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2023/4/20 Wuhan/China長い旅路の後にたどりついた武漢。長江の岸辺にある、少し名前がいかつい街。そういえば、こういう写真を若い頃によく撮ってたよなあ。そんな想いを抱えながらスマホを横に向けてみる。まもなく始まる、クライアントとの会食。あの頃とは比べものにならない役割とか責任とか、言葉にならないいろんなものを背負って、ここに来ていた。当時のような情緒に浸れる時間はなかったけれどいつまでもこの感覚は忘れたくないよな、そう川に語りかけて、会食に向かった。
2023年04月26日
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九十九里浜。それは成東の東にある。 道中のロケバスの中で、不意にその意味に気づく。 そこには、13年前の夏、 病院の窓から仰いだ空があった。 やりたいことが見つかったら、 叫ぶと約束した空があった。 そうやって叫べないままに、 今日を迎えた自分もいた。 上司を喪った、24歳の夏。 あの夏は、あまりにも衝動的で、 あまりにも儚かった。 13年の月日を経て 会社人生最大のプロジェクトを引っさげて この空の下に戻ってきたことには、きっと意味がある。 砂浜に打ち寄せる波を見つめながら、 自答してみる。 寄せては打ち返す波は、旅立った彼の地でも見た。 あの時に夢見たより、大物にはなっていない。 けれど、大切な人ができて、 その人たちのために生きていたりする。 表現というモノを扱うことを、心から愛している。 いつしか、それを見定める目も持ち始めた。 あの頃はなかったデジタルの深淵な世界に触れながらも、 人生をそこに埋めたくないと抵抗もしている。 部長、13年で世界は変わり、自分も変わり、 けれど部長と向き合うきもちだけが あの日で止まっている気がします。 でも、それはもしかしたら 僕にとって幸せなことなのかもしれません。 そうやって僕は、いくつになっても この浜に来るたびに、対話できるのですから。 頭上で一羽のカモメが唐突に鳴き、 そして飛び去っていった。 さらに空高くには 離陸したばかりであろう飛行機がまっすぐな軌跡を描き 遠い国をめがけて飛び去っていくのが見えた。
2017年05月29日
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しごとで調べものをしていたら、滋賀県の隠されたヒミツにたどりついた。●人口10万人あたりの寺院数:全国1位(228.97寺)※ちなみに総数でも、全国4位(3,217寺)…5分も歩けば、必ず寺にぶつかる感覚がある。●人口1,000人あたりの田中さん人数:全国4位(17.67人)…小中高と名簿の直前にはいつも、田中さんがいた。●人口1,000人あたりの渡辺さん人数:全国41位(2.83人)…滋賀を出たあと、何度「渡辺さん」と間違えられてきたことか!●地方紙比率:圏外(0%)…テレビもラジオも新聞も、大阪か京都から届くもんだと思ってた。●人口100人あたりの精神病床数:全国46位(0.17床)●人口10万人あたりの精神科医師数:全国43位(7.54人)●男性10万人あたりの自殺者数:全国39位(29.79人)●女性10万人あたりの自殺者数:全国44位(10.59人)…精神的に思い詰めずに済むのは、母なる湖のおかげだろうか?●世帯あたりの年間パン消費量:全国2位(59,011グラム)※1位:京都府●世帯あたりの年間牛乳消費量:全国8位(97.63リットル)●世帯あたりの年間ジャム消費量:全国8位(1,461グラム)●人口10万人あたりのマクドナルド店舗数:全国1位(3.70軒)※2位:東京都…神戸から入ってきたパン食は、京都で根付いたと言われているが、 マクドナルドが根付いたのも、実は滋賀県だったということか…。●人口10万人あたりのJリーガー数:全国3位(1.56人)※1位:静岡県・2位は熊本県●高校サッカー2000年代勝率:全国6位(19勝9敗)●甲子園通算勝率:全国41位(34.15%)…残念ながら野球よりサッカー王国、滋賀県。「仏教」の上に覆い被さる、「パン食」と「サッカー」というモダン性。我がふるさとは、意外と平和なのかもしれない。
2014年08月18日
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3日目。月曜の朝。となりのベッドには、先の便で韓国に旅立った旧友の抜け殻がある。僕はまだ、一人でマカオにいた。外では車の走る音が忙しなく聞こえてくる。さっきまで見ていた「自分が死ぬ」というとんでもない夢を反芻しながら、夢と現実の間を彷徨っていた。朝の福隆新街はどこも開いておらず、粥か麺を食べようという細やかな計画は、残念ながら潰えた。それを紛らわすかのようにマクドナルドに飛び込む。マカロニの上ににソーセージと卵の乗った香港風スープを食べた。…隣の列あたりに、横一列に並ぶおばさん。顔見知りなのか、おはようと挨拶しあっている。そのうちやってきたお爺さんは、清掃係のおばさんにお金を渡した。まさかと思いながらも、ある期待を持って待っていると、案の定おばさんは朝マックを持って二階に上がってきた。まさかのセルフサービスでないマック。つくづく感じるが、ここは広東文化圏であり、基本的に自らが身を置いたクアラルンプールに、通ずるものがある。それがほんの少し、懐かしくもあった。9時を過ぎたので天主堂方面にもう一度向かってみた。取り立てて物珍しいものはなかったが、もう観光客で賑わい始めていた。その後も見逃した世界遺産を追いかけながら歩いて回ったが、蒸し暑さで汗が止まらなくなり断念し、空港にタクシーで向かう。…旅はそろそろ終わる。香港に降り立った時の気分とは裏腹に、道に迷ったり、買い物ごときで困ったりした。ロスト・イン・トランスレーション。だからマカオは、こんな時代に、改めて注目され始めたのかもしれない。知らぬ間に時代に乗り遅れてしまった、という事実を背に。帰りのフライトが、満席でビジネスクラスになる。どうやら僕は、マカオのカジノで、幸運の女神を連れて帰ってきたようだ。帰りの機内で観た「ダラスバイヤーズクラブ」にも、何かを感じた。朝に見た「死ぬ夢」につながるような、何かを。自分の限界はあるようでいて、実はどこにもないのだということを。10年の旅のしめくくり。それは、次のパスポートを手にするための大切な儀式。さあ僕は、次のパスポートにどんなスタンプを押していくのだろうか。旅のしめくくりを確信するや否や、もうそんな夢想が広がりはじめていた。
2014年07月08日
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2日目。朝から雨。それを口実にワールドカップ・日本戦をマカオで観戦する。結局、2-1でコートジボワールに逆転負けを喫する… そんな事実を忘れるかのごとく、外に出る。観光からは遠くかけ離れた飲茶の後は、一日中歩き続け、押さえたい場所は押さえた。しかし、マカオは想像以上に中国で、ポルトガルが残したセンスはほぼ忘れ去られたようだった。道は簡単に迷うほど複雑。路地が針目のように張り巡らされ、広東語とポルトガル語の二重表記。英語は、ほぼ通じない。この地は想像以上に「ごく最近」デビューしたようだった。イギリスは香港に「経済」を残したが、ポルトガルが残したのは「宗教と食」と言っていい。ポルトガルの代表食材であるタラやイワシと、インドの香辛料が一皿の上で溶け合うことは、歴史的浪漫でもあった。昨日の勝利の気分から、ホテル近くのソフィテルのカジノに向かう。…結局、旧友は1,000$ほど、僕も400$ほど負けた。一枚ずつ吸い込まれていく100$札に、この世の哀愁を感じた。日々流れる時間も、人の命も、この100$札のように逆らえない何かに吸い込まれていくのだ。
2014年07月08日
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1日目。旧友の強い誘いを言い訳として、久々に旅に出ることにした。きっとこのパスポートで海外に向かうのは、これが最後になるだろう。スタンプだらけのパスポートをめくっていたら、何だか感傷的になった。成東の東を仰いだ2004年の夏から、あの中欧を駆け抜けた旅から、この10年間のしめくくり。ブダペストへは、ポーランドで寝込んだ病み上がりの朝に、夜行列車で到着した。ロサンゼルスには、TVCMの撮影で2年連続で訪れた。マレーシアの出入りを繰り返したページもある。あるいはジョグジャカルタに逃避行したこともあった。シンガポールへは、4時間運転し続けて陸路で突入したし、マレーシアから帰国した日のことは、一生忘れないだろう。シチリアのタオルミーナには豪華フェリーで乗り込んだりもした... もうそれはそれは、カオス。このパスポートは自分の人生そのもの、と呼べるのかもしれない。その意味では、既にこの旅は成功していたし、必然でもあった。あるいは、強烈な意味付けの力に支配されていたのかもしれない。そんな今、道に迷ったり、買い物ごときで困ったりはもうしない。僕はあの頃からは少し英語が話せるようになって、15年前に訪れた香港に、再び舞い戻ってきた。飛行中は、その大半を微睡みながら「メリーポピンズ」と過ごしたが、途中の気流の乱れは、15年前に体験したエアーインディアを思い出させた。香港を後にして、目的地・マカオにフェリーで到着する。港からは少し遠かったが、歩いてホテルまでたどり着く。夕方だからと言って諦めずに、すかさずホテルを飛び出す。天主堂に、ポルトガル料理、そしてカジノ。軽く勝って、勝利の美酒に酔いしれる。結局、カジノの中にあったBARで旧友と昔話に花を咲かせる。ネオンの渦巻く魔都、マカオ。その顔は昼に見せるそれよりも、妖しさを一層滲み出しているかのようだった。
2014年07月08日
