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もう晩秋イチョウの黄葉(もみじ)とサザンカの花が共演する秋(落葉してしまつたイチョウの木と黄葉盛りのイチョウの木が、赤い山茶花の花と共演している晩秋)私の散歩道は、ふと見上げれば秋の柔らかに降り注ぐく陽光のなか黄金色に輝くイチョウの葉っぱがはらはらと散る晩秋になっていた。(晩秋の柔らかな陽光がサザンカにふりそそぐ) (暖かなお日さまをいっぱい受けて、愛犬のアンナも物思いにふける秋) (明るい陽光が、いっそうイチョウの黄を燃えたたせて)いつの間にか、木枯らしさえ吹いて、枯れ木になった雑木林をぬけるように明るい秋の日差しが駆け抜ける。もう、そこには冬の匂いのする柔らかな陽だまりさえある。今年の秋は、何時までも夏の草花が咲きつづけ、木の葉が色づくのも曖昧模糊として夏と秋の境目がぼやけていた。それがこの10日ばかりで急激に木々の葉っぱは深い秋の色に変幻し、あっという間に散り、冬色の景色になってしまった。そして、散歩道の庭からは、ヤツデの花が盛りと咲いていた。ヤツデ(八手)は、私の生家の庭のじめじめとした屋敷の片隅に繁茂していた木。その大きな葉っぱを、「テングノウチワだぞ」などと囃したてながら追いかけっこをしたっけ。今はもうない、遠い日の風景。(ヤツデの花;今年は花の咲きがよく、時期も早い)ヤツデの花が咲き始めるとぴゅぴゅと伊吹おろしが一晩中、吹きすさび、びしびしと家の天井が鳴いて、寒さで、布団にまるまって寝る冬の夜がもうすぐやって来るのを知った幼い頃の思い出が蘇る。木枯らしの音が恐くって、目が覚めてしまう夜そんな日本の冬の夜があった。今はない遠い日の風景。《花の名一口メモ》イチョウ(銀杏)イチョウ科の落葉大高木で、大きいものは高さ45メートル、直径5メートルにも達する。イチョウは裸子植物で、化石などの調査から約2億年~200万年は多くの種が栄えていたとされるが、現在は、中国原産の1属1種のみである。イチョウ科はソテツ科植物とともに、受精は精子によって行われる特殊な植物である。イチョウ科は中生代の温帯林を代表する植物として栄えた。木は強健で、抵抗力が強く、土地を選ばず生育する。耐火力に優れ、古くから防火樹として使われてきた。材は柔らかく緻密で光沢あり、収縮が少なく、建築、器具、彫刻などに利用。種子はキンナンとして食用にする。などなど、日本人の生活に深く関ってきた木であり、多くのイチョウにまつわる伝説がある。日本では室町期に栽培されていた記録があるが、導入時期は不明。ヤツデ(八手)ウコギ科の常緑低木。特異な葉をもった日本の植物。名は8つの手の意味で、手のひらを広げたような葉の形に由来。しかし、葉の切れ込みは、7、9、11と通常奇数で、9が多い。8としたのは縁起をかついたものと思われる。魔よけや疫病よけに庭に植えたり、門口につるす風習があった。別名、テングノウチワ
2006.11.29
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ある日の塾の風景から。 思春期の子どもが困難を乗り越えるのはどういう時か。 中高生たちが、今週から来週にかけて、期末テスト期間に入っていることは前回の日記に書いた。我が塾もそのため、日頃より子供たちの出入り多く、それなりにみんな頑張っている。 しかし、私は、昨夜久しぶりに、腹の底から怒れて切れた。部屋中に響き渡り、空気が震えるほどの大声で怒鳴りに怒鳴った。(怒鳴られた生徒は、机をけって家に帰った。私は引き止めていない。そのまま放置。以後も引きとめるつもりはない)子供たちには、結構、粘り強く接して、忍耐強いことを自認している私としては、何年ぶりのことなのである。物静か穏やかと思われている私なので、子供たちも一瞬驚きたじろいだ。こういう時、公立の学校だったら「子供たちに暴言、暴力をふるったとして、父母から摘発されるのだろうか」ではなぜ、子供たちに腹をたて怒ったか。 中学生のひとりの女子、この女子がいなければ、その集団はそれなりに、学ぶことに、勉強すること、新しいことを知ることに、謙虚で真剣になれるグループである。 この問題をかかえたひとりの女子中学生は、学力が低く、私としては、個人的に少数のグループで、丁寧に教えたいのであるが、それを本人は嫌って避けている。仲良しグループをつくって、群れて勉強したがる。(実際は勉強などしていない。ただ、おしゃべりして、勉強ごっこをして、気持ちよく楽しく暮らしている。今の子供はこんな勉強が多い)私は、この生徒の対応に苦慮して、それなりに色々試みているのだが成功していない。この生徒は中学3年生で、高校受験を控えて、内心はかなり悩んで、孤立しているはずだ。そのためにも、節々では励ましてきた。母親にも、現状を訴え、私の方針を示してきた。この女子生徒の今、やるべき事は、勉強の基本となる技能の粘り強いトレーニング。その積み上げが大切だ。これは苦しくとも通過しなくてはならない道すじだ。テストで70点とらなくとも、この生徒の目指す高校は合格できる。40点とれば充分だ。そのためには、基本的な事柄の習得をきっちりとやることである。これは、その高校に入学した時にも高校生活を充実したものに維持して、青年期へと飛躍するためにも大切なことである。高度な入試問題的な難問など、今やる必要のない生徒なのだ。これは、差別ではなく、その子どもの現在の到達点、現在の超えなければならない課題を明確にしたとき、必然的に導き出された課題なのだ。この課題を克服していく取り組みをしないで、この子どもは大人になった時、大人として、強く生きていけるだろうか。 