ派乗用車ベースの「なんちゃってSUV」か「本格的オフローダー」かのリトマス試験紙のような国です。こちらは、圧倒的にアメリカからの中古車が多いので、どれが人気かはメーカーのプロモーションよりは口コミが強いです。地元の人に聞きました。「どれなら、モンゴルの草原を走れる?」トヨタ(レクサス)のハリアー(RX)はもちろんだめ。日産ムラーノはスタイルがいいので人気だけど、田舎には行けない。インフィニティFX(アメリカやロシアで大人気)も近年人気ですが、やはり街乗り専用。BMWのX5、X3もよく見ますが、これも田舎は無理。ホンダのパイロット(アメリカ専用車)も無理。アウディQ7もフォルクスワーゲンのトゥアレグもだめ。「ダメって、具体的にどういう意味?」と聞くと、「壊れるということ」と言ってました。確かに、以前ゴビ砂漠を走った時はローバーの110でしたが、道なき道数百キロを時速7-80Kmで走るので、乗用車ベースの車では一発でシャーシがいかれるなと思いました。じゃあ、どれならいいのか?一番に出てくるのは言うまでもなくランドクルーザーです。レクサスのLXも含みます。これはもうイメージとかではなく、この地に住む人たちの「実感値」なのでしょう。「とにかく丈夫で壊れない」と言います。パジェロも大丈夫だそうです。あとは、日本車のトラックベースの車です。上記のトヨタ・セコイア、日産ではエクステラ、インフィニティQXなどのアメリカ専用車も大丈夫と言ってました。ちなみに韓国系は論外だそうです。街乗りとしてはいいけど、草原は無理だそうです。ちなみに友人はお母さんの日産エクステラを借りて乗ってました。現在、アメリカに注文したレクサスLX(もちろん中古)が届くのを待っているそうです。値段の相場を聞くと、ランドクルーザー100の場合6年から8年落ち(2002年から2000年モデル)の6万キロから15万キロほどの走行距離でやっと4万ドル(440万円)を切り、3万5千ー3万8千ドルレベルだそうです。高いな~、というのが印象です。でも、日本の中古車検索をしてもやはりそのくらいでした。国際商品である「中古のランクル」は、世界各地から引っ張りだこなので、6年以上たってもなかなか値落ちしないのでしょう。これより年式が新しければ当然高く、4-6万ドルくらいだそうです。日本車で高かったのはインフィニティFXで、やはり4万5千ドルくらいでした。もちろん、すべて中古車です。繰り返しますが、一人当たりGDPが1400ドル(16万円)の国で、なんでこんなに値の張るランクルが売れるのか不思議です。私の田舎新潟も雪は降りますが、こんなに走ってません。コンパクトカー、ミニバンそして軽自動車(4駆が多い)がほとんどです。不思議な構図です。統計だけでは見えてこない途上国の実態が少し見えるようでした。(完)
2015.01.24
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。今回は2008年6月付け「ウランバートル徒然日記」(ウランバートル・クルマ事情)という題名の記事です。ウランバートルに着いて感じたのは、車が多様化してるな、ということです。以前のブログ、「あのマーク2・3兄弟はどこへ消えた?」にもあるように、2年前は乗用車市場ではマーク2・3兄弟が「笑っちゃうくらい」多かったです。もちろん、すべて日本からの中古車輸入です。SUVは、ほとんどランドクルーザーかパジェロでした。ですが、現在の様相はその当時とかなり異なっています。まず、乗用車ですが、相変わらずマーク2の3兄弟は多いですが、さすがに以前のように乗用車の「7-8割」ということはありません。どんどん多様化していました。日本で6-7年前によく走っていた車が多いです。まだ健在のクレスタです。日本でチェイサーもクレスタも消滅したので、当然ですがこの地での台数も減ってきています。なんとなく6-7年前の日本を見ているようでした。ヴィッツ、イプサム、ティーダなどの比較的小さい車が増えてました。運転している人を見ると、若い女性や普通の「お兄さん」って感じの人が多いです。価格は現地ベースで50万円前後というところでしょう。日本なら軽自動車というところでしょうか。日本からの中古輸入のヴィッツです。日本でのマーク2系の販売激減を受けて、中古車発生も相当減ったのだろうと思います。