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前回立ててみた「4つの法則」のうち、特に4つ目の「右脳に語りかけるビジュアル」について、奥が深いので、より深く考察をしてみたい。先の3冊の書籍のなかでは、右脳への語りかけ方についてさまざまな手法が紹介されていた。それだけこの4つ目の手法は、古今東西で研究されていてその発し方次第で世の中は大きく動いてきたということだろう。A) 信念・イメージを“解像度高く”語ること ・「第3の場所」 STARBUCKS ・「夢と魔法の王国」 DISNEY ・「MacBookにiPadが合体」 Macbook AirB) 完投詞をまじえて語ること ・「そうだ、京都、行こう。」 JR東海 ・「あ、小林製薬。」 小林製薬C) 逆説的に(対比して)語ること ・「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」 踊る大捜査線 ・「(It is springtime and) I AM BLIND.」 ロッサー・リーブスD) 五感を描写して語ること ・「息をきらしてさ かけぬけた道を」 Mr.Children / 終わりなき旅 ・「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」 坂本九 / 上を向いて歩こうE) 繰り返し語る ・「毎日毎日僕らは鉄板の~」 子門真人 / およげ!たいやきくん ・「さいたさいたチューリップの花が~」 チューリップ ・「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは明治」 明治F) 惹きつけて語る ・「マイクロソフトが抱えている問題はただひとつ...」 スティーブ・ジョブズ ・「しかしここだけの話、ワトソン君...」 シャーロックホームズの冒険G) 質問型で語る ・「4年前より暮らし向きは良くなっただろうか?」 レーガンの大統領選演説 ・「きれいなお姉さんは好きですか?」 パナソニック・美容家電シリーズ ・「hungry?」 日清・カップヌードル H) 韻を踏んで語る ・「If it doesn't fit, you must acquit.」 ジョニー・コクラン弁護士 ・「Drive Your Dreams.」 TOYOTA ・「インテル、入ってる」 Intel ・「あしたのもと、AJINOMOTO」 味の素 ・「セブンイレブン、いい気分」 セブンイレブンI) ピクサー的に(ストーリーを)語る ・「昔々…毎日…ある日…そんな訳で…そしてついに…」 ファインディング・ニモJ) 正直に語る ・「ん~っ不味い!もう一杯!」キューサイの青汁 ・「残念ながら、ドモホルンリンクルは初めての方にはお売りすることが出来ません」 ドモホルンリンクルK) 可能性(期待・煽り)で語る ・「次の総選挙は、○○がランクインするかもしれない!」 AKB総選挙 ・「一体、どうなってしまうのか!?」 ガチンコ!(TBS)
2013年09月09日
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久々に思うところがあって、更新。8月にお盆休みをはさんで、期せずとも「似たような本」を結果的に3冊連続で読むことになった。(以下、カッコ内は略称)----------------------------------------------「人を動かす、新たな3原則」ダニエル・ピンク 著 「伝え方が9割」佐々木圭一 著 「未来は言葉でつくられる」細田高広 著 ----------------------------------------------3冊のうち1冊は、「ハイ・コンセプト」著者としても有名なアメリカ人作家の著作。そして、残り2冊の著者は…なぜかいずれも博報堂出身のコピーライターのもの。アプローチは三者三様であったけれど、「人を動かすために何が必要か?」を考え続けた人たちが行き着く結論は、どうもそこまで違いがないように思えた。要するには、以下の4つということだろうか。1. 心のつながりをつくること今さらそんなことを…と思ってしまうけれど、人はどうもこれを疎かにしてしまう。「心のつながり」なしに、人は決して動かないという事実。ダニエル・ピンクはその感覚を「祖母に接するような感覚(奉仕精神)で、人と接すること」と呼び、「サーバント・リーダーシップ」なる概念も提示した。佐々木氏は、目の前の「あなた」と向き合い「あなただけに」…限定感「あなただから」…能力を認めること「ありがとう」…感謝という原動力で、相手を動機付けすることを説いた。「心のつながり」は時に、笑いや雑談、本音や弱みの吐露であったりする。プロは「本当に伝えたいこと」「必ず動かしたいもの」を前にして、ここに割くエネルギーのバランスがとてもうまい。2. 前向きな空気をまとうこと。人は「空気」にとっても敏感。負のオーラの周辺に人は寄りつかない。誰も不幸にはなりたくないから。ダニエル・ピンクはそれを「浮揚力」と呼びどれだけポジティブになれるか?という視点で語った。3. 本質的な軸(=アイデアや信念)を持つこと。ヒットが生まれたり、組織に勢いがあるとき、そこには明確な「軸(=アイデアや信念)」がある。逆に言うと、ソリッドなこの「軸」がないと、人を巻き込むことはできない。細田氏は、そんな「軸」にたどり着くための方法として「本当にそう?」→「もしも…」を繰り返すことを説き、「言葉には、そんな“まだ見ぬ軸”をカタチにする力がある」と評した。例えば、「第3の場所」 STARBUCKS「エンジニアではなく、アーティスト」 APPLE「形態展示から、行動展示へ」 旭山動物園言葉は、「今(既成概念)」を規定し、「これから(どこに向かいたいか?)」も規定できる。部活で言えば、「打倒××高校」これは、動機づけとしてはとてもわかりやすい。4. 右脳に語りかけるビジュアルをを持つこと。規定された軸(=アイデアや信念)は、ビジュアル化されればされるほど、人を動かす原動力となる。ビジュアルには心(右脳)を動かす力があり、心が動いてこそ、人は動くからだ。1. 心のつながり2. 前向きな空気3. 本質的な軸(=信念やアイデア)4. 右脳に語りかけるビジュアル1と2は、人が動く時の必須となる条件のようなもの。3と4は、世の中をよりダイナミックに動かしていく時のコツのようなもの、か。特に4の「右脳への語りかけかた」は、手法が研究されていて奥が深いので、次回より深く考察したい。
2013年09月04日
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ゴールデンウィーク最終日。大学時代の仲間と新風館で会った後に予約した新幹線まで時間ができたので、大学周辺を歩くことにした。何気なく、学生時代に住んでいた辺りを訪ねる。下宿していた田中里の前町、時計台、予備校、バイト先のバーに、御所テニスコート…色んな場所で様々な思い出が、甦っていく。結果的にこの旅全体が、自らのルーツを確認する旅となった。自分はただただ実家の束縛から解放されたくて、一人暮らしのできる京都を目指していた。一人暮らしを始めてからは、大学にもろくに行かずにバイトに明け暮れ、恋をしながらも、一生の縁となるYaYaの仲間と出会い、そんなサークルでの経験の蓄積の末に『広告』を志し、京都を後にすることになったという事実。昔の思い出と一ヶ所一ヶ所で向き合う度に埃をかぶったルーツがクリアになっていく。帰り道、こころなしか発することばに弾みを感じた。ルーツをたどるということには、そういう力があるのだろうか。心の拠り所が見えた気がした。それが宙ぶらりんになっていたから、最近落ち着かなかったのかもしれない。京都は僕が目指した街であり、後にした街。そこには色んなエッセンスが今もなお、詰まっている。
2013年05月08日
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日本に帰国して、もう一年が経っていた。その間、Facebookは目に見えるように生活の中に浸透し、生活の変化も相まって、何だか発言しにくい世の中となった。そんな中でも、人の悩みは減る訳ではない。この国を出る前とほぼ変わらない、仕事の風景。未だお茶出しと、プロジェクターのセットと、議事録を書く生活。「下積みは、いつか花咲く」と夢見て、励んでいた頃とは意味が違う。そういう年次でなくなってきたからか、単に実力が伴っていないだけか、優秀だと言われる回数もずいぶん減った。MBA留学か、外資コンサル転職か。そういう変化を、心が求めようとする。「それは、実力を伴わない現実の自分からの逃げである」と解釈もできるし、「そういう環境を与えない今は、自らが変えないといけない」と考える事もできる。そんな間にも、同期や同世代のプレイヤー達は起業やMBAに、続々と向かっていく。そんな「悶々」は、あの「青い帯のウェブサイト」とは、決して相いれない。あまりにも堪えきれなくなって、久々に赤い方に吐き出してみた。
2013年03月06日
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アメリカ合衆国。多感な時期を90年代に過ごした僕は、上の世代と比べてこの国を若干冷ややかに見ていたのかもしれない。一番であること、傲慢であることが根っから好きではなかったし、アメリカはその象徴のようにも思えた。しかし皮肉にも、マレーシアにやってきてシゴトに深くハマればハマる程にアメリカ人の影がちらつくようになった。優秀なシゴトの横には、アメリカ人がいる。彼らのプロフェッショナリズムは、とてつもない。そして彼らにはマレーシア人が屈してしまう、何とも言えない説得力のあるオーラがあった。それはにやにやしがちな日本人には持ち得ないものでもあった。あれだけ毛嫌いしていたハズなのに、いつしか僕は、この国とそこに住む人を尊敬するようになっていた。そしていつかそこでチャレンジしたい、とも。21世紀の歴史、というとある本の中で、著者は21世紀中は引き続きアメリカの時代が続く、と唱えている。だとするならば、自分が生きるこの限られた間にアメリカを知らないのは少し損な気がする。マレーシアに来て気付く、アメリカ。そういう風にして、人生のシナリオは一歩一歩進んでゆくのだろうか。
2012年01月15日
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特に、決定的な共通点があるわけではない。ただ「ウィルス」が何らかのカタチで登場するストーリーをタイミング同じく二種類追いかけることになっただけ。一方は、今現在、手にいれることのできる現実から、一縷のズレもなく、SARSとH1N1の先に起こりうる現実を描き出そうとしただけ。そこに特に飛躍はなく、「たくさん死ぬのはコワイ」という感想しか持てなかった。しかし一方でジェノサイドはどうだろうか。すべてが科学的見地からの実証が試みられており、映画が小説に接している時に最も興ざめする「ほなアホな!」を一切合切シャットアウトしようとしていた。医学、薬学、化学、物理学、生物学、社会学、歴史学、文化人類学。それにこの世を形成する政治、経済、あらゆる学問と事象が何層にも覆い重なって、頭の中がパンクしそうなくらいのリアリティで成立していた。それでいて、勇気や愛といった、小説が捨ててはならない部分にも光が当たっていた。(他が秀逸なぶん、そこの稚拙さはあったけれど)デザインと、笑いと、エモーション。ジブンが憧れるゾーン以外のところで生まれた作品として完成されたものがそこにあるからこそ、それに対してライバル視と酷評を加えたがろうとしている気もする。それは、ジブンサイドに新種が登場した時にそれを攻撃しようとする、生物的反応にも思えた。
2011年09月25日
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マレーシアに来て、3年がたった。何回か泣いたコピー機の前も自暴自棄になって、車で飛び込んでやろうかと思った森の茂みもアクセルさえ踏みこめずに、途中で車を止めてしまった帰り道の最後の坂も「そんなこともあった場所」になりつつある。会社の同僚がみな、冗談まじりに「Anything for you.」と言うようになった。一年前に、一枚の請求書を出した後あたりから、自分がつくったしごと、と言えるものが増えはじめた。誰かを守るために、戦うようになった。そろそろ、次のステップが来る頃なのかもしれない。こころの中のアンテナがそう叫んでいる気がする。