要するに、私には、この子どもは、自分の目の前の克服すべき課題を、私から指摘されることを、とても嫌い、私と真正面から向き合うことを避けようとしている。そして、気楽な方、おしゃべりして、他の子どもと勉強しているふりをして、楽しそうにやっている。まだ、本当の意味での社会的審判が下されていないので、自己満足的に他の友だちを道連れにして、ほんわかとやっているのである。この子どもの10数年の人生は、いつもこうであったのではないか。親が、わが子の成長にとって必須なものは何かというところで、常に甘やかし、回避させてきたのだ。その子どもの成長のペースにみあった成長を子供に要求していないのだ。学校の要求するペースについて行くことを幼い時から、親が要求するので、こどもの心や体は空回りしたまま、中学生になったのである。学力だけでなく、心においても、子どもらしい成長は空転したまま今日に至っている。 私は、このような子供には、受験勉強を取り組む過程で、その子どもがどう成長するか大切に考えて、子どもの勉強計画を立てている。生きる力の素となる能力をどうすれば獲得していけるかを大切にしている。この子どもは、私の考える「学びを通して子を成長させる」という方針を受け入れることが出来ない子どもである。今の学校の「皆がいっしょ」であれば、イジメのない楽しい明るい学校だとみなされる現場から生まれた子供たちの姿なのかもしれない。点数の取れない子どもは、かっこうだけ勉強したふりをしておれば、気楽に過ごせる現代の日本の学校の現実から生まれた子ども像かもしれない。このような子供たちが大人になった時、社会には「消費」することだけは達者な、「口先」だけの達者な若者が、仕事もせずにうろつくのではないか。私が、腹の底から怒りがこみ上げてきたのは、その女子生徒の子どもらしい素直な心のないことへの憤りであると改めて思う。大人気ないことであったか。子どもとして、能力は空っぽなのに「小手先で泳ぎまわる」ことに明け暮れるのに、私は、怒ったように思う。私はこのような子供には妥協したくない。このように立ち回らないと、今の学校は「仲間はずれ」にされるのだろうか。イジメのターゲットにされるのだろうか。
2006.11.26
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今週から期末テスト週間。 テスト週間になると、学校の授業の進度は急にスピードアップされ、子供たちは、未消化のまま、分けもわからぬまま、暗記して、何とかテストを切り抜ける。こんな勉強が繰り返される。こんなことでは、益々、勉強嫌いの子供たちが増すばかりである。中学2年生は今、三角形の合同の証明にはいったばかりだ。この証明の導入部は、これからの図形問題を解くための大切な入り口であり、分かっているものを使いこなして、論証して、未知なることを証明していく、そのプロセスは、人生においても大切な能力のひとつであるはずだ。この導入部をもっとじゅっくり、時間をかけてやることが、次のステップでの理解を容易にする。しかし、学校のカリキュラム編成は、満遍なく時間数を割り振っているだけ。一人ひとりが理解しているかどうかなど問題にほとんどされていない。子供たちの、理解の道順など無視されたままだ。 こんなに大切なことをやっているのに、7割あまりの子供たちは、ほとんどその中味を理解せぬまま、自分の能力へと高めることなく、次へと進んでいく。テストの出題形式も「論証」などということは、ほとんど問題にされていない。パズル式に記号を当てはめていくものだ。「仮定」、「結論」を問題から読み取り、定理を使いこなして、論証していくプロセスを、きっちりと文章化することは、数学だけではなく、国語力の養成にもなるはずだ。このような勉強が、子供たちに真の学力をつける近道だ。しかし、このやり方は、最も軽視され、今の学校はそれを敬遠している。子供たちも、このトレーニングは苦しいので、「そんなことやっても、テストに出ない」と言って、避けようとする。なぜ、今の学校は、テストに「文章で書いて答える」ことを要求しないのだろう。日常のテストなど、すべて記述式にしてもいいはず。これだけでも、子供たちの学力の基盤はかなり今とは違った好ましいものになるはずだ。要するに、今、学校が行っている「テスト」は、子供たちが如何に理解しているか、どこまで理解しているかを見るのではなく、子どもが「どの位置にいるか」という評価点数をつけるためなのである。 来春から、40年ぶりに「全国学力調査」が復活し、07年4月24日に、国公私立の小6と、中3を対象に国語、数学の全国規模のテストを一斉の行うことが決まっている。実施に約96億円、調査後にとる改善策に約16億円を見込んでいる。このような膨大な税金をつぎ込んで、点取り競争をさせる意味はどこにあるか。子ども個人だけではなく、学校そのものを、「評価」するためのテストである。このテストで低学力を、ほんとうに回復することが出来るか。もうすでに、その「学力テスト」なるものを、先行して実施している自治体があるが、そこで何が起こっているか。テストの平均点の学校ごとの序列化を小学校、中学校の段階でおこなうことによって、益々教育とはかけ離れた実態が次々に起きている。子どもは、点数を上げるために、繰り返し、過去問題的なものを練習させられ、テストの日には、出来ない子供を休ませたり、遅刻させたり、その極みは、こっそりテスト中に答えを教えるなどなど。そんな時間があるのなら、ひとりひとりの子どもが何処につまずき、何が分からないのか、子どものところまで、降りていって、丁寧に教えて欲しい。