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佐賀ではひな祭りのイベントが開かれています。先日一番寒い時に道路沿いのテントで弁当販売のお手伝いをしました。テントの周りはビニールで囲ってあるだけで暖房器具は全くありません。う~ぅ寒っ・・・寒い事この上なし。足踏みしながら立っているのはちょっと辛かった。勿論あまりの寒さにお客様も殆ど通っていません・・・が、その代わり初めて組んだ方とお喋りに花が咲きました。話しているうちに共通の知人がいて親しみを感じました。私は何か誘いがあれば(差し支えない限り)断らないで出かける方です。そうして、いろんな方と知り合えて輪が広がっていくのです。以前、補聴器をしていたときは読唇で会話していたので相手の顔・・・よりも口元ばかり見ていました。必死で読み取っていた・・・というのが本当です。でも人工内耳になった最近は相手の顔全体・・・・目を見て話すことが増えました。ということは読唇しなくても会話ができるようになっているのです。それと共に読唇力は格段に落ちています。口を読み取る事が私の特技?だったのに今ではなかなか読み取れません。果たしてこれでいいのか・・・(夜、車の中でも隣の人となら会話ができる。しかしマイクは難しいけれど)でも人間の身体の機能って不思議ですよね。善くも悪くも使わないとドンドン衰えてしまう相手の顔と向かい合って話すこと自体は変わっていませんが以前より会話にゆとりができたのか、相手の顔は、即ち自分の顔だなぁと思うことがあります。こちらが笑顔で接すれば相手の顔も知らず知らずのうちに笑顔になります。ちょっと悩み事があって、こちらが落ち込んだ顔をすれば相手も怪訝そうな顔になる。(あ~ぁ今私はあまり良い顔をしてないんだな)と気付かされることがあります。無言の会話が顔に表れてくる。相手の顔は自分を映す鏡かもしれません。私は以前から思ったことをすぐ口に出して(言い過ぎた・・・後悔)と思うと顔にすぐ表れてくることがありました。自分の顔は自分で気付かないので、ブスッとした顔になっていても自分の気持ちだけで精一杯で、相手がこの私の顔を見て、どう思うのか、、、ということまで考えが及びませんでした。とにかく聞えないので相手の口を読むだけで頭の中はいっぱいできっと暗い顔をしていたことと思います。私が暗い顔をしていて相手も怪訝そうな顔になっている時(まぁ、この人感じ悪いわ)と自分の暗い顔のことを棚に上げて相手を非難しがちになっていました。ある時とても感じのいい笑顔の人と出会ったとき私もつられてつい笑顔になりました。心も少し穏やかに優しくなれたのです。あっ、こういうことなんだ・・・こちらが笑顔で接すれば相手の顔も笑顔になり気持ちがホンワカ優しくなれる・・心にゆとりがあると自然に笑顔になる・・・ことを無言で教えてもらいました。それからは相手を非難する前に自分が笑顔を見せればいいのだ・・と気付きました。赤ん坊は邪心も無くその笑顔で周りもつられて笑顔になり、周りを幸せにしてくれる。成長するに従って周りとの付き合いでいろんなことがあり、心の動きがそのまま顔に表れてきたりします。でもできれば自分で笑顔を心がければ相手の顔もきっと笑顔になってくれるに違いない。人工内耳で聞えるようになって心にゆとりが出て周りのことを考えられるようになったことは収穫です。気持ちの変化・・・ですね。聞えて有難い・・・という感謝の気持ちも増えてきました。単に聞える事だけではなく、性格まで変わってくる・・・笑顔も増えてきたと思います。これからも相手の顔が笑顔になるように(つまり私が笑顔でいるように)生きていきたいと思います。読唇力は落ちたけれど得るものも多かった人工内耳です。できれば補聴器で効果のない方に人工内耳を広めたいものです。 では また・・
2008年02月22日