2011年07月31日
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プレゼンが終わった後、一人のクリエイティブに誘われてお茶することにした。営業がクリエイティブを大切にするのは、仕事の一つ。...なんていう、ちょっとした大義名分を心の中に持ちながら。話し始めると、飲んでいる訳でもないのに、熱い話になってきた。オレはもっと成長したい、だからこの会社に入ったんだ。マレー人は、Lazyじゃないということを身を以て示したいんだ。お前が大変そうだから、今回の仕事は頑張ろうと思ったんだ...などなど。そのうち彼が一つの言葉を持ち出した。「カルマ(業)」インド、東洋思想に大きな影響を及ぼした概念らしい。説明を聴いているうちに、「あ、因果応報のことか」と腹に落ちた。きっと彼の生きるルールは、それに則っているのだと思う。そしてそれは、同じ東洋人として共有できるものがあることを意味した。祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。特に古典マニアではないけれど、その一節を思い出さずにはいられなかった。日本から遠く離れた、このマレー半島の中腹で。
2011年05月30日
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友人へ結婚お祝いビデオメッセージを送るために、マレーシアっぽい場所で撮影を、ということで久々にローカルの市場に足を延ばした。カメラマンとしてついてきてくれた友人の勧めのままに、今が旬、とというマンゴスチンを口にする。ほどよい甘みが、口の中に染みわたった。冷やされてはいなかったけれど、暑い市場の中を歩き回った後の一口は喉の乾きさえも潤した。マレーシア3年目にして、はじめて口にする味。このフルーツの王国とも言える国に暮らしながら、僕は今まで、何をしていたのだろうか。思えば、2週間前に社員旅行で行ったコタキナバルでも似たような体験をした。透明な海、そしてその中を魚を追いかけながら、シュノーケリングする。僕にはそれが、とても遠くの世界のできごとのように思えた。紛れもない事実を前に、ずっと目をつぶってきた気がする。シゴトもできないくせに、生活なんて楽しんじゃいけないんだ、と自分に歯止めをかけてきた気持ちもある。オレは他の日本人駐在とは違うんだ、と斜めに構えて、強がっていたところもあったかもしれない。でも、この国では、紛れもなくフルーツは甘く、海は穏やかだ。そんな事実に背を向けても、何も始まらない。いいところも、悪いところも受け止めて、そこから何を始めるのか。マンゴスチンの甘さの中に感じた何かは、マレーシアとの向き合い方を変える気がした。
2011年05月30日
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もうダメだ。限界だ。広告なんてキライだ。日本に帰りたい。そう思ってから、もう2年が経った。一つの仕事を、終えた。人はそれを僕がやった仕事、という。何もないところから、ここまできた。期待も、信頼もないところ。そしてこの広告という仕事の、最も難しい理由を知った。目の前に"まだないもの"を売るということ。僕はこの仕事を、イメージを売る仕事だと思っていたけれど、描くイメージを相手に売ることは、究極的にはとてつもなく難しい。相手は僕の「経験」と「自信」と、「ほんの少しのイメージ」を買うのだ。この仕事に最も大切なその「自信」を、僕は2年前に壊してしまった。自信がないのなら、更に努力してその自信をハリボテでもつくらないといけない。クライアントと一緒になって不安になってるのなんて、プロフェッショナルじゃない。あのとき、焼け野原で呆然として、何を失ったのかさえわかっていなかった。でも今、あのとき何を失っていたかがわかる。そして何を取り返さなければならないかも。主体性、アイデンティティ、イニシアチブ、意志。それが広告を創る上での、本当の肝。それを育て、伸ばすことが、いい広告につながっていくのだ。この仕事が、僕のやった仕事かと言うと、半分はイエス、半分はノーだ。それは僕の仕事がしばしば主体的でなく、反応的であったことが心のどこかにあるからだと思う。もっと魂を込めた仕事が、過去の経験の中にあるからだと思う。それでも今回、僕の想いはチームの仲間に届いたし、だからこれだけいいクリエイティブを創ることができた。ある意味、その結果こそが、すべてを示唆しているのかもしれない。イベントではじめてTVCMが流れたとき、会場からささやかな拍手が起こった。映画でも、ミュージカルでも、コンサートでもなく、TVCMに。なんだか涙が出てきた。拍手のある仕事って、いいな。この一瞬のために、ここまで来たのかもしれない。イベントの後、尊敬する上司は、僕にこう言った。苦労というのは、お前へのギフトだ。苦労こそが、その先で自信につながることをたぶん上司は自分の経験から知っているのだろう。3年前、日本で決意したこと。ここで今、学べることはもうない。だから海外で勝負するんだ。そして今、ここで苦しむ自分は、青い鳥を日本に追い求めている節がある。わざわざ再確認しなくても、日本でできるのなんて当たり前。その前提で海外で勝負していることを今一度、思い出したい。誰と競いあっている訳でもない。過去の自分と競い、今の自分と戦い、未来の自分を目指しているだけ。結論は、導きやすい。今ここにある風景はもう、焼け野原ではない。
2011年04月30日
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「辛抱は、金や。」小さい頃、おじいちゃんから念仏のように聞かされたことば。その言葉が今、頭の中で長い年月を越えてぴょこっと顔を出した。クライアントの前で、プレゼンする機会があった。相手はペナン育ちの、生粋のマレーシアンチャイニーズ。投資を嫌い、節約してお金をコツコツと貯め、今のマレーシア経済を支える、いわゆる華僑。プレゼンの着地点は、昨日の夜に寝る前から決めていた。そこに向かって、ただ話すだけだ。それでもいざ説明するとなると、やっぱり緊張するもんだ。しかし、話は思ったよりも早く進んだ。「やっぱりこれは高いですよね、こちらの"安い"方が費用対効果は高いと思います。」相手と、チラッと目があった。僕の訴えかける目が、発した言葉以上に相手に届いた気がした。「始末して、きばれ」その昔、全国を行脚して成功した近江商人。そして遠く大陸から夢を片手に半島までやってきて見知らぬ地で一財を成した華僑。先祖同士に、何か共鳴するものがあったのかもしれない。ハッキリ言って、言葉を替えればそれは「ケチ」とも呼ぶのだろう。それは、今の仕事では時にネガティブに転ぶことも多いけれど、時に海を越えて、ポジティブに転ぶことだってあるのだ。出自は、変えることができない。その出自を、どのように活かしていくのか。マレーシアンチャイニーズの眼鏡の奥で光った目に、おじいちゃんの遠くを見つめる目が重なったような気がした。
2011年04月09日
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ながされていくながされていくちいさいときにならった言葉もすきだったあの風景もあのとき海岸で口にした磯の香りも暗闇だから、星がみえる急いでいるから、列をつくる苦しんでるから、優しくするこの国が昔から持っている、こころがまえこれが、はじめてなわけではないこの国はいつも、恐怖に飲みこまれてきた台風に、地震に、津波に核という暴力に、時にイデオロギーにでも一度だって、ぬけだせなかったことなんてなかったあきらめたことなんてなかったそれを誰もが知っているからこそ世界中が今、祈っている試練は乗り越えられる人のもとに、やってくる試練は乗り越えられる国のもとにだけ、やってくるPray for JapanPray for Japanぼくに今、できることはただ、祈ること
2011年03月13日
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映像を通しで観てみたら、なんか心が動かない。なんでだろう?カットの尺がずっと単調だからかな。それとも音楽とシンクロしていないからかもしれない。ビジュアルを一目見て、どうも商品に力を感じない。なんでだろう?パースがおかしいからだ。全体のレイアウトが、すっきりしない。なんでだろう?ロゴの位置が落ち着かないからだ。「なんか」「どうも」「すっきりしない」言葉にならないこの違和感は、どこから来るのだろう。体系的に学んだわけではないけれど、神経の中にゆっくりと埋め込まれていくもの。それを人は「経験から来る直感」と呼ぶのかもしれない。
2011年03月09日
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おじちゃんは、そのままでいいから。末っ子の姪は、僕にそう言った。甥姪3人、そして僕。Wiiのコントローラーは、3つだけ。残りのコントローラーをなかばケンカになりながら取りあう、8歳の甥と6歳の姪。それをなだめる上の甥。あまりの悲壮感に、コントローラーを渡そうとしてしまう僕。でも決して受け取らない、甥姪たち。久々に実家に帰った客人の僕を3人とも、自分たちのやり方で歓待してくれていたのだった。次はいつ帰ってくるの?いつものように、尋ねられる。夏には...ね。そのときにまた、Wiiしよう。ハッキリわからない未来に少し不安を感じながら、僕は答えた。こういう日々がもう長くは続かないことには、気づいていた。彼らもそのうち大きくなって、寄ってこなくもなるのだろう。姪を肩車するのも、これが最後だったのかもしれない。僕ももう、こうやって気軽には帰れなくなる。でも僕は、忘れない。いつも僕を待ち、見送ってくれた君たちを。だから3人にも、覚えていてほしい。僕も君たちから、教えてもらったことがあったということを。見送られる駅のホームで小さな3つの影を眺めながら、涙していたことを。僕たちは、最高の友だち同士だった、ということを。
2011年02月06日