今の子供は、親からも教師からも、子どもが心の奥深い所で必用としているものを与えられていない。そのため、とても心が空ろになっている。この空洞は「全国テスト」などでは、診断できない。そんな所に税金をつぎこむのなら、図書室や司書教諭や30人学級や子供たちが生活意欲、学習意欲を高めていけるような諸条件の整備をしたほうが、学力向上に役立つのではないか。このような「全国テスト」に点数をあげるための勉強は、益々子供たちを低学力、生きていくための学力の基礎を奪うだけだ。40年前に「全国テスト」を経験してきた大人たちの「学力」の実態を見れば、それは明らかなこと。小学生や中学生に、競争させ、尻を叩いて勉強させても、害こそあれ益はない。そんな勉強は、しないない方がまし。徒党を組んで集団のなかで、思いっきり、遊ばせた方が、まだ子どもの学力向上に繋がるのでは。 最近の一連の「国家」が出してきている教育の方策や理念は、今、子供たちが直面している問題点を、子供たちが人間として、自立して生きていける大人へと成長させる方向とは、逆の方向へばかり向かっている。益々、村的な閉じられた社会のなかで、物言わぬ卑小な人間を作り出そうとする方向へと向かっている。まさに、21世紀に生きる世界とは逆方向である。「国家の教育」に縛られている限り、子供たちの学力向上はない。教科内容を教える自由度が極端に制限されているところでは、子供たちに学力をつけることはできない。今の子供たちが低学力の原因は、「国家の方針」を無批判に請負い、それに従う学校の授業にあるのではないか。
2006.11.24
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小中学校音楽祭を見学して。 Believe 詞・曲 杉本竜一 たとえばきみが きずついて くじけそうになった時は 必ずぼくがそばにいて ささえてあげるよ 世界中の希望のせて この地球はまわっている いま、みらいのとびらを開ける時 かなしみや 苦しみが いつの日か よろこびにかわるだろう I believe in future 信じてる私の住む市は、人口13万、かっては中小の商売を生業としていた市民が多数を占めた町であったが、現在は、大都市のベットタウン化しつつある里山である。その町の小中学校が学校代表として、発表する音楽会が開催された。我が塾に来ている子供たちが、3つの中学からそれぞれ出場したので、子供たちから請われて音楽会を聴きに行って来た。子供たちの歌う姿から、その学校の雰囲気がこぼれていて、とても興味深い。小規模の中学校は、学校全生徒で出場し、素朴で温かいメロディーを奏でた。中規模の中学校は、3年生全員が出場して、「この星にうまれて」「名づけられた葉」という合唱曲を大きくのびやかに力強く歌たいあげた。又、ある中学校は、日頃からその校区の小学校とともに活動しており、その成果をジョイントで合唱した。我が校区の中学校は、大規模校であるので、学校祭の合唱コンクールで優勝した3年生の一つのクラスが出場した。クラスとしてのまとまりがとても合唱によく反映されていた。「きこえる」という曲を力強く、のびやかに大きく合唱した。子供たちのひたむきで輝く姿がそこにはあり、大人たちの心に深く訴えるものがある。今の子供たちは、歌やダンスが得意で、自分をその中に開放して、浸ることがうまい。得意としている。エンターテイナーなのである。ここに出場した子供たちは、合唱曲を歌い上げる過程で、さまざまな困難や忍耐強い練習を通して、全員がひとつになって、作り上げていくことの楽しさや充実を体験したはずだ。それは、きっと、快感でもあるだろう。しかし、この体験を子供たちは、自己の将来の生きる力に結びつけて行けるのだろうか。歌が生きるための血や肉となるように、歌と向き合っているだろうか。歌の言葉が、子供たちの生きる力となるような活動になっているか。子供たちの歌っている歌の言葉が、ほんとうに子供たちの生きる勇気や希望となるような学びがなされているか。その事が、一人ひとりの大人たちに厳しく問われている。子供たちが社会で生きていく時、自分の人間性が卑しめられても鈍感で、おぞましい現実に卑屈に生きている。歌の詞のように、高らかに人間性を主張できる人間を育てる日常があるか。そのような高い知性をひとりひとりに育てる教育が実践されているか。挫けそうになった時、ささえる肩があるか。困難を乗り越えようとあがいている子どもは、放置されたままである。世界中の希望をのせて地球はまわっているか。哀しみや、苦しみや、卑屈がいつの日か喜びに変る日があるか。誇りに変る日があるか。声を合わせて歌い上げることで、現実の苦しみや悲しみから逃避しているのであるなら、その歌はドラックに過ぎない。このおぞましい現実をしっかり見つめて、深くその本質を見抜く知性を育てる学校なくして、未来の扉を開くことはできない。教師や親が今、教育の世界に何が起こりつつあるか、真剣に考え向き合う日常があるか。この日常に無関心では、子供たちの未来を切り拓く扉など益々重くなるだけである。開けることはできない。おぞましい現実から逃れる、単なる麻薬としてのエンターテイメントとしての音楽発表に、終らせてはいけない。指導している教師たちの自己満足で終ってはいけない。冒頭のBelieveは、最後に、会場にいる全員で歌った歌である。最も、今、社会が学校が欠けているもの、Believe。
2006.11.19