その代り、日本で人気のコンパクトカーをこちらでも見ました。タクシーは相変わらず韓国車が多いですが、自家用車は今も日本の中古車が多いように思えました。ベトナムはバイクが多く、普通のお勤めの「OLさん」が車を運転している光景はありませんでしたが、ここウランバートルでは、バイクは皆無(冬は寒くて使い物にならない)ですが、一人当たりGDPが日本の20分の1の国とは思えないほど、普通に皆車に乗ってます。もっと変わったのがSUVです。モンゴルのような土地は、郊外へ行けば草原が多く、道なき道を走ることも多いです。ですので、以前も今もSUVが非常に多いのは同じです。写真を見ると、2台に1台くらいがSUVであるのがわかります。ただ、この写真の中ではほとんどがランドクルーザーです。写真のバックには、横浜のホテルのような扇型のビルが建っています。以前はランドクルーザーとパジェロばかりでしたが、今はそれも多様化しています。しかも大型SUVがどんどん増えてます。アウディQ7です。日本でもあまり見かけませんが、結構走ってました。この写真、画面全体に「白い粒々」が多く、写真が「失敗」したように見えますが、これらはすべて樹木の花粉だそうです。粒が大きいのにはびっくりしました。でも、花粉症の人はいないようです。私も大丈夫でした。(続く)
2015.01.23
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年6月付け「ウランバートル徒然日記」(仁川経由)という題名の記事です。久しぶりにモンゴルのウランバートルへ向かうことになりました。前回のモンゴル訪問はゴビ砂漠まで足を伸ばしましたが、今回はウランバートル市内で3泊4日と短い滞在です。(実質は中2日です)先日のベトナムもそうでしたが、新興国は人の往来が多いのでしょうか、なかなか飛行機が取れません。私の方で予定変更をしたこともありますが、それでも1カ月以上前の予約変更でした。一旦は成田からの直行便が取れたものの、予定を変更したら直行便は無理とのこと。ソウル経由なら取れると。じゃあ、お願いしますというと、申し訳なさそうに往路はソウルでトランジットに2時間待ちだけですが、復路は聞いたこともないとんでもない日程でした。ウランバートルを夜の11時20分に出て、ソウルに朝(夜中)の3時20分に到着。そこからの東京行きがなかなか取れず、午前11時15分発しかないというのです。「えーーっ!だったら、ソウルで8時間もあるんですか?しかも、真夜中に!」「お店とかなんかやってるんですか?」と聞いても「多分、閉まってるでしょうね」としか返ってきません。4時間程度のフライトのモンゴルが、NYよりも遠いなんて!!「冗談じゃない、他の飛行機会社にします」と言いたいところですが、もちろん選択肢はありません。そもそも、私が予定変更をしてしまったわけで、ウランバートルでのアポイントをまさか2度も私の都合で変更するわけにもいかず結局は「はい、よろしくお願いします」としか言えませんでした。なんだか疲れそうな旅になりそうです。久しぶりのソウル・仁川(インチョン)国際空港でした。今まで訪れても空港そのものをじっくり見たことがなかったので、今回は新鮮な気持ちで「見学」しました。最初の感想は「賑やかだなー。まるでショッピングセンターのようだ。」です。とにかく人が多く、しかも単なる移動や空港の待ち合わせという感じではなく「ショッピング」という人が多かったです。現に、お店の多くには買い物客が多かったです。これは全て出国手続き後の空港内側ですから、驚きです。成田はどうだったかな、と思い出しました。チェックイン前であれば確かに結構なお店はありますが、出国手続き後は化粧品やお酒の免税店がいくつかある程度で、「ショッピングセンターみたい」という感覚は全然ないです。なんでこんなに違うのだろうと思ったら、やっぱりトランジット客(乗り換え客)の差だろうなと思いました。アジアのハブを狙うだけあって、単なる乗り降りするだけの空港とは全く違うなと思いました。そういう意識でもう一度眺めると、成田とは比べ物にならないです。人々の顔触れも国際色豊かで、いろんな人種の人で溢れてました。成田は・・・単に日本を出入りするだけの空港にしか思えません。なるほど、国家戦略の差は、こういうところに現れるんだなと思いました。