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休暇で、つかの間の日本帰国。その行き帰りには、さまざまな「通りすがりの人たち」と出会う。帰国してすぐに飛び込んだマクドナルドには、平日昼のランチラッシュ中に、お構いなしに大きく席を陣取る親子がいた。身なりをキチッとした僕と同じくらいの年齢の母親は、皆が席探しに困っているこのラッシュの中で、読書に夢中。横に放置された5歳くらいの子は、クルマのおもちゃに夢中。「ぶ~~ん!」と言いながら転がしていたクルマは勢い余ってついには隣のオジサンのトレイに飛び込む始末。食べようと思ったハンバーガーの脇に、突如駐車された車に驚くオジサン。ありゃもはや、食事中のテロだ。帰国の便では、隣にアラブ系の若い親子が座った。(後でパスポートでUAEから来たとわかった)2歳くらいの目のクリッとした女の子は、まあとにかく落ち着きがなく、バンコク→KLの2時間あまりの間、食べるか、泣くか、奇声を発するか、走り回るかのローテーション。子供のやることなので、僕らにできることは、座席の位置を恨みながら、ただひたすら「我慢する」ことだけなのだけど、それにしても、親の努力があまりにも少なすぎる。通路を自由に歩かせて、ギャレーに入ってしまって連れ戻されるわ、食い散らかしたポテトチップスは床に散乱したまま、(カケラとかいう単位でなく、一枚単位でゴロゴロと転がる床をご想像ください)挙げ句の果てには、泣き叫ぶ子に母親は怒り出してしまった。一方で、東京から関西への新幹線の車内で隣に座った親子は、それとは全く違った。子供はぐずるし、落ち着きがないのは世界共通だ。でもそのお母さんは、これでもかというくらい頑張っていた。それがわかるから、僕も何も思わなかったのだけどお母さんは新幹線を降りるとき、前の人と、横の僕に「ご迷惑をおかけしました」という言葉を残して、去って行った。...こんな感想を持つこと自体が、もはや老後のおじいちゃんの新聞への怒りの投書みたいでとても恥ずかしいのだけれども、そういうことを痛く感じてしまう旅行となってしまった。本当は題名をパブリック・スペースをして書き始めたのだが、パブリック・スペースだからこうあるべきだとか、そういうことではない気がした。そこに起こる状況と、それに対する努力を周囲は見ているのであって(それがガマンの範囲内である限り)結果はどうでもいいのだ。その出発点は、「周囲が、相手が、どう思うか」世界は、ソーシャル化という言葉だけが勢い余って走っているけれどマクドナルド、飛行機、新幹線...そういう中にあるソーシャルも、改めて考えたほうが良さそうだ。
2011年02月06日
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人に「変わったな」と言われるとき、本人は大概それに気付いていないものだ。何が、変わったのだろうか。上司の言葉を借りると、それは、心の中にあるエンジン。誰から強制されるワケでもなく、勝手に動き出すエネルギー。目指すところがある。達成したいイメージがある。だから体が、勝手に動く。次の3時間のあいだに起こることを、自動的に想像してしまう。この2年半もの間、どの方角から試みてもできなかったことが、悔しいけれど、ほんの少しの心の置き方の違いで、できるようになる。もしかしたら、ほんとはなんにも変わっていないのかもしれない。変わったか、変わってないか?なんて、自分にとってどうでもいい。そう思えることこそが、ジブンにとって一番の変化なのだと思う。仕事は、楽しいか?今なら、はいと言える気がする。心の中にあるエンジンの回転音が聞こえる、今ならば。
2011年01月21日
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アイデアは、つくれる。アイデアは、インプット。アイデアは、チームワーク。アイデアは、他とちがうこと。アイデアは、ひそんでいる。アイデアは、くみあわせ。アイデアは、化学反応。アイデアは、シャワー中に。アイデアは、トイレ中にも。アイデアは、突然。アイデアは、新しい角度。アイデアは、「へえ。」アイデアは、リアリティ。アイデアには、原子がない。アイデアは、音を求める。アイデアは、映像も求める。アイデアは、本当はお金がキライ。でもアイデアは、売れる。アイデアを売る仕事が、ここにある。
2011年01月15日
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年末年始ということで、様々な人が、様々な視点からこれから10年の世界と日本を予想し、語っている。(一昨年の著書だが)ジョージ・フリードマン著の「100年予測」。元外務省・主任分析官、佐藤優のクーリエ・ジャポン内でのコラム。村上龍主宰の「Japan Mail Media」内で繰り広げられる、法人税減税に対する識者の見解。偏りのある意見も多々見られるものの、大きな方向性は、実はそんなにぶれていない。共通して言えることは、・日本経済は少子高齢化で、先細りしていく。・合理的な企業は、日本市場を見限って、海外にそれを求める。・日本政府はそれを防ぐために、法人税を減税し、移民の受け入れ幅を広げようとする。・その変革はドラスティックには行われないため、日本企業の海外資本移転(特にアジア)は止まらない。・瞬間的に優勢となっている欧米、韓国、台湾製品と、日本製品で各分野にて大激突が始まる。・それは1980年代の円高時代と異なり、サービス業種も含む激突となる。そこから起こる現象は、・中国沿岸部では1900年初頭のように、各国入り交じっての競争が激化する。(今回は軍事的ではないものの、経済的競争はある種、100年前より激しいかもしれない)・中国沿岸部と内陸部の経済不均衡が表面化する。(逆にこれを乗り切ることが中国政府の生命線でもあるが、 これを乗り切れず中国そのものが分裂、崩壊するという意見と 資本の内陸部への移転に成功し、巨大中国を維持するという意見に分かれる。)・2014年の冬季五輪と2018年のワールドカップでロシアの経済が回復し、 低迷する欧州とのパワーバランスが不安定になる。・中東でも、トルコ、イラン、イスラエルを中心に、新しいパワーバランスが模索される。これらから見える日本は、かなりネガティブであることは確か。日露戦争の40年後に、太平洋戦争で大敗北を喫した1945年の日本と重ね合わせ、経済成長を謳歌した1980年の40年後の2020年が不況の大底と見る外国人記者もいる。とことんまで負けきらないと気付かないが、負けきると徹底的に方向転換するというパターン。そういう意味でもこれから10年の日本政府は、1935年~1945年をベンチマークにすべきなのかもしれない。ただ、これから10年の揺るがしがたい事実は、不安定だが可能性を持つ中国と、そこに飛び込まざるを得ない日本という構図。老人集団と化した日本が、1868年の明治維新後や1945年の敗戦後と同じように「変わること」ができるか?とても興味深い10年が、始まった気がする。ただ眺めるだけでなく、その渦のまっただ中にいられることに幸運を感じ、明日からまた労働することにしよう。いや、30歳である自分は、まさにこの変革の先頭を、走らないといけないのかもしれない。
2011年01月02日
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視聴率は、アイススケートに完全敗北。競技ルール、評価基準にもある種のマンネリが感じられ、M1という形式は、今年で終了することが正解だったのかもしれない。では最後の総評です。カナリア :87ジャルジャル:90スリムクラブ:91銀シャリ:93ナイツ:84笑い飯:87ハライチ:82ピース:95敗者復活(パンクブーブー):84やはりカナリアは、想定内の飛躍。しかし、想像以上にジャルジャルの実力が光った。優勝した笑い飯が結局、去年の鳥人の延長上で戦っただけなのに対してとにかく型にはまらない新しさを持っていたという意味で、ジャルジャルは素晴らしかった。もう一つの輝きは、スリムクラブかもしれない。テンポが勝負のM1で、あのネタは到底持ち込めない。何も話していないのに、面白い。そんな「間」を作ることのできるコンビだと、このM1を通して実感した。本命だった銀シャリは、想像通りにかなりの高度なツッコミが光ったが、ボケのペースと質が至らなかったかもしれない。それでもやはり予選は通過するクオリティだと思ったが。ナイツは完全に低空飛行だった。意図的にやり方を変えてきたことは感じたが、周囲からの期待やプレッシャーで芸風を変に曲げてしまった気がする。そして笑い飯。「型」は時に、マンネリとなる。今となっては、Wボケなんて何も新鮮ではないし、逆に一つ一つの笑いに雑ささえ感じるし、そもそも勝ちに行くための「鳥人」の延長上というやり方が頂けない。加えて、最後のM1を盛り上げるための、局の裏工作さえも想像してしまい、どうしても面白いと素直に受け入れられなかった。そして対抗、ハライチ。こちらも低空飛行。徹底的に、昨年の踏襲。これがハライチの型だと言えば、それまでなのだが、先が見えてしまうというのは、漫才において致命傷なのかもしれない。ピース。こちらは想像以上に実力発揮。ボケのミステリアスとツッコミの王道感が絶妙なバランス。しかも、視点が斬新。この視点からなら、もう少し面白くできたかもしれないなと思うと、少し残念。敗者復活のパンクブーブー。ここで復活してくるのは、さすがだと思ったが、ネタは想像圏内。ツッコミの面倒くさい感じとボケの騒ぎ方が持ち味のはずだが、そのあたりの良さがあまり出ていなかったかと思う。お笑いなんて所詮、主観的なもんだし、こうやって好き放題言うこと自体がナンセンスなんだろうけれど、やはり想像を裏切ってもらうために、忙しい中わざわざ見ているわけで、これからもそれを求めて見続けるのだと思う。M1もその一つの形に過ぎないと思うと、特に惜しくはないかな。でもそれを立ち上げようとした人たちに、大いなる敬意を表したい。
2010年12月30日
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友人(自称・滋賀で最もひょうきんな男)からのメールでM1グランプリがついに今年で終了することを知った。日本帰国を待たずして、ついに一時代が終わってしまった。90年代と異なり、2000年に入ってから関西のみに存在したと思われる漫才の明確な勝敗と頂点が、全国レベルに持ち込まれることになった。そして10年。プレス発表でのアナウンス通り、M1は一つの役割を終えたのかもしれない。(実際は、スポンサーが降りたとしか思えないですが)ということで前書きはこのくらいにして、最後のM1予想屋を始めます。ファイナリストは、以下の通り。1. カナリア (よしもとクリエイティブ・エージェンシー 東京)2. ジャルジャル (よしもとクリエイティブ・エージェンシー 大阪)3. スリムクラブ (よしもとクリエイティブ・エージェンシー 東京)4. 銀シャリ (よしもとクリエイティブ・エージェンシー 大阪)5. ナイツ (マセキ芸能社)6. 笑い飯 (よしもとクリエイティブ・エージェンシー 大阪)7. ハライチ (ワタナベエンターテインメント)8. ピース (よしもとクリエイティブ・エージェンシー 東京)9. 敗者復活予想。本命:銀シャリ対抗:ハライチ注意:ナイツ大穴:ピースカナリアは、これまで個人的に大きな波を感じたことがないこと、トップバッターであることを考慮すると、飛ぶことはないだろう。ジャルジャルは、人気は確かであるものの、シュールさゆえにジャッジメントの好みにより点数が散る可能性が高い。(特にジャッジメントが高齢の重鎮から下されるとなると、なおさら。)スリムクラブは、暖かく、ゆるやかな感じで笑いを作っていく芸風では、ガツガツとしたあのM1の舞台で周囲をつかむのが難しいのではないか。本命、銀シャリは現代に残るいわゆる漫才であり、万人受けしやすくテンポ・クオリティ共にハマれば、大きく伸びる可能性が高い。注意、ナイツもファイナリストの中でも、典型的な型で来るタイプ。銀シャリの後、というタイミングが吉と出るか、凶と出るか。本当は対抗に出したいところだが過去二年、対抗に置きながら敗北していることもあり、敢えて注意で。笑い飯は、今年は予想候補にあえて入れず。知名度、ニュース性など加味すると、笑い飯の優勝は、番組にとってプラスではあるが、見慣れてしまった感が笑いの意外性を低めるため、飛ばないと判断。ハライチは、M1で活きる「畳み掛ける芸風」ができるコンビ。このあたりの強みが出れば、優勝も視野に入る。よって対抗に。ファイナリストの中で、最も見えないのがピース。コンビ共にキャラが立っており、ボケの人見知りな感じが個人的には好きではあるが、テンポが比較的遅い芸風なのでM1不利か。ざっと見る限り、他にも実力派が準決勝に残っており、敗者復活組からの逆転も今年はあり得るかもしれない。最後ということで、かなり癖のある予想をしましたがこれが当たれば、僕の18年も無駄ではないということですね。あ、お前誰やねんというツッコミは、毎年ながら禁止です。