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再々いじめについて。幼児の自我の芽ばえを押さえ込む育児にこそ、思春期のいじめの原因があるのではないか。 今日は、久々に孫娘コトネ(2歳6ヶ月)の登場。コトチャンは2歳過ぎた頃から、反抗期、真っ盛り、すべてを「いやだ、いやだ」と否定し、自分の思い通りにならないと、大声でわめいたり、泣いたりとすさまじい。さらに、小憎らしいところさえ出てきた。先日も、このバアバとコトネふたりが、「勉強ごっこ」をして、穏やかに楽しく遊んでいた。ことちゃん、このバアバの諸々の文房具が気に入り、色々といじくりまわして、あれこれと試している。とにかく夢中で、時々バアバに指示を出して、バアバを自分の思い通りに動かして気持ちよく遊びに夢中なのである。次々に歌さえ口ずさんで上機嫌である。そこへ、爺さんが帰宅した。ジイジ大喜び、こぼれんばかりの笑顔で、「おー、こっちゃん、来てたか。こんにちわ。」と言って、部屋に入って来た。そして、ことちゃんに話しかけようとしたら、こっちゃん、楽しく夢中で、おだやかに遊んでいた、バアバとふたりの世界への侵入者に激しく抵抗し、ジイジを振り払い、「おじいちゃん、あっちへ行って」と、きつい口調で言う。そして、小さな手で、あらん限りの力をこめて、爺さんを押しのけるのである。(コトちゃんの名誉のために、付け加えておくと、保育園では、全員が「いやだ、いやだ」の大合唱。けんか、オモチャのとりあいと争いが絶えないが、最近のコトちゃんは、似たようなおもちゃを探してきて、とりあいでケンカしている子の仲裁的な役割も出来るようになっているとか。このコトちゃんの成長は、じっと我慢して、子供たちを見守って下さっている、保母さんたちのおかげですね。)世間では、こんなとき嫁と姑が「孫」のことで、争いいがみ合いをする。「嫁の育て方が悪いから、孫が意地悪い子に育っている」とか「年寄りが甘やかしているから、子どもがダメになっているから」とか、お互い自己を合理化する無責任な発言を繰り返し、なすりあい「孫」を「子」を大人の政争の具にしているのである。昼下がりの喫茶店などで、年寄りたちががおやべりで、もっとも活気づく話題は、嫁の悪口である。しかも「孫」を話のネタにした嫁の悪口が花盛りである。恐らく嫁たちは、その頃、ブログで年寄りの悪口を言い合っているだろう。最近では、幼児の行動が親の思い通りにならないからと言って、我が子を虐待し、殺すニュースも後を絶たない。更に、驚くことは、3歳ぐらいからの幼児を入園させている幼稚園の姿である。小学校の授業の真似事をさせ、保育中はしーんと静まり、椅子に座らせ、お絵かきや字を30人ぐらいの集団で一斉にやらせている。チリひとつなく、オモチャもちらかっておらず、休み時間(?)にも騒ぐ声もない。運動会など、何ヶ月前から練習させ、鼓笛隊を整然と隊列組ませて、演奏させたりしている。それを自慢げに園の売り物にしている。一斉に行動させる為に、幼いこどもたちを、大人の力でねじ伏せて従わせている。親に見せるためにである。こんな幼稚園を気に入る親も多いのである。大人の虚栄心を満足させるための、まあ「やらせ」と言ってもよい。要するに、はっきりとした強い自我の芽ばえの時期にさしかかった幼子たちのその成長しようとするエネルギーを、大人たちは、ことごとく押さえ込んで、幼い子どもを、大人の思い通りに動くお利口ちゃんにしたいのである。大人の慰めモノ、オモチャなのである。 この時期を、どのように幼子は乗りきり、成長していくことが、真に人間らしい人格を獲得していくことになるのかという視点から、幼いこどもを見守ることが、大人は必用ではないか。今の社会全体が、この視点を欠いている。3歳前後の幼児は、芽ばえた自我を発揮することで、他者を意識するようになり、他人とぶつかり争う中で、人としての生きる術を身につけながら大きくなっていくはずだ。ここでの体験から、さまざまな人とのかかわりを学習する。自分の思い通りにならない他者の存在を知りはじめる。幼い子はケンカしたり、弱い子をいじめたりしながら、自らも痛い目に遭いつつ、成長することが必用だ。その中で、自らの人としての人格の形成をやっていく。百万回「お友だちと仲良くしないといけないよ」とお説教しても、言うだけでは、幼い子供たちの成長していくための血肉になってはいかない。現代の子供たちには、この幼児期の体験が余りにも不足している。幼い子たちは、日々暮らしている隣にいる子どもと思いきりケンカもさせてもらえない。大人が出てきて止めるのである。大人同士が顔色をうかがい合い、けん制し合って生活している。もし我が子が他の子をいじめたり、怪我でもさせようものなら、直ちにその親は、村八分となり、「あの子とは遊んではいけません」とい命令が、幼い子に下されるのである。幼い子供たちは「監視」された大人の社会で、自らの伸びようとする芽を伸ばすことができないのである。たしかに、幼児は、まだ知恵も力も大人に劣るので、大人は押さえ込むことができる。子どもをお利口ちゃんにして自己満足しておれる。自分より、弱いゆえに「監視」下に置くことができているのである。 しかし、このように、幼児期に芽ばえる自我を押さえ込まれたまま、成長した子供たちは、小学校や中学校で、監視されてきた親から離れた時間や空間を持つようになると、一気に幼児にもどり、幼児期の発達の道すじを通過しようとする。その一つの現れが、小学校1年生の幼児がえりである。1年生は、担任の教師に抱っこされたり、自分だけに注目を集めようとして、クラスとしての社会的な集団が成立しないという話をよく耳にする。家では親の言うことをよく聞き、お利口で、いい子、幼稚園では、お利口でほめられていた子に多い現象である。