実際にソウルからウランバートル行きの飛行機に乗り込むと、それを一層実感しました。私は今回がモンゴル4回目ですが、今まではずっと成田からの直行便でした。その時の客のほとんどは日本人で、一部お相撲さんや留学生らしきモンゴル人がいる程度でした。ですが、ソウルからの便は全然違います。ざっと見て、アジア人が6-7割でしょうか。残りは、欧米人や中東、アフリカなど様々でした。実際、ウランバートルでは白人(ほとんど欧州人)やアラビア系の人をよく見ました。この人たちは、ソウルをハブにして行ってるんだと思いました。便数も成田からは週に3便ですが、ソウルからは毎日です。アジア以外の人たちにとって、ハブはやはり仁川空港なのでしょう。成田は明らかに、日本人向けのローカル空港だなと思いました。
2015.01.22
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年5月付け「モンゴル徒然日記(最終章)」という題名の記事です。1週間余りのモンゴルゴビ砂漠の旅もいよいよ終わりに近づいてきました。モルツォク砂丘に行った日に泊まったのもやはりゲルです。その夜に見た星空は忘れられないものになりました。今まで星空で一番きれいだと思ったのは、沖縄の離島の小浜島で見た星空でした。何もない小島で、夜にはお店もやってませんから周囲は真っ暗で、ものすごい数の星でした。プールサイドにあるようなパイプベッドみたいなのに寝そべって見てるだけで、全然飽きないし、それは美しい光景でした。ですが、ゴビで見た夜空はそれとは全然違うレベルでした。星星星・・・星だらけ。人工的なプラネタリウムよりももっと多い!天の河みたいなのがいくつもあって、感動を覚えるような光景でした。でも、私の写真技術はそれを撮影できるレベルではなく、ちょっと挑戦してみましたが、単に真黒な写真を撮っただけでした。私たちが止まったゲルです。隣には2-3のゲルに、ドイツ人?北欧人?と思われる中年くらいの女性陣が多かったです。これは食事をするレストラン。おいしかったです。さあ、帰るぞと支度をすると、運転手さんがローバーの点検をしていました。力強いランドローバーディフェンダー110のエンジンです。粘りのあるディーゼルエンジンです。帰ろうとしたら、ゲルの向こうで何やら車が集まっています。午前中からなんだろうと思っていたら、狩りから帰ってくる人たちでした。ここでいう狩りとは、狼狩りです。狼を狙うときは、早朝に出かけるのだそうです。車は何とレクサスLX!(ランドクルーザーの高級版)アメリカからの中古輸入でしょうが、当地では5-600万円はしそうな超高級車です。どうもお金持ちの狩りのようです。車をよく見ると、屋根に獲物が乗っていました。獲物の狼は、屋根に乗せて運んでます。カメラを向けると、こちら側に顔を見せてくれました。帰り道、遠くから大きな黒い影が草原の上に見えました。近づいて見ると、なんと鳥が立ってました。あまりの大きさに驚きました。幼稚園児くらいの子供が立っているかのような大きさでした。遠くに見えた影が、小さな子供くらいはあろうかという大きな鳥でした。さすがに、もっと近づこうとすると飛んで行ってしまいました。が、しばらくは付近を飛び回っており、幅3メートルもあろうかという羽を広げていました。野生の大型の猛禽類は、見ていて絵になります。いよいよウランバートルへ旅立つダランザドガド空港です。デジタルとは無縁の体重計みたいなのでスーツケースを図ってます。モンゴルは知れば知るほど奥が深く、また訪れたいなと思いました。
2015.01.19
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このブログでも時々取り上げているトゥグルグの動向ですが、ここにきてまた対ドルで下落の様相を見せています。しかも加速化しています。手元の資料を見ると、先月24日頃から1ドル=1880トゥグルグ台に乗せた相場は、その後2週間かかって1890トゥグルグ台になりました。2週間もかかって10トゥグルグ下落したわけですが、その後は1890トゥグルグ台はわずか1日で通過し、1900トゥグルグ台になりました。その大台もこれまたわずか1日で通過し、翌日には1910トゥグルグ台になりました。それが1月7日です。そしてまたまたわずか1日でそれも通過し、1920トゥグルグ台に達しました。