2010年12月16日
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仕事のめぐりあわせの中で、イベント会場にてマレーシア人を眺める日々が続いた。小さな子供たちの後先を顧みない勢い余った走り回りかた、若いお洒落なカップルが醸し出す甘酸っぱい距離感、そして父親が真剣な眼差しで商品を見つめ、手に取って確かめる姿。所得が違っても、地域が違っても、本質って、そんなに変わるものではない。ぼんやりと見れば、それはただと凡庸とした風景。でも、イベント会場を後にしても、ふとした時に「そんな風景」が頭をよぎる。こんな「一枚一枚の風景」に勝るマーケティングはないのかもしれない。いつかこの地を去るとき、そんな写真たちが、脳の奥の方から畳み掛けてきそうな気がした。それこそがぼくがこの地で、この目で見た「紛れもない事実」。そんな事実だけが、強いアイデアを生み出すチカラになる。
2010年12月06日
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失恋すれば、詩が書ける。そうでなければ、もうけもん。ある社長と夕食を共にさせて頂いたとき、コースも一段落した中盤に彼は遠い昔の何かを思い出すように、そう呟いた。人生の深いパラドックス。楽しいことは、人生を前進させるけれど、苦しいこともまた、人はコトバという化石燃料にして人生を前進させるエネルギーにすることができる。化石。思えば不思議な仕組みだ。とある生物の死骸が、次の時代のエネルギーになっている。地球は、そうやって長いリレーをここまで繰り返してきたのだろう。失恋だけじゃない。世の中に転がる数えきれない失敗も、打ち拉がれるような苦い挫折も、その瞬間は醜い死骸のようだとしても、いつかどこかで人生の燃料となる。コトバというカタチに姿を変えて。
2010年11月28日
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ただぼんやりとした目的地だけを心に、南北ハイウェイをひたすらに南下していく。左右に散り去ってゆく単調な景色を見ながら、思った。僕が変わるわけじゃない。景色が変わっていくだけなんだ。泣こうが、喚こうが、時は決して逆行することなく、猛スピードで景色を後ろに追いやっていく。僕らはその一瞬、一瞬の景色の中で自分は頑張っているんだ、とかなんで僕だけ報われないんだ、とか必死になって主張をする。努力と報酬は、一枚の景色の上で対になっているわけではない。次の一枚の景色がやってきたときに、そこに、報酬が見えてくるだけのこと。それは前の一枚の景色で頑張った人にだけ、見えるもの。この国に来て、初めて嬉し涙を流した。きっと僕にも、次の一枚の景色がやってきたんだと思う。
2010年11月07日
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テリマカシ!(※)その小さな女の子は、ほほえみながら、そう言った。すこし乾いて、でもハッキリと、それでいてひんやりとしていて、耳の内側にサラッと入っていくようなその声で。いつ、学ぶのだろう。この言葉を。いつ、忘れるだろう。このきもちを。ぼくは、大きく揺れた。期待以上の勢いで飛び込んでくる、全力の"テリマカシ"に。「オトナのそれ」に慣れてしまっていた、無防備なジブンに。もしかしたらオカネがそれを、減らしているのかもしれない。この子からもテリマカシは、減るのかな。この街からもテリマカシは、減っていくのかな。そう思うと、すこしさびしくなった。もう一生、行かないかもしれない街。でもそこにはまだ、全力のテリマカシが、ある。※Terima Kasih、マレー語で(ありがとう)の意
2010年10月24日
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波は、かけひきなんかしたりしない。よせては、うちかえす。よせては、うちかえす。僕がわらっても、おこっても、かなしんでもそしらぬ顔をしてまた、やってくる。モンスーンだから、だろうか。東海岸の波は、すこし荒々しくも見えた。だからと言って、それ以上に攻めこんでくることもなかった。満月はその一部だけをささやかに照らして、彼もまた、それ以上のことはしなかった。雨あがりの砂浜には、踏みしめるままにあしあとがのこっていった。なにもかもが、決まりきった地球のルールにしたがって、ただそこにあるだけだった。人間だけがそのルールを発見し、支配し、あわよくば覆そうとする。よせては、うちかえす。よせては、うちあえす。この海にまた、もう一度来よう。それを忘れそうになったときに。
2010年10月24日
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ダニエル・ピンクの「モチベーション3.0」を読み終えた。特に「新しい何か」がそこにあったわけではない。でもブレイクスルーとは、「新しい何か」と出会うことではなく、何かと接して、「新しい何か」が内側に生まれることを言うのだと思う。4歳の頃から中学3年まで続けていた「公文」を思い出していた。今思えば、「公文」はある意味、「モチベーション3.0」の権化のような学習法だった。決まった教材があって、それをひたすら反復する。その部分だけ切り取れば、相当につまらない。しかしダニエル・ピンクの3つの要素を借りると、そこに違う世界が見えてきた。1.自律性(オートノミー)とにかく教材をひたすら進めていく公文は、時間と場所を選ばない。疲れたら止まればいいし、わからなかったらもう一度やればいい。小学3年だからって、小学3年相当を繰り返す必要はない。中学に入ってからは、部活後に公文に行っても、疲れ過ぎて、2時間ひたすら寝ただけで何もせずに家に帰って来たこともあった。教室となっていたお寺の本棚に置かれていた、古びた鉄腕アトムを読んでいたら、教室が閉まる時間になっていたこともあった。先生は、特に怒らなかった。それが公文のやり方だから、だ。一方で学校では、授業中に寝ていても、三国志を読んでいても、先生は怒った。それがまぁ、学校なんだろうけれど。公文には一応、「解答例」という冊子があって、赤ペン先生みたいな人がそれを見ながら、○×をつけてくれた。でも途中からそういう人はいなくなって、「解答例冊子」が自分に渡された。要するに「"答え"を見てもいい」のだ。そもそも僕のやっていた「国語」なんて解釈の仕方で答えなんて変わってくるし、最終教材の「P」か「Q」かは、デカルトの哲学講義云々...て誰も、答えなんてわからん状態。問題と答えを渡されて、「さあ考えて!」と言われること。たぶんくだらない受験のためではない、本当の「学習」がそこにあるのではないか。2.熟達(マスタリー)ピンクの言う「ゴルディロックス(熱すぎず、冷たすぎず、難しすぎず、易しすぎない課題)」。それをピンポイントで差し込んで来るのが公文だった。一斉テストも、勝ち負けも、特にない。時折、ささやかなプレゼントはあったが、そのために頑張るというほどの豪華さでもない。ただ少しずつ、登っていっているという感覚。井伏鱒二に出会い、今昔物語に出会い、そしてデカルトに出会った。石川遼選手の言葉を借りれば、その瞬間、どんな時よりも、「ゾーンに入っていた」。あの時、自分は勉強しているなんて、そんなに感じていなかった。3.目的中学に入って、勉強というものが、俄然つまらなくなった。勉強はいい高校、いい大学、いい会社に行くためのもので、そのためには「とにかく(この言葉は、言い訳が思いつかない時に大概使われる)何も言わずに頑張れ!」と、誰に尋ねても言う。当時、それに疑問を抱き、そして今、社会がそれ以上に変貌してしまい、その無意味さにそれ見たことか!と感じている人も多いと思うが、それくらい当時の「勉強」には、モチベーションを駆きたてるものがなかった。いや、そういう教育システムが、今も続いているのかもしれない。目的が存在しないのだ。確かに公文にも、いわゆるゴールしかなく、目的はなかった。でも、一歩一歩進んでゴールに向かっているという感覚があった。少なくとも、無駄な競争による賞罰はなかった。今の教育は、目的を作れているだろうか?今日と言う日、この本を読んでいる瞬間、「ゾーンに入っていた」それだけは、自信を持って、確かに言えること。つまらない人生を送らないためにも、「ゾーンを感じられている」自分でいたい。「ゾーン」こそが、次の一歩を踏み出すために,大切なこと。
2010年10月17日
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人生のゴールがどんどんあいまいになってきて、ジブンの立ち位置がますます凡庸としてきて、特に答えを期待したわけでもなかったのだけれど、昔の日記をおもむろに取り出してしまった。18歳の日記は、いつも「何かに、誰かに、ムカついて」いた。幼いと言えばそれまでだけど、そんなジブンの幼さにさえ、ムカついていたのかもしれない。22歳の日記は、いつも「道を唱え」「道を探して」いた。会社や上司、はたまた東京という街そのものと不器用に衝突して、それでもジブンの道を頑に守ろうとしていた。そしてその後、葛藤を言葉にしなくなった。ブログがこの世を席巻し、耳障りのいい言葉だけがデジタルデータとして残り、肉筆で書いた日記は、それ以来存在していない。残っているのは、このブログに代表される、オレは知ってるんだぜ的な小難しい経済トピックと、僕今、とっても悩んじゃってるんです的な不安定な心理叙述。それを否定するつもりもないのだけれど、(それこそがこのブログのコンセプトだし)カッコワルイけど、不器用にも葛藤してる方が、実は人生がクリアーな気もした。どうやら少なくとも書いてる時は、トンガってた方が、葛藤してた方が、後から読み返してオモシロイようだ。2005年の頃の言葉を借りると、それが「心の中の交差点」となのだと思う。いちいち一旦停止していた12年前の葛藤と向き合いながら、交差点を失ったクアラルンプールのハイウェイのようなジブンの道路には、もう少し信号機が必要だな,と改めて感じた。