親はそのような我が子の指摘を受けると「家ではそんなことはない。うちの子がそんなはずがない」と驚くそうである。「教師が悪いから」とさえ指摘する親もあるという。 現在、日本でいじめ問題が「問題」として、抜き差しなら無い状態になっているいるのは、このような幼児期の自我の発達を充分に保障されないまま、身体だけ成長し、物欲だけを並以上に肥大させて育っている子供たちが、集団で生活する場面においてである。 その年齢に見合った人格を育てる土台をつくることを怠った大人たちが、今、子供たちからそのしっぺい返しを受けている。成長し力増した子どもは、もう親の「監視」下にはいない。親は力で子をねじ伏せては置けなくなったのである。 幼稚園のとき、お行儀よく椅子に座っていた子供たちが、中学性、高校性、大学生になると、授業中椅子に座っていることが出来ず、携帯でメールをし、寄り集まっておしゃべりを平気でしている。3歳の幼い精神状態では、中学や高校や大学の「勉強内容」には、関心が持てないのである。その勉強するための言語には、ついていけないのである。子供たちが「勉強」に興味がもてないのは、ある意味で当然といってよい。親がそう育てたのである。このような子供たちに、自民・公明の「教育基本法改定案」の言う、「規範」を強要しても、強い者や大人の前では「いい子ぶる」が、陰では卑劣ないじめや殺人を平気行う子どもを育てるだけだと思う。人を騙しても平気な大人を次々に製造するだけだ。何万回「いのちの尊さ」をお説教しても、この子供たちには「馬の耳に念仏」。その意味を若者らしい感性で理解する事は不可能である。その受け皿となる知性、感受性が育てられていないのだから。 今の中・高の学校は、10歳代の子どもを教育の対象にして授業をしている。しかし、そこに実際存在するのは、三歳の幼児たちなのである。ジジババや親たちによって、三歳で発達を停止させられた幼児の集団が、今の学校の姿なのである。中には、教師まで幼いままでいる者がいる。その認識あれば、学校はどんな集団をつくる努力をすべきか、何を鍛えるべきか自ずと明らかになる。集団のなかで、人としての生きるための「人格の形成」を促すような実践を、今の学校は、なるべく子供たちにやらせないようしている。勉強さえおとなしくしておれば、問題ない子という姿勢である。 このような子供たちの「育ちそびれ」の状態を、自民・公明の「教育基本法改正案」のめざす方向で、教育再生を行ったら日本はどうなるであろうか。国家が家庭にまで国家の推奨する「規範」を守らなければ、「国を愛する国民」ではないなどと脅しをかけて、子どもを「育成」する教育。すべての子どもが簡単にその色に染まりそうである。そのような教育のありようで、子供たちに未来はあるだろうか。 「人格の完成」を教育の目標におき、その達成のためには、専門家である「教師集団」が直接国民に責任を負うことを規定した現在の「教育基本法」の実現をめざす教育こそ、どんなに困難でもやり遂げる道ではないか。 ひとりひとりの「個人」としての人格完成を目指す教育。人間として、社会の構成員として生きるには、どういう能力がひとりひとり必要か。丁寧に個性を耕す教育。これこそ21世紀の世界を切り拓く子供たちが身に付ける力だ。 日本中が「国家の価値観」で「日の丸に敬礼する」、それに従わないものは、国を誇りに思わない「非国民」として、排除する。そういう事が容易になる法律、与党の「教育基本法改定案」が、今、衆院を通過しようとしている。このようなものは、極めて党派的なものであり、教育の名に値しないものである。 そして、このような「国家主義」の最も急進的なオピニヨンリーダーの一人でもある、石原慎太郎東京都知事は、最近の文部科学省への「いじめ予告手紙」について、次のような発言をあちらこちらで繰り返している。手紙について、「いたずら」「人騒がせの面白がり」としたうえで、「予告して自殺するバカはいない。やるならさっさとやれっていうの」とか、自分の長男の石原伸晃氏(自民党幹事長代理)がいじめられた際には、校長に「改めなければすぐ学校に出向いて、その先生をぶん殴る」と電話したなどと、その自分の体験談を披露している。さらに、「ファイティングスピリットがないと一生どこにいってもいじめられる」と発言している。(権力も富もない庶民は、いくらいじめられていると学校に訴えても、いじめはなかったと却下されてばかりなのである。1本の電話でいじめが収まるとは、さすが権力者。強いもの、権力のあるものに都合のよいように国や学校は動いていることを、自らが告白したこれは発言である。このような人が日本の首都東京の長であるとは、選んだのは都民ではあるが)このような「発言」を公共の電波を使い、堂々と発言している人たちが、何がなんでも、急いで成立させたい法律、それが、自民・公明両党の「教育基本法改定案」なのである。この石原発言は、教育基本法改正後の教育のありようを、はっきりと国民の前に示している。
2006.11.14
