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2026.05.28
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カテゴリ: 内村鑑三
「宮部金吾」抜粋 自叙伝

「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行)
P40-55

 3 ウィリアム・エス・クラーク
札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、また日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、1826年(文政6年)7月31日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、1848年(嘉永元年)22歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、1852年(嘉永5年)26歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に15年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。1860年(万延元年)南北戦争が起ったため、志願士官として2年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。
1863年(文久3年)にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、州立の農科の位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、これがために特に5万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして1867年(慶応3年)10月2日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。
これより11年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内、すなわち1876年(明治9年)に日本政府の招聘に応じ、1年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、新開の地である北海道に、本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに8ヶ月、しかもその間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針というものは、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を1878年(明治11年)に辞職し、Floating College(浮遊大学、すなわち汽船内において大学の設備をなし、講座と研究をなしつつ、世界を巡洋航海し、各重要地点では上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をなすを目的とする)を設立する事を発起したのであるが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて1886年(明治19年)3月9日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。

一 性質と人格
私は札幌農学校の第二期生として明治10年に入学したので、クラーク先生に直接師事したことはないが、多年欽慕する先生の性質、人格、その他逸事等について、あらゆる方面から収集した材料により、その人となりを考えてますます尊敬の念を深からしめたのである。先生が自ら好んで後輩学生などに語られた所によれば、少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期するため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかったというておる。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、これを貫き、徹底的に処理されたのである。競争場裡に勝ちを占めんとするその精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。かかる性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ、戦功を立てたのであろう。またこの精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、文化を離れはるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた訳である。かかる不撓、奮闘的精神はまたその体格にも現われ、中背でもあるけれども筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。それと同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備えていた故に、教育家としても、士官としても、その学生や部下に及ぼす感化は顕著なるものがあった。最もよく先生のこの性質を現わしたものは垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼である。時には鋭い眼光は人を射るがごとく、また時には柔
らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わしめる程であった。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心で、時には少しく激こうしやすい程であった。常に諧謔と頓知に富み当意即妙の答えを発することもしばしばであった。また座談に長じ、しばしば青年を集め、あるいは驚異に満てる冒険談、あるいは興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは無上に先生を愛墓し、かつ彼らのヒーローとして尊敬した。なお先生は正義を愛し、正義のためには全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。つまり主義のひとでもあったのである。

2 学者としてのクラーク先生

「かくのごとき研究をなし、またこれをかく明確に報告し得るものは既にその仕事の報いは受けているのであって、他人からこれに対する讃辞なくても自ら心に満足を感じていると思う。この論文によってアマストの州立農科大学は学界のうちに一つの確固たる位置を占めたのである。学術界においては何か貢献するにあらざれば、その学校は存在の意義を認められないわけだ。該論文は植物生理学に取っては実に驚くべき所の発見である。かくてこの学校が今日までに消費された経費は、これによって全く償われた。」
 先生はこの論文によりアマスト大学より名誉博士(L.L.D)の学位を得た。そしてアマストではいかなる方法において先生を記念しているかというと、その農科大学内に堂々たるクラーク・ホールなるものが1907年(明治40年)に建設されて植物学講堂となっている。先生は農学に取って各種の科学はみな密接な関係をもっているが、特に植物学は科学的農学の基礎をなしているものであろうと考えられていた。かつ植物学に対する研究において名をなした人であるので、その遺志を記念すべく、植物学講堂としてこの記念建物が用いられているのである。


3 教育者としてのクラーク先生


 クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なる


   Boys, be ambitious!


であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならぬという事である。この事は先に記した明治9年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。


 既に述べた所を見ても、先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれたのである。


札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。


先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に


 「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。










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最終更新日  2026.05.28 10:00:04


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