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とても寒いです。寒波到来。これでも東北地方に比べれは温かいでしょうね。先日第五回目の若い難聴の集いを行いました。回を重ねるごとに賑やかになってきて昼飯を用意しようということで包子と中華スープで始めました。食べて、喋って、手を動かして(筆談)笑顔満開。七名集まりました。店(二階)の外の歩道まで笑い声が聞こえているそうです。(毎回のように友人が差し入れを持ってきてくれます。顔馴染になりました)今日は要約筆記応用講座の閉講式でした。前回、講習の時のテープの声が5~6割聞き取れていたのに今日は殆ど聞き取れませんでした。声は入っているのに言葉が判りません。途端に不安になりました。何を話しているのだろう?どんな話?と気持ちが雲がかかったようになります。何で聞えないのか??理由は風邪を引いたからです。この冬は年齢がいったのか、三回も風邪を引きました。引いては治り、また引いて治り・・の繰り返しです。肉声は聞えていたのでマイクなどが聞き取りにくいことに気付きませんでした。隣に座っていた要約筆記の方に「何でか今日はマイクが聞えないの。風邪だからかな?」と言いましたら閉講式の間ノートテイクをしてくれました。なんと言う安心感だろう・・筆記を読み取りながら式の進行が手に取るようにわかります。県難聴会会長として挨拶に立った私は次のように話しました。「風邪を引いて人工内耳でも聞き取り難いです。聞えないということは辛く、私以外の沢山の難聴の方の為にも要約筆記の重要性、必要性が痛感されます。受講された方は現場で難聴者の耳代わりになって下さい」と話しました。受講生の感想として「とても難しいです」「聞き取って書くだけで精一杯で難聴者の方のことまで考える余裕がありませんでした」「人生最後まで挑戦・・と思って受講しましたが、ついていくだけで精一杯です」など話されました。(書いていただいてありがとうね)と筆記を読み取りながらここにいる存在感を思いました。要約筆記者Bさんに「風邪を引いたらマイクが聞き取り難いことがわかった」と話したら「私達普通の者でも風邪を引いたら聞こえ難くなるよ。飛行機に乗ったときなど気圧の関係で聞こえ難くなるから」と話していました。「人間の身体って生身だからね。良くも悪くも・・」とBさんとお喋りしていました。私が風邪を引いたのは何年ぶりだろう・・・こんなに長引いたのは人工内耳装用して初めてではないかな?肉声は聞き取れるがマイクが聞き取れなくなるのは新たな発見でした。以前補聴器の時は、声は入るが言葉が聞き取れなかったので殆ど読唇で生活していました。人工内耳を装用した今は読唇力が、かなり落ちています。以前の五割くらい落ちています。でも人工内耳がはるかに聞える今、補聴器時代に戻りたくありません。というか戻れません。人工内耳の左耳は聴神経に電極を繋いでいるし右耳は全く聞えないからです。だからマイクの時は要約筆記の方に助けてもらおう・・・と思いました。風邪が治れば聞き取りも戻るでしょう。それまであと少し・・風邪が治るのを待とう・・嬉しい事に受講生の中に30代の県庁マンがいました。地域福祉課のMさんは以前、パソコン要約筆記講座も受講されて県庁の中ではちょっとした要約筆記スペシャリストです。「こんな場合はノートテイク」「大きな場所ではスクリーン、オーバーヘッドプロジェクター」と仕事場で問われれば答えているそうです。県庁内でも要約筆記の必要性が理解されつつあるのかな?Mさんは、最近某福祉大会でもパソコン要約筆記で現場デビューをされています。行政の若いMさんが要約筆記に関心を持ってくれて有難い限りです。これからも難聴者のための理解と啓蒙のため要約筆記、人工内耳、補聴器、耳マーク・・と連携しながら進めていけたらいいなぁと思っています。 では また・・
2008年02月13日
