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4 東京大学時代
1 東京大学へ
明治14年7月11日、学校を卒業して東京への帰省の途についた。その頃、札幌から東京に行くには小樽から汽船で横浜に着き、そこから汽車の便をかりたものだが、私は道南地方の植物景観に接して置きたかったので、陸路函館に行くことにした。札幌から小樽までは汽車に乗り、小樽から余市、岩内、磯谷、潮路(ウショロ)、黒岩、森と旅寝を重ねて函館に着いた。岩内と磯谷の間は有名な難所である雷電峠であったので船の便をとった。和船であったが幸いに静かな日であったので、おだやかな航海であった。後は駅逓から駅逓の旅で、馬子が先頭にたち、後に3,4頭の引馬をして、客はそれぞれその上に乗った。この時の旅行はひとりのことでもあり、かつこんな条件でもあったので、植物はあまり採集が出来なかった。函館から宮城県荻之浜までは船で行き、仙台に出て、当時宮城県庁に奉職していた長兄美勲を訪れ、数日間滞在して、それから人力車で白石、福島、郡山、宇都宮を経て東京に帰った。上野御徒町2丁目15番地の生家では母が次兄文臣と住んでおり、母はことさら自分の卒業を喜んでくれた。
これより先、明治13年の春、明治13年の春、ある日森校長から『話したいことがあるから宅へ来てくれるよう』との伝言があったので、早速その夜、おたずねしたところ、『卒業の上は君を本校の植物学教官にしたい。その準備として、明年卒業後に直ちに東京大学へ送り、植物学をまず2ヵ年専修させ、そのうえ機を見て更に洋行もさしてやるから、そのつもりで健康に充分注意して、よく勉強するように』と申し渡された。私にとってこんな嬉しいことはなかった。これで私の一生の方針がはっきりきまったのだ。私は、その夜、寄宿舎に帰室すると、すぐ内村君から『何かうれしいことがあるな。きっとすばらしくうれしいことがあるにちがいない』と幾度か言われた。堅く校長から口留めされていたが、生涯のこの友にだけは口を割らざるを得なかった。内村君は『よかったな、よかったなあ』と連呼して、私の肩を幾度かたたいてくれた。学校を卒業すると、それが実現され始めたのだ。そして東京遊学に対する長官の了解はあったのだが、東京大学での研究の辞令がなかなか下りず、手続きが面倒であったようで、正式に辞令が下りたのは明治14年11月14日付である。辞令には
東京大学ニ於テ植物学専修申付候事但シ修学中ハ月俸金ノ外別段日常ハ不給候事月俸金拾六
円被下候事とあった。ただし月俸は半分となったから、物価のやすかった当時とはいえ、自家から通ってどうにかこうにか過ごせた程度であった。8月から11月にかけて、私は道灌山を主として東京近郊に数回の採集を試みた。
(本引用いったん了)
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