2010年10月09日
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2006年5月4日幸せとは、存在するものではなく、感じ取るものだ。幸せとは、大きく取りに行くものではなく、小さい中に凝縮させるものだ。幸せとは、新しく手にするものではなく、既に手に入れているものに、改善を加えることだ。僕は今、幸せだ。2006年7月15日久米島で気づいたこと。この2年ほど、僕は成長できただろうか。楽しかったけど、考えただろうか。会社の矛盾に気づいただろうか。飛行機の中で、人はチャンスを得る。人生を振り返るチャンスを。2006年7月17日葛藤を、言葉にする。言葉にするから、葛藤する。日記を読返してみて、そのことに気がついた。今、スランプに陥っているのは、ただ残すための言葉であって、葛藤するための言葉じゃないからだ。2006年9月20日僕ならもっとうまく書けるのに。そう思いながら、プランナーの書いた企画書を見つめる。自己責任の個人商店からは、程遠い世界で働いている。プロデューサーは、あまり向いていないと思う。ただそのニガテに立ち向かうことが、今の僕の使命。2006年10月15日秋が深まりはじめた頃、僕は強くなってきた。目つきが変わった。怖じ気づかなくなった。「今までの経験から」と言えた。シゴトは、戦場だ。そう思うことができたのならば、戦場へは、戦場なりの武装をしていけばよいだけの話なんだ。どうせ緩い人生なんて歩みたくないんだから。
2010年09月27日
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2.サービス:やはり両者共に,相当に高いレベル。ただし、その徹底ぶりでマンダリンが格上だと感じた。予約完了後に送られるメール,部屋の中に置かれた手紙,宿泊後のサンキューメール...滞在中,とにかく「タナベ様」が溢れ返る。何だかセコイなぁと思いつつ,満更でもないのが人間の性。SPAでは、レセプションの方がエレベーターまで見送りに来てくれてドアが閉まるまでお辞儀をしていてくれた。それだけで人間は本当に気持ち良くなれるものだ。大事にされていること、それがそこはかとなく伝わってくること。それがサービスの神髄なのかもしれない。3.部屋いずれのホテルも,バスルームにテレビ付。それもまた、ホスピタリティの必要条件なのかもしれないが、結局見てるのがめざましテレビだと,なんだかですが。一方で、マンダリンに見る,お取り寄せ商品群。尋ねてみると,ベッドはシモンズ。バスピローは英国クロイデックス。(問い合わせたら丁寧にメールをくれた)傘さえも、備え付けのモノを必要に応じて売ってくれる。アメニティ類はマンダリンの方が充実していた気もするが,部屋のデザイン自体はペニンシュラの方が印象に残った。想像以上に日本カルチャーがふんだんに持ち込まれていたからだろう。皇居や日比谷公園といった周囲の環境に溶け込むデザインということが相当に検証された結果ではないかと考えられる。その結果,日本人にとっても、外国人にとっても、心地よい「日本空間」が生まれている。「和」と一言にしてしまっては言い切れない、調度の良さがあった。受のペニンシュラ,貫のマンダリンといったところか。
2010年09月18日
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今から8年前,僕が上京した頃の東京の高級ホテルと言えば,ヘブンリーベッドの「The Westin Tokyo」か、映画、ロスト・イン・トランスレーションの舞台としても有名な「Park Hyatt Tokyo」というのが相場だった気がする。しかしこの8年で、東京のホテル地図は大きく塗り替えられた。グランドハイアット,リッツカールトン,ペニンシュラ,マンダリン,シャングリラ...挙げ出したら,枚挙に暇がない。...あ,すみません。そんな評論するほどに詳しくはなかった。でもここ2年で宿泊してみた東京へ新規参入組ホテルについて、個人的な評価を実感値でしてみたい。「ザ・ペニンシュラ東京 VS マンダリンオリエンタル東京」1.立地・アクセス:宿泊目的によるが、ビジネスならマンダリン,観光ならペニンシュラが有利か。銀座徒歩圏内であるペニンシュラにアクセス面での有利さがあり、日比谷公園に面していて緑が多く、安息感も高い。館内のプールにも柔らかい光が差し込み,銀座から徒歩5分の地とは到底思えない。一方で(ほぼ)日本橋駅直結のマンダリンもアクセスではひけを取らない。日本銀行本店の重厚な建物の隣とあって、気持ちもなんだか引き締まる。東京のコアな部分を感じることができるのは,マンダリンの方かもしれない。大半の部屋から,建設中の東京スカイツリーもハッキリと見ることができ、今後変わって行くであろう徒蔵エリア(御徒町と蔵前を合わせた総称)をいった東京の新たな可能性を見下ろすことができる。今,ロストイン~が撮影されるなら、きっとここが舞台となるに違いない。柔のペニンシュラ,重のマンダリンといったところか。
2010年09月18日
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日本から帰ってきて、数日が経つ。帰国ショックで凹まないように、厳重な受け止め体勢を敷いてマレーシアに戻ってきたのだけれど、その体勢は脆くも数日で崩れ去ってしまった。クアラルンプール空港内のシャトルトレインは、ドアが開かないまま数分立ち往生していた。2005年,2006年には,世界のベスト空港にも選ばれた歴史も持つ国際空港。にも関わらず,最初の栄光だけが残されて放置される現実。メンテナンスがとても追いついていないまま、「何かを建設すること」だけが、貪欲に求められる。空港からのタクシードライバーは,日本のような優しさなど持ち合わせている訳もなかった。(覚悟していても,それ以上だった)家に帰り,1ヶ月で相当に汚れてしまった洗濯機の水道フィルターを交換しようとしたら水道管のバルブは破裂した。噴水のように飛び散る水のシャワーの中で、「くそマレーシア!」と、また捨て台詞。(よく使います、この言葉。)不動産エージェントにクレーム電話しても「OK, それはsmall thingだね~。今日は休日,明日にはThe other personが電話しますよ」だってさ。The other personって誰だよ!お前にとってはsmall thingかもしれんがオレにとってはurgentなんだよ!と言ってみたが,そんな叫びが届く訳もなく。車を運転すれば,インド人が大量に乗り込んだバンがマレーシアのお家芸とも言える強引な車線変更を仕掛けてきて、危うく大きな事故に飲み込まれそうになる。いや、あれは事故だろ、むしろ。スターバックスでネットを使おうとしたら,1ページを読み込むのに、5分ほどかかった。(iGoogleのTopページですよ?)こんなことが2,3日の間に平気で起こる国。南の方では,なんくるないさ~とか、マイペンライ~とか、ネバーマインド、ラ~とか、多種多様な「気にすんなよ」言葉があるけれど、雪国で育った自分には,そういうのがどうも気になる。ここで日本との比較をしても答えはないし、その当の日本があまりにも頼りなさすぎるから新しい時代についていこうとして、こんなところにまで来ている訳で。だから、これもまた心の修行と受け止めて頑張っていこう...と強引に心の中を整理した。あぁ、尻すぼみなエンディングだ。まぁ、ネバーマインド,ラ~。
2010年09月16日
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この2週間ほどで感じる、街の雰囲気。一時中断になっていた隣のマンションは、慌ただしく工事を再開した。同じく中断となっていた家の近くのショッピングモール、ワンモントキアラも工事を再開した。http://www.1montkiara.com.my/シンガポールの不動産会社キャピタランドが、香港の投資家に売却を決めたらしい。http://www.theedgeproperty.com/news-a-views/4104-1-montkiara-sold-for-rm333m.html雨後の筍の如く、至る所で道路工事が始まり、渋滞に悩まされる。市内中心部でも、ファーレンハイト88が、8月8日に縁起よく開業するとのこと。http://www.klue.com.my/articles/2698-Fahrenheit-88-The-rebirth-of-KL-Plazaユニクロもワタミも、この中に出店をするらしい。http://www.uniqlo.com/jp/corp/pressrelease/2010/07/072813_malaysia.htmlhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100803-00000004-nna-intマレーシア自動車協会は、年間の国内自動車販売台数をまた上方修正した。http://www.reuters.com/article/idUSSGE66601B20100707止まっていたはずのお金が、一斉に動き出している。それがダイナミックに目に見える、興奮と恐怖。街は既に、動き出している。
2010年08月05日
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ジャカルタ出張中、同僚の一人が教えてくれた。「インドネシアには、世界一高いコーヒーがあるらしいですよ。」ジャカルタ3日目。渋滞のひどさには辟易していたが、コーヒーの味はマレーシアより上、と早々と結論を下していた自分は,そのキャッチーな言葉に反応してしまった。しかし、よく聞くとトンデモナイ内容。コーヒー豆が好物のインドネシア原産のジャコウネコの糞の中から消化されなかった豆を抜き取り、焙煎して淹れたコーヒーのことらしい。その名もKopi Luwak (Luwak Coffee)グルメなジャコウネコちゃんは、いいコーヒー豆しか食べないから、しかもジャコウネコちゃんはそんなにいっぱい糞をしてくれないから、という希少価値が、世界一の理由らしいが...ホテルのカフェで、10万ルピア(1杯約900円)。確かに高い。その昔,すべらない話で宮川大輔が話していた、実家の喫茶店のつぶれる直前の値段(1杯1000円)の方が格上ではあったが、これを飲まずしてマレーシアには帰れない、と発起して注文。香り,味ともに、このコーヒーのルーツが糞だと思わなければ旨かったのだが...これがジャコウネコ経由だと思わなければ...その3時間後,ショッピングモールでまたもや再会。意外と愛らしい顔をしていた。何でもマーケティングをつなげてしまう自分もどうかと思うが、このアテンションとストーリーのある一品は,なかなかのキラーアイテムだと思った。生まれるまでのプロセス,高価である正当性のある理由,そしてプロダクトが放つ異質性。今夜は、ジャコウネコが夢の中に出てきそうである。