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最近、天気がいまいち良くないなぁと思っていたら千葉の嫁さんから”雪が沢山積もっています。外で雪遊びしました”と孫の画像が送られてきました。うわ~っ、寒そう・・・でも上の五歳の孫はニコニコ、下の一歳3ヶ月の孫は生まれて初めての雪でビックリ顔です。佐賀はまだ雪が降っていません。暖冬なのかな?当たり前ですが人工内耳を外すと全くの聾・・・全ての音が消えてしまいます。娘が来ていたとき、簡単な会話は読唇でわかりますが少し込み入った話になると「お母さん、早く人工内耳をつけて・・・」と催促・・仕草で訴えます。「人工内耳をつけていないと話が通じない・・」と言います。人工内耳は顔を見なくても普通に話せるからです。もう私の日常生活で、人工内耳がない事は考えられません。私の体の一部になっています。あと片方の耳はスケールアウトで補聴器を付けても全く聞えません。人工内耳が壊れた時困るので、新発売フリーダムの代替を購入する予定です。今、人工内耳を外すとこんなに不便なのに小さい頃はいったいどうしていたんだろう・・・と思い返されました。小学校の入学式で父から手を引かれ学校の講堂の入り口で名札をつけてもらったことは覚えています。(今のように聞えはひどく無かったです)殆どの子供達にはお母さんが付いてきているのに何故か私は父親でした。今思えば私の難聴の原因が結核治療薬のストレプトマイシン・・・その4年前に長男(私の兄)を結核で亡くしている父にとって私が不憫でならなかったのでしょう。(兄も亡くなる寸前はストレプトマイシンで殆ど聞えなくなっていたそうです。私は兄から結核が移らないように予防のためにストレプトマイシンを投与されたのでした)入学する前に父に手を引かれ電器屋さんに行ったことを覚えています。大きなラジオ型の補聴器の購入の為でした。何がなにやらわからないまま、アレコレと耳にあてがわれ、言われるまま補聴器を買わされ、使い始めました。(何で自分だけこんなものをするのだろう・・・)今まで聞えない子の言葉の教室にも行った事が無いし、普通の友達と同じように保育園に通っていたので釈然としない気持ちだったのを覚えています。第一に自分が聞えないことを自覚していないし、周りの友達も同じ・・と思っているので補聴器そのものが不思議で、不思議でヘンな感じでした。耳に付ければ、やたらと声が響いて言葉もはっきり判りませんでした。でもしないよりはまし・・・だったのでしょうね。使っていました。考えれば今から50年前の補聴器です。きっと性能もよくなかったでしょうに。暫くしたら「せんせ~い、michiちゃんだけラジオつけてる~」と男の子がはやし立てます。担任の先生は50代近くのベテランの男のH先生でした。先生は男の子に何か言ってくれたのでしょうね。その時はそんなにいじめられる事はありませんでした。(先生が他の子供に注意してくれた言葉が全く記憶に無いのです。きっと聞えていなかったのでしょうね)私はH先生が大好きで休み時間になると先生の机の側にまとわりついていました。眼鏡の奥からとても優しい温かい眼差しで見てくれるのです。それは私にだけではなく他の子供達にも注がれていました。取り立てて仲の良い友達はいませんでしたが1人だけ私を気遣ってくれるA子ちゃんがいて、トイレの時もついてきてくれました。勉強は?といえば、まだ低学年なので教科書を見ていたら判っていたのでしょうか。補聴器をつけたから聞き取れるわけではなく、きっと自然に口を見る習慣になっていたと思います。口の動きが主で補聴器のガー―ッとした音がそれを補っているという感覚でした。おとなしい子供だったと思います。本当はお喋りなのに相手の話す言葉がよく理解できなくて答えられなかったのです。だから自然とあまり話さないおとなしい子供に見られたようです。そして中学年3、4年になると若い女のN先生でした。(後に息子tomoと親子二代でお世話になった先生です)若いけれど厳しい先生で黒板の方を見ていないとビシッと注意が飛ぶのです。この頃に補聴器を買い換えています。前の補聴器が壊れたのです。今度はシルバーと水色のオシャレなひと回り小さい補聴器でした。少し嬉しかったです。