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今週末に与党「教育基本法改定案」は、衆院を通過しようとしている。 文部科学省は、教育基本法改定案を11月に成立させることを前提に、全国学力テスト実施を盛り込む、「教育振興基本計画」の策定にむけて、来年までのスケジュールを立てていたことが明らかとなった。このスケジュールに沿って、今週末10日には衆院を通過させようというのが、与党の予定表である。(最初から、成立することを前提として、すべてがスケジュール化されているのなら、国会の審議など、どうでもいいこと。茶番だ。これで、民主主義といえるか) 前の国会後、教育基本法の改定の根幹を、揺るがすような教育に関する新しい問題が、次々に起きている。安倍内閣の「教育再生プラン」問題、東京地検の『日の丸・君が代』強制に対する違憲判決、いじめ自殺問題、高校の必修科目の未履修問題など、教育基本法とかかわる新たな重大問題が続発している。 さらに、青森県八戸市では、「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が、タウンミーティグ開催前に、与党「教育基本法改定案」に賛成するように、政府が県教育委員会・教育庁に「やらせ質問」の3つのひな型(質問項目案)を送って、発言者に依頼して、タウンミーティングで、発言候補者に発言させていた。いわゆるやらせである。文化省作成の質問項目案の発言者には、「せりふの棒読みは避けてください」「『依頼されて...』というのは言わないでください。」「あくまで自分の意見を言っているという感じで」などと細かに発言の仕方の注意点まで指示するという手の込みようである。 タウンミーティングとは、小泉首相が01年の就任直後から「国民の対話」を掲げて始めた、国政への民意の反映、住民参加をめざして始めたものである。開催費用は昨年度は1ヶ所につき、1100万円にものぼっている。小泉政権5年余りで174回開催された。開催に費やされている税金は膨大である。このような「やらせ」は、今までにもやられていたに違いない。民主主義の仮面をかぶって、民意を自己に有利に導こうとしている。(民主主義とは相容れないことが公然と行われている。)これが『規範』を国民に強要している者たちのやっていることである。『民主主義』を叫んでいる者達の姿なのである。 論議を重ねれば重ねるほど、論理的矛盾を国民の前にさらけだす「改正法案」、本質が暴露する前に、国会成立をさせねばならない法案。 教育基本法に書かれている「教育の目的」「教育の方針」は、急いで改正しなければならないような内容ではない。きわめて、当たり前の、人類が長い歴史のなかで試行錯誤して、到達した普遍的真理である。世界に誇れるものである。教育を時の国家の奴隷から解放し、人類普遍的価値への奉仕者になることを高らかに謳いあげたのが現在の「教育基本法」である。個人の尊厳や基本的人権や自由を身につけた、「人格の完成」をめざすことを目的に掲げているのが、現在の『教育基本法』なのである。安倍政権のめざす教育は、時の統治機構である『国家』に忠誠で、物言わぬ「国民の育成」を教育の目標の柱の一つに付け加えた。国民の現在の『教育崩壊』を大々的に宣伝しているのは、国家危機をあおり、それを収拾するのは、「国家」の唱えるお題目・「規範」を有無言わず守らせ、守れないものには、罰則で縛ってしか方法はないと国民を脅す為である。急がなければ益々混乱するぞと脅しをかけている。 若者達が、幼く社会性がなく、生きる力を付けないまま、大人になって社会に放り出されて、さまざまな問題が発生しているのは、安部政権のいっている「国家」を愛するモラルが無いとか、自由ばかり強調して義務を疎かにしているとかという「道徳」からきているのではない。 現代の社会のありよう、まさに安倍政権が最も力を入れている「経済成長」のためなら、なんでもありの経済のありよう、そのための競争が社会の活力だとするような、世界観、そこから生じるもろもろの文化のありよう、とても複雑なところにその原因がある。子供たちの育ちそびれている原因を、活発に、自由に討議したり研究したりして、教育実践していけるような教師集団を作り出していくことが今一番必用だ。そのような自由な解明、深い研究を自由にできる道ではなく、教師を国家の『規範』実践の手足にしていく道。それが改正案の道だ。そのような学校では、益々混迷し、子供たちは、今以上に荒れて、生きる能力の脆弱なものにしか育たないであろう。益々、いじめは深刻、陰湿化するであろう。安倍政権は、本気で「教育再生」などしようとしていない。安倍政権にとって、現「教育基本法」前文の「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とした「憲法と教育基本法の一体性」・「車の両輪」を何としてでも、急いで改正したいのだ。そうしなければ、安倍首相の最も願望し、実現したい「憲法の改正」を日程に上げることができないからだ。この点で安倍首相は「闘う政治家」である。憲法改正の先兵として、この「車の両輪」の一方の車輪をまず破壊しなければならぬという至上命令があるのだ。そのために大急ぎで「改正案」成立をスケジュール化している。断じて、「教育再生」のためなどではない。人間性が豊かに開花する社会は、高い品性、知性を開花させる社会だ。それを実現する社会を否定している大人たち自身が、社会を混乱、破壊に導いていることの反省に立つことなしに、「再生」など絵空事である。 高い人間的な「人格の完成」を教育の目標に掲げる現行の「教育基本法」は、国家の要請する「国民の育成」を目標にする与党の『教育基本法改定案』に取って代わろうとしている。その「国民育成」こそ、「憲法改正」の先にある社会に国家が必要とする人間像である。教育を混乱と破壊に追いやって来た戦後の歴史を、さらに推し進め完成させようとする道が「改正案」の先に見える道である。明日にも、その法案が、衆院を通過しようとしている。日本の社会は、今、質的に異なる大きな転換点にある。そのことを、日本の教師たちはどう考えているか。
2006.11.09