2010年07月23日
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映画そのものへの批評は、様々な人がしているのでお任せするとして、自分の中に深い印象を残したラストシーンについて。ラストシーンで、回り続けたコマがそのまま回り続けるのか、それとも重力に負けて止まってしまうのか。そこまで明確なストーリーを残しておきながら、監督はその結末を見せようとはしなかった。結末を単にかっちょよくしたかっただけなのか、はたまた、これこそが監督からの最大の問題提起なのか、あるいは、Inceptionの意味をそこに投影したかったからなのか。このような、どうとでも転がる(観る側が自由に受け止められる)結末を描く作品を人は「素晴らしい作品」「挑戦的な作品」と呼ぶ。人々は、感動したがっている。エモーションを動かせて,生きている実感を得て,明日からも頑張って生きていこう...と思いたがっている。そういう意味でラストシーンというのは、動いたエモーションを方向付ける重要なカットだと思うが、これをうまくやるのは、かなり難しいことのように感じる。しっかりとした軸のある論理展開をしなければ、ラストシーンで受け手の視点を拡散させることはできないからだ。そう考えると,映画というのは広告よりも数段にロジカルテクニックが必要な作業に思えてならない。あるいは、映画は最後の3秒前までは広告と同じで、最後の3秒で拡散させることが、決定的な違いなのかもしれない。
2010年07月18日
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駒野が、PKを外した。あの試合を観ていた人間なら、何かを考えざるにはいられない光景。敵方パラグアイ・バルデス選手の直後の言葉。「お前が外したボールは、俺がスペインのゴールに決めてやる。」ロベルト・バッジョの言葉。「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ。」誰もがこの残酷で、悲惨な光景を何とか消化するために、様々な形で表現を試みていた。僕は、19年前のNを思い出していた。当時の少年野球には、PK戦とも呼ぶべきものがあった。本気で勝ちを目指すスパルタチームに所属していた僕たちは、小学6年の夏、最後の大会に臨んでいた。激戦区の地区予選を優勝し、これを勝てば県優勝は目の前、というところまでやってきたブロック決勝戦。相手は予想以上に粘り強く、最終回を終えて3-3。大会ルールに則って、「9人が打順に従いジャンケンし、先に5勝した方が勝ち」という「ジャンケンPK」が行われることとなった。お菓子の取り合いでも、鬼ごっこのオニを決めるのでもない。決勝戦の勝敗を、ジャンケンで決めるのだ。試合開始前の挨拶のときように、9人が打席からピッチャーマウンドに向かって一列に整列する。監督や、親や、チームメートの視線が、一斉に1番バッターに注がれた。Nは、キャプテンだった。びっくりするほど上手い訳ではなかったが、エラーが少なく、入部以来ほぼずっと、センターのポジションをキープしていた。小学6年の春、Nはキャプテンに立候補した。そうさせる何かがNの中にあったのかもしれない。Nは、「自分の中の何か」を変えようとしているようにも見えた。一旦始まったジャンケンは、恐ろしく猛スピードで6番の自分のところまでやってきた。一度発生した竜巻が留まることを知らずに駆け抜けて行くように。順番が回ってきた自分が何を出したのか、正直覚えていない。勝ったという記憶だけが自分の中に残っている。もはやチームのために勝ったのではなかった。「自分を守る」ためだけに勝ったのだ。誰もが、この勝敗の決断を下すことを恐れていた。勝負の神様は、いつも皮肉だ。勝敗は4-4のまま、9番バッターだったNのもとにやってきた。Nの足は、興奮で震えていた。敵を前にした犬のように、忙しなく土を踏みしめた。ただジャンケンをするだけなのに、彼はジリッと後ろに下がった。Nと対戦相手の間に、小学校の体育館と夏休み前の青い空が見えた。次の瞬間、Nは死に物狂いに大声を張り上げ、振りかぶった手を力一杯に前に突き出していたーー。Nの張り出した手のひらの先には、二本の指が無情にも立ちはだかっていた。たったそれだけのことだった。Nは勢い込めて突き出したの手の遠心力に引っ張られ、そのまま地面にうずくまってしまった。誰も、うずくまったNを責めることができなかった。でも、僕たちのチームが終わってしまったこともまた、事実だった。なかなか立ち上がれないNにかける言葉が見つからないまま、僕たちの最後の大会は、呆気なく幕を閉じた。19年前の出来事は、今でも僕の心の中に鮮明に残っている。Nにとっては、もっと痛みのある残り方をしているだろう。大切なのは、それが紛れもない事実であり、避けられないものだということ。忘れようにも忘れられないものであるということ。その事実とその先どうやって一緒に暮らして行くか、ということだ。19年経って、あのときのこともようやく整理でき始めたのかもしれない。駒野選手にも、そういう日が来ることを願って止まない。事実は、その日だけでなく、その先をも含めた形で、事実となるのだから。
2010年06月30日
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このまま、この森の中に突っ込んでしまいたいとか、知らない世界に消え去ってしまいたいとか、そういう感情ではなかった。そこあったのは、「何もできなかったという紛れもない事実」だけで、「何の達成感もないアウトプット」が残っただけで、そしてその周囲で、憧れるほどにプレイヤーたちがファインプレイをしただけで。ふらふらと帰るいつもの下り坂カーブは、いつも以上に長く思えた。このブレイクスルーのない生活のように。胃の下の、その奥の方で、どーんとした重みを感じながら片手だけでステアリングを押さえ、ギリギリにカーブを曲がりきる。右横を一台のセダンが猛スピードで追い越して行った。ああ、どこかで見たことのある人生みたいだ。そういえば、さっきまで話していたヤツにも見えるな。そんなことを重ね合わせて、自らを嘲笑してみる。最後の登り坂に差しかかったとき、さっきガソリンを入れたはずのシビックは、ついには止まってしまった。いや、右足がこれ以上アクセルを踏み込めなかった。悲劇のヒーローになりたいだけだろ?いつか、誰かが言った言葉が、頭の芯の方でリフレインする。そうかもしれないけれど、そうだとしたら、どうなんだ?今日のプレゼンは、みんなよく頑張ってたな。単なる所感にも、ナイフ以上の鋭さにも思える言葉が、耳たぶのまわりにねっとりとこびりつく。一言も話せなかった人間も、一人いましたけど。やらなければいけないことだけが、自分のまわりで笑っていて、やりたいことは、どこにいるのかわからない。せっかくつかんだかもしれないと思ったカタマリは、一握の砂のように崩れて、指の間をするするとすり抜けていった。
2010年06月28日
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「それ」は隣に立つオペラハウスに隠れるかのように、ひっそりと立っていた。近づくと、急に思い出したかのように「グィーン」と音を立ててエスカレーターは動き出した。入場は無料。国営ペトロナス石油の恩恵か、この国は文化施設が無料であることが多い。でも人の入り具合を見るに、それは文化を振興していると言うよりは、アートの価値を逆に下げているようにも見えた。1階はモダンアート。Mix Mediaをテーマに、形態を変えた様々な試みが並んでいた。部屋の中で監視員の着メロ遊びが鳴り響き、全く集中できなかったが陳列の間隔とか、作品への照明の当たり具合とか、それなりに考えながら作られているようだった。2Fは絵画中心の陳列。特に印象に残ったのは、「Nanyang Coffeeでくつろぐ老人の肖像」。(勝手に命名)もし見たこともない、聞いたこともない、想像さえ出来ないものを芸術として目の前にしても、きっと何の反応もできないだろう。でも老人の肖像には、この国のどこかで見たような光景が、しかもNanyang(南洋)という聞き覚えのある名前が、ジブンにこの作品を受け入れてよい、という許可を出しているように思えた。3Fは特別展示を行っていた。ご多分に漏れず、テーマは「1Malaysia」アメリカに負けないほどに多民族国家を成立させているこの国の命題は、常に諍いを起こさず、国家であり続けることである。幅5m, 高さは3mはある大きな一枚のキャンバスに、鳥獣戯画よろしく、漫画タッチの小鳥があふれかえり、各々が「マレーシア特有の何か」をしていた。テ・タレ(マレー式紅茶)を淹れていたり、サテー(焼き鳥)を焼いていたり。左上では東海岸で目にしたことのある、マレー衣装に身を包んだ結婚式のシーンを描かれ、その下ではその昔、イベントの記念品で提案した記憶のあるマレー風の凧と独楽で遊ぶ小鳥たちが見える。その右では、2匹の小鳥が国民スポーツ・バドミントンに汗を流していた。右の空彼方にはマレーシア初の宇宙飛行士を祝福するかのように宇宙服に着込んだ小鳥が描かれ、その空の先にはイスラムの象徴である三日月があった。1枚のキャンバスに多様なマレーシアを丸ごと入れ込もうとする試みであった。これがアートとしてどのような価値を持つかは置いておいて、改めて心を動かしたことがある。そこに描かれているシーンが、何だかわかるということだった。それは老人の肖像を観た時に感じた感覚と似ていた。画家でも評論家でもないジブンが今こうしてここにいるのは、コトバ以外の方法でこの世界と何かしらの接点を持とうとしていたから、に他ならない。「いつかやって来る、この国から出て行くとき」を想像してみた。一匹一匹の小鳥を見ていたら、それが一つ一つの思い出にも思えた。一匹一匹の仕草がリアルなシーンとつながっている。きっと泣くんだろうな、漠然とそう思った。昔、誰かに言ったことがある。「この国じゃ、美術館さえほとんど見かけないんですよねえ。」限られた情報ソースと、序盤に作ってしまったネガティブな先入観で導き出してしまっていた嘘を今、詫びたいと思った。美術館を見かけなかったわけじゃない。そういう気持ちを持ちあわせていなかっただけだったのだ。
2010年06月06日
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時代の流れには、やっぱり勝てない。(どこまで事実かは置いておいても)今やTwitter上で、孫正義と浜崎あゆみと蜷川実花が次のキャンペーンの打合せをしてしまう時代。誕生日おめでとうと一般人が孫正義にお願いすると、「おめでとう!」と言ってくれてしまう時代。それが、一日という単位の間にイッキに進んでしまう時代。僕は今日、クアラルンプールの美術館で小さな感動をしたけれど、そんなことよりも大きなムーブメントが今まさに起こっている。Twitterでない理由を述べる前に、Twitterである理由を述べた方がよいかもしれない。こんなこと自体はTwitterで書けないジレンマは残っているのだけれど。
