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2026.05.28
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カテゴリ: 内村鑑三
「宮部金吾」抜粋 自叙伝

4 宗教家としてのクラーク先生

宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であったという事の外は何も聞き及んでいない。しかし札幌滞在わずかに8ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。クラーク先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない一の平信徒に過ぎない。しかるに先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、全くこれによって日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治9年の頃、官立学校においてほとんど公然とバイブルを学生に、しかも教室において教える事を黙認されたということは、今より考えれば実に不思議の出来事である。そこに天の深き摂理の加わったことを信ぜざるを得ない。黒田長官が学生の品位について非常に心を用いられ、札幌農学校の前身たる東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全部の学生に退校を命じた場合もあった。しかるに先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であったので、これを下の食堂に聞いた黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。しかし取調べの結果、航海中特に謹慎を命ぜられてその場はとにかく納まりが付いたのであるが、黒田長官の心は穏やかなる事ができない。ここにおいて黒田長官とクラーク先生との間に有名なる徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えられんことを懇請した。この時クラーク先生は直ちに快諾したが、しかし徳育を施すにはバイブルを用いるにあらざれば、何ら効を奏することはできぬと主張した。長官もまたキリスト教のバイブルを用いることに激烈に反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかったのである。



5 クラーク先生を記念するもの
札幌独立キリスト教会の会同 明治10年4月、クラーク先生は先に記したごとく、札幌を去るに先立って「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、一期生の有志の者に署名させたが、二期生もほとんど全部が署名するに至った。その後、署名者の約半数は信仰を捨てたが、残りの半数は毎週集会を開き、聖書を研究して信仰を練り、卒業後、明治14年同志相はかって外国の教派と何ら関係のない札幌独立キリスト教会を設立した。爾来クラーク先生の遺業の一つであるこの信仰の一団体は幾多の困難の内に成長発達した。
大正元年に内村鑑三氏が独立教会応援のために来札した時、クラーク先生の宗教的な働きを記念すべく、札幌独立キリスト教会の会堂が、大通西7丁目に堂々と建設された。この会堂は永久的耐火建築物で、地下室を有し、建築費はおおむね会員またはクラーク先生を敬慕している人々の寄付により、札幌に縁故があった中條清一郎氏(作家中條百合子の父)の同情ある設計により、工事は義侠心に富む伊藤亀太郎氏の手によって竣工したものである。そして大通りにおける由緒ある教会堂として、札幌市民にも愛慕されている。

記念胸像  大正15年5月北大創基50年記念会が挙行されるに当り、札幌同窓会の幹事が発起人となり、広く卒業生、教職員、学生生徒、その他の有志から寄付金を集め、クラーク先生の胸像を学園内に建立し、これを大学に寄付して祝賀の意を表し、また先生の功績を記念することになった。しかもそれがクラーク先生生誕百年に相当し、この記念事業は一層意義を深めた。5月14日、楡影のもとに除幕式が行われた。時あたかもよき春日和で、微風はやわらかくほの暖かく吹きわたり、ちょうど本学創基50年記念式餐宴後であったので、職員の家族も見え、学生生徒も加えると参列者総数3千名と記録されている。第一期生内田瀞(キヨシソウの名は氏を記念している)氏の令孫住友琴子さんが除幕の綱をひき、50年前の人格者が厳然として現われた。あたかも50年式典に特に臨揚された高松宮殿下は岡田文相等と共にお立寄になった。北海道大学最初の胸像はかくて雄大な学園に一光彩を添えた。胸像は銅像で、田嶋碩朗氏作。胴石は福島県産の紅御影、高さ6尺1寸、幅2尺3寸角。文字 W.S.CLARK は先生の自署を拡大したもの。それに先生の遺訓 Boys Be Ambitious が刻記されている。台石の模様はクラーク先生の研究に一新転機を与えたヴィクトリア・レジア(前述)を図案化したもの。台座石は胴石と同地産、高さ1尺、幅3尺6寸5分角。敷石は茨城県稲田産の花崗岩、約240立方尺の石材を有し、16尺2寸平方ある。
この記念胸像も大戦の波に呑まれて姿を消したが、昭和23年キリスト教青年会の努力によって再び厳然として現われた。その年10月8日から3日間、北海道大学は象牙の塔を公開して、全くなごやかな和気あいあいたる大学祭をくりひろげていった。8日午前10時クラーク先生胸像再建の記念式典が、全学教職員や学生参列の下に挙行された。この胸像は私が保管していた原型により、彫刻家として令名のある在京加藤顕清氏の手になったもので、北大に在学中の孫の潤子の手によって除幕した。

記念碑  「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と激励の一語を残し、クラーク先生が終生の思い出とした札幌農学校生徒と袂を別った地、島松に、師を偲ぶ記念碑建立の議が、昭和9年頃有志の間に起った。昭和9年6月15日前北大総長佐藤昌介男爵を始め、新島名誉教授に私も加わり、北大キリスト教青年会汝羊会有志は島松に向い、クラーク先生が馬上から慈愛こもるまなざしで訣別した土地を探った。当時とは地況が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭が建てられた。
その後大戦で、一時この案は案のまま放置されるの止むなきに到ったが、戦後私は「北海道教育界のシンボル、クラーク先生の功績を永く讃うべし」と提唱した。そこで伊藤前学長、福田道副知事が中心になり、BBA(Boys, be ambitious)の運動の一環としてこれが実行にとりかかった。昭和25年秋以来、島松訣別の地と認めらるる道路沿いの地に北大生及び村民の奉仕で、建設基礎工事は進められ、昭和25年12月記念碑は完成した。この碑は彫塑家山内壮夫氏が設計し、碑は7メートル、御影石造りのパンテオン式円柱で、中ほどには山内壮夫氏の手になるクラーク博士のブロンズの浮き彫りがはめこまれ、その下に Boys, be ambitious と横書きし、更に「青年よ大志を懐け」と裏面の碑文とは伊藤前学長の執筆になるものである。






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最終更新日  2026.05.28 12:00:05


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