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Danjoseの花歳時記(外国編)-トルコの花々(番外編)トルコ古代遺跡に咲くハーブの花々西洋では古代から、治療のために用いられてきた薬用植物、ハーブ(herb)の歴史は、紀元前にまで遡り、ハーブを神々への捧げ物、貴重な薬草として崇めてきた。16世紀後半までは、西洋医療の中で、大きな地位を占めていた。トプカプ宮殿のカモミールの絨毯(オスマントルコ時代に創設されたトプカプ宮殿(イスタンブール)カモミールの花が満開)学名:Anthemis tomentosa(Woolly chamomile)乾いた丘陵地や岩や砂地の海岸地に咲く、花期は3月から6月。カモミールのハーブとしての効用は日本でも明治に遡り古い。イギリスではチュダー王朝のころから、芝生として楽しむことが流行、現在でもバッキンガム宮殿を始め、古い庭園に残されている。古代エジプト時代の人々は、その花の形が太陽に似ていることから、太陽神に捧げる花として崇めていた。ヨーロッパでは、ハーブティーといえば、カモミールの花というほどにその薬効には、鎮静作用や発汗作用があり、不眠や風邪のひき始めに飲んだり芳香性の苦味が消化不良に効いたりと各家庭の常備薬として親しまれてきたカモミール。生活のなかに深く溶け込んで、何千年もの時間を生きてきた。(ベルガマのアクロポリスの丘の瓦礫に咲くカモミール)地中海地方や西南アジアを主な原産地とするハーブは多く聖書の中に出てくる数々のハーブ、ミント、コリアンダー、ディル、アロエ、カモミール、オリーブ、ゲッケイジュなどなど、2000年の時空を超えて、野原や市街地に生き続けている。エフェソスの古代遺跡に咲くジャンヤントフェネル 3月から4月にかけて、地中海地方の痩せた低い開けた低地や乾いた岩肌の大地に咲く花GIANT FENNEL茎が乾き木質化した幹は家具材とする地方もあるという。髄は乾くとゆっくりと燃えるので、灯かりとなり、オリンピック・トーチの原初となったという茎。ベルガマの古代遺跡岩肌の大地に咲くディル(ベルガモンの巨大な総合医療センターの遺跡に自生しているディル)学名:Peucedanum anisumトルコでは花期は4月から7月。現在では、ヨーロッパは勿論のこと世界各地の庭で栽培されている。そのハーブとしての、効用は、料理の香辛料として大活躍。神経を穏やかにする催眠作用まであるという。聖書にはアニス(anise)という名で登場する。数千年をの時空を超えて、今、尚この瓦礫から花を咲かせている。 エフェソスの古代遺跡の公衆浴場跡の石壁に咲き乱れるキンギョソウ 古代遺跡の瓦礫の丘陵地や、朽ちかけた石壁から咲き乱れるSnap Dragon学名:Antirrhinum majus 花期は4月から11月、花の色はピンクやパープル。岩場、崖、古い壁や家屋に自生。庭に栽培も。地中海沿岸に広く分布しているが、帰化しているのは、東部海岸地帯のみ。地震で海底に沈み、廃墟となったミュラの遺跡の瓦礫に咲くアルテェディア(Artedia)学名:Artedia squamata 花期は4月から7月。地中海沿岸地方の痩せた開けた低地や未開墾の荒地に自生。セリ科のコリアンダーの仲間か?コリアンダーは「旧約聖書」の出エジプト記に登場するほど古くからあるハーブ。香味料として古くから使用されてきた。墳墓遺跡の崖の瓦礫に咲くキョウチクトウ 学名:Nerium oleander 花期は5月から8月、薬用として強心薬の原料。「旧約聖書」に登場するイエリコ(ジェリコ)のバラをセイヨウキョウチクトウとする説さえある。何千もの時を越えて人々の暮らしの中でいき続けてきたキョウチクトウ今も、照りつく日照りの瓦礫の大地に、その花を咲かせている。(『トルコの花々1~7』で扱わなかった花や、名前が定かでなかった花を(番外編)として、再度取り上げてみましたが、まだ、花の名前が確定できないもの、間違っているものもあると思いますので、その都度、訂正を試みたいと思っています。間違いあらばどうぞご指摘ください)
2006.11.07
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高等学校の「世界史履修漏れ」の意味するものは何か。自民・公明「教育基本法改定案」(小論その4)17条の条項の実現は教育をどのように変えるか。 富山の県立高校における必修科目「世界史はずし」に端を発した履修問題は、ほとんど全国的な広がりで摘発されたかに見える。しかし、必修科目の未履修は、裏カリキュラムとして、日常化しており、高等学校の現場を知るものなら、別に驚くに当たらないことである。この裏カリキュラムについては、恐らく県や市の教育委員会、国も以前より知っていたはずだ。公然と行われていたといっていい。大学の入試の内申書は本人未開封であるから、大部分の生徒は知らないでいただけだ。現役の高校生たちも、「別に今さらそんなこと何故、問題にするの、おかしい、変だ。大学の入試科目でない教科を、まともに授業受けている人は、ほんの数人。ほとんどが寝ているか、他の教科の内職をしている。それでも単位取れるのだから、別に世界史をやっていないからといって、どうということはない。」と言っている。では、なぜ、ここでこの問題を、マスコミや国が大々的に宣伝し、校長など管理職の非を攻め立て、国民に眉をひそめさせるように仕向けているのか。このところ一連のいじめの問題でも、学校側の対応、特に管理職の対応のまずさが非難され、国民的に「奴らはけしからん」と大合唱をしている。校長レベルが「管理能力がない」ということを、大々的に宣伝している。