2010年06月05日
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「知の衰退~」の中で、大前研一はこうも言及する。「IT、英語、ファイナンスはメシを食っていくための三種の神器。それは"読み書きそろばん"のようなもの。」まさに、読み(ITによる情報収集力)、書き(英語表現力)、そろばん(金融リテラシー)。日本人がバブル崩壊でずっこけている間に、持ち合わせ遅れた基本要件。ちなみに2010年、スイスのビジネススクールである国際経営開発研究所(IMD)が発表した世界競争力年鑑が、それを象徴していた。http://www.malaysia-navi.jp/news/100520052117.html国際競争力ランキング1位 シンガポール2位 香港8位 台湾10位 マレーシア18位 中国23位 韓国27位 日本社会の教科書を眺めていた頃にはNIESと呼ばれていた国々は、今やどこも日本の上にいる。これは、経済規模のランキングではなく、三種の神器力のランキングなのだ。だからこそ日本に迫る危機が、痛烈に浮き出ている。沈んでいく船をただ見ているだけなのか、少なくともその船からジブンだけでも逃げ出すのか、複雑な思いを抱えながら、また一週間が始まるのだった。
2010年05月30日
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そんなアジアの先頭を日本の背後でここまで走り、そしてサラッと追い抜いてしまった象徴的な国が、リー・クワンユー率いるシンガポールだったのかもしれない。先日、シンガポールに駐在していた先輩から夕食を共にした時、教えて頂いた。「シンガポールは今、MICEをベースに新たなステップに入っている」と。MICEは、Meetings, Incentives(Travels), Conventions, Events/Exhibitionsの頭文字を取った言葉で、ビジネスにおける人の流れのハブを目指すものらしい。カジノ合法化からマリーナベイ、セントーサのカジノ開業まで瞬く間に構想が実現されてしまう機動力。人口1億以上の「疲れ果てた日本」にはできない芸当だ。そもそも国家の境界線がどんどん曖昧になってきているのに1億2000万人でまとまっている意味って何なんだろう?そんなことまで考えてしまう。内需が減っていく年老いた国家は、内需が「もともとなかった」小さな国家から学ぶべきことが多いはずだと思う。例えば、シンガポールのような。かつてマレーシアの首相だったマハティールは、日本と韓国を手本として国の経済を発展させる「ルックイースト戦略」を声高に叫んでいた。今、日本がすべきことは、ルックマレー半島かもしれない。歴史とは、なんと皮肉なんだろう。
2010年05月30日
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『「知の衰退」からいかに脱出するか?』大前研一の著書の中でも比較的新しく、ここ数年のテイストとは一風異なった本だった。集団知が、ネットの力で加速していく世界情勢と政府とマスコミの功罪で完全に思考停止状態に陥ったままの日本社会を皮肉たっぷりに対比させ、未来を憂いた一冊。思えばこのマレーシアにやって来た2年前、僕はこの人生において少なくとも、マレーシア人よりも深く考えて生きてきたという自負を持っていた。しかし、世界とつながっているマレーシア人たちはもはや、時に僕よりも早く知り、時に僕よりも深く考えていた。以降、幾度となくぶつかった、「咄嗟の質問」に答えられないシーン。それは、英語力の問題だけではなかった。「そんなことを、考えたことがなかった」のだ。考えたことがあることは、即座に答えられる。だから大前研一は、それぞれのニューストピックに対して、必ず一度考えて、コメントを残すようにしているらしい。考えることで「上」を目指すアジア人と、考えることが未だ許されていない北朝鮮人と、考えることを忘れてしまった日本人。許されていないのも、忘れてしまったのも、考えていないことには変わりはない。日本人はいつからこんなに疲れてしまったのだろうか。
2010年05月30日
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ようやく「1Q84」を読み終えた。この本が、ジブンにとっての初めての村上春樹だっただけに、多少面食らった部分もあった。状況描写に対する意気込みが凄まじい。それは「1Q84」だけ言えることなのか、それとも昔からこの人はこういう傾向にあるのか、それは他を読んだことのないジブンにとっては分からないことだったが、とにかく、あの手この手を使って、読み手に映像を届けようとしてくる。読んでいる側は、空のフィルムを回しているだけで、そこに自動的に色がついていく。村上春樹、という別のカテゴリーで捉えられるのもムリはない、と思った。銃は銃でなく、最初から最後まで「ヘックラー&コッホ」。物語の中に一旦登場させたそれを、大切に、丁寧に最後まで扱う。そしてアントン・チェーホフの引用さながらの結末さえ用意する。時には男性のナイーブな描写を、内閣設立と重ね合わせたりもするし、あるいはジャムの塗り方は、レンブラントの筆の動きと重なり合ってしまう。ゆっくりと進む、一つの筋書きの上においてそういう比喩と隠喩が数えきれないくらいの容量で埋め込まれていた。そういえばこの前、仕事を一緒にしたクリエイティブ・ディレクターも言ってたな。「たとえ話では、負けないよ。クリエイティブってそういうことだからね。」水の底でつながっている本質的な観念をあらゆる形にして水面上に浮き上がらせること。「ふかえり」の使うバターナイフとレンブラントの筆に意味のつながりを作り、人に伝えるパワーを事実以上にするということ。それが表現ということなのだろうか。そんなことを考えたまま、KL市内のクラブに一人で出かけた。最近、人と多く会いすぎた。何かを考えることから、遠く離れたところにいた。元来のジブンは、こういう時間を必要としていた。音響設備がそこまで潤沢ではないクラブのグランドフロア。その一角のテーブルに寄りかかり、ハイネケンをグッと飲んでみる。隣のテーブルでは、行儀の良さそうな中国系マレーシア人がたむろしていた。資本主義のちょっと先っぽにいることに幸せを感じながら、ウイスキーのボトルを囲んで何やら話している。少し太っているとも言えなくないガッチリした体型で、非対称な前髪を残しながら短く刈り上げ、白地の襟付きシャツを羽織っている。それがこの国のいわゆるイケメンの典型なのだろうか。「日本の秋」をコンセプトにしたそのフロアの、最先端(と呼びたいもの)と最先端と一緒にいたい人たちを眺めながらゆっくりと時間は過ぎていった。落ち葉を模した赤い紙切れが、ガラスケースの中で舞い上がっている。村上春樹には到底叶わないその表現を前にして、僕は少し苦笑いをしてしまった。それが表現ということなのだろうか。
2010年04月04日
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久々に日本に帰り、新聞を読んで気付いたことが一つある。紙面に踊る「ツイッター」というカタカナ表記の違和感。僕が日本を出る頃、それはまだサービスを始めたばかりだった。その後、何度もこの国で「Twitter」という言葉を目にしてきた。感じた違和感はこの2年で、それが日本でも市民権を得たことを意味した。そんな中で読んだクーリエ・ジャポン2月号の特集は、「次の、ITライフ」。そこには、以下のようなモノが、取り上げられていた。- AR (拡張現実)。現実の中に付加される情報。- Hulu (フールー)。検索できる番組サイト。- Pandra (パンドラ)。自分の好きな曲を教えてくれる音楽サイト。- OnLive (オンライブ)。ストリーミングできるゲームサイト。- Kindle (キンドル)。電子化された本。- カフェイン。カタログ化、グラフィック化した結果の得られる検索エンジン。- クロームOS。クラウド化されたOS。一望すると、「深い情報を、さらに素早く」というのが大きなうねりに見える。そんな中で、Twitterだけが、情報を浅い方向へ向かわせている。ITがどれほど進化しても、人間の思考力が日進月歩で成長する訳ではない。ということは、発信のしやすさを追求したTwitterは、人間の思考を浅く、薄くしていくように思える。「いや、いずれの技術も、クラウド化に向かう過程だと考えれば、そのどれもが、人間の思考力を希薄化させてしまうのかもしれない。」もしTwitterであれば、最後の二行だけがつぶやかれるのだろう。しかし少なくとも僕は、この結論にたどり着く前に、20行を書く必要があった。つぶやくだけでは、本質には迫れない。
2010年02月28日
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冬の日本は、寒かった。土曜の朝だったからか、はたまた不況のあおりからか、街行く人の数が少なく、元気もなさそうに思えた。久々に会った大学の友人たちとは、相変わらずの間合いで話した。思えば、基本的なコミュニケーションで躓く日々のためか、こういったコンマ何秒の掛け合いがとても心地よく感じる。甥と姪は、成長していた。一番下の姪は、つまらないとふくれ、注目されると喜ぶ。真ん中の甥は、半年前よりもずいぶんと整ったフォームで、野球ボールをまっすぐに投げ込んできた。一番上の甥は、もはや声にさえ落ち着きが生まれ、下の姪を宥めたりしている。いつしか、小学生の頃の自分と、彼らを重ね合わせている自分に気がついた。なか卯の牛丼は、うまかった。マレーシアから吉野家がなくなった今、一番恋しくなる日本食は実は牛丼なのかもしれない。京都で泊まった旅館は、ゆずをコンセプトにしているところだった。日本にいた頃の自分なら、エッジの立ったそのコンセプトと教育の行き届いたホスピタリティに感動し、旅館ビジネスのあり方について一席ぶっていただろう。京都の寺たちは、相変わらずの包容力で自分を包んでくれた。遠くに消える自動車の音、耳を刺激する砂利を踏みつける音。目をつぶった時に聞こえてくる、そういった音の調和に魅力を感じているのかもしれない。タクシーの運転手たちは、紳士だった。出過ぎず引き過ぎない距離感で、的確に、正価で、目的地にたどり着けるタクシー。日本の接客業のレベルの高さに、改めて感動すら覚える。ゆっくりと、確実に、時は流れている。変わっていくこと、再発見すること、そういう内外の変化の中で日本という国が、客観的に感じられてくる。そして「日本という国」などというもったいぶった言い回しを使っていることに、また新たな発見を感じているのだった。
2010年02月28日
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