それまで10トゥグルグ下がるのに2週間もかかっていたのと比べると、下落が加速している感じです。その1920トゥグルグ台でしばらく落ち着くと思ったら、それも5日で通過し、簡単に1930トゥグルグ台になりました。今日現在で1930トゥグルグ台の3日目ですが、それも1939.5トゥグルグですので、1940トゥグルグ台に突入するのは時間の問題だと思います。こんな調子で行ったら、ツァガンサルの頃には本当に1ドル=2000トゥグルグになってしまうかもしれません。もっともモンゴル企業の多くは、昨年末の時点で予算ベースで1ドル=2000トゥグルグとしているところも多く、年明け以降は2100トゥグルグと見立てているところもありますから、これだけ下落を続けても「予想の範囲内」ということだと思います。とはいえ、予想の範囲内ということと、だからトゥグルグ安対策は万全だということとは別問題です。これだけ需要が悪くなっている中、ほとんどの輸入品(ほとんどの原材料、消費財)が値上がりをする羽目になっているので、まさに悪循環に陥っているところでしょう。政権も変わったし、対外政策も変わりつつある(?)し、TTの入札も終わった(本当に?)し、OTも日本向け輸出も始まりつつある、などの多くの材料がありながら、今も変わらず下落を続けているのはやはり「なるほど、これでモンゴルは大丈夫!」という実感と言うか、実態がまだ伴っていないからでしょう。伴わないという言い方には、時間がたてばわかってくるのか?という疑問もわきます。ですが、その答えは「不明」としか言いようがありません。なぜなら、今までもモンゴル政府は「外資法が変わって、もう大丈夫、安心ですよ」とか「OT問題の解決は近い」などと言ってきましたが、現実的にはその通りにはなっていません。そんな中でもウランバートル市の都市計画や再開発プロジェクトは次々と立ち上がっています。「次々と立ち上がっているということは、先が見えてきて順調に進むのか?」と言えるかどうかは別物です。この国の場合、国でも自治体でも民間企業でも日本のように「予算(資金調達)が固まったから始める」という習慣はなく、「とりあえず始めちゃえ」的な事業が多いのです。それゆえ、資金がなくなると突然工事がストップし、そのまま野放しになるというのはモンゴルではお馴染みの光景です。私が知る民間企業の建設工事でも「早く、早く!何やってんだ!これだから日本人はなんでも遅いと言われるんだ!!」と強烈に急かされた案件でも、結局はその年には着工できず、なんてことがありました。じゃあ、翌年は春からスタートダッシュか?と思っていたら、それもなく、夏が過ぎ、秋になり・・・あれ?あのプロジェクトはもう死んだのかな?と思っていても、モンゴル企業はやる気満々で「来年は必ず・・・」と言ってました。が、最後の言葉は「準備はOK。あとは資金だけ」って、それが最初からのネックだったんじゃないかって思うのですが、まあそんなもんです。これでもモンゴルの上位企業の実態ですから、他は推して知るべしなのかもしれません。ま、モンゴルに住んでおられる方々からすれば「そんな話、どこにでも転がっているよ」って思うでしょうね。こういう話しは民間企業だけではありません。というか、政府関係も「予算や計画は作るけど、具体的な資金調達は別の話」というのが多いです。ですから、地下鉄にしろ高速道路にしろ話だけは何年も前からありますが、一向に具体的なプロジェクトにはならないケースが多いのです。公共事業で大きな話をしたい政治家の気持ちはわかりますので、それはご愛嬌でいいでしょうが、対外的な約束や契約はきちんと守ってもらいたいものです。そうしないと、ズルズルと通貨は下落し、困るのは一般庶民なんですから。
2015.01.16