この教育現場の惨状は、何もここに来て始まったことではない。戦後の教育の到達点として、日常的に行われていることであり、政府が行ってきた教育の到達点でもある。 先週の日曜日(29日)・NHKの朝9時からの日曜討論「教育をどう再生するか、伊吹大臣に問う」で、伊吹文科相は、「教師や教育委員会のモラルの低さ、規範意識の欠如」をあげている。特に管理職のマネジメント能力の貧弱を上げている。このような教育の現場を再生していくためには、現場に市場原理を導入し、「数値化」による目標達成を実現する教育、数値目標で競争させて、成果を評価していく、教育を実現することの必要を言っている。そのようにしなければ、教育の効率化や努力は生まれないとさえ、言い切っている。これほど教師集団をバカにした発言はない。「お前たちは、競争させて、尻を叩かなければ、教師として働きが悪い」と言われているようなものである。今回の一連の『教育偽装』事件を大々的に宣伝し、教育崩壊の惨状を国民の前に、あえてさらけだす意図は何か。 国家がモラルにまで立ち至って、統制できる「教育基本法」の改定が必要であるという、国民的な世論づくりをしようと、意図的にマスコミを連日動員して、騒ぎたてているのではないか。国民に「教師集団はけしからん」という大合唱を起こさせようとしている。「教師たちはけしからん」という大合唱は、だから、現在の法律が悪いという国民感情に容易に結びつく。それに対して、何の反論もしない多くの教師たち。そして今、国会では自民・公明の「教育基本法改定案」審議が始まっている。自民・公明の「教育基本法改定案」の第17条、教育振興基本計画。まさにこの条項は、政府が「基本的な計画」を策定し、その「計画」達成度の「評価」に基づく財源配分や統廃合という新たな統制を容易にする条項である。『教育計画』において、条件整備計画にととまらず、教育内容面にまで、容易に統制強化することの出来るようにする条項である。これは、「教育の基本計画」を「国民代表会議の制定する法律から政府の策定する計画に移行させ、計画にたいする民主的なコントロールを遮断する」という点で、「国民主権原理、法律に基づく行政原理、国会中心立法の原則」など、現在の「憲法」の多くの規範に抵触する条項なのである。即ち、この自民、公明の「教育基本法」は、多くの点で「憲法」の規範にふれている。この点からも、「憲法」改正の先兵としての「教育基本法」の改定を急ぐ必要があるのである。現在の教育崩壊の現状は筆舌尽くしがたいものがある。そして、自民党が主張している教育方針、新自由主義的な市場原理を教育現場に導入し、すべてに「数値化目標をたて、その成果によって、教師の成績を評価する」このやり方でほんとうに教育は『再生』出来るだろうか。益々教育崩壊に拍車をかけるだけではないか。ここには、子どもの顔は、どこにも現れない。ただ、数値目標を達成する為に、狂奔し、疲れ、欝になるのが末路という教師集団があるばかりである。子育てをしている母親なら分かるはずである。子どもの発達段階のあれこれに期限や数値目標を設定し、それがうまく行かなかったら、「ダメ母親」のレッテルがはられて、生活費や子どもの養育費も制裁として削減されるという罰則がつく。お国のためにならぬダメ母親として抹殺される。そんな社会で子どもが育つだろうか。そんな社会で、子どもを産み育てたいと思うだろうか。子どもの発達は、単純ではない。自動車の生産ラインではない。しかし、今の学校は、子どもは、『人』としてではなく、「モノ」として、管理する対象にされようとしている。校長たちが「履修漏れの隠蔽」をしたのは、一人でも多くの学生を「国立大学」や「有名私立」に合格させる為であり、4大合格○%、○×大学に何人以上。センター入試何%以上という数値目標に急き立てられ、世間や教育委員会の目を気にしなくてはやっていけない学校。そこで成果が上がらなければ、生徒も来なくなり、財政的な削減までされる学校の現実。ここには、子どもたちに、どのような未来を切り拓く力をつけさせることが必要かなどという教育は生まれる余地がない。「いじめ自殺ゼロ」を報告し続けるのは、国の「3年以内にいじめ半減」という数値目標を達成するために、取り組んだ結果なのである。これらの校長には、伊吹文科相のいう「規範」が欠けていただろうか。これらの校長こそ、国のお墨付きの規範の『実践者』の先頭にいる管理者たちなのだ。おそらく、卒業式には先頭になって『国旗』に敬礼を奨励し、大声で「君が代」を歌うことを叱咤激励する校長たちである。この点でも、国のお墨付き『規範』の優秀なる実践者なのだ。その優秀なる実践者たちは、もし事件が明るみに出なければ「優秀という評価」を得ていたはずだ。そして、不幸にも今回、隠蔽しきれずに事件を起した校長たちを生贄にして、国民の前に「教育崩壊」の惨状を演じて見せている。それが、今回の一連の事件の本質ではないか。その魂胆を見抜く必要がいまこそある。(今日の新聞報道によれば、東京都の足立区は都内で学力テストの平均点が最下位のため、区は学力テストの点数に応じて予算配分するとある。勿論、高い点数の学校が多い予算配分である。本来なら学力の低い学校に、財源を厚くして、教育に充実を図る施策が必用なはずである。しかも、全体の教育予算のパイは変らないので、従来の「生徒数に応じて配分されていた予算」から、学力の低い学校のものを削り、、高く配分する学校に回すというやり方である。教育基本法の改定案が成立したら、全国的に学校はこのようになる。)
2006.11.04
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