この頃の道徳の時間はラジオを聞いて感想を書く・・・時間が毎週のようにあり、とてもイヤでした。ラジオが聞き取れないので感想が書けないのです。勿論先生は私に何も言いませんし、咎めもありません。でも皆と同じことができないのが悔しくて、道徳の時間はなくなってしまえばいい・・・と思っていましたが、このことを当時誰にも言いませんでした。というより言う勇気もなかったのです。今のように先生に何かを言う・・・そんな時代ではなかったのです。ひたすら我慢、我慢です。先生に無視されることはなかったので我慢できたと思います。当時、児童の数も一クラス55人くらいで先生も大変で、ひとり一人の子供に構う余裕も無かったと思いますし、障害者に理解もないころだったので、仕方ありません。私はこのN先生も大好きで仲良しのN子ちやんと子供の足で一時間近くかかる遠い先生の家へ放課後、遊びに行ったりしていました。今思えば凄い冒険です。当時先生はお産されて暫くでしたので赤ちゃんをあやしたりしてました。それからもずっと先生とのお付き合いは続いています。ありがたいものです。この頃、男の子に「耳つんぼ」と言われて補聴器を隠されたり、ランドセル等隠されたりしましたが、N子チャンがいつも一緒に探してくれていました。だから辛かったけれど救われたのでしょうね。そして高学年、中年の女のK先生・・・この先生の声が太くて聞き取りやすく私はK先生も大好きでした。休み時間はわからない算数の問題をよく聞きに行っていました。K先生は休み時間も、いつも教室で答案に丸をつけたりしていましたので・・・この頃算数が好きになっていました。成績は中くらいでしたが、算数は公式さえ覚えれば答えは一つなので解答できたとき、とても嬉しくて、少しでも判らないと聞いていました。読書も大好きで本をよく読んでいました。雑誌も好き・・・当時”小学6年生”という雑誌に「文通しませんか?」というのが載っていて北海道の男の子の名前でしたが試しに出してみました。すると返事が来て「クラス全員で文通しましょう」ということになりK先生に話したら快くクラスの皆に話してくれて北海道の人たちと文通が始まりました。これが私が唯一自分で発言できた事柄です。かなり自信もつきました。でも私は文通相手に聞えない事は明かしませんでした。普通の子供に見られたい・・普通に扱って欲しい・・・という気持ちが強かったのでそれから四年ばかり文通は続きましたがとうとう最後まで難聴を明かすことはありませんでした。また仲の良いみゆきちゃんが学校帰りに私の発音の指導?をしてくれたことも大きな宝物です。きっと発音が悪い私をそのままにしておけなかったのでしょう。「michiちゃん、”け”がおかしいよ。言ってみて・・」と何度も私に言わせるのです。みゆきちゃんの真剣な気持ちが伝わってきましたので私も言われるまま何回も発音を繰り返していました。そのお陰で”け”が言えるようになりました。今思い返せば本当に(専門の先生ではなく)発音を友達に教えてもらった・・このこともすごいことだと思います。K先生は異動があって卒業後、他の学校へ行かれましたが社会人になってからも自宅へ遊びに行ったりしていました。残念なことにH先生もK先生も亡くなられています。N先生は今もお元気ですがtomoは私と行きたがりません。「お母さんばかり喋って僕の話す時間が無くなってしまう」というのでそれぞれ別に会った方がよさそうです。私にとって先生やたった一人の友達に恵まれた事は、とても幸せなことでした。だから普通校で、ついていけたのでしょう。社会人になっても、すんなり馴染んでいけたのでしょう。小さなトラブルはあったにせよ、周りの支えてくれる人たちが心の財産となって生きていけたのでしょうね。ありがたいものです。これからも意地を張ることなく支えてもらいながら進んでいきたいです。人間、1人で生きて行けない・・・・支えあってこそ生きていけるのです。 では・・
2008年02月03日
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