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。今回は2008年4月付け「モンゴル徒然日記(モルツォク砂丘)」という題名の記事です。ゴビ砂漠は、今までご覧いただいたとおり日本人が思い描くサハラ砂漠のような「一面見渡す限りどこまでも砂の丘が続く」という光景はほとんどなく、草原に近いイメージです。背の高い木々はほとんどないですが、植物が全くないという場所もあまりありません。その中でもこのムルツォク砂丘はいかにも砂漠といった数少ない場所です。草原の中に砂丘が出現した、というイメージの方が近いです。砂丘を草原から見ると、手前が草原、次に砂丘、そしてその向こうが山々です。遠くから見ると近そうに見えるのですが、結構距離はありました。砂丘側から見ると、草原の様子がよくわかります。草原には馬が放牧され、向こうに見えるゲルはこの付近でラクダを観光客に乗せている一家のものです。ローバーは、砂丘のふもとまで進みました。そこで車を降りて、登ってみることにしました。登ってみると、これが結構気持ちいいです。近づくと、砂の皺(?)というのでしょうか、風でできた模様が奇麗でした。砂丘の皺(?)です。足跡一つない砂丘を歩くのは楽しいです。私の友人は、どんどん砂の山を登って行きました。遠くに見える「点」が友人のBさんです。登るのが速いので驚きました。遠くから見ると何もない砂丘ですが、現地に行ってみると花は咲いてるし、動物の骨は落ちてるし、野性味を感じました。砂丘に咲く、一輪の花です。鮮やかなオレンジ色でした。砂丘を歩いていると、自分の姿が大きな影になって見えました。自分の影です。砂丘の表面はいろんな表情を見せてくれました。
2015.01.13
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リオ・ティエントと交渉が長引いていると見られているOT(オユ・トルゴイ)ですが、日系企業との契約に動き出したとの報道がありました。これが今後の明るいニュースにつながることを期待しています。そもそもOTとは何か、から思い出してみましょう。OTはゴビにある巨大鉱山で、主に金や銅の産出が期待されています。一般には、推定埋蔵量は世界第3位とも言われるほど巨大で、予定通りに開発が進めば2020年にはモンゴルのGDPの30%を占めると言われているほどです。つまりモンゴルのGDPを30%も押し上げる推進力になるほどの鉱山ということで、世界的にも注目されています。リオ(のカナダの子会社)が持つ権益は66%で残りはモンゴル政府です。リオはここに62億ドルもの巨大な投資を予定しています。その初出荷は、2013年6月に行われ、順調に生産が増大すると期待されていました。まずは露天掘りから始まり、その後は地下深くを掘り進める坑内掘りも計画されています。そこにいろんな問題が生じて、先行き不透明になりつつあったのです。一つ目は、モンゴル政府ととの交渉が頓挫したことです。原因はいろいろ言われていますが、簡単に言えばモンゴル政府が後出しじゃんけんでイチャモンをつけたという表現が一番わかりやすいでしょう。要するに、「なんか結構儲かりそうやんか。ならもっとモンゴル側にもお金をくれ」ってもんです。そこに悪名高き外資法なども絡んで、モンゴル側的には「契約なんてくそくらえ。本気出せばなんでもできるんだぞ!」と脅したようなもんです。更に、追い打ちをかけるように、リオとの交渉中に「リオが支払われるべき税金が払われてない」との税金徴収問題まで出てきました。私はもちろん、本当の交渉の中身などは知りませんが、世界的に経験豊富なリオが穴が開いたような契約をしているはずはないと思い関係者に聞いてみると、案の定「契約書が不備だというのではなく、単にモンゴル政府がもっと要求している」だけのことだとのことです。いやー、モンゴルらしいですね。国際的な契約なんかどっちでもいい、とにかくもっと銭よこせってなもんです。彼らとしては「前にお金もらったのは人民党やないか。我々民主党は全然もらってないぞ。こっちにもちゃんとくれなあかんで!」ってロジックらしいのです。うーむ、こういうお金の交渉ごとの会話はなぜか関西弁の方がフィットしますね。リオとしては、契約通りにやろうとしてるのに、突然の言いがかりをつけられ「このままでは、とても地下開発への投資なんかできんわい」と思ったようで、両者のにらみ合いが続き、リオ側からの追加投資もストップしたというわけです。当初強気だったモンゴル政府も、リオへの対応や外資法などの問題が多くの投資家の不安を扇いだ結果、外国からの投資がストップしてしまい、外貨不足問題へとまずい結果になってしまったとようやく気付いたのです。子供でもわかるような理屈ですが、モンゴル政府は実際にそうならないと「みんなモンゴルに投資したくてしょうがない奴らばかり」と能天気に構えていたので、そうなってやっと「あれま、これやばいんじゃないの?」とわかったようです。リオとの交渉はどうなっているか未だわかりません。当初は、2014年9月までにはまとまると言われてましたが、それはなし。その後は、2014年内にはまとまるとも言われてましたが、それも延期されました。そんな中での三菱マテリアルの試験購入のニュースがありました。銅5000トンをシベリア鉄道、ウラジオストック経由で日本へ輸入したというのです。輸送担当は三井物産だそうです。報道によると、三菱マテリアルは年間100万トンの銅精鉱を輸入しているとのことで、これを機会に調達先の多様化としてモンゴルから輸入することを検討しているそうです。100万トンの需要というのはすごいですね。それに対して5000トンですから、たったの0.5%です。来年のOTの生産は19万5千トンが予定され、2020年には45万トンもの銅が生産されるのだそうです。OTもすごいですが、三菱マテリアルの輸入量も最盛期のOT2つ分以上ですから、相当な需要家といえます。今までは、OTで生産されたほぼ全量は中国向けでしたから、モンゴルにとっても非中国向け供給先の存在は大きいですね。三菱マテリアルの需要の5%でも10%でも供給できれば、OTのかなり大きな部分を輸出できそうです。リオとモンゴル政府の関係がどうなっているのかはわかりませんが、日本向けの試験出荷をしているということは、リオは将来に向けて明るい見通しを持っていることではないかと、楽観的に拝察します。リオがモンゴル政府との交渉に成功して、中国以外への供給も増やすことができたら、それを見た外国人投資家たちは再びモンゴルに戻ってくるかもしれません。日本向けの本格輸出が早く始まることを期待します。
2015.01.10
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年4月付け「モンゴル徒然日記(トゥンゲネー渓谷)」という題名の記事です。今日は朝早めに出発し、野生動物を見に行こうとなりました。当初のイメージは、そこら中に野生の動物がいるのではないかと期待していましたが、もうそんな光景はここ20-30年は見られなくなったそうです。やはり人間による乱獲で、極端に数が少なくなったそうです。また、多くの大型野生動物は人間を恐れるようになり、滅多なことではその辺の草原には表れないそうです。今回は、朝には比較的野生動物がみられると言われるトゥンゲネー渓谷を訪れました。でも、車で走っていては野生動物は出てきませんので、車は後からくることにしてもらって、歩いて行きました。渓谷に入ったところで、ローバーとはお別れです。写真のドライバーは、ゴビの地を知り尽くしているウランバートルから来ているベテランドライバーです。しばらく歩いて行くと、何やら原始時代か恐竜映画にでも出そうな景色が続きましたが、険しく高い渓谷の間は車も通れるようないい散歩道でした。カメラ片手に、渓谷を歩く友人Bさんです。彼が言うには、この辺には野生のガゼルが見られるとのこと。ですが、谷間に降りてくることはなく、人間が来ると山の上から興味深そうに「人間が来たのかな?」と見下ろしに来るのだそうです。「歩くときは、渓谷の上を見て探してください」と言われずっと見てました。が、全然わかりません。すると彼が「あ、いました。右の山の上です。見えますか?」と言いました。ですが、全然見えません。彼とは視力が全く違うので、彼が指さす方向には何も見えません。ですが、こちらは文明の利器、カメラがあります。カメラのファインダー越しに望遠を目いっぱい大きくすると、なんかいるようないないような。とにかくシャッターを押してしまえ、と撮ってみて、後で見ると数頭がこちらを見ていました。山の上からこちらを見ているガゼルたち。肉眼では全く見えませんでした。言われて凝視してもよくわかりませんでしたが、こうして写真にははっきりと写っていました。しばらく歩くと、今度は左に見えるといいます。これまたわかりにくかったですが、明らかに我々人間を見に来ていました。動物園と反対で、人間が見られる立場です。頭をずっと上に向けながら、約1時間ほどこの渓谷を歩きました。残念ながら「大量に」見ることはできませんでしたが、それが最近の現実だそうです。動物は、人間に乱獲されたことをどうやって子孫に伝えているのでしょうか?わずか550年ほど前は、人間のことはあまり気にせず、その辺を走り回っていたそうです。今日はこれからモルツォク砂丘近くのゲルに向かいます。ゴビ砂漠は、砂漠といってもサハラ砂漠とは違い、多くは草原です。ですが、このモルツォク砂丘は、いかにも砂漠というイメージのところだそうです。途中休憩しました。当たり前ですが、周りには何もないです。今日の宿にやってきました。ここはモルツォク砂丘から20kmほどだそうで、ここを拠点に砂丘に行きます。行ったのは10月上旬ですが、実はこれがゴビ観光のぎりぎりだそうです。10月中旬で閉まるキャンプ地が多いそうです。我々が訪れたところも、半分くらいゲルが畳まれてました。ゲルをしまうと、こんなにシンプルになってしまうのですね。移動用ですから当然ですが、ベッド、ストーブ、骨格とフェルトくらいでできてるんですね。キャンプ地は、宿泊用のゲルとレストランのある建物がありました。半分畳んであり、半分は宿泊用に残してありました。我々はあちらに見えるゲルに泊まることになりました。一休みして、いよいよモルツォク砂丘です。
2015.01.07
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。今回は2008年2月付け「モンゴル徒然日記(バヤンザク、炎の絶壁)」という題名の記事です。バヤンザクで、私たちのランドローバーを停めた空き地に旧いラーダがありました。一時日本でも人気があった、ラーダのニーヴァよりももっと旧そうです。旧いラーダ。多分、元々はジープ同様に軍事用だったのでしょうね。バヤンザクは、1923年に米国自然史博物館の送ったロイ・チャップマン・アンドリュースらモンゴル探検隊が多くの恐竜の骨を見つけたところだそうです。更に調査したところ世界で初めて卵の入っている恐竜の巣を発見したのだそうです。恐竜たちは、何か大きな自然災害で生き埋めになったのだろうと考えられてるそうです。なので、今でも時折、豪雨などで地表面の地層が表れて骨が出てくることもあるそうです。ちょっと歩いてみましたが、残念ながら恐竜の骨には出会いませんでした。そのにしても驚くのは、今から80年も前にモンゴルへ探検隊を送ったアメリカの先見の目と底力です。1923年なんて、日本では大正時代です。この時期に、大変な金額をかけて中国ではなくほとんど誰も行ったことがないモンゴルへ探検隊を送ったのです。モンゴルで当時の貴重なビデオ(フィルム)を見ました。当然、同行したアメリカ人が撮ったのでしょう。3ヶ月もかけて、アメリカから何十台ものトラックを船で送り、中国(当時は清)経由でモンゴルへ入ったのだそうです。そして、大量の現地人(モンゴル人)を雇い、発掘作業を行って、恐竜の骨はほとんどニューヨークに持ち帰ったそうです。もちろん今は、骨や化石は国外持ち出しは禁止です。富国強兵で精一杯だった日本には、鉄鉱石や石炭を取ってくる動機はあったかもしれませんが、こういう文化的、歴史的なことを考える余裕なんて全くなかったのでしょう。このビデオを見てわかったのは、景色はほとんど変わってないのですが、当時の草原や砂漠にはおびただしい数の野生動物がいました。残念ながら、今はまず見かけることはできない光景です。わずか100年にも満たない近代で、多くの野生動物が人間の手によって滅ぼされていった証拠を見せ付けられたような気がしました。この辺の絶壁は「炎の絶壁」と呼ばれるんだそうです。景色を見ると確かに赤い土というか石が多いとは思いました。ですが、その本当の意味を知ったのは、夕方になってからです。日が沈みかけると辺り一面が赤々としてきました。なるほど、これが「炎の絶壁」なんですね。別の方向を見ると、より炎が迫ってくる感じでした。まさに「炎の絶壁」です。元々赤い絶壁を、夕日が一層赤くしているのです。しばし見とれていました。ですが、日が落ちるのも早いです。反対側を見ると、地平線に日が沈んでいくのが見えました。日本では、水平線は見れるのですが、なかなか遠くまで地平を望むことができないので、貴重な体験でした。沈み行く太陽です。まだ、明るいうちにと帰路を急ぎました。途中、ヤクの群れに出会いました。チベットでは何度も見ましたが、モンゴルでは少ないような気がしました。のんびりと草をはぐくんでいたのですが、私が車を降りて近づいていくと「なんだこいつは?」という感じで、私を観察していました。私を見るヤクです。おとなしそうなので、怖くはないんですが・・・ただ、実際に近づくと巨体に圧倒されました。北海道で見る乳牛よりは明らかにふた回りほど大きいです。私も、ある程度は近づけるのですが、急に反撃されたらどうしようなんてビビっていたら、ヤクの群れも「こんな奴に付き合ってやれない」と思ったのか、群れで移動してしまいました。移動するヤクの群れです。左に1頭だけこっちを見ているのは、よっぽど私が気になったのでしょうか?このまままっすぐ、ゲルへ向かって帰りました。やっぱり100kmくらいの行程です。明日は、野生の鹿がいるらしい渓谷を行きます。
2015.01.05
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年1月付け「モンゴル徒然日記(恐竜の故郷、バヤンザクへ)」という題名の記事です。ヨリーン・アムを後にして、バヤンザクへ向かいました。このバヤンザクというのは、世界最初に恐竜の卵が見つかったところとして知られているのだそうです。途中、例によって何もない砂漠(草原?)を走り続けました。草原でのんびりしている羊も、気のせいかウランバートル近郊(といっても、100kmとか200km圏)の羊よりも、青空の下でよりのんびりしているように見えました。もちろん見渡す限り、羊の管理人も含め人の気配は全くありません。青空の下、のんびりしている羊の集団です。草原には、羊だけではありません。ラクダの集団もいます。羊は慣れっこになってましたが、さすがに大型のラクダが悠然と集団で歩いていると迫力があります。写真を撮ろうとする私が気になって仕方がないラクダたちです。私も結構近づきましたが、友人のBさんも近づいて写真を撮りました。おとなしいのですが、やはり身体が大きいので興奮でもされると怖いだろうなって思いました。さすがに、触れる距離までは行きませんでした。ラクダに近づいて、写真を撮ってるBさんです。(モンゴル人です。カメラの腕は私と違ってセミプロ級です。)更に走り続け、ようやくバヤンザクへ到着しました。車は巨大な丘の上のようなところに停められ、あとは歩きとなりました。バヤンザクの丘陵地帯です。化石はこの丘の下へ降りて行った平原にあります。車を停めるところのすぐ近くにお土産物屋のような店がありました。店といっても露天で、置いてあるものはその辺の石ころとか、わけわからないガラクタみたいなものでした。店には大人の姿はなく、少年二人とそのお姉さんのような少女一人でした。こんな誰もいないところに(周囲数キロ?数十キロ?誰もいないように見えました)よくこんな小さな子供に店番させてるなって思いました。モンゴルの子供たちは、すぐに相撲を取りたがります。ここでも私たちの前で幼い少年二人が相撲を取り始めました。相撲を取る少年二人です。かなり長いこと、何度も何度もやってました。しまいには、私の友人Bさんにも挑んでいました。その様子を一歩引いて、陰から心配そうに見ていたのがお姉さんです。まるで星飛雄馬の姉「明子」のしぐさにそっくりでした。とても優しそうな眼差しで弟たちを見てました。ここから少し恐竜の化石でも探しに歩いてみることにします。
2015.01.04
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新年はふる里新潟で迎えました。去年のブログを見たら、同じように書いていました。去年は高校の同期会に出ましたが、今年は中学の同期会に出ました。学年3クラスしかない小さな学校でしたので集まったのは30人余りでしたが、懐かしい面々と会えてよかったです。現住所が新潟である人の比率は約6割と、やはり地元に残っている人の方が多いことがわかります。これが多いか少ないか?若い人たちは地元志向が高まっているとも聞きますので、今後はこの比率はもっと上がっていくのかもしれません。日本海側特有の冬の低い鉛色の空を見ていると、気持ちまでどんよりしそうですが、年に1度でも訪れることができることがふる里があるというのは、ありがたいことです。モンゴルはもちろん、東京と比べても景色の変化に乏しい街ですが、そこで暮らす人々は確実に入れ替わっていることも実感しました。今年も平和に楽しく過ごせますように。
2015.01.03
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